皇太子と雅子妃「苦悩の結婚16ヵ月」

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VIEWS 1994年11月号
皇太子と雅子妃「苦悩の結婚16ヵ月」
高山文彦=文


皇太子妃の疲れた姿
それは、ちょっと信じがたい光景だったという。
ことし七月六日の夕方、ある皇室ウォッチャーは、横浜市内を東京方面へむけて走る第三京浜の
保土ヶ谷インターチェンジ近くのドライブインで、友人とくつろいでいた。
そこには、どういうわけか警備警官の姿があった。なにごとかとたずねてみると、
葉山の御用邸で静養を終えた皇太子夫妻がもうすぐここを通る、という返事。
彼はできるかぎり道路ぎわまで行き、車がやって来るのを待った。
まもなく皇太子夫妻を乗せた黒塗りの車が、疾風のごとく近づいてきた。
進行方向右側の後部座席は皇太子の席、左側は皇太子妃の席と決まっている。
立っている位置からみると、車はすぐ手前の車線を右から左に走りぬけていく。
だから、左座席にすわっている雅子妃の姿がもっとも近くにみえ、皇太子の姿はその向こうにみることができる。
そのとき彼は、わが目を疑った。
「雅子妃は寝ておられたのです。おどろいたのは、その寝姿でした。左後頭部を車の窓ガラスにもたせかけ、
そのためにからだ全体は大きく斜めになって、崩れるように寝ておられた。
皇太子は居住まいを正してすわっておられたのですが……。
おなじ車両には、運転手と侍従も乗っているわけですからね。疲労の度は極限にまで達していたのでしょうか」
七月四日から二泊三日で神奈川県葉山町の御用邸で静養した皇太子夫妻は一歩も外にでなかった。
人目を気にする必要もないので、充分休養になったはずだとおもわれていたのだが、
帰りの車のなかの雅子妃の寝姿からは、疲労の堆積が感じられた。
それにしても周囲の眼を考えれば、皇太子から注意をうながすことはあってもいいとおもわれるのだが、
彼はじっと正面を見据えたまま黙っている。
結婚十六ヵ月、まだ杳として世継ぎ誕生の知らせはきこえず、
昏々と眠りつづける雅子妃と、石のように動かない皇太子。

「遠慮しているような関係はよくない」
皇太子夫妻の不仲説がながれるのは、こういう光景を不用意に目撃されるからでもあるだろう。
「雅子妃の態度は、皇太子にまったく関心をもっていない証拠だ」とこの皇室ウォッチャーは言う。
皇太子の学友はこう心配する。
「なんどかお会いしましたが、皇太子妃は皮膚に炎症を起こしていました。
私が眼にしたのは首と足ですが、この炎症の痛みのためおやすみになれないこともあるのでは……」
実際に雅子妃を知る医師は「彼女は一種のカゴの鳥症候群」だと、身体的な原因ではなく、こころの疲れを指摘する。
ハーバード大卒、東大法学部中退(外交官試験合格)、オックスフォード大留学、外務省北米二課勤務という
帰国子女の元キャリア・ウーマンは、ご成婚後相当に心労をつのらせていることはまちがいない。
「一生全力でお守りする」と昨年一月十九日の婚約会見でプロポーズの言葉を披露した皇太子は、
皇室関係者によれば、雅子妃にいっさい小言を言わない。それが逆に皇族などから、
「だから、雅子妃は好き勝手にやっている」 と批判をあびることになる。
「もっと打ちとけてくれてもいいのに、雅子妃はいつも表情が固い。優秀な人は、ツンとすましている」
と露骨に嫌悪感を顔にあらわす皇族もいる。
皇族関係者によるそんな雅子妃バッシングと、衆人環視のなかでの公務の連続にくわえて、
夜は侍従をまじえて皇太子から皇室のしきたりなどについて学習する日々。
皇太子の学友のひとりは、
「そんな雅子妃を気づかって、殿下はご自身の友人と旧交をあたためるより、
雅子妃のおこころを和ませるために、雅子妃の友人と会われる機会を多くつくっておられるようです」と言う。
けれども、別の皇太子の学友は、こう話す。
「皇太子夫妻の不仲説については、殿下をよく知る仲間うちでは、結婚直後からありました。
じっさい宮内庁職員のなかからも、おたがい遠慮しているような関係はよくない、といった声がきこえてきます。
ことしの新年会での法曹界テニス倶楽部のときも、雅子さまはおみえにならず、殿下おひとりで参加されたんです。
結婚前はぼくらとテニスをしたあとかならず、殿下のほうから『ビールでも』というお誘いがありましたが、
結婚後はおふたりそろってテニスに参加されても、そういった席に顔をだすのは殿下おひとり。
それも二十分足らずで、雅子さまは一度もお顔を出されないんです」
では、雅子妃サイドはどうなのか。オックスフォード留学時代の友人は、六月にひらかれたパーティで
ひさびさに夫妻に会ったとき、雅子妃の笑顔がひどくやつれていることに内心おどろいた。
「濃紺のワンピース姿でしたが、外務省時代はどんなに疲れていても表情にだされなかった雅子さまが、
はたから見ててもお疲れの様子がありありでびっくりしました。
雅子妃は、とくに皇族の方々に不満をもっておられるようです。皇族の方々は傲慢だという印象のようです。
彼らが評価するのは、皇族であるかどうかしかない。彼女のプライドがそういうことに我慢ならないのでしょう」
こうして、あちこちから不仲説を裏付けるような話しばかりが飛び出してくる。
年に数度、天皇に会っている人物によれば、天皇もまた皇太子夫妻の話になると顔を曇らせるという。
「ご夫妻の仲があまりよろしくないという話を、陛下はすでに聞いておられたようです。
陛下はお子様のこともだいぶ気にしておられました。
ある雑誌に雅子さまご懐妊の記事がでていることを知った陛下はすぐさま問い合わせたんですが、
重田信夫侍従次長が誤報だと伝えると、陛下はそうだとおもいました、といたく落胆したご様子でした」

