浩宮さま

■週刊朝日1980年10月24日号
やんごとなき方々の御日常
浩宮様が学習院初等科へ入学されたころのこと。
たまたま美智子妃も参加された授業参観の日、宮様に順番が当たり、教科書を読まれるはめになった。
しかし、なかなかすんなりと読めず、四苦八苦される彼を見て、だんだん美智子妃の顔色が変っていった。
とどめは先生の、「お家でもう少し勉強してきなさい」の一言であった。
美智子妃は、がっくりと首うなだれ、すごすごと帰途につかれたのである。

■天皇家のユーモア光文社2000年発行 「女性自身」皇室取材班
「お母様、お点がひとつ“赤座ぶとん”の上に乗ってるよ」
浩宮さまが学習院中等科1年のとき。
一学期が終わり、成績表を持って帰られた浩宮さまは、
こんなことを言いながら美智子さまへお渡しになったことがある。
美智子さまは「あら、“赤座ぶとん”って何でしょう?」と、成績表を開いてご覧になった。
浩宮さまの言う“赤座ぶとん”とは、要注意を意味する赤いマークで、
そのマークの上に成績の数字が書いてあったのだ。これには美智子さまも思わず噴き出され、
「しっかり勉強なさい」とおっしゃるだけで、叱ることも忘れてしまわれたという。

■ほめ方上手の親学 浜尾実
東宮御所である日、小さな事件がありました。
私(※浜尾氏)の息子は宮さまと年齢が近かったこともあって、
お遊び相手としてときどき御所にうかがっていたのですが、
宮さまのお部屋にある水槽から熱帯魚をとり出し、二人で解剖してしまったのです。
いくつか年上の私の息子のほうが率先してやったに違いないのですが、
その解剖した魚の残骸をそのままにしておいたのが
殿下に見つかってしまったからたいへんです。
そのとき宮さまは殿下から大目玉をいただいたのですが、
殿下のお叱りは魚を解剖したからということでなく、
魚の残骸の後片付けをしないでお庭に遊びに出かけてしまったということだったのです。
俗にいわれる「ナルちゃん憲法」の一つに「”ながら病”はできるだけ避けること。
靴を履くときなども『靴を履いたらおんもネ』といいながら
靴を履くことだけに集中させること」という項目があります。
宮さまはこのとき、涙で顔をクシャクシャにさせながら、ぞうきんで床をふいておられました。

■浩宮の感情教育
小坂部元秀著 飛鳥新社(2001年)
ごく稀にではあったが、浩宮も高等科食堂を利用することがあった。
浩宮自身が食堂の昼食に興味を持ったためかもしれない。
カレーライスを注文して、食堂の賄いの女性に「お肉をたくさん入れてください」と頼んだが
「高等科のカレーライスは安いでしょう、だからお肉はあまり入っていないのよ」と言われて
「そうですか」と納得していた。そんなこともあった。
生徒は普通、食堂のカレーライスがどの程度のものか、よく知っていたから
「お肉をたくさん……」などという場違いな注文を口にすることもなかったが、
そんなところにも世間知らずという意味での浩宮らしさが覗いていた。

 ――高等科の数学科の佐藤茂人教諭が、中等科時代の浩宮の家庭教師をつとめていたことがある。
その時の話で、浩宮は自信がないと練習問題の解答をなかなか示そうとしなかったという。
数学の誤答を提出することを、嘘をつくことと同義に考えていたという。
中等科の彼には「誤答」→「嘘をつくこと」=「いけないこと」という、
常識では考えられない思考の枠がはめられていたといえよう。

この学年の相主管の佐藤茂人教諭が、浩宮の中等科時代に数学の家庭教師を引き受けていたことは先に述べた。
冬の東宮御所での勉強中、部屋の暖房が利きすぎているので「窓をすこしあけた方がいいね」と言うと、
全部開放し、しばらくして「もうすこし閉めて」と言うと、ぴたっと閉めてしまった。
 ――「浩宮には、窓をちょうどよく開けたり閉めたりするってことが出来ないんだ。
自分で窓をしめたりあけたりする習慣が、小さい時からなかったんだろうね」と佐藤さんは言い
「だから家庭教師に行った時には、なるたけ自分の部屋の窓のあけしめをやらせたんですよ」と語ってくれた。
きちんと決められたことはできるが、きわめて日常的な、小さい時からわれわれが日々の生活の中で
自然に身につけるもの、生活の知恵ともいえないような文字通り「瑣事」にうとい点が浩宮にあるのは、
やはり否めなかった。美智子妃の母親としての細かい心づかいがあったとしても、
あの東宮御所で多くの側仕えの人々に付き添われた生活では、そこまではカバーできなかったということだろう。

