消えたお妃候補たち 小田桐誠

「消えたお妃候補たち」小田桐誠 1993年8月25日初版 宝島社

指摘されたいくつかの問題点
宮内庁は小和田について弁護士や興信所を通じ、直系三代に汚点がないか、両親の評判、
本人の健康状態などを徹底的に調べ、独自にチェックしたといわれる。
その結果は首相官邸にも報告されていたという。報告にはいくつかの問題点が指摘されていた。
一つは八七(昭和六十二)年暮れから八八(昭和六十三)年初めに発売された一部週刊誌が指摘していたように、
小和田雅子の母方の祖父・江頭豊が、日本興業銀行の銀行マンから転じたとはいえ、
代表的な公害企業・チッソの社長や会長を務めていたこと。
「お妃とともに全国を回らなければならぬ立場にある浩宮さまの訪問先で、
水俣病の患者のムシロ旗が立つようなことがあっては」と宮内庁幹部は懸念したのである。
二つめは、三代さかのぼった中に軍人がいること。
三つめは、身長が浩宮より小和田雅子のほうが高くなることへの危惧。
四つめは、まったく取るに足りないことだが、彼女の妹が双子であり、
もし彼女が双子を生んだ場合、皇位継承の問題が残ること。
五つめは、皇室に入った女性で、仕事をした経験のある人はいない−というものだった。
母方の親戚に江口朴郎東大名誉教授(故人)のような左翼系の学者がいることを
マイナス要因にあげる者もいたという。
「特にチッソの問題は、宮内庁のいろいろな意向を覆い隠す格好の材料だった」(宮内庁担当記者D)
といわれる。宮内庁幹部には、小和田雅子にこだわらなくても、他に良い女性がいるだろう、との楽観論もあった。
当初美智子妃は、浩宮の小和田雅子への気持ちが高まり、彼女がなかなか首を縦にふらない状態をある種
好ましくみつめていたようだ。「七、八合目」発言でも、浩宮が彼女をなんとしても皇室に迎えたいと
追いかけている状態とみて、静かに見守っていたといわれる。
だが、改めて小和田雅子をみつめ直したとき、容易に妥協できない女性だけに……と
不安感が頭をもたげたようなのである。一方、天皇家と親しい福祉関係団体役員は、美智子妃が
彼女に消極的だったはずはない、とこう語っている。
「美智子妃は、基本的に『浩宮の思うように、この人と決めたらそれを貫きなさい』と
寛大な親心を示していたんです。消極的だったのではなく、浩宮さまから具体的な話がないうちから
口を挟むのは控えようというお考えから、静かに優しく見守っていたんですよ。
人に押し流されずに自分が納得して事に対処しなさい、ということなのです」
二人の間に進展がないのは、マスコミ騒動に加え、キーマンの一人、安嶋東宮大夫が胃の手術をしたあと
自宅療養していたことも微妙に影響していたといわれる。
ただハーバード時代にボーイフレンドがいたことも一つのネックになっているのでは、
とみるマスコミ関係者もいた。
小和田雅子の母方の祖父に難点ありとして、富田宮内庁長官は浩宮に
「(小和田さんには)こういう問題が付随しますからね」と伝えた。
「難しいですか」
「はい」
「ああ、そう。それなら仕方ないですね」
二人の間でこのようなやりとりがあったといわれる。当時のことを富田は
『週刊朝日』(九三年一月二十二日号)でこう答えている。
「私が(小和田さんに)反対したことはありません。ただ、当時は、いわゆる『チッソ問題』の
被害者の方がまだ大勢おられました。加えて、批判勢力というか、社会運動派の人たちが
(チッソの)東京本社に、押し掛けたりもしていた。そういう状況でしたから、
もう少し様子をながめたほうがいいのではないかと、そう殿下に申し上げた。
殿下はそれを『わかった』といわれたのです。
『おやめなさい』といったのではなく『みつめましょう』といったのです」
富田の後を継いだ藤森昭一も当初は慎重論だったといわれる。
ともかく、こうして小和田の線はほぼ消えるのだが、
そうとも知らぬマスコミはお妃候補の一人として取材を続け、浩宮もまた気にとめ続けたのだった。

マスコミの対応など小和田雅子の言動を観察していた美智子妃は、
彼女の能力に注目しつつも、ある懸念を抱いて一度はあきらめたといわれる。
宮内庁担当記者Aがこう解説する。
「美智子妃は真面目でしっかり者の長男とうまくやっていける女性かどうか、じっと見ていたのです。
彼女を見るにつけ、長男の方が振り回されかねない気丈さがある。
自分の意見をはっきり言い、論理的思考もできる。
ところが、皇室には論理的思考だけでは割り切れないところがあるわけですよ。
もし彼女がこのまま皇室の一員になったらどうなるか。
いずれ衝突する場面が出てくるのではないか、と美智子妃は考えた筈です」
(148ページ)

昭和天皇逝去後、浩宮は東宮として独立、皇太子という立場になった。
1989(平成元)年2月、皇太子は側近に「小和田雅子さんではだめですか?」と尋ね、
彼女との結婚にこだわりを見せたといわれる。5月には「小和田本命説」も流れた。
だが、同年9月、小和田雅子は公式にお妃候補であることを否定する。皇太子は9月23日からベルギーを訪問した。
(159ページ)

90(平成2)年6月、小和田雅子は2年間の留学生活を追え帰国、北米二課に配属された。
同じ6月、「それならぼくは結婚しない」と題する記事が『週刊ポスト』に載った。
ある怪文書のために、宮内庁が小和田雅子をリストから正式に外してしまい、
皇太子が激怒して「結婚しない」と言った、という内容だ。
宮内庁はこの記事に激怒。発行元の小学館に厳重抗議した。
女性週刊誌を抱える小学館としては宮内庁の報復を危惧したのだろう、編集長の首が飛んだ。
(161ページ)

二月八日には、天皇夫妻の住まいである赤坂御所「槍の間」「日月の間」で夕食会が催された。
招かれたのは天皇家の一族と小和田雅子一家それに皇后の実家の正田家の人々や
秋篠宮紀子妃の両親、天皇の姉夫妻にあたる池田隆政・厚子夫妻など二十七人。
皇室一家が勢揃いしての夕食会は三時間に及んだ。
美智子皇后が婚約された時は、宮家と旧皇族の各家を皇后と両親が挨拶に回ったにすぎない。
その後も、皇后が実家に帰ることはほとんどなかった。正田富美子は、音楽会などで
美智子皇后と出会った場合でも、娘に向かって深々と頭を下げて別れるだけだった。
もちろん、昭和天皇と現皇太后(香淳皇后)が、美智子皇后の両親である
正田英三郎・富美子夫妻と、仲睦まじく食事をともにする機会というものは、
婚約時も、それ以後もただの一度もなかった。
二月八日の団らんは、天皇夫妻が望んで実現したといわれるが、皇族の宮家の方々は呼ばれていない。
一月十九日の皇室会議のあとに、皇太子と小和田雅子が挨拶を済まされているから、というのが理由だった。

皇室会議では、皇族としてただ一人出席した三笠宮は、
「雅子妃決定」に皇族を代表する形で不快感を示したといわれる。
二月八日の夕食会のことでも、自分たちがないがしろにされていると感じたのだろう、
一度は、三月十七日に決まった納采の儀が引っくり返っている。
(204〜205ページ)

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