雅子さま「私は病気ではありません」

週刊新潮2008年5月1・8日
雅子さま「私は病気ではありません」、宮内庁と女官への「かくも深き不信感」

先月のとある夜、さる宮内庁幹部が内輪の親睦会出席のため、都内の飲食店を訪れた。
参加者は親しい間柄にある他の官庁のキャリア官僚4、5名ほど。
「年に1、2度、開かれる私的な飲み会ですが、いつもは顔を見せない宮内庁幹部が、珍しくやってきた。
仲間内という気安さもあったのでしょう。そのうち、雅子妃に対するグチをポロッと漏らした。
雅子妃は警護官を選り好みして困る。とこぼし始めたのです。」
と関係者は話す。
「宮内庁幹部の話によれば、雅子妃と東宮の女官との関係が必ずしもうまくいっていないそうです。
雅子妃は女官に対して不信感を持っているようで、女官があれこれ言いふらすために、
その話が回り回ってマスコミに書かれた末、天皇家との確執になっていると思いこんでいるようなのです」
羽毛田長官発言以降、雅子さまはどう受け止めたか?
両陛下との関係修復に努力されている。3月2日に梅の花を鑑賞され、3月13日にも訪問している。
だが、先の関係者によれば
『皇后陛下と雅子さまの関係は微妙だそうです。両陛下が東宮にいらしたとき、
雅子さまはあまり皇后とお話していなかったようだ』
「雅子妃は、そもそも、皇室外交を担うという希望を持って嫁いできたのに、海外に行くどころか、
宮中に閉じこめられて、"お世継ぎ"を産む役割ばかりを求められてきた。
宮内庁幹部が、そうした趣旨の発言をしてきたことも事実であり、その精神的な負担が現在の病気の原因となり、
皇太子殿下の"人格否定"発言に繋がっている。雅子妃は"宮内庁は自分を守ってくれない"
という不信感を持たれているのでしょう」
公務は欠席されるものの、私的外出の表情を見るかぎりでは病状も回復されているように見える。
しかし、宮内庁との確執がなくなったわけではない。
先の関係者は「宮内庁幹部によれば、雅子さまは、公務に行けない理由を病気にしているのは宮内庁です。
私は病気ではありません。とおっしゃられたこともある。その発言を聞いた人たちは、
そんなことをおっしゃられる事自体が病気ではないだろうかと話していたそうです」
「雅子さまは、女官云々よりも東宮職全般に不信感を抱かれているようです。」
雅子さまが心を許しているのは小和田家と皇太子殿下だけ。
3月下旬からの長野・奥志賀高原へのスキー旅行も、礼子さん一家とお出かけになった。
静養といえば小和田家と、というのが雅子さまのルールになっているんです。
女官をはじめ、東宮職員もみな、雅子さまには本音で近づけない。
会話がほとんどなく、まったく意思の疎通が図れていないのが事情です。
以前には、雅子妃は女官に直接口頭で指示せず、用事を書いたメモを
自室のドアの下から差し出していたことがあった。
女官との関係が修復できないほど悪化したきっかけが、05年11月、紀宮さま(黒田清子さん)の
ご成婚時であるという。
「披露宴に雅子妃は洋装で出席された。お立場から言えば和装であるのが常識です。
他の皆様が淡い色合いの着物だったのに比べ、雅子妃は派手な色のドレス姿だったので、
周囲が目を疑ったことがあったのです」
「どうしてそんな服装になったのか、披露宴の後、当時の渡辺充侍従長が東宮の女官に問い質しました。
女官は、"雅子さまから事前にお召し物の相談が無かった"と答えたそうです。
しかし、雅子妃が和装という常識をご存じなかったとしても、
女官を通じて雅子妃から御所や秋篠宮家に相談なさってもよかったのではないでしょうか。
渡辺侍従長が、そのように女官に重ねて尋ねると、女官は"雅子さまは、
私たちの申し上げることはまったくお耳に入れてくださいません"と言ったそうです」
このとき、雅子妃も、自分だけ服装が浮いてしまったことに苛立ちを隠さなかったという。
「雅子妃は、"どうしてあなたたちが確認しないの。あなたたちのせいで恥をかかされたと
女官に対しておっしゃったそうです。
女官は、"そういったことは妃殿下が我々に命じてくださって初めて出来ることです。
我々は、そこまで雅子さまの全てのご面倒を見なければならないのでしょうか"と悩んでいました」
ドタキャンに対して、雅子さまから説明してくれればいいがそれもなく、
東宮職から一方的に言われ訪問先相手に対して宮内庁が尻拭いをしなければならない。
それ以降、女官との疑心暗鬼が続いている。
その後、小山さんが養育専任女官として引き抜かれた。
皇太子ご夫妻は小山さんを信頼されており、ご両人の希望で急遽決まった人事です。
雅子さまの東宮女官に対する不信感を払拭するためだろう。
だが、公務復帰に関して見解の相違があるという。
野村一成東宮大夫が治療優先派。末綱隆東宮侍従長は公務復帰派。
宮内庁は春秋の園遊会を公務復帰の目安としている。

