友納尚子? 知らない

WiLL2009年9月号
雅子妃のご病気と小和田王朝
橋本明氏・西尾幹二氏特別対談
西尾
現在、雅子妃がご病気のため、皇太子ご夫妻が本来やられるべきことを、
秋篠宮ご夫妻が代わりになさっているわけですが、
その一方で雅子妃は私的な外出を自由気ままにやっている。
務めは逃げるが、お遊びは休まない。それが、一般国民の怒りを買っているわけです。
橋本
「今の問題の一つである天皇皇后両陛下と皇太子殿下の、親子断絶はなぜ起こったか。
皇太子殿下が小和田の人間になってしまったからです。」
先ほどの野村東宮大夫と末綱前東宮侍従長との会食の折、私的外出についても話題に上がりました。
東宮ご夫妻が高級フランス料理店「ロオジエ」に行かれたことについて、
野村東宮大夫ははっきり「知らなかった」と言っておられました。
『週刊文春』(八月十三日/二十日特大号)で友納尚子氏が、こう記している。
≪<この外出を東宮職のトップである野村一成東宮大夫が知らされていなかったことが判明した>とあり、
<東宮職は記者以上に情報過疎になっている>と断定している。
だが、事実は違う。当時の取材でも、現在確認したところでも、東宮職幹部はもちろん多くの職員が知っていた。
両殿下の外出は、警備など人を要するものだけに、勝手に出かけることなど有り得ないのだ。
こうした曖昧な情報に基づいて、推論を展開するのはいかがなものか。≫
とんでもない言い掛かりです。
その野村東宮大夫と末綱前東宮侍従長と会食した時に、私は野村東宮大夫に、
「友納尚子とはどういう人ですか」と聞きました。すると野村東宮大夫は、
「私は一度も会ったことがないんですよ。全然知らないんですよ」と言ってました。
これにはちょっと驚きました。
野村東宮大夫にも会わないで、あれだけのことを書き散らすとはどういう神経なのか。
ジャーナリストとして極めて未熟な方だと思います。
西尾
友納を重用し、雅子妃擁護記事を書かせる文藝春秋が無責任。
小和田家には権利、権利と主張するすごいイデオローグがある。
次期天皇をワゴン車の後部座席に押し込めて平気で自身は前に座っている皇太子妃。
このままで行くと小和田王朝になる。
香山リカ等は気がつかない間に皇室破壊に与している。
「精神疾患」の女性が皇后になられるのは日本のためにあってはならない。
大野医師はその見解を明確に示すべし。
橋本
天皇陛下の現在のお悩みを整理してみると、
天皇が気にされるのは今の保守の色分けには属さない神官たちでしょうね。
(中略)
・・・天皇は神官達の総大将ですからね。この人たちが支えていると言う認識を天皇は持っていると思います。
西尾
そうすると神官たちは小和田家についてどう思っているのでしょう
橋本
非常に不愉快に思っています。
西尾
では我々の批判については。
橋本
たぶん自分たちが言えないことを言ってくれていると言うほうが強いでしょう。
我々は少数派に近いんでしょうが。
西尾
ただし、我々の背後には最大多数の日本人がいるんです。(略)
小和田家は「不出来な娘がご迷惑をおかけして大変申し訳ない。即刻引き取ります」」というべきなのに、
「誰がうちの娘をこんなにしたんだ」というスタンスで、家族(母や妹たち)がこぞって皇居におしかけている。
また、今回の惨状の原因を、民間妃を入内させたことや両陛下の子育ての失敗に摩り替えようとしている
不心得ものがいるけれど、そうではなくすべて雅子妃個人の資質に起因するものだ。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

友納尚子氏による言い訳

「雅子妃 悲運と中傷の渦の中で」
それよりも彼女にとって堪えがたかったのは古色蒼然たる宮中祭祀だった。
近代的な教養を積んだ彼女は、神事に参加していると内心アレルギー反応に似た発作に襲われるのである。


文藝春秋2006年3月号
(2005年、雅子さまが天皇陛下誕生日の食事会を3時間近く中座したことについて)
雅子妃はそこで愛子さまを落ち着かせながら、皇居に残った東宮職員に、
あらかじめ定められた連絡順にしたがって、何度も携帯電話をかけ、もう少し時間がかかる旨を告げようとした。
しかし樹木が生い茂った皇居は電波状況が悪く結局連絡が取れないまま、急いで皇居に戻られたという。

