日本を愛する者が自覚すべきこと 八木秀次

日本を愛する者が自覚すべきこと 八木秀次
PHPファクトリー・パブリッシング 2007年7月23日

第七章 皇室とは何か
■日本に危機がおとずれると頼られる存在
…しかし、興味深いことに日本の歴史を振り返ってみると、平和な時には日本国民は天皇の存在を忘れています。
少なくとも強く意識しない。天皇という存在が意識されないことはそれ自体、必ずしも悪いことではありません。
それだけ幸せな時代であるとも言えるからです。
しかし、いざ国に危機がおとずれた時には、国民は必ず天皇の存在を思い出し、最後は頼りにする。
…天皇という存在は大統領とは違って「能力原理」で成り立っているものではありません。
神話に由来する血の連続、すなわち「血統原理」に依拠したもので、誰か他に能力がある者が取って
代わることができる存在ではない。血の正統な継承者だけが、その位置につける存在です。
その始まりは神話に由来し、歴史が客観的な記録で確かめられる以後も、一貫して同じ系統が続いています。
つまり、血の一貫した継承という「歴史の重み」故に、そこに尊厳性と神秘性が備わり、またそういう存在を
日本国民は建国以来、国に危機がおとずれた際には必ずと言っていいほど頼りにしてきたのです。
また天皇もその期待に見事に応えられてきた。 …

■祭祀王という天皇の独自性
天皇とは何かということを考えるうえで、見落とすことができないのは、天皇が伝統的に祭祀王
(プリーストキング Priest King)であるということです。これはむしろ天皇の最も重要な役割です。
国家の安寧を祈る祀り主であるということです。
古代の王は世界中どこでも祭祀王という性格を持っていました。カリスマという言葉がありますが、
それはもともと神を祀る存在としての王が持っている特別の超能力というほどの意味でした。しかし、
そのような祭祀王は日本以外ではすべて滅んでしまい、天皇は今や世界に唯一残る祭祀王です。 …

■「民の父母」というもう一つの役割
…最後に国民が頼りにするのが「民の父母」としての天皇であり、また歴代の天皇ご自身も最後は自分が
立ち上がらなければならないという自覚を持っておられました。
大東亜戦争の終結時における昭和天皇のいわゆるご聖断はその一つの典型です。昭和天皇はご聖断の際に、
「自分は如何にならうとも万民の生命を助けたい。此上戦争を続けては結局我邦が全く焦土となり万民に
これ以上の苦悩を嘗めさせることは私としては実に忍び難い。祖宗の霊にお応へが出来ない」
(下村海南『終戦記』鎌倉文庫)
とおっしゃっています。
このお言葉の中に「民の父母」という考え方が典型的に示されていると思います。 
終戦時に詠まれたとされる四首の御製を紹介しましょう。
 爆弾にたふれいく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも
 身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
 国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり
 外国(とつくに)と離れ小島(をじま)にのこる民のうえやすかれとただいのるなり
ここにも、自分の身はどうなろうとも国民の命を助けたいという、まさに「民の父母」としての
お姿がよく表れています。昭和天皇は「民の父母」としての立場を強く自覚され、
「立憲君主」としての役割を逸脱されたとも言えるのです。…

■祭祀なき皇室はありえない
…先の『週刊朝日』は、宮中祭祀におけるこうした「伝統としきたり」が雅子妃殿下を苦しめ、
〈合理性を重んじる海外での生活を重ね、外交という現実の世界を生き抜いてきた雅子さま〉にとっては、
〈天皇家につながる神話性を信じることできるかというプレッシャー〉もあると想像しています。そして、
〈宮中祭祀を雅子さまが受け入れられるようにならない限り、問題は解決しない〉〈皇太子は「宮中祭祀改革」
の構想をひそかにあたためているのではないか〉〈女性により負担のかかる祭祀を簡略化するか廃止するかすれば、
雅子さまを救うことができる〉と述べるのです。
私はこれに重大な懸念を抱きます。これはまるで、雅子妃殿下のご病気を“人質”にして「祭祀王」という
天皇の本質的な性格を曖昧にし、否定することを提言しているかのように読めるからです。
これは皇室制度を形骸化させようとい提言に他なりません。
さらに憂慮すべきことは、皇太子殿下までがその提言に賛成されているかのように読めることです。
…皇太子時代から宮中祭祀を行ってこられた天皇陛下だけではなく、民間から宮中に入られた皇后陛下も
宮中祭祀に深いご理解を持っておられます。実は昭和天皇に宮中祭祀の重要性をお教えになったのは
母宮である貞明皇后です。宮中祭祀の継承において皇后の果たす役割は非常に大きいと言わざるを得ません。…

■敢えて問う、皇太子夫妻の離婚問題
…従来、主に二つの立場から皇太子夫妻の離婚説が唱えられてきました。一つは、キャリアウーマンとして
活躍してこられた雅子妃殿下らしい生き方を取り戻して欲しいという立場からの離婚説です。
もう一つは、皇位の男系継承を維持するために離婚していただき、皇太子殿下が新しく迎える妃に
男子を産んでいただこうという立場からのものです。
後者は、秋篠宮紀子妃殿下ご懐妊前に男系維持派の一部からよく聞かれた声です。
しかし、私は、別の立場から皇太子ご夫妻の離婚という事態を想定せざるを得ないと思います。
もしもこのまま雅子妃殿下が宮中祭祀を受け入れられないなら、皇后としての資質に疑念を抱かざるを得ず、
宮中祭祀、すなわち皇室の皇室たるゆえんを守るために離婚もやむを得ないということです。…
…現在、皇太子ご夫妻よりも秋篠宮ご夫妻のほうが、天皇皇后両陛下を深く理解し、
皇族としての強い責任感を抱き、将来の天皇、皇后にふさわしい資質を持つとの見方が広がっています。
とすれば、宮中祭祀を守る立場から、皇室典範第三条にある〈重大な事故〉を拡大解釈し、
皇位継承第一位の座を皇太子殿下から秋篠宮殿下に移そうとの議論が生じてもおかしくありません。
雅子妃殿下が適応障害から快復されない限り、今後、その原因が「皇室の伝統としきたり」、とりわけ
宮中祭祀nあることにますます焦点が集まるでしょう。そして、雅子妃殿下を守るため宮中祭祀を簡略化ないし
廃止せよという声が起こってくると予想できます。男系継承の重要性を理解せずに女系天皇容認論が
出てきたのと同様の事態です。…
…宮中祭祀が簡略化ないし廃止され、なおかつ女系天皇が容認されれば、皇室制度は形骸化され、
その存続が危うくなることは確実です。…

