秋篠宮さま 江森敬治著

秋篠宮さま 江森敬治著 毎日新聞 1998年

天皇陛下は32歳誕生日を前に浩宮、礼宮の教育方針についてこう語った。
「兄の方は将来、窮屈な立場になるので今のうちになるべく自由に、弟の方は将来、
兄より自由になるのでしつけに厳しく、窮屈に育てたい。
大きくなったことを考えると、これでバランスがとれると思う」

余談になるが、妃殿下は中学生のころから自宅近くの学習院大学構内でジョギングを続けられていた。
だから宮さまの同級生の間では「ジョギングの美少女」として
紀子さまの存在は有名だったという証言もある。
私もあるいは宮さまも妃殿下のことは薄々知っていたのではと思い、
宮さまにそれとなく尋ねたこともあったが、即座に否定された。
書店での出会いが初対面であり、それも偶然だったと強調された。
そして「あの時、出会わなければ、私はまだ独身だった可能性が大いにあったと思う」と話された。
まさに運命の出会いだったのだ。

昭和天皇のお手伝い
「『ヒオウギアヤメ』という家内の印(秋篠宮さまのはツガ)をなんで印としたのかというと、
昭和天皇が、『ヒオウギアヤメ』と、その変種で那須に分布する『ナスヒオウギアヤメ』が、
どういう関係にあるのか、『ナスヒオウギアヤメ』の由来や起源を知りたいという話を、
家族で会食している時に食卓でされました。昭和天皇が、なにかよい方法はないかと、私に聞かれた。
それでは、私が進化生物学研究所の近藤典生理事長(故人)に相談してみましょうということで、
そのプロジェクトが始まりました。
中間報告が進化研からくると、そのたびに私が昭和天皇に報告していました。
私がイギリスに行っている間は、私の父がかわりに報告していたと思います。
八七年の終わりか八八年の初めから、昭和天皇の具合が悪化するまでずっと続けられました。
最終結論は出てなかったと思います。
私もその『ヒオウギアヤメ』のことをよく知らなかったのですけれど、そういうことで
昭和天皇が最後に興味を持たれたことの手伝いをした。それでやっぱり自分にとって大変な記念でしたから、
家内の印が「『ヒオウギアヤメ』になったのです。
これは、私が両親と話をしたことによるものです(印は天皇陛下が決めて、お与えになる)」
当時、皇太子ご一家は週に一回、皇居内の吹上御所を訪れ、天皇・皇后両陛下と食事をされていた。
その折、ナスヒオウギアヤメのご研究についての話が出たという。

この話は、鶏の調査でインドネシアを訪ねた時、宮さまが仲間に話されていた。
進化生物学研究所によると、研究の狙いというのは、日本にはヒオウギアヤメの仲間として
ナスヒオウギアヤメとキリガミネヒオウギアヤメが自生している。
これらは形態がよく似ていて、相互の区別が難しい。そこで細胞学の立場からと色素成分の分析の観点から、
植物種の識別やそれらの類縁・系統を解明しようと始められたという。
これ以上に宮さまが昭和天皇の研究の手伝いをしたことはないという。
それは昭和天皇の研究対象が主に無脊椎動物であり、宮さまは脊椎動物であるという違いによるものらしい。

宮さまの昭和天皇への思い出はいろいろあるようだ。特に親しい人に語られたところによると、
いちばん印象に残っていることはやはり最後のお別れの場面だという。
一九八九年一月七日、宮さまは朝四時ぐらいに連絡を受け、着替えをして
赤坂御所から吹上御所の御寝所に行かれた。
そして宮さまは、昭和天皇の枕元のすぐ近くにいらっしゃったという。付近にはお別れしたい大勢の人達がいた。
「いちばん印象に残っているのは、ピーッと鳴った時でした(心臓が停止された時)。
最後にお話をしたのは、八八年の十一月でしょうか。十二月の時にはもう話ができなかったですから。
あいさつをして『いかがですか』みたいなことをたずねました。
日によってご容体に違いがあったような記憶もあるのです。結局、私にとっては祖父に当たるわけですよね。
ただ、私は昭和天皇というのが、別の世界にいる人のようなとらえ方をしておりました。
自分でそうしていたのかもしれないですけれども同じ家族という感じでは、接してなかったです。
これは皇居という堀に囲まれた地理的要因が大きかったのかもしれない」

