平成「尊王」論―今こそ正気の光を

別冊正論Extra.14
(平成23年1月7日発行)
平成「尊王」論―今こそ正気の光を
皇學館大学教授 松浦光修

“憲政史上最悪”の不敬発言
昨年(平成22年)、11月29日の午前のことである。
参議院本会議場で、天皇皇后両陛下、秋篠宮殿下・同妃殿下のご臨席を仰ぎ、
「議会開設120年」の式典が行われている。
しかし、国会議員の、なんと約半数が「欠席」であった。(衆参両院の国会議員721名のうち、出席したのは370名)。
それだけでも非礼の極みというべきであるが、この式典では、さらに信じがたいことが起きている。
式典中、秋篠宮殿下に対し、前代未聞の「不敬ヤジ」を飛ばした「民主党ベテラン議員」がいたのである。
その事実は、翌日の朝に更新されたみんなの党の参議院議員・桜内文城氏のブログによって明らかになった。
桜内氏は、こう記している。
「報道されてはいませんが、ある民主党ベテラン議員は、秋篠宮殿下御夫妻が入場された後、
天皇皇后両陛下の御入場をお待ちになる間、ずっと起立されていた。
(当初の式次第では、着席されることになっていた)
のに対して、『早く座れよ。こっちも座れないじゃないか。』と野次を飛ばす始末。
想像を絶するようなことが起こっていたのです」。
すぐにネット上で大騒ぎになり、早くも同日の午後には、その「民主党ベテラン議員」の名前が特定される。
国家公安委員長在任中、赤坂の議員宿舎のカード・キーを銀座のホステスに渡したり、
金賢姫を“国賓あつかい”の待遇で招いたりと…、
世間の顰蹙を買う話題にはこと欠かなかった衆議院議員・中井洽氏である。
(選挙区は、三重県第一区〔津市・伊賀市・名張市〕)
中井氏は、その後の報道を見るかぎり、どうやら、そもそも皇室に対する「敬意」がない人物のようで、
たとえば、その日の中井氏の行動について、自民党の理事は、12月1日の衆議院議院運営委員会で、こう指摘している。
「中井氏は、天皇皇后両陛下、秋篠宮同妃両殿下のお迎えに際しても、
一人(モーニング姿ではなく)平服で、お迎え前にもポケットに手を入れ、まわりの民主党議員と雑談していた。
秋篠宮同妃両殿下のご入場の際も、一人着席のまま、数秒後に立つ対応だった」(「産経ニュース」平成22年12月4日)。
(中略)
ちなみに、「不敬ヤジ」が世間で大騒ぎになり、中井氏への「懲罰動議」が出ると、
民主党は、同式典で携帯電話の着信音を響かせた自民党の衆議院議員・逢沢一郎氏へ
の「懲罰動議」を出して相殺をはかっている。
姑息としかいいようがない。
「逢沢氏の着信音は、天皇陛下に聞こえたかもしれないが、中井氏の発言は聞こえていない」というのが、
その理由らしいが、「過失の不敬」と「故意の不敬」の罪の軽重さえ、民主党にはわからないらしい。
たぶん「恥の上塗り」というのは、こういう態度のことをいうのであろう。
もしも民主党が「聞こえていない」などという理由で、
あくまでも中井氏の「不敬ヤジ」を不問に付そうとするのであれば、
民主党は、みんなの党の参議院議員・水野健一氏の次の証言に対して、どう釈明するつもりであろう。
「中井氏が殿下に対して『早く座れよ。こっちも座れないじゃないか』と言ったのが鮮明に聞こえた。
『聞こえるようにいわなければダメだ』とも言っており、確信犯だ。独り言ではない大きな声だった」
(『産経新聞』平成22年12月2日)。
中井氏の地声は(国会でのヤジなどで、周知の事実であろうが…)、きわめて大きい。
その中井氏が「聞こえるように」言ったのである。
あの静粛な議場内でのことであるから、秋篠宮殿下・同妃殿下に声が届いていた可能性は高い。
もし、殿下がなにかの機会に、さらりと、「ああ…あれ。聞こえていましたよ」などとおっしゃったら、
さて…、民主党首脳部は、どう責任をとるのであろう?
