秋篠宮 五十の天命に動く 平成流の精髄を継ぐ!「皇位継承ナンバーツー」


週刊文春2015年12月10日号
宮中深層スクープ!
秋篠宮 五十の天命に動く 平成流の精髄を継ぐ!「皇位継承ナンバーツー」
〈この何年かで天皇陛下が二回大きな手術をされています。
前立腺がんと心臓の冠動脈のバイパス手術ですね。
特に後者については、その後の回復がそれほど早くなかったということもあると思いますが、
恐らくそれらの陛下のご病気というのが、
(※皇后陛下の)ストレスの要因の一つにあるのではないかと思います〉(※は編集部注)
秋篠宮は十一月三十日の五十歳の誕生日にあたり記者会見に臨まれ、こう述べられた。
「印象的だったのは、美智子さまの『強いストレス』への言及でした。
今年八月、美智子さまに心筋虚血の症状が確認され、宮内庁はその原因が『強いストレス』にあるとしましたが、
これについて秋篠宮さまは、そのストレス要因の一つが〈陛下のご病気〉にあると仰ったのです。
これは強いご心痛のメッセージでしょう」(宮内庁担当記者)
近年、精力的に公務を果たされ、天皇皇后と密なるコミュニケーションを図られてきた秋篠宮の
この発言の意味は重い。そして、天皇のご健康不安に直面した秋篠宮は、五十歳を迎え、
更なる飛躍を遂げようとされている。
今年、小誌は天皇のご健康問題をめぐって、二つの“事件”について報じた。
一つは、二〇一五年八月二十七日号で触れた“追悼式フライング”事件。
八月十五日の終戦記念日、日本武道館で行われた全国戦没者追悼式は、例年通り正午の時報と共に、
参列者全員で一分間の黙祷を捧げた後、菊の花で飾られた式壇を前に、天皇がお言葉を述べられる段取りだった。
ところが黙祷の前に、天皇はおもむろに左の内ポケットから原稿を取り出され、
「戦没者を追悼し――」
と、時報を待たずにお言葉を読み上げ始められたのだった。
結局、お言葉を遮るように黙祷を促すナレーションが流され、式典は進行した。
これにはベテラン宮内庁担当記者も驚き、こう話した。
「ああ、お年を召されたなと思いました」
それから程なくして“第二の事件”が起こる。
十月二十五日、富山県で開かれた「第35回全国豊かな海づくり大会」の式典行事に天皇皇后が臨席されたとき、
壇上の天皇から異例の“お尋ね”があったのだ。
小誌は「美智子さま『ご心痛』の核心 天皇 富山海づくり大会『式辞ご中断』事件」
(二〇一五年十一月十二日号)で詳報した。
「全国豊かな海づくり大会」は、天皇皇后が地方へお出ましになる、
いわゆる「三大行幸啓」の中で、唯一今上天皇が皇太子の時代に始められ、大切に育てられてきた公務だ。

式辞ご中断事件に皇后は…
一時、式辞が中断する事態が起きたのは、十月二十五日正午頃のこと。
横山栄・富山県議会議長が最後に「閉会のことば」を述べようとしたとき、
「議長がステージ中央後方の天皇皇后両陛下に向かって最敬礼をするポイントまで進むと、
天皇陛下が議長を呼び止めるように右手をパッと出されたのです」(別の宮内庁担当記者)
一礼を終えた横山議長は、天皇が右手を差し出したままなので、何のことか分からず狼狽した表情を見せた。
「なかなか歩み寄らない議長に対し、陛下が“ちょっとちょっと”といった感じで手招きをされました。
陛下は議長に何やら語りかけられ、美智子さまは横の陛下のご様子を不安げに注視され、
たまりかねたように陛下に何かを話しかけられたのです。
会場は一瞬の静寂の後、ざわめきに包まれました」(同前)
当時、横山氏は小誌の取材に対し、こう話している。
「おそばまで近付いたところ、『最優秀作文の発表は終わりましたか?』とお訊ねになったのです。
何のことか、一瞬よく分かりませんでしたが、その言葉の意味通りに受け取って、
『終わりました』とお答えしました。陛下は最初、本当に終わったのかしら、と心配されたようなお顔でしたが、
