日本を卑屈にするシナ大陸侵略神話

WiLL2009年3月号
特集 田母神論文の争点

日本を卑屈にするシナ大陸侵略神話
渡部昇一 上智大学名誉教授

問題はシナ大陸
田母神問題が麻生内閣を揺さぶったのは、「日本は侵略国家ではない」という一文でした。
この言葉を聞いた防衛大臣、防衛省事務次官、そして麻生総理は、
富士川で鳥の羽音に驚いて逃げ出した平維盛の軍勢のごとく、
根拠なく大慌てで田母神氏をクビにしようとしましたが、それもできず肩叩きという姑息な方法に出ました。
肩叩きとしては実に俊敏な動きでありました。
彼らが俊敏に動かざるを得なかったのはなぜか。
先の戦争が侵略戦争だと東京裁判で決めつけられたため、そう思い込んだ日本人もいるかと思います。
しかし時間が経つと、侵略したといっても、フィリピンやビルマは日本が戦争をしている時に独立させているし、
インドの独立のために日本はインパールまで行って大きな犠牲を払っているということ、
インドネシアにも近い将来の独立を認めていたことを思い出します。
そして昭和18年の大東亜会議で実に立派な宣言までしています。

考えてみれば、日本が攻め込んだのはイギリスやアメリカやオランダの植民地であり、
イギリスやアメリカやオランダを侵略したとは言えません。
むしろ、そこで搾取されていた植民地の人たちを独立させた。
今になってみれば、誰にでもわかる話です。問題は、「大陸は侵略したのではないか」という懸念です。
このことで未だに文句を言い続けているのは韓国と中国です。
韓国については大昔の話であり、しかも韓国併合はイギリスやアメリカなど全ての関係諸国が後押ししており、
日本がごり押ししたということではありません。日本が侵略したのではなく、
むしろ奨められて併合したといっても過言ではない。
それに反対の声はロシアや清国(中国)の政府からも出なかった。
さらに、アメリカはフィリピンから略奪しましたが、日本は韓国に持ち出しで投資を行いました。
ですから、日本が侵略したことが問題になるのは、シナ大陸なのです。

塩川正十郎氏が自治大臣の時に、数人の物書きや学者を呼んでの食事会があり、
私はある外務省高官と同席しました。その時にその外務省高官が、
「中国には何を言われても日本は受け入れなければならない。それだけのことを日本はしたのです」
という主旨のことを言いました。
この人が後に駐米大使になっていることを考えれば、彼のような考え方が外務省の中心的な意見です。
そして、それが「村山談話」を生み、安倍内閣、麻生内閣まで縛っていたことが
田母神問題で明らかになりました。
ですから、日本を卑屈にしている最大にして唯一の原因は、日本の「大陸侵略」という神話だと言えます。
その時に問題になってくるのが一つは満州事変、もう一つがシナ事変です。

満州族の独立
満州事変は、東京裁判で一級資料であるジョンストンの『紫禁城の黄昏』
(R・F・ジョンストン著、中山理・渡部昇一訳、完訳版は祥伝社刊)を証拠として取り上げなかったことから、
日本が侵略したように決めつけられることになりました。
しかし、『紫禁城の黄昏』を読めば、実際は全く違う。
辛亥革命という名の下に、シナ人が満州政権に対する独立運動をした。
それによって皇帝の座を追われた満州人皇帝溥儀が、
信頼する家庭教師・ジョンストンと共に命からがら日本公使館に転がり込んできたことが
満州事変につながる事件の始まりであることは誰が読んでも明らかです。
溥儀と共に行動したジョンストンが記しているのです。
『紫禁城の黄昏』が、もし三年早く出版されていれば、リットン報告書も不要でした。
ジョンストンは本の中で、リットン報告書を書いた人たちはあの辺りの状況を
まるで知らないと書いているほどなのです。
ただし、そのリットン報告書ですら、「満州事変は、いわゆる侵略だとは簡単に言えない」と記しています。
いわんや、その後、間もなく満州は独立したのですから、そこで起こった様々な事件は満州族独立と
いうことに集約するわけで、一つの国の誕生物語になるだけの話です。侵略とはなんら関係ありません。
満州国は日本の傀儡政権だったという人もいますが、そんなことを言うのであれば今のイラクも傀儡政権です。
また、現在中国のチベットやウイグルに対する行いに比べれば、
日本と満州国の関係は比較にならない立派なものです。
満州問題について侵略だと言うならば、これは歴史に対する全くの無知を表明することに他ならない。
張作霖爆死事件が歴史的に確定したというような不正確なことを言って、
日本の侵略を証明しようとするいわゆる歴史家がいます。
近年、ロシアから出ている資料や中西輝政教授が研究されているように、
張作霖爆死事件はむしろロシア勢が引き起こした可能性が高いと私は思っていますが、
もし日本が行っていたのだとしても、それは満州独立のための一歩だったと言えます。
張作霖爆死事件はそういう意味で日本の侵略性の問題にしては絶対にいけない。