ちなみに、今回の一件で、民主党の非常識を象徴したのが、
中井氏と同じ三重県選出の民主党幹事長・岡田克也氏の対応である。
岡田氏は、「皇室がご関係になったような話を、軽々に取り上げるべきではない」などという、
意味不明な言い訳をしつつ、中井氏の謝罪の必要性を否定している(「産経新聞』平成22年12月3日)。
岡田氏といえば、かつて国会の場で、秋篠宮妃殿下の「紀子様」を、「のりこさま」と読んだ人である。
伊勢神宮御鎮座の三重県から選出された議員でありながら、
そろいもそろって、皇室に対する「不敬」な言動が目立つ。
それは、たぶん偶然ではない。なにしろ三重県の教育は、
戦後ずっと、反天皇思想をもつ職員団体の支配下にあるからである。
(中略)

「不敬装置」としての民主党
そもそも民主党は、日本人なら皇室に対して自然に生じるはずの敬意が、
党全体から、まったく感じられないという不思議な政党である。
ここで話を平成21年秋の「政権交代」の時点にもどし、民主党政権の皇室に対する“不敬の歴史”を確認しておきたい。
まず平成21年10月23日、先の岡田克也氏(当時、外務大臣)が、
閣僚懇談会で、国会開会式での天皇陛下のお言葉について、
「(毎回)同じ挨拶をいただいている。国会に来ていただいているのだから、よく考えてもらいたい」、
「陛下の思いが少しは入った言葉がいただけるような工夫を考えてほしい」などと発言し、
宮内庁に対して陛下のお言葉の見直しを求めた。
陛下のお言葉に「注文」をつけるなど、前代未聞のことである。
そして、その二ヵ月後の12月、民主党政権は、言語道断の不敬事件をおこす。
天皇陛下への「接見教養事件」である。
あたかも民主党幹事長(当時)・小沢一郎氏が、143名の一般参加者を引き連れ、12月10日から13日にかけて、
「朝貢外交」を行っているさなかの出来事であった。外国の要人が天皇陛下への接見を希望する場合、
通常は一ヶ月前に申し込むのがルールになっていたが、官房長官(当時)の平野博文氏は、
12月7日と10日に二度にわたり、電話で宮内庁に圧力をかけ、
中共の副主席・習近平氏との接見を、陛下に強要したのである。
結局…、接見は二回目の電話の五日後である15日に強行されたが、
あたかも、この日は、宮中では神聖な「賢所御神楽の儀」の日であった。
当時、私は民主党首脳部の何者かが、故意にそのような神聖な日に接見をぶつけてきたのではないか、
と疑ったものである。いったい、この一件について、陛下は、どのような思いをいだかれたのであろう?
むろん、正確に知るすべはないものの、ある宮内庁関係者は、こう語っている。
「両陛下は、周囲に『昭和天皇の御代から大切にしてきた
“あらゆる国のその立場にある人に公平に分け隔てなくお会いする”ということが、
簡単にないがしろにされてしまった』と漏らされた、と聞いております」(『週刊文春』平成21年12月24日号)。
どのような大国であろうと、また、どのような小国であろうと、
「一視同仁」の立場で臨まれるのが、ご歴代の大御心である。
おそらく今上陛下は、“先帝陛下が守ってこられた大切な外交の作法を、
私は守れなかった”との思いで、御自身をお責めになったのではなかろうか。
恐懼のきわみである。
しかし、この言語道断の「接見強要事件」においても、そのころの民主党内から聞こえてきたのは、
幼稚な詭弁と、傲慢な答弁ばかりであった。
小沢氏にいたっては、「内閣が判断したことについて、陛下がその意をうけて行動なさるのは、当然のことだ」、
「陛下は、『手違いで遅れたかもしれないけれども会いましょう』と必ずおっしゃると思う」などと、
取りようによっては、陛下に対する「脅迫」まがいのセリフも吐いている。
いずれも、皇室に対する日本人らしい敬意のカケラも感じられない“もの言い”であり、
これらの言葉に、当時、強烈な嫌悪感を覚えた向きも少なくなかったはずである。
ともあれ私は、この一件によって、はっきりと「民主党は朝敵である」と確信し、
以来、いつでもどこでも、そう公言しつづけている。

ちなみに、秋篠宮悠仁親王殿下が、おすこやかに成長されているにもかかわらず、
「女性・女系天皇」の実現を諦めていない一部の官僚と宮内庁関係者のなかには、