『終わりました』と申し上げると、ふうんと納得されたような感じでした」
後日、小誌は改めて千代田関係者に話を聞いたが、美智子さまはこの“事件”をよく覚えておられた。
「皇后陛下は『岡本さん(※最優秀作文発表者)の作文の朗読は終わったのですよ』と
陛下のお耳元近くで囁かれたと仰っていました。皇后陛下は天皇陛下がお聞こえにならなかったという風に
受け止めていらっしゃるようでした。天皇陛下はこのところ、お耳が遠くなられましたから……」
そして、秋篠宮が誕生日会見で触れたように、この二つの事件をはじめとして、
徐々に表面化してきた天皇のご健康問題こそが、美智子さまのご心痛の核心なのだという。
「この十二月二十三日に陛下は御年八十二になられる。私がいま気になっているのは、
誕生日会見で、陛下がご自身のご体調についてどの程度のことを仰るかです。
ご自分の健康は自分だけのものではない、国民のものなのだというお考えから、
これまでは前立腺がんのときも心臓病のときも、陛下は国民にありのままを述べられてきました。
いつまでもお健やかでいて頂きたいと願っておりますが、それを心配そうに見守られている皇后さまは、
さぞや心細くていらっしゃるだろうと拝察しています。ご自身も心筋虚血の症状がおありなのですから」(同前)
だが、そんな美智子さまがふとした折に目を細められ、こう仰ったという。

ブラジルでは秋篠宮を大歓迎
「『秋篠宮が張り切って、頑張ってもいて……』と。秋篠宮さまが、陛下のご負担を考えて
国体開会式などの重要な公務を積極的に引き継いでいきたいという意欲を示されたそうなのです。
特にこの数年、秋篠宮殿下のご活動を拝見していると、両陛下が二十七年かけて築き上げてこられた
“平成流”の精髄を吸収し、次代へと繋げていきたいとされるご姿勢が見て取れます。
御所にも折に触れて参内されていて、両陛下も大いに頼りにされているご様子です」(同前)
記憶に新しいのは、十月二十七日から十一月十日の日程で、ブラジルご訪問を果たされたことだろう。
外交関係樹立百二十周年を迎えたブラジルには、皇室を敬愛する日系人が多いという。
「ニッケイ新聞」の堀江剛史記者が解説する。
「こちらでは、田舎の家に行けば、昭和天皇や今上天皇のお写真が飾ってあるものです。
いまだに教育勅語を正月に奉読するという学校もあります。
日系二世、三世は戦前のままの教育で育っていますから。ポツダム宣言受諾後、
日本の勝利を信じた『勝ち組』と『負け組』の抗争が勃発するなど、戦前移民の歴史は先の大戦と切り離せません」
やむにやまれぬ事情から現地に留まった家族や子孫も多い。天皇皇后も外国に住む日系人へは心を寄せられ、
海外訪問の折に懇談を重ねられている。
十月二十九日に訪れられたサンパウロ郊外の日系人が入居する老人ホーム「救済会・憩の園」では、
「森井園子さんは車椅子に乗って、花束を秋篠宮ご夫妻にお渡ししました。
この方は、戦時中に東京の空襲で逃げ回った戦後移住者の方です。森井さんの感激もひとしおで
花束をお渡しする時に涙を流していました。九十七歳になる写真家の高山晴郎さん(日系一世)は
秋篠宮ご夫妻を記念撮影する許可を頂いて、『これで自分の職業人としての人生を締めくくってもいい』
と言って、感激されていました」(会長の吉安園子氏)
あまり知られていないが、今回のブラジルご訪問は体力的にハードな強行スケジュールだった。
秋篠宮ご夫妻は十都市を巡られたが、果てはアマゾンのベレン市まで足を運ばれた。
現地在住の北伯県人会協会会長・山本陽三氏はこう話す。
「サンパウロからベレンは約三千キロ離れているんです。飛行機で四時間ほどかかる。
やはりここにも日系人社会がありますからね」
だが疲れた素振りもお見せにならず、秋篠宮は十一月七日には、リオの式典でサンバも踊られた。
「会場の前の方で、ダンサーに手を引っ張られて、秋篠宮さまはノリノリでは踊りませんけど、
