勢津子妃殿下

hinami
時代を生きた女たち第60回 植松三十里

「秩父宮妃勢津子」 宮家に嫁ぎ、会津の汚名をそそいだ妃
(1909-1995)

父は優秀な外交官で、母は皇后の御用掛。
本人は父の赴任先のロンドンで生まれ、天津やワシントンで育った。
そんな国際派の令嬢に、昭和天皇の弟、秩父宮に嫁ぐという縁談が舞い込んだ。
そこには大正天皇の后の深い思惑があったのだ。

勢津子の祖父は松平容保。明治維新の内乱で、東北の会津藩は官軍に敗北したが、その時の藩主だ。
父の松平恒雄は容保の六男で、東京帝国大学を出てから、外交官試験に最優秀の成績で合格した外交官。
勢津子は明治の末近くに、父の赴任先だったロンドンで生まれた。
兄と妹の真ん中で、その後、北京を経て天津へ。
当時の天津は租界といって、外国人が暮らす治外法権の地域があった。
勢津子は兄と共に、日本租界の小学校に通った。
当時、天津の日本人は急増しており、学校の生徒数も多かった。そのため暑い日の休み時間などは、
子供たちが水道の蛇口に殺到。勢津子はおっとりした性格で、人を押しのけてまで前に出られず、
喉の渇きを我慢した結果、熱中症でダウン。2週間も意識が戻らず、
両親は「我慢強いにも、ほどかある」と嘆いた。
きょうだい3人には、たかという養育掛がいた。たかは会津藩士の家の出で、漢文の心得もある教養人。
凄惨な会津戦争を経験し、その後、夫が日露戦争で戦死したため、松平家に住み込んで養育掛になったのだ。
たかは勢津子たちに、誇り高い会津魂を教え込んだ。
その後、一家は東京に戻り、勢津子は女子学習院に通った。14歳の時に関東大震災に遭遇。
たかは「こういう不幸なことがあったという事実は、見ておいて無益ではない」と、
遺体が残る焼け野原に、あえて勢津子を連れていった。今なら子供に見せたくないと思うのが人情だが、
心の持ちようが違ったのだ。
翌年、父が在米日本大使に就任し、たかも含めてワシントンへ。勢津子はキリスト教の私立学校に入ったが、
学習院ではフランス語を学んでいたため、英語の心得がなく、常に辞書を引いて努力した。
おっとりしていても、芯は頑張り屋だった。

思いもかけなかった縁談
すっかりアメリカ暮らしに馴れた18歳の秋、東京から樺山愛輔という来客があった。
以前から家族ぐるみで親しかった人物で、3日間、大使公邸に滞在。
深刻な表情で両親と何か相談して、日本に帰っていった。
だが樺山は、すぐに再渡米してきた。今度は勢津子が呼ばれて、思いもよらない話を聞かされた。
それが秩父宮との縁談だった。
昭和天皇は4人兄弟で、すぐ下が秩父宮。先代の大正天皇は側室を持たず、
4人とも正妻である貞明皇后の実子だった。縁談は、その貞明皇后の、たっての希望だったのだ。
実は勢津子の母、松平信子は、日本にいた頃に、貞明皇后の御用掛を務めていた。
海外経験を生かして、洋式マナーから国際情勢まで、幅広いアドバイス役だった。
勢津子自身も母と一緒に、宮中や御用邸に招かれたことがあり、貞明皇后や秩父宮にも会ってはいた。
ただ宮家に嫁ぐには華族でなければならなかった。松平恒雄は外交官とはいえ平民であり、
よもや縁談があろうとは思っていなかっただろう。
当然ながら、宮家に嫁ぐような教育は受けておらず、苦労は目に見えている。
樺山愛輔の最初の来訪の際には、両親は勢津子には何も聞かせないまま、丁寧に断りを入れた。
だが樺山は貞明皇后から、2度目の説得を命じられてきており、もはや断るという選択肢はなかった。
勢津子は戸惑いのあまり、学校にも行かず、食事もとらずに泣いた。
自分だけでなく、親きょうだいも難しい立場になることが耐えられなかった。
しかし、それを聞いたたかが「皆さま、会津魂をお持ちです」と言い、
ようやく勢津子の覚悟が定まったのだった。

