秋篠宮が天皇になる日

文藝春秋2009年2月号
秋篠宮が天皇になる日
異例の誕生日会見中止。天皇の心痛と怒りの核心は?
未曽有の危機に浮上する皇位継承ナンバー2
保阪正康(ノンフィクション作家)

平成が始まって二十年の節目が過ぎたが、皇室はかつてない不安と緊張に包まれている。
平成二十(2008)年の師走に起きた一連の事件は、まさに異例尽くしといえた。
十二月二日、不整脈による胸部の変調を訴えていた天皇は夜になって血圧が上昇、翌三日から五日間、
公務を休むことを余儀なくされる。
九日には金沢一郎皇室医務主管が記者会見を開き、粘膜のただれ、出血を伴う胃、十二指腸の炎症を確認したが、
投薬治療で始まっており深刻な状態ではない、と報告した後、「陛下の心因性ストレスはいろいろなことにお心を使われ、
痛められているから、ご心労、ご心痛と呼んだほうがいい。私の立場で初めて言うが、ご心痛に耐えていらっしゃるのが
非常に大きな問題だ」と述べている。金沢医務主管自ら言うように、医療担当者が天皇の「ご心痛」に言及するのは、
これが初めてのことだった。
この日は、雅子妃の誕生日でもあった。風邪のため、天皇・皇后への挨拶は中止、
誕生日に際しての感想が発表された。
まさに、その日に、天皇の「ご心痛」が突然発表されたため宮内庁記者会は何事かと色めきたったという。
さらに、十一日には今度は羽毛田信吾宮内庁長官が記者会見で、「ここ何年かにわたり、ご自身のお立場から
常にお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題をはじめ、皇室にかかわるもろもろの問題をご憂慮の
ご様子を拝している」と天皇の「ご憂慮」を述べた。さらに皇太子のポリープの大きさに天皇・皇后が驚き、
検査を受けていなかったことに強い不安を持ったこと、雅子妃に対するメディアの論調に
「両陛下は深く傷つかれた」ことなどを発表した。
そして皇太子の公務についても、「皇太子殿下の記者会見における公務見直しのご発言のあった直後、
両陛下から当時の宮内庁長官、前任の長官、参与などが両殿下のご意向をよく伺って、
ご相談に乗るようにとの依頼を受け、御前にも出て、色々と申し上げているが、
今も具体的なご提案をお待ちしているところであります」と、天皇の意向をにじませつつ、苦言を呈している。
メディアには「雅子さまへの“最後通告”」「宮内庁・東宮戦争」といった文字が躍った。
そして十六日、毎年定例とされている天皇の誕生日会見の中止が発表されたのである。
宮内庁はストレス軽減のための緊急措置とするが、天皇が体調を理由に誕生日会見を行わないのは、
即位以来かつて例がない。

■秋篠宮会見の意味
これまで私は、昭和の歴史を検証しつつ、それが現在の日本においていかなる意味をもつのかを
つねに問い続けてきた。
明治・大正・昭和・平成と、時代ごとに新たな貌を見せながらその歴史を継いできた皇室は、
そのテーマのひとつであるといっていい。
皇太子のいわゆる「人格否定発言」以来の平成皇室を見ていると、いつも同じ問題が登場し、
堂々巡りを繰り返しているように思える。しかもすべては“御簾の内”にあり、天皇の「ご心痛」の原因にしても、
雅子妃の病状にしても、断片的にほのめかされることはあっても、国民に納得のいく説明はなされていない。
その苛立ちが募ったあげく、一部のメディアで「雅子妃バッシング」などの現象としてあらわれているのではないか。
何故、今回また金沢医務主管と羽毛田宮内庁長官が口をそろえて、天皇の「ご心痛」「ご憂慮」について
言及するという、異例の事態が生じたのか。
金沢・羽毛田会見に先んじて、昨年十一月二十日、四十三歳をむかえる秋篠宮文仁親王の誕生日会見が行われた。
この日、記者から寄せられた質問の中に、皇太子の参内問題に関するものがあった。そしてこの問題こそ、
ここ数年の天皇と皇太子の間の深い亀裂を象徴するものだったのである。
昨年の二月、羽毛田長官は、皇太子一家が天皇・皇后のもとへ参内する回数が増えていない、
と記者会見で苦言を呈し、世間を驚かせた。宮内庁長官が独断で皇太子を批判することは考えられない。
その背後に天皇の強い不満があることは明らかだ。
その容易ならぬ事態を踏まえ、誕生日会見で秋篠宮は以下のように答えている。あまり注目されてじはいないが、
重要な意味を持つと思われるので、この弟宮の会見をそのまま引用しておく。
「羽毛田長官が今年(2008年)のはじめに発言したことは、参内の回数ということも言っていましたけれども、
自分の発言したことを大切にしてほしいということ、それが一番の趣旨だったと私は理解しております。
そのことから言うと、私も小さいことも含めて、あまりこれは言いたくはないのですけれども、いろいろと頼まれて……」
そして、さらに言葉を継いで、
「安易に引き受けて、その後、間に合わなくて周りの人に迷惑をかけていることが、
多々あるわけではありませんけれども、ときとしてあります。そのような自分自身のことを考えますと、
自分が言った言葉を大切にするということは、私自身も心しておかなければいけないなというように思います。
それと参内についてということですけれども、私たちにとって参内ということは御所に行って、仕事の話ですとか、
研究の話もあります。そのほか様々な話をする場と考えております。そして私たちの子どもたちが
一緒に行っているときには、世代を超えた交流をする機会であるというように思っております。
そのような中でそれぞれが、必要なことについて話をして、その事柄についてみんなで意見交換を行ったり、
話合いをしたりする場所であり、そのような機会をこれからも大切にしていきたいと思っております」
ここには現在の皇室が抱える深刻な問題が集約的にあらわれているといっていい。
参内問題は、平成十八(2006)年十二月の誕生日会見で、天皇が皇太子一家の参内が少ないと
言及したことに端を発している。
この会見で秋篠宮は、参内について「必要なことについて話をして、その事柄についてみんなで意見交換をしたり、
話合いをしたりする場所」と述べているが、まさにそれこそが、天皇と皇太子との間に欠けているものだといっていい。
羽毛田発言を受けての昨年二月の誕生日会見でも、皇太子は「御所に参内する頻度についてもできる限り
心掛けてまいりたいと思っております。家族のプライベートな事柄ですので、これ以上立ち入ってお話しをするのは
差し控えたいと思います」と答えるばかりだった。
こうした皇太子の態度に、天皇は強い怒りを抱いているとも考えられる。
秋篠宮の誕生日会見には、天皇の意思が強く反映していた、とある宮内庁関係者は指摘する。
「いま秋篠宮は両陛下と最も近く意見を交わす存在。天皇は、秋篠宮に誕生日会見で参内問題について、
皇太子に対し踏み込んだ発言をして欲しい、と求めたといいます。しかし秋篠宮は、そこまで言うべきではない、として、
参内問題に言及はしたものの、羽毛田発言をなぞるにとどめた。
皇太子の参内問題への問いを、自分の失敗譚にうまくすり替えているところに、秋篠宮の配慮がうかがえます。
しかし、陛下はそれでは十分ではない、という強い危機感を持っており、それが、その後の金沢医務主管の
『ご心痛』発言や、羽毛田長官会見による皇太子の公務問題への言及につながっていったのでしょう」

