平成皇室二十年の光と影1

諸君!2008年7月号
平成皇室二十年の光と影
われらの天皇家、かくあれかし(一部抜粋)

■一体性の快復とご親善外交 五百旗頭真(防衛大学校校長)
…現天皇は「国民統合の象徴」としての天皇制を、もの心ついた若き日々に受容した最初の天皇であろう。
戦争の惨禍を消し去ることのできない原体験とした当時の皇太子は、この悲惨の克服を、心中深く
課題とするに至った。「戦後、日光の疎開先から東京に戻って、私が目にした光景」を、
天皇は50年後にも語る。おびただしい犠牲者と塗炭の苦しみを負った国民をいたわり、
国民的一体性を回復することが、平成の天皇の変わらぬテーマである。
広島、長崎、沖縄、東京大空襲の悲惨から天皇は目をそらさない。
あるべき国民共同体から弾き出され、踏みにじられがちな人々に、天皇と皇后はなぐさめと励ましを繰り返す。
障害者、病臥する人への慰問とともに、そこから立ち上がった障害者オリンピックの応援を欠かすことなく続ける。
突如、悲惨に突き落とされた被災地への旅は、天皇・皇后の国民的一体性回復を祈る巡礼である。
神戸の震災地の避難所で膝をつき、被災者と同じ目線になって手をとりいたわる姿は、「国民統合の象徴」たる
天皇を可視的に示すものである。天皇は人々と苦楽を分け持とうと心を砕きつつ、行政と違って皇室は
「より精神的な支援としての献身が求められている」と、天皇即位十周年の記者会見において
皇后は解説している。…

■戦中派への慈しみのお言葉 伊藤桂一(作家)
…平成19年の2月9日、戦中時代や戦記のことをお聞きいただけることになって、皇居に招かれ、
天皇皇后両陛下に、私の思うところを、あれこれと申し上げた。夕刻の短い時間であったが、
戦中時代を背負っている気持ちとしては、この上なく有益の時間をお恵みいただけることになった。
私はこの時、戦中世代の生き方や死に方の、潔さや心意気を、思いをこめてお話し申し上げた。
両陛下は私の話し終えたあと、サイパンで、軍人及び軍人とともに散華した民間人の霊に対して、
祈りをこめて海に花束を投げられたことをお話しくださった。
「花束には、海鳥がたくさんに寄ってきて、花束の上に群れて、花束はいつまでも沈まず、
わたしたちもそのさまをみまもりつづけたのです」
と、両陛下は、こもごもにお話しくださった。お言葉の終りに、「魂の呼び合いがあったのですね」といわれ、
人々へのこの上ないご仁慈のお言葉と思い、私もひそかに感涙に耐えなかった。
本来、国家と皇室の尊厳を保持することは、人々それぞれの責務であり、重要な命題である。戦後、日本人で
ありながら日本人を軽視し、日本国そのものを侮る風潮が、かなり続いてきた。この風潮はいまもある。
私たちはこれから育っていく青少年たちの中で目覚めてゆく、民族それ自体の伝統につながる“智恵”そのものに
期待を置くしかないのかもしれない。

■「平成流」逆風の中の船出 江森敬治(毎日新聞社編集委員)
…両陛下は分刻みの慌しい日程の中にあっても、その時々の国民との触れ合いを最優先されたのだった。
遠くから仰ぎ見られるのではなく、身近にあって親しまれる新しい皇室像を両陛下は築かれつつあった。
それを国民も熱烈に歓迎し、支持したのだった。
こうした「平成流」がすんなりと受け入れられたかというと、そうでもなかった。激動の「昭和」を生き抜かれた
昭和天皇を敬慕するあまり、両陛下のやり方に馴染まない宮内庁職員らも少なからず存在していた。
皇太子ご夫妻が結婚された平成5年の秋ごろから、一部メディアで皇室批判報道が目立ち始めた。
両陛下のご公務や私生活のあり方を昭和天皇の時代と比較する形で「快楽主義的」などとして批判する
内容だった。この年の10月20日午前、59歳の誕生日を迎えられた皇后さまは、東京港区の赤坂御所で突然、
倒れられた。当時、私は宮内庁にある記者クラブにいた。夕刊の締め切りに時間直前に「皇后さま倒れる」の
一報が伝えられた。記者たちは総立ちとなり、本社への緊急連絡に追われるなど記者クラブは騒然となったことを
思い出す。その後、数カ月間、皇后さまは話せない状態が続いたのだった。この事態にショックを受けた
宮内庁関係者は次のように話していた。
「宮内庁のやっていることは両陛下の行動を通して国民に具体的に理解されます。
職員たちは両陛下への好き嫌いで仕事をしてはいけません。これまで、ともすれば
惰性になりがちだったことを変えようと両陛下は一生懸命に頑張っていらっしゃいます。
お二人をもっと守り立て、協力してほしい」
…皇后さまは講演で、
「生まれて以来、人は自分と周囲との間に、一つ一つ橋をかけ、人とも、物ともつながりを深め、
それを自分の世界として生きています。この橋がかからなかったり、かけても橋としての機能を
果たさなかったり、時として橋をかける意志を失った時、人は孤立し、平和を失います」
と述べられたことがある。私はお二人のご即位後の歩みというのは国民と皇室とをつなぐ橋を丁寧に
架ける日々ではなかったのかと思うことがある。橋はけして一方通行ではなく、両者が出会ったり、
双方向から交流を深めあう場所でもあるのだ。…