民主党政権の成立に期待する向きがあったらしい。
平成21年9月15日、宮内庁長官・羽毛田信吾氏は、
「政権が変っても、皇室が安定的に続いていくかどうかという観点から、
問題含みの状態であるという意識は変わらない」、
「新しい政権が発足後、できるだけ早くこの問題について説明する場を持ちたい」などと述べているが、
じつは、これは、新しい政権下で、「女性・女系天皇」を実現させよう…との動きであったという。
そのことについて、八木秀次氏は、当時の「事務方の政府高官と宮内庁筋」の動きを、こう記している。
「宮内庁は、今年(平成21年)初めから非公式に女性天皇容認のための研究会を発足させ、
女系容認の研究者を呼んでいる。
さらに麻生政権が密かに進めていた別方向での皇位の安定的継承のための検討を妨害したのは、
事務方の政府高官と宮内庁筋だった。
最後は、内奏の際のありもしない御下問を持ち出し『大御心』を捏造までして潰しにかかった」
(『正論』平成21年11月号)。
「別方向での皇位の安定的継承のための検討」とは、
おそらく、旧皇族の男系男子の子孫の方々に皇位に復帰していただくための具体策の検討ではないか…と推測される。
また、「大御心」の「捏造」とは、おそらく、何者かが
「天皇陛下は、じつは女系容認のお考えをおもちなのです」などというデマを、
当時の政府首脳部に伝えたということではないか…と推測される。
そもそも、秋篠宮悠仁親王殿下のご誕生によって、いったん下火になっていた「女性・女系天皇」推進論が、
近年になって、ふたたび息を吹き返したこと自体、不思議な話である。
おそらくその背後には、「事務方の政府高官と宮内庁筋」の動きがあるにちがいない。
不幸中の幸いは、民主党政権の成立後、すぐに「接見強要事件」が起こり、
羽毛田信吾氏と小沢一郎氏の対立が表面化したことである。
それによって、両者が「女性・女系天皇」の実現で協力し、
国体を破壊するという最悪の事態は、当面、避けられたわけであるが、
今から考えれば、それもひとつの「神風」であったといえよう。
ともあれ、以上のような民主党政権の“不敬の歴史”の延長線上に、中井洽氏の“憲政史上最悪”の「不敬ヤジ」がある。
官房長官の仙谷由人氏は、平成22年11月18日の参議院予算委員会で、
自衛隊を「暴力装置」と言ったが、このように見てくれば、
民主党政権は、政権発足以後、ずっと「不敬装置」であったといえる。
それが、「国体破壊装置」にバージョンアップしてからでは遅い。早期の「政権交代」が望まれる所以である。
(中略)

高師直・師泰兄弟と小沢一郎の皇室観
(中略)
決定的なのは、師直の(別本では、師泰の)この発言である。
「京都に『王』というものがあって、多くの土地を領有し、『内裏』とか『院御所』などというところがあって、
前を通るにも、一いち馬から降りねばならず、じつにメンドウだ。
『王』などいてもいなくても、政治は武家が諸事万端、うまく取り計らっている。
『王』などなくても、まったく不便はない。もし『いないと困る』という者がいるのなら、
木像でもつくっておくか、金属で鋳たものでも安置しておくか、
その二つのうち、どちらかをやればすむ話だ。
その上で、ほんものの上皇、天皇などは、どこへなりとも流して、捨ててしまえばよい。
それが、天下のためにもよいことで、そもそも公平というものであろう」
(小学館古典文学全集本『太平記』巻第二十六「師直師泰奢侈のこと・現代語訳は松浦)
近現代の天皇制廃止論者と、言うことが、じつによく似ている。
まるで日教組の教員のようである。そして、この師直の発言と
「接見強要事件」のさいの小沢一郎氏の発言は、よく考えてみれば、その思想構造が、まことによく似ている。
先にも引いたとおり、あの時、小沢氏は
「内閣が判断したことについて、陛下がその意を受けて行動なさるのは、当然のことだ」
と発言しているが、それは、つまり「主権者は国民であり、内閣は、
その国民の負託を受けているのであるから、内閣と与党の命令は絶対である。
したがって天皇は、内閣に従わなくてはならない」という意味かと思われる。