■「公務軽減」をめぐって
こうして一連の経緯を見てくると、皇室内での秋篠宮の存在が大きくなっているといえる。
それが最もあらわれているのは、公務に関する問題だ。皇太子と秋篠宮の発言を比較しながら、検討していきたい。
「そもそも今回、天皇会見の中止に至る一連のプロセスは、天皇の公務などの軽減という一本のレールの上にある
と考えられます」と皇室に詳しい記者が語る。
「七十代半ばという陛下のご高齢を鑑み、宮内庁は一昨年三月にようやく公務軽減の方向性を打ち出しました。
宮中祭祀に関しても、新年の即位二十年の式典以降に調整を始めている。公務などを軽減するためには、
関係省庁などの納得を得る必要があります。医務主管の発言や長官会見などは、
そのために地ならしという意味もあったのではないか」
天皇の公務軽減について、いち早く言及したのは秋篠宮だった。平成十八年の誕生日会見で、
「(天皇・皇后両陛下のさまざまな務めに触れて)それらのお仕事を元気に務められていますし、それらの中には、
天皇という立場でないとできないものも数多く含まれていると私は感じます。しかし、やはり年齢的にいっても
それらの多くのお務めをされるのは非常に大変ではないかなということを感じた一年でした」と語った。
翌十九年には、「最近私が感じているのは、(略)私たちが、(略)陛下のお仕事の全体量を把握しているのかどうか」
と述べ、「私も少し調べてみようと思っていまして」と前置きして、十一月の前半の二週間を例に
天皇の公務の負担について具体的に説明した。
そして「もちろん年齢が上がるということは、負担を減らす必要が、もっとゆっくりしていただく時間を
増やす必要が、あるわけですけれども、そういうお仕事の全体の量というのを、これから私たちも把握していくように
努めていきたいと思っております」と踏み込んでいる。
それに対して、本来、天皇のつとめを継ぐ者として、この問題に最も意識的であっていいはずの皇太子は、
昨年(平成二十年)二月の誕生日会見で次のように発言している。
「陛下のご年齢を考えますと、陛下のお仕事の全体の量をよく把握しながら、ご公務の調整をしていくことは
大切なことと思います。私としては、陛下がもう少しお休みになれる機会をお作りし、ごゆっくりしていただくことを
周囲が考える必要があると思います。この辺のことは、周囲が、陛下とよくご相談しつつ、陛下のお気持ちに
沿う形で事を進めていくことが大切と考えます」
いかにも皇太子らしい優等生的な回答だが、具体的なことは何も言っていない。また、「周囲」という言葉には、
どこか他人事のようなニュアンスが含まれている。皇太子とすれば、「周囲」には
当然自らも入っているのかもしれないが、自らイニシアティブをとって、という積極性には乏しい。
また、皇太子自らの公務についても、「新しい公務のあり方」という問題提起を行いながら、
やはり具体的な形がいつまで経っても示されていない。会見全体をみても具体的なのは、
愛子内親王や雅子妃の様子など家族に関するくだりばかりで、皇太子が目指す皇室のあり方が
まるで国民に伝わってこないのだ。
皇太子の会見を見ていると、言葉は滑らかに出てくるが、それぞれ表現が均一で無機質な感を受ける。
内容も同様で、対話のとっかかりが摑めない、という印象が強い。
羽毛田長官は幾度も皇太子と膝詰め談判したと伝えられるが、もし、皇太子が会見のような語り口で、
「公式コメント」的な問答を繰り返すのであれば、徒労感が募るのではないか。
一方、秋篠宮は、昨年十一月には、公務の内容面にも言及した。
「(両陛下の)お仕事の数を減らしていくということは横並びの関係もありましょうし、
なかなか難しいところがあるのも事実だと思います。(略)昭和天皇が高齢になられてから、
それを当時の皇太子殿下やそれ以外の皇族が分担したということはあったでしょうか。
私はあまり無かったというように記憶しています。恐らく現在の陛下の場合にも、(略)
今の皇太子殿下や私たちに譲れるものは、もうかなりの部分譲られておりますので、
そのことからも分担ということを考えていくのは、なかなか難しいのかなというように感じております」
と昭和天皇の先例を引きながら、
「一つ一つの行事の内容といいますか、中身を変えていって、それでご負担軽減につなげていくことが
できるのではないかと思います。例えば、昭和天皇がご高齢になられてからもそういう形で宮殿の行事での
負担軽減が行われております」
と、両陛下の公務の数を減らさずに、負担を減らす方法を提言している。これは公務に対して誠実な
天皇・皇后の意向にも沿う、現実的な提言と言っていいだろう。こう見ていくと、秋篠宮は立場の違いはあるが、
皇太子と比較しても、いまの皇室にあって貴重なコミュニケーター役を果たしているともいえる。

