皇居勤労奉仕に参加して両陛下からお言葉を賜った感激

別冊正論Extra.14
(平成23年1月7日発行)

平成の世に生きる若者にとって皇室とは
皇居勤労奉仕に参加して両陛下からお言葉を賜った感激
皇室を戴く国の担い手てしての自覚を共有する輪を広げたい
全日本学生文化会議「大学の使命」編集長 三荻 祥(みつおぎ さき)

◆きっかけはテレビだった
若者であっても、ちょっとしたきっかけで、皇室の重要性に目覚めることがある。私もその一人だ。
平成十七年、小泉純一郎首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が設立され、
皇室典範の改定を巡って盛んに議論が行われた。連日の報道で、皇室のことを考えることが
当然のような空気が生まれ、当時大学三年生だった私も皇室に関心を持ち始めた。
とはいうものの、学校教育で「皇室とは何か」を教えられた記憶はなく、
どのように考えればよいのかわからなかった。
書店で買った、竹田恒泰氏著『語られなかった皇族たちの真実』(小学館)などを読み、
日露戦争時に、皇族たちが進んで第一線での戦闘に参戦されていたことや
大東亜戦争の終戦時に、昭和天皇が「私の身はどうなってもよい」との覚悟で
終戦を決断されたことなど、我が国にとって皇室が重要な役割を果たしてきたことを知った。

◆宮内庁のホームページを見て
では、平成の皇室はどうなのだろうか。
そもそも天皇陛下はどのような活動をされているのだろうか。
国民の前でにみやかに手を振られているイメージくらいしか持ち合わせていなかった私は、
宮内庁のホームページを見てみた。そこでは天皇皇后両陛下をはじめとする、
皇族のお言葉や動静が紹介されている。
中でも私が注目したのは、天皇陛下の活動だった。
陛下がご臨席される行事は、各地で開催される国民体育大会や豊かな海づくり大会、植樹祭をはじめ、
福祉や教育に関わる記念式典、戦歿者の追悼式など多岐にわたる。
しかも、それらの行事や団体に応じたお言葉を述べられる。そのための準備はさぞや大変なことだろう。
皇居での行事も多い。外国の国王や大統領など国賓をお招きになっての晩餐会、
フィギュアスケートの浅田真央選手や北島康介選手などオリンピック入賞選手らを招いてのお茶会、
文化勲章受章者の拝謁などが、毎日のように行われている。
海外への訪問も、歴代天皇では最多の三十カ国近くにのぼる。
皇居での行事だけでも相当な数をこなしていらっしゃるのに、地方や国外での活動も大変多いのだ。
陛下の側近だった前侍従長の渡邉允氏の講演も聞きに行った。印象に残ったのは、
陛下は人と会われることをとても大切にされていて、陛下の強いご希望で、
歴代天皇としては初めて全国四十七都道府県すべてを訪問されたという話だった。
地方訪問の様子は、テレビでも観たことがあった。陛下は訪問先で、説明役の市長や老人ホームの園長達
一人一人と親しくお言葉を交わしていらっしゃった。
移動中も沿道では、多くの国民が笑顔で両陛下をお迎えしている。
「私も一度天皇陛下にお会いしてみたい」――畏れ多くもこうした気持ちが湧き起ってきた。