■「皇位継承」に関する重要論点
「万世一系」とされる「皇統」は一貫して「男系」よる継承であった。
神武天皇を初代として、それ以降一貫して男系の血を継承している人のみが天皇の位に就かれました。
一貫して男系というのは非常に興味深い文化で、一般家庭と皇室との決定的な違いがここにあります。
といっても、必ず子供が生まれるというわけでもないし、男の子が生まれるわけでもありません。
現に私たちは、皇室に女子しか生まれないケースを長い間見てきました。
しかし、過去の例を見ると、そういった時にも必ず男系で継承してきたのです。
具体的には、何百年も前に分かれた分家の宮家の血筋から、男系の継承者をもってきて皇位継承者にしたのです。
そのことは歴代天皇の系図を見れば一目瞭然です。
遠い遠い血からジャンプして次の継承者になっている例が、何度となくあります。
(中略)
今の天皇家の系統は、江戸時代後期の光格天皇の流れで、閑院宮家の系統です。
閑院宮家の六男の祐宮皇子が光格天皇として即位されます。そこが今の天皇家のいわば初代です。
光格天皇は先代の後桃園天皇と七親等も離れています。後桃園天皇には男子が生まれませんでした。
その系統を探したけれどもやはりいないので、うんとジャンプして
曾おじいさんの弟の孫を継承者にしたというわけです。…

■男系男子の継承は決して譲れない
「皇統」には二つの系統があると考えるべきです。閑院宮家の皇室の流れが存続しているので忘れられがちですが、
もう一つ、室町時代に分かれた伏見宮家の系統があります。
これが旧宮家の系統です。室町時代に分家して分かれた伏見宮家の系統は、「保険」あるいは「血のスペア」として
ずっとつなげていっているのです。現に昭和21年までは皇族として扱われました。その時点での男系で言えば、
今の皇室とまるで他人と言っていいほど血が遠い関係です。なにしろ、室町時代に分かれた系統同士の間柄です。
普通の感覚で言えば赤の他人です。しかし、それでも皇族だった。お互いの血の遠さは関係なく、
互いに初代・神武天皇以来の男系の血を正しく継承しているということで皇位継承権があったのです。
さらに興味深いのは、この伏見宮家の系統の、旧宮家の方々が昭和21年に皇籍を離脱する際には、
次のような加藤進宮内次官の証言があったということです。
「『万が一にも皇位を継ぐべきときが来るかもしれないとの御自覚の下で身をお慎しみになっていただきたい』
とも申し上げました」(「戦後日本の出発−元宮内次官の証言」『祖国と青年』第七一号)
皇位継承資格が潜在的にあるので、その自覚でいてください、と言っているのです。
明治の皇室典範を起草する際には井上毅がこんな発言もしています。
「継体天皇の如きは六代の孫を以て入て大統を継ぎ玉へり。不幸にして皇統の微継体天皇の時の如きことあらば
五世六世は申す迄もなし、百世御裔孫に至る迄も皇族にして在はさんことを希望せざるべからず」
(『皇室典範皇族令草案談話要録』)
古代の継体天皇の場合は二百年前に分かれた分家から天皇になられました。継体天皇は先代(武烈天皇)と
十親等も離れています。不幸にして皇統がこの先続かないという、かつての継体天皇の時のようなことがあったなら、
五代六代遡ることは言うまでもなく、百世、つまり百代遡っても男系の正統な継承者が皇族となるべきだ、
と言っているのです。
簡単に言えば、初代・神武天皇の男系の血を正しく継承している存在であればかまわないと言っているのです。
日本中世史の権威である北海道大学教授の河内祥輔氏は『神皇正統記』に言及して適切な喩えをしています。
「『正統』理念の系図は、すべての天皇が一筋に繋がっているというものではない。
〈幹〉とたくさんの〈枝葉〉に分かれ、しかも、〈枝葉〉の天皇の系統はそれぞれの所で断ち切られている。
『一系』として続いているのは〈幹〉の天皇だけである」
「〈幹〉は何によって作られるかといえば、それは血統である。皇位ではない」
「〈幹〉を作るのは男性のみである。『正統』は男系主義を特徴とする」
(河内祥輔『中世の天皇観』山川出版社)
ここで言う「枝葉」が閑院宮家の系統や伏見宮家の系統ということです。お互いに「枝葉」同士は
離れているけれども、同じ「幹」から生えたものです。重要なのは「幹」であって「枝葉」ではありません。
現代人は「枝葉」である現在の皇室の血筋ばかり見ているのですが、少し俯瞰して見れば「幹」が見えてくるはずです。
そして、その「幹」に別の「枝葉」が生えていることもわかってくるある「枝葉」が枯れれば、別の
「枝葉」が本流となる。実際、そのようにして皇位は継承されてきました。このことに気づく必要があると思います。
そして、この幹の部分がまさに日本国家としての連続性の担保なのです。
これが古代の日本の建国以来変わらず、ずっと一貫してつながってきた、ということこそ、「一系」の本質ななのです。

