「美智子さまの恋文」について

美智子さま“苦悩の手紙”が初めて明らかに<2007/3/20 21:39>

皇后・美智子さまがご成婚前後に書いたとされる2通の手紙が、
46年の歳月を経て初めて明らかになった。
手紙には、初めて民間から皇族に入るにあたり、
批判にさらされながらも苦悩する24歳の美智子さまの姿があった。
この手紙は、天皇陛下と小学生時代からのご学友・橋本明氏がその写しとして持っていたもの。
橋本氏は著書の「美智子さまの恋文」でこの手紙を紹介している。

1959年、民間から初めて皇室に入られた皇后・美智子さま。
当時、2人の結婚に批判的な声もあった。
ご婚約時の手紙には「新しい時代を生きていらっしゃる殿下のおそばに上がりましたら、
何か新しいところに歩きださなければならない時代の要求が必ずあると思います」
「殿下のお望みに沿いつつ、皇室の中に波紋をたてぬために、私はどうしたら良いのでございましょう。
そのことに一番思いをいたしております」とその先の不安や悩みが正直につづられていた。

お后教育を受けていたこの時期、美智子さまは皇族特有ともいえる悩みを打ち明けていた。
それは、髪結いの油を落とすときにベンジンを使わなければならないこと。
手紙には「いままで三宮妃殿下方ともおぐしにベンジンを浴びるようにかけて油をお落としになり、
それがひどいお苦しみで、お倒れになった方もおありと伺いました。
私はできるだけ卒倒しないで済むように、そっとベンジンをかけてもらうようによく頼んでみます」
「私のお嫁さんはなんとかその “ベンジン”から救いたいと思います」とつづっている。

ご成婚の翌年には、皇太子さまが誕生。
2通目の手紙は皇太子さまが生まれる1か月前に書いたもので、
手紙には「本当に私はさしあたって赤ちゃんのことが心がかりでなりません。

手元で育てさせていただくとすれば、それはもう皇后さまのお時代と違う形をとることになってしまいますし」
と子育ての悩みがつづられている。

「自分の手で子供を育てたい」−天皇陛下と美智子さまは皇室の慣習であった乳母制度を廃止するなど、
伝統の改革も積極的に行ってきた。その過程で受けたバッシングの数々。
それに耐え抜いてこられたのは陛下がかつて話した“ある言葉”があったからなのかもしれない。

皇太子さまご出産前の手紙には「“家庭を作るまでは絶対死んではいけないと思った”と(陛下が)お話下さったとき、
私はいままでの自分の見聞の中にも、読みました小説の中にも、
このように寂しい言葉はなかったと思いました」
「東宮さま(天皇陛下)のおために、力をつくして温かい家庭をお作りしたいと思いました」
とつづられている。
今回明らかになった2通の手紙について、宮内庁は「コメントできない」としているが、
著者である橋本氏は取材を通し、美智子さまが実際に書いたものと確信したという。

手紙の最後には「これからの生活に犠牲が求められるのは、もちろんのことと思います。
それを逃げて苦労のない生活がいいというのでは決してなく、
ただ何か私はそれを逆側からも見ておきたい、また、見なければならないような気がしてなりません」と
今の美智子さまの姿につながるような言葉で締められていた。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

橋本氏・産経新聞
「東宮周辺から芳しくない話がでている」
そのために、この文書を確認して出版に至った。


「美智子さまの恋文」 正直に不安吐露も
「皇太子ご夫妻に伝えられれば」
橋本さんは同書の出版に続き、12日夜にテレビ朝日系で放送される皇室特番
「美智子さまの恋文」にも全面協力した。

その理由をこう語る。
「東宮(皇太子)さまの周辺から伝わる芳しくない話を聞くにつけ、陛下と美智子さまが
目指された皇室のありようを確認し、皇太子さまと雅子さまにお伝えできたら、
という思いで取り組みました。特に美智子さまのお手紙は、現在の皇室の原点がうかがえる文書であり、
絶対に世の中に出す必要があると考えました。民間出身ということで激しいバッシングに
さらされていた美智子さまが耐えられ、陛下が支えられたからこそ現在の皇室があるのです」

今回明らかになった2通の手紙について、宮内庁は「コメントできない」としているが、
著者である橋本氏は取材を通し、美智子さまが実際に書いたものと確信したという。
手紙の最後には「これからの生活に犠牲が求められるのは、もちろんのことと思います。
それを逃げて苦労のない生活がいいというのでは決してなく、ただ何か私はそれを逆側からも見ておきたい、
また、見なければいけないような気がしてなりません」と、
今の美智子さまの姿につながるような言葉で締められていた。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「美智子さまの恋文」より

お妃教育中に陛下(当時皇太子)へ綴った文章
「…ただ現在の私がすがるように持っている気持ちは、宮中の中に、必ず必ず長い時代を綿々と
流れてきた美しい、貴い精神が、伝統としてきっとおありになるに違いないということ、
そして、たとえ私の身に皇族らしさとか皇族らしい動作がなかなかそぐわぬことはあっても、
この伝統だけは、どんな長い間かかっても、必ず自分も学び消化し、自分の血肉とせねばいけないという、
それだけでございます」

