皇太子ご夫妻への期待と不安

文藝春秋2016年10月号
朝日新聞皇室記者が敢えて書く
皇太子ご夫妻への期待と不安
岩井克己 ジャーナリスト

「恐れながら」と前もって非礼をお詫びしつつも本音を言えば、
皇太子殿下は筆者にとっては今も「ナルちゃん」なのである。
昭和61年2月から皇室担当を命じられ、直面した最大の“試練”は、
百名山を次々と踏破する彼の山行に懸命について回ることだった。お妃探しが当時の最大の関心事。
「まずは人柄を知らねば」と。殿下26歳、こちらは39歳。なまり切った体にむち打ち、
あごを出しながら幾つ登ったか数えきれない。
テント泊となった南アルプスの山頂で、星空を仰ぎつつナルちゃん差し入れの「シーバスリーガル」を
酌み交わしながら語らった。目を輝かせて山の素晴らしさを語る彼の姿に
「大自然と音楽や仏像など美しいものが好きな好青年」と思ったことは覚えているが、
疲労で酔いつぶれ中身は忘れてしまった。結果、記者仲間と一緒のテントで大いびきをかき、
気付いたら一人用テントに追い出されていた。翌朝顔を合わせると、殿下から
「そういえば夜中にクマの唸り声が聞こえたのかと思いましたよ」とからかわれた。
伯耆大山登山のあとの出雲大社参拝。勝手に「ナルちゃんに成り代わり」と念じておみくじを引き、
ご本人な「中身を知りたいですか?」と尋ねて「はい」と身を乗り出したところで
「結婚、急がぬがよし」と読み上げ、あはははと笑い転げさせたこともあった。
下界に降りて、美智子さまに「記者の皆さんも浩宮の山登りにおつきあいされ大変ですね。
弟の礼宮は山は好きではないようですのに」と気遣ってもらった。
ただし、後日お目にかかると訂正が入った。
「礼宮から訂正しておいてと言われましたので、お伝えします。礼宮も山は好きなのだそうです。
ただし登るのが嫌いなのだと申しております」

世間とは垣根に阻まれて
そんな楽しいご一家も、昭和天皇の闘病・崩御、天皇陛下の即位、礼宮の結婚と秋篠宮家設立、
浩宮の立太子と独立と、それぞれに新たに重責を負う道へと分かれ、
記者らにとっても牧歌的な時代は遠い思い出となった。そして気掛かりな思い出が増えた。
インド訪問に随行した時、移動の車列の道筋に大勢の路上生活者が見えた。後で彼は真剣な面持ちで
「ショックでしたね」と感想を述べた。平成になって間もなく上野公園の東京国立博物館の美術館に随行した時。
帰りがけに公園を歩くと、警察に追い払われていたホームレスの人波が続々と大荷物を手に公園に戻る姿があった。
「彼の目には入らないのだ」と思ったことを覚えている。
冷害に襲われた農村、炭鉱事故で大勢が犠牲となった炭住街、東南アジアのスラムなども現場取材した
社会記者の目には、「感受性豊かにお育ちだが、いつも垣根に阻まれ世事に疎いんだな」と映ったものだ。
霞が関の出身省庁に戻る東宮侍従が「皇太子さまも、いつまでも山とテニスが好きな爽やかな好青年ではいられない。
天皇陛下の猛勉強ぶりと行動力をもっと見習ってほしい」と嘆くのに驚いたことがある。
「そうでないと将来、お飾りになったり利用されたりしないかと心配で。
置き手紙をしようかと思い詰めたが踏みとどまった」と目に涙を浮かべていたのである。
天皇陛下が「象徴としてのあるべき姿」について自ら語り、
皇太子への譲位の意向をにじませる「お気持ち」を明らかにした。
象徴として全身全霊で務めを果たすべき天皇が高齢で十全に果たせないなら
次世代に譲りたいとのご意向と受け取れる。
いつまでも両陛下には元気で長生きしていただきたいと思う半面、だれも口には出さないが、
「皇太子ご夫妻は大丈夫だろうか」との問いかけをのみ込んでいる国民も少なくはないのではないか。
陛下の「お気持ち」を読んで、強く目に飛び込んできたキーワードは「市井の人々」であった。
