寛仁親王殿下薨去

寛仁さま「意識レベル低下」 宮内庁説明
2012.6.6 07:22
入院中にご体調が一時悪化し、皇族方のお見舞いが相次いでいる寛仁親王殿下のご容体について、
宮内庁の名川弘一皇室医務主管は5日夜、会見を開き「腎機能が低下し、尿が出ない状況が
約14時間にわたって続いている」と説明した。また「意識レベルは低下してきている」とし
「4日までは名前を呼ぶとしっかり反応があったが、5日は強い刺激で応える程度」と述べた。
寛仁さまは66歳になられる。
名川皇室医務主管は肺と肝臓についても機能低下がかなり進み、肺にはかなりの部分に
肺炎の症状がみられるとしたものの、「危篤状況ではない」と説明。今後の回復の可能性については
予想ができないとした。1日には口内から出血がみられたが、現在は止まっているという。
一方、宮内庁は5日、日本美術の調査研究などのため、ドイツとポーランドを訪問していた寛仁さまの長女、
彬子さまが、帰国予定を2日早め、6日朝に帰国されると発表した。寛仁さまのご体調を心配して
変更を決められたという。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120606/imp12060607220001-n1.htm

彬子さまご帰国 寛仁親王殿下の体調案じ
2012.6.6 09:00
ドイツとポーランドを訪問していた寛仁親王殿下の長女、彬子さまが6日朝、帰国予定を2日早め、
成田空港に帰国された。宮内庁は理由について、寛仁さまのご体調を案じたことに加え、
4日にワルシャワで開かれた国際シンポジウムでの発表も終えられたためと説明している。
宮内庁によると、彬子さまは日本美術の調査研究などのため、5月30日からの日程で両国に滞在されていた。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120606/imp12060609030002-n1.htm

ェ仁親王殿下ご逝去 66歳
2012.6.6 16:01
三笠宮家の長男で、天皇陛下のいとこにあたるェ仁親王殿下が6日午後3時35分、
入院先の東京都千代田区の杏雲堂病院で逝去された。
66歳、皇位継承順位は第6位であられた。障害者福祉などに心血を注がれる一方、
気さくなお人柄で国民から「ヒゲの殿下」と親しまれた。
一般のご葬儀にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は、東京都文京区の豊島岡墓地で執り行われるとみられる。
ェ仁さまは平成3年以降、がんの治療を受け、今年1月にも下咽頭から口腔のがんを切除する手術を受けられた。
3月2日にのどの軟骨を切除する手術を受けたが、今月1日、口内から出血がみられた。
5日に腎臓や呼吸器系の機能にともない意識レベルも低下し治療が続けられていた。
ェ仁さまは昭和21年1月5日、昭和天皇の末弟、三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下の長男としてご誕生。
学習院大学法学部を経て、戦後、皇族としては初めての海外留学で英オックスフォード大学に学ばれた。
大変なスキー好きとして知られ、スキーを通じて身障者や青少年の福祉などに取り組まれた。
55年11月、故吉田茂元首相の孫にあたる信子さまとご結婚。
長女の彬子(あきこ)さまと二女、瑶子(ようこ)さまをもうけられた。麻生太郎元首相は信子さまの実兄。
昭和57年には「社会福祉活動に専念したい」などと皇籍離脱を申し出られたこともあった。
平成3年にがんを患った際に病名を公表し、がん告知の議論にも一石を投じられた。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120606/imp12060616010003-n1.htm

【66歳、“ひげの殿下”】 がん手術繰り返し  皇室22人に
三笠宮家の長男寛仁(ともひと)さまが6日午後3時35分、
東京都千代田区の佐々木研究所付属杏雲堂病院で亡くなられた。66歳だった。
住まいは東京・元赤坂の赤坂御用地内にある寛仁親王邸。宮内庁が葬儀の日取りや場所などを検討する。
天皇陛下のいとこで、“ひげの殿下”として知られた。皇位継承順位は第6位だった。
寛仁さまの死去により、天皇陛下と皇族で構成される皇室は22人になった。
1991年に食道がんを切除する手術を受けて以降、喉や舌のがん治療に伴う手術を繰り返した。
昨年12月に入院し、今年3月にかけて2回手術後、入院療養を続けていた。
福祉活動やスポーツ振興に取り組む一方、自らの治療体験を著作や講演で公表。
患者本人ががんを勉強することや、医師に意思表示することの重要性を訴えた。
82年には「社会活動に専念したい」と皇籍離脱を申し出て、話題になった。
2005年11月に政府の「皇室典範に関する有識者会議」が出した女系天皇容認の結論に
「男系が続いてきた皇室の伝統に反する」と雑誌などのインタビューに答え、異議を唱えた。