■「傷ついた」の応酬
私が気がかりなのは、平成の皇室が、近年、メディアへの苛立ちを強めていることだ。
平成十九年、天皇の誕生日会見でも、自身の皇太子時代の海外訪問に触れたことが、
皇太子一家のオランダでの静養に対して苦言を呈したものと一方的に解釈した報道がなされたとして、
「このように私の意図とは全く違ったような解釈が行われるとなると、
この度の質問にこれ以上お答えしても、また私の意図と違ったように解釈される心配を払拭することができません。
したがってこの質問へのこれ以上の答えは控えたく思います」
と述べた。十二月の羽毛田会見でも、天皇・皇后が皇太子妃に不満を持っているといった報道を例に挙げ、
「妃殿下がご病気と診断されてこの方、両陛下からそのたぐいのお言葉をうかがったことは一度もありません」
と否定した。
そして、「『皇室そのものが妃殿下に対するストレスであり、ご病気の原因ではないか』
『妃殿下がやりがいのある公務をなされるようにすることがご快復の鍵である』といった論が
しばしばなされることに対し、皇室の伝統を受け継がれて、今日の時代の要請に応えて
一心に働き続けてこられた両陛下は深く傷つかれました」と、メディアへの批判を繰り返している。
天皇が誕生日会見を中止したのも、こうしたメディアへの不信が底流にある、とする論者もある。
東宮職医師団も十二月九日付で雅子妃の病状に関する見解を発表、
「取材活動あるいは報道内容が妃殿下にとって大きなご負担となっているのも現実です」と、報道批判を展開している。
たしかに、様々なメディアが発信する皇室情報の洪水を眺めていると、その暴走ぶりや歯止めのなさに
めまいを覚えることも時にはある。しかし、皇室側のこうした個々の報道への言及が、
かえってメディアの乱反射を生んでいるのも、否定できない事実だろう。
そもそも昨年二月と十二月の二度の羽毛田長官会見は、天皇家の家庭問題や健康問題といった、
いわば「オク」の領域の問題を、「オモテ」の存在のトップが公の場に持ち出したことになる。
一部メディアの報道に節度がないと批判するのは容易だが、それは、皇室から発信されるメッセージが、
公と私の境がはっきりせず、皇室がどこに進むのかという方向性に乏しいことの、
いわば歪んだ鏡像ではないか、という思いがつきまとう。
だからといって、一度は自ら、雅子妃の人格が否定されていると発言しながら、参内問題などに対して、
すべて「プライベートだからコメントしない」で押し通す皇太子の姿勢にも、疑問を感じずにはいられない。
そこからは何の展望もうかがえないからだ。
羽毛田長官会見の翌日、十二月十二日には野村一成東宮大夫が定例会見を開いた。
羽毛田長官の「『皇室そのものが妃殿下に対するストレス』などの論に両陛下は深く傷つかれました」という発言に、
「それは皇太子妃殿下ご自身が深く傷つかれている点」と述べた。しかし、こうした「傷ついた」の応酬のどこにも、
「国民に説明する」「国民のための皇室」という視点がないように思える。
東宮側は「傷ついた」ことばかりをアピールするが、公務を休んで愛子内親王の運動会を応援したり、
乗馬や高級レストランで食事をすることに対する、国民への納得のいく説明はなされていない。
この八方ふさがりの状況下にあって、比較的自分の言葉で説明しようとしている点でも、
結果として秋篠宮の存在感が増していると感じるのは私だけだろうか。
七十五歳を迎えた今上天皇の体調は芳しいとはいえない。皇后もまた、平成十九年三月には腸壁からの出血で
短期静養をとっている。天皇に万が一の事態が生じれば、皇太子が天皇となり、秋篠宮が皇位継承順位第一位、
悠仁親王が第二位となる。
悠仁親王が皇太子となるのは、父である秋篠宮が天皇になったときである。
近代皇室が経験したことのない皇統の移動が現実になるのだ。