文藝春秋2008年3月号
(皇太子一家の参内が少ないという)長官発言が伝えられた時、
皇太子は黙ってうなずかれ雅子妃はたちすくんだままだった。
▼今迄の事件の言い訳
○終戦記念日に子どもパーティー
終戦記念日であることを踏まえ、両殿下はほとんどお出ましにならず、
黙祷のための時間帯などは避けるように指示された。こうした日の持つ意味は充分に伝えると同時に、
子どもたちが遊ぶことができる平和に感謝するというお考えなのではないだろうか。
「陛下は終戦記念日、広島、長崎の原爆記念日、沖縄戦の四つの『忘れてはならない日』を
とても大切にされています。この日はご家族で静かにお過ごしになる。
殿下にもお小さい時から教えてこられたものの、昨年に続き今年も愛子さまのお友達を呼ばれた。」(宮内庁関係者)
○皇后陛下が楽しみにしていた餅つきをドタキャンしてロオジエへ
餅つきは、新年に東宮でもやるため、二回もやるのは雅子さまが疲れてしまうと千代田に伝えたところ
そんなに負担なら中止しようということになって、予定が空いたためにロオジエに行けることになった。
皇太子ご夫妻が行くんだから、そこらのレストランというわけにはいかない
記者が張っているとの情報があり、混乱を避けるため出発を遅らせていたので、結局深夜の御帰還となってしまった。
(昨年の)夏頃の雅子妃は比較的元気だった。葉山御用邸で両陛下と合流できず、
その《ショック》で夏休み明けからの公務ドタキャン、外務省との会食、ご進講キャンセル
例年ならば、元日の夕方は、愛子内親王は着物を着て皇居へ祝賀のご挨拶にうかがっていた。
両陛下は三権の長や各国大使をはじめとして一日中祝賀を受けられ、
最後に未就学皇族、つまり愛子内親王と悠仁親王にお会いになる。
しかし翌日にも一般参賀と午餐、お茶会、夕餐などで皇族方は顔を合わせる。
連日では大変だろうという両陛下のお心遣いから、
今年は愛子内親王と悠仁親王の新年のご挨拶は二日に変更された。
そのため、元日の夕方に東宮御所に皇太子ご一家がおられたのだ。
結果的に、愛子内親王は両陛下よりも先に小和田家の祖父母と会われたことになった。
これを知った両陛下の周囲は、せっかくのご配慮を無視されたと憤り、それが記事につながったという。
だが驚くべきことに東宮側には全く違うニュアンスが伝わっていた。
「ご静養のときと同じく両陛下のご都合で元日のご挨拶をお断りされたと思って、
両殿下にどのようにお伝えしたら傷つかれないだろうかと考えていたといいます。」(宮内庁関係者)

2005年12月に東宮医師団の見解で適応障害が慢性的に存在するため
治療が難しいと説明され、治療方針が示された
朝日の懐妊の兆候スクープは夫妻が周囲の冷たさに決定的な不信感も持つ事になったので悲劇
香淳皇后の葬儀は「夏バテのようなもの」ではなくて精神的に強く落ち込んでいたから
オーストラリア訪問の前から不眠、朝起きられないと訴えたが、皇太子以外は誰も取り合ってくれなくて、
オーストラリア訪問という海外は雅子妃の肉体にとって辛いものとなっていた
治療は第一段階が乗馬で体力作り、第二段階は国連大学、愛子さま関連の外出、
第三段階は小和田家や友人との外食、長野冬季国体、愛子さまの連日の看病の為疲れが残り
フィギュアの時は体に力が入らず立ってられなくてドタキャン
軽井沢静養突入当初は出歩けない、立てない、危機的状況だった。

文藝春秋2008年8月号
友納尚子
千代田側の幹部の一人はお見送りの様子を見て、「愛子さまのご教育が心配だ」と嘆いたという。
なかには、環境に適応できなければ「小和田家が引き取るべきだ」とまで吹聴する人物もいるという報道もあった。
他には「ご自覚が足りない」「仮病では」という声もある。
ご成婚3年目が過ぎたころ、カメラマンから
「雅子妃を撮影しようとすると皇太子が盾になってまるで写させないようにしているかのようだ」
という不満が出るようになった。
ベルギー皇太子結婚式に出席された頃には、宮内庁幹部に取材すると
「雅子妃はあらゆる意味で頑なだ」というばかりに口をつぐむ。
後に取材でこの頃からお世継ぎのことでもっとも悩まれ、
「皇太子妃の自覚がない」という心無い言葉に傷つかれた時期だと判った。
香淳皇后の「れん葬の儀」雅子さまが夏バテのようなもので欠席した際、宮内庁関係者に取材を行うと
「何かに傷つかれたご様子で、東宮職員が話しかけても応えない。
時には引きこもりのような感じて部屋から出てこないことがある」という。