貸切バスを使う場合には沿道の警備に所轄署の警官が配備され、沿道の交通信号も浩宮の乗ったバスは
ノンストップで走行できるよう手動で操作される。沼津遊泳実習、多摩湖畔マラソン大会の往復、
八幡平登山合宿の際の岩手県下の交通などはこのスタイルだった。
従ってとくに東京都下を往復することになる多摩湖マラソンの場合、学年別クラス順に走るバスで
浩宮クラスの後に続く車両は殆ど例外なく赤信号でストップさせられた。一般の、関係ない車も同様であった。
それは浩宮の乗ったバスをノンストップで通過させるため、青信号を無理に継続させたり
逆に赤信号を随時青に切り換えたりするその皺寄せが後続車両や横断車両にきたのであった。
他のクラスからは「ひでえなあ」という声もきかれた。当然浩宮のバスの前後には覆面パトカーが先導し追尾した。


美智子妃は「二年になってフランス語をやめてしまいましたが、苦手と申しましょうか、
ちょっと不安があったようなのです」
と、浩宮のフランス語の選択放棄について触れた。
浩宮は高等科一年で第二外国語として選択履修していたフランス語をに、二年になるに当たって放棄していた。
私がこの件について、五月はじめのホームルームのあと、浩宮に雑談風に「フランス語をやめたんだね」と
訊くと、浩宮は少し眩しそうな目つきをして「ええ、いろいろ事情がありまして……」と曖昧な応え方をした。
私はそれ以上深く追求しようとは思わなかった。
高等科では一年次に必修の英語以外に第二外国語として、ドイツ語、フランス語の
いずれかを選択必修できるコースがある。
しかし第二外国語は、二年、三年と進むにつれて負担が大きくなり、
三年では一日に少なくとも一時間、ときには二時間連続の曜日もあって、
その日は朝から五十分授業が八時限で夕方五時に終了という具合である。
そのため二年になる段階で諦めて選択放棄する生徒があった。
浩宮もおそらく、その学習負担増と、そこからくる全般的な成績の低下を懸念したのではないか。
学習院大学への内部進学推薦基準は、高等科の一、二、三年の全教科平均点が各学年六十点以上という
ハードルが設けられていた。フランス語の担当教員にきいたところでも、
フランス語の成績は他教科に比べて低かったようだ。
「ご本人も“いろいろと事情がありまして……”と、言っておられました」
「そうですか」
両殿下は顔を見合せ
「将来のことを考えて、英語の他にフランス語も馴れておいた方がよろしいかと思い、
高等科に進むときに薦めたのですけれど……」
と美智子妃はやや残念そうな表情であった。フランス語は、やはり海外からの国賓などを念頭に置いての
将来的な配慮の一環だったのだ、と私は納得した。


宮内庁東宮職と学習院中高等科教員チーム「クラブ服部」とのテニスマッチが、浩宮在学中は年に一回
東宮御所のコートで開かれた。浩宮はじめ、当時初等科在学中だった礼宮も参加して、土曜の午後を楽しんだ。
緑に囲まれたコートからは四谷界隈の高層ビルが別世界のものとして望まれた。
東宮職メンバーのテニスのレベルの前に「クラブ服部」のメンバーは完敗することが多かった。
試合後懇親会があり、ビールなどが出て、浩宮、礼宮も出ていた。
その席で浩宮が「アーヤは負けそうになると、おこってラケットを放り出すんだから」
と笑いながら話していたのが印象に残っている。両者の対比としても面白かったが、
浩宮が他の人間に対して思ったことを直截に述べることは珍らしかったからだ。
肉親の弟ということで、リラックスした状況の中では、いかにも人間的な発言――というか、
当り前のどこにでもいる兄と弟の間柄をかいま見た瞬間でもあった。礼宮は子供っぽく、
しかしちょっと恥しそうに笑っていた。浩宮は二年生ぐらいからは、ビールなどもかなり飲んでいた。
浩宮の学友として賀屋(原文ママ)も参加していた。彼は浩宮と並んで観戦したり、
東宮職メンバーの一員として浩宮とダブルスを組んだりした。
彼は懇親会終了後、教員たちとともに四谷へ出て、二次会に流れる教師連に誘われると喜んで付いてきた。
居酒屋に入って、末席に座った彼は、おひらきになるまでビールを飲みながら付き合い、にこにこして帰って行った。

卒業アルバムの撮影時、「浩宮はなんら躊躇することなく(教師の)私の隣に腰をおろした。
こういう時の浩宮は、形容矛盾を敢えて冒せば、不自然なくらい自然だった。普通の高校生だったら、
多少のためらいや照れ、戸惑いや反発など、なんらかの感情的反応をみせるものだが、
浩宮はこういう場合、そんな反応とは見事に無縁だった」
「(海外からの来訪者が学校を見学したとき) 「殿下からご挨拶を」と促されると、高校生ばなれした
特徴ある悠揚迫らぬ落ち着きぶりで一行を見渡しながら、いわば常套的な決まり文句を少しも照れずに
ゆっくり述べることで、それなりに格好がついていた。こういう場の挨拶は、結局このような紋切り型が
最も適わしいのかもしれないと、 思わずこちらが錯覚しそうになるほどだった」


