毛沢東、チベット侵略の隠された理由

WiLL2008年6月号
毛沢東、チベット侵略の隠された理由
宇都宮 慧 中国研究家

チベットの仏僧が殴打され、拉致される映像を見ていると、チベット人の余りに不幸な運命に
同情を禁じ得ない。そして、残虐な行為を繰り返す漢民族に対し深い怒りを覚える。
チベット人は、チベット密教、そして、ダライ・ラマ法王に帰依し、平和を愛し、武力を持たなかった。
一方、漢民族は、王朝が変わるたびに、旧王朝と血の繋がりを持つ者のほとんどが
虐殺されるという歴史を持つ、極めて残虐な民族である。その漢民族が、今再び、
チベット人に容赦なく襲いかかっている。
仏教の戒律を重んじ、祈りと共に平和な日々を送っていた人々に対し、漢民族は一体、何をしたのか。
だが、私の怒りは、漢民族だけに向けられるものではない。これまでチベットに救いの手を
差し伸べて来なかった国際社会にも向いている。その最も大きな怒りの矛先は日本である。仏教徒が多い日本こそが、チベット仏僧の深い悲しみと怒りを最も共有出来る国なのである。
だが、日本はこれまで何もしてこなかった。

人民解放軍の侵略開始
1949年10月1日―中華人民共和国建国の日、北京放送は、突然、「人民解放軍は、中国全土を
解放しなければならない。チベット、新彊、海南島、台湾も例外ではない」と発表した。
それが中共によるチベット侵略の始まりだった。北京放送を聞いたチベット人は、
その真意をはかりかねていた。
当時、チベットに住んでいた外国人(中共が帝国主義と呼ぶ国の出身)は、イギリス人技術者2人、
イギリス人使節1人、イギリス人宣教師1人、アメリカ人旅行家1人、オーストリア人登山家2人、
ロシア人技術者1人の8人しかいなかった。その数十年前からチベットは外国人立ち入り禁止だったのだ。
チベットでは鉱物資源もまだ発見されておらず、「農作物が収穫出来ず、資源もない不毛の地を、
毛沢東はなぜ狙うのか」と誰しも不思議がった。その理由は後述するが、ともかく1950年、
毛沢東の指示により、約84000人の人民解放軍がチベットに侵攻したのである。
毛沢東は若い頃から、欧米日列強によるアジアの殖民支配の様子、戦争が終わって各国の国境が確定され、
やがてアジア諸国から民族自決の機運が高まり独立運動へと発展する様子を、じっと見ていた。
そのため、チベットを手に入れるには今しかないと思い至ったに違いない。
国際社会が朝鮮戦争(1950〜53年)に目を奪われている間に、中国の国境が確定する前にと
考えたのだろう。
毛沢東にとって、チベット侵略の理由などどうでもよかったのだ。その実、チベット侵略の“大義名分”は、
途中で「帝国主義者からのチベットの解放」から「封建的農奴からのチベット人民の解放」へと
変化している。

押しつけられた十七カ条
1951年5月、北京の旧日本大使館で、チベットから派遣されたアボ・ジグメなど5人の代表団は、
中共から「十七カ条協定」の署名を迫られた。同代表団は、ダライ・ラマからの全権委任状はもとより
国璽も国印も持っていなかったが。中共の懐柔と脅しの結果、署名させられたのである。
彼らが押した国印は中共が偽造したものだったという。
現在、その国印は中共が保管している。もし中国政府が「国印は本物だ」と主張するのであれば、
開示しても良いはずであるが、今のところ日の目を見ていない。
「十七カ条協定」のポイントは、外交権と防衛権をチベットから取り上げることにあった。
中共は、高度の自治は保障されると言ったが、外交権と防衛権を失うと、もはや国家として
独立することが出来ず、単なる一地方に組み込まれてしまう。
中国は現在、チベットはもともと国家として独立していなかったなどと主張しているが、
十七カ条協定で「外交権と防衛権を取り上げる」と規定していることは、中共がチベットを
国として認めていたことを意味する。もし中国の一地方だったのなら、そのような条項は、
そもそも不要だからだ。中共は、中国とチベットの「中蔵併合」を行ったのである。だが、
この「中蔵併合」は明らかな国際法違反であった。