今上陛下と常陸宮様は不仲だった(これに油を注いだのが「義宮キリスト教信仰事件」だった)
そのことで昭和天皇が美智子妃を叱責したことはない、
昭和天皇が美智子妃から話を聞いたのは鷹司和子さんのことだけ

美智子妃
「辛い事ではございますが、見られ、知られ、判断され、そのうえで支持されて、
初めて私たちの幸福感は“社会的”なものになるのではございませんでしょうか。」

高松宮妃は結婚のときの紀子妃の十二単の着付けのまずさをさして即位の礼の前に
「紀子さまのようにはしないでね」と着付け係に伝えた

今上陛下は気性の激しい方
(美智子妃を反対されたとき昭和天皇と香淳皇后の前で灰皿を投げられた)
常陸宮様は実ににこにことして純粋で研究者肌の方だった。

東宮時代、明仁親王による子らの直接教育は将来むずかしい立場に立つだろう浩宮には、
小さいときはのびのびと育て、物心ついてからはきわめて厳しく向かわれた。
弟、妹には自然な成長をみつめていく態度であった。
礼宮は後年、紀宮と自分の同級生・黒田慶樹の間をとりもつなど、実際、妹に限りない愛情を感じていたようだ。
幼い頃には東宮御所のところ狭しと二人でじゃれ合う光景を繰り広げ、その親密ぶりはつとに知られている。

一方すさまじいまでの父親の姿から、長男は萎縮を覚えたかもしれない。
親と異なり自宅で成長した徳仁親王は父親から尻をぶたれたり、階段に立たされたり、
戸棚に閉じ込められて外から鍵を閉められたりと、容赦のないスパルタ教育をほどこされている。
自制心と公平無私の精神を涵養しようと親は必死だった。

美智子妃は、すでに自分に仕えて八年の月日が流れ牧野が辞任の意向を明かした時、
直接牧野にお声をかけれれた。
「せめてもうあと二年間、東宮女官長としてとどまって、十年はそばにいて欲しい。」
私には二人の女性が立場を越えて見つめ合ったこの時、
二人の美学が見事に一致したのではないかと思える
牧野は約束通り、昭和四十四年、美智子妃のもとを去った。
退任後、牧野はお誕生日に必ず東宮妃を訪ねてお祝いし、話しかけたものだ。
晩年体調を崩して宮内庁病院に長く入院した牧野を、美智子妃は心を込めてしばしば見舞った。
そして平成二年十月一日、牧野は八十九才で没した。

雅子さまについて
ベルギー御訪問中雅子妃は「なかなか外国訪問が許されなくて…」と王室の方に訴えたといわれる。
そのことが両陛下のお耳に入ったという憶測も飛び交った。
夫の立場としても許し難かったのであろう、
この件で皇太子は「事実に基づかない報道があったことは極めて遺憾」と厳しく釘をさしている。
外交官の延長のように外国訪問を望む雅子妃について「心得違いも甚だしい」という声が特に外交界から強まった。
実際平成14年のニュージーランド・オーストラリア訪問直前の会見で雅子妃は
「正直、外国に自由に行けない環境に慣れることには努力が要った」と、このころのことを述懐している。

愛子さまのしつけについて
「しきたりは了解されてなければならない。幼いとはいえ愛子内親王にしっかり
言い含めておくべき事前の訓練、教育が全く欠如している。親の権威は影を潜め、
幼児のわがままだけが浮き彫りにされる光景は醜悪である」
「高齢な両陛下を30分も寒風に曝した行為は、親のだらしなさと側近の無能さを見せ付けて余りある光景であった」
「翌日はクリスマスイヴだった。こともなげに東宮ご一家は「ミレナリオ」を見にドライブし、
翌日の大正天皇の例祭を妃殿下は欠席した。
医師団声明は人を馬鹿にしたような行動を正当化するための伏線だったのか」

9月4日夜、皇居半蔵門付近に記者団が張り付いた。
二日前菊栄親睦会午餐会が御所内で開かれ皇族方20人ほどが出席、その中には皇太子もおられた。
「今度は東宮ご一家おそろいで8ヶ月ぶりに皇居を訪問される」という情報が流れてきたからだ。
(中略)ところが一時間を経過してもご一家の車が到着しない。
しかも半蔵門をくぐったお車に愛子内親王の姿はない。
両殿下の唯一の御子はチャイルドシートがよほどお気に召さないらしい。

医師団見解文に対して
この「見解」を執筆したのは慶応大学保健管理センターの大野裕教授だ。
平成16年6月から雅子妃付き主治医になっていた。うつ病治療の第一線に立つ精神科医だ。
指摘しておかなければならないのは、当日までに羽毛田信吾・宮内庁長官も
皇室医務主管・金澤一郎東大名誉教授も、雅子妃に目通りさえ許されていない事実だ。

国民のためを思い、平和を願うお立場への厳しい自覚に欠けた「有害文書」の公表であった。
延長線上に一年後に実現されることになる、大野教授のオランダご静養同行が透けて見える。
「週刊新潮」が平成18年8月に「皇室のラスプーチン」として描くことになる人物だ。