◆皇居勤労奉仕に参加して
どうすれば天皇陛下にお目にかかることができるのだろうか。そもそも普通の若者の私が、
天皇陛下からお言葉を賜ることなどできるのだろうか。
こうした疑問を抱えたまま大学を卒業して間もないある時、知人から皇居勤労奉仕のことを教えてもらった。
ここに参加すれば、両陛下と直接お話しをすることができるという。
概要や申し込み方法が分からなかったので、宮内庁に電話した。勤労奉仕の担当をしているのは、
長官官房庶務課の庶務第二係で、男性職員の方が丁寧に説明して下さった。
勤労奉仕は十五〜七十五歳の男女で、十五名以上揃えば申し込める。
希望する日程の半年前から申し込みを受け付けており、特別な費用はかからない
(但し、食事は自己負担で、地方の方は東京までの交通費と宿泊費が必要)。
服装も作業ができる格好であればよい。奉仕の内容は、平日の連続した四日間(うち三日が皇居、一日が赤坂御所)
朝八時過ぎから午後四時までで、草取りや落ち葉掃き、室内の清掃を行うというものだ。
これならば私にも出来ると思い、知人や後輩の女子学生に声をかけてみた。
一度は、両陛下にお会いしてみたいと思っている学生は意外に多かったが、
平日の四日間、予定を空けるのは難しく、ようやくのことで十五名揃えることができた。
せっかくなので、両陛下にゆかりのある団体名をつけようと思い宮内庁のホームページを見たところ、
平成十年に開催された「第二十六回IBBYニューデリー大会」での皇后陛下の基調講演録を見つけた。
その中で、ヤマトタケルのお妃であるオトタチバナヒメについて触れられていた。
オトタチバナヒメは、ヤマトタケルが相模湾を出航しようとした時に、
自らを生贄にすることで海を鎮めようとされた女性だ。このオトタチバナヒメの名にあやかり、
「たちばな奉仕団」と命名した。私が団長を務め、九州の女子学生十四名と共に、
平成十九年九月二十五日から四日間、皇居勤労奉仕に参加した。
両陛下には奉仕の初日、宮内庁庁舎の裏手にふる蓮池参集所にてお会いすることができた。
私達十五名のほか、郷友連盟や神社関係など三団体、約百五十名余りが参加していた。
平日のためか、殆どは高齢者の方々だった。
二十畳ほどの部屋の中、団体毎に横四列に整列して並ぶ。宮内庁職員から礼や万歳三唱のタイミング、
両陛下からのお言葉は団体毎に賜ることなどの説明を受けた。その後、二十分ほどお待ちしたが、
これからお会いできる嬉しさと、どのようなご下問があるのだろうか、
きちんとお答えできるだろうかとの不安が入り混じり、気持ちが高ぶっていった。
職員の方から「両陛下がもうじきお出ましになります」との言葉があり、しばらくして車が入り口に到着した。
車のドアが開けられ、皇后陛下が、次に天皇陛下が降りられた。天皇陛下のお姿を拝した瞬間、
やっとお会いすることができたという喜びで、胸がいっぱいになった。私達たちばな奉仕団が
お言葉を賜るのは、四団体の最後だったが、早くお言葉を賜りたいという気持ちがこみ上げてきた。

◆両陛下にお会いして
他団体へのご下問が終わり、いよいよ私の前に両陛下がお立ちになった。その距離、僅か一メートル余り。
極度の緊張の中、宮内庁職員の事前説明に従い、団体名と人数を申し上げた。
 三荻 「東京都、全日本学生文化会議たちばな奉仕団、十五名で参りました」
 天皇陛下 「ありがとう。学生ですか?どちらから」
 三荻 「九州の学生で参りました」
 天皇陛下 「どこの大学ですか?」
 三荻 「福岡教育大学、九州女子大学、九州産業大学、佐賀大学、長崎大学、熊本大学、
熊本県立大学から参りました」
 天皇陛下 「各地から来られたのですね」
 皇后陛下 「各地からありがとう」
続いて、その年、各地で被害をもたらした台風についてのご下問があった。
 天皇陛下 「九州ならば、台風は大変だったでしょう」
 三荻 「私は直接台風の被害は受けておりません。私達は夏に島の小学生を集めて
和歌や歴史を教える教育事業をしていますが、当日は台風も過ぎ、天候に恵まれ開催できました」
 皇后陛下 「よいお導きがあったのですね」
 天皇陛下 「島はどこですか?」
 三荻 「長崎県の生月島(いきつきしま)です」
 天皇陛下 「あぁ生月島。きれいなところで」
 皇后陛下 「行きましたね。(陛下の方をご覧になって)あの時は寒かったですね」
「あの時」とは、平成十四年十一月のことだ。第二十二回全国豊かな海づくり大会への
ご臨席に合わせて、地方事情ご視察の際訪問されたのが、長崎県平戸島の北西にある生月島だ。
この時、平戸と生月の間にかかる生月大橋で車を止め、橋の真ん中に立たれ、
歓迎の漁船に手を振られた。その時のことを思い出されたようであった。
最後に天皇陛下から「元気でお過ごしください」、皇后陛下から「遠くからありがとう」とのお言葉を賜り、
たちばな奉仕団揃って礼をした。
その後、全員揃っての「万歳三唱」を行い、お見送りをした。両陛下が乗られた車が見えなくなり、
ようやく緊張がほぐれた私の頭の中で、両陛下から賜った「ありがとう」のお言葉が響いていた。
特に皇后陛下の声はテレビでも耳にしたことが無かったため、透き通った響きがとても印象に残った。
両陛下から賜った「ありがとう」のお言葉をどのように受け止めるべきか。
勤労奉仕ヘの参加に対するお言葉だろうが、私はそこに、若者に対する期待が
込められているようにも感じた。そして、その期待に応える自分でありたいという思いが湧き上がってきた。

