陛下 初等科時代

平成皇室論 橋本明 朝日新聞出版2009年7月

陛下と私が学習院初等科に入学したとき、山梨勝之進海軍大将が学習院院長。
前職の十六代院長野村吉三郎は駐米大使に転出していった。
昭和15(1940)年春、級友は東組西組合計67人だ。六年間を半分ずつ東西に分け、
常時東組にいることになった明仁親王と3年はご一緒するという工夫がなされていた。
私は東組だった。親王は車を使わず、赤坂御用地内東宮仮御所から徒歩で離宮近くを通り
権田原から四谷をつなぐ道路を渡り初等科東にあった小門から入って通学した。
ランドセルを背負い、短パンに赤線で縁取った海軍式制服を着用して。
警備などはほとんど無く、東宮傅育官一人が付くだけ。校庭を斜めに突っ切って来る具合だった。
教室に入ると前門のオオカミは秋山幹主幹、鈴木弘一国語教授であり、
後門のトラは傅育官(東園基文、村井長正ら)だった。常にはさまれて勉強した。
姿勢が悪いと彼らは遠慮会釈なく宮の背中を叩いた。
東組は玄関上の貴賓室隣にあり、東側奥に傅育官用控え室が配されていた。
初等科を特徴付けた精神面の鍛え方に「教学聖訓」と「科訓」がある。
軍人勅諭、教育勅語、学習院に賜る令旨などを詰め込んだ和綴じの文書が「教学聖訓」。
ほかに乃木希典が遺した不文律の教え「科訓」が存在した。
乃木は質実剛健を旨とする教育方針を貫いた武人である。
日露戦争で旅順陥落直前、無為に数万の兵士をあの世に送った直情径行の無策将軍。
凱旋後明治天皇に詫びを乞い、ご大喪に際して妻と共に殉死した陸軍大将。
生前天皇から学習院で皇孫裕仁親王の初等科教育を任され、
在職中実行した諸々の言辞が科訓の内容をなしている。
「寒いときには暑いと思え」「破れた着物を着るのは良くないが、つくろってあれば恥じることはない」
といった教えから、一日を登校、在校、帰途、家庭に分け、あるべき言動を記してある。
「先生に会ったならば大きな声でおはようと申し上げよ」
「集合時間が決まったら遅くとも五分前に到着せよ」などなど。
山梨はわれわれ級友を皇太子が送る生活圏の一つとみなし、
東京都四谷仲町に新築となった鉄筋コンクリート三階建て校舎で
「厳格を旨とし、一般学生と差別せざること」を大方針として明仁親王の基本教育とした。
戦争中のこととて、学校行事としての見学先は富国強兵策に沿った産業、軍事施設が多く、
ときたま新宿御苑で豚汁をすすりながら行進するなどもあった。時局暗転に応じて学童疎開が始まる前、
初等科四年生の夏は慣例に従い静岡県沼津市桃郷の遊泳場で一週間の集団生活を送り、
皇太子も積極的に参加した。
昭和19(1944)年、五年生の春、われわれはこの遊泳場に疎開し、サイパン陥落まで滞在した。
海軍中尉で戦艦三笠に座乗、日本海海戦に参戦した山梨が青空教室よろしく敵前回頭を敢行して
バルチック艦隊を葬った海戦の模様を講義するなど、子どもらは手に汗を握る臨戦感覚を味わったりした。
サイパン玉砕後は一時親元に帰り、9月初め、上野駅に集合して栃木県の日光金谷ホテルに再疎開している。
非常時の暮らしを共にするわれわれは同じ釜の飯を食った仲間となる。
強烈な靱帯で結ばれ、友情を育み、生涯の友となる基礎を築いたのだった。