雅子さまが受けられた小和田家の教育方針

雅子さまが受けられた小和田家の教育方針
上野 緑子 (更新日:2001年12月25日)
http://allabout.co.jp/gm/gc/184138/(外部サイト)


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

女性セブン2011年3月31日・4月7日合併号
■一に勉強、二に勉強、三に勉強
雅子さまの祖父、毅夫氏は、新潟各地の旧制中学で教鞭をとり、市の教育委員長を務めるなど、
一貫して教育者として活躍した人である。
この毅夫氏がいつも子どもたちにいっていたのが、「一に勉強、二に勉強、三に勉強」であったという。
恐らく雅子さまは、この祖父のことを、父、恒氏から聞き、人間として大切なことは、
勤勉と努力であることを、幼少のころから座右の銘のようにされたのではないだろうか。
その小和田家の教えこそが、雅子さまのなかにある“完璧主義”の精神を生み出しているのだ。
小和田家で約25年間、家政婦として働いた女性はかつて本誌にこんなことを明かした。
「雅子さまは、みなさんが想像するような決して強い性格のかたではなかった」
「雅子さまはご性格として大変な完璧主義でいらして、とにかく何事も120パーセント
頑張っていらっしゃるように見えました。例えば、皇太子妃に内定し、皇居に参内されて
“お妃教育”を受けられるその2週間ほど前から、ご自分でも予備知識の勉強をなさっているのには、
正直なところ驚きました。中途半端な気持ちでは不安だと思われたのでしょうが、
いかにも雅子さまらしいと思いました」(元家政婦)
「(小和田家は)家族揃って食事をされることはあまりなく、たまにあっても食事中は
淡々とされていて、会話がほとんどなく、とても静かなんです。冗談を言い合うこともないから
笑い声がないんです。そして食事が済むと、それぞれが食べたお皿を片付けて、
ご自分たちの部屋に行ってしまわれるんです。いま振り返ると、お嬢さまがたが、あまりに
しっかりされているのか、甘えたりなさることが少ない家庭でした。苦しいことがおありになったときに、
人に頼ったりすることが苦手である気がしてならないんです」(元家政婦)

雅子さまは父・小和田恒氏が外交官である関係で生後まもなく海外生活を余儀なくされた。
1歳8ヶ月、当時のソ連モスクワへ移住。まもなく母・優美子さんは妊娠。
優美子さんはモスクワでの出産に不安を感じ、恒氏が長期出張中のジュネーブへ行き双子の妹を出産。
一足早くモスクワへ戻った雅子さまは恒氏・お手伝いさんとの3人生活。
恒氏が「寂しいかい?」と聞いても「ううん」と答え、「お母さんと一緒にいたい」などとぐずることはなかった。
雅子さま4歳半の'68年5月、一家はニューヨークへ。
市立幼稚園に入園したものの英語がわからず誰とも会話しない日々。
4ヶ月ほど続いたある日、先生に初めて
「May I go to the bathroom?」(お手洗いに行ってもよろしいですか?) 
この日を境にそれまでが嘘のように次々と英会話を。
この沈黙の4ヶ月は雅子さまにとって頭の中のロシア語を追い出す期間で、
英語で話せる自信がついてようやく言葉にしたのではないかと言われている。
何事にも慎重で自分の力で忍耐強く物事に挑戦する雅子さまの原点が垣間見られる。
71年2月、7歳の雅子さま帰国。
公立小に編入するが優美子さんのたっての希望で田園調布雙葉小の編入試験を受ける。
試験後、優美子さんに「入学式って何?運動会はいつ?魚の背びれ・尾びれって何?」と質問した雅子さま。
日米文化の差に苦しみこの年の受験は失敗。
3年生の時、雙葉小へ編入したが当時まだ帰国子女という存在が珍しく
雅子さまも少なからずいじめを体験。優美子さんは厳しく接する。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


