噂の真相1993年3月号

噂の真相1993年3月号
マスコミが絶対書けない皇太子妃・小和田雅子逆転決定に見る“現代の生贄”の検証

■小和田雅子をめぐる噂の数々
…さらに皇室記者たちが「小和田雅子の可能性なし」と断定したのには、もっと決定的な理由があった。
それはズバリ、彼女の男性関係にまつわる噂だったという。
妃候補としてその名前がはじめて浮上した6年前から、
小和田雅子という女性には常に男性の噂がつきまとってきた。
実は妃内定直後の1月11日、アメリカの日刊紙「シカゴ・サン・タイムズ」が
“小和田雅子さんの元ボーイフレンドが彼女のトップレス写真を持っている”
といった衝撃的な内容の記事を掲載する騒ぎが起きている。
「日本のマスコミはこの記事の存在を知りながら一切黙殺していたようですね。
それに同紙もそのわずか4日後に記事を取消す続報を掲載して、
あれはデマだったという結論にいつしか落ち着いてしまった」(大手紙・外信部記者)
しかし、地元では依然として噂はくすぶり続けているという。というのも、
告白したデビッド・カオなる男性は確かに実在しており、
最低でも2回はハーバード留学中の彼女と同じパーティーに出席していたことが
確認されているというのだ。在米特派員の一人もこう首をひねる。
「『シカゴ−』紙はいい加減な三流ゴシップ紙ではないですからね。
デマだとしたら、どうしてあんな記事を載せたのか。
その後の記事取消しもあまりに対応が早すぎるし、不自然な点は多い」
真偽はさておき、この「シカゴ−」紙の記事と同じような
ハーバード大学留学中の男性関係についての噂はこれまでもかなり頻繁に囁かれている。
曰く「白人男性とつきあっていた」「日本人留学生と半同棲生活を送っていた」等々。
妃候補として彼女の名前がはじめて浮上した87年には、宮内庁と一部マスコミに、
やはり彼女が白人男性と交際していたことを英文で綴った怪文書がアメリカから送りつけられている。

宮内庁が88年に突如として小和田雅子を妃候補から除外したのも、
公にされている母方の祖父が公害タレ流し企業のチッソ社長をつとめていたから、
というような理由ではなく、このハーバード時代の交友関係が原因だったとの見方もある。
「妃候補の家系は皇太子に引き合わせる前に必ず調べますからね。
チッソを問題にするなら、最初から会わせていませんよ。
時期的に見ても、小和田さんをはずしたのは
例の白人男性との交友が書かれた怪文書がキッカケになっているのは確実です。
一説には当時の宮内庁長官だった富田朝彦が内調室長時代のパイプを使って
雅子さんハーバード時代を徹底的に洗い直したという話もある」(宮内庁担当記者)
いや、ハーバード時代だけではない。外務省の研修でオックスフォード大学に留学中の際には、
イギリス人男性との交際が噂になったこともあり、あるフリーカメラマンがツーショットを撮影して、
女性週刊誌に持ち込んだもののボツになった、とのまことしやかな話も漏れ伝わっている。
また、91年の春から92年のはじめにかけては外務省内で上司と不倫をしている、との噂がかけめぐった。
この時、相手と名指しされたのは彼女の所属する北米二課のM課長補佐。
「たしかに小和田さんとMさんは例の半導体交渉でコンビを組んでいた関係で、
二人きりで海外出張する機会も多かった。外務省は伝統的に不倫の多い役所ですから、
噂になるのもわかりますけど、でも実際はどうですかねえ」(外務省関係者)
さらに上司との不倫ではS北米二課長との関係を指摘する怪文書が出回るなど、
とにかくこのテの話は数えあげればキリがないほど流れてきたのである。