■皇位は公のものである
…戦前、天皇は現人神だったという話がよくあるのですが、正確には現御神(あきつみかみ)ということです。
昭和21年1月1日のいわゆる「人間宣言」で、天皇は現人神であることを否定し人間だと宣言したという
理解が一般には広まっていますが、真相はまったく違います。日本を知らないGHQに対して、いわば便宜的に
そう言ったようなものなのです。
そもそも天皇は神として信仰の対象とされるような存在ではなく、「自らが神を祀る存在」です。
そこを間違ってはいけない。天皇は昔から人間です。神を祀る存在としての人間なのです。
あえてわかりやすく喩えれば、キリスト教におけるローマ教皇と似たような存在だと言っていいでしょう。
ローマ教皇は選挙で選ばれますが、天皇は世襲です。そこの違いはありますが、天皇も宗教的には
ローマ教皇に似た色彩を持っています。ちなみにローマ教皇も、一度も女性がなっていません。ユダヤ教も
ラビ(宗教的指導者)の家系は男系です。仏教も厳格な男系です。
皇室に話を戻せば、大切なポイントは「皇位は公のものであり、決してその時々のロイヤルファミリーの
私有物ではない」ということです。現代の日本人は、この点をあまり理解していない。ある系統の男系の血が
途絶えた場合、別系統の男系が継承する。それは皇位というものが、歴代天皇からの預かり物だという認識が
皇室自体にあるからです。自分たちファミリーの私有物や独占物ではない。
たまたま自分の系統が預かっているのであり、男系の血を自分たちが先に続かせていくことができないのであれば、
別の系統いそれをバトンタッチしていく。
そうやって連続性を確保していく、という存在なのです。
この考えが理解できないと、皇室というのは今のロイヤルファミリーのことであり、男系の継承者がいなければ
愛子様やそのお子様である女系に皇位継承をすればいい、という誤った意見が心地よく感じられるのです。
以上のことは歴代天皇の系図を見れば、すぐにわかることです。前に紹介した河内祥輔氏の言葉を借りれば、
これは〈幹〉と〈枝葉〉の問題であり、「皇室典範に関する有識者会議」は枝葉だけを見て議論していたという
ことなのです。しかし、その枝葉がでている幹にこそ目を向けなければならない。
歴史を振り返ってみても、皇位継承は綱渡りをしている例が少なくありません。たとえば大正天皇がそうです。
明治天皇にはたくさんのお子様が生まれましたが、それでも成長した男子は大正天皇お一人だけでした。
側室がたくさんいた時代においてもそうであり、しかも病弱であられた。ところがその大正天皇には四人も
男子がお生まれになり、それで一息ついたのですが、実は歴史上ずっと綱渡り的にやってきているのです。
だから旧宮家がやはり何らかの役割を担っていかないと、この先もちょっとむずかしい。できれば旧宮家の中から
皇族に何人かがお戻りになるとか、準皇族的な立場に就いていただくとか、そんな措置が必要です。
「皇族」概念を旧宮家の男系男子にまで拡大することは、早急な課題だと言わなければなりません。

■異邦人が見た「天皇とは何か」
前にも触れた駐日フランス大使でもあた詩人のポール・クローデルは天皇という存在についても
実に正確に理解しています。
「天皇は日本では魂のように存在している。つねに存在し、持続するものである。それがどのようにして
始まったかは誰も正確には知らないが、終わることはないであろうということは知っている。
天皇が何か特別の役目を果たさなければならないと考えるのは不適切であるし、敬意を欠くことになろう。
天皇は干渉しないし、国民の諸事に一々口を出したりはしない。だが、もし天皇がいなければ、
物事は同じようには進まないだろうし、ただちにすべての調子が狂い、バラバラになってしまうだろうことは
誰もが知っている。それはやり直しなしにいつまでも続いていく楽音だり、それに耳を傾ける他の音が
勝手に変奏したり、ずっと不変のままであったりすることを一時的に抑えたりもするのである。
それはずっと変わらないものであると同時に、他のものに対しては変化することを強制するものであり、
有為転変、時の流れに従いながら、根源と結びつき、国民に死に絶えてならないという義務を永遠に
課するものなのである」(「明治」『朝日の中の黒い鳥』内藤高訳、講談社学術文庫)
日本人はあまり自覚していないことですが、クローデルは天皇こそが日本という国をまとめているのだ、
という指摘をしているのです。西洋人から見れば、日本には通奏低音のように天皇という音楽がずっと流れている。
そういう非常に興味深く重要な存在が天皇なのだ、と彼は言っているのです。日本人には気がつきにくい、
異邦人ならではの正確な洞察ではないでしょうか。





 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

同書 皇室関連部分以外

憲法の前文では「国家の連続性」「歴史的な連続性」に言及する国がほとんどなのです。
社会契約説の説明によれぱ、「国家というものは、個々人がその生命、自由、財産を安定的に確保するために、
相互に社会契約説を結んでつくり上げました」ということになりますが、
そんなことを憲法で述べている国はどこにもない。
そんなことを前文に掲げているのは日本くらいのものです。
憲法の前文では、必ずその国の歴史に言及する。それが世界の常識です。
なぜなら、まさに国の成り立ちなどというものは、合理的かつ理論的に説明ができないからです。
(中略)
歴史ある国であればあるほど正確にその国がどうやってできたのかということを説明などできやしない。
だから神話や伝説、物語などの文学的表現で、国の成り立ちを説明しているのです。
「いつ、どのようにしてできた国か、正確にはわからない。しかし、今日あるこの国は、昔から
ずっと続いているものを継承したものだ。そして今生きている私たちを経て、
この国が、今度は将来の子孫たちに受け渡されていく」
そういう認識を、多くの国家は持っている。そういうものです。
ところが日本の場合、そのあたりの認識が特に戦後、決定的に足りない。
国家を「今生きている自分たちだけで構成されたもの」だと理解しがちです。それは、社会契約説的な、
つまり国家の成り立ちについて合理的かつ理論的な説明が必要だと言う思い込みによるものです。

日本国憲法は「日本の憲法」でありながら、歴史的な存在としての「日本」というものは認めていないのです。
日本の長い長い歴史と伝統が否定されている。
歴史を切断し、「新しい日本」をつくったという説明になっている。
これがこの憲法の最大の欠陥です。

日本国憲法は日本の歴史を断絶している。昭和二十年以前の日本を完全に否定しているのです。
実際、日本国憲法がわが国の過去について唯一言及した箇所は、こう書かれています。
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」
言うまでもなく、これは“否定の対象”としての歴史です。肯定的に日本の過去を継承しようという趣旨は
まったくありません。そういったことは、日本国憲法のどこにも書かれていないのです。