■御為倒し(おためごかし)、慎むべし 遠藤浩一(拓殖大学教授)
…先帝陛下の御代は、皇統を断絶し日本国を解体しようと目論む「敵」の姿が、朧気ながらにみえてゐた。
敵が繰り出してくる反日攻撃を日本は辛うじて躱してきた。しかし平成になると、欧州における共産主義敗北に
幻惑されたか、東アジアでも「敵」の姿が見えにくくなった。国内において「反日」を企図する勢力は
地下深く潜行するやうになり、気がついたら「保守」と呼ばれる党派にまで浸透してゐる。
仮に、平成の皇室について憂慮すべき問題があるとするならば、それは、この地政学的、政治的、思想的環境の
変化と無縁ではないと思はれる。かうした環境の変化に付け入る形で、平成版「開かれた皇室」論が
悪臭を放つているのである。昨今、東宮周辺であれこれ取り沙汰される問題も、また、そのことを受けて、
最近一部で議論されるやうになつた宮中祭祀廃止論も、「開かれた皇室」論の影響もしくは変奏といつていい。
これが悪質なのは、その目的あるいは結末が明らかに皇室解体に向かつてゐるにもかかはらず、表だつては
敵対的姿勢を取らず、さも皇室の将来を慮るやうな口調で展開される点にある。
…昭和天皇の御代にも「開かれた皇室」論は折節に鎌首をもたげたが、先帝は泰然と祭祀を励行された。
今上陛下も、祭祀こそが最も重要なお務めであることを、身を以て示してをられる。なぜなら、それは国家と
国民の安寧慶福のための祈りにほかならないからである。
天皇皇族の無私の思ひは、その御製御歌にも、端的に表れてゐる。そこで歌はれるのは国家の安寧と
国民の慶福であつて、自らの幸福ではない。その伝統を、今上両陛下は支へてをられる。
この上、われわれ民草に言ふべき言葉は見当たらないが、何かもの申すことがあるとするならば、皇室伝統の本義を
ご継承いただくためには何が必要かといふ議論でしかあるまい。本質を歪めるやうな御為倒しは、厳に慎むべきである。

■御遺徳に思いをいたして 大原康男 (國學院大學教授)
…このように波乱に満ち満ちた時代を経験された先帝とは大きく異なった境遇にあられながらも、陛下の
昭和天皇に対するお気持ちにはまことに深大なものがあり、とりわけ、即位後朝見の儀のお言葉の中で、
「大行(たいこう)天皇(昭和天皇)の御遺徳に深く思いをいたし、いかなるときも国民とともにあることを
念願とされた御心を心としつつ」とお述べになったことに深い感銘を覚えた記憶は今も鮮やかに残っている。
ここには寸毫も「変化」はない、と。
このところに最も重要なメッセージがこめられているにもかかわらず、マスメディアは該部分をごく軽く扱い、
むしろ「日本国憲法を守り、これに従って」という別の一節をことさら取り上げ、はなはだしきに至っては
陛下をあたかも“護憲の旗手”に祭り上げようとする手合いまで現れた。だが、「憲法ノ条章ニ由り之カ
行使ヲ愆(あやま)ルコト無ク」(大正天皇)や、「丕顕(ひけん)ナル皇祖考(祖父である明治天皇のこと)ノ
遺訓ヲ明徴ニシ」(昭和天皇)という朝見の儀の勅語を顧みれば、憲法遵守への言及が歴代の天皇に
共通していることは明白であって、別段珍しいことでも何でもないのだ。為にする議論というほかない。
平成は昭和と比較して一般に「守成の時代」と評されてきた。それが当を得ているか否かはともあれ、
今上陛下にとってのお務めの基調は、先帝の示された天皇としての道を継承し発展させることに尽きていると
拝察する。何よりも注目すべきなのは、昭和天皇が始められたお田植えを新たに播種の段階までさかのぼって
受け継がれたことや、昭和天皇の最晩年にご高齢を配慮して吹上御苑で斎行されていた元旦の四方拝を
宮中三殿の一角にある神嘉殿(しんかでん)南庭で行うよう旧に復されたこと、さらに、あのご多忙な中で
大嘗祭の修礼(しゅうらい)(儀式の予行演習)を六回も重ねられたこと等々、祭祀を中核とする皇室の伝統を
格別重視されるご姿勢である。それこそが「御遺徳に深く思いをいたし」ということではないのか。…

■焦らずに新たなスタイルを 岡田直樹(参議院議員)
…ただ、今日の皇室に対する過剰な報道や無責任な論評は常軌を逸しているようにも思う。国民と共に歩む
「開かれた皇室」をめざした両陛下は、ある種の「パンドラの箱」も開けてしまったのか。
とりわけ、最近、目に余るのは体調を崩した皇太子妃に追い打ちをかけるかのような報道だ。私事で恐れ入るが、
学生時代、小和田雅子さんと一年間、机を並べたことがある。小和田さんは難関の外交官試験を一度で突破した
知性に加え、並外れて強靭な体力、精神力の持ち主に見えた。いま思えば冷や汗が出るような質問をしたこともある。
「世界を駆ける外交官で、ずっと独身を通すんですか?」
決然とした答えがあるかと思ったが、違った。
「仕事は続けたいけれど、やっぱり夫や子供の支えがないとダメかもしれない。私、わりと寂しがり屋だから…」
バリバリのキャリアウーマンという外見とは裏腹に、内面はごく繊細で優しい女性と感じた瞬間だった。
のちに皇太子殿下が「雅子さんのことは僕が一生、全力でお守りしますから」と誓ったことを伺い、私は
かつての雅子さんの言葉と思い合わせ、その幸せを心から祈ったものである。
だが、皇太子妃としての日々が必ずしも平穏無事でなかったことは周知の通りだ。早期の懐妊を待望されながら、
容易にかなわなかった重圧は察するに余りある。私の郷里の石川県を訪問した皇太子ご夫妻とお目にかかり、
たまたま妊娠中の家内を祝福していただいたこともあるが、まだその兆しのない妃殿下に恐縮しきりであった。…

■官僚の群れのなかの孤独 奥野修司 (ジャーナリスト)
…戦後の民主化を象徴したはずの「開かれた皇室」が、急速に「閉ざされた皇室」に変質しはじめたことだ。
記者会見で天皇や皇太子のお言葉を聞けるのは今も昔も同じだが、美智子妃の時代には、そのほかにご夫妻の
お気持ちを代弁する人たちがたくさんいた。だから、お言葉が少なくても、なんとなく東宮の空気を忖度できたものだ。
ところが今は、皇太子ご夫妻のお気持ちを知ろうにも、語る人がいない。たとえそういう人物を探し出しても、
どんな「ご遠慮」があるのか、口を閉ざしてしまう。これは公的に接している方(侍従などの職員)も同じだ。
実際、二週間近く駆け回って、一人も取材に応じてもらえなかったこともあった。どうしてこんなに言葉が
少なくなってしまったのだろう。
数年前、ある元女官に会ったときだ。
「私がしゃべったことがわかったら、どんな仕打ちがあることやら…」
肩をすくめて、申し訳なさそうにつぶやいたのを思い出す。
…先の女官は、平成の世になり、官僚の発言が強くなるにつれて、宮中が次第に変わっていったと嘆いた。
官僚にすれば、宮中は単なる職場にすぎない。彼らは皇室の未来よりも、自己保身を優先させるから、
身を挺してまで皇室を守るとは思えない。皇太子には生き生きとした肉声がないといわれるが、あるいは、
保身にたけた官僚たちへの不信が、そうさせたのかもしれない。…

