小和田雅子さん素顔の29年

小和田雅子さん素顔の29年 永井雄一 データハウス 1993

恒さんモスクワ赴任時代
ところで、ひともうらやむ秀才だった恒さんには意外な面があった。
それは、フルートを吹くことと、クラシック音楽のレコードの収集だった。
雅子さんの音楽に寄せる関心は高い。これも恒さんの影響に違いない。
ときおり社宅の窓から、ピアノの音が凍てる戸外にきこえてくることがある。
これも、恒さんが親しませたものだ。
フルートといっしょに聞こえてくるのは父娘で合奏しているとき。
ほほえましい家族の団欒が見えてきそうだ。
ただ、雅子さんが本格的にピアノを習うのはニューヨーク。
5歳のときまで待たなければならなかった。
ところが、どういうわけか、中学に入ってやめてしまった。


雅子さんは、高校1年の1学期が終わったあとに日本を離れられたので、
いっしょに学校生活を送れたのは4ヶ月ほど。
それなのに、とても印象に残っている生徒です。
学業が優秀な上、明るくて活発。クラスで人気者になったのも当然でした
日本での高校生活はたったの4ヶ月だけだった。
これは、そのときの担任だった北脇富美子さんの言葉である。
(中略)
送別会では、クラスメートが作った“送る歌”が合唱され、
雅子さんはその返礼にドイツ語でハイネの詩を朗読した。
(中略)
語学を勉強することは、雅子さんにとっては趣味のような領域だった。
フランス語もドイツ語も韓国語も、あくなき貪欲さで取り組んでいった。

ベルモント・ハイスクールに転校した雅子さんは、
そこで、なんと一番学力の低いクラスに入れられてしまう。
たいていの日本人なら、学校の方針だからとあきらめてしまうものだ。
ところが、紺のブレザーにプリーツスカートをはいたかわいい乙女は、
そんなことで満足するはずはなかった。
校長に直談判してクラスを替えてもらったのである。
「親がやらなくても自分で考えて行動した。たいしたものだ」
雅子さんの行動力に、恒さんは自分の娘とはいえ感心した。


村上市でのルーツ探し
1987年11月、殿下と雅子さんの間に、4回のデートの機会が持たれた頃、恒さんは、自分の祖父を訪ねた。
小和田家のルーツ探しの旅に、新潟県村上市を訪ねたのであった。
87年11月21日、恒さんと夫人の優美子さん、そしてもう1組の老夫婦は、恒さんの父、毅夫さんと
妻の静さんであった。毅夫さんは90歳にも手が届く年齢であった。
4人が宿泊する市内の温泉には、数日前から恒さんと雅子さんの略歴を添えて、VIP待遇で迎えるよう、
ファックスが送られていた。さらに当日になって、もう1人警備員らしい人物が合流していた。
単なる私用で訪れたわけではなかった。
翌22日、総勢5人は村上市の郷土資料館に向かった。
(略)小和田家の先祖の墓は、村上市内の浄土真宗『西真寺』の境内にあった。
俗名を『小和田兵五郎』という。わずか70センチほどの質素な墓石が立っていた。
恒さんはその墓に向かって、何枚もカメラのシャッターを切っていた。
(略)恒さんの"ルーツ探しの旅"は、来るべき日に向けての、周到な用意であったのかもしれない。
宮内庁の内規として"お妃になられる人の4代まで遡る"という例にならって、
恒さんは自分の目で、4代前までを確かめる旅にでたのであった。


外交官試験に合格した1986年10月、この同じ月に雅子さんは初めて皇太子殿下にお会いしていた。
正確に記せば、 試験に合格した12日後の10月18日、父の恒さんと共に
当時の東宮御所(現赤坂御所)に出向いていたのであった。
今では、すでに知られるスペインのエレナ王女歓迎のレセプションの席であった。
タイプ打ちされた、そのパーティーの出席者名簿に、手書きで書き加えられていたのが、雅子さんであった。


