皇太子さま「愛と苦悩」

AERA 2009年3月2日号
皇太子さま「愛と苦悩」
浩宮さまの49年間

2月23日、皇太子浩宮徳仁親王は49歳の誕生日を迎えられた。
「雅子のキャリアや、そのことに基づいた人格を否定するような動きがあった」という発言から5年。
最近は心の内を明かされることが少なく、心配しております。
きょうは晴れやかでいらっしゃいますか。

1957年生まれの私が、同時代人としての皇太子さまを考える時、
思い出されるひとつの光景がある。それは、昭和も終わりに近い1986年10月19日のこと。
新宿・厚生年金会館で21歳になったばかりのアイドル歌手、
柏原芳恵のリサイタルが開かれようとしていた。そこに現れた白黒のセーター、
ベージュのパンツ姿の浩宮さまは、出迎えた柏原に、東宮の庭に咲いていた
ピンク色のフランス大統領から贈られた新種のバラ「プリンセス・サヤコ」の一輪を手渡した。

「お妃選びは自分で」
この時、浩宮さまは26歳。英国留学中は自室にこのアイドル歌手の写真をはるほどの
ファンなのだと喧伝されていた。マスコミがこぞって伝えたこのニュースを聞かされたとき、
妙な違和感を覚えた。アイドル全盛の80年代。その中で柏原は特異な存在だった。
10代のころからセクシーさでは群を抜き、戦後を代表する論客吉本隆明までが
その「フェロモン」にやられていた。実は、私も車の中で「芳恵ベスト」を聴いていた。
だからこそのひっかかり。やがて天皇になる方がファンを表明されるには
あまりにエロスが勝ち過ぎている。無防備さに不安を感じたのだ。
浩宮さまのお妃選びは、このころ、いや、70年代半ばから、さまざまに取りざたされていた。
だが、ご本人の口から出て、この時点までに朝日新聞が伝えた好みの有名人は、
女子大生タレント竹下景子、米女優ブルック・シールズ、そして柏原芳恵の3人だった。
タレントとしてのキャラクターも、付随する社会性もバラバラだ。
我々でいうところの「好きになった人が好き」と見えてしまう。
この年の誕生日、浩宮さまはお妃選びについての質問に、「自分で決めたいと思います」
と、きっぱり言い切られている。
その2カ月前、父君である明仁皇太子は、浩宮さまの結婚に対して、
「両性の合意と本人の意思が一番尊重されなければならないと思います」と語られた。
親子の考えは完全にシンクロしていた。
「好きになった人と結婚したい」「恋愛結婚させたい」だったのだ。

ピンクのバラを贈られた日の前日、浩宮さまはスペイン王女のパーティーで
華やかな美女と歓談する姿を目撃されている。
小和田雅子さん。先に挙げた3女性とこれまた少しも重なり合うところのない、
バリバリのキャリア官僚候補だった。そして、その人に魅了されてしまう。
「ナルちゃん」(浩宮さまの愛称)は、お生まれになったときから、国民のアイドルだった。
明仁皇太子と美智子妃は乳人に任せず「ナルちゃん」を自分たちのそばで育てる、という
前例のない決断をされる。「普通の家庭のように育てたい」 という
美智子妃の強い要望があったればこその転換だった。
ナルちゃんは御所言葉で父、母を指す「おもうさま」「おたたさま」の前に
「パパ」「ママ」を覚えた。
「浩宮の人柄の中に、私でも習いたいというような美しいものを見いだしています」と母は語った。

国民が望んだ理想の家
美智子妃は、東京・山の手の資産家家庭の生まれだ。
軽井沢のテニスコートから始まるロイヤルウエディングへの道筋については、説明不要だろう。
正田美智子さんは59年、近代皇室初の民間出身の皇太子妃となる。
「皇太子妃は旧皇族・旧華族出身者」という不文律を打ち破るにあたっては皇太子の、
この人しかいない、という愛の力がモノを言った。
『昭和天皇』を書いた原武史明治学院大教授は言う。
「昭和天皇が香淳皇后と結婚する時も、山県有朋らが反対したのに、それを押し切った。
祖父の代から3代にわたって、好きになった女性を思い続け、反対や障害を押し切って結婚
という事態が続いているわけです」
しかし、随筆家・福原麟太郎が「美しい革命」と評した
ほどの衝撃を国民に与え、マスコミが「世紀のロマンス」と呼んだものを、美智子妃実現に
尽力した元慶応義塾塾長の小泉信三氏や宮内庁長官は、「恋愛ではない」と否定している。
天皇になるべき方が「自由恋愛」などめっそうもない、と主張する保守派への配慮もあったが、
周到に検討を重ね、デザインされたものであったことも確かだ。ミッチーブームはニッポンの
高度経済成長を加速させた。とりわけ女性とメディアに影響を与えた。奉祝パレードを見たいがために
多くの国民がテレビを買い、女性週刊誌は、皇太子一家の日常を描いて、部数を伸ばした。