父小和田恒氏の野望
純愛ラブストーリーとはまったくちがった流れが
この不仲説の背景には、もっと奥深く、巨大なものがよこたわっているように感じられるのは、私だけだろうか。
たしかに民間から天皇家に嫁ぐということは、美智子皇后の苦労をもちだすまでもなく、
じつに多くの負担を強いられる。
雅子妃も同様で、あの外務省に勤務していた時代の颯爽とした立ち姿と、意志の強さをあらわしていた
大きな両眼とふくよかな顔は、嘘のように失われてしまった。そして、石のように動かない皇太子。
ふたりのそんな姿は、単なる夫婦関係の問題というだけでなく、自分たちではとても抗しきれない
ある"力"の存在に気付き、それに必死に耐えているようにさえおもわれる。
というのも婚約が決まる家庭をもう一度洗いなおしていくうちに、じつに「皇太子の片思い」という
これまでの純愛ラブストーリーとはまったくちがった流れが、浮かびあがってきたからである。
皇太子は雅子妃との結婚について、思い悩んでいた。結婚をのぞんでいたのは、むしろ雅子妃の父、
当時外務省事務次官だった小和田恒氏ではなかったか。
一年前の一九九三年秋、全国民がお妃選びに注目しているまっただなかで、天皇と小和田家のあいだを行き来し、
メッセンジャーをつとめたある福祉団体役員の証言によれば、彼が小和田氏に会ったとき、
「陛下が皇太子殿下のご結婚を気にしている」と伝えると、
小和田氏は顔を曇らせ、うつむき加減になって、こう漏らしたという。
「殿下は帝王学に徹しすぎますよ。女は、男から言ってきてくれるのを待つしかないんです。
雅子が思い悩んでいるのを、みていられない」
皇太子自身がはっきりとプロポーズをすれば、小和田雅子はそれを受け入れる用意がある、とこの人物は受け止めた。
その一ヶ月まえに、彼は天皇に会っている。そのとき天皇は
「小和田雅子さんという方は、どういう方か。皇太子の気持ちは、どうも小和田雅子さんらしい」と胸中をあかした。
そして、「外務省次官の娘さんであれば、こちらとしても結構な話だとおもうが」と話した。
この人物は、この時、小和田雅子さんが本命であることを確信したという。
その上で小和田恒氏と会ったのだが、その直前、小和田氏本人が直接、天皇と会い、
ふたりきりで結婚について話し合う機会をもったと彼は語る。
「表向きは外務省次官が世界情勢の激変について、ご進講するということでした。しかし、中身はまったくちがう。
皇太子殿下と雅子さんの結婚話が、二時間以上も交わされたときいています」
家長どうしの突っこんだ話し合いが行われていたというのである。
そのころまでに二百人ともいわれるお妃候補が、浮かんでは消えた。お妃選びのメンバーであったある人物は、
天皇と小和田氏の話し合いがおこなわれる一年近くもまえに、お妃選びが特定の流れに向かっていることに
気づいていたという。
「結論からいえば、はじめから雅子さんありき、だったのです。ただ、その時点では、
雅子さんのことには気づきませんでした。ひとつの決まった流れが存在しているということに気がついたのは、
私とおなじお妃選びのメンバーが突然、その任務からおりると言い出したときでした」
引き留めるためにでかけていった彼は、逆に相手から、じつに意味深長なことばでさとされた。
「お妃選びから、きみも手を引いたほうがいいよ。もう流れは決まっているんだから」
核心部に近ければ近いほど、匿名扱いにしなければならないことが、どうにももどかしい。そうでなくても、
ただでさえ皇室取材は、匿名がどうしても多くなる。