浩宮の作文には、青年らしい葛藤とか苦悩とか怒りとか、あるいは悲しみ、喜びなどの感情がなくて、
淡々としていた。礼宮の方は、なかなか着眼点が鋭くおもしろかった。


学習院時代の皇太子は人の噂になるほどの存在感がなかった。
「身分がなければ記憶に残らない生徒だった」




■週刊現代1993年1月23日号
一方、皇太子は学習院高等科3年のころ、殿下の悪友仲間が学校のトイレの中でタバコを吸った。
そのとき、たまたま居合わせた殿下に、「先生が通りかかったら教えてくれ」と、廊下での
見張りを頼んだ。頼まれた殿下は抵抗するでもなく、「あ、そう」と、数分間の見張り役を
お引き受けになったそうです。

■写真集プリンス浩宮 文藝春秋1987年
写される立場を学ぶため、カメラマンが近くでフラッシュをたいても皇太子ご夫妻(当時)の意向でそのままに。
勤労奉仕団に小さい頃からあいさつ。最初万歳三唱に驚いていたようだが3歳には慣れた。
毎週日曜日は皇居へ。途中で侍従女官とすれ違ったときは自転車から降りてあいさつ。
沖縄豆記者の席には幼稚園時代から加わった。
幼稚園時代、浩宮の車だけが目白通りから幼稚園の中に入る特例になっていたため
「どうしてなの。僕は歩くよ」と通りで降りようとしたこともあった。
「記憶しなければならない四つの日」以外にも、学童疎開船対馬丸が沈没した時間に黙祷。

チャールズダイアナが到着の大阪空港に皇族を代表して浩宮が出迎え、翌日は修学院離宮へ。
チャールズ夫妻は国賓より一ランク下の公賓として来日だったため、空港に皇族の出迎えは必要ない。
もし出迎える場合でも、皇位継承権が下位の皇族でないと前例に釣り合わない。
皇室内部から、浩宮の大阪行きに反対する意見もあった。

試しに東宮御所内でハンドルを握ったことはあっても、免許は断念。
大学時代、毎日同じ服を着ていても平気、というくらい服装には無頓着。
学食にてご飯を多く盛られてしまった女子学生に「よく食べる人は分かるんですね」。
女子学生に「どちらがダイエットできるか、やってみましょう」と持ち掛ける。
NHKを訪問したとき、
「今日はスタジオは静かですが、おとといみたいな日は、大変だったでしょうね」と、金日成死亡説を話題に。
音楽部管弦楽団歓迎会自己紹介にて
「ぼくは皇居の、とある倉庫で生まれました。病院だったらしいのですが、
エレベーターも故障しているようなひどいところで‥」
「音楽部の演奏を初めて聴いたのは初等科の頃でした。随分、下手だな、と思ったものです」。
中等科時代、むずかしい漢字を書くときなどは、罫線からはみ出してしまうことがあった。
音楽担当藤原先生、「リズム感は抜群というほどではないが、メロディーを”うたう”ことにかけては
素晴らしい素質をお持ちです」「考えられないくらいゆったりしたテンポの、
個性的、かつ情熱的な演奏(シューマン子供の情景ピアノ演奏を聞いて)」。
合宿など旅先に、自分でヒット曲を録音、編集したカセットテープを持参することも。
曲名を書いたメモも付いていて”浩宮殿下が選んだヒットメドレー”という趣向。
カラオケは演歌が多いが、歌い方は感情をこめたカンツォーネ調。
ゼミ仲間と喫茶店に入ったとき、ちょうど「紅茶のおいしい喫茶店」が流れていた。
手ぶりを真似しながら歌ってみせ、さらに「新曲があるんだ」と誰も知らない柏原芳恵の新曲を披露。
ブラジル旅行にて「ブラジルには美人が多く、とても素晴らしい」と感想を漏らす。
サンパウロ大学で同世代の学生に天皇制について質問され、「天皇は百二十四代続いているが、
その理由は精神的な象徴だったという感じです」と答えた。
英国留学中は、チャールズ皇太子のケンブリッジ大在学中と同じ”最大級”の警備体制だった。
(寮の隣室に警護官二人が交代で寝泊まり、昼間のガードは警護官一人、はチャールズと同じだった)
“フォーカス事件”の女性は、反響の大きさに勤め先を辞めるハメになった。
浩宮はその後も気軽に記念写真に応じ続けたため、特ダネにならなくなった。愛用のカメラで記者団を
“逆フォーカス”するようになった。
イタリア旅行、ペルチーニ大統領昼食会の食後酒はグラッパ。
ナポリで食事の際は、グレコ・ディ・トゥーフォ。イタリア人も驚く健啖家ぶりを発揮。
英国の本屋には売っていなかったため、ニューヨーク五番街の本屋ではシールズと
ジェーン・フォンダの写真集を買い込んだ。
ロッキーマウンテン国立公園では、カウボーイハットをかぶって岩の上から右手で
ピストルを撃つしぐさをしてみせた。米国のカメラマンたちは大喜びだった。
米国の食事は口に合ったようで「マクドナルドのハンバーガー」とカリフォルニア・ワインがお気に入りとなった。
各地で健啖家ぶりを発揮し、体重が三キロ以上増えた。
「日本に帰ったら不自由な生活は覚悟しています」と同行記者団に語った。