■弟宮の宿命
私は、かつて昭和天皇の一歳違いの弟宮、秩父宮の評伝を書いた(『秩父宮 昭和天皇弟宮の生涯』中央文庫)。
そのときに痛感したのは、天皇家や宮中の官僚には帝王教育はあっても、弟宮のための教育はきわめて不十分で、
かくあるべしというモデルも存在しない、という事実だった。「兄宮を補佐する」という抽象的な役割は与えられているが、
具体的に兄である天皇が弟宮に公式に相談したり、意見を聞くシステムはなかった。
戦前、秩父宮、高松宮といった弟たちは、兄に何かあったときには天皇に即位しなければならないという
「皇統の控え」としての緊張状態を強いられつつ、同時に、軍人、皇族、そして一人の臣民という三つの顔を
持つように要求された。
秋篠宮の場合はどうなのだろうか。
美智子妃は、浩宮誕生にあたって次の歌を詠んだ。
 あづかれる宝にも似てあるときは吾子ながらかひな畏れつつ抱く
この歌は、天皇家の皇統を継ぐ長男とは、たとえ母であっても、抱くときに「畏れ」を感じるほどの特別な
存在であることを示している。皇室の持つ歴史の重み、この国の重みが伝わってくる。
その五年後、弟の礼宮(秋篠宮)が誕生したときには、美智子妃の母親としての思いが、より直接にうたわれている。
 生まれしより三日を過ぐししみどり児に瑞みづとして添ひきたるもの
 眦に柔かきもの添ひて来ぬ乳足らひぬれば深ぶかといねて
浩宮の養育係だった浜尾実は、著書『浩宮の人間教育』(婦人生活社)に、おさない兄弟の姿を次のように描いている。
幼稚園、初等科などでも、浩宮はなかなか友だちの集団に入っていかず、慎重に見守っている。しかしひとたび
中に入れば「やさしさと思いやり」で誰からも好かれる存在になる。逆に礼宮は、物おじするところがなく、
すぐに仲間に入っていって、誰とでも相撲をとったりという性格だったというのだ。浩宮は、幼年期に
「アーヤ(礼宮)は泣いてもいいんだよネ」との言葉を洩らした、と浜尾は証言しているが、これはきわめて早い時期から
浩宮が自分の宿命を感じ取っていたことをあらわしているのかもしれない。
秋篠宮は小さい頃から動物好きで、御所を羊にまたがって歩き回ったり、何種類もの両生類や爬虫類を飼って、
時々脱走騒動を引き起こしたりしていた。父・今上天皇の教えとして、秋篠宮が語った小学校低学年の頃のエピソードがある。
〈「冬、私がペットにしていたテンジクネズミを、私が池で泳ぐかと思って泳がしました。そうしたら
心臓マヒを起こして死んでしまいました。ちょうどその時に父が、そこを通りかかりました。『何をしているんだ』と。
『泳がしたら死んじゃった』と私が言ったのです。そうしたら次の瞬間、私は池の中にほうり込まれていました(笑う)」〉
(江森敬治『秋篠宮さま』毎日新聞社)
品行方正な兄、やんちゃで奔放な弟、というイメージはこのころから定着しつつあった。
皇太子の高校時代の担任であった小坂部元秀は『浩宮の感情教育』(飛鳥新社)で、
美智子妃との父兄面談について記している。
浩宮の作文が、喜怒哀楽の感情表現に乏しく、当人の気持ちが伝わってこない、という担任の指摘に、
〈美智子妃からは「(略)浩宮は長男ということで、私もいろいろと細かい点まで注意するようにしたため、
のびのびしたところが多少不足するようになったのかもしれません。兄と比べて礼宮は次男ということで、
逆にたづなをゆるめたようなところがあって、のびのびしずぎたようですけれど……」と、
頸をやや傾げながら慎重な言いまわしだった〉
現在、皇太子の会見から感じる平板さ、無機質な印象がすでにあらわれているとみることができる。
一方、礼宮はどんな高校生だったのか。当時の同級生がこう証言する。
「基本的に、宮様はすごくざっくばらんな性格なんです。リーダーシップもある。もっと正確に言えば、
最初はリーダーっぽくみんなを率いていって、軌道に乗ると、途中からみんなに任せるという感じ。
プロレスが好きで、当時、人気があったスタン・ハンセンの真似は大得意でした。教室でプロレスごっこをすると、
宮様は『ウィーッ!』と言いながら右手を挙げるんです。先生の真似もうまかった。口を曲げて怒ったりする先生がいて、
その真似をすると、みんなかなり盛り上がりました(笑)。
大学に入ると、宮様の家でみんなでお酒を飲んだりもしました。夜中の二時くらいに酔っぱらって、
宮様が友だちの家に『いまから来いよ』って電話をかけたり」
やんちゃというよりは、我々の周りでもよくみるようなありふれた若者像が浮かんでくる。
平成十七(2007)年、紀宮の結婚に際して、皇后は誕生日に際しての文書回答で次のような思い出を記している。
「浩宮(東宮)は優しく、よく励ましの言葉をかけてくれました。礼宮(秋篠宮)は、
繊細に心配りをしてくれる子どもでしたが、同時に私が真実を見誤ることのないよう、
心配して見張っていたらしい節もあります。年齢の割に若く見える、と浩宮が言ってくれた夜、
『本当は年相応だからね』と礼宮が真顔で訂正に来た時のおかしさを忘れません」
兄、弟それぞれの人となりを、鮮やかに描き出しているエピソードといえるだろう。
弟は五歳違いの兄をよく観察していた。こんな証言もある。
「まだ秋篠宮が十代のとき、浩宮がイギリスに留学すると聞いて、『イギリス?心配だなあ。兄は変わって
きちゃうんじゃないか。兄には五人くらい男の子を作ってもらわないと心配だ』と言っていたそうです。
その後、浩宮の結婚が遅れたことを考えると、いわば予言が当たったわけで、端倪すべからざる人間洞察です」
(宮内庁担当記者)
若き秋篠宮が皇統の運命を心配し、「弟宮」としてのプレッシャーを十分に感じていたことは間違いないようだ。

■「人格否定発言」で一変
「かつては、浩宮といえば『真面目で山登りやテニスを愛する好青年』、一方、
礼宮は『やんちゃで、サングラスに口髭、腕にはブレスレットをじゃらじゃらさせた遊び人』といった、
どちらかというと自由過ぎるイメージでした。そのイメージが一変したのが、皇太子の『人格否定発言』でした。
青年期から二人を見てきた皇室関係者は、こう認めている。
平成十六年(2004)年五月、皇太子は「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた
雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した。天皇・皇后は宮内庁を通じて、
具体的な説明を求めたが、皇太子は「今ここで細かいことを言うことは差し控えたいと思います」と
答えるにとどまった。以後、現在に至る四年あまり、事態はほとんど変わっていない、ともいえる。
このとき、秋篠宮は十一月の誕生日会見で、天皇とのコミュニケーションの重要性を強調し、
「少なくとも記者会見という場所において発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、
その上での話であるべきではなかったかと思っております。そこのところは私としては残念に思います」と述べた。
「このひと言で、『秋篠宮は大人になった、皇室の一員としての自覚が表に出てきた』と評価がぐっと上がりました。
加えて、翌年には妹の紀宮さまと黒田慶樹さんのご結婚をサポートし、さらに翌十八年には悠仁親王が
お生まれになった。
皇統継承という皇室最大の問題を解決したのですから、秋篠宮殿下の存在感は否応なしに大きくなった。
両陛下も、皇太子殿下との亀裂が大きくなるのと反比例するように、秋篠宮殿下をいっそう頼りにするように
なったのです」(前出・皇室関係者)
前侍従長でもある渡辺允・宮内庁侍従職御用掛は、
「私が宮内庁に来てから十三年ちょっとですが、明らかに秋篠宮殿下は大きく成長されました。若い頃に比べて
思慮深くなられたし、視野が広くなられた。そうなったのは苦労されたからでしょう。この苦労というのは
いろいろありますが、一つには内廷外皇族のお一人でありながら、天皇陛下の二男として、皇位継承順位第二位
としての世の中の期待に応えてこられたということがあります。具体的にいえば式典や行事などでの御負担は
どんどん重くなっているのですが、世間の人は必ずしもそれに気がついていません。陛下や皇太子殿下が
行事に出席されたら新聞に出ますが、秋篠宮殿下の場合、報道されないことも多い。それでも目の前の仕事を
ひとつひとつ務めてこられた」と語る。
ある宮内庁関係者は、秋篠宮の細やかな心配りを紹介してくれた。
「ふだん世話になっている宮務官や女官などを招いて、ねぎらう会があるのですが、秋篠宮殿下は、四十年前に辞めた
元女官まで声をかける。同窓会のようなもので、OB、OGたちは楽しみにしているそうです。
一方、東宮ではこうした話は聞いたことがありませんね。職員数も違うし、皇太子という立場もある、加えて
雅子妃のお体のこともありますから、むずかしいのでしょうが」