92年12月30日〜93年1月2日家族旅行で福島県のホテル・プルミエール箕輪(※)に滞在
翌31日、雅子さんはホテルのプールに一人で泳ぎにきた。
それは、やはりこのホテルで年末年始を過ごしていた家族連れの目にとまっていた。
そのご主人のIさんは、学習院卒で高円宮殿下と同級生の人であった。
黄色の無地のワンピース姿でクロールを泳ぐ雅子さんは、
美しいプロポーションでひときわ目立っていた。
スポーツ選手か、外国の女優を思わせるようだった。
それでいて、この時も雅子さんはこの家族連れの子供と、プールの中で遊ぶことになった。
「サメだ、サメだ」とはしゃぐ子供たちに「ジャジャジャジャ・・・」と
映画『ジョーズ』のテーマ曲を口ずさみながら、
雅子さんは子供たちの浮き輪を揺らしたり、潜っては子供たちを抱きかかえたり、
1時間ほど楽しい時間を過ごしていた。
さらに翌元旦にも雅子さんはプールにきて、
その時には花柄ラメ入りの水着で、他の客を圧倒していた。



※FLASH1993/01/26号
雅子さんは、12月30日から新年2日まで福島県猪苗代町の箕輪スキー場に家族旅行に出かけている。
その折り、父の恒氏がビデオを撮っていたというのだ。
「報道協定解禁後にテレビ局に配る心づもりがあったらしいのだが、
突然の解除で幻のビデオとなりそうなんだ。各局とも喉から手が出るほど欲しいところだがね」(皇室記者)。
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20070325104126.jpg

参考
週刊現代1993年1月23日号
「雅子さんは黄色の無地のワンピース姿でクロールで泳いでいました。
そのころ、子どもたちを遊ばせるのに疲れ、おじいちゃんがプールから上がったため、
子どもたちが雅子さんに向かって『サメだサメだ』と声をかけたのです。すると雅子さんは泳ぎを止め、
“ジャジャジャジャ、ジャジャジャジャ……”とジョーズのテーマを口ずさみながら子どもちをあやし始め、
浮き輪をゆらしたり、潜っては浮上したり、子どもを抱きかかえたりと、1時間近く遊んでくれたんです」
その間、雅子さんは子どもたちと楽しそうに会話を交わし、4人の子どもに「ワンピー1号〜4号」と名を付けて呼んでいた。
そのうち、ケンカが始まると「ワンピー1号、どうしたの〜」と優しくなぐさめていたというのである。



88年7月、外務省に入省したキャリア組の慣例通りに彼女は自分の希望で、
イギリスのオックスフォード大学に留学に立つことになった。
その送別会が雙葉学園の旧友たちと渋谷のレストランで開かれた。
「イギリスは初めての国だから、どうしてもいってみたかったの。
それにサイクリングでイギリス中を巡ってみたいな」そんなことを雅子さんは友人に話していた。
会の終了間際、雅子さんが挨拶することになった。立ち上がった彼女は
「最近母から気が緩んでいると注意されました。
イギリスに行ってからは、フンドシを締め直して勉強したいと思います。
……でもイギリスにはフンドシは売っていないから、買っていかなくちゃー」と思い切った話をしていた。
そこに同席した誰もが“フンドシ”という思わぬ挨拶に、驚いていたほどであった。
「もし、皇太子妃に決まったら“フンドシ”なんていわないよなあ……」
友人の一人、大野ゆり子さんはそんなふうに思っていた。

参考
サンデー毎日1989年10月8日
外務省関係者が意外な事実を打ち明ける。
「実は9月中旬から小和田さんが行方不明になっているんです」
まさかと思いつつ調べたところ行方不明は事実だった。
本誌が確認した彼女の足取りをたどってみる。
6月末から夏休みに入った小和田さんはキャンパス内にある寮でしばらく過ごした後
友人らと一緒にヨーロッパ各地を旅行。
7月後半から8月一杯までほぼパリにいたようだ。
OECD駐在大使だった父親恒氏が公邸として借りていたレジデンスに泊まり、
ソルボンヌ大学に留学している妹の新しいアパート探しを手伝うなどして
姉妹二人でフランスのバカンスを楽しんでいる。
オックスフォードに戻ったものの、9月に入ってまた行方不明に。
さぞやロンドンの日本大使館も(小和田さんは大使館つき)驚いているのではないかと問い合わせしてみたら、
「そうですね。確かに寮にはいないようですね。大学は10月2日からですから多分国内旅行にでも
出かけているのではないですか?海外に出られるときは当館に連絡するのが原則で
オックスフォードに戻られてからは何の連絡もありませんから」
とあまり心配はしていない御様子。


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