「プリンセス・マサコ」ベン・ヒルズ 政府・宮内庁は抗議

フライデー2006年8月18日号 ベン氏インタビュー記事
「結婚当初、皇太子夫妻に子供ができないことを案じた天皇と皇后が毎月、雅子妃に『生理があったか』と聞くなど、
皇居の住人は彼女に屈辱的なプレッシャーを与え続けました。
雅子妃はそれに抗えずに不妊治療に取り組むことを決めましたが、
不妊対策のホルモン治療は肉体的にも精神的にも非常に辛いものです。
これが彼女の体調不良の原因のひとつになったと、私は考えています」
私は愛子様が体外受精で誕生したことを確信している。

結婚直後に子供ができなかったにもかかわらず、妊娠の可能性が低くなる高齢になってから、
愛子内親王が誕生したため疑問を持っていました。複数の専門医も同様の意見です。
実際、皇太子の精子と雅子妃の卵子を受精させる試みが2−3回行われたという、具体的な情報も得ています。

04年5月の<人格否定発言>の直後、皇太子は退位の可能性について雅子妃と話し合いました。
しかし、最終的にはそれが不可能だという結論に達したのです。
当時は皇室典範改正が議論され、愛子内親王が天皇に即位する可能性がありました。
自分たちが退位したら愛子内親王の天皇教育はどうなるのか、
愛する娘を手放さなければならないのではないか、皇太子夫妻はそう危惧したのです。

また、小和田家は<皇太子妃の実家>という立場を非常に誇りに思っています。
退位した場合、その原因を作った雅子妃とその実家に非難が集中する。
その影響を考えれば退位などできないというのが夫婦の考えでした

宮内庁は雅子妃を海外に出さずに皇居内に<軟禁>し、『適応障害』という本来の病名とは異なる発表をしました。
そして皇室はそれを黙認しています。
これらの時代錯誤な態度が海外での日本のイメージを悪くしていることに、日本人は気付くべきでしょう。
特に女系天皇や、皇族が外国人と結婚することを認めない制度は、
日本人が(女性や外国人に対する)差別主義者であるという認識を強めています。
私の著作が、皇室について議論する契機になれば良いと思っています。

週刊朝日2006年11月17日号
元東京特派員ベン・ヒルズ本抜粋と作者インタビュー
皇籍離脱→「人格否定発言」のあと雅子妃と皇太子が考えるも、「小和田家の不面目になる」ことと、
「当時後継者とみられていた愛子内親王を連れて行けない」ため断念。
愛子さま出生の秘密は「人工授精。まわりは皆怒って否定するが」。
堤医師が去った後不妊治療は行われず。
宮内庁の画策した「離婚」 宮内庁は雅子妃は皇后に相応しくない、
皇太子は再婚すれば男児を得られるかもと離婚を検討。
皇室の人々も宮内庁も、この結婚は「間違いだった」と認識。
しかしただひとり皇太子だけが雅子妃を愛し支えようとしている。
彼の愛情が深いため、この問題を両者で話し合ってはいない。
また、皇室離脱すると、東宮を離れ東京の片隅かボストン、オックスフォードなどで一般市民として暮らす。
雅子妃の結婚「古代から続く閉鎖的な家に嫁ぐことはしたくなかったが、家族、国に対する義務感もあって応じた」
雅子妃の関係者は当初から危惧。
友人はみな否定的で、「ショックのあまり」一人は披露宴出席せず。
両陛下は招待者全員の資料に目を通し、100人以上と言葉を交わす一方、
雅子妃は「興味のある分野の人」とは話が弾むが、
相手によっては「何を話していいかわからず、戸惑った表情を見せることも」。
2002年にはサッカーの日本代表選手に愛子さまのユニホーム姿写真を見せて話が弾んだ)
雅子妃は「見つめられるのが負担」(宮内庁東宮職)で、
雅子妃にとっては「もっともハードルの高い公務」(宮内庁記者)が園遊会。