■「わたくしのは?」
両陛下がはぐくまれたねむの木の絆1/3〜3/3
http://www.youtube.com/watch?v=2axVq1Hia7Q
http://www.youtube.com/watch?v=r9nybvlRBss
http://www.youtube.com/watch?v=373UGG8uMlg

久能靖:どういうきっかけだったんですか、最初に(美智子さまと)お会いになったのは?
宮城まり子:最初? きちっとお会いしたのは、絵を見たいからって言うので、
東宮へ絵を持っていったんですよね。で、見ていただいたとき、皆夢中になっちゃったんですよ。
ったら今の皇太子が、ちょっと嫉妬心かな、「わたくしのは?」とお聞きになったの。
皇后さまがね、間髪入れずに
「あなたのは、1枚残らずちゃんっと、しまってございますよ」と仰ったの。
そしたらニコーッと笑って、「そう、ありがとう」って言われたときの、
その間髪入れずのお母さまの答っていうのは、これは素敵なお母さんだなーって思いました。

■妃殿下と若宮さま 東宮御所で過した日々
元東宮侍医医学博士・緒方安雄 サンケイドラマブックス26
それはいつごろであったろうか?たぶん浩宮さまが小学初年級ごろであったと思う。
私は煙草を吸わないのでそのかわりにドロップを数個いつもポケットにいれていて、
ときどきなめることにしていた。
ある日のこと、私の上衣のポケットがふくれているのに気づかれたのか、
突然ポケットに手を入れて、そこにはいっているドロップをつまみ出された。
「これアメ?食べてもいい?」とお聞きになる。
私は躊躇した。妃殿下が正しく行っていらっしゃる宮さまの食生活を破る恐れがあるからだ。
しかし、ついには負けて、どうぞということになり、
宮さまは嬉しそうに、そしておいしそうになめていらっしゃる。

■川端康成全集 第十二巻収録「美智子妃殿下」より
思いがけないことには、皇太子殿下が愛宕山の帰りにお迎えにおいでになった。
この夏は浩宮さまをお鍛えになるおつもりで、
小浅間をはじめ、軽井沢の小山を六つか七つお登りになったそうだが、
その日は愛宕山にお登りになる予定で、冷雨のなかを実行されたらしい。
愛宕山もてっぺんのあたりは車が行かない。
私の山小舎の下の細道へおいでになった皇太子殿下は、洋服の半身がお濡れになっていた。
少しお休みくださいませんか、というと浩宮さまとごいっしょに山小舎へあがっていらした。
浩宮さまはおなかがすいてらしたのか、ビスケットを六つ七つ、たてつづけに召しあがった。
そして間もなく、「おさきに。」とおっしゃって、おひとりでさっさと扉をお出になろうとした。
こういう慣わしがおありなのだろうか。
浩宮さまがお出になって、皇太子皇太子妃両殿下もお帰りになった。
妃殿下は皇太子殿下のお車で、皇太子のご運転は石のごろごろを避けて、
お静かで、お見送りの私たちは胸をなでおろした。
もし、東京で皇太子殿下のご運転などとわかれば騒ぎで、これも軽井沢のご自由のひとつであろう。

■美智子さまのおことば 愛の喜び・苦悩の日々
河原敏明 講談社文庫
「客観的に満足かということではなく、わたくしの感じで言えば、浩宮の人柄のなかに、
わたくしでも習いたいような美しいものを見いだしています。
浩宮を大切に思っているとしか申し上げようがございません。」(昭和49年)
浩宮について
「中等科までは寄り道の多い子でした。
仏像などきれいな物を見ると、いつまでも見つめていて、
これではクラス全体から遅れてしまうのではないか、と心配になったことがありました。」
礼宮さまの将来について
「礼宮は浩宮に比べて、将来幅広い選択ができる立場にいますが、
それだけにしっかりした価値観、判断力を持ち、
浩宮を助けて、よい皇室をつくっていってもらいたいと思います。
言わなくても、礼宮は必ずそうしてくれるでしょう」(昭和52年)
浩宮さまのお妃について
「あれこれ希望することは、お上がりになる方に
一つの決まった枠を与えることになるので控えたく思います。
ただ、伝統の世界は奥行きの深い世界ですので、気長に経験を積み、
なにごともあたたかくはくぐみ育てる方であっていただければ、とそれだけを考えています。」(昭和53年)

