ご婚約〜ご成婚直後

ケーキ
桂よ。 わが愛・その死 三宅一郎著
第四章 創る・描く・書く 
■皇后さまが「アリスの丘」に  p154-155
また、現在の皇太子殿下がご成婚なされたときのことですが、
皇室でのご婚儀にはウエディングケーキという習慣はないということでした。
ただ、ご皇族やご友人などを招いた内々の祝宴では大丈夫との言葉を受けて、
桂は皇太子殿下と雅子さまの恋の年月と同じ七年間、
洋酒に漬け込んでいた干しブドウやカレンズを入れて
焼いた七段重ねのウエディングケーキを作って、皇后さまにお届けしました。
皇后さまはとてもお慶びになり、お二人に桂からのプレゼントだとおっしゃって
紹介されたということでしたが、お二人は祝宴に使うものだとは知らず、
おやつとして食べてしまわれたというお話をうかがいました。
「内輪のお祝いの会で、桂さんのケーキをお切り分けし、
みなさんにお配りする予定が立たなくなってしまいました」と
皇后さまからご連絡をいただいたとき、桂は即座に「同じものをお作りします」と答え、
さらに一回り大きなものを作り、ご祝宴の当日に東宮御所にお届けしました。
お二人はそれをウエディングケーキとして披露され、実際にケーキカットをして、
ご出席のみなさまにお配りしたということでした。


※ご成婚直後のテレビ番組で森村桂さんご本人が語っていた要旨
『「皇太子ご夫妻が食べてしまったので、明日までに同じ物を作って持ってきてください」
と連絡が入り大急ぎで作り直しました』
『「翌日撮影に使うと説明があったのに食べちゃおうか」ということになり
お召し上がりになったようでした。』
『7年間つけたフルーツ、手の込んだ砂糖菓子の動物達は予備などなかったので、
当初のものとは大分違うケーキになってしまいました。』

