経緯


平成4年10月2日(金)
天皇陛下 ご進講(外務事務次官)(赤坂御所) ※外務事務次官=小和田恒氏
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/h04/gonitei-h04-04.html


翌日 山形県で国体。
平成4年10月3日(土)〜平成4年10月7日(水)
両陛下
山形県及び宮城県行幸啓(第47回国民体育大会秋季大会ご臨場併せて地方事情ご視察)

※この山形国体開会式で陛下に発炎筒を投げようとした男が捕まった。


「6月のプリンセス」(読売新聞社社会部)
それにしても、その情報は驚くべき内容だった。
―天皇・皇后両陛下が山形国体の開会式出席のため羽田をたった十月三日の昼前、
皇太子さまは、後部座席を黒いフィルムで目隠ししたあずき色のワゴン車に身を隠し、
赤坂御用地の巽門を出た。運転していたのは側近の職員。
門を守る皇宮警察の護衛官も、皇太子さまが乗っていることには気づかなかった。
ワゴン車の後ろには山下和夫東宮侍従長のマイカー、ベージュの「カペラ」が続き、
高速道路を経由して千葉県市川市に向かった。やがて二台の車は、新浜香鴨場に到着した。
―そこで待ち受けていたのが、小和田雅子さんだった。
ここはふだん、外交団などの鴨猟接待に使われる。
皇太子さまは雅子さんと一緒に昼食を取り、野鳥が泳ぐ池の周りを散歩したり、
輪投げをしたりして過ごした。そして最後にプロポーズをしたようだ。
立ち会ったのは、元外交官で国際協力事業団総裁の柳谷謙介氏や山下東宮侍従長などごく少数。
皇太子さまが東宮仮御所内にいるような偽装工作もほどこしたから、侍従たちでさえ、
この秘密作戦には気づいていないはずだ。



昭和天皇に魅せられて 天皇番記者の秘話
元時事通信社編集委員 宮内記者会会員 稲生雅亮 三心堂出版社
1997年11月25日 初版
二回目のデートが千葉県市川市にある宮内庁の新浜鴨場。
再会から一か月後の十月三日にお二人だけに設定されたデートだった。
この時は東宮御所の側近がワゴン車を運転して、
鴨場までお運びするといった徹底した警戒ぶり。
のちにこの運転手さん、「報道の皆さんに見つからないようにするのには苦労しました」と明かしてくれた。
ついに詳しいことには触れることはなかったが、この方もつい先日帰らぬ人になってしまった。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


不透明な入内経緯

拾い物1
========
小和田雅子さんの入内経緯について
小和田雅子さんは昭和61年ごろ一度皇太子妃候補となった。
ただし、宮内庁が候補に挙げた事実はない。
外務省ルートからの候補。(恒氏の働きかけによるもの)
宮内庁内部では反対の声が上がった。当時の天皇陛下(昭和)も反対した。
チッソ社長の孫であること、複数の男性関係、家柄(3代前まで遡れない)が理由。
元警察庁長官だった後藤田副総理は「皇居に筵旗が立ってもいいのか!」発言。
(水俣病の被害者が皇居に押し寄せるという意味)
当時の宮内庁長官も大反対。
宮内庁長官が藤森氏に変わり、外務省一派が他の候補者を貶めて工作したといわれている。
たくさんのお妃候補がいたが、重荷、務まらないと自ら候補から外れていった方が多い。
あるいは外務省がケチをつけ、話が立ち消えになった方もいる。
最後には、小和田雅子さんと、Kさんしか残らなかった。
Kさんは家柄もよく、優秀な女性(もちろん雅子さん以上)だったが、
皇太子が容姿を理由にお断りしたと言われている。
残ったのが雅子さんのみという状況になり、
皇太子が「雅子さんではだめでしょうか」と粘着し、
皇太子の結婚がこれ以上遅れるのはいかがなものかと、宮内庁は渋々受け入れた。
福田赳夫氏は雅子さんが幼い頃から皇太子妃にと目をつけていたという説もある。
小和田恒氏は福田赳夫氏の秘書官だった。
もちろん、雅子さんが素晴らしかったからではない。
皇太子妃は身内(創価)から出すという野望の為である。
1984年皇太子がヨーロッパで小和田雅子さんと対面(旅行)したという噂もあるが
公式発表されている初顔合わせは、1986年10月18日 スペイン・エレナ王女歓迎の茶会
(出席予定名簿に名前は載っていなかったが急遽、手書きで書き加えて参加)
外務省のOBが語った情報によると、外務省の幹部の娘に、
エレナ王女レセプションに年頃の娘(皇太子と釣り合う)がいる者は連れてきてもよいという通達があった。
ほとんどの幹部が、年頃の娘がいる者も「うちには皇太子にお見せするような娘はいない」
と遠慮して連れて行かない中、小和田氏だけが長女の雅子さんを連れてきた。
帰宅後 雅子さんは祖母江頭寿々子さんに「浩宮さまっておえらいの?」と聞いた。
これは 婚約当時 雅子さんは野心がなかったというイメージを作るのに
格好のエピソードとして紹介された。