週刊朝日2006年11月24日号
雅子さま国民に明かされていない本当のご状態
元東京特派員が書いた「プリンセス・マサコ」の衝撃
ベン・ヒルズ氏へのインタビュー第二段
雅子さまが表にでなくなったころ
「午前2時か3時まで経済書を読んだり、一人で楽器を弾いたりしてすごしていた。
話す気力も失い、時にはドアの隙間からメモを差し出して職員たちと意思疎通していた」
同(2005年ごろ)では、同級生との陽気な茶会の翌日は壁に寄りかかって一人では立っていられない様子
情報源は?の問いにベン「皇太子の友人、皇太子夫妻に近い日本人ジャーナリスト
詳しくは明かせない情報源もある。東宮職員の関係者も当然含まれている」
ベン「マサコさまの状態は適応障害とはいえない」
アダム・ロバート卿(オックスフォード時代の雅子さまの指導教官)
「退屈と言うべきではないだろうが孤独な様子。女官たちも疲れ果てていた。
雅子さまは彼女たちのおせっかいに我慢がならないようだった。
結婚を決めたのはご自身である
ベン「病気の原因は結婚。宮内庁が雅子さまにいくばくかの基本的自由を認めることをしないがために
彼女の人生は台無しになっている」
世界の王室と比較して日本の皇室の閉鎖性を指摘、それをさせているのは宮内庁

週刊文春2006年12月14日号
「12月1日午後に行われた定例会見でも、野村一成東宮大夫は週刊朝日の問題について、
かなり熱く『大変遺憾だ』などと話していましたよ」(前出・宮内庁担当記者)だが、
(注:ペン・ヒルズ本で週刊朝日が<皇太子夫妻が皇籍離脱も考えていた>と報道した事)
ベンヒルズの本は「皇室の名誉を傷つけるもの」として、千代田側のほうが深刻に受け止めている。
ベンヒルズの本には鎌田勇による言葉として
「皇太子はマザコン」「皇太子はゲイでも不能でもない」と書かれているが、
鎌田氏は「そんな失礼なこと言うはずない」と完全否定。
雅子さまはベンヒルズの本について知らないらしい。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「プリンセス・マサコ」

米国大使館に日米半導体交渉のためにやってきたマサコは
資料ブリーフィングをされておらず、準備不足だった。
米国側が厳しい態度で交渉にでたところ、マサコは突然涙をこぼし、
泣きながら大使館から交渉を放棄して退去してしまうという事件があった。
このため、日本の外務省は米国側に陳謝する対応を取らなければならなくなった。

ジョンソンが例に挙げたのは、以前にべつの西洋人ジャーナリストからも聞いた話だ。
それによると、ある日マサコは米大使館側との半導体交渉の席に呼び出され、
ワシントンから派遣されてきたさる交渉相手と対した。
ところが、マサコはろくに事前のすりあわせを受けていなかったため、
相手に「ギタギタにのされて」しまった。
相手への雅子の対応は、わっと泣き出し、席を立ってそのまま大使館を出てきてしまう、
というもの。そのせいで日本外務省は後にアマコスト米大使に非礼を陳謝するはめに陥った。

エリック・ジョンストン(ジャパンタイムズの現副編集長)が語ってくれたところによると、
マサコは自分に対する一切の批評(仕事の進め方、アドヴァイスもろもろ)を受け付けない性格である。
結婚の為の退省のときには、あからさまに同僚の一部は廊下で踊りだしかねない位喜んだ。
かれらはマサコが誰とも打ち解けず誰の言うことも訊かず、
高飛車で、人間味がなく、さらに無能だったからである。
そんな女がほんの駆け出しの時期に身に余る重責を担わされたのである。

ハーバードでのクラスメートだった韓国系アメリカ人 
カルロスとデビッドカオはボーイフレンド。
デビッドは何も無かったはずという話、
カルロスには母国のプエルトリコに呼んでもらって旅行をした。

