震災関連の皇室の活動 雑誌記事等1

女性自身2011年4月5日号
美智子さま/雅子さま/紀子さま「切なる愛!」秘話3話
美智子さま/撮影3時間延長した陛下との「激励ビデオ」
3月16日、陛下ビデオでお気持ちを国民に伝えられたが、ビデオメッセージは初めてのこと。
「東日本大震災が発生したとき、陛下は美智子さまと宮殿にいらっしゃいましたが、揺れが非常に大きく、
宮殿の南庭に避難されました。いまはお住まいである御所にいらっしゃいます。
宮殿は非常に広く、両陛下がいらっしゃるということになれば、暖房のための電気量もかなりのものです。
両陛下はその点も苦慮され、執務のほとんどを御所で行われているのです」(宮内庁関係者)
“国民と苦難を分かち合いたい”というお考えから、御所でも節電を実行されている。
「具体的には計画停電の第1グループの時間に合わせて、御所の電気のブレーカーを落としていらっしゃいます。
また御所では放射線被ばくなど災害に関する説明を熱心にお聞きになっているのです」(宮内庁関係者)
ビデオメッセージも御所の応接室で撮影された。
「撮影は、メッセージが流された16日の当日に行われ、美智子さまも立ち会われました。
もともとは午前中で終わる予定でしたが、実際に終了したのは午後3時だったのです」(宮内庁関係者)
陛下のお言葉がNHKで放映されたのは午後4時半ごろ。収録されてからわずか1時間半後のことだった。

雅子さま/“帰宅難民”の母子たちに届けた温もりの(美智子さま直伝)コンソメスープ!
大震災当日、東京では帰宅難民があふれたが、学習院初等科も例外ではなかった。
「11日には『6年生を送る会』が行われました。愛子さまはすでに東宮御所に戻られていましたが、
地震発生時は多くの初等科児童たちが学校に残っていました」(ある保護者)
登下校には電車やバスを利用している児童も多い。交通網がストップしたため、初等科に戻ってくる児童もいたという。
「結局、帰宅を断念し、初等科に泊まり込むことになった親子もずいぶんいました。彼らには学校から
乾パンや水、それに毛布も配られたのですが、不安もつのるばかりだったでしょう」(初等科関係者)
しかし、夜9時ごろになって突然、初等科に思わぬ“救援物資”が届いたのだ。
「温かいコンソメスープと、オレンジジュースでした。雅子さまからの差し入れだと伺いました」(初等科関係者)
「皇室には、お見舞いとしてスープを届ける習慣があるのです。特に美智子さまはオリジナルの
スープ・レシピをお持ちで、体調を崩した知人などに送られています。雅子さまも、この美智子さまの
お心遣いをお手本にされたのでしょう」
3月18日には、皇太子夫妻のウィリアム王子の結婚式欠席が発表された。
“今は国民みんなと心を一つにして復興を目指したい”雅子さまはそう決意されたはずだ。
紀子さま/7歳年下“最愛の弟”の乗った電車が津波で横転事故の惨劇!
「紀子さまの弟さん(川嶋舟さん)が乗っていた電車は横転し、
彼も現場付近の病院に搬送されました」(川嶋家の知人)
3月11日、舟さんは、妻子の住む家に、仙台経由で電車に乗って戻る途中だったようだ。
幸い大きなケガもなく、人々の救助、そして獣医師として馬の治療に奔走したという。
「紀子さまは、二人きりのきょうだいということもあって、舟さんをとても可愛がっていました。
舟さんのお子さんは悠仁さまと同じ4歳です。
舟さんの被災については、紀子さまは、お母さまの和代さんから聞いて大変驚かれたそうです」(前出・知人)
紀子さまは小学3年生の時に、『私の弟』という題の作文を書かれた。
〈いつもいたずらをして、私を困らせる舟ちゃんですが、
ほんとうは、わたしの心の中には、舟ちゃんのことをだいすきという心があるのです〉
紀子さまは、最愛の弟が無事だったことをどんなに喜ばれたことだろう。
しかし、いまだに舟さんは妻子とともに相馬市にいる。
「舟さんは、一度東京に戻って来たのですが、それは相馬市で不足している
物資を取りに来るためでした。すぐに妻子のいる相馬市に戻って、
被災者たちの支援活動を続けています」(前出の知人)

週刊新潮2011年3月31日号
「朝日」は天皇陛下「お見舞い」全文をなぜ載せない?
3月16日午後4時半過ぎ、テレビ各局からほぼ一斉に天皇陛下のビデオメッセージが流されたが、
陛下のメッセージが配られたのはテレビ局だけではない。
「宮内庁記者クラブを通じて新聞各社にも配布されました。全文は翌日の朝刊に、
ビデオはホームページに掲載したのですが、いずれも反響は大きかったですよ」(宮内庁担当記者)
ところが、だ。陛下のメッセージ全文を紙面に掲載しなかったところがある。朝日新聞だ。
朝日はおことばがビデオで発表されたという事実と、その内容をかいつまんで掲載。
全文はインターネットサイトでしか読めないという体裁なのである。
これについて朝日新聞は、「天皇陛下のメッセージについては、紙面に抜粋を載せ、
ウェブ版に全文を掲載しました」(朝日新聞広報)と、なんともそっけない回答。
だがある皇室ジャーナリストは各紙面を見比べてこう嘆息を洩らす。
「特に被災地の方が、インターネットで全文を見るなんて不可能に近い。
陛下のおことばを熟読したい人も多いはずなのに、回し読みも出来ない。
特別態勢で報道をしているのはわかりますが、陛下のおことばも震災報道のひとつなのでは」

