(プロメテウスの罠)震災と皇室

朝日(プロメテウスの罠)

震災と皇室:2 秋篠宮家が絵を提供(2014/04/18)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11090496.html
◇No.893
宮内庁では、天皇皇后両陛下の意向を受けて那須御用邸の風呂を避難者に開放する作業が始まった。
2011年3月24日には、避難者の入浴用タオル約3400枚を宮内庁講堂で袋詰めした。
秋篠宮家から紀子妃(47)や眞子(22)、佳子(19)各内親王も参加した。
前日の23日、宮内庁管理課長の和地国夫(61)は秋篠宮(48)から呼ばれている。
秘書課長の和田裕生(わだひろお)(55)らと宮邸を訪れると、秋篠宮はすでに那須御用邸の件を知っていた。
「被災者の心のケアが大事です」との話があった。宮邸を出た後、
「心を癒やすには、絵があったらよいでしょう」との紀子妃の発案で、宮邸にあった絵が提供された。
和地が御用邸の風呂を開放する実施計画を長官の羽毛田信吾(72)に提出したのは、21日のことだった。
世話をするため、東京から宮内庁職員を2人、3泊4日ずつの交代で御用邸に派遣する。
皇室の護衛や警備を担当する皇宮警察も、皇宮護衛官2人ずつの派遣を決めた。
職員が泊まるための布団や毛布は宮内庁から運んだ。冬は使わないプロパンガスの復活や風呂掃除も手配する。
休憩室で提供する茶菓子や飲み物は、費用の寄付を職員から募り、日ごろ皇族方の食事や
宮中晩餐(ばんさん)会などの調理を担当する大膳(だいぜん)課に頼み、業者への手配をしてもらった。
両陛下からは「バスタオルの費用を出しましょう」と寄付があった。秋篠宮家から借りた絵は、
避難者が風呂から上がった後、茶菓子を食べてもらう休憩室に掲げられた。
栃木県や那須町も協力した。町内の避難者に呼びかけ、町のマイクロバスで送迎することになった。
26日午前、那須御用邸供奉員(ぐぶいん)宿舎で和地はあいさつした。
「御用邸は温泉がいいので、ゆっくり入ってください。風呂は3カ所あります。飲み物もあります」
風呂は4月19日までに、延べ449人が利用した。
和地は再び、羽毛田に呼ばれた。
「御料牧場(ごりょうぼくじょう)の生産品を、避難者に配布できないだろうか」
栃木県内にある御料牧場では、牛乳や鶏卵が生産されている。ふだんは皇族の食事や、
賓客を招いた晩餐などで使われる食材だ。それを避難者に提供できないかという。
両陛下のお気持ちだ、と和地は思った。
それは可能だ。ただ問題は、御料牧場の施設が地震で大きな被害を受けていることだった。
(北野隆一)

震災と皇室:5 東北へ「私が行く」(2014/04/21)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11095623.html
◇No.896
2011年3月30日午後3時40分、天皇は皇后とともに東京都足立区の東京武道館を訪れた。
武道館は震災1週間目から避難所になっている。避難者288人のうち269人が福島からだった。
訪問直前には都職員や警察関係者が下見し、「動線」を確認した。両陛下が歩く経路のことだ。
職員が避難者に「明日、両陛下がお見舞いに来られます」と告げた。
「どうお迎えしたらいいのか」という声が出たが、職員は「ふだん通りでお願いします」と説明した。
武道館の管理者として両陛下を迎えた都スポーツ振興局長の笠井謙一(60)は、
00年の三宅島噴火のときは都報道課長。島から避難した人々のお見舞いに随従(ずいじゅう)した経験がある。
「両陛下がなるべく被災者のそばに行ける動線をつくろう。そう考えていました」
両陛下が話しかけやすいよう、お年寄りや子ども連れの近くを通れるように計画した。
到着すると、天皇と皇后は二手に分かれ、避難者に話しかけ始めた。
皇后と話している両親のわきで、遊んでいた女の子が、ぴょんぴょんとはねながら
「おばあちゃんだ、おばあちゃんだ!」とはしゃぎ、「おじいちゃんは?」と問いかけた。
さらに皇后が動線から外れ、茶髪の若者に話しかけたのを見て、笠井はぎょっとした。
ちゃんと話ができるだろうかと思ったのだ。しかしもっと驚くことが起きた。
若者は、皇后に家族のことを話しながら、ポロポロと涙を流し始めたのだ。
両陛下は一人ひとりにていねいに声をかけ続けた。都知事としてそばに従った石原慎太郎(81)はのちに語る。
「後ろで聞いているだけでへとへとになった。あれを聞き続けるなんて、とてもじゃないけど僕はダメだ、
まねできない」
途中から少し距離をおいて見守るようにしたという。
休憩時間に、石原は東京消防庁や都職員が救援に入っている東北3県を視察したときのことを
「悲惨で、想像を絶するものでございますよ」と語った。そしてこう提案する。
「陛下もお疲れでしょう。被災地は若い男宮(おとこみや)を名代(みょうだい)に
差し向けてはいかがでしょう」
天皇は黙っていた。見舞いを終えて武道館を出る際、見送りの石原に歩み寄り、こう告げた。
「石原さん。東北は、私が自分で行きます」(北野隆一)