友納尚子「雅子妃の明日」
「職員がケーキをお二人に見せた時に『明日撮影がある』と伝えたがお二人で食べてしまった 」

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

週刊新潮1993年3月11日
読売新聞によれば、ご進講は、「総論―皇室について」「神宮・宮中祭祀」「皇室制度史」「皇室法制」
「宮中の儀式、行事及び皇室典範」「日本歴史」「和歌」「書道」の九科目で、延べ62時間に及ぶ。
「美智子妃の時は、科目数も時間もずっと多かった。あの時は、十四科目を74日間かけてお妃教育が行われました」と、
ある皇室記者は言う。
十四科目とは、「お心得」「宮中祭祀」「礼儀作法」「宮内庁制度」「宮中慣習」「宮中儀式を含む行事」
「宮中儀礼」「英語」「仏語」「憲法」「和歌」「書道」「神宮祭祀」「皇室史」。
「ご進講は、日曜日を除く毎日、行われました。午前中はみっちりとご進講を受けて、
午後は着物、洋服の着付けがあったり、十二単・おすべらかしの着付け・結髪の練習もしないといけない。
各宮家にご挨拶には伺わなければならないし、お妃教育の宿題や予習、復習もあった。
“厳しすぎる”という声もあったんです。しかし、当時の宮内庁長官は、“暇だとだらけてしまう。
毎日、日課が決まって勉強した方がいいんだ”という考えの持主でした」
当然のことながら、お妃教育は時代とともに変わってきている。
例えば、皇太后の場合は、ご婚約がととのった大正7年から、何と足かけ六年間もお妃教育が行われたという。皇室担当記者の一人が語るには、「皇太后の時は、久邇宮宅に“お花御殿”と呼ばれる学問所が造られました。
そこでは、当時の女子教育の最高権威者だった後閑(ごかん)菊野を筆頭に“皇后とはどうあるべきか”と
いう帝王学ならぬ帝女学が講義されたのです。特に修身教育の権威だった杉浦重剛は、皇太子には倫理学、
皇太子妃には修身と使い分けて教育しました」
皇太后は学習院中等科を中退され、お妃教育を受けられたために科目も多かった。
雅子さんの場合は、「英語、フランス語がなくなっていますが、語学は堪能ですから、これは当り前でしょう。
美智子妃の時と比較すると、礼儀作法がなくなり、宮中の儀式、行事、儀礼が一本化されています。
美智子妃の時は、宮中に古い世代が多かったので、その考えを教え込む面が強かったけれども、
今回は皇室に慣れていただく意味が強いと思う」と、ベテランの皇室担当記者は語る。
実際問題として、宮中のしきたりに慣れることは非常に重要で、
「例えば、皇太后はご老体であまり人にお会いになられない。そうした場合、女官にお見舞いのお言葉を
申し置かなければならない。そのやり方を知ることが大事です。他の皇族に対しても、誕生日などに
お祝いの言葉を申し置かないと、微妙な人間関係がうまくいかなくなる。ですから、紀子さんの時も、
女官長が宮中のしきたりを非公式に教えたりしていましたね」
(略)
皇室での和歌というと、歌会始ぐらいしか思い浮かばない人が多いかもしれないが、
実は意外と詠む機会は多いのだという。
「雅子さんも、これからは月に一回は詠まなければならなくなるでしょうね」と、ある宮内庁関係者は言うのである。
「紀子さまも和歌にはご苦労されていることが、毎年行われる“歌会始の儀”からも窺われます。
しかし、皇室には歌会始ばかりではなく、“月次(つきなみ)の歌”というのもある。
要するに月に一度作って、これを天皇陛下に差し上げるという習慣です。
また、地方を訪れた際に、お世話になったところに帰京後、歌を贈る習慣もあります」
新聞に和歌の講師として名前を挙げられた岡野弘彦国学院大学名誉教授は、
「まだ宮内庁からは何も言われていないんですよ」とことわりつつも、