週刊文春2009年5月7日14日ゴールデンウィーク特大号
渾身の真相リポート 皇太子と雅子さま病と修羅を越えて
雅子妃はプライベートな悩みを打ち明けても
それがすぐに千代田側に伝わってしまうことに(東宮職に)不信感を抱くようになった。
香淳皇后の斂葬の儀欠席は妊娠の兆候があったから。
しかも化学的流産で断念したのにそれを理解してもらえなかった。

「だがこの時も実は、体温の上昇などごく初期の懐妊の
兆候が見られたため、両陛下のお許しを得て欠席されたのだった」
ご懐妊の兆候があったのにもかかわらず、外国に行きたい雅子妃が周囲の反対を押し切って、
十二月初旬のベルギー訪問を決行したなどという報道もあった。
だが事実は違う。実は、ベルギー出発当日の朝、基礎体温などから懐妊の可能性があると判断されたのだ。
もし妊娠していれば、気圧の変化や渡航のお疲れが胎児にどんな影響を及ぼすか分からない。
だが、皇室と関係の深いベルギー皇太子の結婚式を突然キャンセルするには、あまりに不確定な段階である。
(ベルギー出発当日妊娠の可能性が認められて)皇太子は判断しかねた。
雅子妃は周囲の判断に委ねると言われ、医師や両陛下の意見をふまえてベルギーへ出発されたのである
「欠席すれば妊娠をマスコミに察知される可能性があることも追い風となった」
機内での皇太子の雅子妃への気遣われ方は相当なものでした
現地に着いてからはヒールを低い靴に変えるなど努力はしていた。
愛子さまが生まれてからの雅子妃は産後の肥立ちが悪くてなかなか起きられなかったり
不安を止めどもなく口にするなど不安定になった。
部屋で一人泣き続ける雅子妃の背中をさすり、皇太子はある決意をされた。
人格否定発言に宮内庁は震撼し「皇太子の乱」とまで言われた。
これまで何度かレポートしてきたが、この発言の真意は
雅子妃の現状を国民に訴えることによって専門医の治療を受けることだった。
たしかに(人格否定発言の)効果はあった。翌月、天皇皇后のお力添えもあり
ようやく主治医(大野裕慶応大教授)が着任し「適応障害と診断され治療が始まったのである。
が、千代田周辺からの東宮家に対する反発は凄まじかった。
前出の「お世継ぎがなかった」などというバッシングもその一環として出たものである。
覚悟の上の「人格否定発言だったが予想以上の反応に戸惑われた。
皇太子を知る人物によればかつては天真爛漫で疑うことなどなかった皇太子がどこか身構えるようになったという。
両陛下に迷惑を掛けたが、説明を求められてもそれをしなかったのは、
例え無責任とそしられても沈黙を守ることで言うべきことは言ったという思い。
皇太子が美智子さまの手を取って泣き出したという話があるがこれは間違い。そんなことをするはずがない。
愛子さまが授かるまで8年、病に倒れてから6年。二人は手を取り合って修羅の道を乗り越えた。

