国家の象徴とは 河西秀哉さん、瀧井一博さん

(耕論)国家の象徴とは 河西秀哉さん、瀧井一博さん
2016年10月14日05時00分
天皇の生前退位への道を開くかどうか。政府の有識者会議が17日、初めての会合をもつ。
憲法の最初の条文が記す国の象徴、国民統合の象徴としての天皇に私たちは何を求めるのか。
国民的議論が深まらないなか、あえて天皇が投げかけた問いに、考えを巡らすときだ。 

■本来は国民が決めること 河西秀哉さん(神戸女ログイン前の続き学院大学准教授)
昭和天皇と今上天皇では、「象徴天皇」としての意識がかなり違っていると思います。
昭和天皇は、「象徴としての君主」という意識が強かった。
実は戦前の立憲君主から、あまり変わっていなかったのではないかという気がします。
自分には権威があり、その権威によって国民は統合されるという感覚をずっと持ち続けていた。
戦後の巡幸も、自分が行くことで国民が励まされるという発想だったのでしょう。
対照的に、今上天皇は「象徴として国民とともにある」という意識だと思います。
率先して被災地を訪問するのも、上から国民を励ますというより、
一緒に苦楽を分かち合うという感覚が強いのではないでしょうか。
昭和天皇は、戦後の「人間宣言」に「五箇条の御誓文」を引用することにこだわったように、
明治天皇からの連続性を強く意識していました。今上天皇は、もっと過去の天皇からの連続性を意識しています。
皇太子時代の1984年には、記者会見で「政治から離れた立場で国民の苦しみに心を寄せたという過去の天皇の話は、
象徴という言葉で表すのに最もふさわしいあり方ではないかと思っています」と述べています。

今年8月の「お言葉」は、憲法に書かれている国事行為より、
各地を訪れて国民とともに過ごすことを重視しているようにさえ読める。それこそが「象徴」の務めであり、
天皇制本来の伝統だと考えているのだと思います。そうした務めを増やしてきたことに、強い自負があるのでしょう。
こうした象徴天皇観を持つようになった背景には、皇太子時代、特に結婚の前後に、
国民から強い関心を向けられ続けてきたこともあったと思います。自分が国民やメディアからどう見られているか、
何を期待されているかを常に意識してきたことが、「国民とともにある象徴」という意識を形成する上で
非常に大きかったのではないでしょうか。
一方で、東日本大震災の後のビデオメッセージや今回の「お言葉」など、自らメディアを通じて
象徴天皇像を作り上げてきた部分もあると思います。
戦後50年あたりから、重要な節目にはかなり踏み込んだことを話すようになっていますが、
自分の言葉がどう報道されるかを常に意識している感じがします。

「お言葉」は、ある意味で、天皇が政府や国民に向けて投げたボールだと思います。
「自分は象徴としてこうした仕事をしてきた。それをどう思うのか」という問いを投げかけ、
「いまの象徴のあり方を維持していくことを考えてほしい」と言っているわけです。
この70年間、われわれは、象徴天皇制というものを漠然と受け入れてきました。
「象徴とはどうあるべきか」「象徴の務めとは何か」を真剣に考えてこなかった。
憲法9条については議論しても、1条の話はしませんでした。
「象徴」とは何なのかを、誰よりも真剣に考えてきたのは今上天皇ご自身ではないでしょうか。
「お言葉」でも「象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」と言っています。
その思索の結果が「国民と苦楽をともにする」という象徴天皇観であり、生前退位することで、
それを次代に受け継がせたいという強い思いが読み取れます。
天皇が自ら問題提起すること自体は、象徴天皇制からは逸脱している部分があります。
しかし、これまで政府や国民は、天皇をめぐる問題には触れようとせず、後回しにしてきました。
それをずっと見てきて、今回あえてボールを投げたのでしょう。「国民統合の象徴」とはどういう存在か、
その務めとは何なのかは、本来は国民が決めるべきことです。ボールをしっかり受け止め、
いまこそ真剣に議論すべきだと思います。