爆弾三勇士の死
ではシナ事変はどうか。
シナ事変には序曲があります。
『「在支二十五年」米国人記者が見た戦前のシナと日本』(祥伝社)を書いたジョン・B・パウエルは、
満州事変やシナ事変前後に当地にいた人です。彼はシナ事変が起こった頃、上海にいたそうですが、
その時、シナ人は落ち込んでしまっていたと言います。
当時のシナ人は今と同じで国境の観念がないですから、満州も自分たちの国だと思っていたのでしょう。
そこにいた20数万人のシナ軍が一万そこそこの日本軍に追いまくられ、全員追い出されてしまった。
これがショックで落ち込んでいたそうです。
ところが間もなく、第一次上海事変が起こりました。日本軍は居留民保護が目的で駐留しており、
戦争するつもりなどないところで戦争が起こってしまった。
ですからこの第一次上海事変の解決には日本は非常に骨を折るはめになりました。するとシナ人たちは、
我々も日本とちゃんと戦えるじゃないかと自信を回復した、という主旨のことをパウエルは書いています。
この第一次上海事変のことを日本人は忘れてしまっていますが、我々の世代は有名な爆弾三勇士の話を
よく覚えています。与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹作った曲は、小学生でも歌っていました。

  廟行鎮(びょうこうちん)の敵の陣
  我の友隊(ゆうたい)すでに攻む
  折から凍る如月の
  二十二日の午前五時

日本軍が廟行鎮で苦戦していたため、突撃路をひらくため鉄条網を爆破し、自らも爆死した江下武二、
北川丞、作江伊之助各一等兵がこの爆弾三勇士です。銅像も作られましたが、敗戦で取り除かれ、
その後、このことは日本では忘れられてしまっていました。
ただし、蒋介石は忘れませんでした。北シナの平地では日本軍にかなわないが、
上海に引き込んで戦えば勝てるのではないかという発想を持ったのです。
そしてドイツを巻き込むことを考えました。

反日ドイツの関与
先の戦争では防共協定や三国同盟があったため、日本人はドイツを友好国だと思い込んでいます。
しかし、第一次大戦で日本はドイツのシナ大陸における植民地であった青島を占領し、後にシナに返還しました。
また、日本はドイツから太平洋のカロライン諸島やマーシャル群島を委任統治領として奪いました。
このことを日本人は忘れていますが、ドイツ人にとっては凄まじい恨みとなって残っていたのです。
ドイツは欧州で戦争を行っていたにもかかわらず、何の関係のない日本に権益をとられた。当時のドイツと
シナの貿易は巨大であり、さらに太平洋にドイツの足がかりが何もなくなったのですから、恨み骨髄です。
ドイツとシナとの貿易がいかに盛んだったかは、
渋澤栄一が「ドイツに見習え」と言ったことからもよくわかります。
ドイツは政府も商人も一丸となり国を挙げてシナと貿易を行っているが、日本はやり方が下手だと
渋澤が言ったほどでした。それをドイツは全部失ったわけです。
そのドイツと蒋介石のシナが結びつきます。
シナはタングステンの主たる生産地でした。タングステンは鉄鋼弾という硬い弾頭を作るために重要な資源です。
このタングステンを得るために、ドイツはシナに多額のカネを注ぎ込みました。
同時に、ドイツの参謀長級の高級軍人を次々とシナに送り込みました。
ゼークトやファルケンハウゼンのような日本で言えば参謀次長、参謀総長を歴任したような人物を
何人も次から次へと送り込み、シナ軍の訓練を請け負った。
この辺りのことは、最近出版された阿羅健一氏の近著『日中戦争はドイツが仕組んだ』(小学館刊)で
詳しく描かれています。
蒋介石がドイツに目をつけたのは、日本の陸軍で学んだからです。その日本陸軍はドイツから学んだことを
蒋介石は知っていますから、本家本元から学ぶという発想は自然です。
ところが、第一次大戦後のドイツ軍は、日本が学んだ頃のドイツとは全く違う軍隊になっていました。
ドイツ軍は第一次大戦の西部戦線で塹壕戦をくぐり抜けてきたからです。
塹壕戦では拠点が重要ですから塹壕やトーチカを作ることになります。
トーチカはベトン(コンクリート)で作った要塞です。それを二千も三千も作る。
さらにクリークを掘り、民家もすぐ要塞にできるよう壁を厚くする。
これらの知識をシナはドイツから学びました。
さらに重要なのは、武器の援助です。
私が子供の頃に講談社の絵本などで頻繁に描かれた武器に、チェコ機関銃というドイツ製の軽機関銃がありました。
これはすごく優秀な機関銃です。日本の軽機関銃は撃つとすぐに弾が詰まったりするためチェコ機関銃の
足元にも及びません。
また塹壕戦でお互いが睨み合っている時に重要となる武器は手榴弾です。
私は子供の頃に本で見て知っていますが、シナ軍が持っていた手榴弾は柄がついていました。
日本の手榴弾はただ握って投げるような普通のもので、なかなか破裂せず、性能が悪かった。
しかし、シナ軍が持っていたドイツ製の手榴弾はうまく破裂しました。
この手榴弾に日本は悩まされることになります。後でわかったことですが、
シナ軍はそのドイツ製の手榴弾を十個も二十個も腰にぶら下げていました。
日本軍はせいぜい一個か二個しか持っていません。
このようなシナ軍の武器の先進性に、日本軍は全く注目していませんでした。
これは明らかな日本軍上層部の失策です。