僧侶を殺し、仏典を焼く
1950年、人民解放軍がチベットに侵攻したとき、チベットの軍隊は、わずかに8500人、
装備は大砲50門、追撃砲250門、機関銃200丁に過ぎなかった。一方中共は、暴力革命を容認する
マルクス主義を信奉し、国共内戦を戦った強力な人民解放軍を持っていた。「十七カ条協定」に基づいて、
ラサに人民解放軍を増派させた時には、チベット人の半数の約二万人が駐屯した。
お互いの武力がぶつかり合ったとき、勝敗は明らかだったのである。
1959年3月、首都ラサで大規模なチベット民衆による決起が起こり、人民解放軍はチベット民衆に
無差別砲撃を加え、三日間の暴動で、約1〜2万人が死亡した。中国の国旗が、壁を吹き飛ばされた
ポタラ宮殿の屋根の上にはためいた。その直後の1959年3月31日、ダライ・ラマはインドに亡命した。
そのため中共は、1959年を「民主改革」の年と位置付けている。
その後、中国で1966年から約10年間実行された文化大革命の余波はチベットにも押し寄せ、
6000以上の寺院、仏像、経典が、ことごとく破壊され、焼き払われた。焼かれずに残った寺院は
わずか八つだったという。知識階級の漢民族と同じように、チベットの高僧も、首に看板を
吊るされ民衆の前に曝され、酷い暴行を受け、そして、チベット仏教文化の徹底的な破壊が行われた。
チベットにおける仏教文化の破壊は、中国のどの地域よりも残忍であった。数千人の若き
漢民紅衛兵は、毛沢東語録を片手に彼の指示に忠実に従い、イデオロギー狂信者として、
チベット仏教を永遠に滅亡させようとした。それを見ていたチベット民衆の怒りは頂点に達し、
チベット人と漢民族の本格的な殺し合いが展開されたのである。

目を覆うばかりの虐殺
毛沢東は、最終的に総勢20万人の軍隊をチベットに派遣した。人民解放軍がチベット人の
加えた弾圧は、尋常ではなかった。マイケル・ダナムは、著書『中国はいかにチベットを
侵略したか』(講談社インターナショナル)のなかで、その様子を次のように書いている。

《妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。特に、尊敬されている僧たちは狙い撃ちされ、
尼僧と性交を強いられもした。ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた
売春婦との性交をしいられた。拒否した僧のある者は腕を叩き切り落とされ、
「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。
大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、
馬や車で引きずり殺された。アムドでは、高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、
村人はその上に小便をかけるよう命じられた。
高僧たちは、「霊力で飛び上がってみせろ」と中共兵に嘲られ、揚句に全員射殺された。
怯える子供達の目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて中共の
学校や孤児院に強制収容された。
貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られた。経典類は
トイレットペーパーにされた。僧院は馬や豚小屋にされるか、リタン僧院のように跡形も
なく破壊された。
リタン省長は村人の見守るなかで拷問され、射殺された。何千人もの村人は強制労働に駆り出され、
そのまま行方不明になっていった。僧院長たちは無理矢理自分の糞便を食わされ、
「仏陀はどうしたんだ」中共兵に嘲られた。
国際法曹委員会報告は、「1956年終わり頃までに、ある地域ではほとんどの男は断種され、
女性は中共兵に犯され妊娠させられていった。
ある村では25人の裕福な村人が人びとの前で生きながら焼き殺された。また、別の村では
24人の親が子供を中共の公立学校へ行かせるのを拒んだ罪で目に釘を打ち込まれ、
虐殺された」と記している》

