スクープを巡って  

■名刺を出しなさい
フォーカスの20世紀ベストショット!
「どの社ですか。名刺を出しなさい!!」
いまから12年前の、1987年12月。
浩宮のお妃候補として名前が急浮上した雅子さまは
突然、マスコミに追いかけられるお立場になった。
本誌も東京・目黒区の実家を張り込んだが、出勤のために姿を現した彼女は、
冒頭のように毅然としてカメラマンを一喝。
写真は、その瞬間を撮らせて頂いたショットである。当時雅子様は24歳。
外交官に入省して1年目の外交官の卵だった。

fo.jpg

この写真は、新潮45の2004年7月号に再掲載された。
「あなたどこの社なの!名刺をだしなさい!!」
赤い皮の手袋をはめてレンズを押さえながら。
(恒氏はこの件に関して嘘の言い訳をしたが、しっかりTV放映されてしまった)
TVで放映された他、写真週刊誌にも掲載。
TVではこの映像は最後になるかもしれませんというナレーション。


この件についての小和田恒氏の事実とは異なる言い訳
文藝春秋1993年3月号 娘、雅子が決意した日
名刺を出しなさい事件の真相
(小和田恒さん)
当時、私たちとしましては、そうしたお妃選考の過程で雅子の名が上がっているなどということは
まったく存じておりませんでした。
たしか、八七年の十二月二十日過ぎだったと思います。
突然我が家の前にカメラマンの方々が二、三十人現れたのです。
雅子は、いつものように外務省に出かけようとして玄関に出たのですが、
びっくりして慌てて家の中に駆け戻ってきました。
「お父様、お父様」と息を切らしているものですから、「どうしたの?」と聞きましたら、
何だか分からないけれど玄関のところにカメラマンの方が沢山いて、写真をパチパチ撮られたと言うのです。
私の方も何が起きたのかまったく分かりません。
どうしたのだろうと思いましたが娘ももう社会人のはしくれですし、集まっている人たちに
「どうしたんですか」と自分で聞いてみたら、と気軽に申しました。
「どちらの方ですか」と聞きなさいと勧めたのは私です。
それで雅子は、勇気を奮ってもう一度出ていって、「どちらの方ですか」と訊ねたんですね。
それが、後になって「名刺を出しなさい、名前を名乗りなさい」と言い放ったという話になって、
「皇室評論家」と称する人などから、気の強い女性であるといった歪められた話になって伝えられてしまったのです。

※しかし実際には上記のように「名刺をだしなさい」とカメラに詰め寄っている写真と
はっきりと音声の入っているVTRが公開される。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

■フィルムをだしなさい!
週刊文春2006年3月16日
悲劇のプリンセス「不適応」の理由
雅子さま友人・恩師・同僚…50人の証言(上)

P40
自宅前に張り込んだ元写真誌記者C氏は、反省をにじませながらこう話す。
「自宅から駅に向かう雅子さまにぶら下がって話を聞こうとしたことがあります、
ところが『マスコミは嘘ばかり!』 とおっしゃったので、
私もしつこく『どの辺りが嘘でしょうか?』とお聞きしたんですが、
何もお話いただけず、駅に着いてしまいました。
雅子さまは満員の上りホームに立っていらした。
私はこの取材で初めて雅子さまにお目にかかったんですが、
あまりに美しかったので、『何とか写真に収めたい』と
反対側の下りホームに行って、レンズを向けたのです。
撮った瞬間に雅子さまが気づかれました。
すると全力疾走で上りホームと下りホームをつなぐ陸橋を駆け上って、
私のほうにまっすぐ向かって来られたんです。
そして私の胸倉を両手でつかんで揺すぶって、
『フィルムを出してください!』と抗議されました。

