皇后さまと子どもたち

皇后さまと子どもたち 宮内庁侍従職監修 毎日新聞社 2008年10月

本書は、平成20(2008)年10月15日から同月27日まで、東京・日本橋高島屋で開催した
「皇后さまと子どもたち」写真展に展示された写真などを中心に編まれている。
(中略)
本書では、皇太子妃でいらした時代から同展までに撮影された、国内外の子供たちと触れ合われ、
ご自身のお子様方を慈しまれる皇后さまのお写真を掲載した。
また、その背景につき多くの関係者から話を伺い、お子様方の思い出とあわせて、紹介するものである。


皇后さまとお子様方
◇ご退院時の悲しみ
…当時の鈴木菊男東宮大夫は、この折ことをご成婚二十年の年に次のように記している。
「(記者クラブに)申し入れたが、車中は暗いからフラッシュなしでの撮影は不可能とのことで拒絶された。
しかし、普段はかなりの無理をお受け入れになる妃殿下が、
この時には珍しく再度これをご要望になり、再び交渉した…」。
最終的に記者クラブより、どうしてもフラッシュなしでということであれば、
窓を開けてゆっくりと車を発進させてほしい、という代案が出された。
浩宮様を抱かれた皇后さまが、半分ほど車の窓を開けて写っておられる退院時のお写真は、
このような経緯で撮影されたものであったが、このお写真は、
「ご誕生間もない新宮様を寒風にさらした」「将来天皇となられる新宮様を、窓を開けて写真に撮らせるとは」
という多方面からの非難を浴び、宮内庁からもマスコミ側からも、いっさいの事の経緯の説明もないまま、
その後いつまでも批判の材料に使われるものとなった。

◇綱渡りのような授乳と断乳
…こうした海外ご訪問は別としても、それよりももっと早いご出産二ヶ月余の頃に、
長時間浩宮様と離れて過ごさねばならず、もはや母乳のみの保育が困難と判断される日があった。
四月二十九日の昭和天皇のお誕生日である。
…数日前の四月二十六日、初めて粉ミルクによる哺乳をお試しになってから、
当日を迎えられた皇后さまはその朝六時に一回目の授乳をされると、
次は宮殿お出まし直前の九時少し過ぎに二回目を済まされて御所を発たれた。
昼の御祝宴後、東宮御所から女官がお連れした浩宮様に授乳をなさる。
ことだたず静かに、とのご希望により、女官候所の一角を女官たちがきれいな屏風で囲って差し上げ、
その陰で皇后さまはそっと授乳を済まされ、午後には予定通り陛下と都の体育館にお出ましになった。
夕刻には、東宮御所に戻られた浩宮様に看護師が粉ミルクを差し上げた。
数日前のお稽古が活きて、宮様は問題なく飲まれたようだ。
その日の次のご授乳は、皇后さまが皇居からお帰りの後の夜の九時頃、
過密なご日程の間を縫うようにして授乳され一日を終えられた皇后さまは、
どんなにか安堵され最期の授乳をなさったことであろう。
…前の時代には、お望みになってもお出来にならなかったことを、
ご自分が今許されてさせて頂いていることの有難さを、皇后さまはいつもお心に深く思っていらしたのであろう。
時代の変わり目にあるために生じる様々な不合理やご不便については、決して口にされることはなかった。
ご自分がしのばれたのは、次の時代に来る人を同じ枠で縛るためではなく、
一時代を経ることによって、ようやく時が熟するということがあり、
ご自分がその時をつなぐ飛び石の役割を担われようとされていたのではないか、と見ている人もある。
時代が過ぎ、皇后さまのご養育が一段落した頃に、寛仁親王妃、高円親王妃が上がられ、次々とお子様を持たれた。
長い宮殿行事のあるような日、皇后さまは、宮殿のご自分のためのお部屋である「花の間」を
女官と共におしつらえになり、お若い妃殿下の授乳のお部屋として、いつでもお使いになれるよう
ご準備をなさっていたと伺っている。