寛仁さま関連年表
1946年1月5日 三笠宮家の長男として誕生
 68・3 学習院大を卒業
 68・4〜70・8 英オックスフォード大に留学
 70・10〜72 札幌五輪組織委事務局に勤務
 75 沖縄国際海洋博覧会世界海洋青少年大会事務局に勤務
 80・11 吉田茂元首相の孫、信子さまと結婚
 81・12 長女彬子さま誕生
 82・4 「皇籍離脱」の意向を宮内庁に伝える
 83・10 次女瑶子さま誕生
 91・1 食道がんの切除手術。自らの意思で病名を公表
 94・7 舌のつけ根のがん切除。3回目の手術
 8 インタビューで「私は告知派でもアンチ告知派でもない。(がんは)運命でしかないと思っている」と発言
 9 首のリンパ節に転移したがんを切除。5回目の手術
 95・9 喉のがんを切除。6回目の手術
 2005・11 福祉団体の会報で女系天皇に異論を示したことが発覚。
 その後雑誌のインタビューなどでも同様の見解を示す
 07・6 アルコール依存症と診断され入院
 08・5 誤嚥(ごえん)防止の手術を受け、声を失う。以降は人工喉頭を使用
 10・7 アナトリア考古学研究所の展示棟落成式で彬子さまとトルコ訪問
 12・3 喉の軟骨を取り除く手術。がん関連では16回目
 6・6 逝去
 (2012年6月6日、共同通信)
http://www.47news.jp/47topics/e/230033.php

宮内庁会見一問一答
2012.6.6 21:51 (1/2ページ)
佐々木研究所付属杏雲堂病院(東京都千代田区)の海老原敏名誉院長と、
日野西光忠宮務主管の会見の主なやりとりは以下の通り。
−−昨晩(5日夜)の意識低下以降の詳しい容体は
海老原医師「大きな変化はありません。臓器不全になり、だんだん悪くなったという状態です」
−−死因は多臓器不全か
海老原医師「はい。そう思います」
−−意識は戻らなかったということか
海老原医師「呼びかけに答えられることもあったようですが、はっきり分かって、
人が来て声をかけられて目を開かれたというのは、一昨日(4日)までです」
−−寛仁(ともひと)さまは、どのような患者だったか
海老原医師「非常にはっきりとご自分の意思をおっしゃる。昨年の5月に(がんが)再発しましたが、
手術の時点で、これ以上は嫌だと、緩和ケアを望まれた。結局は説得して手術をしたが、
非常にはっきりと意思表示をしておられた」
−−最後に寛仁さまとお話しになったのは
海老原医師「出血はいずれ止まるので心配ありませんと伝えた。
元気になって詳しい検査をしましょうと会話したのを覚えている」
−−看取(みと)られたのは
日野西宮務主管「三笠宮妃殿下、近衛●(=ウかんむりの下に心、その下に用)(やすこ)子さま、
彬子女王殿下と、瑶子女王殿下。そういった方々です」
−−どんなお声掛けをされていたのか
日野西宮務主管「(彬子さまと瑶子さまが)『お父さま』と声をかけられていた」
−−がんの治療について何かおっしゃっていたか
海老原医師「手術については納得してもらえたが、放射線治療を勧めたとき(昨年1月から2月)は、
なかなか納得されなかった。同じ場所に1回しか使えないというのが強く残っておられるようで、
『先生が放射線を勧めるから、どうもこれでおれも終わりらしい』と話されたというのを聞いたことがあります。
それくらい治す気持ちが強いと同時に、また(がんが)出るだろうと考えておられ、
その時に放射線が使えないから、いよいよになるまで、取っておこうと思っておられた」
−−退院後のご希望はお聞きになったのか
海老原医師「今回は普通の会話は少なく、筆談もままならないので非常に短いフレーズでしか話さなかった」
−−彬子さま、瑶子さまから先生にお言葉は
海老原医師「『長いことお世話になりました』とおっしゃられていた」
−−その時のご様子は
日野西宮務主管「涙を流されていた」
−−ご遺言はあったか
日野西宮務主管「拝見してませんが、あったように承っている」
−−ご公務も熱心に続けられたが、治療に当たって気になさっていた点は
日野西宮務主管「すべてご自身で公務をお決めになっていた。われわれと話すことはなかった」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120606/imp12060621530014-n1.htm