その後
1986年11月 日英協会のパーティ
パーティでは浩宮さまと2人きりになる最後まで雅子さんだけが残っていた。
1986年12月30日 東宮御所での内輪のお茶会に小和田一家が招かれる。
1987年01月 日英協会のパーティ
1987年04月 雅子さん外務省入省
1987年04月25日 高円宮邸で浩宮(当時)と歓談。雅子さんは午前1時まで帰らなかった。
※小和田優美子さんと高円宮妃久子様は知り合い
1987年10月24日 浩宮さま 賀陽氏(学友)と一緒に雅子さんを招く。
1987年12月〜1988年 昭和天皇、他皇族、宮内庁から水俣病やその他の理由で反対される。
富田宮内庁長官の説得により浩宮さまは一旦あきらめる。
→雅子さんはお后候補からはずれる。
その頃、雅子さんはマスコミとのトラブルを起こす。
→雅子さんがマスコミに好戦的な態度をとっていたのは宮内庁にNGを出され、逆切れしていた時期
雅子さんが「皇室に嫁ぐ気はありません。」ときっぱり言ったのは
候補から外されたことをかぎつけられるのが嫌だったからと言われている。
1988年07月 雅子さん在外研修で英国へ
1988年09月 オックスフォード大学に国費留学
1989年01月 昭和天皇崩御
1989年02月 皇太子となった浩宮さま「雅子さんではだめですか?」発言
1990年06月 外務省留学から帰国(修士はとれず)北米局北米二課に配属
1990年06月 秋篠宮両殿下ご成婚
1992年08月16日 東京・五番町の柳谷謙介・元外務次官宅で再会。
(手引きは母優美子さん)
1992年10月03日 宮内庁の新浜鴨場でプロポーズ 外務省がセッティング
1992年11月28日 東宮仮御所で3度目のデート
東宮家の元大膳係だった渡辺氏の書いた本によるとここまでの間に
葉山の御用邸に雅子さんが招かれて2人で中華料理を食べたことがある。
1992年12月09日 雅子さんの誕生日に御所で2人きりで食事
(皇太子のリクエストによりフォアグラのせステーキ)
1992年12月12日 東宮仮御所でOKの返事
1993年02月 外務省退職
1993年06月09日 結婚




「素顔の皇太子殿下を語る」 賀陽正憲(談)
私が雅子さまにお会いしたのは、昭和六十二年十月二十四日の夜でした。
侍従を通じてお茶会のお誘いがあったのです。
東宮御所に伺うと、お二人おそろいでした。
御所に女性一人だけを招くことはなかなかありませんから、
私は引き立て役だなとすぐに直感しました。
その時は留学や趣味のお話など、三時間ほど楽しく語らったのですが、
お二人の呼吸がぴったりなのに驚かされました。
殿下もとても積極的にお話をしていましたので、
殿下のお好きな方なのだなと思ったのです。
私はいつも日記をつけていますが、その日は遠慮して一行にとどめました。
「雙葉、ソフトボール部、六十二年御所、小和田雅子、二十四日土曜日」
それだけです。
今から考えますと、やはり直感があったのでかえって意図的に書かなかったのでしょう。
そういうお話は、ふだん私の方からは伺いません。殿下がおっしゃれば別ですが。
この時の話が、のちに虚実入り混じって報道されたものですから、
お二方はお困りになったのではないでしょうか。
この時を最後にお二人は三年間ほどお会いしていないのです。
ご婚約の報道に接して、ようやくという感じがいたしますが、
多くの人に祝福されてよかったなと思っています。
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1299273499399.jpg