宮さまは、昭和天皇を「おじじさま」、「陛下」と呼ばれた。
昭和天皇は、「あやちゃん」であった。(宮さまの幼少時の称号の礼宮にちなむ)。
皇太子さまのことは「ひろちゃん」、紀宮さまは「のりちゃん」だった。
宮さまは、とても親愛の情を込めて昭和天皇について語られる。
また、宮さまが外国訪問されるというと昭和天皇は「じゃあ、親善に努めるように」と必ずアドバイスされた。
「昭和天皇は一九〇一年のお生れで、そうしますと、終戦の時は四十歳半ばでいらっしゃいました。
戦前、戦中、戦後と昭和天皇の経験された事柄の重さは、はかり知れないものがあると思われますが、
殿下は今、三十二歳。殿下もお年を重ねるにつれてそういった昭和天皇のご苦労に
いろいろと思いをいたされますでしょうか」と私は、思い切って聞いてみたことがある。
それは、暑い夏の日だった。静かな宮家の中にいてもセミの鳴く声がうるさいほど聞こえてきた。
「とにかく私なんか、幸せな時代に育っていますから。随分、違うと思います。
ご苦労話を、昭和天皇から直接、聞くという機会はなかったです。
そういう話をあえて昭和天皇はされなかったのかもしれません。
こちらから聞けばなにかあったかもしれないのですが、
むしろ、私は父からそういう話を聞いたことがありました」宮さまはこのように答えられた。

「宮中祭祀を大切にしていきたいと思っている。拝礼の時も心の持ち方が大事であると考える。
私はいつもご先祖様に話し掛けるつもりでお辞儀をしている」

タイ訪問について
タイに行く予定の方が先であった。 タイに行くのは私用であり、クリントン晩餐会は公用であるのは事実。
ただ、このタイ調査旅行はタイ政府の「農業・協同組合省」からの招待を受けて
数年前からタイ側では半年以上も前から準備していた。
しかし、阪神大震災などで計画が先送りされ、この年の訪問になったという。
一方、クリントン大統領の訪日はいったん、前年11月に予定されたものが延期され、
この年の4月に確定したのは、タイ調査旅行の準備がすっかり固まった後だった。
それから父(今上陛下)にはきちんと許可をいただいていた。宮内庁にも打診した。
また、週刊誌は「重要な公務を放り出して私的なナマズ見物など言語道断」
というトーンだったが、宮内庁によると宮さまに限らず公用、私用を含めて皇族方が
また宮中晩餐会などの単発の行事は他の公務や私用と重なることもしばしば。
陛下たちのご予定は当然空けてあるが、年間を通じてさまざまな事に携わっている
すべての皇族が集うのは現実に難しく、実際欠席されることもしばしば。
赤木攻・大阪外大教授は今回の捕獲儀式の調査に同行した一人だ。
赤木教授は、「儀式のある日は決まっていましたから、その日を逃せばまた一年先になるわけです。
それにタイの関係者と一年前から日程を詰め、約束していました。
マスコミは『アメリカ』の大統領に失礼といった論調でしたが、
われわれはタイの人々との先約を大事にすることこそ国際信義に値すると考えました。
あれだけ日本で雑誌に叩かれましたけど、私はクリントン米大統領の宮中晩さん会に
出席した以上に国際親善の役割を果たしたと思っています。
とにかく地元ではものすごい歓迎でした。
県知事も大喜びで、こんな田舎に日本の皇族は来たことがないと感激していました。」

私が聞くところでは、皇族が海外を回る際には、日本大使館が皇族のスケジュールを作る。
宿泊や食事場所などをほぼマニュアルに沿って選び出すのだが
宮様の場合は現地の実情を形式ばらない形で知りたいという希望を出されるため、
大使館員によっては勝手が違うと振り回されたり、中には「わがままだ」と憤慨し、
宮さまの印象を悪くするケースもあると聞く。