文藝春秋2011年12月号
宮内庁/雅子妃「ご懐妊の兆候」は一度ではなかった―友納尚子
最初に光明が差し込んだのは'99年12月3日、ベルギー皇太子の結婚式に参列するために出発する朝のこと。
実は出発前に懐妊の可能性があることが分かった。予想外だった。だがあくまでも『可能性』であり、
確認がとれたわけではなく、侍医も判断を出せずにいたといわれている。
雅子妃が突然の欠席となれば非礼にあたる。皇太子夫妻は出発するまで行くべきかどうか悩んでいたという。
出発まで時間がないので東宮職幹部も焦った。宮内庁幹部を通じて両陛下に報告。
情報が漏れないように外務省には知らせなかったという。
皇太子ご夫妻はいつもと変わらない笑顔で旅立った。通常は同行しない侍医も同行。高さ6センチの
ハイヒールを履いていたので宮内記者たちも妊娠の兆候があるならそんな靴を履くはずはないと考えていたという。
真相はこのハイヒールを履いたのは結婚式に参列する衣装に替えるまでの時間がなかったから。
一般人とは違い、訪問国に失礼のないように皇族の結婚式の衣装やそれに合わせた小物を揃えるまでには時間が要る。
7日に帰国、13日に雅子妃は宮内庁病院で超音波による検査を受け、懐妊が確認出来れば発表する予定だった。
が、直前の10日朝刊で「懐妊の兆候」と大々的に報道され、宮内庁は13日夜に懐妊と発表できる段階ではないと発表。
後に稽留流産されたことは周知の事実。
だが懐妊の可能性は宮内庁関係者によれば「幾度もあった」という。
2000年7月、雅子妃は斂葬の儀を夏バテのような状態で欠席。
「この時も懐妊の可能性があったといいます。ベルギーご訪問の時よりもその兆しは強く
体調は思わしくなかったようです。度重なる検査や治療で酷くお疲れになって起き上がれなかったのです。
事前に儀式を欠席したいという意向を宮内庁側に伝えたところ理解されなかった。
この対応に雅子妃は精神的にも孤独感を持たれこの頃から以前のような肉声会見はおろか
笑顔まで消えていったのです」(東宮関係者)雅子妃の様子を当時の東宮職は
「新聞にリークされたことで宮内庁幹部に不信感を持ち、気分が沈みがちで部屋にこもりがち」という。
愛子さま誕生の産後の肥立ちが悪いことが引き金となり、適応障害が深刻化。
元気そうに見える時もあったので東宮職員ですらこれが病気だと気づかなかったという。
雅子妃は適切な治療を受けられなかったことから「妃殿下としての自信をなくされていた」(元東宮職)という。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

週刊文春2011年12月1日号
林真理子 夜ふけのなわとび
(略)
皇后さまのお誕生日の宴を中座したことを女性週刊誌のみならず
いろんな週刊誌が書きたてている。
愛子さまの泊りがけの課外授業に随いていたらしたということで週刊誌が軒並みバッシング。
こういうとき、必ずといっていいぐらい雅子さまを擁護するジャーナリスト友納尚子。
雅子さまにものすごく近いところから情報をもらっているようだ。
週刊文春の常連であるが「うーんこう書くか」と感心するぐらい雅子さまの肩を持つ。
「雅子さまはご連絡しようとしたが、皇居の深い緑にさえぎられて、携帯が通じなかった」というのは
私の好きな友納記事。
先々週号週刊文春も雅子さまへの批判的な記事を書いた。
するとその週友納さんは記事ごと「週刊朝日」に引っ越した。
「愛子さまは咳き込むのがかわいそうで、病室で泣いた」というなんだか意味のない内容であったが、
私はこの「友納記事」の動きあ面白くて仕方がない
雅子さまのためにも「友納記事」が増えてほしいと思う。
なぜなら週刊誌が雅子さまをちょっと心配している時は「友納記事」を大きく取り上げる。
「友納記事」はマスコミにおける雅子さまのリトマス紙だ。

週刊新潮2013年8月22日号
雅子さまに心強い存在が友納尚子。
「彼女は雅子さまのご実家の小和田家と近しいとされ、妃殿下寄りの記事を書きますからね」
「第二子への期待」は、もはや恐怖であったと言っても過言ではないだろう…等、
雅子妃の思いを“見事”に掬い取った文。
「宮内庁の懸念は『雅子妃』連載執筆者に盗撮指南書の著作
そんな友納氏の過去の著作「アダルト写真術 覗きPARTV 水中ピーピング」
「女ばかりの世界なので安心して…黒い恥毛が、モゾモゾしてるのが、バッチリ撮れちゃう」等。
今、この本が宮内庁で出回っている。
“親・雅子妃派”の友納氏の過去にも目を光らせている。
連載が『人格否定発言』にまつわる部分に差し掛かっているため、友納氏への(宮内庁の)敵視増大。
宮内庁OBのジャーナリスト
「雅子妃の個人情報に詳しいジャーナリストが犯罪を助長するような仕事をしていたのは、如何なものか…」
友納氏に取材をすると「過去のそのことと皇室取材は別です」
皇室記事は盗撮的ではないということか。
盗撮指南から皇室作家へ。清濁併せ呑んだ、華麗なる転身か。