女性自身2011年4月12日号
「3月21日には、大震災が発生して以来、初めての宮中祭祀が行われました。『春季皇霊祭の儀』です。
参集されたのは天皇皇后両陛下や皇太子さま、秋篠宮ご夫妻ら10人の方々でした」(ある宮内庁関係者)
実は今回、両陛下の祭祀ご出席に反対の声もあがっていたという。「神楽舎の柱が地震で傾き、
皇霊殿へ向かう廊下の天井板も崩れており、側近たちは『余震も続いておりますし、非常に危険です』とお止めし、
掌典長による代拝をお勧めしたのです。しかし、天皇陛下と美智子さまは、
“私たちに祭祀をさせて下さい”と、強くおっしゃったそうです」(宮内庁関係者)
結局、祭祀は建物の中には入らず、庭から皇霊殿を拝む『庭上拝』という形式で行われることになった。
当日の午前10時ごろは、東京では冷たい雨。通常なら陛下は衣冠束帯、美智子さまは十二単風の
古装束をお召しになるが、庭上拝ということで、それぞれモーニングとローブモンタントの洋装でいらっしゃった。
「春季皇霊祭は本来、両陛下が皇室の祖先に五穀豊穣や国民の幸せを祈る儀式です。今回は、
“日本をお守りください”“被災者をお救いください”と必死に祈られたことでしょう。いくら建物の
倒壊の危険があるといっても、代拝ですませるお気持ちではなかったのだと思います」(皇室ジャーナリスト・松崎氏)
陛下と美智子さまは、特に’97年から’01年の間、頻繁に東北各県を視察されている。
今回の震災で壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町にも’97年10月に訪れている。
雅子さまが成婚ご初めて地方公務に訪れたのも岩手県。雅子さまのお祖母様の実家も岩手県にあった。
幼少期、お祖母様と二人で盛岡に旅行されたのも雅子さまにとっては忘れられない思い出だという。
「“陛下と一緒に巡った地である東北へ、すぐにでも飛んでいきたい”
そう美智子さまは願っていらっしゃると思います。(中略)しかし救出活動は今も続いており、
さらに放射性物質流出事故のため、お見舞いの日程のめどが立っていないのが現状です。
両陛下もいたたまれない思いでいらっしゃるでしょう。3月16日には史上初めて天皇陛下の
ビデオメッセージが発表されましたが、ほかにも初めての試みが続いています。それらはすべて
両陛下のご意向によるものだそうです」(松崎氏)
天皇陛下は宮内庁の幹部たちにおっしゃったという。
「ささやかでも宮内庁の施設を役立ててもらえないだろうか」
このご指示により、宮内庁は24日に次の3つの支援を発表した。
1那須御用邸の職員用の風呂を近隣地域にいる避難者に開放。
2御料牧場の食料を避難所に提供。
3東京都に避難している老齢の患者を宮内庁病院でも受け入れる。
実はこれらの施設のうち、栃木県にある御料牧場自体も甚大な被害を受けている。
「乳製品や肉加工品などの製造の施設に被害があり、各製品を製造できない状態であるほか、
貴賓館、集会所なども使用できない程度の被害を受けています。
また職員の宿舎も居住できない程度の被害を受けています」(宮内庁総務課報道室)
「まったく報じられていないのですが、御料牧場からの、御所や東宮御所、各宮家への食材の提供は、
震災後にストップしています。震災は皇室の食卓も直撃していたのです。今回発表された御料牧場からの
備蓄提供という支援は、両陛下の“私たちの食事より、被災者を優先させて欲しい”という
深いお気持ちも込められていたのです」(松崎氏)
3月11日以来、両陛下は連日のように、震災関連の専門家から被害状況や対策についての説明を受けられている。
17日に両陛下に救護活動について説明した日本赤十字社社長・近衛氏は、「(略)両陛下からの熱心な
ご質問の一つ一つに、被災者のみなさんへの思いがいかに深いものであるか、痛いほどに伝わってきました…」
日々の専門家からの事情説明に加え、両陛下が続けていらっしゃるのが“自主停電”である。
「執務を行われる宮殿は可能な限り使用されず、さらに15日以降は毎日、お住まいである御所のブレーカーを
一定時間落とす生活を続けていらっしゃいます。1日に2回の停電をする場合は、合わせて4時間も
電源を落とされています。その間は、明かりや暖房を止めるだけではなく、電気を使わない暖房器具の利用も
控えていらっしゃるのです。夜にはそうそくや懐中電灯をお使いになり、暗い中で夕食を取られたこともありました。
計画停電は実際には直前になって中止になることもあります。しかし両陛下はその場合でも停電を
おやめになりません。陛下や美智子さまにならい、皇太子一家や秋篠宮ご一家をはじめとする各宮家も
同様の生活をおくっていらっしゃるそうです」(前出・宮内庁関係者)
震災発生の3月11日から27日までの17日間で、両陛下の“自主停電日”は13日間、のべ36時間にもなるという。
「皇太子ご一家から秋篠宮家の幼い悠仁さまにいたるまで、皇室が一丸となり決行されている
“自主停電”は、天皇陛下と美智子さまが呼びかけられたものです。“国民と苦しみを分かち合いたい”と
いう強いお気持ちのあらわれです。さらに言えば、美智子さまが自主停電にこだわられているのは、
この時間を“祈りのとき”とされているからに違いありません。(略)灯火を消した闇の中で、両陛下が
ひたすら祈られているのは被災者の救済と、日本国民の幸せです。
皇太子さま、雅子さま、愛子さまも、震災以来は東宮御所からお出かけにならず、
お慎みに日々を送っていらっしゃいます。雅子さまも、美智子さまと同じように、
祈りのときを過ごしていらっしゃるのでしょう」(松崎氏)
天皇ご一家が心を一つにして捧げている“救国の祈り”は、きっと日本の未来を照らすはずだ―

週刊女性2011年4月12日号
「自主停電」お続けの天皇・皇后両陛下が、御用邸・牧場・病院を「開放」
15日から自主停電を始められている両陛下が、24日にさらなる支援を申し出られた。
那須御用邸の風呂の開放、御料牧場の食材の提供、宮内庁病院での被災者の受け入れだ。
「今回、開放される入浴施設は側近が宿泊する供奉員宿舎内にあるます。古い木造の建物ですが、
秋篠宮ご一家が御用邸にお泊まりの際はここをお使いになります。」(皇室ジャーナリスト・山下氏)
そんなご縁もあってか、秋篠宮妃紀子さまと長女の眞子さま、次女・佳子さまは、浴場で使うタオルの
袋詰めを手伝われたという。
一方、御料牧場は、皇室の方々が召し上がる農産物や畜産物が生産されることで有名。
さらに、宮内庁病院といえば宮内庁職員などの紹介がなければ外来診療は難しく、
ベッド数も27と、多くの被災者を受け入れることはできない。
「それでも、一人でも多くの人たちを救いたいという両陛下のお気持ちなのだと思います」(同)

週刊新潮2011年4月7日
戦時中のことを思えば、何でもない…御所のブレーカーを落とした天皇陛下の「自主停電」
被災し苦しんでいる人が大勢おり、電源すらない人もいるのだから。寒いのは服を着れば問題ない。
体調を懸念する職員にそんな言葉で応じられた陛下。国民と困難を分かち合いたいという強いご意志で
3/15から御所での自主停電を続けられている。御所のある千代田区は計画停電の対象外だが
第1グループの実施予定時間に合わせて2時間の自主停電を決定(宮内庁担当記者)
第1グループの停電は28日まで20回予定されたが実際には停電が回避された回も含めて多いときには
朝晩2回必ず実行。非常用電源以外はブレーカーを落とす。ろうそくの灯の下で食事。(事情通)
自主停電を行っていないときでも節電。執務室はスタンドのみ。
廊下ですれ違う人はよほど近く寄らないと誰だかわからない。
側近らは陛下の体調や警備の不安から案じるが「戦時中を思えば何でもない」と。(同上)
宮殿は事実上"閉鎖"。宮内庁舎も全域を原則消灯し暖房も原則使用しない、と職員も陛下と共に
"被災地の寒さ"を疑似体験。
東宮御所でも一部のブレーカーを落とす形で自主停電。事務棟でも。
3/18の定例会見でそのことを問われた東宮大夫が"コートを着ていてもきつい"と思わず本音。
普段は素っ気ないまでにシンプルな東宮の会見でこんな個人的感想が出るのは異例のこと。よほど寒いのでは。
秋篠宮邸は、ブレーカーを落とすと事務棟の電気まで使えなくなってしまう。事務官の業務や殿下の公務に
支障が出るためそこまではしていない。(高清水有子氏)
ただ、皇族の中でもとりわけ環境問題についての意識が高く、
日頃から節電・節水に心がけていらっしゃったのが秋篠宮ご一家でした。
宮内庁は、平成21年度から4年計画で太陽光発電用装置を、宮内庁庁舎、東宮御所
皇居の吹上浄水場などに設置しつつあるが、秋篠宮邸ではすでに平成12年から導入している。
また、雨水を溜め、それをお庭の木々に撒いているそうです。タオルの袋詰めに秋篠宮家が参加。
御所や宮内庁から指示が出るのではなく、陛下のなさりようをご覧になって宮家ごとに対応されているのだろう。
高円宮家も震災後は暖房を使用せず服を着込んで寒さをしのぐ。(久能靖氏)
皇室の節電・節約に対する取り組みは今に始まったことではなく、平成20年度の電気料は約1億2600万円だったが、
今年度は8700万円弱まで切り詰め。皇室費も平成13年度の76億1800万円から22年度の64億7500万円まで
9年連続で減少。特に皇室の活動と財産の維持管理に当てられる「宮廷費」が減少。
財務省が大鉈を振るったわけでは無く陛下のご指示による。
皇室より、まず国民のためというお姿には本当に頭が下がる(財務官僚)
陛下は被災者の生活を疑似体験されている。そのことでたくさんの被災者・停電で生活に支障が出た人々が
陛下の"我、共にあり"メッセージを感じ取っているはず。自身の体調が万全でないなか
他人を慮ることができる、日本人の美しさを体現。総理も閣僚も頑張っているとは思うが、
彼らが束になってもかなわない励ましを陛下は国民に示している。(橋本明氏)