「歴史ある国家」とは、自らの生命の根源と結び付く、運命共同体としての国家です。
だから自らを犠牲にしてでも存続を図るという、尊い「国防」という行為がでてくる。

比喩で言えば、アメリカがイギリスから独立したように、新しい日本は伝統的な日本から独立することになります。
アメリカの場合はイギリスから場所を移したけれども、
日本の場合は場所も同じところから「新しい日本」が独立することになる。
そういう恐るべき事態が、今静かに進行しているということを、私たちは知っておかなければならない。

世に護憲派といわれる人々の多くは社会主義や共産主義にシンパシーを持った人たちです。
彼らが日本国憲法の改正に断固反対するのは、憲法第九条を変えたくないということばかりではありません。
実は日本国憲法は、社会主義に移行させるにはもってこいのものだからなのです。
彼らにとって都合の良い条項がたくさん入っている「社会主義革命の理論を内包した憲法」だからです。

GHQによる占領時代の前半は、日本の過去を否定し、連続性を断ち切るという方針で一貫していました。
それは彼らの認識が「日本は侵略戦争をした。これまでの日本の歴史はすべて侵略戦争につながる」
というものだったからです。
つまり、日本の軍国主義や超国家主義の元凶として、過去の歴史や文化、伝統や慣習といったものが
あるという認識でした。そうであれば、そういうものは全部否定するという政策になって当然でした。
そこで持ち出されたのが「日本の過去はとにかく否定の対象でしかない。
日本は戦後まったく新しい歴史を歩む。新しい国がここから始まる」という論理でした。
ロックの社会契約説も、マルクス・レーニン主義も、政治的な立場を越えて立脚点は似ています。
合理主義的な理性だけで論理を組み立てていく。そこに歴史や伝統、道徳といった、超越的なものが入っていない。
過去を否定し、新しい国の始まりを宣言する。
日本国憲法は西洋出自の様々な思想的文献のパッチワークであって、
そこにはいろいろな思想が入り込んでいると先に述べました。
しかし、入り込み方が「過去を否定し、連続性を断ち切る」という一つの方向にはっきりと向いているのは、
GHQの占領方針に即した結果であることは間違いありません。

昭和21年11月3日
日本国憲法公布日=明治節(明治天皇お誕生日)
昭和21年4月29日
極東軍事裁判起訴状提出=天長節(昭和天皇お誕生日)
昭和23年12月23日
「A級戦犯」処刑の日=今上天皇お誕生日

過去を否定するということについては、昭和20年12月15日の「神道指令」(「国家神道、神社神道に対する
政府の保証・支援・保全・監督ならびに弘布の廃止に関する件)もそうです。
これはGHQが日本政府に発した覚書ですが、信教の自由の確立と軍国主義の排除という名目で、
国家神道を廃止し政教分離を果たすために出されたものです。
そこでは、たとえば「大東亜戦争」という言葉は使ってはいけないことにされました。
「太平洋戦争」という言葉を使え、と強要したのです。戦争の呼称はそのまま戦争の性格を表すものです。
アメリカは太平洋で戦ったので「太平洋戦争」でいいけれども、
日本は太平洋だけで戦ったわけではありませんから、それだけでも「太平洋戦争」は不適切です。
つまりアメリカ側の戦争観を日本に押しつけたということなのです。
ここでは神社神道に対する否定的な見方も示されましたし、「八紘一宇」などの言葉も禁止されました。
それからウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program)。
GHQが占領政策の一環として行ったもので、「日本人に戦争についての罪悪感を持たせる宣伝計画」です。
情報操作などによって日本人を洗脳して、戦争への嫌悪感を植え付けようとした。

GHQによる占領の前半はこれまで述べたように、日本の過去を否定し、連続性を断ち切るという方針でした。
「これまでの日本の歴史はすべて侵略戦争につながる」と、過去の歴史や文化、伝統ゃ慣習といったものを
軍国主義や超国家主義の元凶とみなして否定し、切断しようとしました。しかし、その後に冷戦が始まってみると、
日本が行なった戦争の意味が、当のアメリカにもだんだんわかってきます。
特に朝鮮戦争(1950〜53年停戦)を経験して、
日本が中国大陸にあそこまで入り込まなければならなかった理由がよくわかってきました。
日本の十数年後に、アメリカは同じ経験をすることになったのです。
結局、マッカーサーは、GHQ最高司令官を退任し、帰国してまもなくの1951年5月3日、
アメリカ上院軍事外交合同委員会公聴会で、日本の戦争に関して、
「彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」
と語らざるを得なくなった。日本の戦った戦争が侵略戦争ではなく、安全保障の必要すなわち
自衛によるものであったということを、マッカーサー自らが認めたわけです。
昭和25年6月に朝鮮戦争が始まると、日本に駐留していた米軍が朝鮮半島に出動せざるを得なくなります。
そのために軍事的に手薄になった日本列島を守るために、同年8月に警察予備隊が結成されました。
ここから日本の戦後の再軍備がはじまるわけです。そして、増強されて保安隊となり、
昭和29年7月に自衛隊が発足するに至ります。
それは、まさにニクソンの言うとおり(※昭和28年11月来日。日米協会での発言)、
日本を反共防波堤にするための措置でした。いずれにせよ、日本国憲法は、それを制定させた当のアメリカでさえ、
制定から何年も経っていない段階でもう、その制定は失敗だったと悔いているような代物なのです。
それにもかかわらず、誤った認識でつくられた日本国憲法は、
現在に至るまで一度の改正すら行われず存続しています。
のみならず、そこに内包された「革命」を国内で自己増殖させているのです。

明治憲法は、当時の西洋の最新の制度や理論を取り入れたものになっています。
したがって外見的には、極めて西洋的なものだと言えます。
しかしその受け入れ方が重要なのです。
明治憲法の前文にあたる「告文(こうもん)」とという部分に、
「皇祖皇宗の遺訓を明徴にし典憲を成立し条章を昭示し……」とあります。
明治天皇の言葉として表現されてはいるものですが、この憲法は皇祖皇宗すなわち歴代の祖先の残した
教えを明らかにし、皇室典範や憲法として成立させ、条章を明らかにしたものであるということです。
かみくだいて言えば「祖先代々伝わってきたことに表現を与えたものだ」ということです、
日本国憲法と異なり「過去を継承したものだ」と言っているのです。