ご結婚について
結婚前後、いろいろな批判報道も現れた。
皇太子さまより先に結婚するのはおかしいではないかという記事もその一つだった。
しかし、宮内庁関係者は、高円宮さまも兄の桂宮さまより先に結婚されている。
また、昭和天皇の喪中に婚約を発表したという批判があるが、
宮さまの場合には、昭和天皇崩御から八ヵ月後に皇室会議の決定として発表されたのに対し、
昭和の時代には池田厚子さん(天皇陛下の姉)の婚約が貞明皇后崩御から二ヶ月たらずで、
昭和天皇の御裁下により発表されており、いずれも先例があると、話す。
宮さまも一九八九年九月の婚約会見で昭和天皇の喪中や自身の留学中に婚約されたことについて、
「ここ一、二年、川嶋家の方に問い合わせなどが多くなり、早い時期に公にしたいと判断しました。
宮内庁も異議はなく、また両陛下からも反対はございませんでした」と答えられた。


参考

秋篠宮様結婚まで
昭和64年=平成元年(1989年)1月7日 昭和天皇崩御
服喪150日→平成元年(1989年)6月6日に礼宮様喪が明ける(皇室服喪令)
平成元年(1989年)8月26日 礼宮と川嶋紀子嬢との婚約発表。(朝日のリーク)
天皇皇后両陛下もご婚姻に関する皇室会議などの手続きを進めるよう、
同日、藤森昭一宮内庁長官に指示された。
 http://www.yomiuri.co.jp/feature/impr/0609article/fe_im_89082601.htm


宮内庁サイトより
平成元年(1989年)9月12日 皇室会議で決議
平成2年(1990年)1月12日 納采の儀=正式に婚約
平成2年(1990年)6月29日 結婚の儀

※昭和帝が父母にあたる今上陛下は服喪期間が1年だが、祖父母にあたる秋篠宮様は150日。


皇室服喪令
 第一章 総則
第 一条 父、母、夫ノ喪ハ一年トス
第 二条 祖父母、父ノ父母、妻ノ喪ハ百五十日トス


両陛下の喪明けは平成2年1月7日。正式な婚約はそれ以降のこと
婚約会見等に至った理由はマスコミの川嶋家への問い合わせが殺到し
生活に支障をきたさないようにとの配慮で検討され、公表された。

正式な儀式は全て喪があけた後(両陛下の喪も)
成婚に至っては昭和天皇崩御から2年以上経っていた。
公表はせめて1年経ってからという意見もあるだろうが、
「喪中ではない」ということは確か。

順宮(池田厚子さん)の婚約は貞明皇后の崩御から2ヵ月たらずで、
昭和天皇の裁下により発表されている。
皇太子殿下も昭和天皇が亡くなってすぐの
平成元年2月には「雅子さんではだめでしょうか?」と宮内庁に打診している。

毎日新聞 1989年9月12日
天皇陛下 4年前から見守られ  宮内庁幹部らに「前向きに検討を」
天皇陛下は四年前に、礼宮さまと紀子さんのおつきあいを認め、
紀子さんをお妃の候補者として前向きに検討するよう宮内庁に伝えられていた。
同庁によると、礼宮さまが紀子さんを知ったのは、紀子さんが学習院大に進学した昭和六十年四月。
同大構内の書店「成文堂学習院店」で、一緒になり、
店長の阿部俊郎さんが礼宮さまに「川嶋教授のお嬢さんです」と紀子さんを紹介した、という。
二カ月後の六月に礼宮さま主宰の「パレスヒルズテニスクラブ」、
同十二月にやはり宮さまが会長のサークル「自然文化研究会」がそれぞれ発足。
紀子さんは両方に入会し、その活動を通じてお二人は交際を深めていった。
同年十二月に両陛下と礼宮さまが神奈川県・葉山御用邸でご静養の際、川嶋家も葉山に滞在していた。
両陛下が海岸を散策された時や、油壺のマリンパークでご昼食の時などに、
礼宮さまは紀子さんを誘い、さりげなくご両親へ紹介の機会をつくられた。
両陛下は紀子さんのことをすでにご存じだったが、
こうした機会は礼宮さまが「恋人」としての紀子さんを改めてご紹介したかったため、と側近は推測している。
この結果、天皇陛下は同月下旬、同庁幹部に「前向きに二人のことについて検討してほしい」
と話された、という。