週刊女性2011年4月19日号
愛子様、お住まいで本格地震対策!
3月30日、足立区の東京武道館を見舞われた両陛下。ビデオレターや御所での自主停電、
御料牧場の食料提供、那須御用邸の職員用浴室の開放など、前例のない取り組み。
連日のように医療関係者やボランティア団体などからの説明を受けられる。
昭和時代の「祈り」から平成の「行動」に変化して皇室の方々が実際に被災地へお見舞いするように。
両陛下とも高齢でけして十分健康とは言えない中でいたわり合いながらスキンシップを取られたので
被災者達も励まされたのではないか。(渡辺みどり氏)
一方、皇太子ご一家も自主停電を行い、スキー・スケート・訪英を取りやめ。
震災当日東宮御所では食器棚から落ちた何枚かの皿が割れた。(元東宮職関係者)
愛子さまは直後は怖がっていたが、今は落ち着いている。ただ大きな余震には敏感。
震災の時は帰宅直後で、すぐにリビングの机の下に入って身を守った。(同上)
愛子さまは自主停電の時以外も節電に努め、水をためて手を洗うなど節水も心がけている。
4月1日に皇太子ご夫妻が都内の被災者見舞いを検討中と発表。秋篠宮両殿下もそれに続かれる予定。
雅子さまの訪問については体調をみながらだが、夫妻は都内の施設訪問を強く希望。
特に雅子さまの国内初公務は岩手だったこともあり、知り合いやお世話になった人が多くいるため
大変心を痛めている。被災地へ直接訪問も検討も雅子さまの病気・愛子さまの登校問題があるため、
皇太子さま単独見舞いになる可能性が高い。
愛子さまは外出することもなく東宮御所で静かに過ごしているが"地震対策"をとっている。
東宮御所は多数の部屋があるが、ここにいるときに地震が来たときはここ、
あそこの部屋の時はどこそこに避難、と愛子さまが率先して決めている。
両親に対しても大きな机の下に避難するよう、という感じ。
飼っている犬や猫も誰が避難させるかまで決めている。(前出、元関係者)

女性セブン2011年4月21日号
秋篠宮紀子さま−娘に伝える「袋詰め」の心
紀子様は'95年3月、7月、'96年10月に阪神淡路大震災の被災地を訪問、被災者を激励。
そんな紀子様の思いは美智子様の思いに通じている。
皇室に嫁がれて以来の紀子様は美智子様を敬愛し何事にもお手本とされてきた。公務に対する姿勢もそうだし、
"皇室は祈りでありたい"の思いをしっかり受け継ぎたいと願われている。(宮内庁関係者)
3月30日両陛下は東京武道館を訪問。4月2日、皇太子ご一家、秋篠宮ご一家が参内。
今回の大震災のことで話し合われたようだ。
両陛下から東京武道館の様子を聞き被災地への思いをことのほか強くされていた。
一刻も早く被災地へ行き励ましたい思いでいっぱいだが両陛下より先へ行くわけにはいかないので
"今は東京でやれることを"という(前出・宮内庁関係者)
那須御用邸の職員用浴室が解放された際、被災者に渡されたタオルセットは紀子様が袋詰め作業を申し出られ、
眞子様・佳子様も手伝われた。
これは美智子様から受け継がれた皇族としての心を伝えていかなければならないという
紀子様の思いが詰まった行動だったのではないか。(前出・宮内庁関係者)
両殿下が災害に関するご進講を受けた際には紀子様の取り計らいで両内親王も同席し
専門家のレクチャーに耳を傾けられた。

週刊朝2011年日4月22日号
「お見舞い」に行ったはずがアラ!?被災者に励まされちゃった雅子さま
4月6日、皇太子夫妻は約130人の被災者が避難している味の素スタジアムへ。
すべてのグループに声をかけ、ケータイの記念撮影にも気さくに応じる。
「津波で家も船も流された。夫が『漁師は陸に上がるとかっぱになっちまうんです』と言うと
ご夫妻は大爆笑。私が『ご病気なのに来ていただいて』と申し上げると雅子さまは胸の前で
手を左右に動かしいえいえと繰り返された」福島県浪江町から来た山形さん
「愛子様は大丈夫ですかと聞いてしまった。孫が5年生だというと皇太子様が『愛子は4年になります』
というのでつい…雅子様は『私も愛子も大丈夫です』と答えてくださいました」いわき市からきた70代女性
被災者に雅子妃の同行が知らされたのは、到着の直前。「それからバタバタと花が飾られ、
身の回りを片付け、普通に会話するように注意を受けた」富岡町からきた20代女性
雅子妃の体調が万全でないことは、集まった近隣住民にも一目でわかった。
「車から降りた雅子様は顔色が悪く緊張しているようだった。お帰りの時も私達に背を向け、
すぐ車に乗り込まれた」近所の住民
「当日の雅子妃の体調はきわどかった」宮内庁関係者
「見知らぬ人と話さなくてはならず、雅子妃にはハードルが高い。だが未曾有の大震災で行かない訳にはいかず。
2日には夫妻で両陛下を訪ね、行きますと決意を表明されたと聞く」同じ宮内庁関係者
3月末に両陛下が被災者のお見舞いに赴くと、夫妻も素早く動いた。
警察庁長官から震災に関する説明を受けたのは、5日のこと。
両陛下や秋篠宮ご夫妻は放射線の影響などの説明を受けたが、これははしょった。
「ご夫妻にとって、両陛下が避難所を訪れたのは予想外だったのではとにかく早く、とのことで
東宮職も放射線についての知識は報道で間に合うと判断したのだろう」皇室担当記者
阪神・淡路大震災以来、16年ぶりに震災見舞いに出向いた雅子さまの心に、
被災者の励ましと心遣いの声は届いただろうか

女性自身2011年4月26日
希望を届けに−ご静養中の雅子さまも、被災者と心を通わせられ
雅子さま、真心の「板の間」正座60分に被災者129人が涙した!
携帯電話しかないが、写真を撮ってもいいか?と尋ねる被災者に気軽に応じる皇太子ご夫妻。
当初の予定より45分もオーバーして被災者全員に声かけ。
「陸に上がったカッパのようです」福島第一原発から5kmの自宅が倒壊した漁師の山形さんの冗談にほほえんだ雅子さま。
小学生の孫を持つ70代の女性は、愛子ちゃんは大丈夫ですかと尋ねたところ
雅子さんは大丈夫、と。顔色も良く元気そうだった。
最後の最後に「おばあちゃんもお元気でね」と声を掛けてもらい感激した。
被災者の中には中(畳)へどうぞと促したが夫妻は前に進まず、板張りの床に最後まで正座していた。

週刊新潮2011年4月21日号
「陛下は一日も早い被災地への訪問を望まれていたが、宮内庁は世情を見て4月20日ごろ解禁とした。
それが、大きな余震などの影響で月末にずれ込んだんです。」
「最初の訪問地が宮城県になったのは、村井知事自らが要請した結果です。知事曰く“動ける職員は
3分の2なのに、仕事は30倍もある。だが、全国の警察の協力も得て、ぜひともお迎えしたい”。
それだけ県民が行幸啓を待ち望んでいるということでしょう。」(宮内庁関係者)
両陛下はそれに先立つ4月14日、千葉県旭市を訪れる。
「阪神や中越でも両陛下はマイクロバスで移動し、沿道に人が出ていれば、窓を開け手を
ふってらっしゃいました。広い避難所ではなるべく多くの方と話せるように、
陛下が右回り、美智子さまが左回りと手分けされることもありました。」(皇室ジャーナリスト高清水有子氏)
都内の避難所訪問がそうだったように、いずれは両陛下に倣って皇太子ご夫妻、
秋篠宮ご夫妻も順に被災地入りすることになりそうだが……そこで心配されるのが、
病気療養中の雅子さまの体調である。
「4月6日、皇太子ご夫妻は調布の味の素スタジアムの避難所を訪問されました。
雅子さまにとっては半年ぶりの公務でしたが、声も強張らず自然で、お顔も穏やか。
ご病気とは見えませんでした。ただ、気になったのは到着時の様子です。入り口には
両殿下の出迎えに大勢の人が集まっていましたが、車を降りた雅子さまは群衆を一瞥しただけで、
微笑みもなければ手も振らずに中に入ってしまわれた。数十分前から待っていた人たちは
ガッカリしたでしょうね。」(宮内庁担当記者)