軽く促されるままにステップを踏まれていました。側衛の方も皆、踊っていました(笑)。
国民的カクテル『カイピリーニャ』も式典で着席されている間に飲まれていました。
秋篠宮さまはお酒が好きと知ってお出ししたと思います」(前出・堀江氏)
ブラジルには二〇〇八年、皇太子も訪問されているが、雅子さまはご訪問まで半年以上も時間がある中で、
早々に欠席と発表された。この一報に彼の地の日系人はとても落胆したという。
「サンパウロ新聞」編集局長の鈴木雅夫氏が話す。

被災地に「希望」のサイン
「両陛下にはブラジルに三回来て頂いているんです。〇八年当時、
雅子さまは直後にスペインご訪問を検討されていましたが、これは約一カ月前まで結論を出されずに
こだわっておられた。結局、両国とも皇太子さま単独のご訪問になりましたが、
プリンセスを一目見たいという日系人の心情を、外務省出身の雅子さまはお分かりかと思うのですが」
平成皇室の中でも、秋篠宮家は、国内での年間活動量も群を抜いて多い。
自然災害が発生した地へ慰問やボランティアに頻繁に訪れられている。
今年四月六日には、秋篠宮は昨年夏の局地的な豪雨で土砂崩れや土石流が発生し、
七十五人が亡くなった広島市安佐南区の災害発生現場を訪問された。
黙祷を捧げられた後、被害状況について説明を受け、被災者五名と懇談された。
秋篠宮と話すうちに「涙が止まらなくなった」と明かすのは立川新三さんだ。
「『どこで被災されましたか』と、ゆっくりした口調で尋ねてくださって。そうしたらね、こみ上げてきて、
話せなかったんよ。秋篠宮さまからは『ごゆっくりでいいですよ』と優しく言ってもらって、
鼻水出しながら『同じ団地へ兄夫婦と越してきて、家を建てて五十年支え合ってきたんですけど、
一瞬のうちに流されました。今も跡地に毎日線香あげに行っています』と言ったら、
『お辛いでしょう。お元気なうちは供養してあげて下さい』というお言葉をもらって。
ずいぶん元気づけられましたね」
秋篠宮は冒頭で触れた誕生日会見で、実際に広島に足を運んで気付かれたことに、
短い言葉でさり気なく言及されている。
〈広島市で土砂災害があり、この四月に私もその場所に実際に行ってきました。
映像などで見るよりも急峻な場所になっていて、これは実際に行かないと
やっぱり分からなかったと思うのですけれども〉
東日本大震災の被災地訪問では、秋篠宮家は新幹線と宮邸の車を使って二〇一一年五月には
被災地入りを果たされている。警備態勢の規模などの面から考えると、
天皇皇后や皇太子ご夫妻の行幸啓では考えられない、素早い、小規模なご慰問の旅だった。
「秋篠宮ご夫妻は五月二十五日、二十六日に岩手県大槌町を訪問されました。東京から六時間もかけてです。
貴重な淡水魚イトヨの研究・保護活動を通じて宮様は一九九九年から大槌町と接点がおありで、
四月上旬には『ご迷惑のかからない時期に伺いたい』とのお話を頂き、約一カ月で実現の運びとなりました」
(大槌町議会事務局長・佐々木健氏)
当時、大槌町の被災者の一人が自家用車の車体にサインをお願いすると、
秋篠宮は快く「希望」と書いて下さったという。
 皇太子ご夫妻が初めて被災地(宮城県)に入られたのは六月四日(土曜)だった。
「それ以前の都内・埼玉県でのお見舞いも学習院初等科が休みの日で、
雅子さまにとって、愛子さまの付き添い登校が最優先されていたのです。
ご訪問の前日は、初等科がお休みで、ベストの日程でした」(前出・宮内庁担当記者)
ご訪問先の山元町内の避難所では、皇太子ご夫妻と懇談するために、
被災者たちが避難所で引き止められたという本末転倒な事態となっていた。
なぜ皇族は被災地へ足を運ばれるのか。美智子さまは、同年の誕生日文書にこう綴られている。
〈災害発生直後、一時味わった深い絶望感から、少しずつでも私を立ち直らせたものがあったとすれば、
それはあの日以来、次第に誰の目にも見えて来た、人々の健気で沈着な振る舞いでした。