「国民統合の象徴」として国民の安寧と幸せを祈るためには「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、
思いに寄り添うことも大切」と考え、全国津々浦々、離島まで旅を重ねたと。
そして「地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々」を認識し、
象徴天皇としての務めを「人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と。
誰もが敗戦の焼野原に発せられた昭和天皇の歴史的な「人間宣言」の「朕と爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、
終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」を
思い浮かべたであろう。
現天皇陛下は、「市井の人々」への「信頼と敬愛」を持てたことを「幸せなことでした」と
天皇の側から感謝したのである。
皇太子時代から積み重ねた様々な人々とのふれあいが凝縮され万感がこもっていると感じた。
平成15年9月、大阪府和泉市で皇太子さまがNICU(新生児集中治療室)を視察したことがあった。
記者たちは事前に現場で待ち受けていたが、そこで治療を受けた数組の親子が呼ばれて並んでいた。
話を聴くと、それぞれにかけがえなのい我が子の命が消えかかり、
そして救われるまでの壮絶な体験と感謝の気持ちを抱えていて胸をうたれた。
「深いやりとりがありそうだ」とメモを持つ手に力が入った。
しかし、入室してきた皇太子さまは「大変でしたでしょうね」と
数往復やりとりしただけで次に向かって行ってしまったのである。
「ナルちゃん、もっと突っ込まなきゃ」と胸の内でつぶやいたものだ。
平成16年の皇太子さまの「人格否定」発言は、まだ世の人々の記憶に新しい。
思えば平成5年の結婚以来、「世継ぎ」を求められてながら得られぬ皇太子ご夫妻の苦悩は
察するに余りあるが、それ以上に天皇陛下にとって皇位と天皇の務めの継承問題は
最大の悩みのひとつであり続けた年月であったろうと思う。
「昭和天皇の後を継いで、両陛下が営々と積み上げてきたものが一気に崩された」
「皇室なんかいらないとの声まで呼んでしまった」と両陛下周辺は怒りを隠さなかった。
折しも天皇陛下は前立腺がんが再発して二重の憂いに沈み、医師団が睡眠薬を勧めるほどの状態だった。
「家庭内の区々のトラブルのことよりも、陛下は、国と国民に対して重い責務を負い、
これからも負って行く者としての自覚を問題にしておられる」と。

言葉が実を伴っていないのではないか
結婚直後の雅子さまについて、宮内庁の主計関連職員が「妃殿下の購入された書籍などは、
並みの大使など及びもつかないほどの勉強ぶりをうかがわせる」と感心していたことがある。
外交・国際関係などの外書も含まれていたのだろう。
雅子妃の縁者は「ただ外国に行きたいという安易な話ではなく、国際舞台で日本の役に立ちたいというのが
若くからの夢で、その志を抑えられるのはアイデンティティーを否定されることなのです」と語っていた。
当初は雅子妃に同情的な声が多かった。しかし筆者は「雅子妃のために皇室があるのではない」と思い、
いわば「究極のイメージ産業」とも言える皇室を台無しにしていると、
何度か皇太子ご夫妻の言動に対する批判記事を署名入りで書いた。脅迫状もずいぶん届いたが、
どれも皇室が歩んできた歴史や伝統、国民と相互の「信頼と敬愛」の意味について
全く理解も顧慮もしていないものばかりだった。「板挟みのナルちゃんは辛いだろうな」と一人つぶやいたものだ。
平成25年、天皇陛下の傘寿の会見ではっとした。「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、
私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました」というくだりだ。