週刊文春2011年4月21日号
皇太子ご夫妻の味の素スタジアムの慰問。ご夫妻訪問の前日、被災者たちに向けて、
「(ご夫妻に対して)普通に話してください。プライバシーもあるので、
立ち入ったことは聞かないでください」とレクチャーがあった。
雅子さまの避難所訪問は、当日朝まで未定だった。
撮影は最初の5分間だけ、被災者2組だけ、の取り決めだったが、3組まで延長。
一家族5分以上話し込み始めたので、時間がずれ込むと予想。
実際45分も延長し、案内役を務めた都知事が東電副社長のブリーフィングを受けるために
中座せざるを得ないほど。東宮にしてはサービス満点。
「雅子さまの目はうるっとして涙ぐんでいるようでした。」
皇后陛下は、それこそご日程に発表されない知人、友人からも震災関連の情報を収集し、八面六臂のご活躍。
両陛下が訪問された埼玉では、御到着時に「キャー」「天皇陛下〜!」と拍手や歓声が上がった。(地元住民)

女性自身2011年5月3日号 
美智子さま「東北の親友」明かした被災児への絵本プロジェクト
4月14日に両陛下が初めて被災地を慰問された千葉県旭市の避難所で、ショック状態の
21歳の女性が抱いているぬいぐるみを「これはウサギ?」と皇后陛下が訊ねられた。
女性は「ネコなんです・・・。」(「スイートプリキュア」のキャラ「ハミィ」)
皇后陛下はぬいぐるみを撫でながら「ぬいぐるみを“守り神”にしてね」
女性の母(46歳)「娘は地震以降、笑うことも話すこともあまりしなくなり、
医師にもみてもらったが変わりがなかった。が、皇后陛下にお会いした後から顔色も良くなって
笑うようになった。」
今回の大震災で傷ついた子供たちの心を癒す為に「3・11絵本プロジェクトいわて」という活動がある。
絵本を集めて被災地の子供たちに届けるという活動。プロジェクトの代表、末盛千枝子さんは
35年ほど前から皇后陛下と交流がある。
松崎敏弥「沖縄の宮古島が台風で大被害を受けた後、皇后陛下は宮古島の子供たちの為にと皇太子さま、
秋篠宮さま、紀宮さまが幼少時に読んでいた本を図書館に寄贈された。
『私どもからだということは内緒にしてください』と指示されたそうです」

週刊朝日2011年4月29日
負けないぞ!ニッポン/天皇ご夫婦が見せた「決意」と「象徴天皇」の形 岩井克己
「あの日」の公務を済ませた両陛下は直ちに御料牧場での静養・園遊会などの日程をキャンセルし、
警察庁長官・防衛大臣・放射線医学の専門家などを連日御所に呼んで説明聴取。
3月16日夕、ビデオメッセージ発信。今後長く被災者に心を寄せ続ける決意表明でもあった。
3月30日の東京武道館を皮切りに各地の避難所を見舞い、今後、茨城、GW前後には宮城・岩手・福島を訪問予定。
昭和天皇の玉音放送・全国巡幸を思わせる行動は、天皇として今回の大災害を「国難」と捉えたことを物語る。
羽毛田長官は4月13日の会見で国民を案じる陛下の様子を述べた後、「象徴天皇がどういう役割を担うか、
そして陛下がどういう形で(象徴天皇を)追求しておられるか、私どももひしひしと感じる」と続けた。
もちろん象徴天皇としての様々な制約下では関東大震災での昭和天皇のようにはいかない。
しかし両陛下は疎開生活に耐え東京の焼け野原を目に焼き付けた世代。
数々の災害に打ちひしがれた人々を励まし続けてきた歩みの「総決算」
「魂は細部に宿る」という言葉を大災害報道の中で報じられなかった小さな出来事に際して何度か思った、
として、帰宅困難になった勤労奉仕団に宿泊場所の提供。
那須御用邸の浴室開放に際して宮内庁関係者から浴用タオル3400枚に対してバスタオル437枚しか集まらず、
長期の提供にとても足りない報告を受けた陛下は500枚を提供。
袋詰めには紀子様・両内親王もお手伝い。悠仁様の着袴の儀も延期。
阪神大震災で焼け跡に水仙を手向けた皇后陛下は、桜が満開の東御苑に被災者を招き、
11日には両陛下が東御苑に足を運んで被災者を激励。
両陛下のお見舞いをいただいて、疲労の極みにあった町民達にやっと笑顔が戻った。
頑張ろうという気持ちに変わったと思う。(8日に訪問を受けた、福島県双葉町の井戸川克隆町長)
東京武道館で「そっちに行ってもいい?」と皇后陛下に話しかけられた幼女は「うん、いいよ!」と明るく答え、
ピョンピョンとはしゃいで「おばあちゃんだ!おばあちゃんだ!」と叫び「おじいちゃんは?」
物心つくかつかないかの女の子にとって両陛下は「優しいおじいちゃん、おばあちゃん」として
記憶されていたのだろう。
昭和天皇以来の「国民と共に歩む皇室」の姿から踏み込んで「親しく国民の中へ」を実践してきた
両陛下の長い道のりの一つの到達点ではないか、との感にうたれた。

週刊女性2011年5月10・17日号
愛子さまも悠仁さまも被災者へ天皇ご一家お子さま方の「祈り」
各地の避難所を訪問される両陛下。
避難所訪問後雅子さまはお疲れが出たのかしばらく咳がとまらなかった(元東宮職関係者)
皇太子ご夫妻の強い希望で、5月下旬東北の避難所を訪問することが東宮職で検討されている。
皇室ジャーナリストの山下晋司氏
東宮夫妻の慰問がいまだ一カ所なのは
「避難所ではなく被災地を夫婦で訪問することを強く希望してる」から。
そうすると雅子さまの体調を考慮しなければならないので5月下旬頃で検討してるらしい。
愛子さまは地震に敏感で揺れると「今は震度3?」と尋ねる。5月中旬の課外宿泊も中止。
秋篠宮家でも、眞子さまはガソリン不足が懸念された頃から公共交通利用で通学に切り替え、
佳子さまはご両親と受けた専門家からの説明を元にレポートを出された。
4月11日には悠仁さまも4歳なりに「祈り」を考えて祈られたのだろう。
美智子様の「皇室は祈りでありたい」という心は受け継がれている。