◇「合宿所」のよう −多くの職員と共に―
両陛下のご成婚二十周年の記念誌によせて、昭和四十年代に女官を務めていた高橋滋子氏は、
両陛下のご結婚当時の御所の様子を次のように記述している。
「戦後の御所は、職員も公務員法による勤務で、宮様をお世話する出仕や看護婦も三人で三交代という、
お子様のお育ちの上ではとかく一貫性を欠きがちな心配のある環境の中で、
御三方の宮様が、のびのびとお育ちになった陰には、両殿下(現在の両陛下)の一方ならぬお心定めがおありでした。
任せた者をご信頼になり、小さなマイナスをおとがめにならず、ゆったりと皆の心を結び合わせて、
働き良い環境を作って下さったことを何より有難く思っております」。
小さな宮様方のお傍にいた職員たちは、皆とても若かった。幼稚園入園以前は看護師が、以降は親王の場合は
男子の内舎人(うどねり)、内親王の場合は女子の出仕と呼ばれるいずれも二十代か
せいぜい三十代の職員がお勤めに上がった。
東宮侍従や御用掛がその上にたってとりまとめをしていたものの、
育児体験をしたことのない若い職員たちは、試行錯誤で宮様方のお世話に当たった。
陛下より、「内舎人は、(子供たちに対して)威厳を持たなくては」とのお言葉を受けたある内舎人は、
その「威厳」をどう表せばよいかわからず、必死に独自の解釈をした結果、
「とりあえず、怒鳴ってみました」という。
定年退職した後、久しぶりに御所に上がった当時の内舎人の一人が
申し訳なさそうに申し上げるのに対して、成長された殿下方は、
「あの時、結局、どうして怒られたのかわからなかったなあ」とのどかに思い出しておられたという。

◇お手元で育てるということ
…昭和天皇、香淳皇后の吹上御所へもたびたび足を運ばれ、週に一度のご参内の時には、
出来るだけお子様方もご一緒にお連れになった。
各宮様方が一歳というお小さい時にも、両陛下の吹上御所ご訪問は、年に三十回以上を数え、
うち二十五回前後がお子様方を伴ってのお訪ねであった。
平成十九年(2007)年のお誕生日会見で、皇太子殿下は、吹上御所ご参内の思い出を次のように述べておられる。
「私は、幼少のころから昭和天皇のところに今の両陛下とご一緒に上がる機会がいろいろ多くありましたけれども、
そのようの折に、今の陛下が皇太子としていろいろなことをやっておられる、そういうことを強く感じましたし、
それから幸い日常の生活においても、公務によっては成年に達していないと出られないような公務も
あるわけですけれども、外国のお客様ですとか、いろいろな方が来られた時に
私もご一緒させていただく機会がありまして、そのような折に、今の陛下から皇太子としての在り方というものは
こういうものなんだということを、いろいろと小さいころからご一緒することによって
学ばせていただいたという感じを強く持っています」。
また、同様の思い出を、平成九(1997)年のお誕生日回答文書で紀宮様は次のように語っている。
「小さい子供を連れてのご参殿は、はらはらなさることも多かったと思われますが、両陛下が、
いつもおうれしそうに上がられ、お話しになっているご様子を拝見して、
『両陛下』というお立場への尊敬と若干の緊張を抱きつつも、『おじじ様』『おばば様』に対して
子供らしくお親しみ申し上げ、おいたわり申し上げる気持ちを自然に持つことができました」。
時刻が来て、ご退出の時間を侍従から申し上げると、昭和天皇は「もう時間か」と驚かれたような、
名残りを惜しまれるような一言をおつぶやきになったという。
お孫様方にとって、ご団欒の中での貴重な学びのひと時は、「おじじ様」「おばば様」におとりになっても、
お心の和まれる、お楽しみのひと時だったようである。

