宮中祭祀

日本会議国会議員懇談会
松浦光修皇學館大學教授が「天皇の<本務>とは何か?」と題し、
祭祀と天皇は不可分、祭祀は過酷な仕事、祭祀には禁忌がある、の三点に 絞って論じた。
背広姿で公務している天皇、外国の賓客と会見する天皇、被災者を見舞う天皇が天皇の本質ではない。
GHQ政策で歪められた国民の天皇に対する常識に修正を求め
「天皇の本質は宮中三殿で祭祀を勤めること」と述べた。
「神と国民のなかを取り持つ祈りは千年以上微動だにせず今日に至っている」と語り、
「午前一時に起床し潔斎の後、四時半からの祭祀に臨む。
暖かくもなく極寒で一時間独りで祈る。肉体的には過酷で、この祭祀が年間三十以上ある」と
「祭祀の王」の一端を紹介。
「国民が知らないところで祈っている。日本は天皇の祈りによって守られている国」と
無償の愛を紹介しこれが「世界史上稀有な存在」と強調。
(2006年9月)

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

■「天皇家の宿題」 岩井記者
宮中祭祀と皇太子妃 
皇太子妃が宮中祭祀を徹底的に拒否している現状について
「皇室にとって自己否定に均しく、計り知れないほど深刻な状態」
「紀子様は公務に関する陛下のご意思をすばやく察知するのに対し、雅子様はいちいち論理的な説明を求める」


■「美智子妃」 河原敏明 
宮中祭祀には、天皇が自ら行う大祭と、掌典長(神官)が祭祀をする小祭、
合わせて約20あり、いずれも天皇はじめ各皇族が参列する。
他にも節折(よおり)、大祓(おおはらえ)など神道固有の神事があり、
中でも重要なのが11月23日の新嘗祭。
その年の新穀を皇祖や神々に備え感謝を捧げるとともに、
賢所の内陣では天皇が御飯、 山や海の幸に箸をつけるという農本国家を象徴する神事で
午後6〜8時の「夕(よい)の儀」、11〜翌24日1時頃までの「暁の儀」と
2回に分けて行われる。太古の時代そのままに庭には篝火がたかれ、
賢所内では灯明の灯りがほのかに揺らぐ幽玄の気の中に、
天皇お一人がこもって祈りを捧げられる神秘の儀式である。


■中央公論2005年4月号 
語られていない「宮中祭祀」という鍵
原 
宮中祭祀には、大きく分けて大祭と小祭があり、大祭には天皇夫妻 や皇太子夫妻のほか、
皇族や三権の長も出席します。ただし、宮中三殿に上がらなければならないのは
天皇、皇后と皇太子、皇太子妃までです。それ以外の皇族は三殿には上がらず外で見ている。
秋篠宮夫妻もそうです。
ただ、いままでのお祭りを見ていくと、どうしても皇太子妃だけが出ていないというのが
非常に多い。天皇夫妻や皇太子、秋篠宮夫妻は出席しているのに、
皇太子妃だけが欠席している祭祀が目立つのです。

天皇と皇后に比べると、皇太子と皇太子妃には?がかなりある。とりわけ、皇太子妃にはそれが多い。
まず1999年9月の秋季皇霊祭から2000年1月の孝明天皇例祭までは、元始祭を除いて出欠が確認できていない。
2002年4月の神武天皇祭から翌年の神武天皇祭までの1年間も、持統天皇1300年式年祭を除けば不明である。
なお別表には掲げられていないが、2002年12月10日に宮中三殿で行われた
「皇太子皇太子妃ニュージーランド国及びオーストラリア国御訪問につき
賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」には、皇太子は出席したのに対して、
皇太子妃は欠席したことが確認されている(『神社新報』2002年12月16・23日号)。
皇太子妃は、同年6月の皇太后死去と、2001年5月の懐妊発表、そして同年12月の内親王出産に伴い、
少なくとも2000年4月から2002年3月までの約2年間は、宮中祭祀に全く出ていない。
また、帯状疱疹で入院する2003年12月以降、今日(2004年10月現在)に至るまでも同様である。
なお、秋篠宮夫妻は別表で掲げたほぼすべての祭祀に出席している。