皇后さまへの感謝の気持ちと同時に、世代も遠い海外育ちの雅子妃の精神疾患への理解と諦念も
垣間見えたように思った。
深刻なのは、雅子さまが見知らぬ不特定多数の国民と接する場や宮中祭祀を避け続けていることだろう。
年間五十回前後ある勤労奉仕団の人たちへの会釈は、地方から上京して清掃奉仕してくれた人々が
じかに接する機会で、両陛下や皇太子さまはほぼ全てに出ておられるが、雅子さまはほぼ全て欠席。
まれに皇太子さまの地方訪問に同行しても、知事、議員、市町村関係者ら地元の人々との恒例の昼食会は、
一人部屋に残って顔を出されないでいる。以前、何かお気に召されないことがあったらしく、
主治医も「皇太子妃ともあろう方が余りローカルな話題におつきあいされる必要はないのでは」と
言っていると伝え聞いた時は「わかっていない」と、筆者すら慨嘆したものだ。
地方での関係者との会食は、皇太子時代から両陛下が「親しく地元の人々の話を聴きたい」と始め、
天皇、皇后としても平成元年の初めての地方公務の時から会食形式に切り変えさせて、
ずっと続けてきたものだからだ。
宮中祭祀は年間三十数件あり、天皇自らが執り行う「大祭」は一月の元始祭、昭和天皇祭、三月の春季皇霊祭、
四月の神武天皇祭、九月の秋季皇霊祭、秋季神殿祭、十月の神嘗祭、十一月の新嘗祭と先帝祭、
先帝以前三代の式年祭。新嘗祭だけは皇后や皇太子妃は御所で慎む形だが、それ以外は全て皇后、
皇太子妃は伝統装束で殿上拝礼するしきたりだ。また掌典長が執り行い天皇が拝礼する「小祭」でも、
一月の歳旦祭、二月の祈念祭、天皇誕生日の天長祭を除く「ご先祖のお祭り」つまり先帝三代の例祭、
歴代天皇の式年祭は同様だ。
皇后も皇太子妃も潔斎所で潔斎し髪をおすべらかしにして十二単に着替え、宮中三殿に上がって拝礼せねばならない。
他の皇族方がモーニング、ロングドレスで庭上拝礼するのに比べ各段に負担が大きい。
国家神道の時代につくられた過重な祭祀体系は見直されるべきかもしれない。しかし歴代の皇后、
皇太子妃は営々と継承に努めて来た。例えば平成二十年の場合、天皇陛下の祭祀は三十三回。
このうち皇后さまは十四回ご一緒されている。
平成十五年に長期療養に入って十三年。雅子さまは平成二十一年の昭和天皇二十年式年祭、
今年の神武天皇二千六百年祭で、山稜参拝に赴く皇后の名代を求められた際には出席したが、
この二回以外は全て欠席。祭祀を担当し昼夜わかたぬ激務で支える掌典職の中から
「やってられない。お代替わりすれば辞めます」との声が聞こえたこともある。
東日本大震災の直後、病を抱えた天皇陛下、皇后さまも秋篠宮ご一家は厳しい日程を組んで被災地を訪れ、
数多くの地域に入って犠牲者の冥福を祈り、被災者を見舞ったまに比べ、
どう見ても皇太子ご一家の動きは鈍かった。もちろんご夫妻も一応は東北各県に入ったけれども、
タイミングは遅れたうえ、両陛下並みに飛行機やヘリを使った移動にもかかわらず、
昼前後に出発し夕方には現地を後にするというパターンで、訪問先も空港近辺などきわめて限られた。
雅子妃の体調が理由だろうが、どうしても解せなかったのは、なぜ皇太子が、
それ以外にも単独でも赴くことをしなかったのかということだった。
もちろんお見舞いや激励などは、あくまで「お気持ち」の問題であり、外形的なことで判断したり
無理強いするような義務化はすべきではないかもしれない。しかし、記者会見などで皇太子は
「国民の幸福を一番誰よりも先に、自分たちのことよりも先に願って、国民の幸福を祈りながら仕事をするという
これが皇族の一番大切なことではないかというふうに思っています」(平成十六年の誕生日会見)などと述べている。
言葉が実を伴っていないのではないかと問いかけたくなったものだ。

「太子、前代の興廃の跡を察し観られよ」
