これが誇りある日本の教科書だ

田母神塾
これが誇りある日本の教科書だ
田母神俊雄 双葉社 2009年3月1日

日本は戦後、人類が歴史上経験したことのない占領政策を受けました。
国際法において、占領国は被占領国に対して恒久法を強制してはいけないことになっていますが、
GHQの占領期間中、日本は憲法改正、教育基本法改正、教育勅語廃止、
財閥解体などの政策により占領国から国体の弱体化を進められてしまいました。
戦勝国は、自身の歴史観を敗戦国に強制するものです。
戦争に負けた日本は自分たちの歴史観を奪われ、戦勝国の歴史を強制的に押しつけられてしまいました。
そして従軍慰安婦問題、南京大虐殺など、捏造された自虐史観を日本の隅々にまで浸透させられてしまった。

ラジオでは1945年12月9日から、「真相はこうだ」という番組が始まっています。
戦後の日本はラジオを聴くくらいしか娯楽はありません。そんな時代状況の中、
ゴールデンタイムに「真相はこうだ」という番組が流された。
この番組は週1回放送され、46年2月10日まで10週にわたって続いています。
番組内容は、「日本軍は中国大陸や東南アジアでとてもひどいことをした。
そのときの指揮官は××である。とんでもないヤツだ」というようなものでした。
GHQの検閲によって、このようなラジオ番組が日本人の歴史観を塗り替えていきました。

日本が再びアメリカに歯向かうことがないよう、GHQは検閲と焚書を進めました。
これらの占領政策は、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」に則って進められています。
戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画です。
この計画の中には、「公職追放」という厳しい項目もありました。
政治家、軍人、役人、大学教授、学校の先生、地方自治体の長……。
「日本を悪くした軍国主義者」と烙印を押された人たちは、次から次へと公職を解かれていきました。
1946年から50年にかけて、なんと合計20万人以上もの人々が公職から追われています。
そうなるともちろん、人員の穴埋めが必要になります。
空いたポストには戦前、「左翼」と言われ、要職から追放されていた人が戻ってきました。
とりわけ、左翼の教授が教育の現場に戻ったことが、後世に悪影響を与えていると私は思います。
彼らは自分が大学の最高ポストに就いただけではなく、左翼の弟子たちを大勢連れて大学に乗り込みました。
戦後の大学はまるで左翼に占拠されたような状態になってしまったわけです。
中学や高校で自虐史観を教えられ、大学でも左翼教育を受けた学生たちは、過激な学生運動に邁進してしまった。
すべてとんでもない教育のせいです。
戦後、学校の先生になった人の中には、左翼史観で固まった人間が多く、
日教組という左翼団体によって、戦後教育はますます左傾化したことを知っておきましょう。

アメリカは、日清戦争や日露戦争に勝利して権益を拡大していく日本の存在が疎ましく思えてならなかったでしょう。
日本になんとか嫌がらせをしつつ、権益は自国に引っ張りたかった。
アメリカは、何かと日本に難癖をつけてはいじめてきた。
難癖をつけながら、日本が握る権益を横取りしてしまおうと狙っていたのです。
そうした時代が長く続いた結果、真珠湾攻撃に至った。

1900年6月、義和団が武装蜂起しました。
外国人が約4000人も住んでいた北京の公使館区域は、武装した義和団によって取り囲まれてしまいました。
このままでは外国人の命が危ないと、イギリスは日本に軍を派遣するよう要請した。
4度もの要請に応え、ようやく日本は軍を派遣しました。
日米英など8カ国により約2万人の多国籍軍が組まれ、約2か月半かけて義和団の乱が鎮圧されました。
鎮圧後の最終議定書によって日本は北京に軍を駐留できることになりました。
盧溝橋事件当時、北京には日本軍がいましたが、条約に基づき正当な手続きを踏んで駐留していたわけです。
当初2600人だった日本軍は、盧溝橋事件の時点で5600人にしか増えていません。
中国には国民軍塔匪賊、馬賊が数十万人もいたわけですから、5600人程度の軍隊が中国を侵略したとはとても言えない。

