寛仁親王殿下から皇太子への手紙

ヒゲの殿下が“人格否定発言”で東宮様へ送ったお手紙の中身
2012.06.06 18:40
「ヒゲの殿下」「スポーツの宮様」と親しまれた、三笠宮家の寛仁(ともひと)親王殿下が6日亡くなられた。
享年66だった。2004年に皇太子殿下が「人格否定発言」(※注)で注目を集めた直後には、皇太子殿下に
長文の手紙を送られたことを明かしているが、それはどんな内容だったのか。寛仁殿下はこう語っていた。
(週刊ポスト2008年1月18日号より)
 * * *
ごく当たり前のことですよ。私だったらこうするという解決策を1万3000字位の手紙に書いたのです。
例えば、よく言われるように、外国旅行に行きたかったとか、お世継ぎのことばかり言われたとか、
もしそんなことを人格否定とおっしゃるのなら、私のほうから文句を言いに行きますね。
まずお世継ぎが大事で、国際親善は二の次でしょう。それからもし本当に誹謗中傷があったなら、
言った人のところにやはり文句を言いに行きますよ。それが誰にもご相談がないんだから。
本来そのようなことは家庭内で処理すべき問題であって、記者会見で言うべきことではないでしょう。
結局何が本当の理由か、いまだに分かっていない。答えの出てこないことを皇族が言うべきでなくて、
解決策は幾らでもあったはずなんです。そのことをアドヴァイスしました。
他の皇族にそれを言いたくないとおっしゃるのなら、ご両親ご兄弟ともあれだけ仲よくしていらっしゃるのだから、
家庭内で議論を繰り返されるべきです。ただ、周りに聞くとご兄弟間で日常的に議論というものが無いらしいですね。
これはまずいと思います。
まずご夫婦をはじめ身内にご相談なり、それでも埒があかないなら、私みたいにどこにでも人脈がある人間に
相談していただければ、幾らでも解決方法はあるわけです。私にご相談があれば、人格を否定した人物を呼んで
「何てことをやったんだ、ばかやろう!」と言って、それで終わっていたはず。そういうことを、
何もなさってないですよね。

【※注】人格否定発言/2004年5月10日、皇太子殿下は、欧州歴訪前の会見で
「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあったことは事実です」と発言。国民の注目を集めた。
http://www.news-postseven.com/archives/20120606_115231.html

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テーミス2011年1月号
また、07年にはNYタイムズのインタビューに応じ、05年の皇太子さまの人格否定発言のあと、
皇太子さまに発言について説明するよう長文の手紙を送ったものの、
お礼程度の返事しか来なかったという趣旨の発言をされた。

2007年10月21日
「皇室はストレスの塊」=三笠宮寛仁さまが米紙と会見【ニューヨーク20日時事】
三笠宮寛仁さまは20日付のニューヨーク・タイムズ紙に掲載されたインタビューで、
「皇室はストレスの塊のようだ」と指摘、
ご自身のアルコール依存症などの背景には家庭内の問題も含め、
こうしたストレスの存在があるとの考えを示された。
皇族が海外メディアのインタビューに応じ、皇室の内情や意見を明らかにするのは異例。
同紙はインタビュー時期は明示しなかったが、最近、1時間40分にわたって行われたという。
同紙によると、寛仁さまはご家庭について、信子さまとの結婚生活も26年におよび、
家庭内にいろいろな難しい問題があると語った。
その上で皇室についても、さまざまな問題があると指摘。
一例として、皇太子さまの「皇太子妃の人格否定」会見を取り上げ、
「皇太子に長い手紙を出し、詳しい説明を求めた。返事があれば、いくらか前進することができたであろうが、
わたしの意見に礼を述べた返事しかなかった」と述べた。 
最終更新:10月21日17時1分
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2007102100107