人間が、憎しみ合い、殺し合いをする最も大きな原因は、「宗教の違い」である。
いまイラクで起きているイスラム教のシーア派とスンニ派による殺し合いが代表例である。
殺し合いをする第二の大きな原因は、「民族の違い」である。最近では、ルワンダでの
フツ族とツチ族との殺し合い、カンボジアでのポルポトによる大量虐殺、ユーゴスラビアの
セルビア人の、民族浄化作戦、コソボにおける虐殺、ロシア人とチェチェン人との殺し合いが
記憶に新しいところだ。
民族の違いに加えて、人種的偏見、人種上の優越感が絡んでくると、虐殺はその残虐性を
増す。ナチスドイツによるユダヤ人虐殺、英国人によるタスマニア人虐殺、スペイン人による
マヤ文明滅亡などが挙げられる。
中共によるチベット人大量虐殺が、その残虐性と殺害者数においてナチスのホロコーストを
凌ぐ理由は、宗教上の違いと、人種上の優越の二つがそろったためと考えられる。
チベット亡命政府は、チベット人口の二割にあたる約120万人が、拷問、死刑、戦闘、飢餓、
自殺、傷害致死などで死亡したと発表している。1989年のラサ暴動を武力鎮圧したとき、
チベット自治区で指揮をとったのは、現国家主席の胡錦濤であり、昇進にはこのチベット制圧の
“功績”が大きかったといわれている。

恐るべき同化政策
植民地における同化政策とは、被支配地で古来より続いている伝統文化を断絶させ、
支配国の社会文化制度を持ち込むことである。また支配国から大量の移住を推し進めることで、
被支配国の民族アイデンティティーを喪失させることである。
被支配民族の抵抗に対して武力で制圧するだけでなく、巨額の国家財政を投入し、
融和政策を取ることで、抵抗する気力を失わせるのである。中共はチベットにおいて
そのような強力な同化政策を推し進めた。
毛沢東は、「チベットを支配するには、仏教と仏教の指導者を徹底的に滅ぼせ」と言ったそうだが、
文化を根こそぎ破壊せよという命令には、身の毛がよだつ。
最近、中共は、チベット支配の正当性として、「チベット人民の封建的農奴制からの解放」を挙げ、
中共の支配以降、チベット人の生活が格段に向上したことを強調している。1950年、
毛沢東が、「帝国主義者からの解放」を掲げて人民解放軍を侵攻させたのに比べると、
大きな様変わりである。
中国側のいい分では、「チベット人民が不幸のどん底にいたので、彼らを『何か』から
解放してやる」という善意がチベット支配の目的だったとしている。
だが、当時のチベット政府はもとより、誰もそんなことは頼んでいない。余計なお世話である。