山下悦子『女を幸せにしない「男女共同参画社会」』
洋泉社 2006年7月
…一方、雅子妃は、まさに「均等法」世代であり、外交官だっただけに、当然、プライドも高い。
彼女のプライドの高さ、キャリア・ウーマンとしての自負の根拠となっているのは、以下の経歴である。
1979年7月、外交官である父の転勤で渡米、マサチューセッツ州立の名門ベルモントハイスクール2年に編入、
最優等生選ばれた。1981年9月にハーバード大学経済学部に入学、1985年6月、マグナム・クム・ラウデ
(優等賞、一説によれば、上位三分の一の人が全員もらえる)で、卒業、
卒業論文は「輸入価格ショックに対する対外調整」。
アメリカの学校は、親が学者だったり、外交官だったりすると入学しやすい。
ハーバード大学の場合は特にそうだ。父親が有名な政治学者だった私の女友達は、
楽勝でハーバード大学に進学した。その後、どうなったかは知らないが。大学院に入学する日本人は多いが、
大学から入学し、4年で卒業する日本人は少ないときく。英語を母国語とする人でも卒業するのは大変というから、
いずれにせよ雅子妃の英語力は相当なものだったと思われる。しかし、その分、日本語力が落ちるのは否めない。
というのは、敬語の使い方がおかしい、メリハリのないダラダラした日本語などと批判されたこともあるからである。
私の知り合いの編集者は「雅子さまお可哀想ではなく、可哀想な日本語力」といっている。
大学在学中の1982年にはドイツ、1983年にはフランスの大学の夏期コースに参加している。
『毎日グラフ』は雅子妃の学歴プロフィールにこの夏期コースを入れているが、いわゆるサマーコースは
誰でも参加できる遊びをかねたような講習だから特筆すべきことではない。
日本に帰国後、1986年4月、東京大学法学部に学士入学、10月外交官試験の合格、1987年3月東京大学を中退、
4月に外務省入省経済局国際機関二課に配属、1988年3月、イギリスロンドンの日本大使館外交官補になり、
7月、研修のためイギリスへ。オックスフォード大学ベリオールカレッジ国際関係論修士課程入学、
1989年夏にはフランス・ブザンソン大学の夏期コースに参加。
修士課程は修了されていない。なぜなのかなと素朴な疑問がわくが、この頃から
皇太子妃候補のことで周囲が騒然とし始め、落ち着いて勉強できなくなったからといわれている。
1990年6月帰国。7月、北米局北米二課配属。1993年1月6日婚約内定一斉報道。
1993年7月の宮中晩餐会ではクリントン米大統領と通訳抜きで歓談したことは有名。
先に述べたような経歴の持ち主であれば当然のことだが、インテリでも英会話力の苦手な
人が多い日本では、特筆に値することと一部のマスメディアやフェミニストの賞賛をかった。
しかし、こういった経歴に対し、「少々眉唾である」という声もある。
八幡和郎は「時事解説」二七回「皇太子妃雅子さまにおける悲劇の本質と打開策」という
エッセーの中で「キァリア・ウーマンとしての虚像」について述べている。
「まず、雅子妃は、東大に学士入学で編入されているのであって、世間の人が思い浮かべる
『東大入試』に合格されたのではない」。確かに東大はハーバード大卒であれば、
学士入学できるから入学試験に合格したのとは違うという指摘は正しい。
また外交官試験は外務省独自の試験で、客観性に乏しいという。
「ほかの省庁の事務次官の子女の場合でも、事務次官ないしはその候補者の子どもが受験した場合に
それを落とす勇気のある人事担当者はほとんどいないと思うが、
少なくとも人事院が主催する公務員試験を通らないと各省庁の試験は受けられない。
だが外交官の場合はそうではない」というのだ。「合格者に外交官の子どもが異常に多いことは
よく知られている通りであり、事務次官一歩手前だった小和田恒氏の娘が
これに合格したものが実力だけによるものであったかは立証しようもない」。
いわゆる世間一般でもよく行われている「縁故」「コネ」による就職である。
外交官の特権はまさに世襲制で、再生産されていくという点にこそあったわけだから、
このようにいわれてしまう部分はあっても致し方ない。今現在は、公平になったと聞くが。
また採用後も事務次官の娘として特別扱いをされていたことは、
英国留学、北米局北米二課という配属を見ればわかる。
八幡は「誰もがうらやむ最大限に優遇された居心地のよい人事」
「社長の娘が一般職で採用されてぴかぴかに美味しいポストばかりで働いているのと同じで、
いささか特殊な環境である」と厳しい指摘をしている。
雅子妃に限らず、エリート官僚の娘で親のコネを使い、バリバリ活躍しているキャリア・ウーマンは
珍しくないらしい。それにしても父親が事務次官である役所で働く女性という意味では、
霞ヶ関でも初めての存在だったとか。マスコミによって作られた雅子妃のイメージ、
「自立したバリバリのキャリア・ウーマン」像は、実態は父親の庇護下ですくすくと育ち、
フツーの女性より優秀な努力家で勤勉だが世間知らずの「お嬢様」ということになろうか。
結局、キャリア・ウーマンといっても父親の社会的な権力や保護があるわけで、
「均等法世代」の女性たちやキャリア・ウーマン系のフェミニストは雅子妃にエールを送ったが、
荒波にもまれて苦労したたたきあげの働く女性像とはまったく違う、「身分差」があることを自覚するべきだろう。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