週刊ポスト2011年5月6・13日号
天皇「被災地巡幸」の御心 文芸評論家・富岡幸一郎氏
■ビデオメッセージの意味
今回の大震災と原発事故はまさに国難。このような危機に瀕したとき国の指導者に求められるのは、
艱難と悲しみに打ちひしがれた人々、不安と焦燥の中にある国民に対して、沈着冷静、
そして大きな勇気を与える言葉を語ることだろう。
3月16日の陛下のお言葉はまさに国家元首が被災者と全国民に向けて語られたそのような言葉であった。
この異例ともいえるビデオメッセージが深い感動を与えたのは、その内容もさることながら、
天皇自身が国民へ向けて直接語りかけられているという、その声の力ではなかったろうか。
古代の日本人は固有の文字を持っていなかった。自分たちの風土と感性を表す声、そして大陸から渡ってきた
漢字を文字として表現し、日本語は「大和の国」の言葉となった。万葉の歌人が「言霊の幸ふ国」と言ったのは
文字の効力だけでなく、その本来の声の響きの木霊を含んでいたのだろう。
戦後の憲法によれば天皇は「象徴」であり、大日本帝国憲法4条に記されているような「國ノ元首」ではない。
しかし「日本国」および「日本国民統合」の「象徴」であるとは、哲学者・和辻哲郎が指摘した
「国民全体性の表現者」といってよい。首相が国家的危機に直面して、指導者としての毅然たる言葉を
ほとんど持ち得ていなかったのは国民の不幸としかいいようがないが、震災からさほど日が経たない
3月16日という時点で天皇が語られたメッセージは復興の大きな礎となろう。
「長く心を寄せ」る事。それは物質的・経済的な復興に止まらない。
亡くなった犠牲者を心に刻み忘れることがないようにとの願いであろう。
■被災者の前にひざをついて
3月30日午後、東京武道館を訪問された両陛下は床に膝をつき、被災者の話を熱心に聞かれるその姿は
困難と悲しみに沈む人々に寄り添う姿勢そのものだった。自ら身を低くして座っている人々と
同じ目線を合わせて声をかけられる。その言葉と姿勢は、国民と共にある皇室ということを常に日頃から
深く思い自覚されているからこそできるのであろう。
実は陛下のこうした姿は既に皇太子だったときから見られた。
昭和61年11月29日、三原山の噴火で千代田区の体育館に避難してきた大島島民を慰問されたとき、
自らが腰を落として膝を付き話を聞かれた。それはこの国の天皇、皇室の歴史上初めての光景だった。
しかしそこには(昭和61年5月に語っていたように)皇太子時代からの陛下の一貫した確たる信念があった。
この思いは天皇に即位されたときの誓いによって、平成の御代の皇室の根幹をなす姿勢を形作ってきたのである。
現行憲法下で即位された初めての天皇は戦後に占領下で作られたこの憲法を「遵守」しつつ、
同時にこの国の長い歴史を貫いてきた歴代天皇の伝統と精神を、時空間を越えて新しいスタイルによって
継承する道を築かれてきたといってもよい。
■昭和天皇から受け継がれたもの
陛下のこのような死者を悼み、艱難の中にある国民を思い見舞う姿には、昭和天皇の全国ご巡幸を想起させる。
陛下がこの昭和の先帝の思いを大切に継承されてきたのは言うまでもない。しかし平成の御代になって
「国民と苦楽を共にする」と言うことを一歩も二歩も進めてこられた。昭和天皇は「臣民」を全国巡幸によって励まし、
戦後の急速復興への道を先頭を切って開かれたが、被災者の前に膝を付いて話を聞くことはなかった。
これはまさに「象徴」天皇制の御代において初めて実現できたことである。また昭和天皇は災害などによって
被災した人々の見舞いを直接することはなかった。そこに不平等が生じるとの配慮があり、
むしろ国民の災いに対しては自らの国民への思いが足らぬからであるという自覚のもと、
宮中にあって祈りを捧げたという。
これは帝国憲法下で即位された昭和帝と平成の天皇との相違であろうが「国民」と「天皇」との関係の
決定的な時代的違いがある。
保阪正康氏は「明仁天皇と裕仁天皇」でこう指摘する。《昭和天皇にとっては、国民と接するということは
固有名詞を持ったひとりひとりの臣民が存在するのではなく、「赤子(せきし)という臣民の全体像の代表が
目の前にいるにすぎなかったからだった》
「恰も一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し」福沢諭吉の言葉である。
徳川時代と明治という時代の大きな時代の変化、断層を生きた人間の経験をして言わしめたものだが、
昭和という時代もまた敗戦によって戦前と戦後という時代の区切り、変化があり、
昭和天皇もまた皇統を維持されながら、まさしく「一身にして二生を経る」ともいえる経験をされた。
昭和天皇は戦後という時代を天皇として「ををし」く生きられ、復興へ邁進する日本人の精神的支柱になられた。
しかし昭和天皇にあっては「国民」はまた「臣民」であり「赤子」であった。
昭和天皇のこの祈りと思いとを、陛下は深く受け止められた。
平成の御代の象徴天皇による巡幸こそは、この国に再生の大いなる力となるだろう。
■「象徴」天皇としての巡幸
昭和天皇崩御の折、福田恆存は「象徴天皇の宿命」と題する文書を文藝春秋特別号(平成元年3月号)に
寄せている。戦後憲法下での天皇制のこのような矛盾と圧迫がもたらす「孤独、苦渋」を福田恆存は
昭和天皇の姿のうちに垣間見ていた。この指摘はけして誤りではなく、陛下も皇太子の位にあって、
この先帝の天皇としての、また一人の父としてのそのお姿を受け止めていたのかもしれない。
戦後憲法(天皇条項)についても様々な議論を呼び今日に至っている。しかし「象徴」とは
「どういう意味なのか」ということではなく「象徴はどうあるべきか」ということを天皇は
常にご自身で考えられ、判断され、それを実行されてきた。
「象徴」とは政治的には確かに不分明な言葉だろう。しかし比較宗教学のエリアーデが述べているように、
それは特定の「宗教」性ではなく、この世界にある人智を超えたもの、その超越的な感覚を
大切にするという意味での「宗教的象徴」であるというのである。今回の大震災と原発の災厄が示しているのは、
どんなに科学技術が進んでも、人間の力ではどうすることもできない超越的なものが
まさに存在しているということではないのか。
この国難、国民の災いの中で、天皇はその声を通して祈りの声を届けられ、皇后とご一緒に
被災地への巡幸を始められる。
昭和10年夏、過ごしやすい日が続くことを期待する側近を、冷害を案じる昭和天皇は叱責したが、
「稲作」が天皇の歴史・この国の文化にとってどれほど大切なものかはいうまでもない。
今回の巡幸は、象徴天皇としての今上がまさに「国民統合」の「象徴」であられることの、
その恩恵を示される旅になるであろう。

女性自身2011年6月21日号
皇太子夫妻は長らく被災地訪問を望んでいたがそれが叶ったのは6/4。宮内庁の反応は冷ややか。
両陛下が4/27、秋篠宮両殿下が5/10に訪問されている。
雅子妃の体調問題や愛子様の学校問題があったとはいえ、お見舞いが遅すぎるのではないか、の声も上がっていた。
同日、両陛下と秋篠宮両殿下悠仁様は葉山へ。意図して組まれた日程ではないだろうが、
皇太子夫妻の孤立や両陛下との距離を感じさせる。
宮内庁内での皇太子夫妻への批判や公室内での孤立は、雅子妃の長引く病気とは無関係ではない。
橋本明氏:「使命を果たせぬ皇太子妃を両陛下は嘆いておられます!」
被災地訪問スケジュールについて側近が「ご無理をなさらないように」と進言したとき
皇后陛下は即座に「今はそんなことを言っている場合ではない」とお諭し。陛下の体調を案じる皇后陛下も76歳。
それでもお二人は被災者と苦しみを分かち合い、復興の一助になりたい、と命がけのメッセージを込められていた。
しかし皇太子夫妻が両陛下の願いをきちんと受け止めているとは私には思えない。
久子妃、寛仁親王よりも遅い現地入り。月1回、週末のお見舞いだけではいかにも少なく、
とても両陛下の御心に沿う物ではない。皇太子・皇太子妃としての使命を果たしておらず失格と言わざるをえない。
雅子妃の病状については野村東宮大夫ら東宮幹部から聞いた。
一時期は、とても世間には発表できない面もあった。
国民の理解を得るためにもきちんと知らせるべきではないか、と野村氏に言ったが雅子妃が公表を望まなかった。
皇太子夫妻の被災地訪問が少ない理由が雅子妃の体調によるならば、
皇太子一人で被災地を回り使命を果たしていただきたい。
被災地訪問でも他の公務に関しても、両陛下が皇太子夫妻にああせよこうせよと命じることはない。
そのことに甘んじて公人としての義務を軽視し続けるなら両陛下のお気持ちに反している。
更に言えば夫妻のみならず、皇室全体が国民の信頼を失う姿につながってしまう。
今後も皇太子・皇太子妃のご使命を果たすことができないなら、その地位を、秋篠宮ご夫妻にお譲りになるべき
日本が未曾有の危機を迎えている今、皇太子夫妻にはもう一度ご自身の立場を厳しく見つめ直していただきたいと思う。
猪瀬直樹氏:「雅子様の真摯さが、逆に周囲を困らせる事態を…」
4/7、秋篠宮両殿下がビッグサイトの避難所を訪問された際、案内を務める。
実際の滞在人数に少数の差があったことを口頭で伝えたとき、お二人はほぼ同時に資料へ書き込み。
国難に立ち向かう、皇族のお覚悟を目の当たりにした気持ち。
4/6、皇太子夫妻が味の素スタジアムを訪問したとき、予定時間が40分ほどオーバー。
雅子妃に励まされたことで被災者に明るさが戻った一方で
40分の変更が大勢の人間に多大な影響を及ぼすことも理解していただきたい。