■“すいせん通り”の由来 貝原俊民 (前兵庫県知事)
…このときの状況について、当時の北淡町長長小久保正雄氏は、手記の中で次のように記述している。
「本当に見事に絵でも見るように、お二人のお見舞いは、バラバラになりかかっていた人々の心を和らげ、
再び一つにし、すさみかかっていた人々の気持ちを元の優しい気持ちに戻してしまわれたのであった。
『天皇陛下と美智子様が北淡町へ来られた!』この事実だけで人々は地震以来の苦労を忘れ、再び前向きに
生きて行こう、という勇気を与えられたかに思えてならなかった。
この情景はどの避難所でも同じだった。
…いま地球規模で多くの課題が山積みしているが、われわれは国民の総意として、平和を愛する人類社会の公正と
信義に信頼して、人間尊重を希求する国際社会において名誉ある地位を占める意思を憲法に明記し、天皇は
その象徴であることを規定している。
このことは、天皇が人類社会の“善”となることを宣言したものであり、平成皇室はそのため真摯に御務めを
されていると思う。
大震災以降、天皇陛下を中心に懸命に続けられらた皇室の被災者に対するご激励は、激励以外の何ものでもない
“善”であるが故に、全ての被災者がその大きな温かさに包まれて復興への営みが続いたように思う。
大震災の極限状況において、われわれはそのことを実感したのである。

■イデオロギーは不要 笠原英彦 (慶應義塾大学教授)
…両陛下は宮中三殿や山陵(みささぎ)などで、大祭、小祭、旬祭を執り行い、国民の平和と安寧、五穀豊穣を
祈られているのである。宮中三殿には空調などないため、夏の暑さや冬の寒さはご高齢の両陛下にはいささか
苛酷に過ぎる。天照大神の声といわれる鈴が鳴らされる間、天皇は平伏の姿勢を解くことはできない。
憲法に政教分離の原則が謳われているため、宮中祭祀で陛下をお助けする掌典職らの人件費は、天皇家の私費である
内廷費で賄われている。現行の皇室典範には、譲位や退位に関する条文はなく、旧皇室典範同様、終身制が
採られている。生涯現役が求められるとは、まさに命がけのおつとめである。
数年前、拙著『歴代天皇総覧』を上梓して初代神武天皇から第124代の昭和天皇までの事績を紹介したが、
今上天皇ほど国民を慈しみ、国民のために祈ってくださる天皇は少ない。
だが、平成の皇室にも一抹の不安がある。率直にいえば、東宮ご一家のことである。かつて皇太子殿下が
外国ご訪問に先立つ記者会見でいわゆる「人格否定発言」をされたのは記憶に新しい。このときは、宮内庁が
バッシングの矢面に立たされた。その元凶は言わずと知れた、下世話な二流のマスコミ、三流のジャーナリズムが
生み出す虚像である。
…月刊誌『WiLL』2008年5月号、6月号で皇太子殿下に諫言した西尾幹二氏の論考は大変な反響を
呼んだそうだ。筆者も拝読したが、西尾氏の皇室観は実に卓越したものである。同氏は天皇制(度)の意義を
考察して、「平等とか人権といった近代の理念のまったく立ち入ることのできない界域(エリア)が
社会の中に存在すること」を指摘した。誠に見事な洞察である。
私は天皇制論議にはイデオロギーを交えるべきでないと考える。たとえ「天皇制」がコミンテルンのテーゼを
起源とするとしても、空疎な左翼に「天皇制」を占有されたくない。だかた「天皇制」を左翼の手からもどし、
イデオロギー・フリーなテーブルに据えて議論したいのである。すぐれた見解や学説であれば、左右に関係なく
評価すべきである。
西尾氏は皇室の現状を「学歴主義と人権意識が皇室に流れ込んで、異質なものによる占拠と侵害が始まった」と
論評された。哲学者らしい卓見というべきであろう。だが、読み進むうちに、だんだんイデオロギーがにじみ
出てくるのには正直いって驚いた。
東宮をめぐる氏の論評の根拠となる情報源は何処に。いつのまにか西尾氏まで次元の低いマスコミ情報に
汚染されていないことを切に祈る。…

■郷愁と紙一重の執着 上坂冬子 (ノンフィクション作家)
…私とって特に感動的だったのは、かつて南方で戦犯に指定されて、同僚は銃殺されたのに自分は有期懲役で
帰国したため、こうして生き長らえていると語った人が悲憤慷慨の面持ちで、昭和天皇は戦争の最高責任者として
国民に詫びるべきなのに謝罪しなかったのは許せぬといわんばかりに語ったあと、
「しかし、もし謝罪されたら私はそのお言葉を聞いて号泣しただろうと思います」と補足したのを聞いたときです。
謝れ!といいつのりながらも、もし謝られたら感極まって泣き出してしまうにちがいないという思いは、
戦場にあった人の真情として私の世代でも手にとるように分かります。
十五年戦争下を生きた者によって、昭和天皇、皇室、天皇制には字づらだけでは表せないものがあるのです。
天皇の戦争責任を厳しく問い詰めながらも、その半面、ともに戦争を生き抜いてきた存在として、昭和天皇に
対する親近感を捨てきれません。…