◇お弁当
…お子様方のお話しになる学校生活のご様子を、両陛下は楽しそうにお聞きになっていらしたというが、
両陛下がお子様方の学校生活をご覧になる機会は、決して多くはなかった。
紀宮様がお生まれになった年に御所に上がり、二十年近くを皇后さまのお傍近く勤めた
松村淑子元東宮女官長(及び元女官長)は、当時の皇后さまの育児を振り返り、次のような一文を残している。
「…皇后様は、限られたお時間の中で、一生懸命に宮様方をお育てでございました。
ご公務や宮中の祭祀は、全てに優先されておりましたから、お子様方には何度となく、
母宮様にいらしてお頂きになれぬ卒業式や遠足、運動会などがおありになりました。
皇后様はこのような時、ご自身の寂しさがお子様方のお悲しさを増幅しないよう、
いつも行き届いた配慮をなさっており、また、このような機会を捉え、公人としての義務のあり方を、
ごく自然にお子様方にお教えになっていらっしゃいました」。
皇后さまがお付き添いになっての幼稚園入園式の翌日から、お子様方は、侍従または女官あるいは出仕と共に
お一人で園に通われた。長い外国ご訪問の間でも、日本との時差を合わせたり、
またそのお時間をお取りになること自体が難しかったため、お子様方とお電話をなさることは
ほとんどおありにならなかった。お子様方は、旅先からの皇后さまの短いお手紙や、
ご旅行前に職員に託されたお手紙などをお読みになって、両陛下の御旅に思いを馳せられたという。…
お忙しい日常の中で、皇后さまがお子様方のために、欠かすことなく続けてこられたことがある。
その一つが、お子様方のお弁当であった。初等科の六年間は給食があったが、
幼稚園と、中、高等科合わせて八年間、皇后さまは、それぞれのお子様方のために、
よほどのことがない限り毎日お弁当をお作りになった。
礼宮様は、高等科生になられた時、学校の売店のパンなどを召し上がってごらんになりたかったのか、
高校の時は曜日によってお弁当をお願いになった。その頃皇后さまは、ご健康上の理由から毎日早朝に
お庭を歩かれていたが、その後お弁当を作り、お子様方と一緒に朝食をおとりになるというご生活であった。
初等科低学年の紀宮様が、兄宮様方のお弁当をうらやましがられた時には、
小さなお弁当箱に兄宮様方と同じものをおつめになって、朝食の席にお出しになることもおありだったという。
皇后さまのお弁当は、今のお母様たちが作られるような、キャラクターを盛り込んだ華やかなものなどではなかったが、
一生懸命に工夫され、彩いもきれいに作られた。鶏のそぼろ、いり卵やいんげん、椎茸を味付けご飯の上に載せ、
紅生姜を飾った三色ご飯のお弁当は、どなたもお好きでよく作られた。
緑野菜の炒め物、人参のグラッセ、魚や肉は下味をしっかりとつけて調理された。
大膳課の人々も、皇后さまの陰の協力者であった。
皇后さまのお台所は大膳の厨司たちが働く地下の料理場とは別に、一階の食堂のすぐ脇にあり、
冷蔵庫も備えられていた。皇后さまは一週間単位で献立表を作られ、大膳がそれに必要な材料をお調えした。
必ずその日の朝に作る、という大膳とのお約束があり、前日に準備することが出来ず困られたようだが、
やがて皇后さまも考えられて、魚や肉の味噌漬けや粕漬けならばと許可を得られた。
卵の黄身の味噌漬けも、一晩漬ける必要から前晩にご用意になることが出来、
これも宮様方のお好きな一品に加わった。
最初から何もかも上手にお出来になったわけではなく、「大変、焦がしてしまったの」というお電話で、
スワと厨司が階段を駆け上がったこともあったという。炊飯はお頼みになることもあり、
いざという時は助けてもらえるのだから、一人前のことをしているわけではない、
とよく周りの者におっしゃっていたが、ご日程のため、日中宮様方に十分にお付き合いになれない皇后さまにとり、
早朝のひと時、宮様方のために何かをなされるということを喜びとされ、また楽しみともしていらしたようである。
浩宮様も礼宮様も、初等科高学年で剣道をされたが、剣道部の冬の名物といえば、早朝練習の「寒稽古」であった。
朝早くに御所を出られるお子様方のため、皇后さまは、まだ暗いうちからお起きになり、
お子様方が出がけに召し上がれるよう、簡単だがお体の温まるお雑炊のようなものと、
稽古を終えて召し上がる朝食用のお弁当をお作りになった。また、この時、お子様方にお供をする職員にも、
同様のものを出発前に届け、身体を温めるよう気遣われたという。
最後のお弁当を召し上がってから久しい今になっても、両陛下とお子様方の間で、
お弁当のお話が懐かしく語られると伺っている。

◇お見送り・鉛筆けずり
通常ご朝食を終えられると、お子様方は支度をなさり、お母様の作られたお弁当を持って
それぞれ幼稚園や学校に行かれたが、お子様方のお出かけをお見送りになることは、
両陛下がお子様方の学童時代、出来る限り欠かさないよう努められたもう一つのことであった。…
宮中晩餐をはじめ、レセプションや御所での賓客のおもてなしなど、
両陛下のご日程は夜遅くまで続けられるものも多い。
お帰りになった時には、お子様方の寝顔をご覧になるだけの日も少なくはなかった。
紀宮様が初等科に入られてからは、夜、寝つかれた紀宮様のベッド脇の勉強机に小さなライトをともして、
翌日学校で使う鉛筆を、皇后さまは一本一本ご自身で削られた。
時々、机の上には「おやすみなさい」が申し上げられなかった代わりに、
紀宮様からお母様あての絵やお手紙が添えられていたり、
その日に習った漢字やなぞなぞを書いた紙が置かれていたりした。
朝起きた紀宮様は、真っ先に、皇后さまが付けてくださった赤丸や、お答えを楽しみに見ていらしたという。
皇后さまがお留守だったある夜、こっそり入ってこられた礼宮様が鉛筆を削って、
またこっそり出て行かれた出来事が、紀宮様の初等科の作文に書かれている。
この皇后さまの夜の小さなお仕事は、紀宮様がご両親より、刃物を使っての鉛筆の削り方を習われるまで、
お帰りがどんなに遅くなってもお疲れであっても、コツコツと続けられた。