紀子さまにお妃教育として講義した時の様子をこう語る。「紀子さまの時は、初めに万葉集から古今和歌集、
新古今、そして現在の和歌という歴史的なアウトラインを把握してもらい、最後の数時間を使って
実地で五七五七七の和歌の組立てをしてもらいました。」
(略)
お妃教育で、もうひとつ気になる科目が日本歴史だ。神話や南北朝、天皇の戦争責任といった
微妙な問題に触れるのかどうか。紀子さまのお妃教育も担当した笹山晴生東大教授の専門は日本古代史。
「紀子さまの時は、『古事記』と『日本書紀』について講義をしました。記紀の成立ち、性格、資料価値、
書かれていることのおおよその流れですね。それに基づいて、記紀の中でそれぞれの天皇が神話の中
でどう位置づけられているのか、だいたいそのような趣旨で話しました」
(略)
余談ながら、お妃教育で一回講義した際の謝礼は、菓子と三万円ほどの現金が普通だという。
今回の講師陣の人選で、最も苦労したのは、「総論―皇室について」だろうと言われている。
美智子妃殿下の時は、元慶応大学塾長の小泉信三博士がお心得を話した。
「小泉先生の書斎には、皇太子妃と美智子妃の写真が置いてあって、いつも皇室のあるべき姿について
熱心に話して下さったものです。美智子妃のお妃教育でも、英王室を模範に話をなさいました」(先の宮内庁関係者)
お心得にあたる総論を担当するのは、慶応大学の石川忠雄塾長と報じられた。
(略)
天皇のご学友でもある橋本明氏(共同通信社ジャパンビジネス広報センター総支配人)は、
「英王室は今、ああいう状態ですから、話すなら、むしろベルギーやオランダの王室について話す方がいいし、
昔の中国のことを話して差し上げるのもいいかもしれません」と提言する。そして、
「宮中祭祀のような、雅子さんが全く知らないことは一つ一つ教えて差し上げるしかないでしょうが、
29歳の女性なのですから、むしろ物の考え方について話すのがいいのではないでしょうか。
総論では人間としての心、道を外さないようにということをお話する。
正しいこと悪いことをはっきりさせ、弱い者や差別にあって苦しんでいる、
陽の当らない人を守ってさしあげること、贅沢になり親を親とも思わなくなった
最近の日本人の精神の批判もするべきだと話すのもいいと思います」
京都大学の会田雄次名誉教授は、英王室を模範とすることが間違いだと言う。
「英王室の特徴は、外国人を王室に入れること。そして、軍隊の先頭に立つことです。
もともと英王室は、ローマ帝国から任命された征夷大将軍。この二つから見ても、
日本の皇室とは存在理由が違うのです。ですから、総論は一言で言えば、古い時代に
帰ろうという講義をしていただきたい。『古事記』の世界に戻ってもらいたいと思いますよ。
昭和天皇は、ガンの末期でご自身が非常に苦しまれた時、病床から
“今年は天候が不順だと聞くが、コメの出来具合はどうか”とお聞きになったそうです。
減反、自由化が叫ばれている中で、アナクロニズムといえばアナクロニズム。
しかし、時代はどうあれ、こう腐心なさるのが皇室なんですよ。帰国子女でもある雅子さんのお妃教育も、
こんな心を持てるような講義にしていただきたい。間違ってもアメリカのファーストレディ、
ヒラリー夫人みたいにはなって欲しくないですね」
雅子さんのお妃教育は、およそ二カ月間、続く。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇
「皇室に学ぶプリンセスマナー」
お妃教育の中で宮中祭祀・儀礼などの科目は、雅子妃は紀子妃の倍の時間だった。
「待立(じりつ)」という、ローブデコルテを着て長時間ひたすら立つ訓練、
長時間少しも動いてはいけない厳しいレッスンもある。
  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