たしかに「日本国憲法」には、「(天皇の)地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」との文言がある。
これを恣意的に解釈すれば、小沢氏の発言は、一見すると正論のように見えなくもない。
しかし、もしも、そのような解釈が可能であるなら、日本では、内閣の下位に皇室が位置する…、
つまり、“皇室は内閣の下部機関”という位置づけになってしまう。
もちろん、そんなことは、日本の歴史と伝統を考えれば、ありえない解釈であるし、さらには
「日本国憲法」のどこにも、そのようなことは書かれていない。そ
れに、そのような解釈が成り立つのなら、天皇の「政治利用」など、いくらでも可能になってしまおう。
民主党が、昨年の「接見強要事件」に見られたとおり、天皇の政治利用を躊躇なく強行し、
その後、党内から、反省の声一つあがらなかったことからすると、
あるいは小沢氏の天皇観は、民主党全体の天皇観を象徴するものなのかもしれない。
(中略)

北畠親房の「種」と「徳」
悠久の歴史をふりかえれば、古代の日本には、広く国民のあいだに「尊皇」の心が横溢していたように思われる。
残念ながら、今の日本史学者のほとんどはサヨクであるから、そのことを、なんだかんだといって認めたがるまいが、
たとえば、「防人」の一人である今奉部与曽布(いままつりべよそふ)は、こういう和歌を詠んでいる。
「今日よりは/顧みなくて/大君の/しこの御盾と/出で立つ君は」(『万葉集』巻第二十)。
歌意は、こうである。「今日から私は“私”を滅して生きよう。
なぜなら、これから私は、天皇をお守りする強い盾になるという、尊い任務につくための旅に出るのだから…」。
壱岐、対馬、筑紫い「防人」が置かれたのは、天智天皇2年(663)の白村江の戦いの翌年で、
わが国に迫るシナの軍事的脅威に備えるためである。(近年の東アジアの外交状況は、この時代に近い)。
その危機にさいして、はるばる東国から、「防人」として九州に旅立つ民間の一青年によって、
このような和歌が詠まれているのであるから、やはり古代の日本では、
官民を問わず、「尊皇」の心が共有されていたと見るべきであろう。
それにもかかわらず、数百年の歳月を経て、どうして日本では、土岐頼遠や高師直・師泰のような不敬の言動が
横行するようになったのであろうか?むろん、その原因を挙げはじめたら、きりがあるまいが、
その直近の大きな原因の一つとして、皇統が長く二統にわかれていたことがあるのは、まちがいなかろう。
二統とは、御嵯峨天皇(1220-72)の第一皇子・後深草天皇にはじまる大覚寺統と、
その第二皇子・亀山天皇にはじまる持明院統である。
後宇多天皇(1267-1324)から伍代(1288-1339)までの六代の天皇は、両党から交互に即位している。
このような危うい皇位継承がつづくことによって、
しだいに「正統」という観念が曖昧になっていくのは当然のことであろう。
そして、そのことが、南北朝の騒乱を招く最大の原因になるのである。
皇位継承とは、それ以上のものはない、と言っていいほどの国家の重大事であり、
あくまでも、建国以来の皇室伝統にもとづく原則にしたがって行われるべきものである。
その原則は、けっして、その時々の天皇や皇族、ましてや政治家などの意思で、勝手に変えてよいものではない。
したがって、「次の天皇はどなたか?」ということについて、ある時代の人々の答えがバラバラである…ということは、
基本的にあってはならないことで、もしも、そのような状況であれば、すでにその時、
伝統的な皇位継承の原則は“揺らいでいる”ということになる。
その“揺らぎ”は、ほかならぬ日本の“揺らぎ”であり、その振幅が大きければ大きいほど、
国は、しだいに乱世へと向かい、結果的に、国民は塗炭の苦しみを味わうことになる。
まさに南北朝がそのような時代であったわけであるが、
その渦中にあって、北畠親房(1293-1354)の書き上げた名著が、『神皇正統記』には、こういう言葉が散見される。
「わが朝の初めは、天神の種を受けて」・「天祖よい…ただ一種にまします」・
「(外国は)勢力あれば下劣の種も国王となり」
近代以前においては、農業が主な産業であったから、