「文春2006年3月」 号数不明
警視庁にも極秘で進められた
事前に知っていたのは山下東宮侍従長(外務省)と当日運転する係りの者、
そして殿下だけ外から見えないよう目隠しされた軽のワゴン車に殿下が乗り、警備車両は一切なし。
山下侍従長がマイカーでワゴン車の後ろについただけ

消えたお妃候補たち 
小田桐誠 1993年8月25日初版 宝島社
美智子様は雅子さんに難色を示していた。雅子さんのことを、
「気丈な性格、論理的な思考の持ち主であり、皇太子は雅子さんにひきずられてしまうのではないか?
そして将来周囲と摩擦が起きるのではないか」と懸念しておられた。
また、三笠宮様は皇族を代表する形で不快感を示していた

美智子さまから雅子さまへ プリンセスへの道 
河原敏明 1993年6月9日 ネスコ 
皇太子さま(当時浩宮)が富田宮内庁長官から雅子さまへの思いを断ち切るように説得されて
いったんはあきらめた。
… 
豊氏は、三十七年興銀の大阪支店長から専務としてチッソに入社し、三十九年に社長となった。
直接の加害者ではないが、会社の廃液を水俣湾に流したことが原因であることを強く否定し、
それが敗れてからも 被害者への補償問題に厳しく対処するなど、
会社再建との狭間で辣腕をふるった人物である。
のちにこのことを知った雅子さまは、「おじいちゃんが悪くいわれた」と嘆いたという。 
雅子さまのキャリア・ウーマン宣言とチッソ問題とで、雅子さまお妃説はマスコミからほぼ完全に消えた。
雅子さまに米国時代、ボーイフレンドがいたとの情報が、水面下でささやかれたのもこのころである。

フォーカス1992年1月3日号
「皇室の最重要課題」32歳を迎える皇太子のお妃選び
最近、小和田さんが、“皇太子さまご自身、あるいは皇后さまから直接、お言葉をいただいたら……”
と漏らしたという話が親戚筋から伝わっています」




一度はあきらめていた皇太子と雅子さんを再会させ、
皇太子の気持ちを焚きつけたのは小和田(外務省)側。
皇室からの圧力で無理矢理嫁いだというのは事実ではない。
平成になり皇太子の周りは外務省出身者の側近に代わっていた。
本当の忠臣と言える側近はいなくなっていた。
最初に皇太子に近づき、チッソで駄目出しされ、皇太子も諦めたが
その後 現れるお后候補を外務省が潰し、侍従や職員を外務省から出して、周りを固めた。
再会をお膳立てして、皇太子も34歳だし、最終的にOKになった。
最初の宮内庁NOの時と、大分人事は変わっていた。


拾い物2
U氏
小和田優美子さんが「家には皇室から断られるような理由は無い!」と怒った。
優美子さんは「どうして雅子さんを拒否したのかその理由を教えて欲しい!」と宮内庁に乗り込んだ
一旦、諦めた皇太子と陰で娘の雅子さんと引き合わせる段取りを外務省の職員を利用し、
お膳立てをして結婚の運びに持って行った。
雅子さんが肩身のせまい思いをしないように、紀子様が同和だという噂をでっちあげ創価に流させた。
その後、外務省と創価あげての運動により見事に皇室入りに成功。

小和田雅子さんを皇太子妃に推したのは、柳谷謙介・元外務省事務次官、
中川融・元国連大使、領之部量三・元外務省事務次官(東宮職参与)、
山下和夫・元アルゼンチン大使(東宮侍従長)、団藤重光・元最高裁判 事(東宮職参与)らである。
団藤を除けば、外務省人脈

密会の際の運転手は柳井氏(外務省員)小和田優美子さんのいとこのご主人でもある。
皇太子は小和田家にストーカーされたと言っても過言ではない。
上流階級の方はスマートに否という意思を示した。
小和田家サイドでは、いまだに仕方なく皇室入りしたと言っているようであるが
いやならなぜ何度も会ったのか?
何度も会う機会を設けていたのは宮内庁ではなく、外務省−恒氏ルートである。