両陛下、5日間喪に服される
2012.6.6 22:26
宮内庁は6日、寛仁親王殿下のご逝去を受け、同日から天皇、皇后両陛下が5日間喪に服されると発表した。皇太子ご一家、秋篠宮ご一家、常陸宮ご夫妻も同様としている。
ご両親の三笠宮ご夫妻と、弟の桂宮さまは30日間。寛仁親王妃信子さま、長女の彬子さま、次女の瑶子さまは
90日間喪に服される。高円宮妃久子さまは5日間で、寛さまのめいにあたる高円宮家の長女の承子さま、
次女の典子さま、三女の絢子さまはそれぞれ7日間喪に服される。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120606/imp12060622270018-n1.htm

三笠宮寛仁さま、ご逝去 天皇皇后両陛下や皇族方が弔問される
天皇陛下のいとこで、「ヒゲの殿下」として親しまれ、がんとの闘病が続いていた三笠宮寛仁さまが、
6日午後、多臓器不全のため亡くなられた。66歳だった。寛仁さまのご遺体は、6日夜、赤坂御用地にある
お住まいの宮邸に戻られ、天皇皇后両陛下や皇族方が弔問された。
午後8時すぎ、天皇皇后両陛下を乗せた車が、赤坂御用地へと到着した。
6日夜、赤坂御用地にある寛仁さまのお住まいで、ご遺体と対面された天皇皇后両陛下。
皇太子ご夫妻と秋篠宮ご夫妻、眞子さまは、弔問後、皇居を訪れ、両陛下にお悔やみを伝えられた。
また、寛仁さまの義理の兄にあたる麻生元首相も、弔問に訪れた。
日野西 光忠宮務主管は「寛仁親王殿下には、本日午後3時35分、公益財団法人・佐々木研究所付属杏雲堂病院において
薨去(こうきょ)されました。謹んで哀悼の意を表する次第であります」と述べた。
6日午後3時35分、天皇陛下のいとこで、「ヒゲの殿下」として親しまれた三笠宮寛仁さまが、
入院先の病院で亡くなられた。66歳だった。
病院に駆けつけた長女の彬子さまや次女の瑶子さまが、「お父さま」と呼びかける中、
息を引き取られたという寛仁さま。
度重なるがんの転移で手術を繰り返し、2012年3月にも16回目の手術を受けられ、入院中だった。
午後6時前、千代田区にある病院を出た寛仁さまのご遺体を乗せた車は、皇居を半周ほど回り、
お住まいのある赤坂御用地に到着した。
寛仁さまご逝去の知らせに、街の人からは、「『ヒゲの殿下』って、スポーツいっぱいやる人でしょ。
だから、すごく記憶に残っている」、「庶民的で、なんとなく親しみがあってね、(亡くなられて)残念」
といった声が聞かれた。
野田首相は、「引き続き積極的なご活動を望んでいたところ、思いもむなしく薨去されましたことは、
誠に痛惜の思いにたえません」という謹話を発表した。
学習院大学を卒業後、イギリスのオックスフォード大学に留学された寛仁さま。
1980年には、麻生太郎元首相の妹・信子さまと結婚。
1980年、寛仁さまは「いろいろな女の人と、僕はつきあいましたけどね。ずっと、こちらの年代も上がってきたし、
いろいろトータルに考えてみて、やっぱり彼女が一番いい」と話されていた。
その後、彬子さま、瑶子さまの2人のお子さまに恵まれた。
寛仁さまが、特に力を尽くしたのがスポーツ振興で、中でも、体に障害を持つ人たちがスポーツを楽しめるように、
積極的に取り組まれた。
一方、1982年には、自らの行動が皇族としての身分に制約されることを悩み、皇籍離脱を宣言されて話題となった。
1991年に食道がんを発病し、その後、入退院を繰り返された寛仁さま。
2007年、寛仁さまは「ご紹介をいただきました、アルコール依存症の寛仁親王です」と話されていた。
2007年には、自らアルコール依存症であることを公表された。
寛仁さまは、再発を繰り返すがんとの闘いで、自力で声が出せなくなったあとも公務を続け、人工喉頭を使って、
あいさつされることもあった。
2010年、寛仁さまは「世の中では、3人に1人が、がんで亡くなると言われておりますから、
何とか早く、がんの撲滅を実現していただきたいと思います」と話されていた。
長年のがんとの闘病の末、寛仁さまは6日午後、ご家族に見守られながら息を引き取られた。
ご葬儀は、皇室の伝統にのっとって進む予定で、7日にも、一般の入棺にあたる「お舟入り」や、
皇族方が最後のお別れをされる「拝訣(はいけつ)」が行われる見通しとなっている。
(06/07 00:01)