平成11年から15年までの40回の宮中祭祀について
天皇陛下 7回欠席 (前立腺がん手術のため)
皇后陛下 1回欠席 (実父死去の服喪)  出欠の記載なし 7回
皇太子殿下  1回欠席(ヨルダン訪問中) 出欠の記載なし 14回
皇太子妃殿下  9回欠席         出欠の記載なし 19回 
 はっきりと出席が確認できるのは12回のみ

原 武史氏「アリエス」2004年秋号初出
福田和也氏「文芸春秋」2005年4月号転載分より
雅子妃は、確認できる欠席が、ヨルダン国王の国葬参列・流産による静養・御懐妊・御出産に伴う静養など九回。
その他確認できない回が十九回ある。出席が確認できるのは十二回である。
この出席率の差に、原氏は、天皇御夫妻と皇太子御夫妻の祭祀への思いの
違いずれを見ているわけである。


宮中祭祀というブラックボックス

対談
原武史
保阪正康




■入江相政日記
昭和天皇が満六十八歳となったときから、
以後、新嘗祭は夕の義の四十分だけとし、暁の義は中止とした。


平成になり、本来の姿へと戻された。
十日ごとの旬祭のうち、毎月一日は三殿へ参拝。 年間三回ほどの祭りを厳修している。
日本の神々に祈りを捧げる天皇について、
美智子皇后は一九九五年の誕生日に、次のように語っている。
国民の叡智がよき判断を下し、国民の意思がよきことを志向するよう、
(天皇が)祈り続けていらっしゃることが、
皇室存在の意義、役割を示しているのではないかと考えます。


■宮中歳時記(小学館文庫)
入江相政侍従長
元日最初に行われる祭祀が四方拝(しほうはい)
これは年災をはらい、五穀豊穣と国家・国民の幸福と皇室の隆盛を祈願する年頭の大切な儀式。
まだ、夜も明けない真っ暗なうちから 準備が進められ、午前4時になると儀式が始まる。
これは天皇陛下自らが行う遙拝の儀式なので、天皇陛下が病気などの時は 中止になる。
代拝が認められない儀式だけに、おちおち風邪もひけない。

午前九時を過ぎると、宮殿は大変な賑わいになる。
新年祝賀の行事は分刻みのスケジュールで進行する。
宮殿の全ての部屋を使い、祝賀に集まる人々を休所、両陛下の祝賀、祝い酒と次々にさばく。
両陛下は皇族方とご一緒に、宮殿の部屋を次から次へ移動なさって、祝賀をお受けになる。
祝賀に参内する人々は、宮内庁関係者、皇族、旧皇族、内閣総理大臣はじめ各大臣、
衆参両院議長はじめ国会議員、最高裁判所長官はじめ裁判官、認証官などである。
ご昼食はこれらの行事の間をぬって両陛下と皇族方とで
宮殿の食堂であわただしいうちに簡単におすませになる。
お食事の始まるのは午後一時に近い。
ご昼食も早々にして午後の祝賀が始まる。各国の日本駐在大使の祝賀である。
宮殿松の間に、お国ぶりの正装をした大使夫妻が一人ずつ両陛下の午前に進んでご挨拶をする。
両陛下、皇族方はその間30分以上、松の間中央にお立ちになったままである。

■天皇さまお脈拝見
12/31の行事、節折(よおり)と大祓(おおはらえ)
「節折とは、天皇がしらずしらずのうちにおかした罪や穢れを祓い清めるというのがその主旨、
これは午前二時から。続いて午前三時からおこなわれるのが大祓。
大祓は、国民一人ひとりが、やはりしらずしらずに犯した罪穢れを祓い清めるというのである。
大晦日の行事がそうして終ると、陛下は潔斎されたお身体を保たれたまま
翌日元旦の四方拝、歳旦祭を迎えられるのだ。
四方拝は、天皇が年頭にあたり、五穀の豊穰、国家国民の安寧を祈って伊勢神宮をはじめ、
各山陵、四方の天神地祇を遥拝するという、宮中古来からの恒例の行事である。
つづいて陛下は、賢所、皇霊殿、神殿のいわゆる宮中三殿におもむかれて玉串を捧げられる。
これが歳旦祭といわれるものである。歳旦祭が終るころに、ちょうど夜もしらじらと明けてくるのだから
大晦日から元旦にかけては、陛下はほとんど、お寝みになる間もないくらいだ。
夜が明けきれば明けきれたで、つまり元旦の日にはこれまた行事が目白押しである」