■「戦争」をどう継承するか
興味深いのは、近年の秋篠宮の活動をみていくと、天皇・皇后の志を継承しようとする姿勢が見て取れることだ。
その最大のテーマが「戦争である」
今上天皇は、皇太子時代から沖縄をはじめ、国の内外での慰霊の旅を続けている。近年では、平成十七年六月の
サイパン訪問がその代表的なケースだ。天皇・皇后の戦争犠牲者への黙禱に、私は深い感銘を受けた。
父・昭和天皇の時代の「戦争」に対し、今上天皇には、天皇家は追悼と慰霊をつづけていかなければならないという
強い使命感がある。そして天皇家の一員である以上、次世代にもこの思いを共有し、
継承してほしいという願いをもっている。
昨年八月十六日、秋篠宮は紀子妃殿下と眞子・佳子両内親王をともなって、東京・新宿で開催された
「学童疎開船メモリアルウィーク」を訪れた。
ここで展示されたのは、昭和十九年(1944)年八月二十二日にアメリカの潜水艦によって沈没させられた
学童疎開船「対馬丸」と、同じく九月二十五日に沈められた「武州丸」に関する写真パネルや、対馬丸に乗っていた
姉妹の遺品であるランドセルなどである。
展示会の主催者である山本和昭氏は、沖縄と本土の小中学生が交流する「全国豆記者交歓会」の代表世話人で、
昭和三十八年から天皇・皇后に拝謁してきた。
「両陛下、皇太子家、秋篠宮家のお三方に声をおかけしました。両陛下、皇太子殿下もぎりぎりまで日程を検討して
くださいましたが、直前になって秋篠宮殿下ご一家がお越しになるとの連絡がありました。両陛下は、皇太子時代から
対馬丸が沈んだ八月二十二日にはお子様方と黙禱をなさっています。そのため、殿下も五、六歳のころから
対馬丸についてはご存じで、ご自分と同じように、お子様にお伝えしたいという気持ちがおありだったと思います」
展示会で説明役を務めた対馬丸記念会の高良政勝氏によると、
「秋篠宮殿下は対馬丸の遺品展示を見ながら、眞子さま、佳子さまに一生懸命に話しかけておられました。
ちょうと遺品のランドセルが置いてあるところがあって、『こっちへ来て、見てごらん』と声をかけたりして、
詳しく説明されていました。展示を見ながら、紀子さまや、眞子さま、佳子さまは目をうるませていらっしゃった
ようです」
また当日は、沖縄学の第一人者、外間守善法政大名誉教授が出席していた。紀子妃は学習院大時代、
外間教授のゼミに特に志願して加わったこともあり、再会を喜んだという。
「外間先生の妹さんは対馬丸の犠牲者なので、紀子妃には格別の思いがあったのではないでしょうか」(高良氏)
また、平成十七年には、眞子内親王が、皇居の案内で那須の御用邸近くにある、満蒙からの引揚者が
戦後に作った開拓地を訪ねてもいる。
「満蒙開拓の引揚者が戦後那須の原野を開いて作った千振開拓地を訪ねた時には、ちょうど那須御用邸に
秋篠宮と長女の眞子も来ており、戦中戦後のことに少しでも触れてほしく、同道いたしました。眞子は、
中学二年生で、まだ少し早いかと思いましたが、これ以前に母方の祖母で、自身、幼時に引揚げを経験した
川嶋和代さんから、藤原ていさんの『流れる星は生きている』を頂いて読んでいたことを知り、誘いました」
(平成十七年、皇后の誕生日に際しての文書回答)
同年、皇太子夫妻は八月十五日に静養中の那須でテニスや花火を楽しんだことが報じられ、
さまざまな波紋を呼んだ。
この日はもちろん終戦の日であり、今上天皇が皇太子時代に挙げた「どうしても記憶しておかなくてはならない
四つの日」のひとつでもあった。「四つの日」とは広島の原爆の日(八月六日)、長崎の原爆の日(八月九日)
終戦の日、沖縄戦が終結した日(六月二十三日)で、毎年、必ず犠牲者の冥福を祈り、平和を守る決意を込めて
ご一家で黙禱をしている、と語ったのである。
秋篠宮と二十年以上の交流があり、海外調査などにも数多く同行している赤木功氏(東京外国語大学特任教授
・大阪外国語大学名誉教授)は、
「この四つの日には、殿下はたとえ海外にいても必ず黙禱を行っています。一昨年、殿下と眞子さんが一緒に
マダガスカルに行かれたのも八月でした。このことでは同行している私も、いつも頭が下がる思いがする」
と証言する。決して目立つようにではなく、たとえ一人であろうと静かに黙禱する姿からは、父の教えを
忠実に守ろうとしていることが伝わってくる。
平成十六年、皇太子の四十四歳の誕生日会見で、戦争と関連した質問がなされた。昭和天皇が終戦の御前会議を
開いたのが四十四歳だったが、皇太子自身が同じ年齢になったことについての感慨を、と問われたのである。
それに対する皇太子の答えは、
「昭和天皇は本当にいろいろご苦労もおありだったと思いますし、本当にその激動の時代を生きられたと
思います。(略)その当時の世界の情勢、そして日本の情勢というものを考えてみますと、今私が置かれている
状況とは本当に比べものにならない、ある意味で今そういう時代でないということが一つ幸せなことであるわけ
ですけれども、そういう意味で本当に昭和天皇がご苦労されたということを私もよく見にしみて感じますし、
今改めてこの四十四歳でそういうことをなさっておられたという事実にやはり深い感慨を覚えます」
というものだった。あたりさわりのない言葉だが、私には皇太子の言からは明治−大正−昭和−平成という
時間の流れに自らも連なるという感覚が伝わってこないように思える。
皇室の伝統の継承とは、同時に、皇室の歴史、日本の歴史に思いをはせることでもある。
秋篠宮には幾つかの肩書があるが、その一つが「御寺泉涌寺を護る会総裁」だ。京都にある泉涌寺には、
四条天皇をはじめ歴代天皇十六人の陵墓がある。泉涌寺の寺務長で「護る会」事務局長の藤田浩哉氏によると、
三笠宮のあとを受けて、秋篠宮が総裁に就任したのは平成八年だった。
「皇族の方は節目、節目に四代帝、孝明天皇、明治天皇、大正天皇、そして昭和天皇への報告義務があるのです。
泉涌寺には孝明天皇の陵墓がありますから、成人、即位、結婚や、学校を入学したり卒業したときは、報告に
お見えになります。数年前には秋篠宮ご夫妻とともに、眞子さま、佳子さまもご報告にお見えになりました。
このとき殿下はお二人をご案内されていました。御座所の庭には普段、管理の都合上、立ち入り禁止の札が
立っています。うっかりそのままにしていた立て札を、殿下は茶目っ気たっぷりにパタンと倒してお庭へ降りて
陵墓へ向かって眞子さま、佳子さまに熱心にご説明されておりました。総会に来られたときも、
殿下は陵墓を見ながら、長い時間、ずっとたたずんでおられます。そんなときは私たちにも近づけない
雰囲気が漂っています」
皇室の歴史との対話と言えば、皇太子は天皇・皇后とともに歴代天皇の式年祭の儀を執り行う。昨年でいえば、
花山天皇、孝昭天皇、後二条天皇の式年祭が行われたが、この祭祀の前に、それぞれの天皇の事蹟について
ご進講がなされるのだ。平成十九年からは雅子妃も欠かさず陪席している。
皇太子、弟宮はそれぞれ天皇家の歴史とどのように付き合い、どのような対話を行っているのだろうか。