寛仁さまご逝去「痛惜の思い」=首相が謹話
時事通信 6月6日(水)18時50分配信
野田佳彦首相は6日、三笠宮家の寛仁(ともひと)さまのご逝去について
「皇室をはじめご近親の方々の深いお悲しみをお察し申し上げ、
国民と共に謹んで心から哀悼の意を表するものであります」との謹話を発表した。
謹話は「さまざまな機会に国民と飾ることなく親しく接せられる殿下に、国民は深い敬愛の念を抱き、
引き続き積極的なご活動を望んでいたところ、思いもむなしく薨去(こうきょ)されましたことは
誠に痛惜の思いに堪えません」としている。 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120606-00000132-jij-pol

安倍元首相「立派な殿下、残念」
2012.6.6 17:58
自民党の安倍晋三元首相は6日、ェ仁親王殿下が逝去されたことについて
「日本の行く末、皇族の将来を本当に心配をしておられ、発言すべきと決意したときには
堂々と持論を展開してこられた。憂国の情であったのかなと推測している。
本当に立派な殿下であり、残念だ」と述べた。都内で記者団に語った。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120606/stt12060617590009-n1.htm

「皇室のご意見番」大原国学院大教授
2012.6.6 20:18
皇室に詳しい国学院大学教授の大原康男教授(69)の話
「お若いころには、時々羽目を外されることがあり、周囲に心配されることもあったが、お年を経るに従って、
皇室の歴史、伝統をわきまえられるようになられ、若いご皇族方にご助言されたり、ご相談に乗ったりされてきた。
何度かお話をさせていただいたことがあるが、皇位継承の問題についてもきちんとした考えをお持ちだった。
皇族の立場では皇位継承に関する発言をなかなか言いにくいが、政治が先行する形で女性宮家の問題が言われる中、
男系の維持を主張されていた。まだまだ皇室のご意見番としてご活躍いただきたかった」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120606/imp12060620180009-n1.htm

最期まで付き添われた彬子さまと瑶子さま
2012.6.6 21:54
6日逝去されたェ仁(ともひと)親王殿下の入院先の佐々木研究所付属杏雲堂病院(東京都千代田区)には
家族が集まり、最期まで付き添われた。この日朝、ポーランドから急遽(きゅうきょ)帰国した長女、
彬子(あきこ)さまと、数日間病室で看病を続けた次女、瑶子(ようこ)さまは悲しみに暮れられた。
病院には悲報を知った人々が集まった。主治医の会見も重々しい雰囲気に包まれた。
天皇、皇后両陛下と皇太子ご夫妻は同日夜、東京・元赤坂の赤坂御用地にある宮邸を訪れ、弔意を示された。
30歳になられる彬子さまは午前9時前、黒っぽいブラウスにスーツ姿で病院に到着された。
日本美術の調査研究を目的に、5月30日にドイツへご出発し、調査研究の後、今月3日からポーランドの
ワルシャワに滞在。4日に国際シンポジウムで大英博物館の日本美術コレクションについて発表された。
当初は8日に帰国する予定だったが、寛仁さまの体調などを勘案し、帰国を前倒しされた。
正午ごろ、いったん病院を離れ、元赤坂の宮邸に戻られた彬子さまは午後2時50分ごろ、
白い上着に紺色のスカート姿で戻られた。
寛仁さまは4日までは呼びかけに反応していたが、5日は強い刺激を与えた場合にだけ反応する程度に意識レベルが低下。
尿が出ずに、腎機能の低下した状態が続いた。関係者によれば、28歳になられる瑶子さまは3日以降、
ずっと付き添って看病されたという。
寛仁さまが逝去された約40分後、彬子さまと瑶子さまはそろって病院の玄関に姿をみせられた。
彬子さまは報道陣や病院関係者に深々とおじぎをされた。瑶子さまはうつむいたまま、呆然(ぼうぜん)としたご様子。
2人は一緒の車で病院を後にされた。彬子さまはハンカチで涙をぬぐわれていた。
テレビで悲報を知り、病院に駆けつけた千葉県の男性会社員(63)は「まだお若く、ご両親もご存命なのに…
とても残念です。ひげを蓄えて精(せい)悍(かん)な印象があり、皇族の中でも親しみ深い方だった」と
言葉を詰まらせた。
東京都中野区の会社員、小沢孝さん(62)は「寛仁さまは、弱い人や若い人の目線で行動される方だった。
今の時代に必要な方を亡くし、残念です」と話した。
ご遺体を乗せた車は午後6時前、病院から宮邸に向けて出発した。病院関係者が頭を下げて見送る。
集まった人々は車が見えなくなるまで手を合わせた。すすり泣く声も漏れた。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120606/imp12060621560015-n1.htm