◆皇室と沖縄の絆
65年前、沖縄では地上戦が行われた。県民の4人に1人が亡くなったとも言われている。
数年前も、沖縄戦での集団自決を巡る教科書記述が問題になったように
、旧日本軍が沖縄県民に集団自決を強いた、
また県民を虐殺したと、学校教育で教えられている。
私はテレビのニュースなどを見ていて、沖縄は反戦平和の地で、
皇室にも厳しい感情があるとのイメージを抱いていた。
その一方で、天皇陛下が沖縄に関して多くの御製を詠まれることは宮内庁のホームページで見て知っていた。
八・八・八・六の独自の節を持つ琉歌を詠まれることも、
『ともしび−皇太子同妃両殿下御歌集』(婦人画報社)で知った。
沖縄のことを詠まれた御製や御歌は、沖縄戦の戦歿者や遺族に対するものが多い。
こうした陛下のお歌を県民はどのように受け止めているのだろうか。
沖縄の遺族会に連絡したところ、「6月23日に行われる沖縄戦追悼式の前日に、
遺族会が集まって前夜祭しているから、そこに来てみればいい」と誘われた。
前夜祭で陛下の琉歌が唄われるのだという。「陛下の琉歌が唄われる」とは一体どういうことだろうか。
自分の目で確かめるため、平成20年6月22日、私は沖縄を訪れた。
この日、前夜祭が行われる平和祈念堂の前で、遺族会の女性二人と待ち合わせした。
会場に入ると、まず目に入ってきたのは、大きな仏像だ。その前にステージが設けられ、
参列者用のパイプ椅子が並べられていた。沖縄だけでなく全国から三百名ほどの遺族が集まるのだそうだ。
午後7時、前夜祭が始まった。参列者全員による黙禱と代表者による献花の後、戦歿者の御霊を慰めるため、
厳かながらも華やかな琉球古典音楽の献奏と琉球舞踊の奉納が始まった。
琉歌に節をつけた楽曲が歌われるのだ。
鎮魂の献奏で一曲目に演奏される曲、実はそれが、陛下が皇太子時代に詠まれた次の琉歌だった。

 フサケユル(ふさかいゆる) キクサ(木草)
 ミグル(めぐる) イクサアトゥ(戦跡)
 クリカイシガイシ(くり返し返し)
 ウムイカキティ(思ひかけて)
(生い茂っている木草の間を巡ったことよ、戦いの跡にくり返し思いを馳せながら)