■主治医として接した陛下 北村唯一 (あそか病院院長)
…入院先の病院を、がんセンターにするか東大病院にするかで少し揉めたが、
東大病院には前年新築したばかりの立派な新病棟があり、しかも14階には特別室があるので、
東大病院で手術を受けていただくことが決まった。
このことが広く報道されると、全国からいろいろな反応(おもに激励)があった。
その中で一人、忘れられない訪問客があった。後に危険な事をしたと本富士警察署に叱られたのであるが、
教授室で右翼とみられる人物の訪問を受けたのである。
小生もさすがに心配になり、身体頑丈な太田信隆助教授をボディーガードに付けた。
太田助教授は小生と右翼の間に何食わぬ顔で座った。後で聞いたところによると、太田助教授は用心のために
ワイシャツの下に厚紙を幾重にも巻いて会見に臨んだそうである。その人物は右肩に日の丸のある名刺を差し出した。
何を言われるのかと戦々恐々としているところへ、「天皇陛下の手術を是非とも成功させてくれ」との言葉があり、
とくに脅されたりはしなかった。しかし、言外にもし手術がまずいことになったら只では置かないぞ、という
ような凄みを感じた。
それだけ言うと、何事もなかったかのように付き人と共に帰っていった。やれやれ、これで一安心ということで
手術の準備に取り掛かった。
掛け替えのない尊い御方を手術するというので、東大病院の加藤進昌病院長を始め病院スタッフが何回も会合を重ねて、
いろいろな最悪のケースまで想定して準備に当たった。万が一の心停止に備えて人工心肺の用意までしたほどだった。
しかし、小生は比較的暢気に構えて、中村耕三副院長にお叱りを受けたほどである。小生としてみれば、
前立腺全摘手術は何百例としているし、ほとんど問題が起こらないだろうと高をくくっていたのである。
術後の心電図モニターなどもどうということはないと思っていたのだが、無線で飛ばすと傍受されるかもしれない
というので、急遽病室の床下に配線し直した。また、陛下が手術を受けられるとき、病室からストレッチャーで
手術場に入られるのだが、その廊下にある窓ガラスが透明では外から盗撮されかねないというので、ガラス窓に
マジック・フィルムを貼ったり等々、対策に苦慮した。…

■「家族」と「公務」の両立 久能靖 (皇室ジャーナリスト)
「私にとって家族は大切でありましたが昭和天皇をお助けし、国際儀礼上の答礼訪問を含め国や社会のために
尽くすことは最も重要なことと考えていました。私どもはやはり私人として過ごす時にも自分たちの立場を
完全に離れることは出来ません」
「私は家族と云うものは社会の最小単位であると思います。家族を理解することによって社会を知ること。
これがとても大切だと思います。私は家族を思うことと国や社会に尽くすことは両立すると思います」
これらはわずか四ヶ月の間を経て語られた天皇と皇太子の会見での発言である。
時として子供心にも淋しく思うことがありましたとかつて紀宮が語ったように公務は常に私事よりも先んずる
と云う陛下と、あくまでも家庭を出発点にしたいと云う皇太子の考え方の違いが浮き彫りになった言葉ではあった。
…皇太子が「目まぐるしく変化する今の時代に公務として自分たちが何をするのが大切かを見極めたいし、
今迄の公務の含め、ここでもう一度そのような視点で考えてみたい」と発言されたことは理にかなっているし、
今上陛下も時代に合った公務のあり方には理解を示されている。ただこのように発言されてから五年が経過しても
その目指す方向が示されないことへの焦立ちを我々が感じているのは確かである。
極めて慎重熟慮型の皇太子が近いうちに明確な回答を示されることを信じたいが、公務に対する新しい姿勢が
示されただけで、皇室の将来についてすべても問題が解決するわけではない。それは宮中祭祀の伝承だ。
政教分離によって戦後宮中祭祀は天皇家の私的行事となったが、皇室にとって祭祀が最も重要であることに
なんら変わりはない。
しかも現在国民の祝日とされている日の多くは宮中祭祀の日でもあり、陛下は多忙な一日を過ごされる。
初詣の人々で賑わう元旦の早暁から陛下は潔斎で身を清め、斎服を召されて四方拝に臨まれ、国家国民の安寧を
祈られるほか、もっとも皇室にとって重要な新嘗祭など年間様々な祭祀をとり行われる。しかしこれらの祭祀は
形だけきちんとしていれば良いものではない。心が伴っていなければならないのだ。
それを今上陛下は毎週のように参内しては昭和天皇のなさりようから祭祀に臨まれるお心を学びとってこられたのだ。
宮内庁長官が皇太子に参内の回数が少ないと苦言を呈したのもそうしたお心の伝承を心配してのことだろう。
宮中祭祀については全て「雅子が完全に回復してから」とかばう皇太子もその重要性は十分認識されている
はずだが、皇室とは祈りだと云う皇后の言葉を重く受け止めて欲しい。







■陛下、早く京都にお戻りを 黒田勝弘 (産経新聞ソウル支局長)
天皇は世界に類を見ない日本独自の存在であり、その意味で日本文化そのものだ。これは何としても守り
維持しなければならない。
日本独自の存在であるがゆえに、制度的にも独自のあり方があっていい。「京都にお戻りいただく」のもそうだし、
そのお仕事や役割も日本独自のものであっていい。他の立憲君主国の元首と同じような役割をしていただく
必要は必ずしもない。
韓国のマスコミは世界で唯一、日本の「天皇」を「王」としている。「皇」は「王」より格上だから使いたくない
というのだ。自分たちは共和制で、もはや「王」はいなというのに。
以前、韓国の大学で「現代日本理解」という講義を何年間か受け持ったことがある。その時、決まって
「日本では権力を握った者がなぜ天皇にならなかったのか?」という質問が出た。「天皇は王ではないから」が
その答えだ。天皇イコール権力ではなく、権力から距離を保ってきたため、国の形のシンボル、つまり「伝統」
あるいは「権威」として存在し続けた。
東京に政治権力が存在し京都に天皇がおられる。これがあるべき「この国のかたち」なのだ。陛下、早く
京都にお戻りください。