週刊新潮1993年7月8日号
皇太子の恩師が見た御結婚宮中「茶会」の人々
御結婚披露宴のための宮中「茶会」とは、本来、皇太子の最も身近なところにいた人たちを招き、
皇太子妃を披露する内輪の宴だという。
が、今回は、両殿下の強いご希望で、海外の恩師や友人およそ百名にも招待状を発送した。
P・マサイアス元オックスフォード大教授も、その招待状を手に駆けつけたのだが、
教授の見たところ、「お二人が最も楽しそうだったのはガイジンに囲まれているとき」だったのだ…。

実は、皇太子殿下と雅子妃殿下の結婚披露宴は三種類、都合11回も開かれたのである。
最初は、皇族や元皇族を集めて、さる6月11日に開かれた「御内宴」
次が、6月15日から6回にわたって国事行為として催された「饗宴の儀」。
最後が、東宮主催で4回にわたって開かれた宮中「茶会」−。
(略)
「御結婚後に開かれる御茶会は、もともとは皇太子が生まれたときから現在までに奉仕した侍従や料理人、
護衛官、あるいは幼稚園から大学までの先生などを招くものです。
皇太子にとっては、家族同様の親しい人が集まるわけで簡素であっても、最も楽しい宴なんですよ。
まあ、今回は、両殿下のご希望で海外の恩師や友人・知人、雅子妃の関係者も招くことになり、
規模はずいぶん大きなものになりましたが…」(皇室通)
(略)
その招待者数も1130名に及んだわけだが、宮内庁東宮職が招待状を発送するに際して行なった分類では、
招かれたのは、大まかなところ次のような人たちなのである。
「御進講関係者」300名。「外国関係者」100名。「殿下外国訪問の際の随員」と「警備関係者」250名。
「両殿下の恩師(国内)」250名。「東宮職の旧奉仕者」230名…。
「両殿下は国内の友人・知人も招きたかったらしい」という話も伝わってはいるのだが、
結局は、過去に「御進講」をした学者や外務省の大使経験者、両殿下の幼稚園から大学までの先生、
あとは皇太子殿下が外国ご訪問の際に随行した宮内庁職員や外務省職員、護衛を務めた皇宮警察の警察官、
侍従以下の東宮職員…が選ばれたのである。やはり、異色なのは「外国関係者」の100名だろう。
そこには、皇太子殿下がオックスフォード大に留学したときの恩師や、雅子妃のハーバード大や
オックスフォード大在学中の恩師、ないしは友人も幅広く含まれているという。
実は、その「外国関係者」についてはすべて初回の、春秋の間での茶会への招待なのだが、
その招待状発送がわずか十日前だった。しかも、渡航費や宿泊費は本人負担。
それでも、冒頭に触れたように、40名近くの人が駆けつけてくれたのだという。
なかでも、皇太子殿下がオックスフォード大へ留学したときの指導教官、ピーター・マサイアス教授
(現ケンブリッジ大ダウニング・カレッジ学長)の来日には、宮内庁側が大いに驚き、マサイアス教授を
もてなすために春秋の間での茶会のあと「外人だけの茶会」(二次会)も秘かに開くことにしたほどなのだ。
(略)
そのマサイアス教授は語るのだ。
「実は、私たちは二つのパーティに招かれたのです。最初のは、宮殿の中の大広間に300人近くいたと思える
パーティで、
出席者は大多数が日本人でした。それは学習院の教授を始めとした先生や、妃殿下が幼い頃に学んだ先生、
かと思うと侍従や護衛官など、色々な職業、身分の人たちの混合となっていました。
(略)
両殿下の様子も、場内の雰囲気もオフィシャルなもので、私を含めすべての人が両殿下にお祝いの言葉を述べ、
お礼の言葉を返してもらうときには公式的になっていました。
それは、私にはリラックスしたパーティには見えませんでした。しかし、それが終わってから、
私たちガイジンがバスに乗せられ、殿下のお住まい(東宮御所)へ向かったのです。
そちらで開かれた第二のパーティが、実に楽しいものでした」
その「外国関係者のための茶会」が開かれることは、実は、日本人には、ほとんど知らされることはなかった。
遠路はるばる来た人のために、特別に開いたものなのだ。マサイアス教授の話は、当然、そこへ集中する。
「その、特別なパーティは、東宮仮御所の広間で、午後4時45分から、6時半まで行われました。
それは、日本式でありながらモダンな内装の部屋で、その部屋の外にはイギリスのように芝生の庭があるのです。
(略)
そのうえ、そのパーティでは、雅子妃殿下のご両親が最初から出席され、30分ほどたってからは、
天皇皇后両陛下も出席されました。
すべての人が友人のように話し合い、とくに殿下と妃殿下が心から楽しそうでした。
(略)
一方、春秋の間の茶会に話を戻すと、そちらの出席者は、宮内庁職員や外務省職員のほかに、
皇太子殿下にその昔論語の御進講をした宇野精一・東大名誉教授、雅子妃のお妃教育で和歌を受け持った
岡野弘彦国学院大名誉教授、雅子妃に書道の指導をしたことのある小川東洲・ハーバード大客員教授…等々の
両殿下の先生方が多かった。ところで、皇太子殿下にビオラをお教えしているのは、兎束俊之・東京音楽大教授である。
兎束氏は「雅子妃がピアノを弾かれる」と聞き知っていたので、ビオラとピアノのための合奏曲を作曲、
「ロマンス」と名付けて、この日献上したという。会場には、小林仁・東京芸大教授(ピアノ)や
久保田良作・桐朋学園大客員教授(バイオリン)なども出席していたので、音楽関係者はひとかたまりになって、
両殿下に挨拶を申し上げたのだ。が、皇太子殿下に学習院中等科で音楽指導をした藤原義久・山形大教授も、
22日5時からの茶会に招かれていた。その藤原教授は、
「私にとっての殿下の記憶は、誠実な性格でいらっしゃるが、あまり器用ではない。小さいときから音楽がお好きですが、
不器用なところがあった、というものです。しかし、その後こつこつと音楽の世界を広げていかれたのでしょう。
テンポが悪いとか、いろいろ叱った私が言うんですから間違いありません。今では、素人のオーケストラなら、
ビオラのトップを弾く力がおありです。ご結婚でも、六年間誠実に胸に秘められて、ぐらつくことがなかったのでしょう。
舞い上がって結婚するという感じの方ではないのです。当日は、心からおめでとうございますと申し上げました」
感動的な再会を果たした人もいたわけだが、宮内庁の名簿作りの手違いか何かで、招かれなかった人もいた。
スケートの稲田悦子さん(1936年冬季オリンピックに出場)が、その筆頭か。
「殿下が七歳の時から大学生の頃までフィギュアスケートの御進講をさせていただきました。転んで泣くと、
お付きの人に叱られるので、涙をぽろぽろ流しても泣き声だけは決してたてない方でした。
小さい殿下に御進講申し上げながら、私のほうが勉強になったくらいです。
殿下はその後スピードスケートに転向なさいました。私は身分相応なところで、ご結婚に喜びを感じています」