週刊女性2011年6月21日号
17ヶ月ぶり遠方本格ご公務で被災地・宮城ご訪問 雅子さま心配された「激務」と「悪臭」
宮内庁関係者が明かす。
「宮城を訪問されたのは4日の土曜日でしたが、前日の金曜日もお付き添いをされて6〜7時間、
学校に滞在されてから遠隔地を日帰りされるとなれば、オーバーワークになってしまいます。
3月と4月のお見舞いのときは前後に愛子さまの学校はありませんでした。
実は今回のご訪問前日も、先生方の研修会で学校は休校だったのです。逆にいうと、
前日に確実な休みがあったからこそ、6月4日という日程が決められたのではないかと思います」
やはり連日の外出は、ご負担になってしまうということなのだろう。そして、
「宮内庁職員のなかには、“におい”を心配している人がいました」
と、もうひとつの障害を挙げるのは元・東宮関係者。
「被災地では津波による汚泥などがあり、雅子さまがにおいに敏感なようなので周囲は神経質になっていました」
確かに体調がすぐれない時の悪臭は、身体にこたえるかもしれない。
被災地の取材を続ける記者が説明する。
「地震直後はあちこちにプロパンガスのボンベがゴロゴロと転がり、飛散するにおいが強く、
海沿いに行くと鼻をつく生臭いにおいに変わりました。少し酸っぱい腐敗臭で、
被災した水産加工会社にあった魚の腐敗したものや、遺体の腐敗臭も混ざっていたのかもしれません。
最近はおさまっていますが、砂ぼこりは相変わらずひどいです…」
雅子さまは、お元気なころから、においや汚れに敏感だったといわれるが、
「当日、雅子さまは、においや周囲のことに敏感になっているご様子はありませんでした」
と、前出の宮内庁担当記者は語る。


テーミス2011年7月号
▼6月4日の宮城県お見舞い
東宮職は当日まで「ご体調次第では、妃殿下のご同行を取りやめるかもしれない」と含みを持たせる。
6月3日は学習院初等科が教員研修で休み。このため4日は前後を休日に挟まれる形になったので、
雅子さまの体調を考えると絶好のタイミングだった。
野村東宮大夫は定例会見で「(お見舞いが)月に1度のペースになっているのはたまたま」と発言。
しかし、雅子さまは愛子さまの付添登校が最優先事項
「天皇皇后両陛下を大切に…」と声を掛けた80代の女性に、「ありがとうございます。大丈夫ですよ」と雅子さま
▼4月11日のお楽しみ会
雅子さまが東宮御所に愛子さまの友達を頻繁に呼ばれているという話が絶えない。
11日は午前中から夕方まで開かれていた。昼ごはんやおやつがふるまわれる。
皇太子ご夫妻はビデオを回したり、ご自慢の一眼レフで写真を撮っていた。
野村東宮大夫は定例会見で「愛子さまもその日、黙祷を捧げた」と明かしていたが、皇室関係者から批判多数
当初は4月6日に予定されていたが、急遽味スタにお見舞いに行くことになったため、11日に延期。
▼6月14日芸術鑑賞会(学習院大学)
座席数の関係で4・5年生の父母は付添なしの事前通達があったが雅子さまだけが付き添った鑑賞会の後、
雅子さまと愛子さまの2人は電車で帰宅。帰宅後、皇太子さまも揃って皇居の厩舎へ

橋本明氏
「震災1カ月というタイミングでお楽しみ会開催してはしゃぐのは、国民の感覚とかけ離れているし、
愛子さまの教育上も好ましいと思えない。」
「皇太子1人だけでも両陛下のすぐ後に被災地訪問した方が良かった。」
「皇太子は公私の線引きがきちんとおできになった方、いまは両陛下の意を汲んでいるとは思えない。」
皇太子夫妻の“公務”と“私事”のバランスに、疑問の声が集まっているのはたしかである。

週刊女性2011年5月10・17日号
天皇ご一家 お子さま方の「祈り」
秋篠宮ご一家は震災以来、精力的に被災者のための活動をされている。
皇室ジャーナリストの高清水有子さんが解説する。
「秋篠宮ご夫妻は、すでに東京と新潟の避難所へお見舞いをされていますが、
ほかにも宮邸に専門家をお呼びになって、震災に関するご進講を受けられています」
3月末、那須御用邸のお風呂が開放されるときに紀子さまと眞子さまと佳子さまで、
タオルの袋詰めを手伝われたことはすでに報じられたが、さらに詳しいご活動を明かす。
「国際基督教大学2年生になられた眞子さまは、東京・三鷹にあるキャンパスまで
車の送迎で通われていましたが、震災でガソリン不足が深刻になった後、
電車とバスで通学されるようになったそうです。
ご自分なりにできることをというお考えだったのだと思います」
次女の佳子さまは今春、学習院女子高等科2年に進級されているが、
「春休み中の課題が震災に関するレポートだったようなので、
ご両親やお姉さまと一緒に聞かれた専門家のお話も参考にされたのではないでしょうか」(高清水さん)
さらに、まだまだ小さい悠仁さまも頑張っていらっしゃるという。
「お茶の水女子大附属幼稚園の年中になられた悠仁さまは、
特に地震を怖がられているということもなく通常どおり通園されているようです。
震災から1か月後の4月11日にご一家で黙祷を捧げられたとき、悠仁さまも黙祷されたようですが、
4歳なりの解釈でお祈りしたのではないでしょうか」(同)
美智子さまのお考えが、4歳の男の子にまで伝わっているエピソードだ。

産経抄
5月8日 2011.5.8 03:40
今日は「母の日」ということで、「国母(こくも)さま」という古い言い習わしを思い出した。
天皇の母、つまり皇太后を指す場合のほか、国民の母という意味で皇后のことも言う。
かつては慈愛にあふれたお姿を親しみをこめ、そう表現することが多かったのだ。
▼以前、歴代の天皇に国民の生活を思いやる「民のかまど」の精神が受け継がれていることを書いた。
一方では悲田院などで知られる奈良時代の光明皇后以来「国母さま」の伝統も生きている。
近代では、後に昭憲皇太后と呼ばれる明治天皇の皇后がそうだ。
▼明治37年、明治期最大の国難といえる日露戦争が始まると、その行方に心を砕かれた。
自らは包帯を戦場に送ることに専念される。産経新聞連載の『教科書が教えない歴史』によると
「宮中の一室は包帯製作室と化し夜を徹して包帯作りに精励された」という。
▼天皇陛下とともに大震災の被災地を訪問されている皇后陛下にも「国母さま」の言葉が
ピッタリという気がする。ご体調は必ずしも万全ではないはずだが、ヘリコプターで各地を回られる。
律義に両膝をついて、見舞いや励ましの言葉をかけられる。
▼一昨日、岩手県釜石市の避難所で震度3の余震があった。近くにいた松田節子さんは
思わず皇后さまの手を握ってしまった。皇后さまはしっかり手をとったまま周囲に
「落ち着いてください」と声をかけられたという。松田さんにとって生涯忘れられないぬくもりだろう。
▼「母の日」は米国で母に感謝する日として始まった習慣を戦後、取り入れたものだ。
だが日本人も古くから慈悲深い母の理想像を抱き、母親を大事にする心を養ってきた。
「国母さま」の表現がそのことを教えてくれる。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110508/imp11050803410000-n1.htm