■妃殿下に我が名を呼ばれて 小池政行 (日本赤十字看護大学教授)
…フィンランド語を専門とする者として、国賓として訪日したフィンランド共和国のコイビスト大統領夫妻の
通訳を務めることになっていた。
…通訳という役割は本来、無人格なものである。公式の会談の場合でも、途中に総理大臣や外務大臣が通訳に一寸、
話しかける必要が生じた場合でも、名前を呼ばれるなどということはほとんどなく、「おい通訳」とか「君」などと
呼びかけられるのが普通だった。
ところが美智子妃殿下は「小池さん」と呼びかけられたのである。その瞬間の驚きと戸惑い、そして、一瞬遅れて
自分の中に沸き上がってきた喜び、そしてそれは通訳という仕事に対する大きな励みとなったが、私は、
この美智子妃殿下から、名前で呼びかけられたことを、終生忘れることができない。昭和の御代はこのような
東宮殿下と妃殿下であられた。
この「一瞬の驚き」の経験の後、何年もの時の流れを経て平成の御代になって、私はいくどか美智子皇后陛下に
お会いする機会を賜った。時にその際に天皇陛下もおられることがあったが、多くは皇后陛下からお話をお伺いした。
皇后陛下にお会いするときには、いつもこの「一瞬の驚き」が存在していたように思う。そのひとつは、
皇后陛下はもちろん、両陛下が、私が恐縮するほどのお心配りを見せられることへの「驚き」である。
さらに、皇后陛下ご自身が、様々なお話に対して示される豊かな「驚き」の感情に、私が驚いてしまうという、
いわば、「驚き」のリフレクション(反射作用)のようなものであった。私が経験した皇后陛下との出会い、
そして何度かお話を伺った経験から、皇后陛下には、豊かすぎるほどの感情がおありになるように思う。
見知らぬ人との出会いや、初めて目にされるもの、芸術や、文学作品、そして音楽などに皇后陛下は驚くほど
豊かな感情をお示しになる。ご自分のお立場もあって、皇后陛下はご自分の感情なり、お気持ちの発露は控えられて
いるが、本当は溢れるような情感、お心の動きを持っておられるのではないだろうか。私にはそう思えるのである。…

■戦争遺族として抱く思い 古賀誠 (衆議院議員)
 国がためあまた逝きしを悼みつつ 平(たひ)けき世を願ひあゆまむ
これは、戦後五十年の平成7年、天皇陛下が日本遺族会へご下賜された宸筆の御製である。この時、皇后陛下からは、
御染筆で次の御歌をいただいている。
 いかばかり難かりにけむたづさへて 君ら歩みし五十年(いととせ)の道
この御製と御歌から、戦争で尊い命を失った戦没者への限りない鎮魂と、遺族の安寧を願う両陛下の切なる思いを
感じずにはいられない。戦争で一家の大黒柱を失い、生活は峻烈過酷を極め、最愛の肉親を失った悲しみの中、
物心両面に苦悩しながら茨の道を切り拓いてきた遺族に対し、両陛下は常に深く心を寄せられ、機会あるごとに
励まし続けてこられたのである。
…陛下が戦没者へ哀悼の意を込めて慰霊の旅を続けられる姿を拝見した時、わたしが感じた陛下に対する思いは
決して「親近感」などではなく、やはり「畏敬の念」なのである。
日本遺族会の会長として幾度か両陛下に拝謁しているが、特に心に焼きついて離れないことがある。それは
三年前に開かれた全国の婦人部(戦争未亡人)代表の集いに、天皇皇后両陛下のご臨席を仰いだときのことである。
両陛下は、当時平均年齢八十七歳であった戦没者の妻ひとりひとりにご接見し、戦後の労苦に対し労いの言葉を
おかけになられた。そして、ご出立の際、見送るわたしにむかって陛下は「遺族のことをよろしく頼みます」と
仰せられた。その声は、あの御製に込められた陛下の心をそのまま表しているように聞こえた。そして同時に、
「他人を思いやる」という、今の日本人がどこかに置き忘れてしまった、あまりに純粋で無垢な感情を
わたしはそこに見たのである。

■祖神祭祀の再考察を 小堀桂一郎 (東京大学名誉教授)
…折から第六十二回の神宮式年遷宮の重儀を五年後(平成25年10月)に控へて、
日本人の文明と文化の基盤であり、核心でもある皇祖の神々の祭と、国民統合の象徴である皇室の御存在との
関係が又新たに世間の関心を惹き、この重儀をめぐつての技術的・精神的財産の蓄積の豊かさに人々の眼が
向けられる様にもなつてゐる。今はまことに良き機会である。
持統天皇の御治定以来千三百年余の歴史を有する式年遷宮の例に徴してみても、皇室に於ける祭祀の伝統が
常に安定した直線的な継承を保つてきたわけではないことがわかる。伝統と一口に謂ふが、それは最初から
その様な形を具へたものとして創始され、歴代平穏に相承されてきたといふ形のものではなく、肇国以来
二千年の歳月を経て明治・大正からつい最近の昭和の御代に至る迄、様々の試練に遭遇し、それによる変容や
盛衰をも経験して今日に至つてゐる。そして今日現在の瞬間にも、時代の状況が突きつけてくる種々の難題や
支障に対処しつつ伝統としての不朽の生命の維持に自ら努めてゐる。さうしたものである。

■わが日本を論じてほしい 古森義久 (ジャーナリスト)
…イギリスには自国を守るため、さらに自国の利害のからむ国際秩序を守るための軍隊が存在する。国民の
範たる王室の人たちは率先して国を守るための戦いに加わる。その基盤には国民をくくる有機体としての
国家のため、という思考があり、価値観がある。つまり王室はたとえシンボルだとしても国家を体現し、国家とともに
あるのだ。王室は国家という「公」のためにこそ存在し、存続する、ということだろう。
ところが日本の皇室は戦後、国家との関係を希薄にされた。国家との間に空間や距離を置かされた。その大改革は
民主化でもあったから、すべてネガティブとはいえないだろう。だがその結果、昭和時代は皇室が日本の国家としての
団結や国家へのアイデンティティーを語ることは少なかった。日本という国の伝統や歴史、文化を正面から
論じるということもまずなかった。まして日本国への誇りや喜びを述べることも、ほとんどなかった。
…世界の平和を希求するというのも重要ではあるが、日本の国家の安全保障にもたまには言及してほしい。
日本の伝統や歴史も前向きに語ってほしい。皇室の若い男性に日本の伝統の柔道や剣道の稽古をしてほしい。
要するにもっと日本を論じ、もっと日本を表現することへの期待である。
戦後の憲法でも「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされる。戦前とは制度的に明らかに
異なるとはいえ、日本の皇室が拠って立つのはあくまで日本という国、日本という国家なのである。しかし
平成の皇室の言葉の発せられる対象は、日本の国民であり、日本社会であり、その次には国際社会であり、
世界であって、日本という国家の次元が往々にして抜け落ちているようにひびく。
対象はなにも必ずしも日本の国家なくてよい。日本という概念であってもよい。日本の自己認識でも、日本の
伝統と歴史でもよい。とにかく当事者としてわが日本を取り上げ、わが日本を論じてほしいと思うのである。
日本について堂々と誇りをこめて語らない日本の皇室というのは、自家撞着へと陥りかねないだろう。