1910年の日韓併合以降、日本は朝鮮半島を不当に侵略してきたと言う人がいます。ほんとうでしょうか。
『「植民地朝鮮」の研究』(杉本幹夫著、展転社)という本を読むと、
日韓併合に伴い朝鮮が日本からどんな恩恵を受けたか、詳しく記されています。
例えば日本は、朝鮮の産業振興のために多額の支援をしました。
その結果、日韓併合当時1万2000石(1石=約180リットル)
だった繭の生産量は、1916年には7万6000石まで増え、漁獲高は、734万円から1595万円まで2倍以上になりました。
また当初、わずか100校しかなかった小学校が、日本が教育事業に予算を割いたことにより、
1916年には400校以上に、学生数は1万7000人から6万6000人に増えました。
水害や旱魃など災害への対策費も予算として計上し、災害が起きなかった場合はそのまま積み立てていたため、
多少の災害なら政府に救済を求めるまでもなかったそうです。
朝鮮人の生活状態は決して良くはなかった。貧しく、教育も行き届いていなかった。
そんな朝鮮に日本が手を入れることで、10年もしないうちに良い国になったことがよくわかります。
平和で豊かに暮らしている朝鮮人を、日本が搾取したわけではない。
困窮している朝鮮人を日本が助け、生活水準を向上させたという当時のデータに目を向けるべきです。

自虐史観論者たちは、日本が「創氏改名」によって「金(キム)」さんを
「金村」さんに変えるなど、朝鮮人の名前を強制的に変えさせたと主張しています。
朝鮮は歴史的に、常に中国の属国のような扱いをされてきました。
一方、日本人だとわかったとたんに中国人は敬意を表する。
そこで朝鮮の人は考えた。「俺たちも日本人になってしまえばいい。
日本名さえもらえば、今は威張っている中国人たちも俺たちに頭を下げるはずた。俺たちも日本名をもらおう」。
これが創氏改名の実態です。
実は創氏改名した朝鮮人は100パーセントではありません。
この事実こそ、強制だという主張を退ける証拠でしょう。
実際には、役場に行って改名届けをし、日本名を名乗ることを許可してもらってから、
ようやく朝鮮人は日本名を名乗るきとができたのです。
日本政府の中には、朝鮮人に日本名を与えることに反対した人もたくさんいました。
しかし、朝鮮人は日本名を与えてもらうことを希望している。
朝鮮は日本の一部なのだからいいではないかということで、創氏改名が進められることになりました。
(中略)
日本の歴史教科書には、「日本は朝鮮人に創氏改名を強制した」と書いてあります。
しかし朝鮮名のままでいた人もたくさんいました。
例えば、陸軍士官学校26期の洪思翊(ホン・サイク)陸軍中将は、朝鮮名のままでした。
彼は陸軍中将まで昇進し、戦後はマニラの軍事裁判で処刑されています。
洪思翊中将より1期後輩の金錫源(キム・ソグォン)大佐も、
創氏改名はしていません。軍部は彼らが朝鮮名のままでもいいと認めていたわけです。
韓国の李王朝最後の殿下である陸軍士官学校29期生の李垠(イ・ウン)殿下は、
昭和天皇のお妃候補の一人でもあった梨本宮方子(なしもとのみやまさこ)妃殿下と結婚しています。
お二人の結婚に際し、日本政府は天皇家の次に予算をかけて処遇しました。
宮内省はお二人のために、1930年に新居を建設しています。
その新居が、現在の赤坂プリンスホテル旧館です。日本政府がいかに李垠殿下を手厚く遇したかわかるでしょう。
日本が李王朝をつぶすつもりであれば、わざわざそこまで厚遇することは絶対にありません。
こうした史実を見ても、日本が朝鮮を植民地化して搾取したわけではないことがよくわかります。
(中略)
自分たちが1億円持っていて相手が100万円しかなくても、
「お前は半分の50万円を寄越せ」と金持ちの側が言っていた。
それが戦前の植民地主義です。しかし日本は、1990年以降西ドイツが行ったように、
日本から持ち出しをしながら満州や朝鮮の人々の生活水準を向上させてあげていたのです。
戦前の日本を、欧米列強の帝国主義運動と同列に論じることはできません。
日本のやり方は、欧米列強とは正反対だったのです。
朝鮮半島でも満州でも、日本の統治下で人口は激増しました。生活が貧しく残虐行為が行われていれば、
人口が増えることなど絶対にない。創氏改名を強制して無理やり日本人が搾取しているような状況で、
現地の人たちが豊かな生活を送れるわけはありません。
繰り返しになりますが、創氏改名するかどうかは、朝鮮人本人の希望に委ねられていたのです。