小和田恒氏発言
「ウチの娘は、皇太子妃候補と言われているが、正式にお話(要請)はされていない。」
(正式に話があれば考えてもいい)
一旦辞退したと見せかけ、宮内庁が他の話(Kさん)を進めようとすると
「断ったわけではない」
(いまさらよそへはやれない…過去の男性関係がマスコミに明らかになってしまっていた)
「じきじきに両陛下にお出ましいただきたい」
(貰いにこいということ…乞われて皇室入りしたと世間に表明したい)
そちらからお願いに来てくれと言っているようなもので、天皇、宮内庁関係者にショックを与えた。
その辺りから、天皇家と小和田家に溝が生まれた。

雅子さん発言
「NOではないの。殿下のお気持ちが知りたいの」 影では「ホントは大嫌い!」

小和田家はそれ以来ずっと両陛下に筋違いな不満を抱いている。
両陛下は小和田家のそんな態度に疑念を抱かれたが、藤森氏と皇太子が雅子さんに固執し、
お妃教育と生活の中で皇族の自覚を伝えると強く主張したため、ご成婚となった。
だが、雅子さんを導くことはできず、現在に至る。



T氏
小和田が断られても抗議し、さらに外務省に手を回し、何回も皇太子と会わせる機会を作り、
最後には皇太子を引きずり出し、雅子の待つマンションで密会させた

外務省でも、マサコさんの男性関係に関しては 絶対口を閉ざすようにとのお触れがまわっていた。
その結婚自体が国家機関を総動員した根回しの結果である。



テーミス2005年7月号
「外務官僚を支配する外交官夫人の会」
小和田恒氏は外務省でも指折りの野心家。柳井氏を次官にするための根回しに奔走し、
その義兄弟に当たる柳谷氏に働きかけ、殿下と雅子氏との縁を取り持ってもらったことは省内では有名だ。
もちろん、雅子氏の入省にあたっては、恒氏があの手この手で後押ししている。
昨年、皇太子の人格否定発言が物議を醸したが、
問題の発言内容についてのサゼッションを行ったのも恒氏だったと言われている。」



M氏
何故小和田優美子さんは「何故うちの雅子ではいけないの?」と詰め寄ったのか。
何故小和田恒氏は「紀子の所は挨拶に行ったのにこちらには来ないのか」と激怒したのか。
いつから、皇太子妃は皇太子のストーカーに負け
囚われの身であるとまことしやかに囁かれるようになったのか。


創価学会員は平成3年から4年くらいには雅子さんが皇室にはいるべき!と触れ回っていた。
周到に企図された皇室乗っ取り計画
マスコミはすべて知っていた
だが、これを逃せば皇太子は結婚できないという虞があり、すでに乗りかかった船で誰も批判できなかった。



永久保存版皇太子さま雅子様御成婚記念特別号
昨年(成婚の一年前)の8月、お二人を自宅で5年ぶりに再会させ、
10月の鴨場デートも橋渡しをした「愛のキューピッド」柳谷謙介さん。(中略)
お二人の再会については「ささやかなお手伝いをしただけ、私は歯車のひとつ」 を強調する柳谷さん。
エレナ王女のレセプションの招待状に雅子さんの名前を「手書き」で書いたのも柳谷さん。


女性セブン2007年1月18・25日号
小和田家で約25年間、家政婦を務めた淡島よしこさん(仮名・70歳)の証言。
世の中のイメージではパリッとしたキャリアウーマンみたいにいわれてましたけど、
小さな女の子みたいに怖がりなところがおありなんだな、ってそう思いました。
皇太子さまと初めてお会いになった、スペイン王女来日のパーティーの時もそうでした。
あの日(86年10月18日)、優美子さんが当日になって“マーちゃんも行く?”と誘われて
出席することになったんですが、もし何日か前にパーティーのことを話されていたら、
雅子さまはたぶん、緊張して“行かない”といわれたと思うんです。
あれこれ考えさせないでパーティーへ誘ったような気がします。




文春記事(婚約当時)
娘が決断した日 小和田恒・小和田優美子
--雅子さんが殿下のお申し出を受けられると決断された時、
なんらかの形でお二人にも告げられたと思いますが。

小和田恒 
それまでの親子の話し合いの中で雰囲気的なものとしては感じとっておりましたが、
具体的には、雅子が「自分で殿下に直接お返事するつもり」だという形で私どもに申しました。
優美子夫人 
「どういう風に申し上げるの?」と訊ねましたら、「それは秘密」と。
ニコニコしながら「それは秘密」と申しましたから、
これはお受けするという返事をしたいという意味だと分かりました。