文藝春秋2011年6月号
雅子妃、被災者とともに回復す−避難所訪問で被災者からの言葉に励まされた
友納尚子(ジャーナリスト)
3月11日、皇太子ご一家は東宮御所で過ごしていた。
2時46分。地震発生。雅子妃と愛子さまはその場に座り込む。
雅子妃は愛子さまをテーブル下へ避難させ皇太子さまの元へ。同時に別室から皇太子さまが出てくる。
二人は揺れの続く中、脅える愛子さまを宥める。
皇太子さまはいつまでも収まらない地震にただならぬ異変を感じ取った。
雅子妃にしばらく愛子さまをしっかりと抱き離れないこと、机などの下に隠れるよう指示すると両陛下の安否を確認。
皇太子さまは70人からなる東宮御所を束ねる長としての職責がある。周辺によれば、
敏速で冷静な対応に努められたという。東宮御所の地震による被害は、
「グラスが二、三個割れて書類や書物などが落ちた程度だった」と宮内庁関係者は語る。
皇太子さまご自身は、テレビのニュースをご覧になり、全国の被害の大きさに愕然とされたそうだ。
定例記者会見に向う途中だった野村一成・東宮大夫も急いで電話を掛けてきた。
皇太子さまは、ニュース報道以上に被害が広がっていることを心配され、
すぐにでも被災者たちが避難している場所に行く意志があることを東宮職に伝えたといわれている。
深夜になっても皇太子ご夫妻は被災地の情報をくまなくチェックする作業を続けた。
侍従達に震源地と震度を再確認し自らも活断層を調べる。
後日、関係者などから進講を受け、国民の被害状態を懸念し続けていた。
荒れ果てた地や死者行方不明者が増えていく悲惨な状況を見聞きするのは、
心の病を抱える雅子妃にとって健常な人よりショックの強いことだったのではないか。
震災直後の雅子妃は想像を絶する被害状況や度重なる余震から
抑鬱的な気分になった日があったと言われている。
震災直後から皇太子さまと一緒に避難所訪問を望んでいた。(東宮関係者)
だがこれまでの症状からすれば、訪問実現のために越えなければならない二つのハードル。
一つは被災者と至近距離で接して長時間励ますことができるか。
二つめは大きな緊張感を伴うことがある病気の性質から、大勢から突然、
しかも近くからの声かけや見られることが負担になるのではないか。
オランダ訪問の際には外国人カメラマンが声を掛けながらシャッターを押したため
リラックスした表情ができたが、日本のカメラマンは無言で撮影することが多いためストレスを生じていた。
だが東宮職から報道側に説明しておけば問題ない。御会釈・園遊会への出席が無理なのも同じ理由。
避難所訪問については主治医の大野氏に相談。
(本人は)バッシング報道などから妃殿下として人気がないと思っている。
被災者を励ますことができれば逆に自信につながるのでは。(宮内庁記者)
両陛下が迅速かつ精力的にお見舞いされているのに皇太子お夫妻が行かないという批判、
また、雅子妃が公務に行きたがらないのでは、という見方があるが明白に事実ではない。
熱意があっても千代田側の判断や受け入れ先の都合、両陛下お見舞いの日程や場所などの
兼ね合いなど順番があるため勝手に行けない。
東宮御所では昼間でも薄暗い場所があるが時間制限をしてブレーカーを落としている。
愛子様も「節電、節電」と言いながらスイッチを切ったりコンセントを抜くなど忙しい。
「昼間はほとんど電気が付いていない。両殿下は毛糸の洋服で非常に厚着をしていた」(野村東宮大夫)
3月22日 NZ地震の犠牲者へ「ご黙祷」。
漢字の成り立ちや言葉の意味に関心がある愛子さまは意味を両殿下に尋ね、
4月11日には予定表に「黙祷」と書く。
雅子妃避難所訪問の発表は当日朝。到着時には緊張した様子だったが、
被災者と話し始めると迷いやためらいは感じられなかった。
予定時間をオーバーし板の間で正座し続けて励ます姿に被災者は涙した。
被災者と笑顔で(携帯電話の)写真に写る雅子妃は(公園デビュー)その頃とは別人のよう。
静養中に初めて国民と長く対話した日でもある。取材を続けている筆者にとってここまで
回復を実感したのは初めて。
雅子妃にとって愛子さまの不規則登校も気がかりだろう。
妃は教師や母親達ともコミュニケーションを取ろうと心がけている様子。
長期休みには多くの友人を招くが、去年の夏祭りには「乱暴男子」まで招いていた。
学校の指導もあり、乱暴男子達も落ち着いて仲良く過ごすように。(同級生母親)
愛子さまは2時間目の授業から出席することが目立つように。
9時台に登校し6時間目の授業をうけてから徒歩で下校することも。(女性誌記者)
愛子さまの心は想像以上に傷ついたため通常登校ができるまでに時間が掛かっており、
夫妻も焦らずに見守る考え。
だが親の子どもへの関わり方は年齢によって違ってくるという。一年以上経過した今こそ、
雅子妃が校門までは見送られても、くるりと背を向けて車に乗り込んでいただきたいとも願っている。
今回の訪問をきっかけに進講や国連大学の受講再開という話を野村氏の会見から聞けることが楽しみ。
春休みの愛子さまは節電で薄暗い室内で楽しそうに遊び、外へ出たのは雅子妃と犬の散歩に出たときくらい。
4月11日 愛子さまは夫妻と共に初めての「ご黙祷」。(義捐金や寄付が送られている中)
自分で何ができるか何日も考えて折り鶴を数羽折った。

週刊新潮2011年5月19日号
日帰りで避難所・被災地訪問を精力的に行う両陛下は
移動のマイクロバスの中でも中腰で手を振り続けられていた。かなりのご負担だったのでは。
皇室の慣例で両陛下、皇太子ご夫妻、親王ご夫妻という順にお見舞い。
4月6日に皇太子ご夫妻の見舞いが実現すると制約から待ちかねたように
秋篠宮両殿下も翌日の避難所訪問を皮切りに日帰りで計4回。
久能靖氏「雅子妃は今回、真摯に立派に対応した」が、逆に避難民から気遣われる場面が多く、
両陛下には「有り難い・嬉しい」が返るが、雅子妃はむしろ避難民に「申し訳ない」という気持ちを
抱かせてしまった。(神田秀一氏)
皇太子ご夫妻のお見舞いの様子
愛子さまと同い年の四年生の息子がいるという慰問先の被災者に、雅子妃のほうから
「愛子も昨日、学校で男の子達とサッカーをしたようですよ」
雅子妃に「本当におきれいですね」と声をかけてしまった女性
「雅子さまは、両手を頬にあてながら「そうでもないですよ」とおっしゃった」
「実際に避難所の様子を見たことで、聡明な雅子さまはきっと沢山のことをお分かりになり、
考えられ、お気持ちも変わられたと思う。やっぱりもっとご公務をされた方がいいと思いますよ」(被災者男性)
皇太子ご夫妻の警備の物々しさ。
車列も前後に黒塗りやパトカー6台が連なり、夫妻のワンボックスカーも窓ガラスが黒く半分ほどしか
開けないから雅子さまが手を振ってもよく見えない。避難所周辺には数十人の警官が配置され
道路も完全シャットアウト。避難民が携帯電話で写真を撮ろうとすると「写メは撮らないで」と大声で叫ぶ。
市民センターでは事前に館内放送で写真と握手は厳禁。両陛下とのあまりの違いに違和感。
両陛下は車列を作らないようにヘリポートの有無が条件だが、移動の際は車列を作らないよう配慮され、
侍従や女官とともにマイクロバス。宮城ではレンタカー。
しかも沿道の被災民に手を振り続けるため揺れるバスの中でずっと中腰。
夫妻は雅子妃の体調次第に加えて付き添いのため、学期中は週末しか設定できない。

女性自身2011年5月31日号
美智子さま、被災地に行かない雅子さまへ福島から送った「嘆きの野菜」!
風評被害で苦しむ農家を気遣い、県側が献上予定で用意していた野菜の詰め合わせ3箱を私費でお買い上げ。
両陛下、東宮家、秋篠宮家で使用のためだが、
被災地を訪問しない東宮家へ奮起の意味合いも込められているのでは。
両陛下、東宮家、秋篠宮家の順番で行動(被災地訪問)が慣例となっているが、
5月10日に秋篠宮家が青森の被災地を訪問されたのは、東宮家の予定がなかなか決まらず、
慣例を崩さざるを得なかったため。
東宮職は数度、被災地訪問の予定を提案したが実現しない。愛子様の登校に不安があるため。