「一生全力でお守りする」発言の本当の意味
それにしても、この特定の「流れ」とはどういったものだったのか。この人物は、つぎのように話す。
「やがて天皇となられる皇太子のご結婚には、さまざまな国の利害など、大きな問題が絡むのです。
私はお妃選びの過程で、殿下と何回かお会いしました。じっさいにいろんなことで、殿下は悩んでおられた。
多くの候補の名前を殿下があげられたことはありますが、
雅子さまのお名前だけは、ついに一度も聞かれませんでした。
殿下が、婚約会見で一生全力でお守りする、とおっしゃったのは、単に宮中という特殊な環境から
雅子さまをお守りするという意味だけではなく、それよりもっと巨大なものからお守りするということなのです」
一九九三年六月九日、彼はご成婚のテレビをみていて、パレードに出発するときの皇太子の表情が、気にかかった。
「お車に乗りこまれるときの殿下の眼を見たのです。おもいつめた眼でした。
幼少のころからよく存じ上げていますが、あんなけわしい眼をみたのは、はじめてでした」
そうして彼は、ようやく外務省の存在を指摘するのである。
「なぜ小和田恒さんが国連大使となり、国連安全保障理事会常任理事国入りをめざした動きを強力に展開されるのか。
なぜ、いわゆる皇室外交ということが、強力に推進されるのか。
雅子妃は、小和田恒を筆頭とする外務省という家から天皇家にとついだ花嫁なんです。
小和田氏の行動を、これから国をあげてバックアップしなければならなくなるわけです」
誇大妄想だといわれればばそれまでだが、外務省のあるキャリアは、ASEAN諸国歴訪(一九九一年九月)
にはじまる天皇の外交活動をさして、はっきりとこう言うのだ。
「天皇に対しては左右いろんな意見があるが、外国からみれば、日本の象徴であり、
総理なんかではとても代役はできない位置にある。だから外務省としては、天皇には戦後処理、
太平洋戦争の後始末をしてもらいたいというのが本音のところだ。
世界の大勢は、日本の戦後処理はまだ終わっていないという見方をしており、
安保理事人理事国入りしたい外務省としては、そのまえにこの問題をクリアしておきたい。
あくまでも"外国交際"で、友好増進のための陛下のご外遊ととらえている」
天皇家と政治は明確に分離されていなければならない。
ここにいたって、にわかに疑問視されるのは、やはり雅子妃の父、小和田恒の存在である。
本来ならば、天皇家と縁戚関係で深くつながった時点で、日本外交の中枢をになう役職からは
退くべきであったと私は考える。政治経済の利害がはげしく絡み合う現実世界から距離を置くというのが、
天皇家にたいする配慮というものではなかったか。
けれども、小和田氏の言動には、積極的に外交舞台の中心人物でありつづけようとする野心がみなぎっている。

