果てしなく美しい日本 ドナルド・キーン

果てしなく美しい日本
ドナルド・キーン
足立康訳

生きている日本(1973年8月)より 伊勢の遷宮(第59回・1953年)についての記述

P113
神道のもっとも重要な聖地は伊勢の大神宮で、
それは世俗的な不信心者さえ神々への信仰が呼び覚されるようなすばらしい美景の地に位している。
そこを訪れると、先ず第一に、五十鈴川の流れが目に入る。
嵐の後でも清く澄み切ったその水で、巡礼たちは神社に近づく前に、禊を行う。
神社への道は、生い茂る壮麗な檜の大木に囲まれ、真っ直ぐに生い立った木々の素朴な壮大さは
日本的な理想を象徴しているかのようである。
建物自体は古くはないが、それらは古代の伝統の姿を、まったくありのままにとどめている。
二十年ごとに新しい建物が建てられ、古い建物と代えられるが、新しいものは古いものの完全な複製である。
1953年(昭和二十八)年、伊勢大神宮第五十九回目の遷宮の儀式が執り行なわれた。
新殿建築の費用が国庫によってではなく一般からの寄進によってまかなわれ、
また、儀式に招かれた客たちの中に、宗教界と政界の貴賓たちばかりでなく農民や主婦が含まれていた点で、
それは常にない儀式であった。
古代神道の礼式の伝統によって、儀式は日暮れまで始まらなかったが、
人々は午後三時までに参会しなくてはならなかった。
参拝者たちは地面に拡げられた薄い茣蓙の上に五、六時間もの間座っていなければならず、
ほとんど肉体的な忍耐力の離れ業だったにもかかわらず、一言の私語も交わされることはなかった。
そびえ立つ樹々はおのずから深い沈黙を強いているかのようで、微かに伝ってくる町の往来やラジオの音は、
あたかも別の世の出来事のように思われた。
日が暮れて提燈が灯されると(日本のあらゆる祭りに、提燈は不可欠である)、
最初の行列が旧殿から現われ、新殿に向かってゆっくりと移動した。
それは、大工や、屋根ふき職人や、その他実際に新殿を建築した労働者たちの列であった。
彼らはこわばった青い衣を身にまとい、
儀式における自分たちの役割に誇りを抱いて、重々しい足取りを進めていった。
後には、またいくつかの行列が続いた。
それぞれひとつずつの儀式の道具を捧げ持った全国のあらゆる大社の大神官たち。
天皇の勅使(モーニングとシルクハットに身を固めた彼の弟)。
そして、最後に、漆黒の闇の中、神官たちが捧げ持つ白絹のテントに包まれて、
他ならぬ天照大御神自身が、彼女の新たな神社へ伴われていく。
水を打ったような沈黙の中を、神官たちの衣のきぬずれの音と、
掃き清められた砂利の上の木沓の反響が、この世のものとも思われぬ鬼気せまる倍音を響かせた。
神がそこにおわしますことを信ずるのは、いとも易いように思われた。
そのとりわけ神(かむ)さぴた雰囲気ゆえに、伊勢神宮の遷宮は典型的な神道の祭典とはいいがたい。
(後略)

P168
第七章 東洋的民主主義
今からさほど遠からぬ1945(昭和20)年まで、日本の「国体」の概念を支えていたのは、
日本は世界でも比類のない国家で、神ながらの統治者によって導かれる唯一無二の家族国家であるという信仰だった。
天照大神の「万世一系」の子孫である天皇は、全日本人の愛国心と献身の的であった。
今日では、日本はヨーロッパの民主的な王国とほとんど違わない政府を持つ立憲君主国であり、戦後の憲法によれば、
天皇の「地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」。
彼の機能は主として象徴的なもので―外国大使を受け入れたり、国会の開会を宣言するなど―
今では国民はみずから選んだ代表を通じて神国を支配している。
二十年前には至るところで見られた天皇崇拝は、外的な表現という点では、今日はではほとんどその影をひそめた。
天皇は詔勅によってみずからの神性を否定し、以来彼の臣民は畏怖と身震いではなく、
愛着をもって天皇を見るように奨められてきた。「天皇制」は公然と、大声に攻撃されている。
新聞がごく些細な不敬の言葉を用いた廉でたちまち発禁処分に付せられたのはさほど昔のことではないが、
今では天皇制を堂々と揶揄した記事や漫画を堂々と印刷している。しかし、今日でも、
旧来の伝統をとどめている宮内庁という天皇の役所は、日本政府の組織で諸外国ともっとも異なる点である。