マサコの婚約発表後、新潟県村上市では市をあげて盛大なお祭りをして、
今後観光客が増えるのではないかと狂喜したが、
数ヵ月後小和田家の先祖の遺骨はひそやかに掘り起こされ他の地に移されてしまった。

父恒の評判は一様に悪い。外務省の元同僚は「何を考えているか理解しにくいタイプ。
非常に野心的だが、他者に対する忍耐や温かみに欠ける」
オックスフォードのアダムロバート卿は「感情面が欠落。批判に対し手厳しい」
エリックジョンストン(ジャパンタイムズ)は
「恒のことを正真正銘のa son of a bitch(畜生・糞野郎)と呼ぶ人もいる。
非常に有能だが情がなく冷淡だ。
男の子を切望していたにかかわらず授からなかったので、マサコは彼にとって息子だった。
結婚を含めすべてのことで父親を喜ばせようとしてきた雅子は、重症のファザコンだ。」

工藤雪枝「雅子さんのことを強い性格だと言う人がいるけれど、
私にとっては「流れる水」のような人。
世界中のいろいろな場所で育った人なので真のアイデンティティが無い。
彼女は順応性はあるけれども、彼女の性格は完全な発達を見ていない。
日によって変わるし、今日穴の開いたセーターとジーンズ姿だったと思えば次の日は
モリハナエのスーツでばっちりキメテいる。彼女は一貫性がなく安定性にも欠けている。」

マサコは中学時代、読売ジャイアンツのピンチヒッターの
ハラダハルアキのおっかけをしていて、彼の写真を持ち歩き、
彼と同じ、背番号8 を自分のソフトボールの ジャージにつけていた。
二人の少女たちは、十三、四歳のころから
世田谷の多摩川氾濫原にある巨人軍の練習場へ応援に行ったものであった。
練習の後で、彼女らはその選手と一緒に喫茶店で時間を過ごし、人目を忍んで
イタリア料理店で食事をともにし、そして時には(食事の)後で、
うらぶれた 六本木の 古いグリーン・ルームのようなナイト・クラブへ飲みに行ったりもした。
「(あの頃の)手紙をとっとけばなあ」と(ハラダは)感慨深げに言う。
「相当な価値があったろうになあ。」
ハラダは 田園調布にある Dolci Mari Risa という、
(マサコの)学校からそう遠くはない 、トレンディーなケーキ屋に座り、アイス・ティーをもてあそんでいる。
60歳近いが、日に焼けた顔は今も変わらずハンサムだ。がっしりした体格に白髪混じりの硬い髪。
ピンクのストライプ・シャツにスラックスといういでたちで、腕輪のように太目の金の腕時計をしている。
彼は 1979 年にジャイアンツが九州のトレーニング・キャンプへ行った折のことを懐かしんでいた。
バレンタインデーに、(九州キャンプにいた)彼のもとへ、
恋心に揺れる16歳のマサコがチョコレートとラブレターを送ってよこしたのだ。
「たった一枚のカードとかいうんじゃなくて、二ページか三ページの手紙ですよ。
彼女が僕の野球をどんなにすごいと思っているか。僕のことがどんなに好きか。
実は・・・、ただその、いろいろなことを。」彼は頬を赤らめんばかりである。
彼は(二人の)少女たちと一緒に撮った写真も持ってはいたが、
妻に誤解されることを恐れて、マサコが結婚するまではそれらの写真を壁に貼ったりはしなかった。
「野球選手のまわりには、いつも女の子が大勢群がってきます。
率直な話、こういうことを心配する親ごさんたちもいます。
(しかしほとんどの)女の子は親には内緒なんじゃないかな。僕の友人のなかには、
(そういうおっかけの女の子と)結婚したやつが何人もいます。ファンと結婚したわけです。」
(ハラダと二人の少女の)友人関係は、十年間続いた。
折に触れて会うという感じで、時にはハラクミがボサノヴァを歌うのを
(連れだって)聞きに行ったりした。

