陛下 沖縄への思い

昭和50年7月17日 初めての沖縄ご訪問の折、ひめゆりの塔で火炎瓶事件があった夜に
県民に対して発表されたメッセージ(当時は皇太子殿下)

「私たちは沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、
平和への願いを未来につなぎ、ともどもに力をあわせて努力していきたいと思います。
払われた尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、
人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、
この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません。」

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇
諸君!2008年7月号
平成皇室二十年の光と影

■琉歌四十首のノート 外間守善(ほかましゅぜん) (沖縄学研究所所長)
…1975(昭和50)年、沖縄国際海洋博覧会で両殿下が沖縄を初めて訪問されることになったある日、
私は東宮御所に呼ばれ、尋ねられた。
「戦没者鎮魂のため南部戦跡を訪ねたいのですが、外間さんはどう思いますか」と。
当初の予定には、博覧会場だけで南部戦跡は入っていなかった。これには宮内庁も博覧会委員会も大反対で、
一人で悩んでおられたようだ。南部戦跡が日程に入ることになったのには殿下の強いご意志があったのである。
出発の前日には、殿下が自ら「談話」との一文を書かれた。私は英訳担当の学者と二人、
東宮御所で深夜まで検討を重ねた。帰り際に私が「何が起こるかわかりませんから、ぜひ用心して下さい」と
申し上げたところ、殿下は静かに「何が起きても受けます」とおっしゃった。並々ならぬご決意が伝わってきた。
早朝に御所を出発した両殿下は、沖縄に到着するとまっすぐ南部戦跡に向かわれた。
車が糸満の白銀堂にさしかかった時、白銀病院から爆竹のようなものが車列に向かって投げられた。
幸い事なきを得たが、車はその後訪問した「ひめゆりの塔」で起こった。
慰霊碑に献花をして両殿下が左側に二メートルほど移動した瞬間にガマに潜んでいた
犯人が火炎瓶を投げつけたのだ。火炎瓶は献花台にぶつかって破裂した。警護の人々が両殿下をかばったが、
両殿下は前を向いたままだった。そして、警護の者に押されるような形で車に乗られたという。
もちろん、その後の予定は中止されても当然なのだが、両殿下の予定は一つの変更もなく沖縄師範健児の塔、
島守の塔と参拝なされた。事件後に訪問された各塔でのお出迎えには私の知人が何人もいたが、両殿下は
何ごともなかったかのように自若としておられたという。最後に予定されていた遺族会館では予定に入っていなかった
ひめゆり同窓会の人々をお呼びになって、昼間の事件の心労を慰められたそうだ。
「談話」の一文はその日の夜に発表された。
私は事件を東京で知った。南部戦跡めぐりに賛成しない方がよかったのか、と気をもんでいるところに
八木侍従から電話あった。殿下はその時、屋良知事たちと夕食中だったが「外間さんが心配しているだろうから」と
わざわざ電話をかけるよう指示なさったらしい。
沖縄から帰られてすぐに殿下から「琉歌になりますか」と二首の歌を見せられた。
 ふさかいゆる木草 めぐる戦跡 くり返し返し 思ひかけて
 花よおしやげゆん 人知らぬ魂 戦ないらぬ世よ 肝に願て
無名戦士の塔に詣でて、戦争のない世界を祈願なさったであろう両殿下のお姿が髣髴として
私には万感胸にせまる思いがあった。摩文仁の戦跡地を巡られた思いを「くり返し返し思ひかけて」と
結句されたのは、殿下の悲痛なご心中の飾りのない表白であったのだろうと推察した。
…しばらく後のことであるが、殿下が、ご自身の実感にふさわしい言葉の選択に難渋なさった時に、
やおらノートを取り出されたことがある。なんとそのノートには、琉球国王の詠んだ琉歌が四十数首、
びっしりと書き込まれていた。殿下ご自身でノートなさったものだということであった。
琉歌の意味と用字用語、表記法の規範は、国王の琉歌にあるというご明察があったからのご学習だったのだろう。
それにしても、三千余首の中から国王の琉歌を選り抜かれて、ノートに書き綴る殿下のご学習には
頭のさがる思いだった。 …