■結婚を誓い合った恋人がいた!?
しかし、こうした無責任なデマがとびかう中で、
小和田雅子を取材し続けてきた記者たちが唯一「本物」と口を揃える相手がいる。
その相手とは東大法学部から彼女と同期で外務省に入省している男性。
もちろん独身である。ここでは仮にT氏としておこう。
「T君のことは我々の間でも有名でしたよ。
この何年かというもの、小和田さんの側には常に彼の姿がありましたからね。
かなり真面目なつきあいという印象でしたし、我々が小和田さんの可能性が薄いと判断したのも、
T君の存在が大きかったため」(女性週刊誌記者)
たしかに二人は東大時代からかなり親しくつきあっていたようだ。
小和田雅子は外交官試験に合格したばかりの86年10月、
裏磐梯へ男5人女5人で一泊二日のグループ旅行に出かけているが、T氏もこれに参加している。
また、妃候補としてマスコミに追いかけ回されていた入省直後の頃、
通勤電車の中でT氏が彼女をかばうように隣りにいる姿も何度か目撃されている。
二人の親密さを裏づけるようにこの間、週刊誌等に掲載された彼女のプライべート写真の中にも、
隣にT氏がピッタリと寄り添っている写真が何点か存在する。
そして88年7月、彼女は外務省の在外研修でオックスフォード大学に留学するのだが、
実はT氏も彼女と同じオックスフォードを希望、一緒に渡英しているのである。
ある外務省関係者は絶対オフレコを条件にこう話す。
「二人の仲が本格化したのはこのオックスフォード時代と聞いています。
ちょうど彼女が『否定会見』を開いて、お妃候補からはずれたのもこの時期。
おそらくこの頃、彼女はT君との結婚を真剣に考えていたと思いますよ」

これが事実なら、小和田雅子には将来を誓い合ったレッキとした恋人がいたということになる。
ここはやはり、当のT氏に真相を聞いてみるしかないだろう。
現在、外務省経済局につとめるT氏は、しかし、本誌が
「雅子さんとあなたが結婚を前提におつきあいされていたとの情報があるんですが」と尋ねると、
まるでその質問を予想していたかのように、「その話ならお話するつもりはありません」とハネつけた。
だが、T氏に直接取材したことのある民放記者はこんな証言をする。
「一度だけT君に『雅子さんと結婚するつもりなのか』と詰めよったことがあるんです。
ところがその時、彼はニコニコ笑っているだけでまったく否定しなかった」
実をいうと、小和田雅子とT氏はまさに宮内庁が再び彼女を検討しはじめた昨年、
正式に結婚しようとしていたのではないかとの見方もある。外務省の同僚の一人はこう語る。
「省内でも昨年の6月頃にそんな話が流れていましたね。
結婚については当初、雅子さん父親・恒さんが反対だったことに加えて、
留学を終えてから雅子さんは本省勤務、T君は英国大使館勤務と離れていたこともあり、
立ち消えになっていたらしい。ところがT君が昨年5月に本省に戻ってきたことで、
再び話が進みはじめ、恒さんも二人のことを許したようだと聞いていたんですが」
その矢先に強引に割込んできたのが、「皇太子妃になってほしい」との宮内庁からの要請だったわけだ。
報道によると、柳谷謙介元外務省次官が宮内庁のメッセンジャーとして
はじめて小和田家にアプローチをこころみたのは昨年6月。
それから8月16日の第1回デートにこぎつけるまで2カ月もの時間を要したのも、
T氏の問題があったからではないか、と推測される。
「とりあえず、恒さんがT氏に結婚話を一旦、白紙に戻すよう説得したと聞いている。
恒さんとしては皇太子妃の要請があった以上、他の結婚話を進めるわけにはいかなかったんでしょう」
(前出・外務省関係者)