■朝日新聞1986年10月20日朝刊14版
芳恵さんバラをどうぞ 浩宮さまリサイタルへ
浩宮さまは十九日午後、東京・新宿の厚生年金会館で開かれた歌手柏原芳恵さんの
デビュー七周年リサイタルを楽しまれた。
ご自身が柏原さんのファンで、英国留学中は自室に写真をはっておられたといわれ、
主催者からのお願いに応じられた。
白黒のツートンカラーのセーター、ベージュのズボンという気軽な服装で劇場に着かれた浩宮さまは、
お出迎えの柏原さんからレコードや写真集を受け取られると、
お返しに、用意された一輪のピンクのバラを贈られた。
このバラは五十七年に来日したミッテラン仏大統領から皇太子ご一家に
「プリンセス・サヤコ」と命名されて贈られた新品種で、
東宮御所の庭に植えられたもの。同日朝、切り取ってお持ちになったという。

■テムズとともに 浩宮徳仁
オックスフォード大学では、それまでの研究との関連から
英国の水上交通史を研究しようと思っていたが、入学当初は具体的な内容のめどは立っていなかった。
私にとって英国史は専門外の分野で、交通や流通といった問題はその時代背景を把握していなければ
なかなか理解しにくいことはいうまでもないし、英国中世の水上交通を研究する場合、
17世紀ごろまでの史料はラテン語で書かれているため、今までまったく勉強したことがない
ラテン語の史料を読まなければならないことが入学直後の私が直面した問題であり、
二年間でこれをどう克服し研究を進めていくかは緊急の課題になった。

■フライデー1984年11月23日創刊号
<『フライデー』にも投稿していただきたい殿下の「必撮」ポーズ>
今春、殿下は学位論文完成のための研修旅行として、
パリ、ジュネーブ、南仏、イタリアなどを訪問されたが、
古都ベニスでの“必撮”ぶりは、ことのほかだったという。
この旅行、殿下ご自身がプランを立てた私的なものであったが、それはそれ、
ローマからは堀駐イタリア大使が、ミラノからは田辺総領事が、という具合に案内人が駆けつけた。(中略)
夕方には小松一等書記官が、すでにクローズになったカメラ屋で、追加フィルムの購入を頼み込んだほど。

■皇居のなかで思う新宮中物語
昭和60年刊 サイマル出版会 武田龍夫(前式武官)
浩宮殿下は....外国人記者団から『天皇制は将来消滅するという声もあるが?』
との質問に対して、何も答えられなかったという出来事については、わたしは判断を下しかねている。
...私の思い過ごしであることを願うが、それがもし、将来天皇たるべきお方の教育環境の結果だとしたら、
いささか気がかりなことであるといわざるを得ない。
現代といおう時代に適応して、機知やユーモアを含んだ回答でうまく切り返すか、
あるいはまじめに誠意実にこたえられた、
という印象を与えるような答弁をしていただきたいと思うのである。

■週刊文春2001年12月13号
乃万暢敏さん
殿下は子供の頃から、自分に厳しく人に優しいという方でした。
そして気配りを重要視される方です。
たとえば、御所では、ある時からお客様にお茶をだす時の茶托をやめました。
漆塗りの立派な茶托が、熱くなった湯のみの糸底にぴったりと吸い付いて
持ち上がってしまうことがありますよね。そ
の茶托が落ちて大きな音を立てると、
タダでさえ慣れない御所で緊張されているお客様が、痛々しいほど緊張される。
だったら茶托はやめて、くつろいでお茶をどうぞ、という気配りなのです。

■宇野精一(漢学者・東大名誉教授)文藝春秋
浩宮、礼宮にもご進講した。
浩宮は「すべて見通すような眼をしておられるので、
よく理解しているはずと、ついこちらが安心してしまうところがありました」

■アエラ2008年3月10日号
渡辺みどり「平成の即位の礼を前にしたある日、デザイナーが打ち合せで皇居を訪れると
皇太子さまもひょっこり現れた。お召しになる十二単を持ち上げ
「おたたさま、ずいぶん重いのね」とニコニコしながら話した。
母君を慕う様子が目に浮かぶ。(当時29歳)