ご成婚の頃の報道より

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

文藝春秋2010年4月号
秋篠宮が私に語った「次男の覚悟」江森敬冶(毎日新聞編集委員)
今年、天皇陛下は、77歳、皇后さまは76歳になる。
両陛下の年齢を考慮しながら次世代に向けた動きもまた動き始めた。
「将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要」
陛下が公の場で初めて明言された。
今上陛下と常陸宮の身分差の例をあげ「今回の陛下の発言は異例」かもしれない。
<しかし、秋篠宮さまの立場が近年重みを増していることも事実なのだ>
<現行の皇室典範では愛子さまに皇位継承の資格がなく、将来悠仁さまが天皇になる可能性が大きい。
加えて―いや、こちらの方があるいは重要なのかもしれないが―
病気療養中の雅子を支える皇太子に比べ、秋篠宮の方が両陛下と接する機会も多く
両陛下との関係はより濃密なのだ> 
高齢で体調の心配な両陛下にとっては、心強く頼りになるのは、いつも近くにいてくれる秋篠宮ご一家だろう。
<心情的には、秋篠宮を皇太子より「かわいい」と思ってるかもしれない>
昨年の秋篠宮44歳会見と今年の皇太子50歳会見では、陛下の発言を真摯に受け止め
一緒にしっかり考えようとする二人の生真面目な姿勢が伝わってきた。
■宮さまと私の出会い。
<今年6月に結婚20年を迎える秋篠宮は将来の皇室を担うキーマンの一人に成長した>
秋篠宮結婚の時、京都で出会ってから江森との交際は20年。
江森の妻は川嶋教授の副手を努めており紀子妃とも面識があった。
当時の懇談:<江森「結婚して変わったことは?」 
秋篠宮「一番変わったことは酒量がだいぶ減ったことですかね」
紀子妃「(ほほえみながら)お酒とタバコに気をつけて下さいね」>
1時間の懇談を終え、秋篠宮は、物静かで繊細な方だと感じた。
皇族としての自分を冷静かつ客観的に見つめている大人びた姿勢である。
あれから20年後、皇族としての立場が重みを増し、家族が増え、私的な部分も変わった。
随分たくましくなったと感じる。しかし秋篠宮は元来たくましい人だったようだ。
結婚後紀子妃の家族が「紀子は宮さまが胸まで川の水につかって魚を取る、
そうしたたくましいところに惹かれたのよ」と語ったことがあった。
秋篠宮の冷静・沈着な姿勢、バランス感覚の良さは年を追うごとにより洗練されてきている。
天皇陛下の言葉でさえ鵜呑みにせず自分で考えてから結論を導きだそうとする姿勢に驚かされた。
<秋篠宮は両陛下のことを「父」「母」と呼ぶ。皇太子は「兄」で紀子妃のことは「家内」だ>
自分を「特別の存在」として見たくないという基本的な考え方は一貫しており、周囲を冷静に分析している。
天皇家の次男として生まれたことが秋篠宮の思考・行動の原点ではないか。
立場の重み・次男の限界・可能性を考えてきたように思う。皇太子は将来の天皇という明確な目標がある。
しかし次男には着地点がない。その代わりに自由を得ることを望み、研究に没頭した。
両陛下から早く独立することが重要と考えた。結婚生活と研究生活は成長を支える両輪となった。
■速攻の結婚
秋篠宮は昭和40年11月30日生まれ。兄とは学年で6年違い。結婚時、秋篠宮24歳、紀子さま23歳。
紀子さまと出会った翌5月には東宮御所に招待し両陛下に紹介した。宮さまらしくまさに速攻である。
<秋篠宮「両親は、付き合ってることは知ってましたし、結婚するんだろうなということもおそらく
分かってたと思います。また結婚する相手が彼女だったらいいな、というふうに思っていたと思います」>
プロポーズを両陛下に打ち明けた時も、両陛下が反対したり難色を示したことはなかった。
交際当初から両陛下は温かく見守り、結婚を後押しされた。
秋篠宮は「(皇族は)学生時代に結婚相手を見つけないと難しいですよ」と話した。