“雅子妃の代弁者”といわれる皇室ジャーナリストが明かした「皇太子妃を辞める」発言と不妊治療の真実
2015.12.09
今日12月9日、雅子妃が52歳の誕生日を迎えた。
予想通り会見はなく、宮内庁を通じて文書で談話を発表する形式で、内容も戦後70年ということで、
「戦争の悲惨さと平和の尊さに改めて思いを深くいたしました」という言葉が入っていたものの、
あとは昨年と大きく変わりはなかった。
雅子妃の肉声を聞くことがなくなっていったいどれくらいになるのだろうか。
この十数年、我々が接することのできたのは、宮内庁を通じて出される当たり障りのない談話や動静情報のみ。
一方で、週刊誌では雅子妃に対する大量のバッシング情報が流されてきたが、
それについて、雅子妃の反応はまったくわからないままだった。
だが、そんななかで1年ほど前、雅子妃の思いや心の裡を代弁しているといわれる本が
出版されたのをご存知だろうか。
雅子妃の半生を綴ったノンフィクション『ザ・プリンセス 雅子妃物語』(文藝春秋刊)がそれだ。
同書の著者・友納尚子は「週刊文春」「文芸春秋」などで皇室取材に取り組んでいたジャーナリストだが、
2003年、雅子妃が入院した直後から、一貫して雅子妃サイドにたった詳細な内幕記事を書いてきた。
ほとんどのメディアが雅子妃の休養を「仮病」扱いしていた時期から、
ストレスによる「精神的な病」であることを指摘。公務や宮中祭祀の欠席問題、
さらには愛子内親王の不登校や付き添い登校をめぐるバッシングが起きた際も、
雅子妃サイドの言い分を代弁するように詳細な反論を書いてきた。
そのスタンスはともかく、情報はきわめて正確で、東宮職はもちろん、
雅子妃の実家である小和田家関係者や雅子妃本人にもパイプがあるのではないかと指摘されるほどだった。
その友納氏がこれまでの取材の集大成として出版したのが前掲書『ザ・プリンセス』なのだが、
そこには、これまで表には出なかったエピソード、
そして雅子妃を「適応障害」にまで追い詰めた原因が綴られている。
それはやはり、宮内庁や千代田(天皇夫妻の側近の俗称)との確執だった。
同書はまず、ある事件が雅子妃の心を深く傷つけたと書いている。
2000年の皇太后逝去でのこと。この時、雅子妃は葬儀を欠席しているのだが、
その背景に〈雅子妃にとって、適応障害というご病気に繋がる過去の暗い記憶となっているある出来事があった〉
と同書はいう。
〈それは、この前後に、千代田側から厳しく叱責されたことだった。(中略)
「しきたりに関するやりとりならば納得がいくのですが、
その時のご気分による感情的な叱責があったといいます」(宮内庁関係者)〉
友納氏は間接的な表現をしているが、これは前後の文脈から見て、
「雅子妃が皇后から理不尽で感情的な叱責を受けた」と読みとれるものだ。
当時から、皇后との確執が雅子妃の病気の最大の原因と言われていたが、やはりそれは大きかったようだ。
さらに、雅子妃を追い詰めたのが、お世継ぎのプレッシャーだった。
宮内庁はなかなか懐妊しない雅子妃をことあるごとに責め立てたという。
〈ご懐妊されない原因が雅子妃の『考え方』にあると見るようになったのである。
雅子妃が世継ぎの重要性を自覚していないという歪んだ話は、宮内庁の中にも広がり始めていた。〉
97年2月には当時の宮内庁長官・鎌倉節が直接、雅子妃を説得にきたこともあったという。
通常、長官といえど、皇太子夫妻から「お召し」がなければ勝手に会いに来ることなどできないのだが、
鎌倉長官はその禁を破り、強引に乗り込んできた。そして部屋に入るなり、世継ぎの話を切り出したという。
「前置きもなく、いきなりお身体のことを話し始めたといいます。
雅子妃殿下は羞恥心と驚きで複雑なお気持ちになったそうです。
ひとりの女性が夫婦間のことなどを他人に軽々しく言えるはずがありません。
雅子妃はしばらく黙ったままだったそうですが、
あまりに理解がないためプライバシーについて言われたところ、
結局、聞き入れてもらえないまま話は平行線に終わったと言われていました」(元東宮職)
その後、雅子妃は流産をへて、愛子内親王を出産するのだが、男児ではなかったことで、
このお世継ぎプレッシャーは止むことがなかった。
宮内庁内部では、出産直後から第二子の期待が高まり、当時の湯浅利夫宮内庁長官も会見で
「やはりもう一人はほしい」と発言。雅子妃の意向に反して早期の公務復帰を決めた。