国家の歴史的な連続性を肯定する、過去を継承する。そのような意味で重要なのは昭和21年元旦に出された
「新日本建設に関する詔書」です。
この詔書は一般には「天皇の人間宣言」と称されているものです。
昭和天皇が後に記者会見の場で話されているように、この詔書には冒頭に自らのご意思で
「五箇条の御誓文」の全文を掲げました。それに続けて、
「頴旨公明正大、又何をか加へん。朕は茲(ここ)に誓ひを新たにして、国運を開かんと欲す。
須らく此の御趣旨に則り、(中略)新日本ほ建設すべし」
と述べられました。つまり「五箇条の御誓文に示されているのは公明正大であって、
これにもう何も付け加えるものはない。私(昭和天皇)はここで誓いを新たにして
国運を開こうと思うが、それにあたってはこの五箇条の御誓文のご趣旨に則る。そして新日本を建設する」
――このようにおっしゃっているのです。
では昭和天皇は一体どういう意図で五箇条の御誓文を掲げられたのか。後に昭和天皇は記者会見の場で
「民主主義はこれからアメリカから入ってくると言われているけれども、アメリカから今さら
教えられるようなものではない。明治の初めに、明治天皇が五箇条の御誓文で示したものがあって、
これに則ればいい。そういう意味では、日本人はもっと自信をもってほしい」という意味のことを
述べておられます(昭和52年8月23日、なお、引用は意味を取ったもので正確なものではない)。
昭和天皇は、戦前と戦後の連続性、国家の歴史的な連続性ということを明確に意識しておられたわけです。

国を守る、国を愛すると言った時の「国」とは何なのか、ということをきちんと押さえておくことが、
必要であり重要なのです。そうでなければ、いったい何を守るのかが、まったく違ってはてしまうからです。
国防とは、「ある時代のある世代が自らの命を投げ出してでも国家の存続を図る行為」、
そのように意義づけることができます。前に国家は歴史的に連続性を持つものだと述べました。
それゆえに、今の自分を犠牲にしてでも連続性を確保仕様という思いになるのです。
つまり国防を整合的に説明しようと思えば、「国家の連続性」ということを言わなければ無理なのです。
国家の歴史的な連続性に立脚しない限り、国防は整合的に説明できない。
日本国憲法が立脚しているロック流の社会契約説によれば、
国家は個々人の生命、自由、財産に関する権利を安定的に保障するためにこそあるということになります。
そのために国家はできたということです。
だから国家の役割は、国民の生命、自由、財産を安定的確保することにある、ということになる。
もちろん国家機関にはそのような側面もあり、それがなければ、国家として意味がない。
しかし、国防は国民が自らの生命、自由、財産を犠牲にする行為です。
自らの命を投げ出すこともあれば、自由も制限されるし、財産も犠牲にする。
そうやって国家の存続を図る。国家の歴史的な連続性を確保する。
だから社会契約説が言っていることと、国防に本来求められるものとでは、ベクトルの向きが真逆となります。
ロック流の社会契約説の国家観では、国民の生命、自由、財産に関する権利を保障するために、
たとえば外国から兵隊を雇おうということになる。傭兵の発想です。
そこには自らが犠牲になってでも国家の存続を図ろうという発想はありません。
では、ある時代のある世代が、自らの生命、自由、財産を犠牲にしてまで国家の存続を
図ろうとするのはなぜなのか。それは国家が、今そこに生きている自分たちの必要に迫られて
つくったもの(=社会契約説)ではなく、何代、何十代もの我々の祖先たちが築いてきたものであり、
それをまた自分たちの代を経て次の世代、さらにずっと先の世代に伝えていくものと考えているからです。
歴史的な連続性を認識するが故に、自らの生命、自由、財産を犠牲にできるのです。
今の自分たちがたとえ犠牲になっても、この国の存続を図らなければならない。
それゆえに、国防は古今東西、一貫して崇高な行為とされているのです。

戦争によって、ある時代のある世代の生命、自由、財産が犠牲になる。
それを後の政府が国の事業として感謝、顕彰、慰霊、追悼を行う。
それはどこの国でもしていることであり、国家が国家として存続する以上、非常に普遍的なことです。
社会主義国でも戦没者の供養は手厚く行っています。
実はそのことと戦争の性質とは、本来、関係のない話です。自衛戦争であろうが、
侵略戦争であろうが、国家の命令によって自己を犠牲らした人たちに感謝し、顕彰し、
慰霊、追悼を行うことは、後の国家の責任と言うべきものです。

国の成り立ちや歴史・伝統に言及せずに、国民に愛国心や国防の責務だけ求めることは
悪しき国家主義につながります。
国家を歴史的な共同体と捉えることがなければ、その時々の統治機構やそれを指導する
権力者に忠誠を誓い、そのために命を落とすことが愛国心や国防の責務になってしまうからです。

今の日本国憲法には「歴史的共同体としての日本」というものが決定的に欠けています。
それを取り戻す必要があるのです。
憲法に歴史の視点を取り戻し、国家の連続性を確認する必要があるのです。
(中略)
我々の愛する歴史と伝統の国・日本を、日本国憲法が骨抜きにしてしまっている。
そうなった核心が前文にある。またそこに描かれた国家観にある。
であれば、「歴史ある日本」という国柄を取り戻すことこそが、
憲法を改正するにあたっての最重要課題ということになります。
そのためには、前文において日本の歴史の連続性を取り戻すことが、
絶対的に必要です。

そもそも国防の義務と参政権とは表裏一体の関係です。
自らの国を責任を持って守る存在である者のみが、国家の意思形成に参画する、ということなのです。
(中略)
国民国家においては、国民は潜在的にその国の兵士です。
したがって、国籍を有するということは、その人の好むと好まざるとにかかわらず
「その国の潜在的な兵士」であるという意味です。

全世界には朝鮮半島以外で育った韓国系の人が500万人ぐらい存在すると言われています。
そのうち自分が住んでいる国の国籍を取っていないのは、日本にいる人たちだけです。
それは、取らなくても済んできた、取らなくても不都合がなかったということでもあります。