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原久美
「雅子様の両親は幸福よりもステイタスに重きを置いて雅子様を育てた。
彼らは強烈な出世志向タイプで家の中はいつも厳格で緊張感が漂っていた。
卵の殻を割らないようにソロソロと歩かなければならないような、
そういう家庭の雰囲気だった。部屋の中は書物に溢れ、テレビもない。
彼女の両親は彼女に可能性を見出し、多大な期待をかけていた。」

母優美子は恒のモスクワ赴任が決まった時、書道の教授のポストを断って、恒について行った。
妻として恒の野心を優先させなければならなかった。

アイコの世話係の女官は、アイコが甘やかされてだめになると愚痴をこぼしている。
駄々をこねるし、プレゼントをもらうと礼儀正しく微笑んでありがとうと言う代わりに、
思ったことをはっきり言って、くれた人を傷つける、と言う。

試験管ベビーアイコの事実は、天皇の命を受けた宮内庁と日本政府により隠蔽された
プリンセス・キコが男児を産む可能性があるなら堕胎させるべき、と宮家が主張した。

天皇皇后が障害者施設へ赴くのは、幽閉から来るストレスを発散させるためである
障害者の手を強く握り、彼が苦痛で顔を歪めるシーンは日本のテレビでは放映されない。
正しい日本人は天皇制を打破して、”冤罪囚人”たる皇族を監獄から解放すべき。
日本では、天皇が中国皇帝・韓国皇帝の忠実なる使者として君臨していることは
6年間の基本教育で習う。日本では天皇制に疑問を持つ国民が7割を超えている。

ローマ法皇が天皇に会わなくなったのは、天皇はカルト宗教・神道の精神的指導者だから。
皇室を支えるために使われる費用だけでマレーシアとベトナムが買える。

皇太子学生の頃のホームスティ
宮内庁厳選だったはずのホストファミリーだが、ホストマザーの両親は大戦中に
シンガポールのチャンギ収容所に捕虜として収容され、日本軍にひどい仕打ちを受け
特に父親はその精神的ダメージから立ち直っていなかった。
当然ヒロノミヤをホストすることにも反対だった。
同じように豪の一般人の中でもまだ反日感情が激しく、
ホストファミリーには脅迫状が複数送り付けられていた。
到着直後に連れて行かれたサザンクロスホテルのブッフェで、ヒロノミヤは皿にカレーライスを大盛り。
キャンベラでの総督主催の公式晩餐会の後、ヒロノミヤは数々の著名人の前でヴァイオリンでショパンを演奏。
「ホームステイ」のはずだったが執事、世話人(毎朝着る服を準備)、
皇宮警察のボディーガードの3人が随行、その他日本大使館員、現地政府職員チーム、
複数の警備車などがついてまわる超厳重警備。
Macedon山の展望台を訪れたが濃霧で景色が見えなかった時にヒロノミヤの言った言葉は
"Kissinger's lookout"(キッシンジャーの展望)。
当時の日本における、キッシンジャーに対する反感
(彼は当時日本人をJapよわばりしていた反日派)を表す皮肉であるが、
皇族の政治的発言はタブーであり、ヒロノミヤの教育係がこれを聞いたら卒倒したであろう。
ヒロノミヤはゴルフをしたがったが、予定には無かった上に、
昭和天皇が「アメリカ的過ぎる」との理由で禁止していたスポーツなので宮内庁随行員からNGを出された。
しかしホストファミリーは遠方に釣りに行くとメディアを騙し、
滞在中の別荘の近くのゴルフコースに忍び込んでプレーを体験した。
クイーンズクリフのOzone Hotelで開かれた帰国前のお別れ夕食会の途中で
ヒロノミヤが失踪し大騒ぎになったが、実は一般のバーに忍び込んで居合わせた地元民達から
ビリヤードを習っていた。