しかし、愛子内親王の子育てに時間をさきたい雅子妃はこれに強い不満をもっており、
林田英樹東宮大夫とこんな驚くべきやりとりをしていたことを同書は明かしている。
〈雅子妃はそれまでも、過密な公務の日程について、何度も林田東宮大夫に訴えてきたという。
だが、聞き入れてもらえないことから、〇二年頃に「これでは皇太子を辞めなくてはなりませんね」と
語ったことがあったそうだ。言葉だけを取りだせば衝撃的だが、信頼できるはずの大夫に、
内々に、なかなか聞き入れてもらえない公務委の軽減を訴えている文脈の中での発言だったのが実際だった。〉
そして、2003年10月15日、決定的な事件が起きる。
メキシコのフォックス大統領夫妻を迎えての宮中晩餐会でのこと。
この晩餐会では主催の両殿下から皇族方が順番に紹介されるのが儀礼となっていた。しかし−−−−。
「まず燕尾服姿の皇太子を紹介されて、次はイブニングドレス姿の雅子妃の番でした。
フォックス大統領が雅子妃に向って手を差し出されたのですが、隣の秋篠宮殿下が紹介されたため、
一瞬、大統領の手が宙で迷われ、おかしな雰囲気でした。
雅子妃は明らかに引きつったようなご表情でした」(元東宮職)
そう、雅子妃は妃殿下として紹介されず、スルーされてしまったというのだ。
このことが雅子妃から自信を喪失させ、その後11年間、雅子妃は宮中晩餐会に出席することはなかったという。
同書は東宮御所に戻った雅子妃の心境を「宮内庁関係者」のコメントという形で、次のように解説している。
「ご誕生されたお子さま女の子だったことから、男子を産めない皇太子妃は必要ないというように
思われたようです。(中略)雅子妃殿下は皇統の重要性を考えると、
もっと頑張らなくてはいけないと思われていた。けれども深い失意は、
ご自分を責める方向に向かわせたと言われています」
そして、この直後から雅子妃は体調に変調をきたしはじめ、03年12月、帯状疱疹で入院。休養が発表される。
そして04年の適応障害、皇太子の「人格否定発言」に繋がっていったと著者は分析している。
もちろん、本書に対しては「雅子妃に寄り添いすぎている」といった批判もある。
実際、同書に描かれた雅子妃の思いは被害妄想と感じられる部分もなくはないし、
皇太子妃として公への貢献の意識があまり感じられないのも事実だ。
しかし、同書は、雅子妃の立場に徹底的に寄り添ったからこそ、
どのメディアも書くことのできなかった“本音”“肉声”に近い言葉を引き出せたとも言える。
これこそが、外務官僚から突然、皇太子妃という立場になった女性からみた皇室の「真実」なのだろう。
そういえば、同書ではもうひとつ、これまでどこも書くことのできなかった「真実」が明かされている。
それは、ずっと噂になってきた皇太子夫妻の不妊治療の問題だ。
同書は1998年の秋から皇太子夫妻が不妊治療を受け始めたとはっきり書き、
それにそこにいたるまでの経緯について、こう記している。
〈ご懐妊には大きな問題があることに雅子妃は気づいていたが、
誰にもたやすく相談できないことでもあった。〉
〈(懐妊しない)そこには深刻な問題があった。
しかしそのことを鎌倉長官はじめ宮内庁は把握できていなかった。〉
〈一般的に子どもができないと原因は妻にあると思われがちですが、
宮内庁も同じような考え方だったのです〉
さらに、不妊検査が行われた際の雅子妃の気持ちは、意外にも辛いものではなかったとして、
元宮内庁関係者のこんなコメントを紹介している。
「これまでお子さまが生まれないのは雅子妃のお身体のせいだといわれてきたことから、
この検査結果が出たことで『やっと周囲にわかってもらえる』と
安心したお気持ちの方が強かったといわれています」
いずれにしても、雅子妃に起きたことは、雅子妃の個人的な資質の問題ではない。
雅子妃の世代の民間の女性が突然、皇太子妃という立場になって、周囲からプレッシャーを受ければ、
ささいなことに敏感に反応し、自信を喪失し、自分の身を守ることでいっぱいいっぱいになってしまうのは、
ある意味、当然とも言える。
同書も指摘しているが、皇室のあり方そのものを考え直さなければ、
次に、民間から妃が入った時も恐らく同じことが起きるだろう。
とくに、天皇制墨守を掲げる保守メディアや識者は雅子妃バッシングを繰り返すよりも、
そのことをもっと真剣に考えるべきではないだろうか。
(伊勢崎馨)
http://lite-ra.com/2015/12/post-1764.html