公園デビュー事件〜

噂の真相2004年3月 

■原因を作った”公園デビュー事件”
雅子妃の02年来の悩みは、
「愛子内親王が傅育官だけに囲まれ、同年代の子供と触れ合う機会が無い」ということ。
1歳児の段階では親と離れての友達遊びができるわけではないが、
「今から他の子供と触れる機会がないと、将来、友達と正常な関係が築けなくなる」
……几帳面な雅子妃は育児書通りの子育てに固執していた。
そこで雅子妃は03年1月、林田英樹東宮大夫に「お友達作り」の対応を要請。
大夫は、港区役所子育て推進課や、東京都庁福祉局子供家庭部に、愛子内親王の
「お遊び友達」となれる母子数組をリストアップするよう依頼した。
しかし、内務省管轄の警察組織や自治体を総動員して候補者を探し、
完全な身元調査を行ったうえで御所に上げた戦前の「御学友」とは異なり、
港区や東京都にそんな調査能力があるわけでもなく、警察の身元調査には限界が……。
結果、このルートでの「お遊び友達」作りは頓挫してしまう。
次に、東宮女官の親戚を探し、愛子内親王と遊ばせる試みが何度かあった。
ところが、親が雅子妃に遠慮してしまうこともあり、こちらもすぐ沙汰止みに……。
「妃殿下は、かなり落ち込んでおられたのですが、しばらくして林田東宮大夫に、
『愛ちゃんを連れて近くの公園に行き、近所の子供たちと遊ばせたい』とおっしゃり始めたのです。
東宮大夫は大反対したのですが、余りに強い御要請だったので
『何度か試されるだけでしたら……』と、渋々認めたのです」(宮内庁東宮職職員)。

■”公園デビュー事件”の顛末
初の「公園デビュー」は03年5月13日に、港区立みなみもとまち公園で実現。
しかし問題は2回目以降だった。「公園に雅子さまと愛子さまが来る!!」という噂は、
あっという間に近所の主婦に伝わってしまい、6月23日午前10時、再び皇太子一家が
みなみもとまち公園に現れると、情報は主婦たちの携帯電話連絡網で一斉に広がり、
ビデオやカメラを持った母子が大勢詰め掛ける騒ぎに発展した。
ビデオ撮影に成功した主婦の一部はテレビ局のに自ら映像を提供、翌24日のワイドショーが
大々的に報じてしまう。皇太子夫妻は困惑したが、依然、公園で遊ぶことにこだわり、
「暫く時間を置いて別の場所に行く」という善後策を立てる。
しかし、7月3日と15日、港区・神宮外苑児童遊園への外出も結果は同様で、
やはりビデオと写真がマスコミンに流出。各メディアは美談仕立てて大々的に報じた。
たかが1歳児の公園遊び……しかし思い詰めた母親にとっては、世界的大事件より重い出来事である。
4回目の公園行きの失敗で雅子妃は塞ぎ込み、直後の7月27〜28日に予定されていた長崎県への
高校総体視察をドタキャン。皇太子の単独出席という事態となった。
雅子妃は更に、「今後の地方訪問で2泊3日は無理。1泊2日にとどめてほしい」と要請し、
秋以降の地方視察の大部分は1泊2日となった。雅子妃は、林田東宮大夫ら宮内庁東宮職幹部が、
自分と夫の子育て方針に鈍感であることに、強い憤りを感じているという。