雅子さま経歴
1963年、東京都・虎ノ門病院にて誕生
1966年、モスクワ市立保育園に入園
1968年、ニューヨーク市立第81キンダガーデン(幼稚園)に入園
1969年、ニューヨーク市立第81パブリックスクールに入学
(1971年、※2〜3月頃 田園調布雙葉学園小学校の編入学試験に不合格) 
1971年3月、目黒区立原町小学校1年に転入
1971年5月、新宿区立富久小学校2年に転入
1972年、田園調布雙葉小学校3年生に転入(1973年、双子の妹たちが同小学校に入学)
1977年、田園調布雙葉中学校入学
1979年、田園調布雙葉高等学校入学
1979年、高校一年生の一学期、父小和田恒の転勤に伴い米国ボストンへ転居、
      ベルモントハイスクール(11年生(日本の高二))へ編入


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

拾い物
華麗なる?経歴とキャリア

●幼稚園入園時・小学校入学時は海外(ロシア〜アメリカ)
小1の3学期に帰国してまず近くの公立小学校に編入。
2年次に雙葉編入試験を受けたが不合格。 2年生からは別の公立学校に転校。
2回目は母優美子さんの知り合いの雙葉の先生を家庭教師にして猛特訓した結果3年次に編入試験を受けて合格

●小和田恒氏の赴任に伴いボストンの公立高校ベルモント・ハイスクールに編入 (1979年)
ESL(英語を母国語としない人の教室)の一番学力の低いクラスに入れられるが
雅子さん自ら校長に直談判してクラスを替えてもらう。 (「素顔の雅子さま」より)
1981〜1985年:ハーバード大学経済学部(17〜22歳) 
→恒氏1979年〜1983年、ハーバード客員教授。教員子弟枠あり。
指定枠の他、ハーバードは寄付金枠、アジア人枠(被差別枠)も有り

正規入学の可能性は低い
また一学部生の卒業論文に普通関わらないような財界人が卒論作成の手助けをしている。
(他に入るのはラドクリフ→出たのはハーバードと言う説もあり※真偽不明)
(ラドクリフはハーバードとひとつになり、今はハーバード女子部の別称としてラドクリフが残っている)

※恒氏のハーバードの客員教授のポストについて
外務省一種職員で回される持ち回りポスト
ハーバード卒業率は97%。
卒業論文は恒氏の知り合いの政財界の著名人のインタビュー
(論文作成手伝い人の存在が明らかにされている)
卒業時の優等号と言っても、最優等ではなく、学年で4割がもらえるmagna cum laude
ハーバードで専攻科目ごとに与えられるEnglish Honorは取れていない。

●1985年:東大法学部(22歳)
→学士入学3年次編入(英語・小論文・面接のみ…形式的なもの)
共通一次試験も通常の二次学科試験も受けていない。
小和田恒氏は*東京大学で25年間にわたり*国際法、国際機構論を教える。
1986年10月:外務公務員I種試験に合格(23歳)、87年4月入省(24歳)。
→東大は中退。2000年度まで行われていた外務公務員I種試験は、
通常の国家公務員I種試験と異なり、強力なコネ枠と言われる。
向上心旺盛なキャリア志向の女性が、なぜ父親が重役職にある企業の縁故採用試験を?
父親のコネでゼミの教授の推薦(外務省に入省させるために「入っておく」ことが必要だった)
その時受けたのは、3人。 全員が合格。
3人とも親族が外交官。試験も形だけともいわれている。 学内での立場は聴講生的なもの。
ほとんど通学していなかった。経歴に記入するだけの目的。
東大学士入学は、試験の成績で公平に決まるというわけではない。
父小和田氏の経歴、帰国子女でハーバード出という学歴、
というあたりが物を言った可能性が限りなく高い。(東大関係者)