天皇陛下は言葉が実行を伴わないことを嫌われるという。「綸言汗の如し」だからだろう。
その一貫して厳しい姿勢は、例えば皇太子時代に沖縄で火炎瓶を投げ付けられた後に発表したメッセージでもわかる。
「私たちは沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来につなぎ、
ともども力を合わせて努力してゆきたいと思います。払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によって
あがなえるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、
この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」
皇太子さまは五十歳の誕生日会見で花園天皇の『誠太子書』を引き合いに学問の大切さをかみしめていると語った。
南北朝の争乱を予感しつつ、歴代きっての学識で知られた花園天皇が甥の皇太子量仁親王(後の光厳天皇)に
皇位を担う覚悟について「帝王学」を訓戒した書である。
筆者は昨今、次のくだりも戒としていただきたいと思っている。
「太子宜しく前代の興廃の跡を察し観られよ。(略)智恵が万物に周ねく、
才能が平なるところをも険しき事をも経験して、世間の辛酸を嘗めたのでなければ、
この乱りがはしき世を治めてゆくことはできない。然るに凡庸のものは、太平の時のことに眼がなれて、
今の時の乱を知らない」「凡庸の主が、この運に当たつたならば、即ち国は衰へ、政は日に乱れて、
勢ひ必ず土崩瓦解して、手がつけられぬやうになるであらう」(辻善之助『皇室と日本精神』の意訳)
雅子さまにも近年、前向きの変化の兆しが出て来た。
昨年一年間の東宮の公務約二百件のうち雅子妃が出席した公務などは約六十件と長期療養入りしてから最も多かった。
今年も4月に昨秋に続き園遊会に一部姿をみせた。6月には千葉県での「みどりの愛護」のつどいに七年ぶりに出席し、
その八日後には泊りがけで東日本大震災復興状況視察のための岩手県訪問に同行した。
7月には、長期療養入りして以来十三年ぶりに献血運動推進全国大会に出席した。
注目されるのは、愛子内親王を伴ってご一家で皇室の伝統や戦争体験の世代間継承を図ろうとする動きが
目立ち始めたことだ。一昨年7月には、式年遷宮後の伊勢神宮に参拝。昨年7月には昭和館の戦後七十年記念展に。
今年4月には昭和天皇記念館で「思い出の昭和天皇」展を視察。7月には奈良県橿原市の神武天皇陵に参拝し
京都御所を見学した。
皇太子自身も誕生日会見で平和や憲法について積極的に思いを語り始めた。
「今年の日本は、戦後、日本国憲法を基礎として築き上げられ、
現在、我が国は、平和と繁栄を享受しております。今後とも、憲法を遵守する立場に立って・・・・・・」平成26年)
戦後七十年の平成27年にも、幼時から沖縄慰霊の日、広島、長崎の原爆投下の日、終戦記念日の
「忘れてはならない四つの日」に両陛下と一緒に黙禱したこと、
豆記者と会った際に「沖縄での地上戦の激しさ」について聞いたことを振り返り、
愛子内親王も両陛下から先の大戦について直接話を聞いていると述べた。
そして「我が国は、戦争の惨禍を経て、戦後、日本国憲法を基礎として築き上げられ、平和と繁栄を
享受しています」と繰り返し、平和の尊さを心に刻むと語った。
現天皇が長年積み上げて来た足跡を継承するとの皇太子としての決意の宣言のようにもみえる。
天皇陛下は「お気持ち」の中で、象徴としての務めは全身全霊で果たさねばならないし、
自ら「市井の人々」の傍らに赴き思いを寄せてきたと述べられた。
上で高齢化により十全に務めが果たせなくなったら務めを縮小することには「無理がある」という言い方で、
後継者に譲るべきではと示唆された。
このことは後継者にも「市井の人々」に広く接し、相互の信頼と敬愛を育みながら全身全霊で務めを