■大正世代の魂の奥に 佐藤愛子 (作家)
…「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」
とは敗戦の詔勅の中の国民へのお言葉だったが、最も「堪え難きを堪え」られたのは昭和天皇ご自身だったと私は思う。
なぜ天皇は退位なさらぬかという批判の声が高い中で、あえて昭和天皇は堪え難きを堪えて退位の道を
退けられたのではなかったか。天皇は国と国民のために退位するよりも堪え難い道に踏み止まれたのだとすると
私は思っていた。あの時に天皇が隠棲なさったら、この国の混乱は収拾がつかぬまでに広がったのではないだろうか。
それまで菊のカーテンの奥深くに閉ざされていた皇室は「開かれた皇室」を目ざし、昭和天皇崩御の後は愈々、
国民の身近に降りてこられた。週刊誌は平気で皇室について取沙汰するようになり、今では災害地などへの行幸の際、
まるで芸能人の対するように狎れ狎れしく、写真を撮ろうと携帯をさし向けている人たちがいる。
…かつて皇室と国民は一体であった。天皇は常に国の安泰と興隆を願い、民はそれを信じて天皇を仰ぎ見るという
均衡でなり立っていた。しかし次第にその均衡が傾きつつあるように思われる。皇室と国民を繋ぐものとして、
かつてはなかった「親しみ」があるだけになった。皇室は範を垂れようにも、国民に気持がなければ
どうすることもできないのである。
今上天皇もご病軀を押して公務にお出かけになるお姿を見ると、私には僭越ながらおいたわしいという気持ちが
湧いてくる。これからの平成皇室の課題は?と編集部から問われても、私に答はわからない。これは皇室の
問題でありながら、同時に国民意識の問題だからである。天皇陛下のご意志を忖度せずに、政治家が女帝が
いいの悪いのと勝手な取り決めをしようとしたことも私の情としては許し難いことに思われる。たとえ憲法上では
許されること、必要なことであるとしても、だ。…

■獄中で宮中祭祀に感謝した 佐藤優 (起訴休職外務次官・作家)
…獄中で、私は高天原が、いまの瞬間においても存在し、高天原で展開される出来事に対応して、日本の歴史が
動いていることを確信するようになった。そして、高天原と現実の世界の秩序が正しく維持されているのは、
天皇陛下、皇后陛下が宮中祭祀を正しく執り行い、祈りを中心とした生活をしておられるからであると心から
感謝している。皇室のあり方について、マスメディアで様々な議論がなされているが、何か根源的なものが
欠けているように思えてならない。女帝論という形で皇統を内側から壊す危険性がある人権思想、近代的範疇である
遺伝子理論によって万世一系を解釈する試みなどの背景には、人間の理性に対する全面的信頼を基礎として、
皇室を「設計」し、「構築」しようとする思想が存在する。このような設計主義、構築主義が日本国家と日本人を
内側から蝕んでいるのである。
このような状況で重要なことは、高天原の存在をわれわれが再発見することである。テキストは、『古事記』、
『日本書紀』『神皇正統記』など、日本国家のあり方の根源、伝統的言葉で言うならば国体を真摯に追究した
ものならば何でもよい。これらのテキストを虚心坦懐に注意深く読むことによって、われわれは高天原を再発見
することができる。ここからわれわれが天について語るのではなく、天がわれわれについて何を語っているのかに
耳を傾けるのだ。
…〈人はとかく過去を忘れがちなものだが、歴史のたどってきた道をふり返れば、天は決して正理をふみはずして
いないことに気づくだろう。もっとも、「それならばなぜ天はこの世の現実をあるべき正しい姿にしないのか」
という疑問をもつ者があるかもしれない。しかし人の幸・不幸はその人自身の果報に左右され、世の乱れは
一時の災難ともいうべきものである。天も神もそこまえはいかんともしがたいことに属するが、悪人は短時日のうちに
滅び、乱世もいつしか正しき姿にかえるのである。これは昔も今も変わることなき真理であって、その理を
しっかり身につけるための業(わざ)を稽古という〉(「神皇正統記」『日本の名著9 慈円・北畠親房』
中央公論社、1971年、454頁)
この稽古に励むことが南朝精神であると私は考える。
天皇は祭り主である。皇室について語る場合は、いかにすれば宮中祭祀がつつがなく行われるかということを
第一義に考えるべきと思う。皇室を人知によって改革するなどという合理主義に冒された発想を捨て、高天原の声に
率直に耳を傾けることができるようにするために、南朝精神を有識者がとりもどすことが喫緊の課題と思う。

■「国家千年の大計」として 篠沢秀夫 (学習院大学名誉教授)
…そして一部マスコミは、新帝陛下が、践祚の礼のあと、「憲法に従い」という意味の御発言をなさったのを、
それこそ鬼の首を取ったかのように喜び騒いだ。右も左も誤解しているのだ。戦前戦中の天皇を専制君主とイメージし、
戦後は憲法によって格下げされたと思い込んでいる。事実誤認である。明治天皇が一兵でも勝手に動かしたりか。
法律を勝手に作ったか。今の憲法でも、国会可決の法律は天皇署名で発効するのは昔と同じではないか。
そして敗戦直後には一年先のことも予測がつかない。皇室典範改正に当たって、何百年も皇位継承者確保の
安全装置であった多くの宮家を廃絶しながら、他に何の安全装置も考えなかった。その時点では中学生と
小学生であった今上陛下と常陸宮殿下と、二人の親王がおられたので安心だったのだ。先のこと、「国家百年の
大計」など思いもしなかったのだ。
平成に入って秋篠宮殿下と紀子様の御成婚、皇太子殿下と雅子様の御成婚と、マスコミは沸き立ち、敬語使用は
慣例となり、反対言論は沈黙した。だが、次の世代の皇族男子出生がない状態となり、小泉首相の時期、
皇室典範改正が課題となった。これも目先ばかりで、女帝容認一直線。秋篠宮家に男子出生となって、現行法による
皇位継承者ができると、沈黙。その段階の論議で世に示されたのは、世界最古の伝統の日本皇室は、同じ家系を
保っているばかりでなく、「男系継承」によって男子の間だけで伝える遺伝子を保持していることである。守るべきだ。
そこで小生が提唱したのは「第三の道」である。百年どころでなく「国家千年の大計」として、皇室の伝統を守ろう。皇族の範囲を天皇から四代とし、その範囲では男女ともに皇位継承権を認め、「男系継承」維持のため、
女子が皇位継承者となった場合、配偶者を、廃絶された旧宮家の子孫「皇系族」の中から選ぶことを法制化するのだ。
行使の世襲は現憲法が認めている。恋愛の自由のレベルの問題ではない。皇族になるとは、皇室に生まれる
だけでも、皇室に嫁入るだけでもなく、責任を自覚し皇族として覚悟することにある。国民にそのことを
理解してほしい。皇室内の論議を家庭内の揉め事と取るべきでない。皇室を守ることは、右翼ではない。
自分の文化を守ることだ。