※恒氏の東大入学は無試験の時代

●当時の外交官試験はあってないようなもの、二代目、三代目がスルスルと入省していた
雅子さんが受験した時代 国家1種は無し。
そうした不正が横行していたからこそ、 外交官試験が廃止されて国家1種に一本化された。
国家1種や外交官試験自体は学部3年生が合格することも多い試験。
各省庁への採用が難しいといわれるのは、試験後の面接等で人気省庁が競争になるから。
(そこにコネが発生する)
面接で出身大学やコネがあるかによって差が出てくる。
そして、外交官のキャリアなどとまくしたてているが外務省員であって外交官ではない。
外務省勤務は6年間、その間研修期間があり実質勤務は2年。
 
●1988年〜1990年:オックスフォード大学に留学。(24〜26歳)
→外務省からの国費(税金)留学。修士資格を取れずに帰国。
(後にマスコミに追いかけられたためと言い訳。オックスフォードには外務省に呼び戻されたと言い訳)
恒氏は1988年〜1990年:OECD(経済協力開発機構・事務局はパリ)日本政府常駐代表。

恒氏も国費留学するも修士はとれなかった。

帰国子女の定義は「義務教育期間を海外で生活した者」なので
厳密に言えば、小中を日本で過ごした雅子さんは帰国子女ではない。


証言
ベルモント高校時代は一時期優等生扱いされていた。
突然「理数系が得意」ということになっていたのは
アメリカの高校で習う事を当時の日本では小中で終わらせていたから。
成婚の儀の後の祝賀会にアメリカ時代の友人として呼ばれた二人はいずれもベルモントの同級生。
アメリカ人ご学友のインタビューは放送できない。

ライシャワー夫人は外国育ちの彼女に皇室の生活は無理、といった趣旨の発言。

オックスフォードではご学友から幼い、立ち回りがうまい、
典型的アメリカンガール、アンフェアではない(含みのある言い方)とか
イギリス的解釈では悪口としか取れないコメント。
たまに持ち上げているのはやはり日本人元留学生のみ。

-------------

ベルモント高校は雅子妃が通った高校で、ご成婚発表時には日本のマスコミが大挙して押し寄せた。
校長や担任の先生達は雅子妃のことを、よく記憶に残っている等と日本のマスコミに語っていたが、
実際の所はESLの先生以外は誰も覚えておらず、
日本のテレビに出たいがために皆が必死になって過去の記録を探していた状態だった。

-------------

『消えたお妃候補たち』
「週刊誌やスポーツ紙を読むと、タフな交渉をこなしてきたキャリアウーマンと持ち上げていますが、
彼女は他の女性キャリアと比べて特に突出していたわけではありません。
交渉を前に行き詰ったり、どちらかといえば実力はいま一つというのが、北米二課の見方でしたよ。
だいたい外交官としての資質を決めるといわれる在外公館勤務が未経験では、
将来は大使か局長かなどと判断できません」

ある教師
雅子さんの実力では東大どころか有名私大も無理。
あの国語力のなさ、英語スピーチの下手さを見れば、歴然。

雅子さんが優秀という客観的な事実はない。
TOEFLやTOEIC何点とか、学年何位、偏差値などの話は一切聞こえてこない。
英検すら1級並の実力という表現。

高校で日本からアメリカへ行っているが
当時の数学のカリキュラムは同年齢では日本の方が進んでいた。
だから渡米直後は数学に関しては、クラスメートよりできたであろう。

アメリカのクラスメートの証言「雅子さんはいつも数学の問題を解いていた」

外務省時代の評判
職場で周囲に誰がいようが「お父様〜!」を連呼。「お嬢」と呼ばれていた。

週刊読売1993年1月25日号 臨時増刊“麗しのPrincess”
外務省研修所での研修に遅刻、小走りで駆け込む雅子さまの写真

後輩や同僚に、「こんな事もわからないの!」高飛車に命令して嫌われていた。

動作がすべてゆっくりで、30分おきくらいにトイレへ(喫煙?・化粧直し?)をしに行くので、
周りは苛々させられた。(外務省勤務者談)