マサコのハーバード時代のネタはSunhee Juhon-Hodgesという、
韓国系とみられる親友が大量提供。雅子が外務省で最初に配属されたのはOECD関連の部署。
ハーバードでの指導教授はJeffrey SachsはOECDの顧問だった。
Sachsに面談して雅子の「薄っぺらい」全99ページの卒論も見せてもらったが、
これは日本の政治経済界の著名人の協力を得た上で、
(当時の)日米間における日本の圧倒的な貿易黒字は二度のオイルショックが原因であり、
輸入障壁は全く関係ない、とする、日本の政治家の受け売りそのままの結論を出している。

Sachsに、彼女には父親のコネにより日本の上級官僚の協力を得たという不平等な
アドバンテージがあったのでは?と質問すると、
教授は「ハーバードは、有力者の助言や協力を求めるような優秀な学部生のためにある・・・
ハーバードでのトリックは、君が非常に優秀で野心にあふれる学生ならば、他人の助けを求める事だ。
」という当たり障りのない回答をしている。

ハーバード時代、院生だった男性(オーストラリア人で現在経済学教授)
「彼女は何か問題にぶつかると、夜中の1時とか2時というとんでもない時間に電話してきました。
私たち(彼と妻)は子供が生まれたばかりで、夜は大抵私が当番になっていたんです。」

宮内庁の役人たちは、もう1年以上も離婚という「解決策」を検討していた。
雅子は皇后になるのにふさわしくないし、離婚すれば皇太子は再婚をして男子の後継者をもうけることができる。
さらに、女系天皇を認める法改正も避けられると、宮内庁の代弁者たちは語った。

ハーバード卒業の頃、キャンパスでは米国の主要銀行、会計事務所、
金融機関などのリクルートフェアが開催された。
母親である優美子が友人に話したところによると、
雅子は高級外交官である夫の基本給よりも高額なオファーを提示されたという。
優美子は「私達(家族)はみな遊んで暮らせるかも」と冗談を言った。

オックスフォードでは最初は国際関係学のM. Phil(研究ベースの学位)コースにいたが
その後それよりも楽なM. Litt(講義ベースの学位)に変更したものの、それでも修論を仕上げられなかった。
後者は9ヶ月間講義を受け、夏の間に短い修論を書いて終了する。

オックスフォードでマサコは80年代におけるアメリカから日本への戦闘機の販売について研究していた。
そういうトピックは将来のお妃としては相応しくないので、皇室の面目を保つために
2年もかけて書き上げて来た修論を諦めた。
入内後に元アドバイザーが来日、別の当たり障りのないテーマで修論を仕上げないかと打診したものの実現せず。
国連大学でも研究室を与えられたものの研究再開のめどは立っていない。

エレナ王女のレセプション。
なぜそこに招待されたか、土壇場で手書きでリストに加えられたという説と、
旧ソ連大使でモスクワ時代の小和田家を知っていた上にナルヒトのオックスフォード留学中の
世話役の一人だった東大学閥のナカガワ・トオルという人物が便宜を図ったという説。

成婚時には街中のポスターや車内吊り広告にマサコの顔写真が掲載された。
大多数の日本男性は彼女のことを美人だと言うであろうが、
それはポップカルチャーにおいてもてはやされる
若い可愛いタレントの外見とは違う物である。
彼女の鼻と顎はやや大きすぎで、肌は古典的なアイボリー色よりも一段階黒く、
歯は並びが悪い(曲がっている)。
皇太子が魅了された点の一つがこの特徴的な顔立ちであることは間違いない。
大学時代に増えた体重を何キロも落としたため、
(成婚当時)29歳の彼女は運動選手のような健康的な体型である。
マサコは高校時代にソフトボールの選手として優勝経験があり、今もテニスとスキーが大好きである。