■学問と王の孤独
皇室のもうひとつの伝統として、文化、学問への取り組みがある。昭和天皇の海洋生物、今上天皇のハゼと、
天皇家では、「生き物」に対する関心が強い。
「ナマズの殿下」の愛称で知られる秋篠宮だが、現在の主な研究課題は、家禽の起源、すなわちニワトリが
いつから野生から人間と共生するようになったかというルーツを探っているのだという。この研究により、
平成八年には、国立総合研究大学院大学から理学博士号が授与された。
「国立総合研究大学院大学の論文審査は非常に厳しく、レベルが高い。宮様だから、ということではなく、
研究者としての実力を評価されたわけです」(生物学研究者)
秋篠宮は平成二十年十月から東京農業大学の客員教授に就任、大学院の学生相手に教鞭も取っている。
秋篠宮にナマズの研究を指導し、共同研究も発表している多紀保彦・自然環境研究センター理事長は、
「学会やシンポジウムなどでも、視野は広いし、アイデアも豊富。殿下のリーダーシップに負うところは
非常に大きい」と語る。
前出の赤木功・大阪外大元学長は昭和六十年(1985)年に秋篠宮が学友とともにタイを訪れたとき、
大使館から案内役を任じられた。
「最初に出会った頃は、ごく普通の大学生と言う印象でした。それが、結婚されて、父となってという、
この十五年ほどで非常に大きく成長された。そこには、研究者として自立できるだけの能力を備えた、
ということが大変にプラスに働いていると思います。責任ある仕事もこなし、自信もついて、地に足の着いた
バランスのいい判断ができるようになった」
赤木氏が指摘するように、秋篠宮が学問の世界に、皇室以外にも自らの居場所を築いたことの意味は大きい、
と私も考える。
昭和天皇は対米開戦の直前、昭和十六年の十一月に連日のように相模湾に出て自ら海洋生物を採集し、
開戦後も日光田母沢御用邸で粘菌採集にいそしんだ。今上天皇も時間の許す限り魚類分類研究会に出席、
平成十九年五月に、ハゼの分類学者としてロンドンのリンネ協会で講演を行っている。
立場上、孤独であることを強いられる天皇にとって、学問の世界は知的な興味の追求にとどまらず、
深いところで孤独への慰めであり救いになっていたのではないだろうか。その点、皇太子にそうした場所が
見当たらないことが気にかかる。登山やマラソン(赤坂御用地の中を一カ月に百キロ以上も走ったと自ら
会見で述べている)では孤独は深まるばかりだろう。もっともそうした孤独を愛する、孤独に強くなることが、
皇太子の性格ともいうべきかもしれない。あるいは、皇太子は自らの天皇像をその点に求めているとも
考えられる。
秋篠宮の主な研究フィールドのひとつがタイである。巨大ナマズの研究に始まり、現在では才媛で名高い
タイのシリトン王女とともに、共同研究のプロジェクト・リーダーをつとめてもいる。
かつて秋篠宮は一部の週刊誌に「タイに愛人がいる」と報じられたことがある。当時、タイへの研究に
同行していた前出の多紀氏は、
「全くの事実無根ですよ。だいたい報道された女性は、タイの水産局につとめていた私の教え子です」
と一笑にふした。
そのパノム・ソスクさんに、秋篠宮の思い出を聞いた。
「当時、秋篠宮殿下はまだ二十代、真面目でおとなしく、魚類に興味を持ち始めた学生のようでした。
私は道具を揃えたり、アシスタントとして彼の研究を手伝いました。
研究所での殿下は、本当に若い普通の男性という印象でした。休憩時間にはコーヒーを飲んだり
たばこを吸ったりしてリラックスし、日本語でジョークを言っては多紀先生など周りの方々を
笑わせていました。私は日本語がわからないので、内容まではわかりませんでしたが。
次にお会いしたのはイギリスでした。私がスコットランドに留学していた時、殿下もオックスフォードに
留学中でした。富士(亮)侍従から電話があり、夫と一緒にお会いしました。
今でも毎年、新年に家族の写真入りのカードを送ってくださいます」
タイに訪問するたびに秋篠宮が必ず訪ねるのは、プミポン国王である。1946年に兄の急死で即位した
プミポン国王は、卓越した政治手腕を発揮して幾度もタイの危機を救い、いまなお国民に絶大な人気を
誇っている。
「日程では拝謁の時間が、十分とか十五分となっているのですが、殿下はなかなか戻ってこない。
タイ王室の担当者に様子を尋ねると、『国王が人払いをして、殿下と二人だけでお話をしているので
わかりません』というのです。こんなことはきわめて異例だと。一時間以上になることもあります」
(前出・赤木氏)