■宮内庁と東宮妃の確執
皇太子夫妻の側近には林田東宮大夫と小林秀明東宮侍従長がいるが、林田は旧文部省、
小林は外務省出身で、夫妻との付き合いは短く、4人の東宮侍従も全員が他官庁からの出向組。
女官は高木みどり東宮女官長ら、93年御成婚当時からの長い者が多いが、
海外生活の長かった雅子妃と話の合う人はなく、雅子妃の周囲には、
苦悩を打ち明けられる人間がいないのが現状。
01年12月の出産直後には、雅子妃が宮内庁幹部と「育児休暇」をめぐり対立している。
「妃殿下は、『育児休暇は働く女性の社会進出のためにも必要だし、時代の流れ』として、
向こう1年間は育児に専念したいと要望されました。ところが宮内庁幹部はそろって大反対。
『皇后陛下は3宮殿下ご分娩後、すぐに御公務に復帰された』という前例と、
『皇太子妃殿下が1年も公務を休むことに世間の理解が得られるかどうかわからない』というのがその理由です。
そして宮内庁は雅子妃の意向に反し、02年2月8日の青少年読書感想文コンクール表彰式で
公務復帰されることを勝手に公表してしまったのです」(宮内庁東宮職職員)。
このとき湯浅利夫宮内庁長官が根拠にしたのが、
「産後8週間を経過すれば女性の就業が許される」趣旨の労働基準法第65条。
出産2ヵ月後の公務復帰もこの条文を援用したもので、長官の役人根性も見事というほかない。
ところが元官僚の雅子妃もさるもの、
「労働者が1歳以下の赤ちゃんの養育のために休暇を申し出た時、事業者は拒めない」とする
新・育児休業法の規定を持ち出し、「皇太子妃としての自分が働く女性のモデルにならなくては」と強く反論した。
しかし、東宮御所での話し合いの結果、湯浅長官が「社会にはまだ、育児休暇を取りたくても
取れない女性が多いのですから」と説得し、結局、雅子妃が折れた経緯がある。
しかし雅子妃の抵抗は続く。03年3月24日、長野市で開催の世界フィギュアスケート選手権大会が、
出産後初の地方公務として予定されたが、
「4ヵ月の乳児と母親が離れて夜を過ごすのはよくない」として、日帰りを要求。
長野新幹線が開通したとはいうものの、首都圏以外の地方公務で皇族が日帰りをした前例はなかったが、
ここでは宮内庁が折れた。雅子妃は「公務を軽減し、自分のペースで携わらせてほしい」という
言い分があるのだが、宮内庁は「皇后陛下・皇太子妃時代の御前例」を盾に、
ほとんど聞く耳を持たないでおり、育児休暇をめぐる軋轢も尾を引く結果に。
03年の雅子妃は、地方公務は12回計27日。ほぼ1ヵ月近くを地方で過ごしている。
これに都内での行事、宮中行事が加わるため、一般女性と比べれば「出張日数」は多い。
この「27日」は夏以降の2泊以上の公務が減ったうえでのもので、本来はもっと多いはず。
雅子妃の過労の一端が過密スケジュールにあるのは確かである。雅子妃のヘルペス発症後、
湯浅長官は「お疲れについては客観的なものが出なかったため対応が困難だった」、
林田大夫は「御公務を減らしてはきたものの、中途半端だった」と言い訳したが、
24時間態勢で東宮侍医が見守っているにもかかわらず、雅子妃の体調に注意を払わなかった
宮内庁幹部の責任は大きい。

■東宮妃の独善化
とはいえ、雅子妃が一方的な被害者、という見方にも大いに疑問が残る。
宮内庁からすれば、雅子妃の「自己流」や「わがまま」に振り回されているという思いが強い。
「妃殿下の最大の後ろ盾は、皇太子殿下と皇后陛下です。最近は、妃殿下が宮内庁幹部と
対立するとすぐに御自身で皇后陛下へ電話で御相談申し上げ、皇后陛下が折を見て
湯浅長官から事情を聴かれる、という構図があります」(宮内庁東宮職前職員)。
また、雅子妃は、田園調布雙葉学園の友人から、子供の知育にいいという
外国製のおもちゃの情報を仕入れ、購入したい旨を東宮女官に要請。
しかし日本で取り扱っている店がなく、女官は似たような商品を見つけてきたものの、
「本物でなければ意味がありません。真剣に探しているのですか?」とムッとした、
というエピソードは、東宮御所内でかなり有名だという。
「その事件の後、小林東宮侍従長自らあちこちの輸入玩具代理店や総合商社に電話をして、
欧州の製造元を突き止めました。そして侍従長自身の外務省人脈を使い、おもちゃ製造国の
駐日大使に連絡し、現地購入を要請、わざわざ東京まで送ってもらったそうです。
振り回された職員にしてみれば『また、妃殿下のアレですか……』とぼやくことしきり」(宮内庁東宮職前職員)。
また雅子妃は、愛子内親王にABCの歌や英単語を熱心に教えているが、かなり本格的なので、
林田大夫が「愛子内親王殿下は日本皇族なのですから、
まずは、日本語から教えられてはいかがでしょうか?」とアドヴァイスした。
これに対し雅子妃は、「愛ちゃんの教育は私どもが責任を持ちます」と不機嫌になったことも。
「雅子さまは御婚約前からキャリアウーマンのイメージが強いですが、これは明らかに
”作られた虚像”。確かに仕事はできるし、官僚としての事務処理能力には優れていましたけど、
外交官として大切な人脈づくりは得意ではなかったのです。もともと彼女は友達が少なく、
内向的な性格。生真面目で融通が効かず、原則論に固執する癖がありますね。
育児に集中し柔軟な対応ができないのも、彼女の性格が影響しているのだと思います」(全国紙社会部デスク)。

■今後の東宮妃
当面の焦点は休養期間だが、宮内庁は、2004年3月下旬に予定されていた皇太子夫妻初の
訪米を完全に見送り、4月29日に佐賀県で開かれる「みどりの愛護の集い」で復帰させたいと
考えている。これに対し雅子妃も心境を記した文書で、「なるべく早く公務に復帰」と明記。
しかし一方で「体力と気力が充実させるまでにはしばらく時間がかかるかもしれない」とも。
「実は、妃殿下は、今度もまた『年末まで公務を休むことはできないでしょうか』と
懇願されておられます。『春までの御静養』も、2〜4月は皇室行事が少なく、
それまでなら休養が目立たないという湯浅長官と林田大夫の思惑で発表されたのですから。
妃殿下は精神・神経系統の御病気なので、本来、治る時期を明示することなどできません。
東宮侍医の中にも、それはおかしいと言っている人もいます」(某東宮侍医と同窓の内科医)。
ただ、雅子妃が「年末まで」と主張するのも、自身の病気治癒のためというより、
「3歳まで子供は母親が家庭で育てるべきである」という、いわゆる「3歳児神話」に
取り付かれている(12月で愛子内親王は3歳)からだという。「3歳児神話」は小和田優美子夫人が
強く信奉しているが、児童発達学的にはほとんど根拠が無い。
この問題に関しては、雅子妃と宮内庁が原則論を捨てて双方の対立を公表する以外に、解決の道は無い。