弟は両親との意思疎通を常に図ることが重要だとする。一方、兄のほうはまるで陛下が、
妻がこうむっているストレスの発生源だといわんばかりなのだ。親を忌避し、距離を置き、
妻を守ることのみに専念して、日本のあるべき姿についておよそ発言しないし行動もない。

人格否定発言
(人格否定)会見の夜、東宮は欧州三カ国ご出発の挨拶のため、御所を訪れた。
だが異例と言われたほど短時間のご訪問で、役所を通じて知らされたお帰り時間は
大幅に繰り上がっていたと言う。両陛下はご自身大変驚かれたご様子と伝えられ、
驚愕して訳もわからないでいる国民に対して東宮は説明責任がある、
そう判断され帰国したら「直接国民に説明するよう」求めたという報道が宮内記者会見会から流れた。
天皇陛下は帰国後報告に参内した徳仁親王から爆弾発言に至った背景説明を求めた。
しかし殿下の真意はいまひとつつかみきれない。
したがって欧州から帰国したら皇室で何があったのか、
親王の説明があるだろうと期待していた報道陣をよそに、東宮殿下は沈黙の世界に紛れ込んでしまった。

この時期、林田東宮大夫は「私が辞めたら東宮さまがお一人になってしまわれる」と感想を漏らしただけで、
その後は口を閉ざした。
(人格否定)会見で殿下は「キャリア」という表現を使っている。
カタカナ語でキャリアとは専門における長き道のりを表す。
外務省に入省して程ない一外交官の卵に冠すべき表現ではない。「経歴」とされるべきであった。

また結婚前までの知識や経験を生かしたライフワークを
雅子妃の新たな公務にするという暗示も雅子妃本人のものと考えざるを得まい。
いわばその当夜、急に両陛下のお出ましを拒否した不可解な行動と結び合わせれば、
こう解するとき初めて納得がいく。

本当のストレス因子は天皇陛下にあるという暗示的攻撃を加えた手前、
そのご本人に合わせる顔もないので直前逃避した

人間天皇の側面を強調するあまり、皇室内部の事情を過度に情報開示して孤高の神聖さに泥をぬる愚かさである。
皇太子の発言はこれに相当する。
内からの動揺をたどると、宮内庁内部に露呈された東宮職批判にこの部分が当てはまる。
なぜ東宮様の会見を死して阻止しなかったのか

究極的な職務のあり方を問うところまで宮内庁では内部批判が突き進んだ。
批判の対象は林田東宮大夫に向けられた。
暗に辞職を求める空気が高まった。

さらには(雅子妃が)帰国子女である点を憂える層も見逃せなかった。
特に米国で高校、大学と学んだ経験は買うとしても、日本女性が本来もつべき
歴史観、社会性、文化的感性などとの軋みが起こり得るのではないかという
予感におののいたのである。欧米の女性は自立を目指している。
他人に寄りかからない生き方は、自然に前方を見据えた姿勢をとらせる。
反面、他人の考えを受け入れる許容性は狭まってくる。
後継者問題もこの会見で言葉となっている。「こうのとり」問答の後、
お二人が事前に想定した質問への答えが雅子の口から語られた。
「殿下にお任せすると申し上げました。
ただひとつだけ、これだけはおっしゃらないで下さい、ということがありました。
それは殿下は大変音楽がお好きでいらっしゃるんですが、
家族でオーケストラが作れるような子供の数、
ということはおっしゃらないで下さいと申しました」

宮内庁内部組織でもとかく独自世界を構築しがちな東宮職で、
首のすげ替えが頻繁に行われていたことにはすでに触れた。
この事実の背後に、雅子妃に嫌われた人事対象者の存在が垣間見られる。
ご夫妻が東宮職の長たる東宮大夫あるいは東宮侍従長に、より良い人材を求めて
早期交代を促しておられたとしたら、東宮職の機能がある意味で麻痺し、
稼動していなかったと受けとめてもいいのではあるまいか。

「殿下はご成婚後、人柄が変わってしまわれた」
「内部にとじこもって固く蓋をしてしまわれた」
親子関係についても、こういう声があがる。
「両陛下から遠のき、ご成婚後の10年、儀式などの場合を除けば数えるほどしか
親子の交流がない。もはや断絶状態」
「可愛い盛りの愛子内親王が陛下をほとんどご訪問されていない」
「誰が東宮御所の閉ざされた扉をこじ開けられるのか、わからない。
 宮内庁参与の職にある文化人・学者らもおよびがかからない。
 殿下のお心を開放できる方法は見当たらない」

(皇太子は)家庭に戻られると、雅子妃とのご関係は特別な絆で結ばれているのであろう、
他人の容喙を許さない激しいまでの厳しさで第三者を遮断する。
内情を明かさず、立ちはだかるのは常に徳仁親王なのだ。
病気の雅子妃に取り込まれ、皇太子はこのところ、
「婚家小和田姓の徳仁さん」になってしまったのかと慨嘆する向きも増えている。

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