漢民族が押し寄せる
1954年、2本の幹線道路が完成した。四川省成都からカムを経てラサに至る2413キロの
成蔵公路、蘭州から西寧経由でラサに至る1965キロの青蔵公路である。1957年には3番目の
新彊自治区まで延びる1179キロが開通した。
これにより、中国とチベットを結ぶ大動脈が出来上がったのである。現在、北京からラサまで
3922キロの高速道路(公路109)が完成し、時速150キロで走れば3日間でラサに到着する。
更に2006年7月には、ラサと青海省のゴルムドを結ぶ「青蔵鉄道」(世界で最も標高の高い
海抜5072メートルの地域を走るチベット鉄道。ゴルムド−ラサ間全長1142キロ)が全線開通した。
チベット自治区が北京などと鉄道でつながれた結果、漢民族がチベットにどっと押し寄せるようになった。
いまでは、ラサ市の人口35万人のうちチベット人が15万人、漢民族が20万人
(出典・中国民主化運動情報センター)、チベット自治区に住むチベット人の人口約280万人に対して、
漢民族の人口は750万人であり、漢民族の方が数倍多い。
チベット人は、四川、甘粛、青海、雲南、ネパール、ブータン、インドなどに散在して
生活しており、総人口は約600万人である。
青蔵鉄道の効果は凄まじく、チベットを訪れる観光客は2007年上半期110万人(前年同期比
86.3%増)であった。ラサで暴動が起きる前には、2008年は約300万人、3年後にはその2倍に
増えると想定されていた。
観光収入は2007年上半期92.1%増。商業施設の建設も相次ぎ、過去1年間で約80のホテルが
開業した。チベット自治区内総生産(GDP)は、前年比14.7%となり、6年連続で12%以上の
高成長を達成した。1人当たりのGDPは、1万元となり、中国の平均値を上回った。
いまや大量の漢民族や外国人観光客が、ラサに物質文明と貨幣経済を持ち込んだ。
チベット最大の観光資源は、チベット仏教文化であり、ダライ・ラマが半世紀も不在の
ポタラ宮殿はいまでは最大の観光名所となった。チベット人が大地にひれ伏す信者の祈り
「五体投地」の光景は、いまや刊行の一大目玉である。
中共は、200億元(約3000億円)を投じ、観光名所となる寺院など伝統文化施設の修復事業として、
「チベット高原国家生態安全障壁構築」計画を進めている。かつて破壊しつくした寺院で
あっても、儲かると思えば修復するのである。
これまでに3億元(45億円)を投じて、ポタラ宮殿など文化財の修復を行った。チベットの
聖なる大地は、いまや富をもたらす大地となり、中国市場経済は、益々チベットの奥深く
浸透している。独自の文化圏を形成し、その伝統を長く受け継ぎ、チベット仏教の教えを
忠実に守って質素な生活を続けてきたチベット人の目の前に、いきなり現金が積まれ、
仏像が高値で買い取られていく光景があちこちで見られる。

毛沢東の恐るべき意図
毛沢東は、なぜ国際法を無視し、国際社会が知らぬ間に、約120万人の大量虐殺を行ってまで、
地下資源もなく、大した農産物も収穫できないチベットを手に入れたかったのだろうか。
それは、長らくチベット人だけではく国際社会でも最大の謎であった。だが、1960年代に
入り、その疑問が明らかとなった。
毛沢東は、1964年の核実験成功後、チベットに、インドとロシアを狙う5基の核ミサイル基地を建設。
さらに大陸間弾道弾(ICBM)8基を配備し、軍事レーダー基地17ヵ所、軍用飛行場14ヵ所が作られた。
恐るべきことに核実験をチベットで行い、核廃棄物もチベットに捨てている。チベットは、
一大核軍事要塞基地となったのである。中国とチベットを結ぶ幹線道路は、軍事道路でもあった。
毛沢東は、核戦争による第三次世界大戦を予想しており、いまでも中国各地に多くの
核シェルターが存在する。核戦争になったとき、相手の核に狙われるのは、当然核ミサイル基地である。
そのため、核ミサイル基地をチベットに配置したのである。
毛沢東がなんとしてもチベットを手に入れたかった理由がお分かりいただけただろう。
核戦争が起きれば、中国でも数千万単位の死者が出る。毛沢東にとって、漢民族を
核攻撃から守るためには、チベット人120万人の犠牲など、些細な問題でしかなかったのだ。

チベットを見殺しに
アメリカは毎年、人権レポートでチベットにおける人権問題を繰り返し批判してきた。
国際連合も、総会で3回(1959年、1961年、1965年)、非難決議を行った。
そして、1989年12月にダライ・ラマはノーベル平和賞を受賞した。だが、国際連合は、
安保理で国連軍のチベット派遣を決議した訳ではない。国連軍が派遣されるのは、
安保常任理事国以外で発生する虐殺や地域紛争事案である。
アメリカがイラク派のように、国際連合の決議がないにもかかわらず正義感満々で軍を
派遣する、というようなことは、チベットにおいては起こらなかった。フセインは米国の
手で裁判にかけられて処刑されたが、毛沢東は「人道に対する罪」で処刑されることもなかった。
もし中共がバチカン国を武力で攻撃し、教会を砲撃で破壊したのなら、国際連合決議を待つまでもなく、
NATO諸国は、躊躇なく大軍を派遣しただろう。もし中共がイスラムの聖地を攻撃し、
モスクを破壊したのなら、世界中のイスラム教徒が立ち上がっただろう。
だが、チベットは不幸なことに仏教国だった。ポタラ宮殿が大砲で攻撃されても世界の
反応は鈍かった。欧州では、批判の声さえあがったことはない。国際社会はチベットに
手を差し伸べなかったのである。
ル・モンド誌は、その様子を「チベットでひどい行動が明らかになっても、どの国もそれに耳を傾けず、
動かなかった。北京当局の不評を買うことなど誰も望まなかった。国際法や人権などは、
中国への飛行機やプラントなどの輸出に比べたら、どうでもよかったのだ」と批判している。