マサコに対する批判のソースは大きく分けると三つある。
宮内庁は海外で長年生活していたマサコを、本の伝統を継承するには充分日本的でないと思っている。
そして、彼女は思ったことを軽率に口に出しすぎる。
そこで、彼ら(宮内庁)は、雅子を陥れるため酷い策略を繰り広げた。
選ばれた数名のジャーナリストに、バーや喫茶店などで、
オフレコということで彼女に関する情報をリークした。
その結果、雅子の過去の男性関係についての悪趣味なストーリーが出回ったり、
彼女の家族がひどい公害スキャンダルにかかわっているという可能性が示唆されるという結果になった。

第二のソースは、公家と華族である。
これらの家系は、つい最近まで、皇室の嫁や側室を生み出すことのできる唯一の場所であった。
ところが、まずはアキヒトが、続いてアキヒトの二人の息子たちが平民の嫁をもらったという
前代未聞のできごとに公家や華族のメンバーは腹を立てていた。
彼らは真珠やツインセットなどを身に着けて頻繁にテレビに登場し、
マサコのマナー、そして外見などについて、見下したような批判を繰り返した。
そして最後に、皇族のメンバーや有力な家族の子息令嬢が教育を受けているエリート校学習院の、
(各界に)影響力あるOGの会がある。彼女らは、(学習院の)卒業生の中から、
皇太子の嫁となるにふさわしいとおぼしき方々のリストを手間隙かけて作成し、
コンピュータでプリントアウトして(皇太子サイドに)提供した。
それにもかかわらず、皇太子は、(リストにのっていた候補者を)全員拒否したため、OGの会は大いに憤慨した。
彼女らも、舞台裏で、そしてメディアで、アンチ・マサコキャンペーンを繰り広げているのである。

マサコに対する反感がどれほど根強いものかを示す例としては、
偉そうな態度の生きた化石、浜野実の言葉を聞くがよい。
雅子は、(結婚後の)計画や夢について(あらかじめ用意された原稿によらず)
自由に話したことによって、(婚約記者会見という)場に新鮮な空気を吹き込んだ。
それなのに、彼女を批判する連中は、彼女の話の内容には耳も傾けず、
かわりにストップウォッチで彼女を計ったのだ。彼らは舌打ちしてこう言った。
マサコは 9 分 37 秒もしゃべった。これは 皇太子よりも 28 秒長い、と。
夫となる男を立てるために自分は(おしゃべりを)遠慮して、
相手に自分の二倍ほどしゃべらせる。これが礼儀というものだ、という
暗黙の了解が(皇室には)あるらしい。
浜尾がこの会見について語ったのは、次のようなことだ。

――― (雅子様は)少々 でしゃばりが過ぎるように思われます。
何よりもまず、しゃべり過ぎです。質問されていないことまでお話しになっている。
アメリカ流ですね。西洋人が「レディー・ファースト」だと言うから、
雅子様も男性の前をお歩きになる。アメリカならそれでいいかもしれませんが、
日本ではもっと謙虚なふるまいを見せるべきだというのが、私の信ずるところです。

この時から 数年間、マサコは公の場で話すことを許されなかった。
宮内庁がストップをかけたからである。マサコが、この浜尾の無礼な言葉に
怒り心頭であったことは疑う余地もないが、
プライドを捨て、皇室のやりかたを学ぶよりほかに道はなかった。
結婚を放棄し、耐え難い不名誉を自分の家族にもたす(という不可能な選択)以外には---

これ以後、マサコが公の場で即興の受け答えをするということは、一切なくなった。
そして、(公の場では)あの貼り付けたような微笑みすら、
一瞬たりとも消すことができなくなった。そんなことをしようものなら、
(微笑みが消えた瞬間を)パパラッチに(カメラで)とらえられ、
(週刊誌などの)編集者たちがこぞって待ち望んでいた
『不幸な皇太子妃』という見出しを書く、格好の口実にされることは間違いないからだ。