共産党と蒋介石の密約
さて、シナ事変当時の大本営作戦部長は石原莞爾です。石原莞爾はシナと戦争するつもりは全くありませんでした。
これは明らかです。他に別の意見の人がいたとしても、作戦を立てる部門の長がシナとの戦争に徹底的に
反対ですから、大本営からシナで戦争を始めるという計画は出るわけがない。
すると、現地で起こったことに火がついたと解釈せざるを得ません。
日本の当時の体制から考えれば、それ以外の解釈はできません。
その当時のシナはどういう状態だったか。『日中戦争』(林思雲、北村稔共著、PHP研究所刊)によれば、
当時のシナ人たちは、日本をやれ、と人民たちが燃え上がっていたといいます。
しかし日本は燃え上がっていませんでした。
そこに1936年12月12日、蒋介石が監禁される西安事件が起こったことを忘れてはいけません。
蒋介石は東北軍の張学良に騙され西安で監禁されました。張学良は共産党(八路軍)と共に日本に対抗する
いわゆる“一致抗日”を主張しますが、その背後には共産党の事前の工作があったと言われています。
いずれにしても、壊滅寸前だった共産党の毛沢東にしてみれば、チャンスです。毛沢東は周恩来を西安に派遣し、
張学良と協議させました。毛沢東はそれまで蒋介石にさんざんな目にあっているのですから
殺害するのが自然でしょう。
しかし、事実として毛沢東は殺さずに蒋介石を解放しました。
何かを要求せずに解放するはずはない。密約があったと考えるほうが自然です。
しかし、この密約については
誰も何も明らかにしていません。張学良でさえも、彼は百歳を超えるほど長生きしましたが、何も言っていない。
しかしながら殺されるべき蒋介石が、無事に解放されたことは確かです。
そして翌年、第二次国共合作が成りました。
毛沢東はソ連からの命令があったのでしょう。盧溝橋事件の五年も前、昭和9年には対日作戦基本綱領、
対日作戦宣言を作り、日本に宣戦布告していました。シナの日本への宣戦布告は、
すでに毛沢東が行っていたのです。
ですからここで推定されるのは、蒋介石は毛沢東に「命を助けてやるから一緒に日本を叩け」と
要求されたということです。蒋介石は日本と一度は戦うつもりでいたとは思いますが、
順序としては毛沢東軍を一掃し、蒋介石政権を完全に樹立して、強力なシナを作るというシナリオだったはずです。
それが毛沢東の要求から、計画より早く日本と戦争をせざるを得なくなった。
それでも蒋介石はすぐに戦争を始めたわけではありません。盧溝橋事件は何度も触れているので簡単に述べますが、
条約に則って駐留しており、戦争する気などないから鉄兜も被らずに演習していた日本軍に、
何度も何度も弾が飛んできて、日本軍はそれに応戦したという成り行きです。
これは中国共産党の分子が蒋介石軍に入り込んで工作したということがほぼ明らかで、
それについての資料も出てきています。
そのような小競り合いをシナから起こされていましたが、日本は停戦まで持って行き、
戦争をするつもりは毛頭なかったのです。
しかし、そんな中で昭和12年7月29日、通州事件が起こりました。
北京のすぐ近くの通州にいた日本の一般人二百数十人が虐殺されたのです。これに日本人は怒りを覚えた。
今であっても、アメリカ人の一般市民が、どこであれ200人以上虐殺されたら、すぐに報復戦争をするはずです。
日本はすぐに兵を動かしましたが、日本軍が強いことを知っているシナは、北京をオープンシティにしたため、
ほぼ被害もなく解決しました。そのため、日本はこの間の事件を戦争とみなさずに「北支事変」としたのです。