「法隆寺を焼かれるのと同じ」
チベットと同じ、仏教国である日本も例外ではなかった。
仏教は、現在のインド北部で釈迦が興し、大乗仏教がアジア大陸を、小乗仏教が東南アジアを
海のルートで伝搬し、日本に伝えられた。現在、強い国力を持った世界の国のなかで、
仏教が主な宗教になっている国は日本だけである。
チベットで、伝統的な仏教寺院が砲撃で破壊され、仏経典が焼かれ、仏僧が「仏経典なんて糞だ!」
と書かれた看板を首に吊され、大衆の前で跪く光景を見て、悲しみと怒りを共有できる民族は、
世界のなかで日本人しかいない。チベットを救うことが出来たのは、世界のなかで日本しかなかったのだ。
山際澄夫氏は、「そういう状態の日本を想像してみるといい。法隆寺などをはじめとする
日本の神社仏閣が全て焼き払われるか、粉々に破壊され、正倉院などの宝物一切は略奪、
破壊される。仏僧たちは公衆の面前で裸にされて虐殺、少しでも反抗する信者たちは子供の
面前で惨殺される」と、日本で起こった場合に例えている。
だが日本は戦後、一国平和主義の考えが深く浸透し、他国で起きている惨事に無関心であった。
他国で起きている殺戮を防ぐためであっても、自衛隊の海外派兵につながるような言動を
しようものなら、激しい批判に曝された。
国内の人権擁護に熱心な弁護士たちは、他国での悲惨な人権侵害には口を出すことすらしなかった。
そんな中で日本の仏教界は、今回の騒乱でついに立ち上がり、天台宗の住職が「私たち
日本の仏教者の真価が問われています」「私たちにとって、これが宗教者、仏教者であるための
最後の機会かもしれません」とテレビ番組で声明を発表した。聖火リレーの出発地を
予定されていた善光寺は、聖火が来る1週間前に辞退した。まだまだ小さな動きでしかない。
しかし、本当に責めを負うべきは、偏向報道をしてきたメディアではないだろうか。
06年7月1日に中国青海省・西寧市とチベット自治区を結ぶ青蔵鉄道(全長1142キロ)が、
全線開通し、NHKが「青蔵鉄道開通」特集番組を組んだ。
私は、この映像を見ながら、かつて、80年代にNHKが美しい音楽と映像の「シルクロード」を
2回(第1回目は80年〜81年、そして、第2回目は83年〜84年)にわたり、放映したことを
思い出していた。
第1回目が放映された80年は、76年10月に4人組が逮捕され、文革が終わってから、
わずか数年しか経っていない時期。83年〜84年といえば、中国国内では「精神汚染キャンペーン」が
展開され、特に上海などでは数万人の若者が逮捕され、まさにシルクロードあたりの
強制労働改造施設の強制収容されている頃だった。
今回も、鉄道の開通に伴い、チベットがより繁栄するかの如く放映されていた。
海外へ亡命したチベット人および支持者らは「鉄道建設は中共の軍事目的にある。
チベットの社会および経済に重圧をもたらし、文化も破壊される」と強く懸念して、
インド北部のダラムサラで同鉄道の開通を抗議するための集会を開いていた。
しかし、残念ながら、その映像はNHKの特集には入っていなかった。
チベットで起きていることについてあまりにも情報が少なく、多くの日本人は、
ほとんど関心すら持ち得なかったと言えよう。