震災と皇室:10 箸は持ち帰った(2014/04/26)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11104948.html
◇No.901
両陛下による東北3県の訪問は、2011年4月27日から始まった。最初は宮城県だった。
知事の村井嘉浩(むらいよしひろ)(53)はいう。
「震災直後の救助活動もやっと落ち着き始めていました。被災地を見ていただくには、
ちょうどいいタイミングでした」
問題は交通だった。新幹線は25日に仙台まで開通したが、専用列車を用意できる状況ではない。
自衛隊機で羽田空港を出発し、松島基地(宮城県東松島市)で自衛隊ヘリに乗り継ぐことにした。
両陛下の地方訪問は、ものによっては1年以上前から日程が決まっている。
宮内庁と警察、自治体や交通機関が打ち合わせ、分刻みで日程を決める。
警察は他の車を排除し、信号を全部青にするのが通常だ。
しかし東北3県は、沿道警備に多数の警察官をさける状況ではない。
そこに宮内庁から「被災地に負担をかけないように」との両陛下の意向も伝わった。
そこで、ヘリが着陸するグラウンドに隣接した避難所を訪問先とすることにした。
選ばれたのは、南三陸町の歌津(うたつ)中学校と、仙台市の宮城野(みやぎの)体育館だった。
航空自衛隊松島基地司令の杉山政樹(すぎやままさき)(55)が両陛下の宮城県訪問を聞いたのは、
訪問の1週間ぐらい前だった。基地訪問は初めて。どうお迎えしたものか。
昼食については、宮内庁から天皇の意向として「基地食堂で隊員がふだん食べているカレーライスでいいです」
と伝えられていた。
基地の壊れたボイラーは3月24日に復旧し、温めたレトルト食品を食べられるようにはなっていた。
しかしその後、近くの旅館が仕出しを再開していたことが分かり、県が手配。当日は箱弁当が出された。
基地では女性自衛官3人を急きょ接遇役に仕立てた。教官を呼び、お茶の入れ方などの作法についての訓練を
3日間受けさせた。
杉山らは、両陛下の基地来訪を記念する何かを残したかった。しかし宮内庁は写真撮影はだめだという。
考えついたのが箸だ。前年にブルーインパルス50年記念で作った若狭塗り箸を用意した。
黒地に白く航跡が描かれた高級品だ。両陛下が使った後、記念に保存しようと考えた。
4月27日の昼食時、皇后が「これは何ですか」と尋ねた。ブルーインパルスについての説明を聞くと、
両陛下は「それはいいですね」と、箸を大切に持ち帰ってしまった。(北野隆一)

