徳川将軍家から天皇家に嫁いだ唯一の姫君

hinami
時代を生きた女たち 第51回
植松三十里

「徳川和子」(とくがわまさこ)(1607-1678)
徳川将軍家から天皇家に嫁いだ唯一の姫君

2代将軍徳川秀忠と、御台所お江との間には、3男5女が生まれた。
5人姉妹のうち、長女が千姫で、豊臣秀吉の子、秀頼に嫁ぎ、
その下の3人は、それぞれ有名大名の妻となった。
そして末の和子は、生まれて早々に、天皇家に嫁ぐという道が定められた。
決めたのは和子の祖父に当たる徳川家康だ。
この頃、天皇家の下に、徳川将軍家と、亡き秀吉の威光を引き継ぐ豊臣家とが、
微妙なバランスで並んでいた。
家康は、孫娘を天皇家に嫁がせることで、このバランスを崩して優位に立ち、
徳川政権を、より手堅いものにしようと考えたのだ。
和子の相手、後水尾(ごみずのお)天皇は16歳で即位。
その時、まだ和子は5歳だったが、3年後には8歳で、正式に婚約が成立した。
これによって家康は、天皇家を味方につけたわけで、ここから豊臣家を追い詰めにかかる。
婚約から半年あまり後に大坂冬の陣、さらに半年後には夏の陣と、
2度に渡って大坂城を攻め立てて、豊臣家を滅ぼすに至った。
もはや家康には怖いものがなくなり、今度は天皇や貴族たちに「禁中並公家諸法度」を押しつけた。
彼らがしてはなならい事柄を、幕府が法律として定めて、それに従わせたのだ。
いわば天皇家との力関係すらも逆転させたわけだ。
そこまで徳川政権を盤石のものとした上で、翌年、家康は74歳で大往生を遂げた。

あからさまな政略結婚
和子は幼くして婚約したものの、大阪の陣や家康の死去が重なり、縁談は中断していた。
それでも13歳で、ようやく結婚の時期まで決まったのだが、ここで問題が起きた。
後水尾天皇の側室およつに、皇子が生まれたのだ。この時、天皇は23歳。
当時の貴人としては、側室を持っても、おかしくはない年齢ではあった。
しかし和子の母お江は、夫に側室を認めず、みずから8人の子を生んだ女性。
それだけに娘が嫁ぐ前に、皇子が生まれたことを問題視したのだろう。
まして男児だけに、先々、皇位継承で揉める種になりかねない。
幕府側から問いただされて、後水尾天皇は不愉快に感じた。
もともと家康から持ちかけられた縁談であり、側室に子ができたからと言って、
文句を言われる筋合いではないと思ったのだろう。
さらに翌年、女児も生まれた。
後水尾天皇は退位を口にした。天皇でなくなれば、婚約は振り出しに戻る。
それでもいいのかと逆襲に出たのだ。
しかし和子の父、将軍秀忠の方が一枚上手だった。
およつの兄を始め、天皇に側室を勧めた側近たちを処罰し、御所から追放したのだ。
生まれた子供たちも外にだされたと言われている。
その結果、和子は14歳で、江戸から京都に嫁いだ。
幕府の城である二条城から御所までの行列は、きらびやかな御道具類と、
着飾った従者たちが延々と連なり、和子が乗る豪華絢爛な輿が続く。
まさに絵巻物の世界に、京雀たちも目を見張った。
いまだ後水尾天皇は将軍秀忠に、いい感情を持っていなかったし、
あからさまな政略結婚ではあったが、夫婦仲は最初から睦まじかった。
和子は一連のごたごたのおかげで、この時代に姫としては、長く両親のもとで大事にされ、
穏やかな性格に育ったらしい。
17歳で身ごもったのを機に、秀忠が退位。
和子の兄に当たる家光が、三代将軍の座についた。将軍になるには天皇からの任命が必要であり、
徳川家としては懐妊の祝賀ムードを、うまく利用したのだ。
こうして将軍の世襲は、三代目まで認められたことで、もはや四代以降も確実になった。
生まれたのは女児で、女一宮(おんないちのみや)と呼ばれた。
19歳でも女二宮を出産。さらに20歳で、待望の男児、高仁親王を生んだ。
ところが高仁親王は生まれて一年半で病死してしまった。

元気な男児を生む重圧
その頃、折悪く、紫衣(しえ)事件という問題が起きた。
紫色の法衣は、昔から天皇が、身分の高い僧侶に与えていたが、
「禁中並公家諸法度」によって幕府の許可が必要になった。
にも関わらず、後水尾天皇は慣例通り、十数人の僧に紫の衣を与えてしまい、
幕府との間がこじれたのだ。
高仁親王の死に、紫衣事件が重なり、後水尾天皇としては何もかも嫌になってしまったのか、
ふたたび退位を口にした。次の天皇には、女一宮を指名した。
女性天皇は推古天皇以来8例あったが、すべて奈良時代以前であり、
もう長い間、女性が天皇の座に就くことはなかった。
それだけに幕府としては避けたい事態であり、もういちど和子が男児を生まない限り、
後水尾天皇に退位されるわけにはいかなかった。
和子は子を失った哀しみの中、夫と実家の板挟みになりつつも、
22歳で、ふたたび男児を出産。だが今度は生後10日足らずで亡くなった。
和子は、なおも懐妊を繰り返す。
どうしても元気な男児を、生まなければならない立場だったのだろう。
だが生まれた子は女児だった。
すると後水尾天皇は幕府に黙って、突然、女一宮への譲位を発表。
重圧に苦しむ妻を、これ以上、見ていられなかったのかもしれない。
女一宮は、わずか7歳の少女だったが、もはや幕府も認めざるを得ず、
859年ぶりの女性天皇、明正天皇が即位した。
和子は23歳で、東福門院と名を改めた。
その後も二度、出産したが、どちらも女の子だった。
一方、後水尾天皇は上皇になったことで、自由が利くようになったのか、
久しぶりに側室との間に男児が生まれ、素鵞宮(すがのみや)と名づけられた。
和子は素鵞宮を引き取り、わが子として育てた。
男児出産という責任から解き放たれたせいか、むしろこの頃から、
夫婦ともに穏やかな暮らしが始まった。
そして明正天皇が未婚のまま、21歳で退位すると、素鵞宮が次の天皇になった。
結局、徳川家の血が、天皇家に入ることはなかったが、和子は国母(こくも)と呼ばれた。
和子は時代のファッションリーダーでもあった。
この頃の徳川幕府は経済的に、もっとも豊かな時代であり、
天皇家と将軍家をつなぐ苦労の見返りとして、着道楽を容認したのだろう。
和子好みの反物は「御所染め」などと呼ばれて流行。庶民の憧れになった。
また夫婦ともに和歌や生け花、庭造りなどに造詣が深く、
ふたりの周囲には同好の貴族たちが集まって、宮廷文化が花開いた。
最晩年に至るまで、夫との仲は睦まじく、72歳で他界した際には、すべての宮家が駆けつけたという。
和子の人柄が偲ばれるエピソードだ。

参考図書『徳川和子』久保貴子著、『徳川某重大事件』徳川宗英著など

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