「国連事務総長に」の声に猛然とやる気を出した
九月七日午後六時から、東京日比谷の帝国ホテル孔雀の間で、「小和田恒外交論出版を祝う会」がひらかれ、
約五百人の財界関係者が顔をそろえたことは、彼の野心を雄弁にものがたっていた。
政治家では、福田赳夫元首相、宮沢喜一元首相、柿沢広治前外相、財界からは鈴木永二前日経連会長、
速水優経済同友会代表幹事らが出席した。福田赳夫氏が外相、首相時代に、小和田氏は秘書官をつとめている。
マスコミの取材をシャットアウトしたパーティで、挨拶に立った小和田氏は、
「いま国際社会で日本がおかれている状況は、単に人といっしょになって参画するだけではなく、
もっと創造していく必要があるということだ」
と出版した本のタイトルどおり「参画から創造へ」を強調した。本の帯には
「小和田恒は早くも伝説の外交官になりつつあるかに見える」という文字が躍っていた。
おどろくべきことに、皇太子妃選び雅子妃にしぼって勧められはじめた一九九一年九月、
イギリス外務省から日本の外務省に「ミスターオワダを国連事務総長にどうか」という打診があったとき、
当時外務事務次官だった小和田恒氏は猛然とやる気をみせたと外務省担当記者は言う。
「それで外務省内に国連事務総長になる場合に対応するための、四、五人のプロジェクト・チームをつくった」
けっきょく「小和田事務総長」はまぼろしに終わったが、
国会では国連平和協力法案が廃案を目前にしていた時期であった。日本の国際貢献の方針が、
憲法の精神をめぐって決まらずじまいであった。
この微妙な時期に、小和田氏は国連事務総長ポストにこころを動かされていたということになる。
この時、自分の長女が皇太子妃として有力になりつつあることを、小和田氏はご存じなかったのだろうか。
ほぼ一年後の一九九二年十月三日、千葉の鴨場で雅子妃は皇太子からプロポーズを受け、
十二月十二日、東宮仮御所で結婚を了承する。
天皇家に深くつながることは、あらゆる利害から独立してあるべきだということと、
国連事務総長もまた、あらゆる利害から独立してあるべきだということはどちらも自明の理である。
小和田氏がどちらの立場も同時に手に入れようとしていたら、この矛盾をどう説明するのだろうか。
小和田氏の立身出世のおもいは、一九九三年八月一妃に外務事務次官を終えてからもつのっていたようで、
外務省関係者は「ご本人は、駐米大使になりたかったようだ」と話す。
栗山尚一駐米大使の任期もからみ、また天皇家と縁戚関係になったことから、
日米摩擦などで傷つけてはならないという配慮もあって、国連大使に落ち着いたのだが、
この席でも「国連には情報がない」とこぼしていたという。
そして、ことし六月八日、ニューヨークの国連本部でひらかれた国連安全保障理事会改革作業部会の席上、
小和田国連大使は、「日本は常任理事国として、世界の平和と安定のため、なしうるかぎりの責任を果たしたい」
と日本政府高官としては、はじめて「常任理事国」という直接的なことばを使って、
日本の常任理事国入りへの意欲を表明した。政界混乱のなかでの国連本部での発言は、
旧連立政権にかわって生まれた、常任理事国入りに慎重な自社さきがけ連立政権さえも、
やがて常任理事国入りに向かって動かすこととなっていった。

雅子妃の本当の姿
天皇皇后をエスコートした「国連大使」夫妻
明治維新後の東京遷都以降、天皇家は政治の波に翻弄されつづけた。それは京都御所という
民衆にひらかれた代々の居住から、江戸城という武家の城に移されることによって、
比喩的にいえば政治の側に"幽閉"されたとみることができる。
京都時代の天皇は、ときに六条河原にも足をはこび、人目にふれることはしばしばだったが、
広大な江戸城に移ってからは、民衆の目にふれることは少なくなった。こうして民衆から隔離することによって、
明治政府は富国強兵政策のもとに天皇を軍神としても奉り、戦争の時代へと国を導いてく。
太平洋戦争が終わってみれば、日本の政治にアメリカ合衆国までが加わり、
戦中は現人神としてまつられた昭和天皇は、戦後は人間天皇となり、贖罪の意識を崩御のきわまで懐きつづけた。
全国巡幸の旅や全国植樹祭への参加は、人々の気持ちを癒すというただひとつの目的のためであった。
その孫として、昭和天皇から直接、薫陶を受けつづけた皇太子は、
一九九〇年二月二十三日の三十歳の誕生日の記者会見で、右翼による本島等長崎市長の
狙撃事件について質問され、きっぱりとした口調でこたえている。
「言論の自由は、つねに尊重されなければならないものであり、これを暴力によって封ずるという行為は、
断固としてあってはならないことであると私は考えます」
本島市長は「昭和天皇に戦争責任はある」と公の場で語り、狙撃されたのだ。
皇太子はその狙撃事件を、「断固として」という強い表現を使って断罪したのだった。
おそらくそこには、たんにこの事件についてばかりではなく、
歴史的視点に立った広い意味での祈りがこめられていたようにおもう。
そんな皇太子の姿勢は一九八七年九月の沖縄訪問のときにも如実にしめされた。
皇太子は、およそ二十万人もの犠牲者をだした沖縄戦で、最後の戦場となった本島南部の「ひめゆりの塔」に
足をはこんでいる。塔に祈りを捧げたあと、人々から当時の女性とらの最期を聞いた皇太子は、
ふたたび塔のまえに歩み寄り、頭を下げたのである。
新しい政治の波が「普通の国家」というかけ声のもとに押し寄せているいま、
皇太子は石のように動かずにいなければならないのかもしれない。
常任理事国入りについての国民的な議論をなんら喚起することもなく、
「まず常任理事国入りありき」で突き進む政治の力。
果たして安保理の採決にたいして拒否権を行使できるかどうかも、いまの日本のあやふやな姿勢では危ぶまれる。
常任理事国入りのための尖兵として、政治の側から皇室外交を押しつけられたのでは、
天皇家とはいったいなんだということになってしまう。
けれども、じつはことし六月の天皇訪米で、すでにそれは果たされていた。
天皇皇后は、ニューヨークの国連本部を訪れ、ガリ事務総長夫妻が主催する午餐会に招かれた。
そのとき天皇皇后をエスコートしたのは、国連大使の小和田夫妻だった。
常任理事国入りをアピールするには、絶好のパフォーマンスであった。