外務省の発表によれば、昭和三十四年当時、関係各省で調査した結果、登録されている
在日コリアン六十一万人のうち、戦争中に徴用労働者として来た者は、わずかに二百四十五名な
過ぎないものでした。それ以外は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者とその家族や、
鉄工業、土木事業の募集に応じてきた者で、戦後もそのまま住み続けた人たちだったのです。
(『朝日新聞』1959年7月13日付)
「強制連行」し主張されるようになった背景も、現在ではほぼわかっています。
朝鮮大学校の教師をしていた朴慶植という人が言い始めたのです。
それは在日朝鮮人へり北朝鮮への帰国事業と関わりがあります。
(中略)
そこで、では、自分たちが日本にいるのは一体どういう理由からなのかという話になった。
そのとき「自分たちは連れて来られたから、やむを得ずここにいる。
それは日本政府に責任がある」という理屈にしてしまったわけです。
だからいわゆる強制連行というのは事実ではない。まったくの虚構であって、
在日コリアン、特に北朝鮮に属する在日朝鮮人が日本にいることを正当化する論理なのです。
国籍が違う人たちがたくさんいることを正当化するために、
「自分たちは好き好んでここにいるのではない」と主張したのです。

「君が代」の「君」とは天皇のことですから、簡単に言えば「天皇の統治する世が永遠に
続きますように」という意味です。つまり「日本が伝統的な国柄を維持しつつ永遠に続きますように」
という意味で、実に平和的な歌です。
それを戦争の歌だと考えている一部の人たちがいますが、完全な言いがかりであることは、
他の国歌と比べてみれば一目瞭然です。
「君が代」は極めて平和な内容で、日本の国歌としては一番ふさわしい歌だといえると思います。

驚くこととに日本の教育界で依然として一番力を持っているのはマルクス・レーニン主義勢力です。
この点には強く警鐘を鳴らしておきたいと思います。
日教組の彼らは、そもそもどんな価値観で行動しているのか。
日教組の本質は昭和二十七年につくった「教師の倫理綱領」に現れています。
そこには「教師は科学的真理に立って行動する」とあります。
社会科学的真理すなわちマルクス・レーニン主義に他なりません。
現在もそれは様々なところに現れていて、たとえぱ歴史教育は歴史事実を客観的に教える
純粋な歴史教育ではなくして、実際には「政治教育」となっています。
階級対立と権力への抵抗の姿勢を教えているのです。

平安時代の貴族政治を教えるにあたってのメインタイトルが「国司をうったえた人々」。
戦国時代のメインタイトルは「立ち上がる農民」。
信長・秀吉の時代のメインタイトルは「たたかう一向一揆」です。
権力に対して常に「うったえ」「立ち上がり」「たたかい」「抵抗する」、
これで一貫しています。さすがにこれには批判も多く、現在は多少表現が薄められています。

マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』の第一章冒頭に「今日までのあらゆる社会の歴史は、
階級闘争の歴史である」という有名な言葉がありますが、それをまさに地でいっている記述です。
階級闘争としての歴史教育……というより政治教育を行っているのです。
現在日本の六割以上の中学生が使っている東京書籍の歴史教科書は、一番穏健だと言われているのですが、
実際は穏健どころかひどいものです。
根底の考え方を一貫して「持つ者と持たざる者との対立関係、抗争」に置いて歴史を描いています。
代表的な例を挙げてみましょう。
「文明の発生」の項目では国家の起こりについての説明がなされていますが、そこには、
「食料が富としてたくわえられると、それをめぐる争いが増え、
やがて強い集団が弱い集団を従えて、国ができました。(中略)
しだいに人々を支配し、税を取るようになり、支配する者(王や貴族)と、
支配される者(農民や奴隷)との区別ができました」
と、これまた『共産党宣言』そのままに階級対立が強調されます。
そしてそのことはこの教科書全体を貫く認識になっています。
同様の記述は各時代にたくさんあります。
その他、幕末も明治・大正時代も、幕府や政府に対する不満から一揆や反乱を起こす民衆の姿を強調しています。

一方、「支配する者」は自己中心的で暴虐であることを強調することも忘れていません。
たとえば、豊臣秀吉の朝鮮出兵は当時のスペイン、ポルトガルのアジア侵略という
背景をまったく記述せずに、「秀吉は、国内統一だけでは満足せず、朝鮮、インド、
ルソン(フィリピン)、高山国(台湾)などに手紙を送り、服属を求めました」とだけ書き、
「朝鮮侵略」と断定しています。
明治政府が身分制を廃止したことも「新政府は天皇のもとに国民を一つにまとめようと、
皇族(天皇の一族)以外はすべて平等であるとしたため、それまでの
きびしい身分制度はくずれました」と書いています。ここでのポイントは
「皇族(天皇の一族)以外は」との文言にあります。
そのことと明治憲法の記述すなわち、
「憲法では、天皇が国の元首として統治すると定められ、議会の召集・解散、
軍隊の指揮、条約の締結や戦争を始めることなどは、天皇の権限とされました。
また、外務省や大蔵省の各大臣は、天皇に対して個々に責任を負うとされたため、
内閣と議会との関係は不明確でした」
という薄められた「天皇制絶対主義」に立つ記述が相俟てば、天皇は不要という感情は
容易に醸成できます。ここでは学習指導要綱が求めている「天皇についての理解と
敬愛の念を深めるようにすること」(小学校六年生社会科)は完全に無視されている
ことになります。
国家の存亡をかけた戦争であり、その後の世界地図を大きく書き換えた日露戦争についても、
「日露戦争での日本の勝利は、インドや中国などアジア諸国に刺激をあたえ、
日本にならった近代化や民族独立の動きが高まりました。いっぽう、国民には、
日本が列強の一員になったという大国意識が生まれ、アジア諸国に対する優越感が強まっていきました」
と否定的に書きます。次のページりタイトルは「日本の朝鮮侵略」です。
日露戦争の記述に小村寿太郎や東郷平八郎、乃木希典の名前は出てこず、
幸徳秋水、内村鑑三の反戦論・非戦論が強調されるだけです。
しかも、その後の日本はアジアに対してひたすらマイナスの行為しかしていないという記述になっています。