昭和50年、陛下は初めて訪れた激戦の地・摩文仁でのご感慨を、
沖縄県民の親しみやすい琉歌によって詠まれた。
反戦平和一色の沖縄で、戦没者の遺族達は陛下の琉歌を昭和54年以降、30年以上も歌い継いでいる。
この事実には驚いた。
この琉歌からは。沖縄戦の終結から30年が経った今、摩文仁に当時の激戦の様子は残っていないが、
この地では多くの方が戦い散っていった。遺された遺族の悲しみは未だに消えることはないだろう。
戦歿者や遺族の思いにいつまでも心を寄せ続けていきたい――
という陛下の静かながらも強い決意が伝わってくるようだ。
前夜祭の後、待ち合わせをしていた遺族会の女性からお話しを伺うことができた。
自身も和歌や琉歌を詠むみの方は、陛下が琉歌を詠まれていることについて
「死者のみならず自分たちの身の上を案じて下さる両陛下の深い思いを感じています。
沖縄県民は感情を歌に込める民族性があり、心の底から湧き上がる思いを、古くから琉歌に表現し続けてきました。
ですから陛下の琉歌を読むと、沖縄に寄せて下さっている御心の深さを感じるのです」と話して下さった。
24日は、沖縄の祖国復帰運動に尽力された末次一郎氏と共に活動されていた男性にお話しを伺うことができた。
「反戦平和の色濃い沖縄で、どうして遺族は皇室との繋がりを大切にしているのか」と尋ねると、
一枚の紙片を差し出された。そこには次のようにあった。
「払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、
人々が永い年月をかけて、これを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、
この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」
「これは何ですか?」と聞くと、こう説明して下さった。
「これは昭和50年、天皇陛下が皇太子時代にひめゆりの塔で、火炎瓶を投げられる事件があったでしょう。
あの後に陛下が原稿なしで述べられた県民へのメッセージです。
私は、このお言葉を書いた紙を、いつでも大切に持っているのです。
陛下は何度も沖縄をご訪問なさっているでしょう。このメッセージや何度も訪問されるお姿を見ていると、
沖縄に深い関心を寄せられているだけでなく、情愛をかけてくださっていることを感じるのです」
陛下は皇太子時代に5回、即位後に3回、沖縄県を訪問されている。最初に訪問された昭和50年は、
本土復帰からわずか3年後だ。その頃の沖縄は、反戦・反国家を叫ぶ一部の過激派の動きが盛んであった。
そのために宮内庁や政府は、陛下の南部戦跡へのご訪問に反対した。
しかし陛下は「石くらい投げられてもよい」との覚悟で、南部戦跡を訪問され、黙禱を捧げられた。
そして実際に火炎瓶を投げられても、遺族ら一人一人と親しく話をされ、沖縄のため琉歌を詠まれた。
こうした陛下のお姿が、皇室と沖縄り遺族達を結び付けていたのだ。
(中略)

◆三宅島にも足を運ぶ
報じられていないだけで、皇室と国民の間に生まれたドラマは、沖縄の他にもたくさんあった。
その一つが、東京都の南に位置する三宅島だ。平成12年に大規模な噴火を経験した三宅島の島民は、
全島避難を余儀なくされた。本土での4年半もの不自由な生活を送った後、
平成17年2月に、村長の勇断により帰島を果たした。
両陛下が島を訪問されたのは、それから一年後の平成18年3月だ。
村役場と漁港、高齢者在宅サービス支援センター「あじさいの里」で、島民を励まされた。
この時詠まれた御製を刻んだ御製碑が、三宅村役場に建立されている。