「キャリア・ウーマンという雅子妃」の幻影
九月四日の日曜日の午後、東京・目黒の閑静な住宅街の一角にある小和田邸は、
ひっそりと静まりかえっていた。
雅子妃の母方の祖父母が住む江頭邸と軒並びに建ち、共同の玄関まえの植えこみのそばには、
電話ボックスタイプの警備所がある、若い警官がひとり立っていたが、警備所のなかをのぞいたとき、
くすんだ壁の奥に、場違いなほどのあざやかな色彩の束があった。千羽鶴だった。
わずか一センチほどの大きさの鶴が、白と赤と交互に五十センチほどの長さでつらなっている。
それが十連もある。根気のいる細かな手作業の成果をだれが贈ってくれたのかと問うと、
意外にも「雅子さまのお母さまが」と警官はこたえた。
雅子妃がこの家にいたころは、外務省北米二課で日米包括協議を担当していた。
マスコミはバリバリのトップキャリア・ウーマンとしてさかんに報じていたが、
現実はもっとおっとりとした女性らしい。外務相時代のある上司は、
「彼女はふつうの女性なんです。そこをみてあげないと、かわいそうだ」と言う。
「仕事もテキパキというわけではない。包括協議では、一ヶ月泊まりこんで調整をやったこともある。
けれども、彼女はのんびりしているのか、マイペースなのか、ひとり二時三時を過ぎても、
黙々と仕事をしているんです。自己主張をしない人だった。いちばんの美徳は我慢強いことです」

この話からは、伝えられるイメージとは、まるで正反対の雅子妃の地味な姿がおもい浮かぶ。
皇族方による雅子妃バッシングは、ご当人にとってはいわれのないことだろう。
この八月以降、栃木の茶白岳、北海道の羅臼岳と皇太子とともに登山を楽しんでいくうちに、
少しずつ雅子妃の表情には明るさがもどってきたようにおもわれる。
最近は外務相時代の同僚や上司を赤坂御所に招き、諸外国の情勢分析に熱心に耳をかたむけているという。
小和田邸には、いまはだれも住んでいない。その、主不在の邸宅にいろんな人々が尋ねてきた、
と若い警官は言う。親類を名乗るもの、「天皇の弟」という人も来た。
きわめつけはスポーツ新聞を手にもった二十五〜二十六歳の男が、
「おれは雅子の婚約者だ。そのことをこの新聞に書かれて迷惑している。ほんとうかどうか確認に来た」と
警官に迫った。ここだと指示されたところをみると、それはプロ野球選手の婚約記事だった。
雅子妃の幻影は、まだこの邸宅の周囲に留まっている。