果たすことを求めていると受け止めるべきだろう。

市井の人々に寄り添っていただきたい
譲位については、明治典範の起草にあたった当代最高の法制化の井上毅も柳原前光も、
そろってこれを認める皇室典範原案をつくっていた。
「万世一系の天皇」の理念を編み出した井上ですら「至尊(天皇)と雖も人類」として、
摂政を置いてまで終身在位とするよりは譲位のほうが望ましいと考えていた。結局は伊藤博文の判断で
終身在位制度が選択され、敗戦後も昭和天皇の退位問題とも絡みも現在の典範にも引き継がれた。
しかし、歴代天皇の約半数が譲位継承だったことを考えれば、前例の全くない女系天皇の実現を
小泉純一郎内閣が試み挫折したのに比べてハードルははるかに低いだろう。
「かつての上皇、法皇といった存在が出て弊害を生ずる恐れがある」「退位が恣意的なものとなったり
皇室が政治的思惑に巻き込まれたりする恐れがある」「強制的な退位が起こり得る」などといった事態は、
かつてない情報化社会で国民主権下での象徴天皇が定着した現代では考えにくいだろう。
懸念があるとすれば「愛子内親王を天皇に」といった皇位継承原則を巡る論争が再燃し、
それと絡められて譲位をめぐる議論が暗礁に乗り上げてしまう心配くらいではないか。
もし譲位が制度化されれば、皇位継承儀礼も大きく変わる。剣璽等継承の儀を中心とした「譲位の式」が
検討されなければならない。先帝が存命で見守るなか、新天皇の即位の礼や大嘗祭が執り行われる。
改元のスケジュールも前もって決められるため、新元号も大っぴらに十分な時間をとって検討・施行されるだろう。
典範改正に伴い皇室経済法、宮内庁法、皇統譜令、宮内庁組織令なども手直しされるだろう。
天皇家の方々の班位(順位)は(1)徳仁天皇(2)明仁太上天皇(3)雅子皇后(4)美智子皇太后の
順となるだろう。
現両陛下は結婚以来三十三年間暮らした元赤坂の東宮御所を懐かしがっておられるとも聞く。
皇居の御所を徳仁新天皇ご一家に譲り、東宮御所を「赤坂仙洞御所」として穏やかに暮らされるかもしれない。
そして先帝が亡くなられれば、ひょっとしたら葬儀は貞明皇后や香淳皇后の時のような簡素な形にできるかもしれない。
既に両陛下は土葬から火葬に切り替えるなど葬儀関連行事や築陵を簡素化する薄葬を希望しており、
それが両陛下のお気持ちに沿うのかもしれない。いずれにしろ、大がかりで国家機能や国民生活に大きな影響が出る
天皇の「大喪の礼」や崩御改元は避けられるのである。
長年取材してきた実感からは、天皇皇后両陛下が能動的・積極的象徴天皇観から倦まずたゆまず展開し
増やしてきた公務などの活動や天皇の国事行為は、皇太子ご夫妻の活動に比べ質量ともに五倍、六倍の
負担を伴うものだと思う。やりがい、喜びを感じず、負荷と感じれば、
とうてい「全身全霊で」取り組めるものではない。
天皇陛下が、皇太子を支える弟宮の秋篠宮も加え、三者で話し合いを重ねた上で「お気持ち」を直に
国民に伝えたのは、「人々」への責任感と、それゆえにバトンタッチの「テークオーバー・ゾーン」を設けて
後継走者たちの健闘を見極めねば死んでも死にきれない思いもあるような気がしてならない。
これを「トロイカ」と呼べば叱られるだろうけれども、「過去」を象徴する太上天皇、「現在」を象徴する
新天皇、「未来」を象徴する弟宮家の相和した三重奏が奏でられればいいなとの思いがする。
キーマンの皇太子の「助走」は既に始まったと考えるべきで、バトンタッチまでにトップ・ギアに入れねばならない。
遠からず「人々」の期待の目が注がれるだろう。
皇太子ご夫妻には、エスタブリッシュメントだけに囲まれるな、綺麗ごとや阿諛追従に惑わされるな、
「市井の人々」に分け入り寄り添って頂きたい、と切に申し上げたい。

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