「雅子妃の母」大騒動で「教授」就任できず

タウンTEMPO1993年2月4日 
「雅子妃の母」大騒動で「教授」就任できず

娘の結婚を「運命だと思う」と語ったと巷間伝えられるのは「皇太子妃」の母、
小和田優美子さん(54)。今、自らに関しても同じ思いではないだろうか。
「優美子さんは札幌で4月開学予定の静修女子大の客員教授に招かれることになっていました」と、地元記者。
「推薦したのは雅子さんの恩師の書家・小川東洲氏で、内諾は得ていたんです…が、
雅子さんが皇太子妃に決まったことで、この話は白紙に戻ってしまった」
同女子大側も「無理にお願い出来ない状況」と諦めかけて、
やはりプリンセスの母は大変だという話で終わりそうだった。
ところが皇太子妃報道が一段落した頃、一部の新聞に秋以降なら≠ニ
優美子さんが快諾したという記事が出たから大変だ。
「地元は大歓迎ムードになったんです。優美子さんは外交官の妻として異文化に接しているし、
国際化時代の女性の在り方を講義するのに相応しい人物。それに何といっても近い将来の
皇太子妃の母親ですからね」(前出・記者)
が、これで一件落着と思いきや、さらに逆転があった。
「あまりにもマスコミが騒いだせいか、優美子さんの方から辞退したいという旨が伝えられてきました」
残念そうに語るのは静修学園の和野内理事長。
「ですから、優美子さんの客員教授就任問題は、再び白紙に戻りました」
本当の理由は優美子さんにしか分からないということかもしれないが、
ある皇室評論家はこう語るのだ。
「皇后陛下の実家の正田家は人に後ろ指をさされないように、それはそれは気を使っていました。
今回の優美子さんの騒動は、いくら時代が変わったとは言え、小和田家にも細心の注意が
求められていることの証明じゃないでしょうかね」


小和田優美子さん

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

モスクワで
ある機関紙(1999年出版)(一部)
私が初めての任地モスクワに赴任したのは、1965年8月末のこと、
夏を思わせる美しい青空の下の空気はすでにキリリと冷たく、
白樺林は黄金色に輝き始め、日に日に秋の深まり行く頃でした。
9月には初雪も降って、長く厳しい冬の訪れが目の前に迫っておりました。
(略)
お正月にはお節料理の真似ごとでもと真先に取出した缶詰類は、極寒のシベリアを
旅する間にきっとカチンカチンに凍ってしまったのでしょう、缶は真ん丸に膨れ、
中には輪ゴムのような白滝、けしゴムのようなこんにゃく、
スポンジのような竹の子や蕗の水煮.....どんなにがっかりした事でしょう。
(略)
時には零下30度近くなる冬の日々、西日を受けて空中に輝くダイアモンドダスト、
風に煽られ地表を舞うように飛ぶ粉雪、カチカチに凍ったモスクワ河の上を走り回る
オートバイの爆音、しいーんと静まりかえる森の中を黙々と進むクロスカントリースキーの
楽しさ、つららになったよだれをものともせず橇遊びに熱中していた幼かった娘たち。
そんな寒い日に家族で囲む食卓には、暖かいボルシチの甘酸っぱい香りが漂います。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

婦人公論1994年7月号 小和田家の家風と歳月 渡辺みどり
小和田夫妻の新婚時代を知る沢田敦子さんは、優美子さんの実家・江頭家の別荘に近い
中軽井沢千ヶ滝に別荘があり、両家とも、夏は家族そろって軽井沢で過ごす習慣だった。(中略)
優美子さんにはお茶目な面があり、母・江頭寿々子さんと共に沢田家別荘を訪れたおり、
「今日はばあやを連れて参りました」などといい、傍らで寿々子さんが優雅に微笑んでいたこともある。


週刊朝日1993年1月29日号<母たちが明かすデンフタ伝説>
「先生の背中に紙を張った優美子さん」
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1244098754229.jpg


愛子さまに献上された小豆にお礼状
2004/12/11
夕方、兵庫県のローカルニュースにおいて小豆特集
その中で 愛子さまの誕生祝いに宮内庁に小豆を献上したら
小和田優美子さんの名前でお礼状が届いたというエピソードが紹介された。
手紙も映った。


週刊女性1993年6月22日号
平成のご成婚スクープ2 金箔タンス大騒動 
雅子さまの母小和田優美子さんが本誌に語った全真相!
…それよりも、テレビ局に優美子さんが電話をしたことからもわかるように、
事実と違った報道に対して、悲しい思いがあったようだ。
そんな優美子さんの気持ちを察してか、宮内庁が次のようなコメントを発表。
「小和田家として、業者の好意から出たものとはいえ、あまりに華やかなものはいかがか、
受け取りは控えたほうがとお考えになり、そのようにお答えになった。
小和田家では、今朝(6月1日)の報道を知り、テレビ局に事実関係と
それに基づく訂正の申し入れを雅子さまのお母さまが直接なさった」

江頭寿々子さんが皇室評論家の河原敏明氏に出した手紙
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1244300292719.jpg
「雅子さんは性格がきつい」とテレビでいった直後に、
雅子さんの祖母の江頭寿々子さんから抗議の手紙をもらったこともあった。
「非常に達筆なお手紙で、本当はきつい子ではありません、
あなたの発言は影響力が大きいから注意してほしい、という内容でした。」


週刊新潮1989年11月23日号
「妃候補」小和田雅子さんの線はこうして消えた
P49
とまれ、雅子さんに何があったかは、つまるところご本人に聞くほかはない。
が、先の近親者によれば、この二年間の小和田家の心労はなまなかのものではなかったという。
「雅子の両親は、一年四ヶ月の間は日本を離れ、OECD大使としてヨーロッパにおりましたので、
マスコミにも追いかけられず、もう終わったこととしてホッとしていたのです」
それが、この八月、父親の恒氏が外務省審議官として帰任したことで、一転、趣を変えた。
礼宮の婚約発表とも相まって、小和田家は再び取材攻勢の真っ只中に放り込まれたのである。
「それでまず起ったのが、母親の優美子の心神耗弱。救急車で病院に運ばれて二十日間ほど
入院してしまったんです。一方、オックスフォードにいる雅子は雅子で、
皇太子殿下のヨーロッパご訪問に合せて、寮にまで記者たちに押しかけられてしまった。
困った雅子は、日本にいる祖母にSOSの国際電話を掛けてきて、どうしたらいいだろうかと
相談したんですよ。母親はダウンしているし、一部のマスコミには皇太子さまと
パリで会うんじゃないかと書き立てられる。で、お婆ちゃん子の雅子は思い余って祖母に相談したのです」
実をいうと、雅子さんが、報道陣に追いかけられ、ロンドンでインタビューに応じたのは、
祖母の江頭寿々子さん(72)から、この時、「雅子ちゃん、もうハッキリいいなさいよ」と勧められたため。


美智子皇后と雅子妃 
文春新書 福田和也
雅子妃は愛子さまを学習院に入れたくなかった。理由は「学習院は皇室と環境が似ているから」
そのことで宮内庁と揉め、あろうことか小和田優美子さんまで宮内庁に直談判してきた。
当然のごとく雅子妃への風当たりが強くなり、優美子さんは「雅子妃のためにしたことなのに」とショックを受けた。



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