もうひとつの幻影のほうは、ご成婚によって、その痕跡すらも完全に消え去ったかのようである。
軒並びに建つ江頭邸の主である豊氏は、水俣病の原因をつくったチッソの社長をつとめていたことがある。
宮内庁ではそのことが問題にされ、雅子妃と皇太子の結婚話は一度、立ち消えた。
「三代にわたって汚点なし」というのが、お妃選びの条件のひとつで、雅子妃はそれに抵触するということだった。
皇太子もそれがご成婚の妨げになっていたことを、婚約会見の席で率直にふれている。
ところが、一転して雅子に決定したとき、宮内庁の説明はつぎのようなものだった。
「江頭氏は社長といっても、水俣病が発生したあとに日本興業銀行から派遣された方。
公害病発生とは無関係で、責任はない」
たしかに水俣病の発生が確認されるようになったのは一九五六年ごろからで、江頭氏が日本興業銀行から
チッソの専務となったのは、それから六年後の一九六二年のことだった。二年後の一九六四年には副社長、
同年暮れには社長となった。
けれども、江頭氏が経営権を握ってからも、チッソは自分たちの工場排水のなかの有機水銀が
水俣病の原因であることを認めようとせず、患者との交渉もいっさいもとうとしなかった。
それどころか一九六六年まで、水俣湾に水銀をたれ流しつづけたのである。
当然そのあいだに、水俣病患者は大量発生することになった。
ご成婚より二年前の一九九一年一月三十一日の段階で、水俣病患者と認定されなかった人は一万千二百八十一名、
認定された人は二千二百四十二名、認定を待つ人は二千八百九十名だった。
それまでにも、多くの患者たちの生命が消えていった。
公害病としては、世界に類例をみない規模にまで拡大していったのである。

祖父江頭豊氏と水俣病
皇太子と雅子妃がいま望んでいることは何か
水俣の海は、遠くに天草の島影を映しながら、透きとおるような青をどこまでもひろげていた。
あれほどの公害病を蔓延させた海は、まるで嘘のように明るく輝いている。
私は水俣湾を見下ろす小高い丘で、川本輝夫という六十三歳の農夫と会った。
農夫といっても、水俣病患者の救済のために、みずからも水俣病のからだをおして闘いつづけてきた
牽引車のひとりだ。川本氏は病のためにときおり首から上をぶるりと振るわせながら、こう語るのだった。
「戦争中、チッソは国策会社でした。戦後は戦後で食糧増産のかけ声のもと、肥料の大量生産をやっとりました。
昭和天皇は昭和六年と昭和二十四年の二回、水俣の窒素向上に来とられる。ひとつの会社の激励のために、
わざわざですよ。
私たちの調べじゃ、チッソは昭和七年から水銀をたれながしとるんです。その七年後には、
水俣病らしきものがでとる。江頭さんは発生には関係なかていうこつらしいが、
江頭さんがチッソをやめる昭和四十六年までの約十年間が、いちばん水銀が拡大放置されとった時期なんですよ」
四、五年まえ、水俣病の患者たちのあいだで「水俣をみにきてほしい」という請願書を、
天皇家に送ろうという動きがあった。けっきょく内部の反対で実現しなかったが、
いまでも川本氏は天皇家に請願書を送りたいとおもっている。
「私らのあいだじゃ、皇太子夫妻で新婚旅行に来ればいいて言うとったんです。
賠償やらなにゃらの問題はともかく、気持ちの癒しがいちばんなんです」
御成婚の恩赦によって、選挙違反に問われた人々に大赦がおこなわれたりしたが、
なぜ政治的な違法行為者にはそのようなことができて、水俣の犠牲者には慰めひとつあたえることができないのか。
私は水俣から北上し、宇土半島の付け根の町まで行った。大潮のその晩、神社の境内から、
漆黒の海の彼方に不知火がともるのをみた。不知火は一所でぱっと炎をあげるとふたつから三つに別れ、
帯のように水平線を横につらなっていく。あの不知火のはるか向こうは、水俣の海だ。
記紀の時代、景行天皇の九州遠征のさいに、海上で迷った天皇を陸にみちびいたのが不知火とされる。
天皇を助けたこの海域は、いまだに癒されることなくたゆたっている。
諸外国への戦後補償にあけくれたところで、足下の自民の民のこころが癒されないかぎり、
日本の戦後は終わらない。なおされそれが天皇家の政治利用によっておこなわれつづけるのなら、
人々のこころは天皇家から離れていくばかりだ。政治の狙いが、じつはそこにこそあるのだとしたら、
皇太子と雅子妃の姿がどことなく陰影をおびているわけもわかる。
「天皇家のあり方についての国民的な議論を、皇太子殿下はのぞまれているはずです」
皇太子の学友である乃万鴨敏氏は、そう話す。
二十一世紀の天皇は、いま寒々とした荒野に立たされている。


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