January 11, 2009, 11:22 pm
沖縄からアジアが見える
福岡アジア文化賞」(January 11, 2009, 10:11 pm)の大賞受賞者では、
とりわけ外間守善先生が記憶に残る。2003年に大賞を受賞された時、東京から福岡まで出かけた。
「沖縄学」の中心的な学者だ。沖縄最古の歌謡集「おもろそうし」の研究で名高い。
授賞式には、秋篠宮妃紀子さまがお祝いに駆けつけた。
学習院大に出講していた当時、2年間、ゼミの教え子だった。
「妃殿下、お立ちいただけますか」。会場に紹介し、妃殿下は微笑で応えた。
凄惨を極めた沖縄戦で九死に一生を得た。「鉄血勤皇隊」の生き残りである。
福岡アジア文化賞の慣例によって、福岡市内の中学で記念講演した。
「14歳だった私の妹は、引き揚げ船『対馬丸』に乗っていました。
アメリカの潜水艦の魚雷攻撃に遭い、船は沈みました。今でも妹が死んだという気がしません。
兄は手りゅう弾を腹にあて、自決しました。28歳でした」
戦争について多くを語る人ではない。だが、妹と同年代の子どもたちの前に立ち、声が震えた。
病を得て、言葉が少し不自由だったが、その問いかけはラジカル(根源的)である。
翌日の市民フォーラムでは、こう語った。
「残念ながら、日本から沖縄が見えないのです。沖縄は日本にとって、いつでも切り離せる地域だったのです」
外間先生は、その後、毎日新聞の大学生新聞「キャンパる」のインタビューにも応じていただいた。
母校の後輩にあたる国学院大学の女子学生(当時)が取材・執筆した。

以下は、その記事。
「天皇と沖縄」について、ここまで率直に語った人はいない。
●「対馬丸」に立ち尽くす両陛下
79歳とは思えない。背筋がピシッと伸び、顔の表情も生き生きとしている。沖縄学の権威。
沖縄戦で生き残った学徒兵で、私にとっては大先輩……。病気のため言葉は少し不自由だが、
知識や記憶は驚くほど鮮明だ。孫ほどの年齢の私たちのインタビューに、丁寧に応じてくれた。
取材前日、天皇誕生日に宮中に呼ばれたという。かねて「沖縄学」を天皇一家に進講してきたからだ。
妹を対馬丸事件(1944年8月、沖縄から九州へ向かう学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦の攻撃を受け沈没。
学童767人を含む1484人が死亡した)で亡くした。
そのパネル展で、当時皇太子だった天皇、皇后両陛下へのご説明役を務めた。
「皇太子殿下は対馬丸のパネルの前で、ぼうぜんとされ、妃殿下はハンカチを持ち涙ぐんでおられた。
お二人は、そこから動かなくなってしまいました」。以来、天皇一家に沖縄の話をするようになった。
「陛下は『おもろさうし』(沖縄最古の歌謡集)の研究をなされてきたから、沖縄の歴史は非常に詳しいですよ」。
昨年の天皇誕生日の記者会見でも、沖縄の話が異例なほどたくさん出た。
「沖縄にはひとしおの関心を持っておられる」
「対馬丸出港の日、妹を港まで見送りに行きました。日本の少国民として恥ずかしくないように
九州で頑張りなさい、と家にあったすべての黒砂糖を持たせた」
対馬丸が撃沈されたことは、県民には知らされなかった。「やられたと知った時、非常にショックでした」。目が潤んで見えた。28歳だった兄は手りゅう弾で自決した。このことについては多くを語らない。
「僕も何度か死線を越えてきた。どうにか生き残った。沖縄戦で体験したことを多くの人に語らなくてはいけない」。
その思いから、沖縄戦に関する本の構想をまとめている。
「私が体験した沖縄戦の惨状は、平和思想につながっていく。憲法9条が改正されようとしている。
しかし、これだけは守りたい」
戦後、進学した国学院大には、金田一京助教授(国語学)がいた。
「入学したころは、『おもろさうし』研究など、やろうとは思ってもいなかった」。
生活費を稼ぐため、横浜のメリケン波止場にアルバイトに通った。
「沖縄戦を生き抜いたので、体力だけはありました」。同教授の勧めで東京大の服部四郎教授と
「おもろさうし」にめぐり合い、「寝食を忘れる」ほど研究に没頭した。
2001年、伊波普猷ら沖縄学の先達も成し得なかった「おもろさうし」22巻1554首の口語訳を達成した。
「前人未到の険しい道のりだったが、おもろ研究100年史に一つの踏み石を作り得た」と感慨深げである。
沖縄の島々にはすべて足を運んだ。なかでも、生まれ故郷の那覇は懐かしい。
沖縄を一言で表現すると? 「明るさと優しさ」。外間さんの姿そのものでもある。
◆取材して一言
「天皇、皇后はご誠実な方です」と、さらっと言う外間さん。
私たちにも分け隔てなく丁寧にお話ししてくださった。時々ギャグを言って私たちを笑わせる。
写真を撮る時、少しはにかむ姿が印象的だった。
http://www.voiceblog.jp/shimokawa502/748852.html