■櫻井よしこさんのブログより
http://yoshiko-sakurai.jp/
『天皇陛下の全仕事』によると、天皇陛下は元旦の午前5時半には
宮中三殿に並ぶ神嘉殿(しんかでん)の前庭にお出ましになる。
庭中央の、屋根だけの東屋風の簡素な建物には清潔な青畳が敷かれ、
陛下はそこで皇室の祖先神が祭られている伊勢神宮に遥拝し、
国の安泰と国民の幸福、農作物の豊作などを祈り四方拝を行われる。
元旦の東京の日の出は午前6時50分頃、したがって周りは暗く、
厳しい寒さの中での厳粛な祈りである。

御所から神嘉殿に向かわれる陛下をお見送りして、
皇后美智子さまが詠まれた歌を、山本氏は紹介する。
年ごとに 月の在(あ)りどを 確かむる 歳旦祭に 君を送りて
歳旦祭に臨む前に、陛下はすでに御所で身を浄め、身装いを正しておられる。
祖先の神々に祈りを捧げるずっと前から始まる仕度を、
皇后さまは陛下と呼吸を合わせるようなお気持で見守っておられることだろう。
そして、いよいよお出ましの時、闇に鎮まる皇居の森から視線を空に上げて、
月の光を探される美智子さまのお姿が浮かんでくる。

今上天皇は、新聞もテレビもあまり報じないこうした古代の祭祀を非常に大切になさるという。
自らを慎み古式の装束での祭祀は年間30回を超えるそうだ。
それを忙しい「公務」の間に手抜きもなさらず、とり行っておられる。
かつて天皇は日本のまつりごとの主宰者だった。
まつりごとは「祭り」であり「政」だった。これを一変させたのがGHQだ。

■貞明皇后伝記
大正天皇を10年も介護し、死後は自分が死ぬまで四半世紀もの間
毎日午前中全部と夕方二時間拝殿で祈った。
吹きっさらしの壁の無い建物でコンクリートに一枚畳を敷いてじかに座ってだった。
御所の掃除奉仕団への挨拶もおざなりではなく前夜必ず詳細な地図や資料で下調べをする。
大正天皇の病室でボーッとつったっている良子様(香淳皇后)に貞明が一言「おしぼり!」と言った。
「良子はビクッとして手袋も脱がず、いきなりタオルを握った。」

■貞明皇后の真意
評論家・鳥居民 「宮中祭祀廃止論」への疑問

■「宮中賢所物語」
1月 1日歳旦祭 ★天皇・皇太子のみ
1月 3日元始祭 その年初めて両陛下・両殿下が揃って拝する大切な行事 (他皇族も)
1月 7日昭和天皇祭
1月30日孝明天皇例祭
2月17日祈年祭 ★天皇・皇太子のみ
3月21日(春分の日)春季皇霊祭
4月 3日神武天皇祭・皇霊殿御神楽
6月17日香淳皇后例祭
6月30日節折(よおり)の儀(大祓い) ★天皇のみ
7月30日明治天皇例祭
9月23日(秋分の日)秋季皇霊祭
10月17日神嘗祭
11月23日新嘗祭
12月15日賢所御神楽
12月23日天長祭 ★天皇・皇太子のみ
12月25日大正天皇例祭
12月31日節折(大祓い) ★天皇のみ
この他に、歴代天皇の式年祭(それぞれの崩御後100年ごと)
★印以外は、他の皇族がたも参加。

■宮中祭祀 大祭と小祭
宮中祭祀には、大祭と小祭がある。
大祭は、元始祭(1月3日)、紀元節祭(2月11日)、
春季皇霊祭、春季神殿祭(ともに春分日)、神武天皇祭(4月3日)、
秋季皇霊祭、秋季神殿祭(ともに秋分日)、
神嘗祭(10月17日)、新嘗祭(11月23日より24日に亘る)のほか、
先帝祭(毎年崩御日に相当する日)や先帝以前三代の式年祭(崩御日に相当する日)
大祭は、天皇が皇族や官僚を率いて祭典を主催し、御告文を奏する。
そのほかに小祭があって、大祭と小祭の間には、準大祭といわれる祭祀がある。