■「恒久平和」を希求する御心 島村宜伸 (衆議院議員)
…改めて申すまでもなく、「天皇」というお立場は、日本国憲法上、特別の地位が定められている反面、様々な
制約が存在する。例えば、「自由」ということでも我々一般国民が日常活動の中で享受している「自由」とは
全く程遠い。その様なお立場にありながら、両陛下は「国民あっての皇室」ということを常に念頭におかれ、
国民の立場に立たれ、国民の心を御心とされて国民を慈しんで来られた。このことは、平成の御代になって以来
「国民と苦楽を共にする」という表現が、多くのメディアで報道されており、国民も皇室に対して一層親近感を
抱くようになったと感じられる。
具体的事例としては、雲仙普賢岳の噴火被災地や阪神淡路大震災を見舞われた時は、避難所にあてられた体育館の
床をスリッパも履かれず、被災者と話をされる時は跪いて被災者と同じ目の高さでお言葉をかけられたり、
また過剰な警備を改められ、私的な外出では交差点で信号が赤になれば車を止められ、窓を開けて沿道の人々に
手を振られる。現在は天皇陛下の対向車線を普通に車が走る。
…ところで、今上天皇は五十五歳で即位された最初の時点から「日本国及び日本国民統合の象徴としての
天皇」であり、昭和天皇のように御在位期間の約三分の一にあたる戦前は「国家元首」で、
しかも現人神(あらひとがみ)的存在、戦後は「象徴としての天皇」という二つのお立場に立たれたわけではない。
一方、日本の皇室は伝統的に「武力を用いる」「覇を競う」「権力を振るう」といったことは極めて縁遠く
「文化」「学問」等を重んじ、「権力の象徴」ではなく「権威の象徴」として存在してきた。これらのことは、
京都の御所が城壁も無ければ堀もなく、「武力」とは一線を画していることを見れば一目瞭然である。…

■「子どもの本」へのエール 末盛千枝子 (すえもりブックス代表)
…戦後、苦しい人生を生きてきた人々に寄せる両陛下の思いの深さは、想像がつかないほどです。特に天皇陛下の
沖縄の人々に寄せる労りのお気持ちは計り知れないほどです。平成5年に植樹祭で沖縄に行かれたときには、
沖縄の短歌の形式である琉歌を沖縄の言葉で詠まれたことを知り、心底驚きました。
また、硫黄島をお訪ねになったときには、そこが地熱と水不足という厳しい条件の島であることを思い、
そこで戦った人々の困難と遺族の悲しみに心を寄せ、その小さな島で日本人二万、アメリカ人七千もの人々が
亡くなり、いまなお、一万もの人々の遺骨が熱い地熱の地下に張り巡らされた坑道に眠っていることを悼み、
言いようのない悲しみを語られ、遺族たちに心からの慰めの言葉をおかけになり、日本の復興や発展がこの人たちの
犠牲の上に築き上げられたのだと繰り返し語っておられます。
一方、皇后さまは、天皇陛下とご一緒に慰霊地を訪ねられたときに、悲しみに満ちた美しい歌の数々を詠んで
おられます。なかでも硫黄島を訪問されたときの御歌は文学史に残るような素晴らしい和歌だと思います。
「慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲(ほ)りけむ」
そして、昭和46年に三浦半島の観音崎で、戦没船員の碑の除幕式が激しい雨の中で行われたときに、
「かく濡れて遺族らと祈る更にさらにひたぬれて君ら逝き給ひしか」
と詠んでおられます。
このような御歌に接した私の友人は私と同年代で、父親を戦争で失った人でしたが、心の中に氷のように固まっていた
恨みのような気持ちが、静かに解けていくのを感じたと語ってくれました。
しばらくして皇后さまにそのことを申し上げましたら、遠くを見るように少し首をかたむけ、はにかんだご様子で
「そう?」と言われ、心に暖かなものがぽっと灯ったと思いました。
また両陛下は戦争だけでなく、様々な困難のなかで生きている人たちを忘れないことも、ご自分たちの生きる上での
務めのように考えておられると思います。これは、特に今の両陛下に限ったことではなく、日本の皇室には大昔から、
そのような伝統があったと聞いております。

■知らざれる科学への貢献 ヘンリー・スコット=ストークス (ジャーナリスト)
明仁皇太子は、1989年の先帝崩御により天皇として即位した後も、日本国際賞への関与を続けた。続けたと
言ってしまえば簡単だが、それは生易しい仕事ではない。天皇(皇后も)さまが授賞式に臨席して下されば
それでいいというものではないのである。下調べが必要になってくる。
まず、受賞者それぞれの専攻分野のことを読んで頭に入れ、次に受賞者がその分野でどんな功績を上げたかを
調べる。調べたうえ、問うべき質問を考えたところで、受賞者が打ちそろって皇居へ挨拶に来る。会って、話して…
その後に授賞式と晩餐がある。すべてを滞りなく行い、しかも楽しみと感じるようになるのは、並大抵のことではない。…
(訳・徳岡孝夫)