--外務省に入って着実に仕事を身につけられていた雅子さんにとっては、
殿下とのご婚約は当初は想像外のことだったと思います。
それが次第に殿下に対してお気持ちが傾いていかれるのが、お二人の目にも分かりましたか。

優美子夫人 
はい。初めのうちは想像もできない話でしたが、それが変わっていくきっかけになったのは、
やはり殿下の雅子に対するお気持ちだったと思います。
それがなければお受けするという決心はつかなかったかもしれません。
私たちも殿下がこれほどまでに思ってくださるならば、と安心しありがたく思っております。

--殿下からは電話でのラブ・コールが頻繁にあったと言いますね。

小和田恒 
電話をいただきましたのはほんとうでございます。
ただこの電話の件については、電話で殿下が雅子に熱意を伝えられ、
それが気の進まなかった雅子の心を動かしたというようなお話になっているようですが、
それは若干違っていると思います。
むしろ電話でいろいろお話するようになったのは、
ある程度状況が見える形になってからだと、私は思います。




1993年4月22日、内閣委員会での質問
「七年前にお妃候補として小和田雅子さんのお名前が世に出た。以来、私は皇太子妃としては、
この人以外に優れた方はいないのではないかと確信をいたしておりました。」(福田康夫談)

VIEWS 1994年11月号
皇太子は雅子妃との結婚について、思い悩んでいた。結婚をのぞんでいたのは、むしろ雅子妃の父、
当時外務省事務次官だった小和田恒氏ではなかったか。
二年まえの1992年秋、全国民がお妃選びに注目しているまっただなかで、
天皇と小和田家のあいだを行き来し、メッセンジャーをつとめたある福祉団体役員の証言
(※国際協力事業団総裁の柳谷謙介氏(元事務次官))によれば、
彼が小和田氏に会ったとき、「陛下が皇太子殿下のご結婚を気にしている」 と伝えると、
小和国氏は顔を曇らせ、うつむき加減になって、こう漏らしたという。
「殿下は帝王学に徹しすぎますよ。女は、男から言ってきてくれるのを待つしかないんです。
雅子が思い悩んでいるのを、みていられない」
皇太子自身がはっきりとプロポーズをすれば、小和田雅子はそれを受けいれる用意がある、
とこの人物は受けとめた。

FOCUS1992年1月3日号
最近、小和田さんが、”皇太子さまご自身、あるいは皇后さまから直接、
お言葉をいただいたら”と洩らしたという話が、親戚筋から伝わっています。(略)
「小和田さんには、宮内庁は正式に打診すらしていない」(別の皇室記者)

FLASH1993年1月26日号
1992年秋に、柳谷謙介氏が「天皇陛下と小和田家のあいだ」を行き来した
柳谷謙介氏が天皇陛下に会った時に、陛下から「小和田雅子さんという方は、どういう方か。
皇太子の気持ちは、どうも小和田雅子さんらしい。
外務省次官の娘さんであれば、こちらとしても結構な話だと思うが。」と聞く
柳谷謙介氏は、この時、雅子さんが本命であることを確信
陛下にあった一ヶ月後、柳谷謙介氏が小和田恒氏に会い
「陛下が皇太子殿下のご結婚を気にしている」と伝える
小和田恒氏、顔を曇らせ
「殿下は帝王学に徹しすぎますよ。女は、男から言ってきてくれるのを待つしかないんです。
雅子が思い悩んでいるのを、見ていられない」と漏らす
柳谷謙介氏は、皇太子がはっきりとプロポーズをすれば、雅子さんはそれを受けいれると確信
その上で小和田恒氏と会ったのだが、その直前、小和田氏本人が直接、天皇陛下と会い、
ふたりきりで結婚について話し合う機会をもったと彼は語る。
「表向きは外務省次官が世界情勢の激変について、ご進講するということでした。
しかし、中身はまったくちがう。
皇太子殿下と雅子さんの結婚話が、二時間以上も交わされたときいています」