 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

当時、沖縄ご訪問には慎重論も強く、特に事件が起きた南部戦跡でのご慰霊、
ご視察には強い反対もあった。しかし、陛下の強い希望でご視察コースに加えられた。
沖縄の古代歌謡「おもろ」や琉歌のご進講役を長く務めていた学者によれば
「陛下は"まず御魂鎮めが先だ"と言われた」という。

陛下は三千首に及ぶ歴代琉球王の詠んだ琉歌を書き写されて学ばれ、
ご自身でも琉歌を作られるようになられ、そして鎮魂の琉歌を詠まれている。


 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

天皇陛下 平成15年12月18日
私にとっては沖縄の歴史をひもとくということは
島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。
しかし,それであればこそ沖縄への理解を深め
沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。
沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました。


 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇
(平成23年)

6月23日(木)殉国沖縄学徒顕彰66年祭が執り行われました。
6月23日(水)、靖國神社にて「殉国沖縄学徒顕彰66年祭」が
執り行われ党職員が参列しました。
1945年の大東亜戦争での沖縄での組織的戦闘が終結したと言われています。
80日にもおよぶ地上戦で、およそ20万人もの犠牲者を出しました。
この6月23日は1961年、アメリカ施政下の沖縄で、「慰霊の日」として国民の祝日に
相当する「住民の祝祭日」の一つとして定められました。1972年の沖縄復帰後は
休日ではなくなりましたが、1991年に沖縄県の条例で改めて休日と定められました。

天皇陛下は常々、日本人が忘れてはならない4つの日があると、仰られております。

ひとつは広島に原子爆弾が投下された8月6日
2つ目は長崎に原子爆弾が投下された8月9日
3つ目は終戦記念日の8月15日
4つ目は沖縄戦終結の日6月23日です。

沖縄に対する両陛下の御心は深く、昭和50年7月17日初めて沖縄を訪れられ
ひめゆりの塔にご参拝の時、参拝中の両殿下(当時)の至近距離に、火炎瓶が
投げつけられる事件の後も、何事も無かったように、沖縄での残りの行事、
慰霊碑への参拝を総て予定通りに行われました。
平成6年に米国を訪問された時、サンフランシスコに到着したのが、
ちょうど現地時間で6月22日、日本では沖縄戦終結の日でした。
陛下は「ちょうど重なってしまうが、沖縄で慰霊式典が行われる時間は
こちらでは何時ごろだろう」とお尋ねになりました。調べたところ、
公式晩さん会の始まるころでした。「それでは少し遅らせてもらえないだろうか」
とおっしゃって、両陛下はその時間にはホテルの部屋で黙とうをされたそうです。
その後も再三にわたり沖縄をご訪問されており、両陛下の沖縄に寄せられる御心の深さを感じる事が出来ます。