■皇室ウイークリー(153)
2010.10.9 07:00 
今週は45年前に行われた学習院幼稚園の運動会を取り上げたい。
主役は当時5歳だった皇太子さま(浩宮さま)だ。
「ナルちゃん楽しい半日 学習院幼稚園の運動会」。昭和40年10月4日の産経新聞朝刊は
そんな見出しで、浩宮さまの元気なご様子を伝えている。浩宮さまは綱引きとタマ入れの競技にご出場。
「顔をまっかにしてふんばったり、元気にタマをなげる姿に、ご両親はいかにも楽しそう」。
当時皇太子だった陛下の様子も「ほかのパパ、ママにまじって、三角帽子をかぶり、二人一組で、
フラフープの輪をくぐりながらのかけっこ。こんどはナルちゃんが大声援」と紹介している。
他社の報道だが、当時皇太子妃だった皇后さまは、礼宮さま(秋篠宮さま)の出産を間近に
控えていたため、母子が手を取って踊るフォークダンスはご見学の予定だったが
「浩宮さまは相手の先生をすっぽかしておかあさまのところに走り寄られていた」。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/101009/imp1010090701001-n1.htm

■平成16年 大分
http://www.pref.oita.jp/10400/chiji/kaiken/h16/0715/
記者 主務官に質問ですが、時間付けのことですが、午前中の舞鶴清流苑について
2階の生活支援ハウスの予定を10分とってあったのが
実際は2分程度で終了されてしまったのですが、
これはどのような状況でそうなったのですか。
行啓主務官 ご案内される方が、緊張されたのだと思います。
予定をしていたのですが現実にはそうなってしまったということだと思います。
記者 同じことなんですが、午後も献血ルームを25分とっていたのですが、
これも10分少々で終わってしまったのですが。
行啓主務官 私もよくわかりませんが、事情があってのことと推察いたします。
広瀬知事 ただ、随分ご熱心にお声をかけていただいておりました。



皇太子さまのご発言・お声掛け

高齢者デイサービスセンターでの踏み台による訓練を見て
 「どうですか、効き目はありますか」
プールの器具を見て
「それぞれ皆さん、強度が違うはずなんですが大丈夫ですか」
「どこの筋肉に効くのですか」
訓練してる人に
「効き目はありますか」
盲導犬を伴った目の不自由な方に
「犬を飼っていくのは大変でしょうけれども」
貼り絵をされていた言葉の不自由な方に
「おもしろいですか」
2階の生活支援ハウス居住者のレクリエーションルームで
「楽しいですか」


(昭和六十三年二月十九日  二十八歳のお誕生日を前に)
問:歴史上の天皇で、理想の天皇は誰がいますか?
浩宮殿下 具体的にどの天皇というふうに名前をあげるのはむずかしいと思いますけれども、
やはり政治的な実権を持たなかった天皇、政治的に余り活動されていない
精神的な存在であった天皇ということになると思います。


“皇太子ご一行様”の自然破壊山行
http://www.convention.co.jp/ip/hira/kinyoubi.html(リンク切れ)
週刊金曜日 1998.7.3(225号)「新・傷だらけの百名山 7(最終回)」加藤久晴氏
「"皇太子ご一行様"の自然破壊山行 」
「小屋もルートもアンチ・ナチュラル」
皇太子さんが登る山は事前に登山道を整備し、笹や雑草なども刈り取られるそうだ。
(前略)
登山道は道幅が広く、明るい。登山道周辺の樹木や薮がところ構わず伐られていて、
やたらに見通しが良いのだ。笹もしっかり刈られている。
まるでブルドーザーで強引に伐り拓いた道のようだ。急登もあるが歩き易くできている。
不思議なことに導標はまったくない。
しかし、道ははっきりしているので迷うことなく稜線に出ることができる。
稜線から先は新品づくしである。真新しく立派な導標と、案内板に木道。
新品の導標と案内板には、これ見よがしに「環境庁」と「新潟県」の文字がしっかりと刻まれている。
滑稽を通り越して怒りを覚えるのが、玉子石の案内板である。
玉子石が出来た由来が書かれているのだが、大きすぎて景観をぶち壊しにしている。
それに、この案内板を立てるために湿原をはじめとして、周辺の自然をかなり壊しているはずなのだ。
小学校の理科室じゃないのだ。山の中にこんなもの要らない。
案内板に麗々しく、名前を運ねている環境庁と新潟県にレッドカードだ。ったく!
湿原と池塘(ちとう)に山影が美しく映える平ヶ岳ピークの景観を、
この場遠いな案内板が台無しにしていることに役人たちは気付かないのだろうか!
下ってきてから、地元の山岳関係者に聞くと、ショートカットルートも木道も案内板も、
皇太子の山行が決まってから突貫工事で造られたという。
とくに登山道の工事が大変で、地元から約70人の人間が駆り出され、ルート作りをさせられた。
見通しが良い道を作ることが至上命令で、丈の高い草や樹木をめったやたらと伐り払った。
「お陰で、登山道には、滑ったときに掴まる笹っ葉もねえ」
地元の人たちは、自嘲気味に嘆く。自然破壊もいいところである。
そして、湿原内の木道はともかく、ピーク周辺に、過剰な道標や案内板など
余計な來雑物(きようざつぶつ)を作り、仕事をしていることを皇族に売りこむために
名前を誇示する中央官庁と自治体。税金を使って何をやっているのか。
“整備不十分”と書いてあるにもかかわらず、中ノ岐林道がそれほど悪路でもないのは
皇太子一行を通すために手入れしたからであろう。
稜線へ出るまでのルートに導標が一切ないのも、一般道ではなく、
あくまでも皇太子一行のために作った登山道だからであろう。
言うなれば、平ヶ岳のショートカット利用者は、税金で作られた、
皇族山行の傷あとのうえを歩かされているのだ(なお、現在、中ノ岐林道のゲートは閉鎖されていて、
地権者から鍵を借りなければ入れない。周辺一帯は地元の共有林になっている)。
遊歩道の先の立派な山小屋。皇太子宿泊予定地にされると、ほとんどの山小屋が新改築してしまう。
宮内庁からは、オーバーなことはしないでくれというお達しが来るが、
頭の中が旧態依然の山小屋オーナーは、一世一代の名誉とばかり、大散財をする。
その結果、豪華なシャンデリア輝く応接間を持つ新館が、とんでもない山の中に忽然と現われ、
一般登山者をシラケさせる。宮内庁は、特別なことをするな、と言うが警備陣からは、
「当日は、一般登山者と報道陣を、皇太子と同じ建物に泊めるな」と言われる。
そこでオーナーたちは、「面倒」とばかり、借金もかえりみず立派な新館を作ってしまう。
さらに、山小屋関係者を悩ませるのが、皇太子専用の風呂とトイレを作れという宮内庁の指示。
皇太子が「苗場山」(2145メートル)へ登ったときに不幸にして白羽の矢が立ったのが
村営の「苗場山頂ヒュッテ」。国有地内なので建設省に申請してトイレ・風呂用の敷地借用の許可をとり、
突貫工事にかかったが、天侯不順で、資材を上げるヘリコプターがなかなか飛べず、
関係者は冷汗ものだったという。
何とか皇太子来荘には間に合ったのだが、皇太子は風呂には入らずじまい。
おまけに借地に建てた風呂場なので、“皇太子ご一行様”が去ると今度は解体工事である。
何という税金の無駄遺いであろうか。