そのような社会において「種」は、「男系」などという言葉よりも、よりリアリティのある言葉であったろう。
「種を受けて」が、すなわち「男系」により継承を意味することは、常識のある者なら、誰が見てもはっきりしている。
親房にとっての難問は、そのようなことではなく、同じく神武天皇の「種を受け」ながら、 
なぜ、ある天皇の血統が絶え、別の血統に皇位が移るという現象が、
歴史上、何度も繰り返されてきたのか、ということであった。
その難問を、親房は「徳」というキーワードで解いている。
たとえば、武烈天皇を評して、親房は「不徳の子孫、宗廟の祭りを断たむこと。疑いなし」と記す。
仁徳天皇の子孫である武烈天皇は「不徳」であったがために、その血統は絶えてしまい、
次の天皇には、仁徳天皇の兄弟の子孫である継体天皇が即位した…と、親房は解釈するのである。
同じような血統の「交替」は、他にもあって、親房は、文徳天皇からはじまる血統が
陽成天皇という「不徳」の天皇の出現によって絶え、
その次の天皇に、文徳天皇の兄弟である光孝天皇が即位したことも、その一例であるとする。
親房にとって、血統は偶然絶えるのではなく、「不徳」の結果として、いわば“必然的”に絶えるのである。
つまり、親房が言いたいのは、こういうことであろう。「皇統は、神武天皇より男系で連続している。
ただし、“不徳”の天皇があらわれれば、その系統は断絶し、
別の系統の神武天皇の男系の子孫が、天皇として即位する」。
そのようにして神武天皇を初代とする、いく筋もの男系の皇統が伴走しつつ、
「徳」の有無によって交代しながら維持されてきたのが、親房にとっての「正統」なのである。
これは、いわば「神武天皇の男系子孫内の易姓革命思想」といってよい。

本居宣長から井上毅へ
ところが江戸時代になって、社会が安定し、学問が広がるにつれ、親房の「種」と「徳」による「正統」の概念規定は、
きわめて問題を含むものに変質する。とりわけ、親房が「正統」と信じた南朝が滅んでしまったという事実が、
知識人たちの前には、悩ましい問題として横たわっていたであろう。
親房の思想にしたがえば、南朝には「徳」がなかった、ということになるからである。
それのみならず。楠木、新田、名和などの「忠臣」たちも、
「不徳」の天皇に仕えた愚かな武将たちということになってしまう。
しかし、考えてみれば、そもそも、「徳」というのは―なるほど麗しい言葉ではあるものの
―むろん可視化できるものではない。
そのようなものによって「正統」が決定されるなら、結果的に、江戸時代の、どの大名家であろうと、
お家騒動が頻発する危険性が高まる。
これらの難問に解答を見出したのが、江戸時代初期の大学者・山崎闇斎(1618-82)と、その学派の学者たちであった。
その解答とは、簡単に言えば、こうなる。
「徳」の君主に仕えることは容易であるが、「不徳」の君主に仕えることは容易ではない。
しかし、「不徳」の君主に仕える時こそ、「忠」の真贋があらわれ、真の「忠」が光を放つ…。
したがって、「不徳」の天皇に仕えた南朝の武将たちこそが、真の「忠臣」といえる。
そうであるなら、おそらく、もっとも後醍醐天皇の「不徳」を知りつつ、
しかし、もっともご確認に忠義をつくした楠木正成こそが、最高の忠臣なのである。
(詳しくは、拙稿「平成『臣民』論」〔『正論』平成22年1月号〕参照)。
こうして、闇斎とその学派の学者たちの学問的・思想的な苦闘によって、必ずしも君主にとって、「徳」は
必要不可欠な」ものではない…ということになった。そして、闇斎が没して数十年の後のことであるが、
江戸時代の日本に、ふたたび学問的・思想的な巨人が生まれ、やがてはその人物が、
親房以来の「徳」の議論に、はっきりと決着をつけることになる。
その人物こそが、本居宣長(1730-1801)である。宣長は、こう断言している。
「なるほどシナなどでは、徳によって君主の位につく者もあって、
そのこと自体を、貴いことだと思う者もいるかもしれない。
その気持ち、わからないではないが、それは、じつは悪いことなのである。
わが皇国は、神代より君臣の分が、きっちりと定まっていて、
君主は、何の理由づけをする必要もなく、そもそも尊い。