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

ミカドと女官〜菊のカーテンの向こう側〜
小田部雄次 扶桑社
中町芙佐子は、「福祉の現場における情緒障害児や精神障害者(児)の相談や心理療法」、
「海外のソーシャルワーカーと我が国の社会福祉士との活動の比較研究」を専門としている職業婦人であった。
中町は昭和十七年生まれ、大阪大学文学部哲学科卒業、家族社会学を専攻し、
鳥取、大阪の家庭裁判所で調査官をつとめた。
退職後、大阪児童相談所で情緒障害児の治療にあたった。
昭和五十七年に夫を亡くし、ニューヨークのコロンビア大学院に留学、
精神障害児のセラピストとして、市立ウッドホール病院精神科に勤務した。
平成四年には、カレン・ホーナー・クリニックにて、適応障害、人格障害など精神症患者への対処法を学んだ。
平成五年に五十一歳にて東宮女官に就任し、平成十一年までつとめた。
(略)
中町が女官に起用された背景には、宮中入りする雅子妃のよきカウンセラーたることへの期待があった。
これは一つに、美智子皇后の過去の経験を克服するためであった。
もう一つは、外国語ができて、外国事情に詳しい人を配することによって、
雅子妃の生活環境を整えるためであった。
雅子妃の女官選定には、当初から周到な配慮がなされていたのであった。
結婚して十年後に「適応障害」という耳慣れない病状を公表された雅子妃であるが、
結婚当初から、「適応障害」の専門家が女官として配されていたのには、驚きがある。
一体、皇室あるいは宮内庁は何を予想してそのような人事をしたのだろうか。
そして、中町はなぜ辞任したのだろうか。
現在、中町は職を辞して、宮中のことについては慎み深い態度で沈黙を保っており、一切は不明である。



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

女性自身緊急増刊 1994年6月13日号増刊 新妻・雅子さま輝いて「愛の1年」
雅子さまにとっては激変の一年であったが小和田家にもいろいろな出来事があった。
とりわけ雅子さまの幸せを見守る母/優美子さんには大変な毎日が…。
なにしろ雅子さまがご結婚の諸行事に続いてご公務がぎっしりでしたからね」と皇室記者。
「ですから4トントラック三台分のお嫁入り道具を整理する時間もなかったくらいです。
それで優美子さんがマイカーで東宮御所にあがっては荷物の整理をお手伝いしていたという話です。
家へ帰ってくれば、雅子様が可愛がっていたショコラの面倒を見るのも優美子さんの役目。
恒さんはご結婚後間もない7月に外務省事務次官から退官し外務省顧問となったが、
ハーバード大学の講師もかねていたし優美子さんの毎日は前よりも忙しくなるばかり。
そうした中で優美子さんにとっても小和田家の全員にとっても待ちこがれていた楽しみは雅子様のお里帰り。
美智子さまは17日目、紀子さまは12日目にお里帰りをなさっている。
だが、雅子さまはご公務続きの上に、奥尻島(北海道南西沖地震)被災者へのご配慮もあり、延び延びになっていた。
ようやく実現したのは65日目の8月13日。喜び合うショコラと雅子様。
玄関に入る時、恒さんは何気なく雅子様の背中へ手を回したが触れる直前にふとためらいを見せて手を止めた。
「自分の娘であって娘でない」という礼と嗜み。優美子さんも公には雅子さまを妃殿下と呼んでいる。
しかし親子の情愛は代わらない。
昼は優美子さんの手作りのちらし寿司。夕方、この家に初めて訪れた皇太子さまをお迎えしてからは
心を込めたパエリア(スペイン風炊き込みごはん)でのおもてなし。ショコラも皇太子さまに懐いて仲良しになり
食後の団らんは時を忘れるほどだった。