野村東宮大夫は、外務省出身で、駐ロシア大使を経て、06年から現職。
雅子妃が幼少の頃、父親の小和田恒氏の部下として同時期にモスクワで勤務したことがある。
末綱東宮侍従長は警察庁出身。神奈川県警本部長、警視庁副総監を経て、05年から現職。
「末綱さんは皇太子殿下が学習院大学卒業後、オックスフォード大学に留学した際に警護官として同行し、
二人きりでヨーロッパ中を旅行したほどの間柄。
殿下の信頼は厚く、末綱さんはいずれ警察庁長官か警視総監と目されていたが、
殿下のたっての希望で東宮侍従長に就任することになった。
一方の野村東宮大夫は、小和田恒氏の意向で、東宮大夫に就任した」(宮内庁関係者)
その末綱東宮侍従長が、昨年)夏頃、辞意を漏らしていたという。
「末綱さんが辞意を漏らした原因は、雅子妃への不信感と、野村東宮大夫との確執です。
末綱さんは、決意を持って東宮侍従長になったわけですが、
次第に雅子妃の行動に耐え切れなくなっていったそうです。
皇太子殿下は末綱さんに、“やりたいようにやってください”と言っていた。
そこで末綱さんがまず手をつけたのが、雅子妃の公務復帰。
少しずつでいいから、前向きに公務復帰を検討していただきたくて、
雅子妃に何度も何度も“いかがなさいますか”と聞いていたのです」(同)
ところが、雅子さまの主治医(大野)は治療のために雅子さまの希望を入れ、
公務負担を減らそうとする。野村東宮大夫も言わずと知れた小和田ルートの人事のため雅子さま優先。
もっとも今では思いとどまっているという。
なにしろ雅子さまの公務復帰の目処はたっていない。
公務のドタキャンの尻拭いの大変さが雅子さまには理解できていないよう。
が、意見を言える人物はいない。腫れ物に触る扱い。
雅子さまは愛子さまの入学で手がいっぱい。
だが、連日、妃殿下が付き添って通学するのは異例。

皇室ジャーナリスト
たとえば、浩宮さまの時は侍従が、紀宮さまの時は女官がそれぞれの役目にあたっていました。
表向きは、愛子さまと一緒に外出される機会が増える事が病状の回復の一助になるという理由
本来ならば、女官の付き添いだけで、愛子さま一人でお過ごしになる時間を持つことも、
初等科での教育的役割のひとつですが、その第一歩からして後退せざるをえなくなったのは
残念なことと思います。
さらに健康回復のバロメーターのひとつになるのは、春と秋に催される園遊会に出席されるかどうか。
長時間立ち続けなくてはならず、臨機応変に言葉を交わさなけれなりません。
そもそも、発病した経緯を顧みれば、宮内庁や東宮職が、雅子さまの不信感を取り除かない限り
心の病は完全に癒えることなはいであろう。
私は病気ではありません。とはいうものの、公務復帰への道はまだまだ遠いと言わざるをえない。


