三笠宮家

「ヒゲの殿下」長女彬子さまが「異例」手記 「別居」の母に望む「二つのこと」とは
2015/6/10 18:48
「ヒゲの殿下」として親しまれ、2012年に亡くなられた三笠宮寛仁さまの長女・彬子さまが、
月刊誌「文藝春秋」(15年7月号)に特別手記を寄せられた。
父への思いをつづる一方、週刊誌などで家族との確執がうわさされていた母・信子さまについて、
「私自身も10年以上きちんと母と話をすることができていない」と明かす、異例の内容だった。
手記は「文藝春秋」(15年7月号)に掲載された
■家族内の「確執」明かす
手記は、寛仁さまが亡くなって2015年6月6日で3年がたったことに合わせて寄せられた。
父に代わって行われている公務のことや、喪主を務めた葬儀の際に皇室の方々に支えられたことなど、
この3年間を振り返り、父への思いや感謝がつづられている。
一方、ストレス性ぜんそくの治療のためご家族と別居し、確執がうわさされていた信子さまについては、
「私自身も10年以上きちんと母と話をすることができていない」と言及。
寛仁さまの逝去後に話し合いを申し込んだが、代理人を通じて拒否された、とも書かれている。
信子さまは、故・吉田茂元総理の孫で、麻生太郎・財務大臣の実の妹でもある。
これまでも、信子さまとご家族の確執は週刊誌などで、何度も取りざたされてきた。
たとえば週刊朝日(14年12月19日号)は、以前の話として、
信子さまがほかの皇族から嫌がらせを受けていると周囲にこぼしたため、寛仁親王家が宮家の中で孤立。
これが原因で寛仁さまと信子さまの間に溝が生まれたと報じた。
また女性セブン(12年6月28日号)は宮内庁関係者の証言を取り上げ、
2人の病気をめぐって衝突があったと伝えている。
サンデー毎日(12年7月8日号)は家族との溝が埋まらず、
いずれ皇室から離脱するのではないか、という憶測があると書くほどだった。
一連の報道について、彬子さまは「最近ある雑誌にも書かれていたけれど、
寛仁親王家は長い間一族の中で孤立していた」と認める。
さらに、その要因について、
「長年に亙(わた)る父と母との確執であり、それは父の死後も続いていた」と明言されたのだ。
■母・信子さま公務復帰への思い
長らく病気療養のため、公務を控えていた信子さまだが、13年11月から少しずつ公務に復帰されている。
東日本大震災のため仮設住宅に避難する住民をねぎらった福島県伊達市への訪問は、
およそ7年10か月ぶりの公務だった。
15年6月にフィリピンのベニグノ・アキノ大統領が来日した際は、
秋篠宮家の次女・佳子さまの隣に座って宮中晩さん会に参加された。
しかし、信子さまの公務復帰に彬子さまは冷ややかだ。「母に望むことは二つだけ」として、
「公務に復帰されるのであれば、今までお見守りくださった三笠宮両殿下にきちんとお目にかかり、
ご無沙汰のお詫びとご報告をしてほしい」
「私たち皇族を支えてくださっている国民の皆様に、公務に復帰される理由をきちんと説明してほしい」
と注文。「それ以上のことは、私は何も望んでいない」とされている。
一方、週刊文春の先週発売号(6月11日号)では、信子さまの体調悪化について、
「すべての発端」は寛仁さま側にあり、信子さまが娘たちの心配をしている、とする匿名情報などを伝えている。
http://www.j-cast.com/2015/06/10237455.html

寛仁親王家母娘確執 彬子さまは「公務励んだのは自分たち…」
2015.07.03 07:00
《ェ仁親王家は長い間一族の中で孤立していた。その要因であったのが、長年に亙る父と母の確執であり、
それは父の死後も続いていた。母は父の生前である十年ほど前から病気療養という理由で
私たちとは別居され、その間、皇族としての公務は休まれていた。
私自身も十年以上きちんと母と話をすることができていない》