■「天皇」の父として
昭和八年、昭和天皇と香淳皇后の間に皇太子(現天皇)が誕生し、秩父宮、高松宮ら弟宮は、自分が天皇に
ならなければならない、という緊張感から解放された。三男にあたる高松宮は、この日の日記(『高松宮日記』
昭和八年十二月二十三日)に、〈まことに私も重荷のおりた様なうれしさを、考へて見ればおかしな話ながら
感じてやまず〉と記している。さらにこの日は和歌を四首詠んでいるが、そこには、
 おのつから 涙わきけり うれしさは 日つきの御子のうまれましたる
とあった。
現在、秋篠宮は依然として皇位継承順位第二位の存在である。秩父宮、高松宮と決定的に違うのは、
兄である皇太子に男子がいないことだ。皇太子が即位すれば、次の天皇候補として備えなければならない。
と同時に、その下の世代で唯一、皇位継承権を有する悠仁親王の父親でもある。悠仁親王は、近代皇室で
はじめて皇太子を父に持たない天皇ということになる。
皇太子家(東宮)と秋篠宮家では、制度の上でも予算などでも待遇が大きく異なる。天皇・皇后と東宮の
私的費用は「内廷費」と呼ばれ、年額三億二千四百万円。その他の皇族は約二億八千万円の「皇族費」で
まかなわなくてはならない。
職員数も東宮が五十一人に対して、秋篠宮家は十五人とかなり開きがある。
「現在、秋篠宮家には悠仁様さまに三人つける形で人員を増やしていますが、秋篠宮家は宮家のなかで
飛びぬけて活動量が多い。それを事務官二人で回すのは無理だと思います。
一方、東宮は愛子さまに養育係が三、四人もついている。これは浩宮、礼宮、紀宮のご兄妹のときよりも
多い。また学習院の幼稚園の先生を養育係にした。いわば先生を使用人にしてしまったのです。
また小学校に上がった今でも、幼稚園教育のエキスパートがそのままついている。これも変則的です。
秋篠宮家には養育係などいません。紀子妃がGパンで悠仁さまを追っかけまわしています」(宮内庁関係者)
天皇の公務軽減が課題となっているが、他の宮家も高齢化が進み、秋篠宮にその負担がのしかかってくる
ことになる。はたして、現状の制度や待遇のままでそれがこなしていけるのかも、今後の重要な課題と
なるだろう。
昨年の誕生日会見で、「帝王学」といいう言葉とともに悠仁親王の今後の教育方針について記者から
尋ねられた秋篠宮は、「これからしばらくすれば幼稚園に行って、それから小学校、だんだん上の学校に
行くわけですけれども、そのような中できちんとした社会生活をできるようになってくれればと思います。
またそれと同時に皇族としての自分の立場も追々自覚し、(略)持ってもらうようになったらと思って
おります」と答えている。
加えて自分が天皇・皇后に学んだことを子どもたちに伝えていこうとしているのではないか、と指摘するのは
皇室ジャーナリストの松崎敏弥氏だ。
「悠仁さまを連れて、頻繁に御所にうかがっているのも、おそらくは将来天皇になると思われる親王に、
直接陛下から天皇としての姿勢という教えを継がせたいというお考えではないでしょうか」
また、秋篠宮自身の公務などからも、天皇・皇后にならうという姿勢が強く感じられる、
と指摘する向きもある。
「たとえば昨年九月には、警察庁刑事局長からのご進講がありました。天皇の場合、警察庁長官が治安問題
などについてご進講することもありますが、秋篠宮に、というのは異例のことです。また七月には
岩手・宮城の地震の被災者のお見舞いに行っている。これは皇位継承順位第二位であり、将来の天皇の父
という秋篠宮の自覚と意欲のあらわれではないでしょうか」(皇室担当記者)
ほかに、平成十九年〜二十年で秋篠宮が受けたご進講から、目立ったところを挙げてみると、財務省主計局長
総務省自治行政局長、厚生労働省雇用均等・児童家庭局長、文部科学省初等中等教育局長・高等教育局長、
農林水産省農村振興局長、資源エネルギー庁長官などといった要職が並んでいる。
平成十九年に紀子妃が動物の絵本『ちきゅうの なかまたち』を翻訳したのも、「万事、皇后をお手本に
している紀子妃らしい」(宮内庁担当記者)と評する声も聞かれる。担当編集者によると、
紀子妃のアイデアで、原本にない地域の説明を入れて分かりやすくしたり、表紙の色を日本の伝統色にするなど
熱心に取り組んだという。
昨年十二月の会見で、羽毛田長官は天皇の「ご憂慮」の筆頭として、「ここ何年かにわたり、ご自身のお立場
から常にお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題」を挙げた
この皇室最大の問題について、渡辺前侍従長は次のように天皇の心中を推測する。
「皇統に関して、その時々で形こそ変わりますが、この十数年間、陛下はずっとわれわれの想像を絶するほどに
悩んでこられました。愛子内親王が生まれられるまでは、次の次の世代の継承者がおられないという
悩みがありました。そして愛子さまがお生まれになりましたが、現在の皇室典範では、やはり継承者不在の
状況は変わらなかった。そこで小泉内閣が典範の改正を検討すると、非常に強い反対が出て、国内で議論が
激しく分かれてしまったのです。国民統合の象徴である陛下にとってみれば、皇室をめぐり、国論が激しく
分かれることは深いご心痛のもととなりました。そこへ悠仁親王がお生まれになった。大変結構なことでしたが
悠仁さまの代になると、皇族が他にいなくなってしまうという問題が依然として残っているのです。
秋篠宮家の眞子さま、佳子さま、そして愛子さま、あと三笠宮家の女王さまなど、いまの法律では結婚されると
皇室を離れてしまう。とても陛下が皇統の将来に安心なされる状況にはなっていないのです」
この天皇のご心痛は、秋篠宮も共有するところであろう。十二月二十三日、誕生日の会見に替わって
文書で発表された「ご感想」のなかで、天皇は、「私も、皇后も、将来重い立場に立つ皇太子、皇太子妃の
健康を願いつつ、二人の力になっていきたいと願っています」とつづり、二人の「重い」立場を強調した。
冒頭でもみてきたように、現在、天皇・皇后と皇太子・雅子妃の間には、深刻なコミュニケーション不全が
あり、もはや隠しようもない状態にまで立ち至っている。そのなかで、二男である秋篠宮の役割はますます
重要なものになっている。
私には、天皇・皇后が皇太子・雅子妃に求めていることは、まさに秋篠宮が実践しているような
コミュニケーションの回路を開くことではないか、と思われる。なによりもまず、皇太子は雅子妃が病気の
ため難しいというなら、愛子内親王だけでもいいから、その手を引きながら、天皇・皇后のもとを
訪れるべきではないだろうか。そうしなければ、誤解・曲解がメディアの力も借りて急速に肥大し、
手がつけられないものになってしまう危険性がある。秋篠宮の近年の言動はそれを防止するために、
兄宮にメッセージを発していると、私には思える。
ある意味で、秋篠宮の緊張と使命の重みは、秩父宮、高松宮を上回るものがあるといえるだろう。何故なら
先に述べたように、秋篠宮には天皇となる可能性があり、息子である悠仁親王を次代の天皇として
育てなければならないという重大な役割を担っているからである。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