その尊さは、『徳」などとは、まったく関係がなく、もっぱら『種」のみを根拠としている」
(『葛花』・現代語訳は松浦)。
ここでも、「種」がでてくる。というよりも…、もう宣長にとって、
「正統」の条件は、「種」のみになっているといってよい。
現在の学会でも、宣長は「学者としては、最上級の、ほとんど不世出の天才」(城福勇『本居宣長』)と
評されている人物であるが、その宣長が、長年の研鑽の果てに、
君主の条件を「種」にしぼったことの意味は、きわめて重い。
その後、宣長の学統は、皇学(国学)の主流をなす巨大な学派を形成する。
そのなかに宣長の養子の本居大平(1756-1833)から、その養子の本居内遠(1792-1855)へ、
その内遠から小中村清矩(1821-94)へと受け継がれた学統がある。
そして、小中村の養子となったのが、熊本出身の皇学(国学)者・池辺義象(1864-1923)である。
この池辺は、同じ熊本出身の法制官僚・井上毅(1844-95)の「秘書」となる。
いうまでもなく井上は、「大日本帝国憲法」「皇室典範」の起草者の一人であり、
「教育勅語」の制定にも主導的役割を果たした明治の忠臣である。
井上は、池辺に学びつつ、日本の古典の精密な研究をもととして、わが国の「国のかたち」を探求しつづけ、
やがて、その研究成果を近代日本の「成文法」として確立する。
こうして「旧皇室典範」が、明治22年2月11日に制定される。その第一条には「皇位は祖宗の皇統にして、男系の男子、
これを継承する」とあり、その「義解」には、
「皇統は男系に限り、女系の所出に及ばざるは、皇家の成法なり」と記されている。
また、「義解」には「皇統にして皇位を継ぐは、必ず一系に限る。
而して二三に分割すべからず」などともあるが、これらは、むろん井上個人の思いつきなどで記されたものではない。
これまで記したところからも明らかなように、それらは日本史上に屹立する、
北畠親房、山崎闇斎、本居宣長など、学問的・思想的な“巨人”たちの、
数百年にわたる思索と経験を結晶化させたものなのである。
このように見てくれば、「女系天皇」などというものは、しょせんは平成の、
あるいは近代の「邪説」・「珍説」のたぐいにすぎないことがわかる。
それにもかかわらず、平成17年11月に「皇室典範に関する有識者会議」の「報告書」が発表されて以来、
神武天皇以来の皇位継承の原則を破壊しようとする人々の動きは、先にも記したとおり、いまだにとまらない。
「皇室典範」の改正が急がれることは、むろん確かである。
しかし、それは、あくまでも建国以来の皇位継承の原則を護るための改正でなければならない。
皇位継承の原則を無視する言論は、いくら「皇室を思うがゆえに…」などいう断り書きを入れたところで、
しょせんは、皇位継承の原則の“ゆらぎ”をもたらすだけである。その“ゆらぎ”をもたらそうとする者は、
結果的には、国を騒乱に陥れ、国民を塗炭の苦しみに陥れる「朝敵」である。
おそらく、そのような“揺らぎ”と、民主党政権という「不敬装置」の出現とは、無縁ではあるまい。
皇統が二統にわかれ、その結果、いつ果てるともない内乱がつづき、
土岐頼遠や高師直・師泰などという「逆賊」を生んだ忌まわしい過去を、私たちは、けっして忘れてはなるまい。
思えば、南北朝の時代は、それらの不敬を生んだ“闇の時代”であったが、
逆説的に言えば、そのような時代であったからこそ、
楠木正成のような、日本人にとっては“永遠の忠臣”と呼ぶべき人物が生まれたのであろう。
幕末の志士の“原型”とも呼ぶべき藤田東湖(1806-55)は、こう記している。
「時代によって、わが国は衰弱することもあるが、そういう時にこそ、正気は、光を放つ」(『正気歌』)。
わが国の歴史とは、闇と光が交錯しつつ、結果的には、そのようなかたちで、
いわば「神の見えざる手」によって導かれてきたのであろう。
「不敬装置」の政権下にある今の日本も、たぶん、“闇の時代”のなかにある。
しかし、そうであるならば、なおさら私たちは、「邪説」「珍説」に惑わされることなく、
わが国の歴史上に屹立する“巨人”たちの叡知に学びつつ、一人一人が“正気の光”を発すべく、
今こそ、心を奮い立たせなければなるまい。