月刊ボス2007年11月号
ヒゲの殿下が語る わが「アルコール依存症」顛末記
依存症になったいきさつや公表について(略)
酒量が増えたのは、皇室典範問題、皇族一人一人の問題、自分の家族の問題
自分が皇室典範改正反対の声を上げなければ、国会に上程されて皇族としてはタッチできなくなってしまってた。
人格否定発言に関して−
皇太子はなぜ陛下や周りの人間に相談しようとしなかったのか自分に相談してくれたら
宮内庁長官に直接掛け合う事もできた。
何度か長文の手紙を皇太子に出した。
皇太子と同じオックスフォード大マートンカレッジ出身で可愛がってもらってる彬子女王も寛仁殿下と
腹を割って話をしてくれるよう、長文の父親の自分でもほろりと来る様な手紙を書いたが進展しなかった。
帝王学について―
皇太子の帝王学はご進講、学校生活は寛仁殿下が受けた学習院での学校教育と全く同じ
悠仁様の帝王学は陛下を見て自然に身につけていけばいい、秋篠宮がそこは一番わかってるだろう。

女性セブン2007年
寛仁殿下は人格否定発言の後、周囲の人間とコミュニケーションを図られては? 
心の扉をお開きください というような手紙を雅子さまに数回出されたと聞いている(皇室関係者)
皇太子さまにも手紙を出したがお礼の手紙しか返ってこなかったのでかなり落胆されていた(皇室関係者)
皇室関係者によると寛仁親王は皇太子だけでなく雅子さまにも何度も手紙を送られた。

週刊ポスト2008年1月18日号
寛仁親王「皇太子殿下への御手紙」
ヒゲの殿下寛仁親王「皇太子殿下への御手紙」「雅子妃のご病状」「皇族のあり方」から
「8回目の手術で落ちた体力」まで熱論4時間!(聞き手・竹田恒泰)
竹田 
お2人が偶然お会いになって、どのようなお話をされたのでしょう。
殿下 
雅子様も私が宮内庁病院に入院していることをご存知だから、
すぐ車から飛びおりてきてくださり、「お身体の調子はどうなの?」と、
いつもと変わらずにおっしゃいまして、それで私は「いや、もう歩くのが苦しくてたまりません」
とお返事しました。そういうことが2回ありましたけど、私がお目にかかっている限り、
どこもおかしいところを感じませんね。
竹田 
貴重なお話だと思います。それ以外にも妃殿下とお話しになる機会はございますか?
殿下 
紀宮様のご結婚式のときも、雅子様はわざわざ私の隣にいらっしゃって、
そのときも私は入退院を繰り返していたので「お身体はどうなの?」とおっしゃるから
「いや、もういろんな難しい問題がございまして、私の身体はもうよれよれでございます」とか申し上げました。
先日も皇室会議の議員の選挙で皇族が宮殿薔薇の間に集まったときに、
たまたま雅子様の横に私が座っていたので、
雅子様のほうから「その後トレーニングはなさっているの?」とおっしゃいましたので、
私は「もう参っていまして、相変わらずつんのめってしまいます」などといつものペースで話したわけです。
すると雅子様もそのペースで話してくださるから、横で聞いていた娘の瑤子が
「おとーまとは全く普通にお話しになるじゃないの」と言っていました。
(略)
竹田
殿下はニューヨーク・タイムズの取材で「人格否定発言」のあと、
皇太子殿下に長文のお手紙をお書きになったとお話しになりましたが、どのような内容だったのですか。
殿下
ごく当たり前のことですよ。私だったらこうするという解決策を1万3000字位の手紙に書いたのです。
例えば、よく言われるように、外国旅行に行きたかったとか、お世継ぎのことばかり言われたとか、
もしそんなことを人格否定とおっしゃるのなら、私のほうから文句を言いに行きますね。
まずお世継ぎが大事で、国際親善は二の次でしょう。
それからもと本当に誹謗中傷があったなら、言った人のところにやはり文句を言いに行きますよ。
それが誰にもご相談がないんだから。
本来そのようなことは家庭内で処理すべき問題であって、記者会見で言うべきことではないでしょう。
結局何が本当の理由か、いまだに分かっていない。答えの出てこないことを皇族が言うべきではなくて、
解決策は幾らでもあったはずなんです。そのことをアドヴァイスしました。
(略)