はたしてこのような歴史教育で学習指導要綱が言う
「我が国の歴史に対する愛情を育てる」(小学校社会科)、
「我が国の歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情を育てる」(小学校六年歴史学習)ことができるでしょうか。
むしろ政府や会社を憎悪したり。反抗する心を育てているのではないでしょうか。
また、改正教育基本法に示されている「我が国を愛する態度を養う」ことが可能でしょうか。
画に描いた餅だと言わざるを得ません。すみやかにこのような階級闘争史観を脱却することが
必要であることは言うまでもありません。

マルクス・レーニン主義は下から権力を批判して、権力と戦い、勝ち取って権力奪取するという手法を
とってきました。しかし今日、これをまともにやろうとしている人たちはもうあまりいません。
今起きていることは、いわゆるフランクフルト学派の手法です。
フランクフルト学派は、マルクス・レーニン主義を基に社会理論や哲学を研究している
グループの名称ですが、マルクス・レーニン主義を批判的に継承しました。
思想内容はあまり変わらないのですが、戦って権力を勝ち取るのは野暮ったい。
それよりも権力の中に入り込んでしまえ、それで徐々に権力を取れ、という考え方です。
これを今、日本の左翼勢力が実践しているのです。たとえば、審議会に仲間をどんどん送り込む。
しかも保守政権の下で、です。それがとりわけ成功しているのは地方自治体です。
最近、思想的に怪しい条例がたくさんつくられています。その事実に対して保守派は鈍感で、
首長も議員もまるでわかっていません。左翼勢力の美辞麗句にだまされて、気がついていない。
(中略)
行政に「市民」が参画できることを担保とする「自治基本条例」制定運動と相俟って、
新種の革命運動が静かに進行しているのです。
これらの条例に多くの人は無防備で、条例を制定した自治体の数はどんどん増えています。
地方だとマスコミにも出ませんし、地方の議員では勉強する機会も少ないため、
「住民参画」とか「市民参画」のような確信犯的な美辞麗句を使われたら、
まったくわからないまま進んでしまう。
(中略)
共産党・旧社会党系・新左翼を問わず左翼勢力は、権力に抵抗して正面玄関から政権を
奪取するという手法はとっくに諦めています。彼らが今考えているのは、
裏口からいかにして権力に入り込むかということです。

聖徳太子は607年と608年、隋の煬帝(ようだい)に対する書簡の中に、次のように書いています。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」(607年)
(煬帝は無礼だと強い怒りを示した)
日本が君主号として「天子」を使った。
中華思想によれば世界の君主は「皇帝」を名乗るシナの支配者ただ一人であって、
その権威に並ぶ「日出づる処の天子」などというのは、そもそもあってはならない存在です。
聖徳太子の親書は「中華」的世界観への真っ向からの挑戦でした。
「東の天皇。敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す」(608年)
東の「天皇」と西の「皇帝」。今度は天子と天子、皇帝と皇帝でぶつけませんでしたが、
天皇も皇帝に匹敵する称号です。天子と名乗ったことで激怒されたが、冊封体制下の「王」に
逆戻りするつもりはない。そこで使ったのが「天皇」という称号だったというわけです。
二度の国書は日本が自立した王権であることを宣言したものでした。
自らシナ皇帝と対等な「天子」を称し、次いで「天皇」という称号を採用することによって、
シナ皇帝には臣従しないことを宣言したのです。
近隣諸国が次々にシナ皇帝に臣従し、シナ文明圏(中華文明圏)に組み入れられる中、
わが国は敢えて政治的自立を宣言したのです。
そして以後も日本は中国大陸から距離をおいて独自の文明を築いてきたのです。

大正末から昭和の初めにかけて駐日フランス大使を務めたポール・クローデルという詩人が
昭和18年の秋、パリのある夜会で述べた言葉です(市原豊太『内的風景派』文藝春秋)。
「私がどうしても滅びてほしくない一つの民族がある。それは日本人だ。
あれほど古い文明をそのままに今に伝えている民族は他にない。日本の近代化における発展、
それは大変目覚ましいけれども、私にとっては不思議ではない。日本は太古から文明を
積み重ねてきたからこそ、明治になって急に欧米の文化を輸入しても発展したのだ。
との民族もこれだけの急な発展をするだけの資格はない。しかし日本にはその資格がある。
古くから文明を積み上げてきたからこそ資格があるのだ」
昭和18年といいますから、そろそろ日本の敗戦色が濃くなろうとしているときです。
このままいくと日本は本当に滅びるかもしれない。
そういう危惧がクローデルにはありました。しかし、そうなってはならない。
日本が明治以降発展したのは十分意味があってのことだと述べながら、
最後にポツンと一言次のような言葉を付け加えます。
「彼らはまず貧しい。しかし高貴である」
「彼ら」とは日本人のことです。日本人は貧しいけれども高貴である。
クローデルはこう述べたのです。
幕末から明治大正昭和とずいぶん多くの外国人が日本を訪れました。
彼らに共通した日本人への評価は「日本人は高貴だ」というものでした。
日本人は高貴な民族であるとほめたたえられたのです。高貴というのは
道徳性の高さを意味したものです。しかも、上流階級のみならず、
一般庶民に至るまで非常に高貴である。それが彼らには驚きだったのです。

ハーバート・G・ポンティングというイギリス人写真家は。とりわけ
日本の女性に魅了されました。一つは日露戦争の最中の松山捕虜収容所の
病院の看護婦さんの話です。彼は日本の看護婦さんが献身的で非常に優しい。
敵国ロシア兵が日本の看護婦にメロメロになっている、と書いています。
「松山で、ロシア兵たちは優しい日本の看護婦に限りない称賛を捧げた。
寝たきりの患者が可愛らしい守護天使の動作一つ一つを目で追う様子は、
明瞭で単純な事実を物語っていた。何人かの勇士が病床を離れるまでに、
彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである」
「日本の女性は賢く、自立心があり、しかも優しく、憐れみ深く、親切で、
言い換えれば、寛容と優しさと慈悲心を備えた救いの女神そのものである」
(『英国人写真家の見た明治日本 この世の楽園・日本』講談社学術文庫)
これは最高の賛辞です。皮肉を言えば、ロシア兵に対する日本の厚遇は、
第二次世界大戦に強制されたシベリア抑留と格段の違いです。日本はこれだけ厚遇しているのです。