紀元前666年に国を建てた神武という遠い先祖の「即位」の日にさかのぼって数えると、
現在の天皇(昭和天皇)は皇統第百二十四世に当たる。
しかし、現在の学者によれば、統治者の総数は大体において正しいが、
王統そのものはキリスト紀元以前にさかのぼることはないといわれる。
日本がはじめて歴史に登場したのは、三世紀の中国人が「東夷」の国を訪問したときの歴史家による記録である。
そこには、日本は一人の女王に支配された百の共同体から成り、日本は質朴だが愛すべき国民であったと記されている。
712(和銅5)年に朝廷に捧げられた現存する日本最古の書物『古事記』は、皇室の血統と業績に対する礼賛の書である。
しかし、古代の歴史家たちも、おそれ多い尊厳な天皇の地位と、ときには必ずしも称賛し得ない
現実の人間としての個々の天皇とを区別して論じた。
例えば、六世紀の武烈天皇は、無罪の人々を木に登らせ、矢で射落とすことを楽しみとしたと報告されている。
何世紀にも亘って、この上なく立派な統治者たちと並んで、後継者に弑せられた天皇、殺人者の天皇、
愚か者の天皇、飲酒狂の天皇、偏屈者の天皇、放蕩者の天皇など、無数の例が挙げられている。
日本の学者たちは学問が超国家主義一色に塗りつぶされた時代でさえ、こうした事実を否定はしなかった。
天皇たちは神聖ではあったが、人間的欠陥を持つことを許されていたのである。
その尊厳な香気にもかかわらず、過去千余年の間で皇室が繁栄を謳歌したのは、比較的短い期間に過ぎなかった。
実際の支配権は、ほとんどすべての期間、関白、上皇、将軍など、天皇以外の者に握られていた。
皇統がこうした浮沈に耐えつづけてきたことこそ、むしろ驚嘆に価するというべきだろう。
皇室の運命は十六世紀にどん底に陥り、後土御門天皇が没したときには、葬儀の費用にもこと欠くありさまだった。
みずから土産物を作ったり、御宸筆を売って生活を支えた天皇もあった。
だが、十六世紀も終わりにさしかかるまでには、現実の支配者であった武士たちの
思いがけない気前のよさにあずかって、皇室の財政は目に見えて改善された。
十八世紀になると、古代日本の古典が主要な学者たちの興味を引き始め、
はじめ純粋に言語学的だった彼らの研究は、やがては超国家主義的な思索へと発展していった。
『古事記』のような書を精読した結果、学者たちは皇室の神秘的で神聖な性格に確信を抱くようになった。
しかし、皇室への尊崇の念を恍惚として説きつづけた学者たちさえ、現実に皇位を占めている人物については
無知だったし、無関心でもあった。天皇の活動はわずかな儀礼的な義務に限定されていて、
国民も彼を重要視してはいなかった。当時の書き物では、ときどき将軍に対してうやうやしい挨拶や
言辞が奉られたが、天皇はただの「雲上人」にすぎなかった。
したがって、十九世紀になるまで、日本と関係を持った諸外国が、
将軍の上にさらに高い権威が存在することを知らなかったとしても、驚くには当たらない。
例えば、中国は何世紀もの間、将軍に宛てた書簡に「日本国王」の称号を用いるのを常とした。
歴代の天皇自身、若年にすぎるか、あまりに用心深かったために、みずからを主張するに至らなかった。
単なる名目に過ぎなかった権力を実際に行使しようとした二人の天皇は、現実の支配者の手で追放されてしまった。
かくして、長い伝統によって、天皇は単なる儀式的な元首にとどまっていたが、1868年の維新の結果、
若き明治天皇が絶大な権力を帯びた地位に押し上げられた。将軍の政治的権力を掌握したことを強調するために、
天皇は京都から将軍の首府であった江戸(その後、東京、つまり、東の京都と改名された)へ遷都を行なった。
新帝と彼の顧問たちは日本の近代化のために努力したが、一方、天皇を神聖とする神秘的な「国体」の思想を
意図的に育成した。明治天皇は単なる象徴以上の存在だったが、日本人にとって幸運なことに
彼は才能に恵まれた良心的な統治者で、国民の称賛と尊敬に価する人物だったように思われる。
だが、明治天皇は決して新生日本の唯一の権威だったわけではない。彼の取り巻きの中には、
みずからの目的のために公衆の熱狂をかき立てる便利な手段として、「勤王」の叫びを利用した者もいた。