勢津子が選ばれた理由
そもそも貞明皇后が、なぜ勢津子を選んだかといえば、やはり理由は会津にあった。
貞明皇后の父は九条道孝といって、幕末までは関白も務める家柄の公家だった。明治維新の際に、
官軍が組織され。全国に部隊が派遣されると、九条道孝は奥羽先鋒総督といって、
東北に向かう部隊の総大将を務めた。
当初、会津藩は降伏の意志を伝えてきた。
九条道孝はそれを受け入れて。平和裏に会津城を接収しようと考えた。
だが配下についた主戦派の参謀に押し切られ、結局、戦争を招いてしまった。
会津の人々は朝敵の汚名を負い、敗戦後も厳しい暮らしを余儀なくされた。一方、九条道孝は、
戦争を抑えられなかったことを悔いていたのだろう。娘である貞明皇后が、その遺志を引き継いだのだ。
朝敵の汚名を晴らすには、会津藩主の血を受け継ぐ姫を、宮家の妃といて迎えることが一番だ。
そのために秩父宮妃は、どうしても勢津子でなければならなかったのだ。
松平家では、いったん勢津子を、子爵である本家の養女にした。名前も、それまでは節子と書いていたが、
貞明皇后の名が節子と書いて「さだこ」と読んだ。
そのために皇室に縁の深い伊勢の勢に、会津の津を続けて、勢津子と改名したのだった。
結婚は昭和3年9月28日。昔の暦でいうと戊辰の年だ。暦は60年で一巡する。
会津戦争を含め奥州での一連の戦争は、戊辰戦争といって、ちょうど60年前の戊辰の年に起きていた。
まして9月28日は、会津藩が正式に降伏した日だった。
もともとは勢津子自身の意図ではなかったものの、この結婚は会津の人々に、大きな喜びをもたらせた。
60年もの長きに渡った汚名が、ようやくそそがれたのだ。
夫となった秩父宮は、昭和天皇とは1歳違いで、上背があり、端正な顔立ちだった。
すでにイギリスのオックスフォード大学への留学経験があったが、
結婚後に陸軍大学に入学し、優秀な成績を修めた。
そんな皇弟だけに幅広い人望があり、二・二六事件の際には、反乱軍の将校たちが、秩父宮を
担ぎ出そうとする動きがあった。そのため関わりを避け、事前に勢津子を伴って東京から離れ、
弘前の連隊に所属していた。しかし事件勃発後、釈明のために急いで上京。
この時、勢津子は身ごもっていたが、厳冬期の長距離列車の旅で流産したといわれている。
その後も軍部とは距離を置き、夫婦共に堪能な語学を生かして、
イギリス国王の戴冠式に出席するなど、戦前の皇室外交に尽力した。
夫婦仲は円満だったが、子には恵まれなかった。さらに戦争中に秩父宮は肺結核を発病。
御殿場の別邸で、療養を余儀なくされ、勢津子は献身的に看病に当たった。
だが長い療養生活の末、昭和28年に逝去。
残された勢津子は、結核予防会総裁や日英協会名誉総裁などの役目を果たした。
昭和40年に作家の司馬遼太郎が、松平容保を主人公に『王城の護衛者』を発表すると、
祖父の姿を正しく描いてくれたと喜び、礼を伝えたという。
平成7年、享年87で世を去った。

参考図書/『銀のボンボニエール』秩父宮妃勢津子著、
『波瀾のプリンセス 秩父宮妃勢津子妃の昭和史』渡辺みどり著など

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