初めての里帰り。雅子さまは午前中から小和田邸へ。
皇太子さまは夕方、おいでになった。初めての小和田家ご訪問である。
予定より早かったので、まだお出迎えはなく、
興味深そうに三角屋根を見上げていらっしゃるところへ、
雅子さまとご両親があわてて出迎え。
雅子さまは石段の段違いに片足をのせたままという、ほほえましいワンシーンも。

3月23日、千葉・幕張メッセイベントホールで行われた「'94年国際フィギュアスケート選手権大会」へ
お出かけになられた皇太子さまと雅子さま。会場に到着されたとき、さきにお車をお降りになった雅子さまは
皇太子さまがお車を出て傘をさされるまで、ご自分の傘をさしかけておいでになって
細やかな気配りをお見せになった。
また、皇太子さまは雅子さまの膝に毛布をかけてさしあげるだけでなく、雅子さまが休憩で貴賓席に向かわれるとき、
畳んだ毛布をどうしようかと迷う気配をごらんになると、毛布をさっと受けとられ、お付きの女官の手に。
さりげないお互いの思いやりを周囲に印象づけられた。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

音楽の聞こえる小さな家 
学習院OBオーケストラ副団長鎌田勇
新婚当時の雅子妃は、殿下の音楽仲間が集まった時に
食事をみんなにかいがいしく取り分け、自分は最後に食べていたり、
演奏が終わって戻って来る皇太子に深々とお辞儀をしたりと大変控えめ

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


ご婚約からご成婚直後のエピソード (拾い物)

お妃教育1
雅子さまはお妃教育で神道を勉強するのに 英語の教科書を要求
「神道」の科目を担当した講師自身が新聞の取材に答えた。
テキストの名前は「What is Shinto?」
(外国人に簡単に神道を説明するためのもの)
マスコミは「さすが雅子さま」と賞賛

お妃教育2
立場上、紀子妃殿下よりも宮中祭祀や皇室制度には倍の時間教えたが、
礼儀作法や心得は海外生活が長く外交官として働いていたという理由で必要最小限だった。
お妃教育の時から、自分が皇室に入ったらこう変えていきたい、ああしたい、こうしたいと発言していた。

外務省退職
送別会で「皇室で外交をして参ります」


納采の儀
正式な場では帯留めは振袖にはしないのが普通だがしていた。
(一般とは違うのかもしれない)
扇子を正面に挿していた。これは著しい間違い
納采の儀の映像をみると、雅子さまが自分で突き刺していた。
また、納采の儀式の際、小和田家両親、雅子さまは礼のタイミングが合わず、
頭を下げながら目をきょろきょろさせていた(TV放映)
雅子さまの着物に対し、 評論家が苦笑交じりで「オメデタ尽くし」と言った

結婚の儀
十二単衣で賢所に向かう時のぎょろぎょろとした目
廊下を曲がる時、裾をさばく女官を睨みつける

成婚時のパレード
「よそ見しながらお手振り」
パレードの時のおしゃべりは、 ワイドショーの読唇術で「すごーい」と何回も言っていた(らしい)
上からの写真を見ると、雅子さまは大また開き、膝頭が大きく開いている。
皇太子さまをポンとたたき、指差し。
雅子さまのご親戚がいたので、そちらを見るように指示していた。
(女性自身1993年6月29日号 大伯母(江頭寿々子さんの姉)斉藤みつさん)
パレード後 皇太子さまとの立ち位置を間違える。

雑誌記事
ご成婚からしばらくして、皇族の間から
「美智子妃殿下は腰がたいへん低かったけど、
雅子妃殿下は最初から、妃殿下らしい堂々としたご態度で…。」という声が聞こえる。


週刊文春 1996年1月18日号
期待がふくらむお世継ぎの誕生については、宮内庁関係者からこんな声が聞えてくる。
「雅子さまは実はアトピー性皮膚炎がひどく、ご結婚以来かなり強い薬を使って、
その治療を優先してこられたんです。その甲斐あって、最近、ほとんど気にならなくなり、
お薬もやめられたようですので、今年はいよいよご懐妊の可能性が高いと思いますよ」(複数の宮内庁関係者)

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