◇学びのひと時
…親子代々で歴史をお学びになった御本もある。百科事典的文庫本であった「日本児童文庫」の中に入っており、
昭和四(1929)年から同五年にかけて三巻組で出版された子供向けの歴史書『西洋歴史物語』である。
村川堅固、大類伸、斉藤清太郎の西洋史学者各氏を著者に平明な文体で書かれた本書は、
陛下がお小さい頃に歴史を学ばれた御本であり、歴史的事項を並べるというより、
トロイの木馬の作戦やオリンピック競技大会の始まり、英雄ハンニバルなど、
ドラマチックな興味深い史実を歴史の流れの中に上手にはめ込みながら書いているので、
子供にとっても面白い読み物になっている。
陛下はこれを、最初に礼宮様とご一緒に読み進めていかれた。
昭和初期の著作ということで、当然ながら旧漢字、旧仮名遣いという本文も、
普段使われない字を読む面白さとお感じになったのか、礼宮様は、すぐに旧漢字を吸収され、
その字を使ってノートをおとりになるようになったという。
やがて紀宮様や職員も加えて、グループ勉強会のような形になり、一区切りの話の中で、
わからなかったことやテーマを決めて調べ、両陛下や浩宮様の前で発表する会となっていった。…

◇お庭物語
当時、御所には羊や鶏が飼われており、動物好きの礼宮様が、羊を連れて(時には乗って)
お散歩をなさる姿も拝見できた。自然、お子様方のお部屋には、虫やカエルやカメなどが当たり前のように共存し、
特に礼宮様は
何種類もの両生類や爬虫類などを飼っておられ、時々脱走騒動が起こることもあった。
皇后さまも、大きなトカゲを小さな手で捧げ持ち、ニコニコなさりながら
「おたたちゃま、アオジタトカゲをなでてあげて」とおっしゃる礼宮様のお願い事をお聞きにならざるをえなかったり、
夜の暗闇でカエル捕りにおつきあいになったり、虫に刺されたり噛まれたりして泣かれるお子様方をなだめたり
慰めたりなさるお仕事も増えていったようだ。
その頃、御所のお庭にはヘビが多く、ある日のお散歩の折、紀宮様が一匹のアオダイショウを見つけ、
「清子、捕まえろ!」という礼宮様の号令のもと追っていかれた。皇后さまは、一瞬毒の有無を心配なさったのだろう。
陛下にお尋ねになり、無毒と確かめられたらしく、紀宮様のお背に向かって嬉しそうに、
「清子ちゃん、毒ないのですって。噛まれても大丈夫よ」と叫ばれた。
「我が家では、ヘビに噛まれるまでは危険じゃなくて、噛んだ蛇に毒がある時点からが危険なのね」と、
紀宮様は大きくなられてから、本当におかしそうに側近に話されたという。
確かに、お子様方には、お友達がするようにご両親と一緒に遊園地やキャンプ場や、
様々な施設に出かけられる機会はほとんどおありにならなかったが、羊のお産に見入ったり、
池で投網を打たれるお父様の技に心を躍らせたり、冒険に満ち、また自然界の厳しさや、
美しさを感じられる良い体験を沢山にお持ちだったのではないかと思われる。