週刊女性2004年7月20日号
ともあれ'02年末の雅子さまの記者会見では発言を機に表面化した皇室内の確執は、
翌年5月の“愛子さまの公園デビュー”で決定的なものになったといわれる。
「ご夫妻が愛子さまを近くの公園にお連れになった5月23日は、皇宮警察音楽隊創立記念行事の日。
これには例年、皇太子ご夫妻が出席されていた。その公務を休んでのことでしたから、
皇后さまは大変お怒りだったそうです」(前出・元女官)
が、その後も、皇太子ご一家は3回、公園にお出かけに。
「これについても、相当に厳しいやりとりがあったという声も聞きます」(同前)

週刊現代2004年7月24日号
宮内庁が雅子妃に異を唱えたのはこれが初めてではない。
’03年5月の愛子内親王の「公園デビュー」も、宮内庁には歓迎されなかった。
なぜかお忍びであるはずの“お散歩”にはマスコミが押しかけた。
結局、愛子内親王を遊ばせるどころではなくなり、“お散歩”は数回で中止となった。
この時の背景を宮内庁職員は語る。
「お忍びなのに、マスコミが先回りできたのは、公園デビューを快く思わない宮内庁職員が、
情報をリークしたからといわれています。行く先々でカメラが待ち構えていたのですから、
関係者が情報を流したとしか考えられない。
宮内庁は、これ以上、雅子妃殿下の好き勝手にやられたらたまらないと考えたのです。
そんなに愛子さまを公園に行かせたいのなら、東宮の中に公園をつくればいいじゃないかという
意見までありました。  

週刊ポスト2006年3月10日号 
03年5月13日午前10時半、皇太子夫妻は東宮御所から北に300m離れた「みなみもと町公園」に突然現れる。
1歳を過ぎた愛子内親王を同年代の子供と遊ばせるための公園デビューである。
しかし曜日と時間がまずかった。
この日は平日火曜日の午前中、一般人が働いている時間帯であり
警護を引き連れて公園に遊びに行った皇太子夫妻に
「いくらなんでもまずい」と両陛下の周辺から声が上がり、波紋が広がった。
ただ皇太子夫妻は「大人に囲まれている愛子にお友達を」との思いからか、すぐに公園行きを止めなかった。
皇居内での批判はその後も強まり、公園行きはその年の7月15日を最後に終わる。


アサヒ芸能2008年2月28日号
結婚した93年、雅子妃は宮中祭祀に4回出席しているが、06年、07年は0回。
皇太子殿下は20回以上祭祀に出席。
茶会などを含む宮中行事は、05年と06年は6回、07年は9回、
一方皇太子殿下は23回ずつ出席している。
宮内庁関係者によると、雅子妃は皇居に行こうとすると、体が縮こまり足が向かなくなる。
宮内庁との亀裂が決定的になったのは、03年の公園デビュー、
お忍びで近所の公園に5月13日に行ったことに、宮内庁は不快感を募らせる(警護の問題の為)
10日後の23日、事前に予定を知った宮内庁幹部は、マスコミにリーク、
大騒ぎをさせることで、公園デビューにNoを突きつけたが、
結局7月に3回目の公園行きを強行している。これで決定的な亀裂が入る。
湯浅利夫長官以来、「人格否定発言の真意を伺いたい」と申し入れてきたが、
殿下はまったく応じなかった。
以降、誰が侍従や女官の幹部になっても、信用回復が不可能なほどの没交渉が続いてる。

週刊文春2011年12月15日号
その“密着"した母子関係の発端が2003年のご夫妻の強い意向で行われた「公園デビュー」であろう。
「(公園には)警備や記者がいっぱい。なんとか愛子さまと息子を仲良くさせようと声をかけましたが、
愛子さまは砂場の砂をいじってらっしゃって無視されてしまいました(笑)」(当時現場に駆けつけた主婦)
その当日、「皇宮警察記念演奏会」が催されていたが、皇太子ご夫妻は欠席だった。


 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

拾い物

公園デビュー
皇太子は缶ビールを飲んだ(TVで売店の人がインタビューに答えた) 


「愛子さまの公園デビュー」に難色を示したのは宮内庁のみではなく、皇后も賛成ではなかった。
でも雅子さまは言う事を聞かなかった。
いざ実行したらマスコミや見物人が集まってきて愛子さまを普通に遊ばせることが出来なかった。
この失敗が、一番雅子さまを傷つけた。
雅子さまが理想としていた「同じ年頃の子供と公園で遊ぶ。」 という触れ合いが、
上手くやれなかったことにショックを受けた。




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