朝日新聞
2012年12月22日03時00分
〈記者有論〉慰霊施設の訪問 皇室と沖縄の距離埋める
北野隆一(社会部)
天皇、皇后両陛下が8年ぶりの沖縄訪問を終えた先月20日、両陛下に「沖縄学」を進講した
外間守善(ほかましゅぜん)・法政大名誉教授が亡くなった。訃報(ふほう)を聞いた天皇陛下は絶句。
「沖縄のことを教えていただいた方です」と語り、侍従を通じて遺族に弔意を伝えたという。
出会いは沖縄返還前の1968年。沖縄戦の実態を紹介した企画展が東京であり、
皇太子夫妻だった両陛下が訪れた。米軍に撃沈された学童疎開船「対馬(つしま)丸」の展示の前で
説明役の外間さんが「妹も乗っていました。帰りませんでした」と明かした。
以来、外間さんはたびたび沖縄文化を進講。陛下は沖縄の短歌「琉歌」を詠むようになる。
沖縄には皇室への複雑な感情が残る。戦前は天皇への崇拝を教育され、
戦時中、沖縄が本土防衛の時間を稼ぐ「捨て石」とされ、悲惨な地上戦につながった――との思いが根強い。
昭和天皇は戦後、沖縄訪問を望みながら果たせず、いまの陛下に託された。
陛下は皇太子時代の75年、沖縄を初訪問。「ひめゆりの塔」で火炎瓶を投げつけられた日、談話を発表した。
外間さんに相談して練った文章だった。「多くの尊い犠牲は一時の行為や言葉であがなえるものではなく、
長い年月をかけて記憶し、深い内省の中、この地に心を寄せ続けることをおいて考えられません」
以来、9回の訪問で欠かさず沖縄戦の慰霊施設を訪れてきた。
今回は沿道に両陛下を迎えて手を振る人たちの姿があった。仲井真弘多(なかいまひろかず)知事は
「沖縄県もきちっと奉迎できるようになった」と述べた。
今回、関係者が要望しながら訪問が見送られた候補地が2カ所ある。ひめゆりの塔と同様に犠牲になった
女子学徒隊をまつる「白梅之塔」と、外間さんとの出会いと深い関係がある対馬丸事件犠牲者の遺品や
写真を展示する「対馬丸記念館」だ。宮内庁幹部は「訪問の願い出が大変多い中で、公平性の観点もあり、
特定の施設を訪れるには、県による地元の調整ができていないと難しい」と話す。
宮内庁の説明は分かる。だが残念だ。2施設への訪問は、半世紀にわたる沖縄と皇室の「和解」の道のりの
象徴となりえたと思うからだ。
「白梅」と「対馬丸」の関係者には、両陛下と短時間言葉を交わす機会が設けられた。
糸満市の沖縄平和祈念堂で皇后さまは「塔はどちらですか」と尋ね、
両陛下は北西に4キロ離れた白梅之塔の方に向かい、深く拝礼した。
http://www.asahi.com/news/intro/TKY201212210827.html?id1=2&id2=cabcbccc