1992年8月16日(日)、皇太子殿下・小和田雅子さん、
東京・五番町の柳谷謙介・元外務次官宅で5年ぶりの再会デート
10月2日、陛下と小和田恒氏、ご進講のかたちで話し合い
10月3日(土)、皇太子殿下・雅子さん、宮内庁新浜鴨場(柳谷謙介同席)で極秘デート、プロポーズ
10月20日ごろ、小和田家から断りの返事
11月6日、天皇・皇后両陛下が赤坂御所で父恒氏と会談
11月上旬、柳谷謙介氏、雅子さんを再説得
11月28日、一旦プロポーズを断った雅子さん、東宮仮御所を訪問
12月12日、雅子さん、ふたたび東宮仮御所訪問、プロポーズ受諾の返事
12月19日、皇太子殿下・雅子さんデート
12月25日、雅子さん、初めて両陛下と引き合わされる。深夜0時の遅くまで仮御所滞在
1993年1月6日、マスコミが一斉に小和田雅子皇太子妃内定と報じる


陛下の方の御日程
1992年9月3日 天皇陛下、拝謁(赴任大使(経済協力開発機構日本政府代表部,オランダ
(10月2日、陛下と小和田恒氏、ご進講のかたちで話し合い)
10月3〜7日 天皇皇后両陛下、山形県及び宮城県行幸啓
(10月3日(土)、皇太子殿下・雅子さん、宮内庁新浜鴨場(柳谷謙介同席)で極秘デート、プロポーズ)
10月4日 「べにばな国体」で発炎筒を手にした男が乱入する事件発生
10月23〜28日 天皇皇后両陛下、中華人民共和国ご訪問
11月6日 天皇陛下、ご執務(宮殿)
(11月6日、天皇・皇后両陛下が赤坂御所で父恒氏と会談)
(11月28日、一旦プロポーズを断ったはずの雅子さん、東宮仮御所を訪問)
(12月12日、雅子さん、ふたたび東宮仮御所訪問、プロポーズ受諾の返事)
12月25日 天皇陛下、ご執務(宮殿)
(12月25日、雅子さん、初めて両陛下と引き合わされる。深夜0時の遅くまで仮御所滞在)


週刊ポスト1993年1月22日号
郁沃会(天皇の学習院初等科時代以来のご学友グループ)の関係者がこう語る。
「小和田雅子さんは、昨年初めの段階で、既に天皇家内では内定していた。
まず天皇が、皇太子に、小和田さんで気持ちは変わらない、という意志を確認された上で、
郁沃会のメンバーのひとりに、”小和田さんに決めたい”と打ち明けられた。
これを受けて、日程、警備の問題が検討され始めた。
しかし、皇室内では、小和田さんには反対という意見も多かった。
宮内庁が候補の女性を説得する仲介を依頼した人物に対し、侍従や女官といった
”オク”とよばれる宮中の特別職の人間から”小和田さんには絶対させないので、
よろしく”と横ヤリが入ったこともあったそうです」

朝日新聞朝刊 1993年1月8日
Xマスの夜 天皇ご夫妻交え歓談
皇太子さまと婚約が内定した小和田雅子さんは、
プロポーズを承諾した後の昨年十二月二十五日のクリスマスの夜、
皇太子さまの住まいの東宮仮御所を訪ねた。
天皇ご夫妻に挨拶した後、皇太子さまと二人で深夜まで過ごしたという。
天皇ご夫妻はこの日、夕方から仮御所を訪ねて、皇太子さまと三人で夕食を共にした。
雅子さんはこの後の午後七時半ごろ、仮御所を一人で訪れた。四人で二時間ほど歓談。
ご夫妻が赤坂御所に帰られた後も、二人は二十六日午前零時近くまでくつろいだ時間を過ごしたという。

週刊文春1993年1月21日号
<特別寄稿 皇太子妃決定! 日本はとってもツイている!>
中村紘子
「小和田さんに愛人がいて奥さんにバレた」
同じくホロ酔い気分の私は、あのお名前どおりに優美な小和田夫人が
闊達な静謐さとでも言った雰囲気を持つ希有の紳士小和田さんの銀髪に、
爪を立てて怒り狂う図なるものを想像しようと試みたが、
どうしてもうまくいかなかったのをよく覚えている。
真相は翌朝たちまち明らかになった。開いた朝刊各紙の週刊誌の広告には、
「小和田雅子さん、皇太子妃に」という活字が大きく躍っていたのである。

週刊文春 1993年4月29日号
小和田家には電話や手紙がずいぶん来るようですね。“お妃を辞退するべきだ”とか、
“記者会見での言葉遣いがけしからん”とか・・・。例えば、お二人揃っての会見で、皇太子さまを”
人間ができている”とおっしゃった言葉への非難まであったようです。