「おひげを触らせてください」にも「どうぞ」
2012.6.6 23:18
ゆかりの人らから寛仁親王殿下の人柄をしのぶ声が相次いだ。
日本・トルコ協会の総裁を務めた寛仁さまは、明治時代に和歌山県串本町沖で座礁した
トルコ軍艦の乗組員を地元住民が救出した「エルトゥールル号遭難事故」が両国友好の原点とされる縁で
2度にわたり、串本町を訪問されている。
遭難事故から120年を迎えた平成22年の式典で“案内役”を務めた田嶋勝正串本町長は
「事故の映画を制作しようとしていると話すと(同号が明治天皇に謁見した帰路に座礁した経緯を踏まえ)
『宮家の中で私が一番、明治天皇に似ているといわれているのだよ。映画に私が出ようか』とおっしゃられ、
場を和ませていただいた」と話した。
障害者支援に力を尽くされた寛仁さまのありし日をしのばせるエピソードも。
全盲の視覚障害がある前川真弓さん(49)=大阪府門真市=は、平成5年秋に行われた障害者の
芸能コンクール大会に寛仁さまが審査委員長として出席されたときのことを鮮明に覚えているという。
「目が見えない私に殿下が優しく語りかけてくださった。そのとき『おひげを触らせてください』とお願いしました。
周囲は驚いた様子でしたが『どうぞ』とあごの辺りに私の両手を触れさせてくださいました。
わずか3秒間ぐらいでしたが、ふわふわとした感触は今でも忘れられません」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120606/imp12060623190020-n1.htm

女系天皇反対、ご発言 男系継承、方法を提案
2012.6.7 08:23
三笠宮家長男の寛仁(ともひと)親王殿下は、小泉純一郎内閣で検討された女系天皇容認を含む
皇室典範改正に関する議論で、皇族のなかで唯一、女系天皇に反対する考えを明らかにされた。
政治にまつわる問題に皇族が意見を表明するのは異例のことだった。
「世界に類を見ない我が国固有の歴史と伝統を平成の御世(みよ)でいとも簡単に変更して良いのかどうか」
寛仁さまは、平成17年に首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が、女性・女系天皇を容認し、
性別にかかわらない長子相続などを盛り込んだ最終報告書を提出したことについて、会長を務める福祉団体
「柏朋会」の会報に批判の文書を掲載された。
「天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代・神武天皇から連綿として一度の例外も無く、
『男系』で今上陛下まで続いてきているという厳然たる事実です」と述べ、元皇族の皇籍復帰や、
女性皇族に養子を元皇族(男系)から取ることができるようにするなどの具体的な方法をあげて
男系相続の道を探ることを提案された。
こうした発言に、皇室典範は日本国憲法における法律の一つとの立場から、改正議論は「内閣の責任で対応し、
国会で決議されるもの」との立場を貫いてきた宮内庁は、幹部が寛仁さまに直接会い、
ご発言を控えるように要請する事態にも発展した。
女系天皇議論は、秋篠宮家に41年ぶりの男子皇族となる悠仁(ひさひと)さまが誕生されたことで事実上、
白紙に戻されたが、宮内庁関係者の中からは、寛仁さまの発言を「自分が言わねばと、お立場から
やむにやまれぬお気持ちでおっしゃったもの」と受け止める声もきかれた。
寛仁さまは、18年2月にも産経新聞の単独インタビューで、有識者会議が旧宮家の皇籍復帰を
「国民の理解と支持を得ることは難しい」としたことに対し、皇太子ご夫妻の長女、敬宮愛子さまが
皇位継承者となり「女性天皇の配偶者」が陛下と呼ばれることのほうが違和感があるとご批判。
「あらゆる手を尽くした上でも次の世代が女性ばかりだったという状況になれば、
そのときに女帝・女系の議論に入ればいい」と述べられていた。
野田佳彦内閣は、昨秋から女性皇族が結婚後も皇室に残る「女性宮家」創設を議論しているが、
ご病状もあり、寛仁さまが公の場でお考えを表明されることはなかった。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120607/imp12060708250008-n1.htm

寛仁さま逝去、宮邸で「御舟入の儀」
TBS系(JNN) 6月7日(木)19時21分配信
6日に亡くなられた三笠宮寛仁さまについて、ご遺体を柩に納める、「御舟入(おふないり)の儀」が行われました。
寛仁さまが亡くなられてから一夜が明け、7日朝、宮邸の前に設けられた記帳所には野田総理をはじめ、
生前、親交があった人たちが記帳に訪れ、手を合わせる姿もみられました。
「寂しいですよね」(記帳に訪れた男性)
「まだ66歳でお若いのに、残念です」(記帳に訪れた女性)
午後には天皇・皇后両陛下が6日夜に続いて弔問に訪れました。また、午後5時からは一般の納棺にあたる
「御舟入の儀」が行われ、秋篠宮ご夫妻らが見守るなか、ご遺体が柩に納められました。
葬儀にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は今月14日に東京・文京区の豊島岡墓地で行われ、
寛仁さまの遺志で長女の彬子さまが喪主を務められます。
宮内庁によりますと、寛仁さまは日本が東日本大震災からの復興のさなかにあるため、
可能な限り、葬儀を簡素化してほしいと希望されていたということです。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20120607-00000049-jnn-soci