週刊新潮2009年1月29日号
皇太子を追い詰める「秋篠宮天皇」の記事の仕掛け人
「天皇陛下の御心の内を代弁する金澤さん(皇室医務主管)や渡辺さん(前侍従長)の
シンパは、宮内庁詰めのベテラン記者の中にもいる。
その方は、誕生日の会見で皇太子が雅子さまや愛子さまのことばかり語られることに
“これで次の天皇として大丈夫だろうか”とハッキリ疑問を投げかけるなどしている」
宮内庁の最高幹部から果てはベテラン記者までもが「皇太子批判派」であるという現実。
「両陛下の側近たちが”秋篠宮天皇”記事の仕掛人としてその背後に控え、
皇太子を追い詰める役割を演じたとしても決して不思議ではない」として、
仕掛人が誰かについて断定はしていない。
ただし、仕掛人として名指しされた人物に質した内容として、皇室の医務に携わる、さる幹部は、
「(月刊文藝春秋の)紙面では一切コメントしていないでしょう。全然関係などありませんよ」
と関わりを否定しながらも、皇太子に対する厳しい意見が展開されていることについては
「当然のことでしょう」と言い切った。
別の宮内庁幹部の反応は、「私が何かアドバイスしたとか、そんな事実はない」としながらも
「タイトルを見て、読者にしてみると刺激的かもしれない。
けれど、皇位継承順位から言ってあり得ること、ある意味、間違っているわけではない」
と、タイトルや内容について肯定的な立場であることを隠さなかった。
八木秀次氏
「廃太子や秋篠宮様への譲位について言及することを期待していたのに残念。もっと踏み込んでもよかった」
東宮の反応は
「千代田から赤坂に向けられる厳しい言葉に、雅子さまは敏感で、すべて自分に向けられたものだとお考えになり、
反論はできない立場だと思い悩んでしまわれる。人格否定発言以来、雅子さまは皇太子の“積極的な発言”を
お望みではない様子。皇太子は常に雅子さまを尊重なさるので、ご夫婦ともにあえて
“貝になる”道を選択されるのでは?」(東宮関係者)
また、皇室ジャーナリストの松崎氏は
「皇太子は、これまで宮内庁幹部の会見で自らへの厳しい意見が述べられても、何も反応を示さなかった。
今回も、“ここまで容赦ない視線を向けられているのか”と危機感は抱かれるだろうが、
あくまで沈黙を保たれるのではないか」とし、その結果、東宮の孤立化が進み、皇
居との断絶が決定的になってしまう可能性があると危惧した上で、「孤立感を深めた皇太子が
“雅子さまのために”と皇籍からの離脱を望まれたらどうするのか(それには皇室典範の改正が必要)。
もし離脱という話になれば、それこそ民間の女性と結ばれるために王位を捨てたエリザベス女王の伯父、
故エドワード8世の”王冠を捨てた恋”と同じことになる」。



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


泉涌寺について

御寺泉涌寺を護る会
御寺泉涌寺は、皇室の御菩提寺として皇室より特別の尊崇と御帰依をいただき、
従って寺内諸堂・諸建造物の営繕修理は全て宮内庁において実施され、
日常の経費も御尊牌奉護料として下賜されておりました。
ところが昭和二十年の終戦、新憲法の施行に伴い宮内庁が泉涌寺に国費を支出することが出来なくなりました。
それ以来、泉涌寺自体で全てを護持することになりましたが、何分由緒ある御寺でありますために、
尊厳を保持しながらの護持は非常に困難な様子に見受けられ、茲に志を同じくする者が結集して、
昭和四十一年五月、三笠宮崇仁親王殿下を初代総裁として、「御寺泉涌寺を護る会」が設立されました。
御寺泉涌寺の護持を致すと共に、佛教を厚く信仰されました御歴代天皇の和と慈悲の大御心を広く宣揚し、
世界平和・万民豊楽のために活動いたしております。
平成八年十月、創立三十周年の記念すべき節目に、秋篠宮文仁親王殿下を第二代総裁に仰ぎ、
新たな出発をいたしております。

皇室菩提寺 御寺泉涌寺を護る会
http://aoaaoba.co.jp/president/koushitsubodaiji