「2人は60年の訪米前に、東京郊外に出来たばかりの『ひばりが丘団地』を視察しています。
当時最新の集合住宅でした。プライバシーが確保され、家電製品が完備したライフスタイルが
若い夫婦の手本になっていくのです」(原教授)

象徴天皇制下での初の天皇となるべく運命づけられた皇太子は、美智子妃を迎えたことで、
戦後民主主義の体現者というイメージを確かなものとし国民の上位に神として君臨してきた
昭和天皇とは違った、アットホームな皇室像を描き出すことに成功する。包容力のある優しい夫と、
優雅で美しい妻。進歩的な生活を営まれるお二人に、理想の家庭のイメージを重ね合わせた
国民は多かったはずだ。

「ナルちゃん憲法」育児
留守の間のしつけは、美智子妃の残した育児メモ「ナルちゃん憲法」に沿って進められた。
「食事などでも魔法みたいに自然にテーブルに出てくるものだと思い違いさせないでください」
「自分が投げたものはなるべく自分でとりに行かせるように。軽く背中を押して
『とってきてちょうだい』といってください」
「一日一回くらいは、しっかりと抱いてやってください。愛情を示すためです」
これもまた「自分の方針の中で育てたい」という母の意思の表れだった。自分で考え、
自分で決められる子どもに、という良質なブルジョア的教育の指針に沿っており、
その後広まる早期教育の先取りでもあった。

一方で、将来の天皇を見すえての教育も熱心に進められた。公平であること、無私であること、
孤独に耐えること、多くの人の目を集めても恬淡としていること。浩宮さまが小学生となったころには、
誕生日パーティーへの招待は断る、特定の子どもとばかり遊ばないというルールができていた。
71年まで教育係を務めた元侍従の浜尾実氏は、独りさびしさに沈むことも再三だったと、
浩宮さまの子ども時代を伝えている。

中学、高校と進むと、山に登り、孤独と向き合うことを自らの趣味とされていく。
『ミカドの肖像』で天皇制を読みといた作家の猪瀬直樹氏は次のように指摘する。
「浩宮さまの悲劇は、父における小泉信三氏のような、信頼できる相談役がいなかったこと。
お妃選びがあんなに難航したのも、雅子妃が苦境に陥ったのも、周りが官僚ばかりで、
親身になってのアドバイスとマネージングがなかったから」
今上天皇には作家藤島泰輔氏や共同通信の記者となった橋本明氏ら、
雑誌に出ては、ずけずけと悪口を言う学友がいたが、
特定の友をつくることを制限されていた浩宮さまの学友は、ぐっと印象が薄い。
皇太子ご一家が暮らした東宮は紗の幕に覆われているようだ。中のようすは薄ぼんやりと見えるから、
常に周囲の視線は注がれるが、密な関係をつくろうとすると、幕が邪魔をする。
その中にあって、浩宮さまは慎重で破綻のない好青年に育っていかれた。
ユーモアと慎み深さを、女性週刊誌は書き立てた。その分、自分の主張を相手に認めさせるという
アメリカ流のコミュニケーションとは縁遠かった。

国民の理想像も変化し世間と隔てられ、好き嫌いの表明を抑制された中で
「妃となるひとを自分で決める」ことの困難さは想像を絶する。国民が求める恋愛や結婚の姿も
大きく変わろうとしていた。高度経済成長を終えた日本は、妻と子が郊外の団地で夫の帰りを待つ、
という理想像を捨てた。女性の進学率、社会進出率は急激な伸びを見せ、
企業も女性の職務遂行能力に目をつける。