水兵が戦った日本軍
この北支事変で片が付いたと思っていたら今度は8月13日に、上海で新たな戦いが始まった。
この8月13日に始まった戦いについては、私はライシャワー元駐日大使の書いた本で読んだことから
興味を持ちました。
ライシャワー大使のお兄さんは、キャセイホテルでその時に亡くなったといいます。
8月13日からの戦争のことをまるで当時そこにいて、全てみたかのように書いているアメリカの
ベストセラー小説『SHIBUMI』(トラヴェニアン著)を私は原書で読みました。「渋み」からきたタイトルですが、
邦訳は早川文庫から『シブミ』として発行されています。
この著者は正体不明ですが、小堀桂一郎教授が東大の研究誌でこの著者が何者かを問題にしているほど、
調べれば調べるほど当時の状況を正確に扱っています。
この『SHIBUMI』には上海の租界の状況が書かれています。日本人は共同租界に住み、工場などを造って
数万人が生活していました。他にはフランス租界やイギリス租界など、各国の租界があります。
そして、居留民を守るために日本も他国と同様に揚子江に軍艦を浮かべたりしていました。
そしていざという時に居留民を守るのは、水兵、つまり海軍陸戦隊でした。
陸戦隊とは、水兵さんが軽武装で居留民を守る役割をする部隊で、アメリカの海兵隊とは全く違います。
水兵さんですから、もちろん侵略の意図などありません。
そこに8月13日に突如、シナ軍による空襲を伴った攻撃が始まりました。日本の軍艦にも爆弾を落としていますが、
慌てて落としたとめに、これは当たらなかった。しかし、それた爆弾はデパートやホテルなどに落ちたようです。
一ヵ所で千人も亡くなるような惨状でした。

後でわかったことですが、8月13日に突然、大軍が押し寄せたのは、張治中の五万の精鋭が一気に攻めて
黄浦江と揚子江に日本軍を落として殲滅するという予定だったようです。しかし、日本の水兵さんは皆、
鬼神のごとく勇敢に戦って持ちこたえ、日本政府は慌てて二個師団を送ってなんとか救ったわけです。
その頃にことを私は絵本などで読みました。日本の水兵さんが市街戦で機関銃を撃ちますが、
その時に機関銃が詰まってしまう。それでやられそうになりますが、機関銃を持った太田一等水兵は
落ち着いて機関銃を整え、ようやく間に合って撃ったという話です。
日本は二個師団を送って簡単に制圧できると思っていましたが、そうはいかなかった。
そして逐次、兵を送ることになります。
シナ軍のトーチカは大きなものは直径200メートルもあるベトンで固めたもので、それには機関銃が据え付けてある。
その機関銃はチェコ機関銃なので故障しません。肉薄してくると手榴弾がやってきます。
ですからわずか2ヶ月くらいで日本軍は四万以上の死傷者を出すことになりました。
これは半年かけて攻めた旅順の死傷者にも近い数です。
阿羅健一氏が最近出版された前掲書を書いた動機は、この時に亡くなった日本兵の石像群を見たからだそうです。
そんなにたくさんの人が亡くなるとは思っていない戦いですが、亡くなった兵の白骨がどんどんと戻ってくる。
残った人たちは、彼らが出兵した時の写真に基づいて石像を作り、それは何十体にもなりました。
この石像は台座に乗せてあって背が高かったのですが、進駐軍が取り除けと言った。
しかし取り除くわけにはいかないということで、有志が知多半島に移動させて今でも守っています。
いずれもいい顔をした、いい石像群です。