両陛下:那覇の対馬丸記念館を初訪問へ 悲劇に心寄せ続け
毎日新聞 2014年06月25日 15時00分(最終更新 06月25日 16時42分)
天皇、皇后両陛下は26日から沖縄県を訪問し、対馬(つしま)丸記念館(那覇市)を初めて訪れる。
戦時中に米潜水艦の魚雷で撃沈され、1400人以上が犠牲になった
学童疎開船「対馬丸」の遺族や生存者らと懇談する。
両陛下は対馬丸の悲劇に心を寄せ続けており、記念館訪問は両陛下の強い思いで実現したという。 
両陛下は26日は国立沖縄戦没者墓苑(糸満市)で供花。27日に同記念館を訪れる。
天皇陛下は1997年12月、鹿児島県・悪石島(あくせきじま)近海海底から
対馬丸の船体が発見された6日後の誕生日の記者会見で
「数日前、戦争中1500人近くの乗船者を乗せた対馬丸が米国の潜水艦に沈められ、
その船体が悪石島の近くの海底に横たわっている姿がテレビの画面に映し出されました。
私と同じ年代の多くの人々がその中に含まれており、本当に痛ましいことに感じています」と述べた。
また、同年には「對馬丸見出ださる」と題して歌を詠んだ。
 疎開児の命いだきて沈みたる船深海(しんかい)に見出だされけり
皇后さまは2005年の誕生日に際し、報道陣の質問に対する文書での回答で
「対馬丸の撃沈で亡くなった沖縄の学童疎開の児童たちも、無事であったなら、
今は古希を迎えたでしょう。遺族にとり、長く、重い年月であったと思います」と記した。
両陛下は対馬丸が撃沈された8月22日には毎年、黙とうしているという。【真鍋光之】 

◇対馬丸の悲劇
1944(昭和19)年8月22日夜、沖縄から長崎に向け出航した学童疎開船「対馬丸」が
米潜水艦による魚雷で沈没。乗船者1788人のうち1400人以上が犠牲になった。
これまでの判明分によると、乗船していた学童は834人で、うち生存者は59人。
対馬丸は97年12月、悪石島近海の水深870メートル付近で無人探査機によって発見された。
http://mainichi.jp/feature/koushitsu/news/20140625k0000e040298000c.html

両陛下 沖縄戦没者墓苑で慰霊
6月26日 16時46分
天皇皇后両陛下は26日、沖縄戦最後の激戦地となった沖縄県糸満市にある国立沖縄戦没者墓苑を訪れ、
犠牲者の霊を慰められました。
両陛下は、太平洋戦争中、アメリカ軍に撃沈された学童疎開船「対馬丸」の犠牲者の慰霊などのため、
26日午後、特別機で那覇空港に到着されました。
両陛下の沖縄訪問は、皇太子夫妻のときから数えて10回目です。
両陛下は、沖縄を訪れるたび、最初に沖縄戦の犠牲者を慰霊するための場所に足を運んでいて、
26日は、糸満市にある国立沖縄戦没者墓苑を訪問されました。
両陛下は、遺族らの出迎えを受け、「皆さん年をとられたので頑張ってね」とか、
「お元気で過ごされますように」などと、励ましやいたわりのことばをかけられました。
そして、梅雨明けの青空の下、太平洋戦争末期の沖縄戦で亡くなった
18万人以上の遺骨が納められている納骨堂の前に花を供えて犠牲者の霊を慰められました。
両陛下は、疎開先に向かう学童ら1500人近くが犠牲になった「対馬丸」の悲劇から
ことしで70年になるのにあたって、
27日に那覇市にある犠牲者の慰霊碑を訪れ花を供えて拝礼されます。
また、悲劇を伝える記念館を初めて訪れて犠牲者の遺影や遺品を集めた展示を視察したあと、
対馬丸の生存者や遺族と懇談されます。