寛仁さま:両陛下弔問後、「お舟入」儀式
毎日新聞 2012年06月07日 20時42分(最終更新 06月07日 20時53分)
天皇、皇后両陛下は7日午後、亡くなられた寛仁親王殿下の宮邸(東京都港区元赤坂)を2日連続で訪れ、
寛仁さまにお別れをした。
宮邸では両陛下の弔問後、遺体を柩(ひつぎ)に移す「お舟入(ふないり)」が行われ、
ご葬儀の一連の儀式が始まった。
「お舟入」は、一般の納棺に当たり、午後5時から行われた。喪主の彬子さまをはじめ、
次女の瑶子(ようこ)さま(28)、秋篠宮ご夫妻、常陸宮ご夫妻、三笠宮ご夫妻ら皇族方12人と
親族8人が参列し、寛仁さまのご遺体を白木の柩に納めた。
続いて、皇太子ご夫妻も加わり、柩に一礼して別れを告げる「拝訣(はいけつ)」が行われた。
両陛下の長女黒田清子さん(43)ら元皇族も出席した。療養中の親王妃信子さま(57)は参列しなかった。
【長谷川豊】
http://mainichi.jp/select/news/20120608k0000m040055000c.html

2012年6月7日朝日夕刊
「彬子さま到着まで頑張って」 ェ仁さま最期まで親子愛
三笠宮家の長男、『ェ仁さまの逝去から一夜明けた7日朝、東京・元赤坂の宮邸ないで弔問記帳が始まり、
野田佳彦首相も記帳した。一般向けの仮設テントも設けられ、多くの記帳者が続々と訪れた。
ェ仁さまの病状が悪化した今月初旬、欧州訪問中だった長女彬子さまは日程を繰り上げて
「おとうま(お父さま)」と慕う父の元に急いだ。
「彬子さまの到着まで頑張ってください。」父娘の絆を知る人たちは、祈るような思いでェ仁さまに声をかけたという。
彬子さまは日本美術の調査研究のため、5月30日〜6月8日の日程でドイツとポーランドを訪れていた。
そのさなかの1日、ェ仁さまは口内で出血し、容体が悪くなり、友人が次々と見舞いに駆けつけた。
「殿下、彬子女王がもうすぐ帰ってきますから」
友人男性は、ベッドの上のェ仁さまにそう呼びかけた。
「本当に仲のいい父娘でしたから、何とか間に合ってほしいというのが、皆の思いでした」
彬子さまは6日早朝、成田空港に到着。すぐさま病院に向かった。対面してから約6時間半後。
ェ仁さまは彬子さまに見守られながら息を引き取った。
16回に及ぶ手術に耐え抜いてきたェ仁さま。彬子さまと次女瑤子さまあてに遺言状を書いたことがあった。
「すてきな女になれ」
「自由に生きろ」
そこには、娘への愛情あふれるメッセージがつづられていたという。
(島康彦・北野隆一)

寛仁さま葬儀に1億3110万円支出を決定 総費用は1億8900万円見込み
2012.6.12 08:58
6日に逝去された寛仁親王殿下の葬儀や墓の建造費用として、
本年度の国の一般会計予備費から1億3100万円が支出されることが12日の閣議で決まった。
葬儀にかかわる総費用は1億8900万円になる見通し。
 寛仁さまは東日本大震災からの復興の時期であることをふまえ、
「可能な限り葬儀を簡素に」との意向を示しておられ、同庁は楽士の装束の新規購入を控えるなどして経費を抑えた。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120612/imp12061208590001-n1.htm