殿下
子どもを持つというお気持ちをお持ちになったときから、当時の東宮両殿下(現在の天皇皇后両陛下)は、
うちの両親と同じ覚悟をお持ちにならなければいけなかったはずです。
子どもは小さいときは親の言うことを聞きますけれども、反抗期からはどうなるか分からない。
そういったことを真剣に考えて、しっかり対応できる家庭をつくる責任があると思うんです。
私には2人の娘がいますが、20歳までは親の責任と思っていましたから、
彼女たちはルーズソックスも厚底の靴も履かなかったし、茶髪にもならず、極めてノーマルに育ちました。
私なら身内にしっかりと注意しますよ。この間も姪がイギリスで馬鹿なことをして、
酷いことを雑誌に書かれてしまって(※英国の大学に留学中の高円宮家の承子女王が、
SNSサイト上に自らのブログを開設。ブログ上での英国での奔放な学生生活を公開していたことが報じられた)、
私は弟の未亡人を呼んで「おまえの教育方針は間違っている!」と言いました。
私も随分英国で問題を起こしていましたが、内容が違います。


文藝春秋2009年12月号
「人格否定」発言後、寛仁親王が出された長文の手紙に対して皇太子様は返事を出さなかった。
彬子女王もまた手紙をお書きになった。
「ご療養されている雅子妃殿下はお元気でしょうか。多くの国民が心配しております」との問いに対して、
瑤子女王がおっしゃいますには
「ときどき運動をされているときにお会いするのですが、お元気でいらっしゃると思います。」

女性セブン2012年6月28日号
三笠宮寛仁さま、案じ続けた東宮家
皇太子さまへ送った「激情の手紙」
「たとえば私自身、皇太子殿下の“人格否定発言”問題に巻き込まれました」
‘04年5月、皇太子さまは、
「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」
という衝撃的な発言をされた。
このとき、寛仁さまは皇太子さまあてに“自分だったらこうするという解決策”などを
1万3000字ほどの手紙にして送られたという。
「ニューヨーク・タイムズ」では、そのときの思いをこう述べられている。
「皇太子さまに詳しい説明を求める手紙を出しました。もしきちんとした返事をいただけていれば、
いくらか前進することができたでしょう」
寛仁さまと親しい皇室関係者がこう振り返る。
「寛仁さまは、両陛下と東宮家の間にできた距離を大変心配されていました。手紙には、皇太子さまに
“この距離を縮めるには殿下から歩み寄らなければなりません”といった旨の内容を綴られたとおっしゃってました。
しかし、皇太子さまからの返答があまりに形式的なものだったようで、寛仁さまは落胆の色を隠せない様子でした。
亡くなる直前まで“両陛下と皇太子ご夫妻の仲を取りもてるのは自分しかいないのに”
という使命感も持たれていたんですが…」
寛仁さまが自ら手紙を認められたのは、“皇室の未来”を案じ、
何とかしなければという熱き思いの表れだったと思われる。
1万3000字の手紙は、まさに寛仁さまの「激情の手紙」だったのだ。
女性・女系天皇容認案が浮上した際にも、皇族として唯ひとり反対の意見を表明されたのも寛仁さまだった。
それは男系維持が保たれなければ、日本国全体が滅びてしまうという危機感からだった。
‘08年12月にはこんな発言をされた。
《我が国から「皇室」が無くなったら、日本という小さな島国は纏まりを失い、分裂して
各国に分轄統治をされてしまうか、いずれにせよ2668年続いて来ている今の形は消滅するでしょう》