帰国子女としての克服しがたいハンディーにもかかわらず、
マサコが日本で教育を受けた子供たちに追いつくのに、それほどの時間はかからなかった。
勉強もよくでき、ピアノやテニスを習って余暇を過ごす。
手芸部に所属しており、小学校六年生になると、(将来)は獣医になりたいと決意する。
放課後、彼女はうさぎ、鶏、魚、ハムスターやカメレオンなどの世話をした。
学校のプロジェクトで、一度はコジュケイ(小綬鶏)の解剖を行い、剥製を作ったこともある。
樽のなかで小ネズミを繁殖させており、これを学校が休みのときに家へ持ち帰ったが、
小ネズミたちが両親の住んでいたお上品な住宅街に逃げ出してしまったため、
近所でちょっとしたスキャンダルになったこともあった。
クラスメートたちに「オワ」というあだ名で呼ばれていた彼女は、なかなかの人気者であったようだ。
ややお転婆で、上流家庭で甘やかされている餓鬼というのとは違った。
彼女はいたずら者であった。とは言っても、日本で悪ふざけと思われるようなことは、
おそらくよそではそれほど悪いことだとは思われないだろう。
昼休みの前に弁当を食べたり、屋上に上がって)雪の玉を生徒仲間にぶつけたりした。
サイレンを録音したものを授業中に流したときには、
生徒たちがばたばたと建物から外へ避難するという大騒ぎになった。

日本の聖人伝記作家たちはマサコが一九八五年夏に優等賞(マグナ・クム・ラウデ)で
卒業したことを大々的に持ち上げた。
これは、アメリカの大学制度をよく知らない人には、
彼女がアイシュタインの生まれ変わりであるかのように受け取られている。



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

政府、豪大使通じ「プリンセス・マサコ」著者らに抗議
2月13日20時42分配信 読売新聞 (※2006年)
オーストラリア紙の元東京特派員の著書「プリンセス・マサコ」に事実誤認や侮蔑(ぶべつ)的な記述があるとして、
政府は13日、在オーストラリア大使を通じて著者と出版社に抗議文を手渡したことを明らかにした。
抗議文では、「(著書は)天皇、皇后両陛下をはじめ皇室の方々について、
事実無根の極めて侮蔑的な記述がなされていたり、非礼な内容が記載されている」と指摘。
「著者は皇室、宮内庁のみならず日本社会についてもゆがんだイメージで描いており、
背景には著者の対日蔑視が存在する」とし、著者らに謝罪と適切な措置を要求している。
一方、宮内庁もこれとは別に、著者と出版社に対し、渡辺允(まこと)侍従長名の抗議文を郵送。
天皇陛下の公務について「負担のない形式的な出席ばかり」などとした記述について、
「両陛下が40年にわたってハンセン病の問題に大きく関与してこられたことを全く無視」
「社会福祉の分野全般にわたって、この47年、困難を抱えた人々をたゆみなく励まし、
慰めてこられました」などと抗議した。


宮内庁の抗議
渡辺允侍従長の書簡
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/hills-taiou.html
※宮内庁が抗議したのは「歪んだ皇室観」に対するもの

宮内庁が週刊朝日に抗議=皇太子ご夫妻記事で(時事通信)
宮内庁東宮職は13日、週刊朝日11月17日号の皇太子ご夫妻に関する記事について、
事実無根などとして、同誌編集部に抗議文を送付した。
抗議の対象は、「雅子さまと皇太子殿下が考えていた皇籍離脱の『真相』」と題した記事で、
内容は雅子さまに関する本を執筆したオーストラリア人ジャーナリストへのインタビュー。
抗議文は「自ら検証することなく、著作の内容を翻訳してセンセーショナルな記事として
報道することは無責任」とした上で、ご夫妻が皇籍離脱まで考えていたと報じた部分は
「全くの事実無根」としている。 (2006/11/13)


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