浩宮さまがパーティーで雅子さまに会った86年には、男女雇用機会均等法が施行される。
88年に創刊された都市型女性情報誌「Hanako」のキャッチコピーは
「キャリアと結婚だけじゃいや」。キャリアと結婚の両立は、当然の前提とされていた。
雅子さま以外に、リストに上ったお妃候補は数百人に上るとみられている。
雑誌に名前が出た人を数えただけでも、50人を下らないだろう。
だが「浩宮さまが好きな人」という基準でみた時、比肩する女性の名は、ついにひとりも出なかった。

皇室外交のお役目も
もし、読者が由緒ある旧家の長男でキャリア女性を好きになったとしましょう。
財産も収入も少なくないが、フローは乏しい。しっかりした美人の母、伝統を重んじ自分の
意見をはっきり言う書生やお手伝い多数……どうやって伴侶を獲得しようとするだろう。
たぶん、すべてをのみ込んでくれる愛の力に頼るしかない。自分が好きになった相手が
自分のことを好きになってくれますように、と。87年暮れには小和田家に打診があった。
けれど、外交官としての前途に期待をかけていた雅子さまは断り、話自体が立ち消えになったと思われた。
それを、5年後に押し返したのは、皇太子の強い要望だったと言われる。
ノンフィクション作家井田真木子氏は「文芸春秋」93年3月号の中で、
雅子さまが父恒氏のコネで勝ち取ったハーバード大、東大を経て外交官試験に合格し、
オックスフォード大大学院に進むという学歴の実現可能性は、日本国民全体のうち8人に
すぎない、と書いている。稀有なキャリアをなげうって、皇室に嫁す決意をさせたものは、
何なのだろう。お妃候補として雅子さまを推薦していた元駐ソ連大使の中川融氏は同じ
「文芸春秋」3月号で「皇室外交というものに大きなお役目を果たされるでしょう」と述べている。

最後の局面で、なお迷う雅子さまを説得するのに、皇室に入ることを、外交官としての
キャリアアップとみなしてはどうか、という趣旨の論法が使われたことは想像に難くない。
キャリアをなげうつどころか、さらに上を目指す結婚。だが、皇室は外交の家ではない。
待っていたのは祭祀の連続だった。原教授は、「美智子皇后には、カトリックという
宗教感覚のバックボーンがあり、戦争に伴う疎開も体験した。田舎の風景も残っていた。
しかし雅子妃は、東京の中でも最もモダンな東急沿線の官僚の家に生まれ、海外生活が長く、
西欧的な合理的な頭脳をフル活用してきた女性。
宗教的な発想が入る隙間がなかったのでは」と想像する。皇太子と雅子妃の結婚に向かわれる思いには、
やはりズレがあったのだろう。このズレを調整する、いや、いっそ、新しい皇室の進むべき道を、
この婚姻にあわせて引き直す、ということはできないか、今からでも。

母から手渡された愛
猪瀬氏の提言はこうだ。「天皇家は、今祭祀をつかさどる国家公務員のような立場に置かれている。
私有財産を一部戻し、ご自分らで執事を雇える状態になるのが望ましい。いわば皇室の民営化。
あるいは指定管理者制度とでもいったものに」
皇室への期待も変わってしまった。
父の代であれば、歴史始まって以来の象徴天皇として、戦後民主主義の発展に寄与する道を
さぐることで、進むべき方法は見えた。美智子妃との結婚、子育てへの参加、戦死者鎮魂と
謝罪の旅……辛苦に満ちてはいても、一足ごとに新しい風が吹いた。
今はどうだろう。国民は、いったいどうなるのか、と劇でも見るように、眺めているだけだ。
自分が何を期待しているか、どう望めばいいかもわからず、ただ、息をのんで見守っているだけ。
浩宮さまと同い年の評論家、福田和也氏は著書『美智子皇后と雅子妃』の中で、
浩宮さまの語る「愛」は個人的な感情が含まれており、「プライベートな感情として愛を
語っているからこそ国民の強い共感を得た」と書いている。あるいは、国民の側から愛を
必要とする時代がくるかもしれない。
福田氏は言う。「皇室、とりわけ皇后陛下はこれまで、最も恵まれない人のそばに寄り添ってこられた。
長く続いてきた安定が破れ、日本はこれから厳しい時代を迎えるでしょう。その時、雅子妃が
苦しみを乗り越えてこられたことが、国民にもご本人にとっても、プラスに働くことでしょう」
母から子へと手渡された愛は、まだ、使い切られていない気がいたします。

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