静岡福祉大学教授 高橋紘
『これがあの日の写真にある暖炉ですか』品川区の通称、池田山にある正田邸。
宮内記者会にいた1976年5月31日午後。私は応接間で皇后の母富美子さんに尋ねた。
彼女はけげんそうな顔をしながら、笑顔を見せて言った
『私どもの家では、昔から火をとても大事にしてきました。
家を建てるとき、暖炉だけはしっかり作って下さいと注文したほどです。
家では火だけがご馳走で、この周りにみんなが集まっていろんな話をしていました』
58年皇太子明仁親王と美智子様の婚約がきまった。
その夜、一家は記念撮影をし、それが翌日の朝刊に載った。
分厚い花柄の絨毯、柔らかそうなソファー、
光の透けるレースのカーテンの両袖には厚地のカーテンが房掛けでまとめられている。
暖炉の上には西洋の人形や置時計、油絵。
『私達は倹約家なんです。服も繕って着ますし、不要な電気は消します。
この家も何回も手入れしているんですよ』
正田夫妻は32年ドイツから帰国し落ち着いた西洋館を建てた。
戦時中は大工の兄弟夫婦に留守を託した。
『焼夷弾があたりましたが、放り出してくれて無事でした』
連合国軍総司令部は水洗トイレ、車庫付の洋館を接収し、英軍の将校夫婦が3年いた。
一家は近くの社宅に越した。
美智子さんの結婚式の朝の写真に登場するこの家は2003年解体された。
皇后の父英三郎氏が亡くなり相続税を物納したためである。今はねむの木の庭になっている。
正田家の出自については多くが語られており、述べるまでもない。
英三郎氏は99年6月、95歳で亡くなった。
終戦の年、41歳の若さで父の貞一郎氏が創設した日清製粉社長に就任、
被災した各地の工場を再建し、経営手腕と国際感覚が評価されていた。
どんな人物評も『温厚な人柄と』極めて好意的。
54年経済同友会の幹事選挙では39人全員の支持を獲得した。
経営評論家の三鬼陽之助氏は
『経営に対する日ごろの真剣な態度と同時にそのふくよかな態度が、満票を勝ち得た理由』
としている
雅子さまの父恒氏の兄弟は、日本海に面した越後の町で学んだエリートである。
小和田家は新潟県の旧村上藩(5万石)の下級藩士出身。
本籍は村上市本町で一族の墓所も最近まで市内にあった。
明治に入って鮭の人工養殖に成功。
もともと学面、教育に熱心だった士族は村上鮭産育養所を作り、
その純益の一部を旧藩子弟の育英資金にした。
恒氏の父の毅夫氏も奨学金を受けて学んだ一人である。
広島高等師範学校を卒業後、毅夫氏は漢文講師として各地で教鞭をとったが、
戦後は県立高田高校校長に就任
その後、高田市(現・上越市)の教育委員長を16年務め、生涯を教育一筋にささげた。
妻静さんも長岡女子師範を卒業して教職についている。
毅夫氏が先に亡くなったが、その7ヶ月前、雅子さまは皇太子妃の決定を報告できた。
毅夫氏の教育への情熱は厳しかったという。
1に勉強2に勉強。学問は人生の勝負である、が口癖だった。
自分の父親が若くして病死しており、刻苦勉励の日々であった。
親が子供にしてやれるものは教育だ。というのが信念だったようだ。
恒氏ら兄弟は、父の期待に十分応えた。
男の兄弟5人は全員東大へ進み、長男は専修大学教授。
次男は恒氏。三男は弁護士。四男が運輸官僚から関連団体の理事。
五男も同じ運輸官僚である。
長女は御茶ノ水大卒。小和田家には一人として落伍者はいない。
55年東大教養学部を卒業して外務省入りした恒氏はケンブリッジ大学へ留学
官房長、外務次官、国連大使などを務め、現在はオランダハーグの国際司法裁判判事。
国際法の権威である。しかし、正田氏の人物評に比べ、恒氏の方はあまり芳しいとはいえない。
『あの方のいい評判はきいたことがありませんね』と冷たく突き放す宮内官僚。
権威主義的な野心家、他人には横柄で省内の人望もないなどと言われたり書かれたりする。
大使定年の63歳を過ぎても、国連大使に居座っている。との評判もでた。
ただこうした悪口はしばしば有能な人物にありがちだ。
スーパーコンピューター・鉄人との評はその仕事ぶりを彷彿とさせる。
外務審議官在職中の2年間に、336日間も海外へ出張し、延べ114カ国を回っている。
94年から4年半、国連大使を務めたが97年日本は
通算8回目の安保理非常任理事国入りを果たした。
じれは日本が常任理事国入りするためで
小和田氏は陣頭指揮を執り徹底した集票運動を展開した。
それが済むと、日本の国連代表部に戻り、夜中まで東京と連絡をし翌日の作戦を練る。
こうしたときかならずといっていいほど、電話で部下に問い合わせたり指示を与えたりする。
相手がいないと、とたんに不機嫌になる、
『みんな自分と同じペースで仕事していると思い込むところがある、
これが評判を落とす原因です』と元部下。
雅子さまが皇太子候補に挙がっているのをキャッチしたのは87年12月。
『外交なんてありえないね。皇室は政治とは無縁。外交は政治そのものじゃないか』
これが私や同僚記者たちの評判だった
それから5年後、紆余曲折はあったが、93年1月19日の皇室会議で皇太子妃に決定。
二人並んで記者会見に臨んだ。その直後私はある情報誌に次のように書いた。
皇太子がお妃の条件としたひとつは、『自分の意見がはっきり言える人』
そのとおりに、自分の言葉で自信を持って語った。
皇后の婚約会見の発言は長くて4〜5行。雅子さまは20行。30行に及ぶ。
自己主張がはっきりし、それもカメラを真正面から見据えて堂々と話す。
宮内庁職員の中には早くも、雅子妃に対して懸念する声がある。
『あの方のキャリアやテレビでの会見をみていますと、
きっといろいろのご希望が予想されます。それを殿下がどうコントロールなさるか』
トレンチコートを翻し、長い髪をなびかせ霞ヶ関界隈を駆け回った日々。
お妃候補について執拗に食い下がる記者へ『名刺を出しなさい』と迫った雅子さま。
『皇室にも外交はありますから』を口説き文句にした皇太子。
しかし宮中に入ってみると、思い通りには振舞えなかった。
自分なりに、皇室外交や国民との接し方のイメージがあった。まじめで人望の篤い教育者の祖父。
仕事に邁進した父のDNAを受けている彼女は皇室で新時代を切り開きたかったのではないか。
そこにたちはだかったのは、自己主張をしない、公が優先するという皇室の伝統である。
もっと大きな壁は 男子を産むこと