非常時にあたり、あのように多くの日本人が、皆静かに現実を受けとめ、助け合い、譲り合いつつ、
事態に対処したと知ったことは、私にとり何にも勝る慰めとなり、気持ちの支えとなりました。
被災地の人々の気丈な姿も、私を勇気づけてくれました〉
宮内庁関係者は、「秋篠宮さまも同じお気持ちを共有されているのでは」と推察する。
「皇族というのは、ある意味で精神的な重圧を抱える孤独な存在ではないでしょうか。
非常時に在る国民のもとを訪れれば、悲しみや怒りを受け止めなければならない。
しかしながら、気丈に生きる被災者たちと触れ合うことでご自身が救われる、
そのような存在意義の見出し方をなさるのです。
これは秋篠宮さまがまずは現場に入られるご姿勢に共通していると拝察いたします。
今まさに円熟期を迎えられ、五十にして天命を知る、すなわち与えられた宿命を受け入れ、
感知されたのでしょう」

兄宮にずいぶん遠慮された
秋篠宮が“動き出した”背景には、当然ながら、長らく続いている千代田と東宮との“途絶”状態がある。
天皇皇后に長年仕えた元宮内庁関係者はこう話す。
「陛下は二〇〇三年前立腺がんの手術をされる発表前に
皇太子さまに御所で直接お話しされたいと考えておられましたが、皇太子さまは『行きます』と仰って、
それきりいらっしゃいませんでした。思えばこれが“始まり”だったのかもしれません」
〇八年十二月二日には、不整脈による胸部の不調を訴えた天皇が翌日から五日間公務をお休みになった。
十二月九日には心因性ストレスによる出血性胃炎などが発表され、ストレス軽減の緊急措置として十六日に、
誕生日会見を行わないことが発表された。
「この時の天皇の心因性ストレスが何だったのか、具体的にはされていませんが、
おそらく次世代へのご心痛であっただろうとみられています。
この頃はまだ秋篠宮さまは兄宮にずいぶん遠慮されていました」(前出・ベテラン宮内庁担当記者)
現在は月一回程度、天皇は皇太子と秋篠宮の三人で意見交換などをする機会を持たれている。
このいわゆる頂上会談の意図は、弟宮によるサポートにあったと見られている。
「雅子妃の病状を考えると、皇太子は新しい皇室像を提示できず、公務にも影響が出てくる可能性も否めない。
つまり、東宮は秋篠宮ご夫妻と重なり合って、二人三脚で次世代を歩んで行くしかないのだろうと思うのです」
(同前)
だが“兄弟継承”は早くも不調の兆しを見せている。
「今年からこどもの日と敬老の日の公務は、天皇陛下から皇太子さまと秋篠宮さまに引き継がれました。
秋篠宮ご夫妻は、敬老の日に先立って、九月十五日に日本赤十字社総合福祉センターで
予定通りご訪問を終えられましたが、一方の皇太子ご夫妻は、NPO法人『ゆったりーの』を訪れられる日程が
二転三転し、五月五日のこどもの日から六月十六日まで大幅にズレこみました。
この日程調整には雅子さまのご体調の波も大きく関係しているようです。
ご休憩時間が全体で約四十五分も取られていた」(皇室担当記者)
雅子さまの「適応障害」が公表されて今年で十二年目。去る十一月十二日には、
十二年ぶりに園遊会にお出ましになったが、その直前、宮内記者には、異例のペーパーが配られた。
前日の午後六時頃である。
「〈せっかくの機会なので招待客のお顔の見えるところまで少し歩かれてから退出されたら、
との両陛下の思し召し〉という短い文章でしたが、なぜ両陛下の思し召しを
わざわざ公表しなければいけなかったのか、まるで『歩きなさい』と命じられたことを
公にしたような印象です。記者会で大きな話題になりました」(前出・宮内庁担当記者)
結局、雅子さまが歩かれたのは約四分だった。天皇や他の皇族は一時間弱の道程を歩かれている。
「後日、雅子さまが十二年ぶりのご出席でしたね、と秋篠宮さまに水を向けると
『お元気そうでしたね』とお答えになりました。東宮妃のご復帰に安堵されているようでした。