◇羊の毛織のジャケット
ご懐妊の間、皇后さまは、新しくお生まれになるお子様のため、柔らかなカーゼやさらしの産着や、
小さなお布団などをお縫いになった。新生児用の肌着は、赤ちゃんの柔らかい肌を痛めぬよう、
縫い目を表側で伏せ、丁寧に手縫いにされてあるという。
こうした産着や、後ろにフリルのついた浩宮様の愛らしいロンパースが、今も少しだが残っている。
お子様方が少し大きくなられると、今度は、お子様方からの注文がお母様に寄せられるようになってくる。
お時間に追われる中で、皇后さまは、今までお作りになったことのない、
そして型紙もないような様々なものをお作りになることとなる。
紀宮様がヘビのぬいぐるみをお頂きになると、礼宮様より、「もっと大きなニシキヘビのぬいぐるみ」のご注文。
アニメのキャラクターである、ヒューヒューとポーポーというお化けのようなぬいぐるのご注文。
紀宮様からは、ご自分のぬいぐるみに着せる夏冬の洋服…。
皇后さまは、時には、風邪を引いて寝込まれたお子様方の枕辺で、あるいは、お食事後のひと時に、
一生懸命に編み針を動かしたり、ミシンをかけたりなさって、お子様方のために様々な品をお作りになった。
それらを持ち歩き、時には引っ張ったり、投げ合ったり、くたくたになるまで遊び相手にしたことを懐かしまれつつも、
「もっと大事にして取っておけばよかった」とどなたもが少し残念がっておられるという。

◇新しい世代へ受け継ぐもの ――皇后さまとお孫様方――
…両陛下は、時々御所におあがりになる小さなお孫様方とのひと時を楽しみにしてこられた。
お孫様方が少し大きくなられると、陛下のお畑での作業をご一緒になさったり、
歴代の皇后さまのお仕事であるご養蚕の場所にお連れになって、蚕のお世話をご一緒になさったりされることもあった。
平成十四(2002)年のお誕生日にあたっての、お孫様に関する記者質問に対しては、次のように述べておられる。
「眞子も佳子も、小さい時からよく両親につれられて御所に来ており、
一昨年ごろからは、両親が留守の時には、二人だけで来ることも出来るようになりました。
生物学研究所のお庭に、陛下が水稲のための御田の他、五畝ほどの小さな畠をお持ちで、
毎年そちらで陸稲と粟をお作りになるのですが、眞子が五つ、佳子は三つの頃から、
種まきや刈り入れの時には、ほぼ毎年のように来て、陛下のお手伝いをしています。
このようなとき、鋏や鎌などの道具の使い方や、使う時の力の入れ加減、抜き加減などを教えることが、
私にはとても楽しいことに感じられます。養蚕のときに、回転まぶしの枠から、繭をはずす繭掻きの作業なども、
二人していつまでも飽きずにしており、仕事の中には遊びの要素もあるかもしれません」。

…お孫様方も大きくなられるにしたがって、ご両親殿下のお話から少しずつ宮中の行事やお祭についても
ご興味を持ってきておられるようだ。
ご自身のお子様方がお小さかった頃、皇后さまはよくお子様方のために、ふじたみつ氏の書いた
『かみさまのおはなし』という子供向けの全二巻の御本を読んでお上げになっていたと伺っている。
これは、陛下がご幼少の頃、ご自身でお読みになっていらした御本で、皇后さまが、お子様方のための
良い神話の御本がないかお尋ねになった時、陛下がお教えくださったものであった。
後に、このことを伝え聞いた作者が、「絵巻物もあるのでお見せしたい」ということでお招きになり、
お子様方にお見せになったところ、お子様方は真剣にご覧になっていらしたが、その頃紀宮様はまだお小さく、
「黄泉の国」の入り口がとても怖くて少しお泣きになったという。
お子様方にとって宮中祭祀は、ご成年に達するまでご出席はないながらも、
両陛下がお祭を大切にされているご様子を間近にご覧になってきた。
東宮女官、御用掛と現在に至るまで三十年近くを御所に勤めている和辻雅子御用掛は、
お祭の日の御所の様子を次のように伝えている。
「新嘗祭の折などには、祭祀が深夜に及び、皇后様は御装束をお召しになり古式ゆかしいお姿のまま、
御拝を終えられた陛下と共にお祭り終了までお慎みの時を過ごされます。
このような祭祀の夜は『およふかし』と御所で呼ばれておりましたが、
宮様方も一定のご年令に達されてからは、それぞれにこのお時間を最後まで静かにお過ごしになるようになりました。
終了のお知らせが参りますと、お二階の両陛下のお部屋までいらっしゃった宮様方の、
『お滞りなく…』『おやすみなさい』とおっしゃるお声が次々と響き、
祭祀の終わった安堵を感じるものでございました。ご生活の中に入っている、
こうしたある意味特殊なお行事も、その一つ一つをお果しになることが、ご日常の自然な秩序であり、
同時に両陛下やご自身様方のお立場に伴うお務めを理解される大切な機会となっていたことを改めて思いだします」。