風邪のようなもで欠勤が多く、仕事の進捗に影響がでることも。
同僚は「小和田待ち」と呼んでいたという

別の省庁の官僚と仕事をしたとき、関係ない英文資料もドサドサ渡し、捨て台詞を吐いた。
別の省庁の官僚が外務省に会議に来て資料が足りずコピーを取っていたら、ものすごい剣幕で怒鳴った。
「高慢ちきな鼻持ちならない女」と外務省担当記者の評判。
営業時間外に外務省内の食堂に来て「コーヒーぐらい出せるでしょう!」 と吐き捨てた。
オックスフォード留学中は奔放に過ごされたとのこと(男性関係)
仕事が滅茶苦茶遅いのに、やたらプライドだけ高くて頑固と言われて、嫌われていた。
夜になると張り切るので「小和田タイム」と言われていた。

外務省関係者の証言によると一言で言えば「使えない奴」
”お父様”がいるので叱るわけにもいかず
英語訳を頼まれたら、「私は通訳じゃありません!」と怒鳴る
外務省でのあだ名はブラックボックス 何を考えていて突然何をいいだすか予測不可能
省内では落ちこぼれ(同期の下位)だったが、父恒氏の威光で、本人はそれに気が付かなかった

通訳するには相手方の国の言葉以上にそれを即座に最適な日本語に置き換えられる日本語力が必要だが
雅子さんの日本語能力(語彙の無さ、無知)を知って外務省にいてもまともな通訳など
務まらなかっただろうなというのが一般的な見解だった。
日米首脳会議の通訳は、皇太子妃になる方に華を持たせるためにお膳立てされたもの。
「小和田雅子さん」をアピールするための映像
雅子さんをカバーする人間が(本人にはそれと気づかれない様)きちんとフォローしていた。

外務省筋でご成婚に協力した人の多くは、ボスである父親を支持していた訳ではなく、
職場から彼女がいなくなることを希望していただけ、と。
精神的(人格障害あるいは統合失調症)に問題ありという見解も外務省時代からあった。

気が強く議論が長引くと、口論することも多かった。
自分の非を認めない性格から長々と電話で我を主張する。
雅子さんは物事を冷静に考えられないそうで、わきまえることも知らなくて困った同僚もいた。

入省当時から皇太子妃候補と報道されていたから
実質的には資料整理と雑談程度の通訳ぐらいしかやってない。
英語ができるのは当然で、知的能力の高さの証明にはならない
語学は皇后陛下や紀子妃殿下もおできになる。
久子妃や華子妃もおできになる。
雅子さんだけが特別に優秀ということはない。
雅子さんは自力で試験を受けたことは一度もない。
実力で作り上げたものではなく、すべてコネにまみれた優秀伝説。

以上、拾い物


 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


かつて、外務省のドンといわれた小和田恒・元外務次官の娘の皇太子妃・雅子様が外務省試験を受けた際、
面接官のほうが緊張して震えたというエピソードがある。
採用に際しては、幹部の子弟が優遇されている疑いが濃い。
http://www.elneos.co.jp/0705sf1.html



☆頑張りすぎる雅子さま&上の人に口答えする雅子さまエピソード

女性セブン別冊御成婚記念「皇太子さま雅子さま」(平成5年6月30日)
(ソフトボール部時代)
雅子さまは、練習中に捻挫されてしまう。
練習を指導していた先生は、回復が遅れることを心配してだろう、
「今日は練習をやすみなさい」と、いった。
しかし、雅子さまは、うなずかなかった。
「休みません。ぜひ、練習を続けさせてください」
こういって、譲らない。
「治ったらすぐ参加してもらうから」
「いいえ、練習は続けたいんです」
雅子さまと先生の押し問答が続く。しかし雅子さまは考えを変えない。
これには、友人たちがびっくりしてしまった。
「雅子さまが先生の考えに反対の意見をいうなんて、誰も思っていなかったから……」
声をうわずらせることもなく、自分の考えを主張する雅子さま、説得に努める指導の先生−
見ていたチームメートには、泣き出す人も出始めた。

トップページ(目次)へ