彼らは国民を鼓舞する何らかの象徴を必要としていた。もし明治維新が種類の違った革命だったら、
指導者はその目的を「自由、平等、幸福の追求」に求めたことだろうが、
日本にはそのようなスローガンが意味するものの伝統がないことを知っていた彼らは、
自分たちの革命を王政復古の名の下に正当化したのである。
万一、神でもあり、また同時に、子等を見守り、ときに訓戒を与える父だもある天皇が存在しなかったならば、
一般大衆を近代化に邁進するよう説得することは困難だったかもしれない。
明治天皇が即位したとき、日本はヨーロッパに何世紀も遅れた名もない王国にすぎなかった。
だが、彼が世を去るころには、日本はロシアを打ち破り、英国と対等の同盟を結ぶまでになっていた。
この目覚ましい成功の代償として、日本国民は多くの艱難辛苦を忍ばなければならなかったし、
政府の政策はしばしば非民主的で、後の天皇崇拝の乱用を予測させるものだったが、
明治維新のすばらしい成果そのものについては、まったく議論の余地はない。
今日、明治天皇は「明」徳な「治」政をもたらした人物として崇められている。
明治天皇の後継者、大正天皇は、父親のように国民の心を捉えることはなかったが、
それは彼の個性によるものであり、また、彼の治世の間に日本に起こった変化が
明治時代ほど爽快ではなかったせいでもある。
大正天皇の子息である現在の天皇は、父親の病気のため、1921(大正10)年に摂政となり、
1926(昭和元)年には皇位を継いだ。
彼は皇太子時代にヨーロッパへ旅行したが、それは一部の顧問たちにとってまさに驚天動地の出来事だった。
皇太子が西洋の諸制度に身をさらすことによって、何ごとか望ましからぬ結果が生じるのではないかと危惧したのだった。
噂によれぱ、帰国後のある日のこと。皇太子はロンドンやパリでしばしばしたように、
東京の町を散歩したいと希望したそうである。顧問たちは一人として答えず、黙って席を立つと、
うやうやしく一礼して、音もなく部屋を出て行ったという。夕暮れのがらんとした部屋に一人取り残されて、
皇太子はみずからの無力さに猛り狂った叫び声を上げたといわれる。
この挿話は、天皇に即位後の彼と、十数年にわたって日本を支配した軍部指導者との関係を象徴している。
議会政治を破綻寸前に陥れた超国家主義運動は、絶えず天皇の名に訴え、
暗殺さえ君側の奸を除く行為として正当化された。だが、すべては天皇の真の希望とは無関係に行われたようである。
少なくとも一度、彼は反乱兵に兵営に帰るよう命令することによって、革命的国家主義を奉じる臣民に対して
公然と彼自身の意志を表明したことがある。しかし、熱狂的な国家主義者たちは、天皇の名によって、
あるいは天皇の地位の名によって、天皇を無視しつづけた。
海洋生物学の研究に没頭するおだやかで学者肌の人物としての天皇はまったく無視された。
彼自身は戦争を嫌悪していたのに、無数の日本兵たちがそれを天皇の意志と信じて死んでいった。
大多数の臣民はよもや天皇が軍国主義者たちの活動に心を痛めているとは思わなかったし、
天皇自身も国民との接触を求めようとはしなかった。天皇が学校や病院を訪れるときは、
彼がそこにいるかぎり、誰しもじっと頭を下げたままでいなくてはならず、
学生たちは学校や儀式で天皇の写真を覆った幕が取りはらわれるとき、目を上げることさえ禁じられていた。
天皇(少なくとも彼の地位)は崇拝されたが、神となることによって、彼は人々の人間的な愛情を失った。
彼のために何百万人もの人々が喜んで生命を棄てようとしていたというのに、
この人物に比べれば、ヨーロッパのもっとも凡庸な王でさえ彼以上に国民に愛されたことだろう。
1945(昭和20)年8月、彼がラジオで終戦の詔勅を朗読したときに、国民は文字通りはじめて彼の肉声を耳にしたが、
彼の用語は国民から遠く隔たったものだった。戦闘を停止する彼の明確な命令にもかかわらず、
愛国的な軍人の中には、依然として天皇の名において戦争を継続させようとした者もいた。
天皇には、アメリカ人が自分にいかなる処置を加えようとしているのか、まったく見当がつかなかった。
実際、彼が戦争犯罪人として裁かれる可能性はじゅうぶんすぎるほどだった。
はじめてマッカーサー将軍と会見したとき、
彼は日本全体の罪を喜んで一身に担いたいという意志を表明したと伝えられる。