両陛下、対馬丸生存者と懇談へ 26日から沖縄訪問
泗水康信、島康彦
2014年6月24日10時25分
戦時中、沖縄から本土に向かった学童疎開船が撃沈され、
約1500人が犠牲になった「対馬丸事件」から今年で70年。
天皇陛下は犠牲者の多くが同世代とあって、かねて深い関心を寄せてきた。
26〜27日、皇后さまとともに沖縄を訪れ、生存者らと懇談する。
1968年4月。東京・日本橋で開かれた「これが沖縄だ」展。
皇太子ご夫妻時代の両陛下が、ある展示の前で足を止めた。対馬丸を紹介するパネルだった。
「その中に私の妹もおりました。帰りませんでした」。
案内役だった「沖縄学」の第一人者、故・外間守善(ほかましゅぜん)さんが説明すると、
天皇陛下はじっとパネルを見つめ、皇后さまは体を震わせたという。
「両陛下が沖縄に心を寄せるきっかけになった出来事だったのでは」。
外間さんは生前、そう振り返っていた。
対馬丸が撃沈された8月22日。両陛下は欠かさず黙禱(もくとう)し、犠牲者をしのんできた。
2008年9月には、生存者の1人、米国在住のマリア宮城バートラフさんを御所に招き、
4日間の漂流から生還した体験を聞いた。
同行した山本和昭さん(84)=東京都=は「両陛下は予定時間を超えて熱心に耳を傾けておられました」と話す。
天皇陛下は97年の誕生日会見で
「私と同じ年代の多くの人々が含まれ、本当に痛ましいことに感じています」と発言。
皇后さまは05年の誕生日にあたって「対馬丸撃沈で亡くなった児童たちも、
無事であったなら今は古希を迎えた頃でしょう」と話していた。
両陛下の思いは次世代にも受け継がれている。08年8月、都内で開かれた対馬丸の企画展。
秋篠宮ご夫妻は長女眞子さま、次女佳子さまとともに訪れ、犠牲になった姉妹のランドセルに熱心に見入った。
両陛下はこれまで皇太子ご夫妻時代を含めて計9回、沖縄を訪問しているが、
事件から60年となる04年に開館した対馬丸記念館に足を運ぶのは今回が初めて。
記念館の1階には、亡くなった子どもたち約300人の遺影が掲げられている。
「それぞれが生きた証しをぜひご覧になり、いろんなことを感じていただきたい」。
記念館を運営する財団法人・対馬丸記念会の理事長、高良政勝さん(74)は語る。
両親ときょうだいの計11人で対馬丸に乗り、自分と姉だけが生き残った。当時4歳。
沈没から2日後に助けられた時、背中は魚にかじられて骨が見えていたという。
那覇市の外間邦子さん(75)は姉2人を亡くした。長姉は天皇陛下と同じ年の生まれ。
「亡くなった人がどういう人だったのか、生存者や遺族の話をぜひ聞いてほしい」と話す。
一方、複雑な思いを抱く生存者もいる。18日には浦添市で「天皇制と対馬丸」と題したシンポジウムが開かれ、
天皇陛下に謝罪を求める声明が読み上げられた。
登壇した生存者は「皇民化教育で若者が戦争に行かされ、死んでしまった。
対馬丸で亡くなった子たちの顔が浮かんで、とても訪問を喜べない」と語った。(泗水康信、島康彦)
http://www.asahi.com/articles/ASG6L627YG6LUTIL02Y.html