チベット僧に安らかな祈りを
現在、ダライ・ラマ14世はインドでの亡命生活を余儀なくされている。
1995年にダライ・ラマ(Dalai Lama)に次ぐ地位であるパンチェン・ラマ(Panchen Lama)として
指名された6歳の少年は中国政府によって身柄を拘束され、いまだに行方が知れない。
また、中国政府は、チベット仏教の権力者を自ら選定することで同地域を事実上の管理下に置いた。
そして2007年8月4日、中国政府は輪廻転生を続けるとされるチベットの高僧(活仏)が
転生する際、政府の許可なしの転生は認めないことを決定した。ついに仏教の教義にまで
管理の手を伸ばし始めたのである。
チベット僧侶たちが、一日も早く、安住の地で「祈り」が続けられるよう願わずにはいられない。


年表
1949年 中華人民共和国成立。その後まもなく「チベット、台湾、新彊、海南島を解放する」との放送
    中華人民解放軍、チベット東部のチャムド、東トルキスタン占領
1950年 1月1日にチベット解放軍の声明を発表 
    中華人民解放軍がチベット侵攻開始
1951年 中国が「チベット『平和解放』17条協定」を強引に結ばせる
1954年 成蔵公路、青蔵公路が完成
1956年 チベット東北部のアムド、カム地方で大規模な抗中蜂起が勃発
1957年 アムド、カムの抵抗勢力、抗中ゲリラの統一組織を結成
    米国CIAの支援をうけ中央チベット(西蔵)でゲリラ活動
1959年 ラサでチベット蜂起。中国はチベット人87000人を殺害して鎮圧
    ダライ・ラマ14世とともに80000人のチベット人がインドに亡命
    周恩来首相、チベット政府の解散を宣言
    中印国境紛争勃発(〜62年)
1960年 インドのダラムサラに「チベット亡命政府」樹立
    国際法律家委員会がチベット問題に関し第一、第二号報告書
1961年 国連総会がチベット問題で「民族自治権」を認める
1962年 チベットの僧院と尼僧院の97〜99%が無人化・廃墟化
1963年 中国人科学者が水爆設計作業のため、アムド入り
1965年 西蔵(チベット)自治区人民政府成立
1966年 文化大革命の波及で紅衛兵ラサ進駐開始
1968年 官庁・学校でのチベット語の使用禁止
1971年 中国がアムドに核兵器配備
1975年 ムスタンのチベット・ゲリラ基地閉鎖
1977年 中国、ダライ・ラマ14世の帰国呼びかけ
1979年 ケ小平がチベット解放政策を発表
1984年 チベット亡命政府が「中国による侵略・占拠で120万人のチベット人が死亡」と発表
1987年 ダライ・ラマ14世が米連邦議会で「和平5項目プラン」を演説
    ラサで中国支配に反対する2つの大規模なデモ
1988年 胡錦濤、自治区党委書記就任(〜1992年)
1989年 ラサでの抗議デモを受け、中国(胡錦濤)がチベットに戒厳令を宣言
    北京で天安門事件発生
    亡命中のダライ・ラマ14世がノーベル平和賞受賞
1990年 中国がチベットへの戒厳令を解除
1995年 中国がパンチェン・ラマ11世を勝手に認定し、拉致監禁
1998年 国際連合人権高等弁務官メアリー・ロビンソン、チベット訪問
2001年 胡錦濤が副主席の立場で「ダライ一派、世界中の反中勢力による分離活動を断固として鎮圧」
    とラサでスピーチ
2002年 胡錦濤が中国共産党総書記に就任
2006年 青蔵鉄道開通
    ヒマラヤ山脈で中共軍がチベット人を射殺。映像が世界中に流れる
2007年 ダライ・ラマ14世が米議会で「議会名誉黄金賞」を授与される
2008年 チベット動乱
    北京五輪聖火リレー、世界中で非難の声

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