ただ、現実的には、雅子さまが頻繁に公務に出られることは今後も難しいのではと
心配していらっしゃると思います」(秋篠宮家関係者)
東宮ご一家にとって、一つの明るい兆しは愛子さまだろう。かつては“母子密着”と言われた
長女・愛子さまも次第に成長され、ご友人と子供だけで品川プリンスホテルのカラオケに遊びに行かれるなど、
ご家庭とは別の世界をお持ちになりつつある。
「十二月一日に、愛子さまは十四歳になられました。思い返せば、昨年のお誕生日は“不規則登校”の真っ只中で、
学校はお休みされたのに御所へのご挨拶にはいらっしゃり、二十二時にお祝い御膳を召し上がった。
最近は登校状況も安定して、大体予鈴の前にいらっしゃいます。
少し年上のお姉さんで、仲のよい佳子さまの存在も大きいのでしょう」(東宮職関係者)

昔は外車にサングラス
現在の秋篠宮とそれを支えるご一家は平成皇室の中でなくてはならない大きな存在だ。
しかし、かつて秋篠宮といえば「フォルクスワーゲンに乗って、ヒゲをたくわえ、
ブレスレットにサングラス」というイメージだった。皇太子より先に結婚し、
それが昭和天皇の喪中だったことでもバッシングを受けた。
しかし、まさにその結婚を転機として秋篠宮は大きく変わられた。
「まずは職員用の小さな家から始め、家族を持つことによって次第に変わられました。
秋篠宮はドヤ顔をせず、“自虐ネタ”で周囲を和ませる人なのです。
紀子さまが入院されてお子様たちが学校の宿題をしにお見舞いがてら病室へ来たときには、
『僕も教えているのですけど。ただし教えられる得意科目は少ないですね』と仰って記者は皆笑うのです。
今年の誕生日会見で佳子さまについて『少なくとも父親が学生だったときよりは、
かなりまじめな学生生活を送っているようです』とお答えになったように、これが秋篠宮の良いところです」
(別のベテラン宮内庁担当記者)
日系人との交流を宮邸で家族全員で行ったこともあった。在日本パラグアイ大使の豊歳(とよとし)直之氏が語る。
「秋篠宮さまが本国で日本パラグアイ学院の子どもたちと出会われ、研修旅行で宮邸にお邪魔したことがあります。
眞子さま、佳子さま、そして悠仁さまもいらっしゃり、お小さいのにたくさん質問されていました」
秋篠宮の宿命とは皇位継承第二位の皇子であるということだ。ノンフィクション作家の保阪正康氏は、
弟宮のための教育は不十分でモデルは存在しないという。
「天皇家の二番目に生まれた子供には宿命的な苦労があるでしょう。
第二皇子として、もし兄に何か不測の事態が起きたら、天皇に即位しなければならないという
『皇統の控え』としての緊張感を強いられつつ、自ら皇太子になる、という発想は許されない制約の中に
身を置いています。現代の秋篠宮は世論に対する構えを必然的に持たなくてはならなかったのです」
今上天皇(明仁親王)の東宮御教育常時参与を務めた小泉信三のエッセイ「この頃の皇太子殿下」に
興味深い一節がある。テキストである英王室の名君の伝記「ジョージ五世伝」について、こう綴っているのだ。
〈殿下は英国近年の名君といわれたジョージ五世及びジョージ六世が、ともに第二皇子として、
比較的目立たぬ皇子時代を送ったことに注目せられ、このことが、
この両王の成長によい影響を与えたのではなかろうかといわれるのである〉
前出のベテラン宮内庁担当記者はこう指摘する。
「将来的に、巡り合わせ次第では、皇位継承順位第二位の秋篠宮が即位する可能性はあります。
そして皇統はいつしか悠仁さまへと引き継がれる。秋篠宮家の時代へと移っていくのです。
つまり現行皇位継承法の下では、皇室の未来は秋篠宮家に開かれているのです」
秋篠宮のご活躍で、天皇のご健康不安が少しでも取り除かれることを祈りたい。

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