両陛下 「対馬丸」の犠牲者を慰霊
6月27日 19時48分
天皇皇后両陛下は、太平洋戦争中、沖縄からの学童疎開船「対馬丸」がアメリカ軍に撃沈されて、
ことしで70年になるのに当たり、那覇市にある慰霊碑を訪れて犠牲になった人たちの霊を慰められました。
26日から沖縄県を訪れている両陛下は27日午前、那覇市にある対馬丸の犠牲者の慰霊碑を訪ねられました。
対馬丸は太平洋戦争中の昭和19年、疎開する学童らを乗せて沖縄から九州へ向かう途中、
アメリカ軍に撃沈され、確認されただけでも780人の学童を含む1500人近くが犠牲になりました。
当時、小学生で、疎開中だった両陛下はこの悲劇に心を寄せ続けていて、撃沈されて70年になることし、
犠牲者の追悼を強く望まれたということです。
両陛下は、遺族の先導で慰霊碑の前までゆっくり進むと、白い菊の花を供えて拝礼し犠牲者の霊を慰められました。
続いて、対馬丸の悲劇を伝えるため、10年前、慰霊碑の近くに開館した対馬丸記念館を視察されました。
館内には、犠牲になった学童や引率の教師など318人の遺影や筆箱、ランドセルなどの遺品が展示されていて、
両陛下は遺族の説明に痛ましそうに耳を傾けられていました。
このあと、両陛下は対馬丸の生存者や遺族ら15人と懇談されました。
天皇陛下は、対馬丸が沈没して漂流したあと漁船に救助された男性に「よく生き抜かれましたね」と話しかけ、
遺族には「ご家族を亡くされて残念でしたね」とか、「ご苦労の多い日々を過ごされたでしょう」などと
ことばをかけられました。
懇談は予定された時間を大幅に超えて続き、両陛下は全員と話し終わると、
もう一度、一人一人に「元気でね。ありがとう」などと声をかけて回り、記念館をあとにされました。
両陛下は、戦後50年に当たる平成7年に沖縄や広島、長崎などを回り、
戦後60年には太平洋の激戦地サイパンも訪れていて、戦後70年を翌年に控えた今回の沖縄訪問も、
戦争と向き合い、犠牲者や遺族に心を寄せられるものとなりました。

高良理事長「本当にお優しい両陛下」
対馬丸記念館で天皇皇后両陛下を案内した対馬丸記念会の高良政勝理事長(74)は、
4歳のときに両親と兄弟合わせて11人で対馬丸に乗船し、高良さんと当時17歳だった姉の
2人だけが奇跡的に助かり、両親など9人が犠牲になりました。
案内を終えたあと高良さんは、両陛下について「遺族や生存者の方とゆっくりお話をなさったり、
体験や悩みを聞いてくださったりして、本当にお優しい両陛下だなと思いました。
遺族や生存者1人1人に『ご苦労さまでした。これからもしっかり生き抜いてください』と
励ましのことばをかけられていたのが印象的でした」と話していました。
そのうえで「国策で亡くなった子どもたちなどの慰霊のために、
天皇皇后両陛下が70年の節目に対馬丸記念館を訪ねてくださったことは、
非常に意義あることだと思います」と話していました。

マリア宮城バートラフさん「夢が実現し、うれしい」
両陛下と懇談したマリア宮城バートラフさん(83)は、中学2年生の時、家族など6人で対馬丸に乗船し、
祖母と弟、それに、いとこを亡くしました。
4日間の漂流の末の生還について著書を出版するなどしていて、6年前、両陛下のお住まいに招かれて、
みずからの体験を語ったこともあります。
今は、夫と共にアメリカに住む宮城さんは、一時帰国して27日の懇談に臨みました。
懇談では、宮城さんに気付いた皇后さまが「お話ししてくださいましたよね。
よく生き抜いてくださいました」と話しかけ、天皇陛下も「お元気で」と言葉をかけられました。
6年前、両陛下に対馬丸記念館への招待状を手渡したという宮城さんは、
両陛下に訪問のお礼を述べたということで、懇談のあと、
「夢だった両陛下の訪問が実現してとてもうれしいです。
両陛下も必ず訪ねたいとおっしゃっていたので、喜んでいらっしゃると思います」と話していました。

堀川澄子さん「わざわざ訪問されたと聞き感激」
当時小学5年生で、対馬丸とともに海に沈み翌日救助されたという堀川澄子さん(81)は
「『本当に大変でしたね』とおっしゃっていただきました。
わざわざ対馬丸の犠牲者の慰霊のために訪問されたと聞いて、
おそれ多いと思うとともに、感激しています」と話していました。