その勢いに私は一言も口が利けず、フィルムをどうしたかも忘れてしまいました」

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

■舌打ちしながら馬鹿野郎
SPA! 1993年2月10日号  神なき国のガリバー  田中康夫
将来の「象徴」の妻なればこそ忌憚なき評論が繰り広げられるべきだ。
「日出る国の象徴」なる座に、将来、就くことを運命づけられた人物の妻となるのだ。
彼女が最も彼女らしく見える髪形なり化粧なりを、
本人、或いは周囲が的確に会得していることは、当然、求められて然るべき、だ。
であれば、これらの点に関して報道する際、“自己規制”など些かなりとも
マスメディアは行なうべきではなく、
また、忌憚なき論評こそがそこで繰り広げられるべき、と僕は考える。
仮に幸いにして彼女に、何れの場面に於いても自身の持つ魅力を
十二分に引き出せる術が具わっていたとしても猶、だ。
況して、改善すべき点がある場合に於いてをや、であろう。
思うに、クラウン・プリンス・ナルが数年来、
魅力を感じていた要素の一つだったであろう“彼女らしさ”の中には、
「婚約」発覚後、大分の変化を来たした部分がある。
例えば、自宅前で激写された際、舌打ちしながら明らかに「馬鹿野郎」と呟き
「どこの社よ。名乗りなさい」と気丈な反応を見せた魅力を、
今の彼女の中に見い出すことは、難しい。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

1993年6月29日週刊女性 御成婚記念号
「皇太子妃スクープ合戦」
「社命で雅子様とデート。焼鳥屋や映画に誘って」
新聞社も雅子様の取材となると仁義なき戦い。

朝日新聞社 斉藤記者
昭和62年12月から平成元年11月まで第三社会面で企画物を掲載。
「殿下への雅子様の気持ちを確認しろ。友達になれ」と社命が下っていた。
担当になったのは女性記者(斉藤記者)。
電話をかけるのは当然だが花束を贈ったり手紙を書いたり映画へも。
「いろんな口実を作って16回も一緒に食事に出かけていた。
焼鳥屋、イタメシ、オムレツ店等・・・とにかく自分をアピールするので一生懸命」
斉藤記者「女性を誘うときの男性の気持ちが分かった」


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


雅子さま婚約スクープの痴漢記者に実刑
東京地裁は4日、地下鉄車内で女子高生の体を触ったとして、
東京都迷惑防止条例違反の罪に問われたワシントン・ポスト紙東京支局の元記者、
東郷茂彦被告(57)に懲役8月(求刑懲役1年)の判決を言い渡した。
判決理由で加藤学裁判官は
「過去に同様の犯行を重ねており、この種事案への衝動は極めて大きいとみられ、
再犯の恐れも否定できない」と述べた。
東郷被告は初公判で起訴事実を認めていた。
判決によると、東郷被告は昨年11月13日午後4時半ごろ、
東京都千代田区の営団地下鉄千代田線霞ケ関−日比谷間の車内で、
隣に座っていた都立高3年の女子生徒の足を触った。
東郷被告は、皇太子殿下と雅子さまの御婚約をスクープしたエリート記者として知られる一方、
警察関係者によると同容疑での逮捕が9回あったという常習犯。
早稲田大学政経学部を卒業後、朝日新聞に入社。
故三木武夫首相の番記者をしていた昭和51年、国会見学に来ていた女子小学生のスカートめくり、
尻を触るというハレンチ事件を起こして同社を依願退職したという“経歴”も持つ。
東郷家はエリート一族として知られ、開戦前と終戦時に外相を務め、
A級戦犯として獄死した東郷茂徳氏は被告の祖父。父親の文彦氏は元駐米大使。
http://www.zakzak.co.jp/top/t-2002_02/3t2002020403.html


東京地裁【雅子さん婚約スクープの痴漢記者に懲役8月の実刑】(02年2月4日)  
01年11月13日午後4時半ごろ、
東京都千代田区の営団地下鉄千代田線霞ケ関−日比谷間の車内で、
隣に座っていた都立高3年の女子生徒の足をコートで隠しながら右手で触ったとして、
東京都迷惑防止条例違反の罪に問われた
ワシントン・ポスト紙東京支局の元記者の被告(57)に対する判決があった。
判決は、97年以降、同種事件で3回も罰金刑を科されたうえ、
99年1月には懲役4カ月執行猶予3年の判決を受けたのに、
再び痴漢行為に及んだと指摘、「再犯のおそれが否定できない」として
懲役8月(求刑懲役1年)を言い渡した。
なお、同被告の祖父は、開戦前と終戦時に外相を務め、
A級戦犯 として獄死、父親は元駐米大使のエリート一族で、
皇太子殿下と雅子さまの御婚約をスクープした記者として有名であった。


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