■斎宮物語
「伊勢の祭主」
現在は既婚者が祭主になることもあり、かつての因習はなくなったようですが、
本来は、天皇家から伊勢神宮に姫を「捧げる」ことを指していました。
昔は斎王と呼ばれた。 (在所を「斎宮」と呼ぶところから、斎王その人も斎宮と呼ばれた)
天皇の代替わりがあると伊勢の斎王も交代します。
斎王は皇族の未婚の姫(天皇の娘とは限りません)の中から占いで選ばれます。
大体が母親の身分が低かったり、寵愛が薄かったりするので、
占いで決めるといっても、あまり公平な選び方ではなかったようです。
斎王が任を終えて都に帰ることを退下(たいげ)と言います。
天皇が死んだ時、または譲位した時に斎王の任が解かれます。
また斎王の父が天皇以外の場合には、両親のどちらかが死んだ時に任を解かれます。

■新嘗祭
宮中の新嘗祭は23日午後6時から8時までの「夕の儀」と、
午後11時から24日午前1時までの「暁の儀」の2度にわたっての祭儀がおこなわれます。
皇居内の神嘉殿において「夕の儀」では夕食を
「暁の儀」では朝食を天皇陛下御手ずから神々にお取り分けになり食事を共にされ、
私ども国民の平安をお祈り下さいます23日は戦前「新嘗祭」という祭日でしたが、
戦後は「勤労感謝の日」と改称され休日の一つとなってその意義も忘れられてしまいました。
私達が夕食をしている頃に天皇陛下は神々と夕食をともにされ、
そして私達が寝静まる頃には再び神々と朝食を共にしておられます。
暖房の設備もない神嘉殿において、尊き御身ながら2時間もの
長い時間を正座の御姿勢をおとりになりお祀りを遊ばします御姿は誠に恐れ多いことであります。

■天皇さまと祭り
日本の国が始まって以来、天皇陛下の最も大切なお務めは、
御親ら(おんみずから)世の平らぎをお祈りになるお祭りを行われることです。
陛下が宮中で御斎行(ごさいこう)になられる恒例のお祭りは、
私たち国民一人ひとりにとっても、きわめて大切なお祭りです。
陛下のお祭りは、決して私的な信仰、皇室内のお祭りではなく、
常に国の発展、国民の幸福、世界の平和をお祈りになられる広い意味をもったものだからです。
陛下は、常に天照大御神の御神意をはじめ、御歴代天皇の御志(おんこころざし)を体すべく、
まごごろを尽くしてお祭りを続けられています。
それは、日本の国の繁栄を祈念された天照大御神の御心(みこころ)を継承し、
その御心をこの現代において生かすことを願われているからにほかなりません。
このお祭りを連綿と今日まで行われてこられたのが、歴代の天皇さまです。
私たちのくらしの背後には、常に天皇さまのお祭りとお祈りとがありました。
こうしたお祭りとお祈りがあればこそ、私ども国民の生活が今日のように豊かに、
そして国の発展とがもたらされてきたといえましょう。