皇后の流産の静養については神谷美恵子さん(精神科医)がついた。
英三郎氏のみ御用邸を数回訪れただけで母親は思い止った。
娘を突き放したように見えた。
雅子さまの静養に対する小和田家の対応は対照的。
軽井沢三井の森にある母親の実家の別荘へ。
イヤホンを付けた警官が立ち別荘に近づくと誰何された。
長野県警は一日50人ほど警備も容易につけた。
侍従や女官の宿泊設備も整った皇室の御用邸をなぜつかわないのかという批判が当然だ。
06年のオランダ行き。宮内庁がいくら説明しても
妃や小和田家の希望を入れ両親のいる国に行ったと誰しも思う。
皇太子一家が海外に行くとなれば、何ヶ月も前から両国の外務省、大使館、警備担当が
打ち合わせを繰り返す。その労力と費用。家族との食事。
セレブの通うようなレストランで会食をする。その周囲への影響。
こうした話を見聞きするたびに、あの日の正田さんの言葉を思い出す。
私が『浩宮さまはお越しになるのですか』と尋ねると
富美子さんは
『宮ちゃまにお越しいただいても、ご近所に迷惑をおかけするのが心苦しいので
遠慮させてもらっています』
正田家の両親は、皇太子夫妻の誕生日以外は東宮御所を訪れなかった。
音楽会や相撲見物などのとき、遠く離れた席からじっと娘を見守っていた。
娘は皇室に差し上げた、私達のものではないという覚悟があったのだと思う。
小和田家も当初は覚悟があったのだろう。
しかし妃の病が長引くうちに、家族が意見を言い始めたようだ。
病気が公表されたころ、宮内庁のある幹部が
『こちらに任せてくださればいいのに(治療方針が)一貫できなくて困るんですよ』
とこぼしていたのを思い出す。
確かに親としては娘が病に伏せれば必死になるのは当然で誰が責められようか。
それに両家の世代間の違いもあるかもしれない。
覚悟していた正田家の両親は、明治の人である。
富美子さんに、いつの日かは皇后の母親という立場になりますねと尋ねると
真顔で『恐れおおいことでございます』

専門家は家族の介入や巷で言われているワガママを容認する。
『今一番大事なのは妃自身が望むことを自由にやらせること、
わがままに見える行動も治療の一環として理解してあげることだ』精神科医の町沢静夫氏

『スキーには行くが宮中祭祀はできないといっても、雅子さまは病気なのだからと
理解してあげるべき』新潟青陵大学大学院教授・碓井真史氏