戦後、日本はGHQの占領下にありました。
国際法上、日本の戦争はサンフランシスコ講和条約の発効(1952年4月28日)まで終わっていなかった。
戦闘は45年8月15日に終わったわけですが、占領行政が続いた52年4月28日まで、
国際法上はまだ戦闘が継続している状態だったわけです。占領行政下において、占領国は被占領国に対して
恒久法を強制してはならないと国際法で定められています。実際はどうだったのでしょうか。
GHQは占領行政下で、憲法や教育基本法を改正しました。
さらに教育勅語を廃止し、国家神道を廃止した。これらはすべて国際法違反です。
(中略)
大日本帝国憲法下の時代は、非常に悪かったかのように言われています。そんな時代に戻れは、
また戦争が起きて大変なことになると言う人がいますが、決してそんなことはありません。
「戦前の日本は悪かった」という刷りこみにとらわれる必要はない。

GHQ最高司令官として日本占領に当たったマッカーサーは、朝鮮戦争の司令官の任にも就いています。
彼は朝鮮戦争の難しさを知り、原子爆弾の使用を主張しました。
そのためトルーマン大統領と対立し、司令官を解任されています。
マッカーサーはアメリカへ帰国し、上院の軍事外交合同委員会で、
大東亜戦争について次のような重要な証言をしています(1951年5月3日)。
≪もしこれらの原料【=綿や羊毛、石油や錫、ゴムなど】の供給を断ち切られたら、
1000万から1200万の失業者が発生するであろうことを彼ら【=日本】は恐れていました。
したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。≫
(邦訳は小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明』講談社学術文庫)
日本が大東亜戦争を戦ったのは、主として安全保障のためである。
東京裁判を開かせた張本人であるマッカーサーが、そう言っているわけです。

1945年10月24日、国際連合が発足しました。48年12月10日には、国連総会で世界人権宣言が採択されています。
第一次世界大戦後、日本はパリ講和会議で人種差別条項の撤廃を主張しています。
ところが日本の主張は、世界から一笑に付されてしまいました。
もし日本が大東亜戦争を大きく戦わなければ、
世界人権宣言に第2条(※)のような文言が加えられたか怪しいものです。
白人国家による有色人種の支配が今でも続いていたかもしれません。
歴史を見れば、勝者が自ら敗者に譲歩することはありえないのです。
白人国家は450年にわたり、有色人種の国家を侵略してきました。日本は侵略される側です。
ところが、日本が白人国家を迎え撃つために戦ったことが、
東京裁判以降の占領行政の中で「侵略」と位置づけられてしまった。
日本は戦前から「五族協和」を唱えていました。日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人の
五族が、同じ地域でみんな仲良く暮らしましょうと。
アメリカは「自分たちが日本に民主主義を教えた」と言っているわけですが、
日本は戦前から立派な民主主義国でした。アメリカで公民権法が制定され、
黒人が選挙権を得たのは1964年。つまり東京オリンピックの年です。


※世界人権宣言 第2条
1すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地
2さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、
又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、
その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。