大正時代に民芸運動を展開した柳宗悦の『手仕事の日本』という本に
こんな記述があります。柳宗悦は左翼の人々にわりと利用されているのですが、
彼自身はたいへんな愛国者で、保守主義的な考え方の持ち主です。
「彼らにも仕事への誇りがあるのであります。ですが自分の名を誇ろうとするのではなく、
正しい品物を作るそのことに、もっと誇りがあるのであります。
いわば品物が主で自分は従なのであります。それ故いちいち名を記そうとは企てません。
こういう気持ちこそは、もっと尊んでよいことではないでしょうか。(中略)
品物の中に、彼らがこの世に生きていた意味が宿ります。彼らはは品物で勝負しているのであります。
物で残ろうとするので、名で残ろうとするのではありません」
(『手仕事の日本』岩波文庫)
職人の心意気、誇りというものをよく表現したものです。
この本の後書きに次のような文があって、これも非常に説得力があります。
「我々はもっと日本を見直さねばなりません。それも具体的な形のあるものを通して
日本の姿を見守らねばなりません。そうしてこのことはやがて我々に正しい自信を
呼び醒ませてくれるでありましょう」(同上)
「ただここで一つ注意したいのは、我々が固有のものを尊ぶということは、
他の国のものを謗るとか侮るとかいう意味が伴ってはなりません。もし桜が梅を謗ったら
愚かだと誰からも言われるでしょう。国々はお互いに固有のものを尊び合わねばなりません。
それに興味深いことには、真に国民的な郷土的な性質を持つものは、お互に形こそ違え、
その内側には一つに触れ合うもののあるのを感じます。この意味で真に民族的なものは、
お互に近い兄弟だとも言えるでありましょう。世界は一つに結ばれているものだと
いうことを、かえって固有のものから学びます」(同上)

「佐久間艦長の遺書」という私の好きな話があります。
戦前の「修身」の教科書に載っていて、当時は小学校三年生が読んでいたものです。
明治43年の春、第六潜水艇は、演習のため山口県新湊沖へ出たが、事故で浮上できなかった。
まだ潜水艦になっていない潜水艇の時代です。結局、佐久間艦長をはじめ
乗組員14人がなくなってしまう。
ちょうど同じ頃、イギリスで同じような事故が起きました。その時イギリスの
潜水艇を引き上げてみると、我先に逃げようとしてハッチのところに折り重なって
乗組員が死んでいた。きっとこの第六潜水艇も、引き上げてみると中は阿鼻叫喚の
地獄絵図のようだろうと予想されていた。ところが引き上げてみたところ、
乗組員全員が最後まで自分の仕事から離れないまま、その場で死んでいたということがわかったのです。
しかも、残された佐久間艦長の遺書を見て、人々の不安は解消されたどころか、
みんな驚き、さらに感動します。イギリス人のことがあったから余計そうでした。
佐久間艦長の遺書の内容は、次のように「修身」の教科書に書かれています。
「遺書には、第一に、陛下の艇を沈め、部下を死なせるようになった罪をわび、
乗員一同が、よく職分を守ったことをのべ、またこの思いがけないでき事のために、
潜水艇の発達をさまたげることがあってはならないと考えて、特に沈んだ原因や、
そのようすを、くわしくしるしてあります。/次に、部下の遺族についての願いをのべ、
上官・先輩・恩師の名を書きつらねて別れをつげ、最後に『十二時四十分』と、
書いてありました。/艇を引きあげた時には、艦長以下14名の乗員が最後まで
職分を守って、できるかぎりの力をつくしたようすが、ありありと残っていました。
遺書は、この時、艦長の上着から取り出されたのでした」
(『初等科修身三』文部省、1943年、原文は歴史的仮名遣い)

日本の場合、宗教は「高邁な理念」というものではない。
その点はキリスト教などと異なっている。日本の場合注目すべきは、
やはり連続性なのです。国家の歴史的な連続性ということについてはすでに述べましたが、
我々一人ひとりという存在自体も連続性を持っている。確かに肉体は死んでしまうけれども、
祖先の魂が残っていて、亡き祖先たちによっていつも見守られている。
そういう思いが日本人のどこかにある。

昭和20年10月、敗戦後間もない時期に柳田國男は『先祖の話』という本を刊行し、
その中でこんなことを書いています。ここで「先祖」というのは戦没者のことです。
『私がこの本の中で力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、
即ち霊は永久にこの国土のうちに留って、そう遠方へは行ってしまわないという
信仰が、恐らく世の始めから、少なくとも今日まで、可なり根強くまだ持ち続けられて
居るということである」(原文は歴史的仮名遣い)
この本の筑摩叢書版に柳田國男の弟子である桜井徳太郎という民俗学者が解説を書いています。
非常に的確な指摘です。
「現実に肉体は滅びても、必ず一家の先祖となって子孫の行方を見守ってくれる、
決して犬死とはならない。そこに日本人の祖先観が淵源していることを声を大にして
叫びたくてならなかった。その叫びが、本書全体の底流を形づくっていることは、
本書を通読したものの斉しく抱く読後感であろう。柳田はまた。そのことを実証するために、
全精力を投入して多くの民俗的事実をあつめてもいるのである」
(「『先祖の話』解説」筑摩叢書『先祖の話』巻末「解説」)
この本の直接の執筆目的は、戦争で亡くなった人たちの魂がどこに行くのかということです。
「彼らの戦った意義というものを、すくい取らなければ」という思いで書かれたものです。
このような命の「つながり」や「連続性」というものが、日本人にとっては非常に重要な感覚なのです。
祖先と共に生きているという認識。やがて自分も祖先になる。だから同時に子孫への
眼差しというものもある。
そういうつながりの中で日本人の多くが生きている。
立場の上下を問わず、一般庶民にまでその感覚が浸透している。
そこがやはり日本文明の特色の一つではないかと思うのです。