かわにしひでや 1977年生まれ。専門は日本近現代史。
著書に「『象徴天皇』の戦後史」「明仁天皇と戦後日本」、編著に「戦後史のなかの象徴天皇制」など。

■憲法秩序を外から支える 瀧井一博さん(国際日本文化研究センター教授)
明治憲法下の天皇は、絶対君主のような存在だったと思われがちです。
しかし実際には、明治憲法下においても、天皇はある種の象徴として存在していました。
明治憲法の字面だけ読むと、天皇が統治権の総攬(そうらん)者とされ、
あらゆる政治権力が集中するかたちになっている。とはいえ、自分では権力を行使せず、
権力を分け与えられた者たちが、天皇の名代として政治を行うというのが、現実の運用でした。
こうした天皇のあり方のレールを敷いたのは、明治憲法制定を主導した伊藤博文です。
天皇の親政を否定し、憲法の下に置く立憲君主制を採用して、国民統合の象徴にしようとした。
明治天皇自身も伊藤に全幅の信頼を置いて、立憲君主としてふるまい、
政治的なことに対して自分の意思を表明しようとはしなかった。
伊藤は、旧皇室典範により天皇の生前退位も認めませんでした。
天皇の自由な意思を認めれば、政治が混乱すると考えたからです。
天皇から「私」的なものを徹底的になくし、完全に「公」の存在にしようとしました。
実際に明治憲法の下で政治が動き出すと、政府と議会が対立したときに宥和(ゆうわ)を促したり、
大津事件で負傷したロシアの皇太子を見舞ったりと、天皇が政治的な機能を担うようになります。
それでも、あくまでも中立的な調停者という立場でした。
昭和期になると、天皇の政治的側面が突出してきました。張作霖爆殺事件で田中義一首相を叱責(しっせき)する、
軍部と距離をとる姿勢を見せるなど、政治的な立場を明確にするようになる。
立憲君主のあり方が大きく変質していきました。
敗戦、日本国憲法の制定で、天皇はそうした政治的機能をすべてはぎ取られ、「象徴」とされます。
日本国憲法が当初想定していた象徴天皇は、力を持たない、空っぽな存在でした。
戦後の天皇制の歩みは、本来は空であった象徴という役割に、
どういう積極的なものを入れることができるかという試行錯誤だったと思います。
戦争や災害の犠牲者を慰霊し、苦難にある人々を慰撫(いぶ)し、国民生活の平安を祈る。
特に今上天皇は、被災地を訪れ、体育館でひざをついて被災者と話すことで、
憲法を普通に動かすだけでは解消できないこの国の傷を、ある程度回復させてこられた。
本来ネガティブだった日本国憲法下での象徴のあり方を、ポジティブなものに転換させたといえます。
戦前と戦後の「象徴」は、もちろん違いのほうが大きい。しかし、明治憲法下でも日本国憲法下でも、
実際に天皇が果たしてきた役割は、まさに国民統合を行う象徴でした。
憲法秩序を、いわば外側から支える役割を天皇が担ってきたという意味では、連続している部分も大きいのです。
天皇のあり方は憲法にしたがって設計され、時々の環境や必要性に応じて決められるべきだという観点から、
生前退位はきわめて難しい問題をはらんでいます。
今上天皇の個人的意思によって、今後の天皇のあり方が規定されることは禍根を残しかねません。
天皇が老いていかれることに国民が思いを致し、お隠れになった場合にそれを悼み服喪するということも、
象徴に伴う重要な機能と考えられます。ひとつの象徴が去り、新たな象徴が誕生する一連の出来事は、
悲しみから新たな時代の自覚へと国民の意識に再生を促す作用を果たしうるからです。
そういったことも念頭に置きながら、今回の天皇の「お言葉」を、
国のかたちにいかに反映させていくか考える必要があります。退位を認めるとしても、
特別立法で片づけるのでは意味がありません。
「お言葉」が、皇室制度のあり方を総体的に考え直すきっかけとなることを願っています。

(聞き手はいずれも尾沢智史)

たきいかずひろ 1967年生まれ。専門は比較法史、国制史。
著書に「文明史のなかの明治憲法」(大佛次郎論壇賞)、「伊藤博文」(サントリー学芸賞)など。
http://www.asahi.com/articles/DA3S12606481.html

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