震災と皇室:12 真っ先に自衛隊の名(2014/04/28)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11108344.html
◇No.903
両陛下が宮城県の松島基地に降り立った2011年4月27日、
出迎えたのは陸上自衛隊東北方面総監の君塚栄治(きみづかえいじ)(61)だった。
震災後、陸海空の統合任務部隊(とうごうにんむぶたい)の指揮官を務めていた君塚には、特別の思いがあった。
3月16日午後4時半、テレビ各局で天皇のビデオメッセージが一斉に放送された。
夜、録画でそれを見た君塚は、あっと思った。
天皇は救援活動に携わった組織を列挙して「その労を深くねぎらいたく思います」と語った。
その際「自衛隊、警察、消防、海上保安庁」の順で読み上げたからだ。
04年10月の中越地震のあと、天皇は文書を発表したが、そこでは「消防、警察、自衛隊」だった。
自衛隊に真っ先に言及していただいた――。君塚は感動した。
「今まで以上に自衛隊が頼りにされている、と感じました」
ビデオメッセージには思わぬ反響もあった。当時、天皇は放射能被曝(ひばく)を恐れ、
東京を脱出したといううわさが一部でささやかれていた。その疑惑が一掃されたのだ。
侍従長の川島裕(71)は、「陛下が皇居におられると確認でき安心した」という人がいることを聞いて仰天した。
「文芸春秋」11年5月号で、そのときのことを書いた。
4月27日、両陛下は南三陸町に入った。地元消防団長、海上保安庁、県警などの関係者が出迎えた。
海上自衛隊第1護衛隊群司令の糟井裕之(かすいひろゆき)(51)もその一人だ。
がれきのため歌津地区の岸壁にボートが接岸できず、ヘリで駆けつけた。
天皇は糟井に「ご苦労様。危険も多いでしょう」と声をかけた。
糟井「被災者の方々が大変な思いをされているので、危険だとかいっていられません」
天皇「たとえば、どんな大変なことがあるのですか」
津波のがれきで道路がふさがれているので、海岸や海上で救助を待つ人々に近づけるのは
海自のボートとヘリだけだったこと。
早く救助しないと津波に流された人が凍死してしまうので、暗闇でも危険を承知で出動したこと――。
4月下旬は、救命活動はほぼ一段落し、行方不明者の遺体を洋上から探し続けている時期だった。
天皇は「ご苦労様」、皇后は「被災した人のため活動していただいてありがとうございます」といった。
「被災者になりかわって」というように糟井は感じた。(北野隆一)

震災と皇室:14 窓は開けたままに(2014/04/30)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11111601.html?ref=reca
◇No.905
宮城県の次は岩手県だった。
連休明けの2011年5月6日、天皇と皇后は花巻空港で自衛隊ヘリに乗り継ぎ、釜石市に着いた。
もともとは宮城県の5日後、2日の予定だったが、悪天候で4日延期されていた。
自衛隊のマイクロバスで避難所の釜石中学校へ5キロほど移動する。
ふだんの地方訪問では、歓迎の住民を警察が事前に、数百メートルおきにまとめる
「まとめ奉迎(ほうげい)」をする。しかし県警は震災のため、その人手がなかった。
沿道の被災者は、思い思いの場所で手を振っている。
最前列に座る両陛下は、手を振る人々を見るたび、手を振り返そうとバスの席を立って左右に移動した。
窓から冷たい風が入ってくる。
すぐ後ろに座っていた岩手県知事の達増拓也(たっそたくや)(49)は、
両陛下が風邪など引くといけないと思い、窓を閉めようとした。
「すると天皇陛下が振り返られ、開けておいてください、といわれてしまいました」
釜石中でのお見舞いの最中、震度3の余震が起きた。県秘書課の総括課長、
小友善衛(おともよしえ)(57)は万一のことが起きたらと気が気でなかった。
皇后のそばにいた70代の女性が驚き、皇后の手を握ってしまった。
皇后はその手を握りかえし「大丈夫よ」となだめている。
両陛下は終始、平然としていた。
事前に「海岸近くで亡くなった人に黙礼したい」との両陛下の意向が伝えられていたが、
余震でまた津波がくる危険を考え、上空からのお見舞いということにした。
再びヘリに乗り、釜石市から宮古市へ三陸沿岸を北上する。
両陛下は、壊滅状態の街を上空から沈痛な表情で見つめていた。
大槌町上空で達増が「大槌では町長も津波で亡くなりました」というと、天皇は「役場はどこですか」と尋ねた。
1997年に「全国豊かな海づくり大会」で大槌町を訪れている。
そのとき泊まった「浪板(なみいた)観光ホテル」は、5階建ての3階まで浸水した。
地盤が沈下し、名物「鳴き砂」の海岸も多くが失われた。
皇后が天皇に「あの海岸を散策されましたね」と声をかけていた。
翌12年の歌会始のお題は「岸」だった。天皇は、釜石から宮古へ向かうヘリから見た印象を詠んだ。
「津波来し時の岸辺は如何(いか)なりしと見下ろす海は青く静まる」(北野隆一)