しかし、占領軍当局は日本人に反抗心を起こさせる危険を冒すより、
彼を名目だけの元首の地位にとどめる方が賢明と決定し、天皇に対する告発はなされなかった。
1946(昭和21)年1月1日、天皇は詔書を発して、みずからの神性を否定し、
日本人は世界の「他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」るものではないと
宣言した。同様、天皇と国民のきずなは「終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、
単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼル」ものではないという彼の信念が表明された。
その声明を日本人は驚くほど平静に受け入れた。それまで家々に飾られてあった天皇の写真は静かに取りはらわれ、
数カ月前ならば天皇の写真を救うために死を賭して火中に身を投じたに違いない教師たちは、
奉安殿を教室に改造した。
天皇と国民の間の愛情のきずなを証明するために、天皇は民衆の中に溶け込んで愛想をふりまき、
民主主義的君主として、戦争の災害や将来の再建について丁寧に尋ね歩いた。
当時のニュース映画は、しばらく前まで警察官のサーベルを恐れて彼の顔を仰ぎ見ることもできなかった
群衆の間を縫っていかにもおぼつかない態度で歩き廻ったり、お辞儀したりしている
天皇の姿を映し出して哀れを誘った。その後何年かの間、天皇は日本国民に親しく姿を現わしたが、
どうやらその役割に彼はあまり気乗りがしなかったらしく、「民主主義的」な訪問は次第に間遠になっていった。
もはや神ではなくなってはいたが、国民から見ると、彼はまだ完全に人間になってはいなかった。
ブルジョア風の西洋家具がしつらえられた宮城の一室でくつろぐ天皇一家の写真が数多く公表されても、
天皇が国民と気軽にしゃべっている姿はもちろん、彼が高官たちと語り合っている姿さえ、
とうてい想像できなかった。今日でも、彼がもっとも上手に役目を果たしおおせるのは
象徴的な機能においてであって、元旦に宮城の外に群がる何万の人々の前に、
はるかにその姿をかいま見させるような場合に限られているといってよい。
天皇に比べると、皇后や、特に皇太子に対しては、国民の感情ははるかに暖かい。
皇后は世界中の女王が好まれる要素である太目の母性的な体軀の持ち主で、
彼女の写真を見れば、誰しも彼女がよき妻であり、母であると信じることができる。
大部分の日本人の皇室に対する熱狂ぶりは、今や皇太子に集中している。
彼の写真は(彼の両親の写真ではない)、特に田舎では、無数の家々の床の間を飾り、
一世を風靡しつつある映画スターたちの写真と並んで、アルバムや床屋の壁に貼られている。
ときどき日本の親たちは、戦後の新教育のおかげで子供たちが天皇について何一つ知らず、
天皇の写真を見分けることができないといって嘆くが、学齢期の子供たちならば、
一人残らず皇太子の行動に精通しているといってよい。
多くの人々は皇太子こそ新日本の象徴であり、単に古い伝統を遵守する者ではないと感じる。
こうした見方をいっそう強固にしたのは、彼が平民の娘と結婚したことであり、
その決定は各方面に大きな興奮をまき起こした。天皇制に反対する人々さえ、日頃の悪意ある言辞にもかかわらず、
この劇的な決定に心を動かされた。
理由をはっきりと説明できる者は少ないが、疑いもなく今日でもたいがいの日本人は今上天皇を戴くことに賛成である。
個人的な愛着とはほとんど関係ない。
今でも、人間としても、天皇としても、彼が「善良」であったかどうかに言及するのは、
いわば冒涜的と考えられる傾向がある。明確な答えは得られないが、
「日本にはいつでも天皇陛下がいらっしゃったし、だから、
私たちにも天皇陛下がいらっしゃらなくてはいけないんじゃないかと思うんです」というのが、
たいがいの日本人の、天皇に対する曖昧模糊とした感情である。
知識階級は天皇が果たしてきた歴史的な役割や、日本国民の象徴としての価値について論じるかもしれないが、
はるかに多くの日本人にとって、天皇は依然として人格化された権威である。

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