■昭憲皇太后の祈り
昭憲皇太后の祈り
  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

諸君!2008年7月号 平成皇室二十年の光と影
「提言 われらの天皇家、かくあれかし」 より
■宮中祭祀改革は誰の構想か 八木秀次 (高崎経済大学教授)
国の中心に「国平らかに民安かれ」と常に祈っておられる方が存在するということが、
どれだけ国民に心の安定感を与えていることだろうか。
またどれだけ我が国の発展に寄与しているだろうか。
為政者に頼るところがなく、国民道徳が腐敗する今日にあっても、我が国が辛うじてその地位を保っていられるのは、
こうした皇室の目に見えない「祈り」のお陰であると思わざるを得ない。
「祈り」は何も今上陛下の御代に特有のことではない。「祈り」は皇室の存在理由そのものである。
天皇はその始まり以来、一貫して「国平らかに民安かれ」と祈る祭祀王であり、
祭祀をしない天皇など語義矛盾でもある。
『日本書紀』によれば、皇祖神・天照大神自ら祭祀を行っているし、初代天皇・神武天皇も
「天神地祇を敬い祭」る存在として記述されている。
歴代天皇の祭祀に対する基本姿勢は第八十四代・順徳天皇の『禁秘抄』にある
「凡そ禁中の作法、神事を先にし、他事を後にす」との言葉に尽きている。宮中では神事しなわち祭祀を優先し、
その他のことは後回しということだ。今上陛下は皇后陛下とともに、『禁秘抄』の言葉そのままに
「祈り」を皇室の中核にしてこられたということであろう。
ところでこの皇室の存在理由そのものといっていい宮中祭祀の大幅な簡略化ないし廃止が
最近になって唱えられるようになっている。発端は皇太子殿下が昨年二月のお誕生日を控えてのご会見で、
雅子妃殿下のご病気の原因が宮中祭祀への違和感にあると示唆されたとして、
明治学院大学教授の原武史氏が、『週刊朝日』(07年3月9日号)で発言したことにあった。
原氏は、神武天皇は本当に実在したと考えられるか、天照大神の存在を理屈ぬきで受け入れられるか、
といったことなどを挙げ、こうしたことが合理性を重んじる海外で生活を重ね、
外交という現実の世界を生き抜いてきた妃殿下にとって簡単に受け入れられることではない、
信じることができなければ祈ること自体が苦しくなると述べ、「皇太子妃にとって、この『菊の壁』は
とてつもなく厚く、結婚前は想定もしていなかったものでしょう」
「本当は、そこに皇太子妃が苦しんでいる本質があると知ってほしい」と発言している。
そして、この妃殿下の苦しみを救うべく宮中祭祀の簡略化ないし廃止に向けて皇太子殿下が
「宮中祭祀改革」の構想を密かに温めているのではないかと推測している。
果たしてこの「推測」が文字通りの推測であるのか、
妃殿下を含めた皇太子殿下サイドの代弁をしたものであるのか、今のところ分からない。(中略)
問題は深刻である。遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや、少なくとも祭祀に違和感を持つ皇后が誕生するという、
皇室の本質に関わる問題が浮上してくるのである。皇室典範には「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、
又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、…皇位継承の順序を変えることができる」(第三条)との
規定がある。祭祀をしないというのは「重大な事故」に当たるだろう。
今はただ皇太子殿下・妃殿下に宮中祭祀に対するご理解を求めるばかりである。

■宮中祭祀の見直しを 原武史 (明治学院大学教授)
…「お濠の外側」では、急速に都市化が進み、農耕儀礼が廃れてゆくのに、「お濠の内側」では相変わらず
宮中祭祀を続けている。首都圏で手つかずの自然が、東京の中心部にしか残されなくなるという逆説は、この
ギャップを鮮やかに示すものとなった。
それでも、戦前に生まれ、59年に結婚した現天皇夫妻の世代までは、日本がまだ農業国だった時代の記憶が
濃厚に共有され、村落の氏神で行われる祭りを通して、新嘗祭のような宮中祭祀が行われることの深い意味を、
おのずから感得することができた。ところが、それ以降の世代になると、11月23日は「勤労感謝の日」となり、
その日に宮中で新嘗祭が行われているという事実自体を知らなくなる。高度成長期に当たる60年代に生まれた
現皇太子夫妻の世代がまさにそうである。言うまでもなく、今日の日本はこうした世代が多数派を占めている。
昭和から平成になり、皇室で顕在化した問題の多くは、ここから生じているのではないか。「お濠の内側」と
「お濠の外側」のギャップは、いまやかつてないほど大きくなっている。全く土着的なにおいのしない東急沿線の
高級住宅地で育ち、田園調布のカトリック系の私立学校に通った雅子妃が、2003年9月以来、宮中祭祀に
全く出られなくなり、適応障害と診断されたのは、ある意味で当然のことであった。
…おそらく、道は二つしかない。「外側」を「内側」に合わせるか、「内側」を「外側」に合わせるかである。
前者の場合は、都市を解体し、農村をよみがえらせ、村々の祭りを復活させなければならない。そして勤労感謝の日を
新嘗祭に、春分の日や秋分の日を春季皇霊祭や秋季皇霊祭に改めるとともに、天皇や皇族がその日に祭祀を行って
いることを国民に周知徹底させなければならない。
後者の場合は、日本社会の現状にかんがみ、宮中祭祀のあり方を見直さなければならない。より具体的に言えば、
もはや社会の現実から完全に遊離した宮中祭祀をやめるとともに「瑞穂の国」のイデオロギーに代わる新たな
イデオロギーを構築することを検討しなければならない。 …