テーミス2011年6月号
皇太子ご夫妻へ届くか
天皇皇后両陛下「鎮魂の祈り」が齎す真意
―被災地へのご訪問で皇室の存在感が高まるなか次世代への継承が危ぶまれるが
▼警備が過剰にならないように
天皇皇后両陛下は、4月14日から5週連続で東日本大震災で大きな被害を受けた
太平洋沿岸の五つの県を訪問された。
両陛下はいずれの被災地でも、津波で大きな被害を受けた地区では黙礼して犠牲者に哀悼の意をささげ、
避難所ではひざをつき被災者の話に耳を傾け、手を添えて慰められた。
「警備が過剰にならないように」とのご配慮から、自衛隊機とヘリコプターを使われ、
日帰りの強行軍。両陛下の被災地訪問は、まさに「鎮魂の旅」だった。
仙台では、両陛下は臨時ヘリポートの仙台市民球場から、マイクロバスで移動。
およそ500人もの近隣住民は「両陛下、ありがとうございます。生きててよかったです」と、
涙交じりの歓声で迎えた。両陛下は中腰のまま窓から半身を乗り出して、手を振り続けていた。
だが、両陛下は相当お疲れだったようである。
「陛下のお顔がむくんでおられて…。皇后さまはスリッパも履かずにずっと裸足でした。皇后さまに
『冷えますからスリッパをお履きになってください』と申し上げても、『大丈夫よ』とおっしゃるばかり。
立ったり座ったりの連続で、皇后さまのお膝の痛みがぶり返さなければいいのですが…」(70代女性の被災者)
▼皇居に“帰宅難民”を受け入れ
両陛下が5月8日に岩手県を訪問された時、余震が襲った。
皇后さまは被災者に「落ち着いてください」と、不安を和らげられた。
11日には福島県を訪問され、原発から半径45q圏内の南相馬市をご視察。
帰京する際は風評被害を一蹴するように野菜や果物を私費で買い求められた。
「悲しいかな、平時に比べて今は皇室の存在感が非常に高まっています。
両陛下の『国民と苦楽をともに…』という姿勢は、皇太子同妃時代から変わりませんが、
国民もそのお気持ちを信じているからこそ『ありがたい』と感じるんだと思います。
こういう信頼関係は一朝一夕でできるものではありません。
皇室と国民がともに築いてきた長い歴史ゆえのことだと思います」(皇室ジャーナリスト・山下氏)
計画停電では、延べ130時間も自主的にブレーカーを落とされた。
震災当日は皇居に“帰宅難民”を受け入れた。
「宮内庁の施設を役立ててほしい」というご意向もあり、那須御用邸の風呂を近隣地域の被災者に開放するなど、
避難生活の不便さにも思いを馳せられたほどだ。
震災から5日後、原発事故の不安がピークに達するタイミングで出された
陛下のビデオメッセージは、政治家の発言よりも説得力があった。
▼皇室典範改正を再び議論せよ
皇太子ご夫妻も4月初旬の味の素スタジアムに続き、5月7日、埼玉県三郷市をご訪問された。
雅子さまにとって短期間のうちに2回連続で公務にお出かけになるのは稀有なことといえる。
だが、天皇皇后両陛下ご訪問に比べると、どうしても少ないと言わざるを得ない。
東宮職は「数の多寡ではない」と反論しているようだが、仙台の避難所では、「陛下が高齢でも
ハードなスケジュールをこなしているのに、皇太子さまと雅子さまはなんとも思っていないのだろうか」
といった厳しい意見を口にした被災者が複数いたことも事実である。

女性自身2011年7月19日号
東宮大夫異例の刷新…福島、岩手へ!
6年ぶり「夏の地方ご公務」“背水の陣”
雅子さま 愛子さま 夏休み「心の復興計画」!
「皇太子夫妻は7月下旬に福島県、8月上旬に岩手県をご訪問予定。
スケジュールは調整中とのことですが、2週連続の被災地お見舞いになる可能性も高い。
2県とも自衛隊機を利用され、日帰りの日程になるそうです。
雅子さまの夏の地方ご公務は、実に6年ぶりになります」(前出・宮内庁関係者)
前回の夏の地方ご公務は’05年7月の「愛・地球博」。雅子さまは療養中でのお出かけだった。
「久しぶりの地方でのご公務ということもあり、雅子さまもかなり無理をされていたのでしょう。
人々の前では笑顔をお見せしていましたが、ご緊張と暑さのために、
万博会場の控室では憔悴しきって横になられていたそうです。
このときの辛い経験がトラウマになってしまったのか、
これ以降、特に夏のご公務には苦手意識が強くなってしまわれたのです…」(東宮関係者)
6年ぶりに“トラウマ”に立ち向かわれる雅子さま。
その心境について渡辺みどり氏は、
「6月4日の宮城県訪問で、雅子さまは大勢の被災者と交流された。被災者の中にはご体調を心配し、
雅子さまを励ます人もたくさんいたのです。雅子さまにとっても嬉しいことだったのでしょう。
この経験が、被災地ご訪問への強い意欲に結びついているのは間違いありません。また、6月25日には
愛子さまが1年4ヵ月ぶりに付き添いなしで登校されました。このことも母としての自信になっているでしょうし、
“私も頑張らなければ”という前向きなお気持ちになられていると思います」
新東宮大夫の小町氏も、その復帰へのキーパーソンの一人ですね」(皇室ジャーナリスト・松崎氏)
「外務省の中でも、在モスクワの日本大使館での勤務経験者は非常に強い結束力を持っています。
小町さんは在オランダ大使として、ご静養中の皇太子ご一家に誠心誠意尽くしたのでしょう。
それで皇太子ご夫妻は、小町さんに非常に良い印象を持たれているのでしょうね」
(小町氏と同じ’69年に外務省に入省、現在外交評論家・天木氏)
08年9月、皇太子夫妻は各国に赴任する大使たちと東宮御所でお会いになった。
「もともとは皇太子さま一人の予定だったのですが、雅子さまも急きょ出席。実はその中には、
タイに赴任する小町氏もいたのです。雅子さまの突然の出席の理由について、野村東宮大夫は、
“小町大使は、オランダご静養のときの在オランダ大使だから”と、
皇太子ご一家との関係の深さを強調したのです」(宮内庁担当記者)
小町氏は初めての海外静養の立役者だったが、今後は東宮大夫として、
皇太子夫妻の海外ご訪問にも取り組んでいくことになる。

女性自身2011年8月16日
雅子さま「胸裂く落涙」止まらぬ30分間!−福島県郡山市原発&津波被災者へ
雅子妃が激励したのは避難所の年配の人だけではない。愛子さまより一学年下の小学校3年生の男の子もいた。
その男の子は二学期から別の町の小学校に転校が決まっている。
「友達と離ればなれになってしまうのが寂しいです」
「私にも小学校4年生の娘がいますからあなたの気持ちがよくわかります。
新しい学校でもきっとお友達が出来ますよ」母の顔になり、微笑む雅子妃。
家族を亡くしたり、C型肝炎の被災者などを涙ぐみながら背中をさするなど励ました。
長年雅子妃の"おっかけ"をしている女性が東京駅ホームに着いたとき、
夫妻は既に乗車しており、女性が手話で挨拶するとまず皇太子が気づき、雅子妃は手を振ってくれた。
雅子妃は"愛・地球博"のとき、余りの暑さに控え室で横になったこともあると聞いているが、
今回は大丈夫だったようだ。(松崎敏弥氏)
車に乗り込むとき200人近くが列を作って見送ったが、
一人が手を差し出すと次々に差し出され、雅子妃は50人あまりと一人ずつ手を握った。温かい手だった。
「雅子様は被災者の方達も喜んでくれたと思いで、皇太子妃としてのご自身の存在の再確認が出来た」(香山リカ)
仮設住宅を見舞う頃には西日が射し、薄手の雅子妃のベージュのジャケットの背中は汗でにじんでいた。

震災関連の皇室の活動 雑誌記事等2
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