戦うつもりがなかった日本
さて、戦線を拡大しないはずのシナに兵力を送るしかなくなったため、作戦部長の石原莞爾は辞職します。
一方で、この上海地区の戦争をなんとかしなければならない。
上海は全体が旅順のようになっているため、日本は覆面将軍柳川平助を送り込みました。
覆面将軍は杭州湾に上陸し、一気に上海の裏に出たため、シナ軍は総崩れとなり、
後はひたすら逃げることになった。
「日軍百万杭州湾上陸」と飛行機に大きな字幕を引かせながら覆面将軍と言われた柳川平助中将の
第十軍が行く姿は、絵本で見て覚えています。それに驚いて逃げるシナ軍を、日本軍は追撃し、
そのまま南京にまで入城したのです。この戦いでようやく、日本は北支事変からシナ事変と名称を改めました。
それまで北支で収めるつもりだったのです。
もし、最初からシナと戦争をするつもりであれば、もっとうまい戦い方はありました。
もともと北京をすぐに平定したのですから、そのまま真っ直ぐに南京に向かうという手もあったのです。
しかし、日本は戦争をするつもりがなかった。
実際、戦後に中国の人が、日本が北京から真っ直ぐ南京に入れば、
シナ軍は全滅して終わったと書いている本を読んだことがあります。
しかし、そういう発想が日本になかったのです。
しかも当時、日本は軍縮をしていましたから、兵隊もおらず、弾薬の備蓄も少なかった。
シナに送ったら、ほとんど空っぽだったといいます。
日本はヒトラーのルートで、ドイツが蒋介石軍に支援するのを止めるように何度も求めていますが、
ドイツ参謀本部はヒトラーに最後まで抵抗した勢力ですからそう簡単には止めません。
ドイツにしてみれば、タングステンという重要物資が必要だということもありました。
後に南京事件でインチキな証言をしたドイツ人・ラーべは、シーメンスの武器商人です。
彼ら死の商人たちは、シナに武器を売れば儲かりますから反日でした。
そして、ドイツの将校は実際に現場の指揮までとっていました。第二次大戦で最初に戦死したドイツ人将校は、
日本とシナとの上海戦で死んだ人です。さらに、参謀であったゼークトは、
「日本を憎まなければならない」という「憎日」をシナ軍に教え込みます。
これは第一次大戦でドイツがフランスを憎んで戦ったことによります。
このように、日本は戦争をしたくなかった。しかし他方で、シナはドイツの手を借りてまで
戦争がしたくて仕方がなかったのです。
従ってシナとの戦争は、日本が侵略しようとした戦争では決してありません。

「村山談話」の淵源は迷信
2009年1月14日産経新聞「正論」欄に、八木秀次氏が次のように書かれています。
《田母神俊雄前航空幕僚長の論文問題は、同氏が校長時代に設置した統合幕僚学校の
「歴史観・国家観」講座の講師人選の見直しに発展している。(中略)
統幕学校の講師の人選ばかりではない。自衛隊の一般隊員に対する研修での外部講師の人選、その講義内容、
防衛大学校での講義内容まで「村山談話」に沿っているかの点検作業が行われている。追究に熱心な
左翼政党は組織を挙げて自衛隊関係のあらゆる雑誌・新聞の執筆者の人選、執筆内容の洗い直しを行っているという。
(中略)
「村山談話」が政府機関を縛るということになれば、公教育における歴史教育は
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、
植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」
と教えなければならなくなる。
当然、教科書検定にも反映されるだろう。
これではせっかくの教育基本法の規定も画に描いた餅に過ぎなくなる。
「村山談話」が教育基本法に優位し、理念を形骸化させるという構図である。(後略)》
「村山談話」に繋がる「日本は侵略国家だ」という歴史観は、東京裁判で植えつけられましたが、
日本は戦後60年をかけてやっと正気を取り戻しつつありました。
しかし、上記に八木氏が書かれているような状況では、何十年も前に遡ってしまい、
中国に何を言われても日本はそれをそのまま受け入れるしかなくなってしまいます。
このように「村山談話」が日本を縛っている淵源は、
「欧米を侵略していないだろうが、シナ大陸は侵略したのではないか」という迷信です。
その点で、若狭和朋著『続・日本人が知ってはならない歴史』(朱鳥社)のような書籍が詠み継がれたり、
先に挙げた『日中戦争』(PHP研究所)、『日中戦争はドイツが仕組んだ』(小学館)など
が相次いで出版されたことは極めて重要で、私にとっても30年言い続けてきたことが
ますます正確に裏付けされたことを喜ばしく思っています。


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