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

週刊朝日2007年3月9日号
明治学院大 原武史教授が読み解く
皇太子47歳の誕生日会見で浮かび上がった雅子さまの回復が進まぬ本当の理由
記者会見の2問目の回答に原教授は注目「公的な性格のある活動」は「宮中祭祀」と読める。
昨年の皇太子の誕生日会見で「宮中祭祀」を「公務」より後ろに位置づけている。
あれは宮中祭祀のほうが公務より負担が大きいことを認めたようなもの。
つまり、皇太子妃は宮中祭祀には耐えられないというメッセージである。
2004年の「人格否定」後の皇太子の発言でも「伝統やしきたり」が
雅子さまを苦しめる要因のひとつであったと告白している。
宮中祭祀は体調を崩すことになった原因のひとつというよりもっと根が深く解決しがたい問題。
プレッシャーとして皇室独特の文化をあげる。
「血の穢れ」(生理という究極のプライバシーを明かすこと)
それ以上にのしかかってくるのは天皇家に繋がる神話性を信じることができるかどうかというプレッシャー。
合理性を重んじる海外での生活を重ね、外交という現実の世界を生き抜いてきた雅子さまにとって
そうした物語を信じることは簡単ではないだろう。
信じることができなければ、祈ること自体が苦しくなるに違いない。
天皇皇后両陛下は70歳を超えてなお宮中祭祀に精勤されており、
皇太子夫妻との間に横たわる溝がくっきりと見えてくるように思える。
明治、大正、昭和天皇と比較してもいまの天皇の頻繁な礼拝振りは際立っている。
皇后もキリスト教への理解があることから「祈り」の行為をしっかり身に刻んでいる。
天皇、皇后がそこまで宮中祭祀を重んじるのは
「皇太子夫妻が国民に見えやすい公務のあり方により関心を向けている分、
自分たちがしっかりしなければという責任感と、時代の天皇制がきちんと守られていくかどうかという
不安があるからではないでしょうか(原教授)」
皇太子の今年の誕生日会見の悲壮な決意
「わたくしとしては一日一日を大切にしながら、皇太子としていま行うべき仕事に邁進していく所存です」は、雅子さまが病気療養のため果たせない役割を少しでも埋めようという意識と無縁ではないだろう。
皇太子自身は宮中祭祀には出ているが、天皇皇后秋篠宮夫妻には「雅子さまの不在」が印象づけられるだろう。
天皇家における「祈り」の行為、つまり宮中祭祀を雅子さまが受け入れられるようにならない限り、
問題は解決しない。だからこそ、皇太子は「宮中祭祀改革」の構想をひそかに温めているのではないか。
女性により負担のかかる妻子を簡略化するか廃止するかすれば、雅子様を救うことができる。
同時に、いまは棚上げになっている皇室典範改正論に再び火がついて
女性・女系天皇が認められるようになったとしても、愛子さまへの負荷は取り除けるというわけだ。
「それは新しい皇室の形であると同時に、天皇制の根幹を揺さぶる挑戦にもなるでしょうが、
荒唐無稽な話というわけではありません。そもそもいまの宮中祭祀は明治天皇になってから生まれたものが多く
いわば『つくられた伝統』なのですから」明治より前の時代に戻ると考えれば不自然とはいえない。
昭和天皇が人間宣言によって象徴となった戦後、天皇制は質的な転換を遂げたと思われているものの、
実際には宮中祭祀は温存され戦後の天皇家の神秘性は保たれてきたのだという。
皇太子は47歳の会見では宮中祭祀に直接触れることはなかった。
「本当は、そこに皇太子妃が苦しんでいる本質があると知って欲しい。でも、それが明らかになれば
『回復は永遠に絶望的』と言うに等しくなる。だから<公的な性格のある活動>
という表現をとったのではないでしょうか」

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

参考
雅子さまが宮中祭祀をしないことについて皇太子殿下は
 
平成18年誕生日会見で
宮中で行われている祭祀については,私たちは大切なものと考えていますが,
雅子が携わるのは,通常の公務が行えるようになってからということになると思います。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h18az.html

週刊文春2005年12月29日号
妃殿下が祭祀に参加されなくなった頃、(宮内庁職員が)皇太子にこのままでよいのかと尋ねた。
ご返事は「参加しなくていいよ」。
職員は周辺に「そう言われちゃったらしようがない」と洩らした。