6月10日に発売された『文藝春秋』で、こんな衝撃的な告白をされたのは、
“ヒゲの殿下”の愛称で親しまれたェ仁さま(享年66)の長女・彬子さま(33才)だ。
2012年6月にェ仁さまが亡くなられてから3年が経ったタイミングでの告白だった。
1980年11月、8年越しの恋を実らせて結婚されたェ仁さまと信子さま。
1990年暮れにェ仁さまに食道がんが見つかってからは、
信子さまが献身的に看病されるなど、仲睦まじい夫婦のお姿があった。
しかし2004年4月、信子さまが胃潰瘍と更年期障害を理由に軽井沢で療養生活を送るようになると、
夫婦間の大きな溝がクローズアップされるようになった。
2年後、信子さまがェ仁親王邸に戻られてからも、おふたりが顔を合わされる機会はほとんどなく、
さらに2009年10月からは“病気療養”という理由で、
信子さまは旧宮内庁長官公邸でおひとりでの生活を送られることに。
結局、亡くなられるまでェ仁さまとお会いすることはなかった。
そのため、彬子さまがェ仁さまの葬儀の喪主を務められたのだが、
この直後に浮上したのがェ仁親王家の当主問題だった。
「生前、ェ仁さまも彬子さまが跡を継がれることを望んでいられたため、
宮内庁は信子さまが長期の病気療養中という理由で、
彬子さまが当主になられることを特例で認めるスタンスだったそうです。
しかし、信子さまが“慣例では親王妃だった私が当主になることになっています”と主張されたため、
当主が決まらず、結果としてェ仁親王家は廃止となり、信子さま、彬子さま、
そして次女・瑶子さま(31才)は三笠宮家に合流されることとなったのです」(皇室記者)
これをきっかけに“母娘の確執”は激しくなっていく。
2013年6月、信子さまは宮内記者会に対して、こんな手紙を送られたのだった。

《これからは療養の経験を人生の糧と感謝し両陛下の御意向のもと、
微力ながら復興支援などに尽力させていただきたく存じます》
異例の“復活宣言”をされ、その後、信子さまの活動は徐々に活発になっていかれた。
「ェ仁さまが亡くなられてからの信子さまの行動には、彬子さまは複雑な思いがおありになったはずです。
“病に伏せる父を支えながら、ェ仁親王家を守るため、公務に励んだのは自分たちだ”という
自負が彬子さまにはあったはずですから…」(前出・宮内庁関係者)
一部では彬子さまが信子さまを三笠宮家から追放する“クーデター”を計画しているという報道が出るほど、
おふたりの溝は深い。前述の『文藝春秋』で、彬子さまは母に対して、こんな苦言まで呈されている。

《私が今、母に望むことは二つだけだ。(中略)公務に復帰されるのであれば、
今までお見守りくださった三笠宮両殿下にきちんとお目にかかり、ご無沙汰のお詫びとご報告をしてほしい。
そして、私たち皇族を支えてくださっている国民の皆様に、公務に復帰される理由をきちんと説明してほしい》
※女性セブン2015年7月16日号
http://www.news-postseven.com/archives/20150703_332339.html