三笠宮寛仁さまご逝去から6日 通夜を前に「正寝移柩の儀」
三笠宮寛仁さまが亡くなられて6日。お住まいでは12日夜、通夜が営まれる。
通夜を前に、ひつぎを移す儀式が行われた。
赤坂御用地にある三笠宮寛仁さまのお住まいを訪問し、ひつぎに拝礼された天皇皇后両陛下。
これに先立って、午後1時ごろには、寛仁さまのご両親である三笠宮ご夫妻も入られた。
「ヒゲの殿下」の愛称で親しまれ、6月6日に亡くなられた寛仁さま。
「東日本大震災で復興中というような状況を鑑みて、可能な限り簡素な葬儀にしていただきたい」と、
遺言状でお考えを示されていたという。
12日は、長女・彬子さまや麻生太郎元首相らが見守る中、書斎に安置されていたひつぎを
通夜の行われる部屋へと移す「正寝移柩(せいしんいきゅう)の儀」が行われた。
通夜は午後6時から、本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」は14日に営まれ、喪主は長女・彬子さまが務められる。
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00225246.html

三笠宮寛仁さまの通夜行われる 彬子さまが喪主を務められる
三笠宮寛仁さまの通夜が、12日午後から、赤坂御用地にある宮邸で行われている。
通夜は午後6時から、ひつぎが安置されている応接間で始まり、衆参両院議長のほかに、
天皇陛下の姉にあたる池田厚子さんらが参列した。
そして、喪主を務める長女の彬子さまが部屋に入られたのに続き、皇太子ご夫妻が部屋に入り、
ひつぎに向かい、深々と拝礼された。
その後、部屋の明かりが落とされ、静寂の中、黙とうがささげられたという。
これに先立ち、午後3時半ごろには、天皇皇后両陛下が弔問のために訪問し、
彬子さまや次女・瑤子さまの出迎えを受けたあと、ひつぎに向かって拝礼をされたという。 (06/12 19:14)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00225260.html

寛仁さま本葬 一般拝礼は2回
宮内庁は11日、亡くなられた寛仁(ともひと)さまの本葬に当たる14日の「斂葬(れんそう)の儀」の
一般向け拝礼を午前と午後の2回受け付けると発表した。
宮内庁によると、拝礼者の入門時間は午前11時40分から午後0時半までと、午後1時半から同2時半まで。
東京都文京区大塚の豊島岡墓地の正門から入場し、葬場前で拝礼する。花や供え物は受け付けない。
17、18両日には同墓地で一般の墓参も受け付ける。入門時間は午前10時から午後3時まで。
一方、宮内庁は葬送の儀式をつかさどる司祭長を、寛仁さまの妻信子さまの義兄相馬和胤氏に決めた。
宮内庁によると、相馬氏は福島県の旧陸奥中村藩主の相馬家当主。(共同)
2012年6月11日20時56分
http://iw2.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20120611-965903.html

天皇皇后両陛下、三笠宮寛仁さまに最後のお別れをされる
天皇皇后両陛下は13日午後、赤坂御用地を訪れ、三笠宮寛仁さまに最後のお別れをされた。
両陛下は6月6日以降、4回にわたって、弔問のため、お住まいを訪問されているが、今回が最後のお別れとなる。
その後、寛仁さまのお住まいでは、13日午後5時から、ご逝去にともなう儀式の1つである「霊代安置の儀」が行われ、
寛仁さまの2人の娘、彬子さまと瑶子さまや、皇太子さまなど、皇族方が参列された。
(06/13 19:04)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00225327.html

寛仁さま しめやかに「斂葬の儀」
2012.6.14 12:02
6日に66歳で逝去された寛(とも)仁(ひと)親王殿下の本葬に当たる「斂(れん)葬(そう)の儀」が14日、
東京都文京区大塚にある豊島岡(としまがおか)墓地でしめやかに営まれた。喪主を務める寛仁さまの長女の彬子さま、
皇太子ご夫妻をはじめとする皇族方が参列されたほか、親族、野田佳彦首相ら政財界の関係者、
各国駐日大使など計約650人が参列した。
寛仁さまのご遺体は午後に東京都新宿区の落合火葬場でだびに付された後、
再び同墓地に戻り、夕方に墓所に埋葬され、永遠の眠りにつかれる。
斂葬の儀の「葬場の儀」は、寛仁さまのひつぎを乗せた車の到着を待ち、午前10時に始まった。
寛仁親王妃信子さまの義兄で、旧陸奥中村藩主の相馬家33代当主・相馬和胤氏が司祭長として儀式の進行を担い、
寛仁さまの生前のご活動や、お人柄をしのぶ祭詞を伝統の大和(やまと)言葉で読み上げた。
天皇、皇后両陛下はしきたりに従って参列されず、勅使を務める宮内庁の川島裕侍従長と皇后宮使の
高橋美佐男侍従次長が玉ぐしをささげた。続いて皇族方が拝礼され、親族や各界関係者らも続いた。
寛仁さまの両親の三笠宮ご夫妻も、ともに車いすで拝礼された。
ストレス性ぜんそくなどのため療養を続けている信子さまは参列されなかった。親族総代は信子さまの兄、
麻生太郎元首相夫妻が務めた。
皇族の葬儀は平成16年12月の故高松宮妃の斂葬の儀以来。このときには寛仁さまが喪主を務められていた。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120614/imp12061412030002-n1.htm