しかし、もっと決定的だったのは、天皇訪中とのカラミではないかといわれる。
宮内庁から小和田家に働きかけがあった昨年6〜8月といえば、まさに天皇訪中をめぐって
自民党内部でも賛否両論が真っ二つにわれていた時期でもある。
そして訪中を最も積極的に進めていたのが外務省だったことはいうまでもない。
「外務省としては中国政府に約束手形を切っている以上、どうしても訪中を実現させる必要があった。
ところが、“お言葉”問題などをめぐって右派の抵抗が思いのほか強くかなり難航していたんです。
そんな状況で外務省が頼みの綱にしていたのは、天皇自身の意向だったんですね。
もちろん決定権が天皇にあるわけではありませんが、宮内庁に“天皇も行きたがっている”という
ムードをちらつかせてもらえば、少なくとも右派を黙らす材料にはなりますから」(外務省詰記者)
そして、この訪中問題の外務省側の責任者として天皇や宮内庁との折衝にあたっていたのが、
他ならぬ小和田次官だった。
「小和田さんは去年の7〜8月にかけて訪中問題で宮内庁の藤森昭一長官、
そして天皇陛下にも10回近く会っている。
これはちょうど小和田さんがデートを応諾した時期とピッタリ重なるんですね」(外務省関係者)
つまり、この時天皇及び長官から小和田次官になにがしかの要請があったのではないか、と推測されるのだ。
「小和田さんも政治的野心の強い人ですからね。当初は娘のことを考えてかなり抵抗していたらしいですが、
途中から方針転換したんじゃないですか。
断った時の政治的リアクションを考えれば、最後はやはり受けざるをえないでしょう」(宮内庁関係者)

それにしても、皇太子=宮内庁が一度は候補者リストからはずしていた小和田雅子を再びもち出し、
ここまで強引にコトを進めていった理由はいったい何なのか―。
たしかに小和田雅子はスター性、大衆への訴求力という意味では
新しい皇室イメージのお妃としての条件は十分に満たしている。
しかしかつて宮内庁がクレームをつけた様々な問題は決してクリアされているわけではない。
例えばチッソの問題にしても、彼女の祖父・江頭豊がチッソの社長に就任したのは
水俣病の問題が起きた後であり、責任はないというのが宮内庁の説明。
しかし、その後の補償交渉で強硬姿勢をとり、
患者との数々のトラブルを引き起こした責任者は他ならぬ彼女の祖父その人なのだ。
また、前述した男性問題もある。日本のマスコミはおさえることができたとしても、
もし、海外のマスコミが彼女の過去の男性関係をほじくり返したたらどうするつもりなのか。
「シカゴ・サン・タイムズ」のようなケースが今後、頻発する可能性がないわけではない。
他にも母方の親戚に日共系の歴史学者・江口朴郎がいること、女系の一族であることなど、
従来の保守的で差別的な皇室の体質からすれば、考えられないような相手を妃に選んだことも事実なのだ。

しかし、これはマスコミのいうような「皇太子さまの一途な想いが頭の固い宮内庁を動かした」結果などではない。
皇太子が一途に小和田雅子を想い続けてきたというのは、マスコミと宮内庁が創作した完全な“嘘”である。
それが証拠に、皇太子は小和田雅子と会った後も何人もの女性に触手をのばしている。
例えば89年、当時、学習院大学の文学部長秘書をしていた藤村南欧子という女性を見染め、
足しげく文学部長室に通いつめたこともあった。また88年には天皇の学友の娘である
明石牧子という女性と御所で見合いをし、ゴールイン寸前まで交際が深まったこともあった。
しかし、いずれも相手に拒否されたり、他の問題があったりでまとまらなかったのである。
つまり、小和田雅子の再浮上は「他にタマがなくなった」結果でもあったのだ。
「結局、最終的に残った選択肢は小和田さんと久邇晃子さんしかなかったんです。
久邇さんは話があれば、うけるつもりだったらしいんですが、
何せ旧皇族出身で天皇家とは縁戚関係にあたり、時代に逆行してしまう。
大衆への訴求力も期待できないし、天皇制の衰退を招きかねないと判断された。
これで駄目ならほんとうに皇太子は結婚できないかもしれないというくらい追いつめられていましたから、
宮内庁も小和田さんで強行突破するしかないと最終的に考えたんじゃないですか」(宮内庁担当記者)
ようするに、天皇家存亡の危機を救うために小和田雅子は“生贄”にされた、それが真相と見る他はない。
マスコミはこの新しい夫婦の誕生を「国際化時代に相応しい」「皇室に新風を吹き込む」と手放しで礼賛し、
そこに新しい時代の幕開けを重ねあわそうとしている。



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