2015.7.19 06:00更新
【花田紀凱の週刊誌ウォッチング〈523〉】
先週はあえて取り上げなかった『週刊新潮』(7月16日号)、
工藤美代子さん(ノンフィクション作家)の寄稿
「『三笠宮彬子女王』が初めて語った! 『寛仁殿下』が『信子妃』に家庭内暴力というひどい嘘」。
今週、『週刊文春』(7月23日号)が「三笠宮彬子女王の威を借りて『週刊新潮』のひどい嘘」と真っ向から反論。
『新潮』がリードで〈スクープと誤報はしばしば紙一重である〉と『文春』を批判したのに対し『文春』も、
リードで、
〈彬子女王を証言者として引っ張り出し、「寛仁殿下のDVはなかった」として本誌報道を「ひどい嘘」と
決めつけた週刊新潮。だが(中略)裏取りもロクに行わず、本誌編集部への確認取材もナシ。
まさに皇族の威を借る新潮記事のひどい嘘を指弾する!〉
事態はまさに『文春』と『新潮』の代理戦争の様相を呈してきた。
そもそもの発端は、故寛仁殿下と信子妃の不仲、信子妃の長い療養生活の原因は寛仁殿下のDVだったという
『文春』(6月11日号)のスクープ。
もっともこの記事「信子さまの現状を知る人物」という匿名証言が中心だった。『新潮』は彬子女王が実名で証言。
にわかにどちらの言い分が正しいとは判断できないが…。
『文春』(7月23日号)によると信子妃の兄、麻生太郎副総理は、
〈「最優先しなければならないのは、皇室の名誉と尊厳を守ることだ」と語っているという〉
まさにその通りだ。
http://www.sankei.com/premium/news/150719/prm1507190019-n1.html





信子妃殿下の料理本より

四季の家庭料理―お惣菜80種 単行本 – 1992/5
寛仁親王妃信子 (著)
結婚いたしましてまだまもないころ、
老人ホームや療護施設や重度障害者の授産施設等に宮様のお供をいたしましたとき、
障害を持っている方々と思うようにうまくコミュニケーションできずに
困ったことが再三ありました。
「きれいな絵が掛かっていますね」ともうしましたら、相手の方は全盲でいらしたり、
お話をしかけましたところ、そのお年寄りはお耳が不自由でいらっしゃったり。
手話にしましても、地方ごとの方言があって表現がちがうことや、
年代によっても表現の仕方がちがうということをまだ知らずにおりましたころのことです。
(中略)
このような失敗のあとで、とうとう宮様に、
「どうして、こういうふうになってしまうのでしょう」 と、お尋ねしたしましたところ、
「ノンチねえ、かっこよく接しようとするんじゃなくて、
最初から『失礼ですが、あなたの障害はどこですか』と
はっきり相手の人にきいてしまえばいいのさ」とおっしゃいます。
相手の方の障害部分に触れないことは礼儀でも美徳でもなく、
きちんときいて理解したうえでほんとうに心を通わせ、
必要な対応をすべきだというのが宮様のご流儀です。


SAPIO2009年2月11・18号
昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々
「公平無私の上御一人は私にとって命がけでお守りする存在でした」/寛仁親王殿下

殿下 麻生家には、長男の太郎から妻の信子まで六人の兄弟がいて、
性格では「一・六」「二・五」「三・四」と分けてかかかっていました。
つまり、二番目と五番目が一番出来がよく、三、四番はそれほどではないが人がいい、
一番出来が悪いのが長男と末っ子だと(笑)。
だから義母は「信子は妃殿下になれません」と言って私たちの結婚には大反対でした。
勿論、陛下のご存知のない内輪の話です。
ある年の園遊会に、日英親善に長年功労があったということで義母がご招待を受けました。
園遊会には二千人近くの人々が招待されているし、彼女は度々お目に掛かっていましたから、
他の人々の為に少し離れたところにいたそうです。
すると当時の安倍式部官長が彼女を見つけて陛下にご紹介申しあげました。
陛下はすぐに、「信子はよくやっているよ」 と仰ってくださった。
出来が悪いと気にかけていた末娘を陛下が褒めてくださったのだから、
義母は感極まり、その場で滂沱の涙を流したということです。
陛下のお言葉は、式部官長が「こうおしゃった方が宜しゅうございます」などと助言し
準備されたものではありません。だいいち、園遊会で特定の招待者を見つけ出すことは不可能に近い。
陛下は、人の心を震わせる当意即妙なお言葉を、瞬時に、しかもさりげなくおっしゃるお方でした。