NHKニュースより
hasira.jpg


副葬品にゴルフクラブも…寛仁さま「墓所の儀」
読売新聞 6月14日(木)21時0分配信
三笠宮家の寛仁(ともひと)さまの本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」のうち、納骨と埋葬を行う
「墓所の儀」が14日午後、東京都文京区の豊島岡(としまがおか)墓地で行われた。
皇族方のほか、三権の長ら約660人が参列した午前中の「葬場の儀」に続く儀式。
喪主で長女の彬子(あきこ)さま、お骨を納めた「霊櫃(れいひつ)」を抱えた次女の瑶子(ようこ)さま、
親族らが、新宿区の落合火葬場から同墓地に戻られ、同日午後4時過ぎに始まった。
寛仁さまの墓所は、2002年11月に亡くなられた弟の高円宮さまの墓所の斜め前の敷地に設けられた。
宮内庁によると、副葬品として、喉のがんの手術を受けたことに伴って使用されていた電気喉頭や眼鏡、
愛用のゴルフクラブやスキーセットが地下の納骨室に納められた。
彬子さま、瑶子さまら親族、皇族方がその後、土をかけられたという。
最終更新:6月14日(木)21時0分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120614-00001144-yom-soci

両陛下、寛仁さまの墓参
天皇、皇后両陛下は19日午前、東京都文京区の豊島岡墓地を訪れ、三笠宮家の寛仁(ともひと)さまの墓に
お参りされた。
しきたりで一連の儀式に出席しなかったため、墓所への訪問は初めて。
両陛下は、喪主の長女彬子(あきこ)さまと次女瑶子さまに出迎えられて墓所に到着。
三笠宮妃百合子さまらが見守る中、順番に玉串をささげて深々と拝礼した。
(2012/06/19-11:43)
http://jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012061900389
 
ご日程
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/02/h24/gonittei-2-2012-2.html
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/03/h24/gonittei-3-2012-2.html

平成24年6月6日(水)
皇太子殿下
ご視察(東邦チタニウム株式会社(神奈川県茅ヶ崎市))
皇太子同妃両殿下
ェ仁親王殿下薨去につきご弔問(ェ仁親王邸)

文仁親王同妃両殿下,眞子内親王殿下,佳子内親王殿下並びに悠仁親王殿下
ェ仁親王殿下薨去につきご弔問(ェ仁親王邸)

平成24年6月7日(木)
皇太子同妃両殿下
故ェ仁親王 拝訣(ェ仁親王邸)

文仁親王同妃両殿下
故ェ仁親王 御舟入,拝訣(ェ仁親王邸)

平成24年6月12日(火)
皇太子同妃両殿下
故ェ仁親王 お通夜(ェ仁親王邸)

眞子内親王殿下
故ェ仁親王 お通夜(ェ仁親王邸)

平成24年6月13日(水)
皇太子殿下
故ェ仁親王喪儀 霊代安置の儀(ェ仁親王邸)

眞子内親王殿下
故ェ仁親王 お通夜(ェ仁親王邸)

平成24年6月14日(木)
皇太子殿下
故ェ仁親王喪儀 斂葬当日柩前祭の儀(ェ仁親王邸)
皇太子同妃両殿下
故ェ仁親王喪儀 斂葬の儀 葬場の儀(豊島岡墓地)

眞子内親王殿下
故ェ仁親王喪儀 斂葬当日柩前祭の儀(ェ仁親王邸)
眞子内親王殿下
故ェ仁親王喪儀 斂葬の儀(葬場の儀)(豊島岡墓地)
眞子内親王殿下
故ェ仁親王喪儀 斂葬の儀(墓所の儀)(豊島岡墓地)

平成24年6月15日(金)
皇太子殿下
故ェ仁親王喪儀 斂葬後一日権舎祭・権舎十日祭の儀(ェ仁親王邸)
皇太子殿下
故ェ仁親王喪儀 斂葬後一日墓所祭・墓所十日祭の儀(豊島岡墓地)

平成24年6月25日(月)
文仁親王同妃両殿下
故ェ仁親王喪儀 権舎二十日祭の儀(ェ仁親王邸)
文仁親王同妃両殿下
故ェ仁親王喪儀 墓所二十日祭の儀(豊島岡墓地)

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

寛仁親王殿下 関連記事
寛仁親王殿下 女性天皇に異議
寛仁親王殿下から皇太子への手紙