■皇后さまの印象は「修道女」 曾野綾子 (作家)
…ことに天皇家は特殊なご一家である。天皇家は、「生きた世界遺産」なのである。だから軽々に変わってはいけない。
皇室の本質に新しい解釈というものはない。それに変わりようがないほど、近代日本の皇室は、歴代常に揺れ動く
情勢の中で平和を願いそれに対応し、あらゆる人に対して仁慈を旨として来られた。皇室は常に質素だった。
無償で働かれた。労働に報酬を要求されたこともない。終戦以後の政治に深くかかわられることもなかった。
どの国からの国賓に対しても、等しく誠実に、優しさをこめて準備し接しられた。
…私は皇后陛下が一度会われた人の名前や地名を記憶しておられるのに驚くことがある。一度私は、アフリカや
南米の各地で働く日本人の神父と修道女たちを皇后陛下にお引き合わせしたことがある。皇后陛下は、病院、学校、
スラムなどで働くこうした人々の話を、よく聞いてくださり、ご自身がそれらの国を訪問された時の地名や
人々のことを正確に語られた。自分たちの仕事など、ほとんど日本の誰にも知られていないだろうと思っていた
人たちにとって、皇室がこうして辺境で働く人々も見ていてくださるということは、信じられないほどの
励ましになるのである。御所を出たところで、私はシスターたちに「皇后さまの印象はどうでした?」と
通俗的な質問をした。するとシスターたちは一瞬深く考えたあげく、中の一人が、「修道女みたいでいらっしゃった」
と感想をもらした。
これは私にとって全く意外だったが、恐ろしく正鵠を得た表現だった。
両陛下は、数多い宮中祭儀を一つとして簡略にせず、大切にその伝統をお守りになっているという。それが
皇室の根幹の精神だからだ。人々に会ってその言葉を聞く行幸の機会も、お体の負担になることがあっても
両陛下は決してお休みにならない。それが日本人が生きる日本という国体の基本を維持する大切な部分だと、
はっきり考えておられるからであろう。
外部の人には会わず、一生閉ざされた修道院の中で働くトラピストなどの修道士たちのモットーも「祈り、
そして働け」であって、祈ることが最初であり、働くことは二番目の徳なのである。
皇后陛下の生きる姿勢の中には、こうした運命を受諾なさった決意の潔さがあって、それがシスターたちに
「修道女みたい」と言わせたのであろう。
昔、まだご結婚前の紀子さまに初めてお会いした時、私は「皇后さまは陛下に惚れておられますから」と
思わず口を滑らせ、紀子さまはおかしそうに笑われたことがある。
陛下の徳は、公私に亘って、徹底して手を抜かない誠実さだと多くの人が感じる。…

■国民の中に亀裂はないか 園部逸夫 (元最高裁判所判事)
…しかしながら現在、皇室制度に関して様々な議論があり、解決すべき課題があると見られていることも否定出来ない。この背景には、憲法や皇室典範が定める制度の前提の変化と、制度を理解し支持する国民の側の
変化があると私は考えている。ここではこのような変化により生じた課題を次の二つに絞って見る。
第一は、皇位継承制度問題の議論を通じて象徴天皇制の方向性を巡り、大げさに言えば国民の中に亀裂が生じて
いるのではないか受け止められていることである。言い換えれば、象徴天皇の正統性の根拠について、男系継承、
直系継承、国民の支持、伝統、等々の、何にどのような重みを置いて考えるかについて一致が見られず、将来の
皇位継承の在り方について問題が未解決のまま残されているということである。
第二は、国民が皇室制度の意義を理解する機会が少なく、制度を解釈する基本的枠組みを持たない人が増えている
のではないかという問題である。例えば、なぜ皇室のために特別な財産や費用を国が用意するのか、なぜ皇室の
方々に特別な活動をお願いするのかということについて、象徴天皇制度が期待する理解をしている国民の割合が
時代と共に低下しているのではないかと懸念している。我が国の歴史を背景に、国民が憲法を通じて皇室の方々に
日本国と日本国民統合の象徴たる地位にあることをいわばお願いしているということを前提に考えれば自然に
理解されることでも、国民の多くが自ら考える機会が少ない中で、皇室に関する様々な情報が大量に流され、
また不確かな情報も一人歩きしているような状況にあり、国民が制度の意義を理解した上で制度を評価できる
状態にあるのか−勿論、国民の判断を信頼すべきであるが−心配である。 …

■「権威」なき国家は危い 田久保忠衛 (杏林大学客員教授)
…いくつもある皇室報道で、公表された事実は雅子妃殿下が平成15年9月から現在まで4年8ヵ月にわたって
宮中の祭祀には欠席されているということであろう。ご公務は具体的に何を指すかわからないが、他の皇族方に
比べてきわめて少ない。それといかなる関連があるのかわからないが、私的な外出が多い。原因は適応障害で、
「絶対的に必要なのは環境調整」(斎藤環医師)だという。とすれば雅子妃に環境を合わせるか、国民には実態が
はっきりしない現状を続けるのか、環境と御本人を分離するかのいずれしか対処方法はない。胸が痛む。ましてや
天皇、皇后両陛下の御心痛はいかばかりか。
『文藝春秋』4月号の座談会で、環境を変えるべしと主張したのは二人であった。斎藤環医師は「やはり環境を
雅子妃にとって過ごしやすいものにする以外、治療方法はないでしょう」と述べ、原武史明治学院大学教授は
「たとえば祭祀をすべてやめるような抜本的な改革をしなくては、うまくいかないのではないかという気がします」
とより具体的な指摘をした。時代の要請とやらを考えているのかどうか知らないが、二人の前提には神話の時代に
生まれ育って現在に至った伝統の比類ない重さは感じ取れない。
ポツダム宣言の受諾にあたって鈴木貫太郎首相以下の関係者がどれだけ国体護持に執着したか。結局は昭和天皇の
御決断で終戦のケジメがつき、戦後の混乱を国民は天皇を中心として乗り切ってきた。今上天皇と同年の私の実感である。
最近日本経済新聞社が報じて大騒ぎとなった「富田メモ」問題で、一方の論者は「昭和天皇だからこうおっしゃるのは
当然」と主張し、対立する論者も「昭和天皇であるからそのようなおっしゃり方はしない」と反論した。明治維新も
天皇を中心に据えなかったら実現不可能だったろう。討幕も尊皇なら幕府も尊皇だった。
国民にとって掛け替えのない皇室の祭祀を廃止したらどういう結果んいなるのだろうか。旧皇室典範は第十条で
「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」、第十一条「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」
と定めていた。いまは第四条で「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」と書いているだけである。
祭祀王の性格は縮小されてしまった。誰が言い出したかは定かではないが、皇室の側からも国民の間からも
戦後に「開かれた皇室」への期待が高まり、現在に至った過程で祭祀はどうでもいいとの議論が生まれるように
なったのだろうか。祭祀のない皇室は権威が消失し、国民の普通の家庭に限りなく近づいていく。国体は崩壊する。 …