 
 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

本人の希望に宮内庁が折れ、雅子妃には新しい人ばかり女官としてついた。
今までは宮中の事情に疎い妃を教育するため古参の女官が必ず妃に付けられていた。
どの妃も姑とその女官に厳しく躾られた。
昭憲皇后ですら、長橋局という幕末から宮中に巣くってた女官に蔑ろにされていた。
そういう教育的指導を受けて、皆様、皇族としての立ち居振舞いを身に付けていった。

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今上帝は祭祀を非常に重く見られ、お出かけと祭祀が重なられたときに周りが
「お祭りはおやめに なってはどうか」と言われたとき、
その日の日程を詳しく聞かれて空いている僅かな時間を見つけて「出来る」と言われた。
また、昭和天皇は地震や洪水があった時決して被災地には行かず
民がこれだけ苦しむのは自分の祈りが足りないからだ、とひたすら皇居で祭祀に努められた。

香淳皇后は還暦過ぎから健康への配慮のためにお湯を使っていらっしゃったが、
古希を過ぎた皇后陛下が今でも冷水なのに、40代の皇太子妃がお湯を使ってしかも形ばかり
お湯を使うのは両陛下の了承を得ているがろくに身を清める気がないのがわかるという。

御所の中でも三殿の空調は昭和天皇の時代から基本的には変わっていない。
小さなヒーターが1つあるだけ。冬はとても冷える。
祭祀を行うのは陛下と殿下でも、祈りながら待つのは妃としての最大の役割。

(元掌典職)
三殿での祭事を前に、皇族方が身を清める時に使われる潔斎所という場所があり
その場で水浴びをして身を清める。
皇太子妃当時の美智子さまが潔斎所をお出になった後、
室内に一杯水が散っていたのを見て、この方も天皇家の一員だとしみじみ感じた。




週刊女性 2006年7月11日号
体力的に無理である事と、「祈り」に対する抵抗感がある。
皇后はキリスト教の学校で学んだので儀式的な事は勿論、
宗教的思想にもすんなりなじめているが、皇太子妃はそうではない。

岩波「世界」2009年6月号 
岐路に立つ象徴天皇制
原武:雅子妃は合理的な家庭に育った、シャーマニズムとは相容れない。

女性セブン2009年8月6日号
合理主義精神は祈りに何の意義も見いだせないため、適応障害を起こしても不思議ではないだろう。


 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

■小冊子より
天照大神
イザナギとイザナミが国産みで日本を作った後、二人が決裂してイザナギが潔斎したときに生まれたのが
天照大神・月読尊・スサノオの尊の三貴神。
イザナギはこの世の権限を天照大神に託した。
そして天照の孫が地上に降り、その子孫が天皇家になった、というのがおおまかな神話上の流れ。
天照大神(天上の神=天津神)と日本にいるすべての神々(地上の神=国津神)、
そして歴代天皇皇后・皇族を祭っているのが宮中三殿。
東京にいながらにして、八百万の神々を祭れるような状態にしてある。
そこで日本の安泰と平和を祈るのが祭祀、ということになる。
皇族方も神として祭られているので、先祖供養のようなものも祭祀の一旦になる。

天皇家の始祖が天照大神だから女系ということにはならない。
むしろその逆で、天照大神だから男系でなくてはならない。
天照大神は超絶した女性神で、大嘗祭を通じて三種の神器の継承を司っている。
土俗的祭祀でも「山の神」や「海の神」はみんな女神。
だから昔から、女が山に入ることや海の猟に出ることが忌み嫌われた。
なぜなら、女が山や海に入ると、その女神が嫉妬して怒るから。
修験者の山などに「女人禁制」の結界があるのもこうした理由から。

天照大神が三種の神器をニニギノミコトに与えて天孫降臨させた後、
三種の神器は「男系」のみによって継承されなくてはならない。
三種の神器継承の儀式が大嘗祭で、この時は天照大神と対座なさる。
これが神道的な意味での男系継承の意義。
男女差別云々の問題ではなく、女性神が司る国。

天皇は神ではなくて人間、その祖先も人間。
天照大神は人間と交わる。相手は人間であるために寿命がつきる。
だから、その男の血をひく子と、また、契る。そうして代々、天皇家を守護していく。


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