皇太子は大学時代、特定の女性と知り合うことをしなかった。
秋篠宮はシャイである<初対面の人にあまり積極的に話しかけるタイプではないので困ることがある>
と語ったが、この人、と思えば積極的になるのが宮さま。
意中の人に突き進む秋篠宮と、踏みとどまり女性と公平に接しようと努める皇太子との違いがここにある。
性格の違いといえば、皇太子は登山やジョギング。秋篠宮は不得意だ。
自宅で植物に水をやる方が好きだ。しかし、僻地でサバイバルできるのは自分の方だろうと、秋篠宮が話す。
非日常な空間での生活、予期せぬ出来事に対処する柔軟さは持ち合わせていると自身は考えている。
兄と弟の性格の違いは、様々な場面で影響を与えている。
■性格的に私は父系遺伝。
子供の教育方針:個性を伸ばし関心や興味を深めることを願う。立場を自覚し、
周囲の人たちへの配慮や感謝の気持ちを常に忘れないように、と考えている。紀子妃も同じ。
秋篠宮が研究者として活躍する背景には今上天皇の影響と自然の残る赤坂御用地で育ったことが大きい。
魚類学者の陛下から多くを学んだ。
秋篠宮から幼い頃の思い出や家族の話を聞いたことがあり、印象深かったことは秋篠宮が、
(私は)兄や妹より、陛下との結び付きが深くて濃いと話したことがある。
陛下と秋篠宮の性格が似ているとも私に語った。
小学校高学年の頃、陛下は秋篠宮と一緒に数学の問題に取り組み、陛下が一生懸命教えたという。
こうした関係はほかの兄妹にはなかったらしい。なぜか。理由を秋篠宮が語る。
<性格的に私はパターナルインヘリタンス(父系遺伝)です。
あとの2人はどちらかというとマターナルインへリタンス(母系遺伝)ではないか>
具体的に似ているところは、陛下と秋篠宮は、理詰めに論理立てて考えないと気がすまないタイプ。
専門家から話を聞いても自分で咀嚼しないと納得しない点も2人の共通点だという。
■「人格否定発言」後の自覚
<秋篠宮の立場に立って考えると、大きな「誤算」があったことは否めない>
皇太子夫妻が次々出産、男子誕生、国民の関心も皇太子一家に集中。
その影で秋篠宮の跡取りの男子の出産も当然あっただろう。
結婚当初から、秋篠宮の周囲でも「早く男の子を」という声があった。
あくまで宮家の跡取りとしての男子である。秋篠宮は3人目が欲しいと以前から考えていた。
今でも、男女どちらでも嬉しいと思っていた、偶然男の子だった、典範改正の動きとは無関係だと話す。
皇位の問題は長男のマターであり、次男が口を出すべきものでないという厳格な自覚があった。
次男は次男の立場の分限をわきまえ守るという暗黙の鉄則を頑ななまでに通してきた。
しかし「皇室の危機」を一番敏感に感じ取ったのも秋篠宮ではなかったか。
秋篠宮は、今、自分のやらなければならないことを強く自覚、危機に立ち向かおうとする姿勢が生まれた。
■着地点に向けて
「まだ2人の学校に行ったことがないのですよ」と最近宮さまは私にこう話した。
子供たちをとても可愛がっている秋篠宮だが、
「中学生以上になれば、父親は学校行事に一切、参加しない」との方針を併せ持つ。
おそらく、眞子さまの大学の入学式には紀子さまが1人で付き添う。
「男親にとっては、娘はかわいいですよね。」と話す秋篠宮。
しかし、自らに課したけじめをきちんと守ろうとする姿勢、これも宮さま流。
「いずれ、花のきれいな頃にでも訪れたい」と、秋篠宮は、眞子さまと悠仁さまの学校をお忍びで
訪問することを心から楽しみにしている。
陛下が明言した、皇位継承問題や皇室の将来、という課題が秋篠宮の前に大きく横たわる。
次男の分を守りながら、どうやって乗り切っていくか、
おそらく近く秋篠宮は皇太子との話し合いの場を持つであろう。
皇太子を尊敬し感謝の気持ちを忘れない秋篠宮。
両陛下の力添えの中、よりよい皇室の将来に向けて、どんな着地点を見出すのか、
結婚から20年、成長を続ける秋篠宮から 国民は目が離せない。


目次3へ