朝日新聞 1993年4月12日
2人の時間19回 皇室会議後
小和田雅子さんは、皇族会議からこの三カ月間で皇太子さまと
二人だけのデートは十九回、家族をまじえると二十二回も会っている。
「婚約が正式に調わないうちはいかがか」(宮内庁)と、一歩も外には出なかったが、
赤坂御用地内でテニスもコンサートもお花見もキャッチボールもした。
出会いから皇室会議まで「六年間で八回」だった二人の時間は、「四日に一度」に変わった。
会議後、初めてのデートでは、雅子さんの帰宅予定時刻が宮内庁から発表されたが、
話がはずみ二時間以上も延びたため、その後、発表はされなくなった。


  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「全81枚の雅子さまの写真」が宮内記者会やJMPAに提供されたのが
皇室会議前日の1993年1月18日。
生後5日目ごろの産着姿から2歳時のパスポート写真、
外務省時代の職場旅行まで、説明文つき。
さらに直筆の署名や両親あてのクリスマスカードも。
「宮内庁にしてはサービスがいいなあ」雑誌関係者から驚きが漏れた。
「驚いた」のは合計81枚という写真の数。大方の予想は「多くて、2、30枚」
週刊ポスト2月5日号はその写真を全て掲載。
「宮内庁がいい写真ばかりを提供してマスコミを操作しようとした」と読める編集意図が
宮内庁から猛反発を受ける。
「写真を提供したのも、説明文をつけたのも小和田家だ。事実誤認も甚だしい」との抗議に、
ポストは3月に「訂正とお詫び」を掲載。

婚約内定発表前後の勤務状況
文藝春秋1993年3月号
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1227940550125.jpg
一週間ほど休みまして、一度出勤しましたけれど、
またぶり返して結局、何週間かお休みすることになりました。
その頃はたまたまアメリカ大統領選挙の時期で、仕事の量もそんなに多くなかったんです。

日本経済新聞(夕刊)1993年1月7日
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1243129059355.jpg
雅子さんは4日の仕事始めに外務省に出勤して以来、自宅の中で過ごしたまま。
婚約内定の報が伝わった6日夜以降も、報道陣の前に姿を出していない。
コメントを取るために自宅に入った外務省職員によると、
雅子さんはかぜの具合もよくなってきているようで、
せきこむこともなく、体調も回復してきているよう。

FLASH1993年1月26日号
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1229820096413.jpg
雅子さんは、12月30日から新年2日まで福島県猪苗代町の箕輪スキー場に家族旅行に出かけている。
(1月4日仕事始め、1月5日以降かぜ欠勤)

朝日新聞1993年1月19日
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1249655555464.jpg
雅子さんは今月10日前後から皇室会議が予定された19日の直前まで、妹の礼子さん(26)のいる
ベトナム・ハノイに「独身最後」の旅行をする予定だった。
しかし、「婚約内定」の報道で断念し、礼子さんが急きょ帰国した。

雅子さん辞表提出
皇太子妃に内定している外務省北米二課勤務の小和田雅子さん(29)は
18日夕、同省人事課長に辞職願を提出した。
辞職承認の辞令は19日午前、皇室会議に先立って、19日付で出される予定。


1992年12月30日〜1993年1月2日 家族旅行
1993年1月4日  仕事始め 出勤
   1月5日〜 風邪と言う理由で欠勤
   1月6日  マスコミ内定報道
   1月15日  外務省職員が小和田家に訪れて引き継ぎ
   1月18日  辞表提出
   1月19日  皇室会議


※1月18日に辞表提出。外務省にいるうちに独身最後の旅行に行こうとしていた。




雅子さまクリスマスカード
お父様、お母様
一足遅れのメリークリスマスですが・・・
今年一年は本当に随分と御心配をおかけしました。
お陰様で私も十分に考えた結果、新しい人生の一歩を踏み出す決心をすることができました。
こうして皆でクリスマスや年の暮れをお祝いできるのもこれで最後かもしれないけれど、
今思うことは、こんなに温かい家庭でずっと幸せに育てて頂いて本当に有難うということです。
これから暫くまた大変になると思いますが、どうぞ宜しくね。
前夜に一杯の幸せをお祈りして・・・シンシアリー雅子


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