上原清さん「子どもたちの魂は安らかに眠れる」
当時小学4年生で、6日間の漂流の末に助かったという上原清さん(80)は、
「対馬丸の事件を長く後世に伝えたいと話したところ、『体に気をつけてお元気で活躍して下さい』と
言葉をかけていただきました。国の象徴である天皇陛下が慰霊碑で拝礼し、祈ってくださったので、
対馬丸とともに沈んだたくさんの子どもたちの魂は、安らかに眠れると思います」と話していました。

安次富長文さん「遺族として大変喜んでいる」
天皇皇后表陛下と懇談した遺族の1人で、対馬丸に乗船していた当時8歳の兄が犠牲となった
安次富長文さん(77)は「両陛下からは『どなたが亡くなられたんですか』という質問があり、
2歳上の兄が亡くなったとお答えしました。70年という月日が経過したんですが、
こういった機会をつくっていただき、遺族として大変喜んでいます」と話していました。

津波古ヒサさん「とても心がこもっていると感じた」
家族11人を失った元ひめゆり学徒の津波古ヒサさん(86)は
「心に響くように優しく慈しみ深いという印象を受けました。
『家族11人が犠牲になりました』と伝えると、遠慮しがちに『大変でしたね』と言ってくださり、
とても心がこもっていると感じて、ありがたいと思いました」と話していました。

対馬丸とは
対馬丸は大正初期に建造された民間の貨物船で、太平洋戦争中は旧日本軍に徴用されて軍事輸送に使われました。
終戦前年の昭和19年7月、本土防衛の重要拠点と位置づけられていたサイパンが陥落すると、
政府は沖縄での戦闘に備えて、県内の子どもや女性、それにお年寄りたちを疎開させることを決め、
対馬丸は疎開船としての役割も果たしました。
8月22日、対馬丸は、国民学校の学童などを乗せて九州に向かっていましたが、
鹿児島県の悪石島沖でアメリカ軍の潜水艦に撃沈され、確認されただけでも780人の学童を含む
1500人近くが犠牲になりました。
沖縄では、昭和20年3月までの9か月間で、九州や台湾などにおよそ8万人が疎開しましたが、
のべ187隻の疎開船のうち撃沈されたのは対馬丸だけでした。
戦争中はかん口令が敷かれ、表だって被害を語ることはできませんでしたが、
戦後、那覇市に慰霊碑が建てられ、遺族たちが毎年、対馬丸が撃沈された8月22日に慰霊祭を行ってきました。
平成9年には海底に沈んでいた対馬丸の船体が発見され、翌年、2回にわたって
政府主催の洋上慰霊祭が行われました。
遺族たちは船体の引き上げを求めましたが、技術的に困難だとの結論が出され、
代わりに10年前、対馬丸の悲劇を伝えるための記念館が慰霊碑の近くに建設されました。
記念館では、犠牲になった人たちの遺品が展示されているほか、
対馬丸が撃沈された際に生き残った人たちが語り部となって当時の体験を伝えています。

沖縄訪問は10回目
天皇陛下は、これまで皇太子として5回、即位後に4回、皇后さまと沖縄を訪ねられていて、
今回の訪問が10回目です。
最初の訪問は昭和50年。
沖縄国際海洋博覧会の名誉総裁として開会式に出席されるためでした。
戦後30年を経てもなお県民に複雑な感情が残るなかでの訪問で、
女子学生たちの慰霊碑「ひめゆりの塔」を訪ねられた際には、
訪問に反対する過激派のメンバーが火炎瓶を投げつける事件が起きました。
昭和62年には、病気療養中のため訪問がかなわなかった昭和天皇の名代として、
沖縄で開かれた国体の開会式に出席されました。
即位後の平成5年には、全国植樹祭に出席するため歴代の天皇として初めて沖縄を訪れ、
平成7年にも戦後50年の「慰霊の旅」で再び沖縄を訪ねられました。
その後も、平成16年には「国立劇場おきなわ」の記念公演を鑑賞するため、
また、おととし11月には全国豊かな海づくり大会に出席するため沖縄を訪問されています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140627/k10015548651000.html