岳人1997年6月号
皇太子様寄稿文
「五歳のとき、父に連れられて初めて、離山(はなれやま)へ登って以来、
軽井沢近辺の山々を歩くのが好きになった。
父は山登りの途中、たとえ花のない植物であっても、
興味を抱いて足を止めおもむろにリュックサックから分厚い原色日本植物図鑑を取り出す。
そのたびに、頂上に早く着きたいという私の望みは絶たれるのであった。
母の回想によれば、父のたびたびの停車に業を煮やしたのか、
山頂に到着したとき父と私との間には一種険悪なムードが漂っていたそうである。」

岳人2005年10月号
東京新聞編集局長水野和伸
山での皇太子さま 担当記者同行記
足慣らしという奥多摩の棒ノ折山では、(徳仁)殿下一行のペースの速さにギブアップする記者が続出した。



「天皇の儀礼」より浩宮徳仁6歳時
美智子様(当時皇太子妃)への手紙
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「おたたちゃま、あかちゃんうまれておめでとう」と書いたつもり


心に残る人々近代文藝社 杉本毅 平成6年
PM 4:08 分娩。新宮様啼泣。(宮内庁発表午後4時15分)
分娩時及直後活動配置状況
1.分娩後直ちに小林御用掛、柏木婦長は新生児と共に沐浴室へ、杉本毅学士分泌物吸引器を使用して
新生児の蘇生にあたる。吸引とO2を多少与へた程度、一呼吸後啼泣。
生まれたときはしばらく親王の泣き声が聞こえず、医師たちは青ざめた。
しかし、分娩台の前で待ちかまえていた杉本医局員によって素早く吉の中の用水を吸引され、
酸素を与えられると、たちまち顔色がピンク色に染まった。
元気な産声が部屋中に響き渡ったのはその時だった。その瞬間、緊張の糸がほぐれたように、
どこからともなくため息が聞こえてきた。
予定より一週間も早いのだから未熟児の覚悟もしていたが、小林教授がそれ以上に心配したのは仮死だった。
幸いにして産声が聞こえたことで、それが杞憂に終わったことに胸を撫で下ろした。
<外の報道の気配が徐々に騒々しくなり、時間のたつのがこの時ほど遅く感じられたことはない。
前夜からまんじりともせずに待った瞬間だっただけに、二月二十三日十六時十五分、元気な呱々の
産声を聴いた時は安堵で全身の力が一挙にぬける思いであった。体重身長等の計測をし、二五四〇、
四十七センチを鈴村助教授にも確認してもらい、小林教授に報告した。少々、少なめだったが、
充分、成熟徴候を備えておられた。>