震災と皇室:18 傘を閉じて黙礼(2014/05/04)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11118372.html
◇No.909
福島県で最後の訪問地は、津波被害を受けた相馬(そうま)市だった。
両陛下は2011年5月11日午後3時前、自衛隊ヘリで相馬光陽サッカー場に着いた。
ちょうど震災から2カ月だった。2人は、震災が起きた時刻の午後2時46分、
飛行中のヘリの中で黙祷(もくとう)をしている。
避難所となった中村第二小学校。被災者を見舞ったあと、玄関ホールで
警察や消防、ボランティア関係者らをねぎらった。
その中に、陸上自衛隊第13旅団長の海沼敏明(かいぬまとしあき)(57)もいた。
天皇は海沼に「このたびの大災害で尽力してくれてありがとう」と声をかけた。
第13旅団は広島の部隊だ。震災4日後の3月15日に相馬市に入った。
5月4日からは、第一原発から20キロ圏内の浪江(なみえ)町の警戒区域に入り、
津波被災地のがれきの撤去や行方不明者の捜索を始めたばかりだった。
宿営地から片道1時間かけて20キロ圏内に入り、2時間活動し、戻って被曝(ひばく)量をチェックする。
防護服を着ての活動は負担が大きく、しんどい作業だった。
質問はさらに続いた。
天皇「20キロ圏内に入る隊員のご家族は心配していませんか」
海沼「事前に家族説明会を開き、防護服を着ていれば大丈夫だと説明しました」
皇后「放射線の対策はいかがですか」
海沼「女性隊員については、母体保護のため累積線量の上限を決めています」
皇后「健康管理やメンタル面はどうしていますか」
海沼はこの質問を「隊員のことを思ってくださっている」という思いで聞いた。
隊員のメンタル面は大きな問題だったからだ。
若い隊員は遺体をあまり見たことがない。被災現場では損傷の激しい遺体や、
幼児の遺体も扱わなければならない。隊員が重い体験を背負い込まないよう、
医師や臨床心理士がチームを組み、カウンセリングのミーティングを重ねていた。
両陛下は時折降る雨の中、海沿いの原釜・尾浜地区を視察した。
津波により146人(5月11日当時)の犠牲者が出たと聞き、傘を閉じて黙礼した。
これがしめくくりとなり、震災直後の1都6県の連続訪問はひとまず終わった。
しかし両陛下は、翌年も被災地を訪れる。(北野隆一)

震災と皇室:20 にじみ出たお気持ち(2014/05/06)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11121482.html
◇No.911
2011年3月の震災当時、天皇は77歳だった。皇后は76歳。
その高齢の2人が震災直後、驚くほど積極的な行動を取った。
異例のビデオメッセージ発表。
専門家や政府指導者を次々と呼んでの情報収集。
前例のない7都県の連続訪問で、被災者を直接見舞う――。
翌年の12年6月、宮内庁長官を退任した羽毛田信吾(72)は、退任の記者会見で、
在任中の印象深いできごととして東日本大震災での被災者見舞いをあげた。
「悲惨で深刻な震災において、被災者に寄せる両陛下の深い思いを、おともしていて感じました」
皇室は国内外を訪問するとき、地元や相手国が準備した場所を訪れるのを基本としてきた。
前侍従次長の佐藤正宏(さとうまさひろ)(72)はいう。
「自分が行きたい場所よりも、相手が『ここへ来てほしい』と用意した場所へ行く。
それが訪問先に対する誠意だ――というのが、これまでの陛下の基本姿勢でした」
しかし今度の大震災では、天皇の側からの強い意向が働いた。
被災地の訪問は、いずれも宮内庁側から打診して実現している。
近現代の皇室に詳しい明治学院大教授の原武史(はらたけし)(51)はいう。
「災害や戦災の被災者を見舞うことは、皇室の伝統でもあります。
1923年の関東大震災では貞明(ていめい)皇后が被災地を慰問した。
敗戦後には昭和天皇が全国巡幸で国民を励ました前例もあります」
原は、関東大震災のとき実業家の渋沢栄一(しぶさわえいいち)が説いた「天譴(てんけん)論」を
思い出すという。天変地異は「天」が君主を叱り反省を促すため起こす、という考え方だ。
「天皇は、災害もまた自分の責任と考えているのかもしれない。宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)で
国民の平安を神に祈る熱心な姿と、災害地を訪れて被災者を直接に慰める姿は、
表裏一体といえるのではないかと思います」
被災地で救援活動に携わった自衛隊員や警察、消防、自治体職員の多くが、
両陛下から「ありがとう」と声をかけられている。
元侍従長の渡辺允(わたなべまこと)(77)はいう。
「被災した人々や全国民に代わって『ありがとう』とおっしゃったともいえる。
いろいろなお気持ちが全体からにじみ出るようなものではないでしょうか」
(北野隆一)

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