 ガス噴出未だ続くもこの島に戻りし人ら喜び語る

この御製に込められた陛下の、そして三宅島の島民の思いを知るため、
平成20年9月21日、東京・竹芝港からフェリーで七時間かけて、三宅島を訪れた。
三宅島では漁業組合長から感動的なお話しを伺った。
静岡県下田に避難していた漁民をお見舞いされた時のことだ。
両陛下は一人一人とお話しされ、皇后陛下は握手にも応じられた。
その中に両親に連れられた小学二年生の女の子がいた。その子は、皇后陛下がどのような方なのかを知らず、
「おばさん、今度家にきてね」と言ったのだ。すると翌朝、皇后陛下は本当にその子の家を訪ねて来られたという。
その四年半後、三宅島にお越しになった両陛下が、「あの時の子供さんは元気にしていますか」と質問されたたため、
小学六年生になった女の子と予定外の再会を果たされた。
三宅島訪問の際にご案内をされた平野祐康村長から伺った島でのエピソードも印象的だった。
両陛下と島民とのご懇談の時間が設けられたのだが、
島民らが避難していた八王子や江東区に訪問された時のことを思い出され、
「あなたはあのときいらっしゃいましたよね」
「あなたはいらっしゃいませんでしたね」と話しかけられたという。
村長は「島まで足を運んでいただいたこと自体嬉しいのに、様々なお気遣いをいただいたことは、
ちょうどこれから復興していこうとしていた私達にとって、とても大きな励みになりました」と話して下さった。
こうした皇室と国民の隠されたドラマを多くの若者に伝えたいとの思いから、一昨年(※平成21年)12月、
『天皇陛下がわが町に―平成日本に生まれた物語』(明成社)を出版した。
その反響は嬉しいものだった。「自分の故郷でこのような交流があったことを知らなかった」、
「こんなにも愛情深い両陛下がいらっしゃって、日本人として嬉しく思う」などの声が、
同じ若者の間から寄せられた。

◆皇室を知ることで国を良くしたいとの思いが芽生えた
学校で何も教えられていない今の若者だって、皇族にお会いすれば、考えが大きく変わるのだ。
昨年9月、知り合いの大学生に呼び掛けて、私は四度目の皇居勤労奉仕団に参加した。
その際、勤労奉仕担当のある宮内庁職員は、こんな話を聞かせて下さった。
「勤労奉仕に参加されたおじいさんが孫娘に、『勤労奉仕にかかるお金で海外旅行に連れていって』と
言われたそうです。それである時、孫娘も一緒に参加されました。
ご会釈を通して、何か感じるところがあったのでしょう。その次から、おじいさんが勤労奉仕に行く際に
『いってらっしゃい』と見送るようになったそうです」
確かに私達若者は、学校でも家庭でも皇室について正しく教えられる機会に恵まれなかった。
しかし、テレビ報道や雑誌等に触れることで、皇室について知りたいと思っている若者は多いはずだ。
勤労奉仕や皇族の地方行啓など、皇族の姿に直に接することができる機会は意外に多い。
皇室について関心を抱く若者には、本を読んで皇室についての知識を増やすだけでなく、
実際に皇族の方とお会いする体験をしてもらいたい。私もテレビをきっかけに皇室に関心を持つようになった。
そして勤労奉仕に参加して、天皇陛下からお言葉を賜り、
全国各地を飛び回って皇室と国民のドラマを知る機会に恵まれた。
一昨年11月12日に皇居前広場で開催された「天皇陛下ご即位二十年をお祝いする国民祭典」に
スタッフとして参加したが、若い方の参加が目立った。
もちろん奉祝歌を歌ったエグザイル目当ての人もいたが、奉祝委員会には、
「今日は母に誘われてエグザイルが見えると思って来ました。
待つのが長く寒かったので、もう帰りたいと思いましたが、天皇陛下のご挨拶を聞いて
やっぱり帰らずに最後までいてよかったと思いました」という十六歳女性からの感想が寄せられていた。
私は、明治や昭和だけでなく、平成の御代も皇室によって我が国が護られていることに気付き、
皇室への感謝を持つことができた。そして、多くの人々にエネルギーを与えられる皇室の役割を正しく理解し、
我が国をよりよい国にしていきたいとの思いが強くなった。
両陛下のお姿に接し、皇室が果たされる役割を知ることで、次代の我が国の担い手としての
私自身の自覚が深まっていった。今後も皇居勤労奉仕や各地での皇族のお見送りなどに取り組み、
皇室を戴く我が国の素晴らしさと担い手としての自覚を共有する若者の輪を広げていきたい。



みくに奉仕団

目次1へ