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


さまざまなエピソード(拾い物)※真偽不明のものも有り

お酒好き
朝から酒臭いと宮内庁記者の間では評判
愛飲しているのは、「百年の孤独」という焼酎
地方公務で、特に有名な産地ではなくても「こちらの地酒はおいしいそうですね」と、
まるで挨拶のように酒を所望される。

テニス
東大テニス部では、浩宮さまのテニスのお相手をさしだすにあたって
「上手に、それと悟られぬよう負けてくれる男子選手」を選抜していた。

ビオラ
学習院OBオーケストラのコンサート
テュッティーの細かい音符についていけてなくて、ほとんど飛ばして弾いていた。
最後の「ジャン!終わり」で皆が弾き終わって弓を上げて止まる所で追いついてつじつまをあわせていた。

ある音楽雑誌の編集後記
「皇太子のあの表情付けも何もないビオラ演奏に自分は象徴としての皇室を感じた」


ビオラジョーク
バイオリンが下手な人がビオラにまわされる。
皇太子さまは以前はバイオリンを弾いていた。
小澤征爾にきつく演奏を批判され、その後ビオラに転向。
主旋律を奏でる主役的バイオリンよりも、
どちらかというと縁の下の力持ち的楽器を結局選ばれた。
ご本人の篤実なご性格のあらわれ。(と雑誌では褒め称えた)

皇室番組で浩宮さま時代、中学生の頃、彼が知人に宛てた年賀状が映し出された。
賀正の「賀」の横棒が一本、足りなかった。

「浩宮様は御所では自分ひとりに対してだけ皆が話し掛けるので、
「明日ここの問題やってきなさい」 とクラス全員に向かって宿題を言っても、
自分もその中に含まれていると思わず宿題を毎日やってこない日が続いた。」

学習院高等科では浩宮さまが入ってから、試験結果の順位表を張り出すことをやめた。
理由は浩宮さまの名前が張り出されることはありえないから。
学習院は、皇族のためなら校規もかえる学校。
学年成績優秀者を表彰する決まりも、浩宮の学年で廃止になった。

高等科時代、男系の意味がどうしてもわからなかった浩宮さま
浩宮さまは他数名と追試験を受けた。
先生は気を利かして、絶対浩宮さまがすらすら書くであろう
Y染色体についての記述問題ひとつだけ出した。
ところが浩宮さまは書けなかった。その試験はそのまま不問に付され、無事卒業
他の追試メンバーも無事卒業。

以前の皇太子さまはきちんとした取り巻きがいて、足りないところもうまく隠されていた。
マスメディアによる印象操作もされてきた。
ご結婚後、だんだんメッキがはがれてきた。

スピードスケートの岡崎さんに
皇太子 「スケートの格好を愛子がしています」
岡崎さん「それでは是非スピードスケートを」
皇太子「いえ、フィギアをしています」

イギリスに留学中、同じ時期にそこにいた日本人の留学生は
ご学友になるためのご指導を宮内庁関係者から受けた。接し方、言葉遣い、話す内容。
「あまり難しいお話はなさらないように。 中学生だと思ってお話しください。

「ヤマトの王朝」
「ある企業関係者」による皇太子評
「かれは健康ではあろうが、ハンサムには程遠く、頭がよいという話は聞いたことがない。
オックスフォードに留学していたのに英語は下手で、
ヴィオラは弾くがうまくはない。退屈で凡庸な人間で、洗練されたところはまるでない」

(13) 皇太子殿下が1992年のセビリア万博に見えて、今までスペインワインを飲んだことがないが、
フランスワイン、イタリアワインより美味しいと言われた。殿下のお名前を出すのはどうかと思うが、
第三者の著名人によるPRは効果あるのではないか?
http://www.club-nippon-spain.jp/report48.html

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2015年3月21日(土)
[BSプレミアム]
地球最後の未踏地帯を単独踏破した探検家・角幡唯介と、
千日回峰行という命がけの荒行を達成した僧侶・塩沼亮潤。
対談

塩沼「例えば、千日回峰行をします。
千回歩きましたといって、何か社会的な価値があるでしょうか。これは余談になるのですけれども、
以前、皇太子殿下が吉野の蔵王堂にいらっしゃいましたときに、
管長様に「千日回峰行をしたらどうなるんですか?」とお尋ねになられました。
そのときに「千日回峰行を満行した者は阿闍梨と呼ばれますが、
社会的には何の価値もないものです」とお答えしておられました。
ですから、行をしたというだけでは何の意味もないのです。
よく師匠から、行が終わったら、行を捨てなさいと言われましたが、
そういう肩書ですとか、そういうものを“はな”にかけたりするような生き方だけはしないように、
ということでしょう。
ですから、自分自身を厳しく見つめ直していくことが一番の目的だと思います」


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「それなら僕は結婚しない」
週刊ポスト1990年6月22日号
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1237525064363.jpg

「小和田さんでなければ(結婚の話は)ご破算にしましょう」
週刊現代2009年10月10日号
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1255108279054.jpg


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