宮中で執り行われる祭

大事な日は元日、穀霊の「死と生」を演じる冬至の日。
冬至の日には夏にどうか豊作をと願うタマフリの祭りを行う。
新嘗祭の前日に鎮魂(たまふり)という神祇令を挙げるが、
岩屋に隠れた陽の神を誘い出す儀式であって、一般にいいならわされている「一陽来復」
つまり日の神が再生し、復活する祈りの場そのものである。

宮中で拍手する所作が登場するのは新嘗祭の前日、天皇皇后、皇太子皇太子妃の長寿安泰を祈る鎮魂祭だけ。
場所は綾綺殿。「やひらで」という八開手のことを指す八度の拍手をする。
長さはほぼ十分間。陛下がお告文あるいは御拝のとき
ジャラジャラと十センチくらいの金色の鈴を何十個と紐でくくったものを内掌典が振る。
振っている間に降神があり、御祭典を挙げる。
御鈴が鳴っている間、陛下はずっと平伏したままだ。
こうした複雑な手順を要する宮中祭祀は陛下の日常の一部となっている。
平成21(2009)年を節目としてご高齢の両陛下の負担の軽減がなされるまで、
年間三十数回の祭祀を執り行ってきた。
それはしばしば早朝・深夜におよぶ。いわゆるマニュアルのようなものはない。
天皇から皇太子へと見よう見まねで伝えられる所作である。
旬祭は一日、十一日、二十一日の日に行われるが一日は御直拝、他は侍従による代拝。
平成21(2009)年に入り、陛下の御直拝は五月一日、十月一日のみになるとの発表が宮内庁からあった。
主要な祭祀には大祭と小祭、その他元旦に行われる四方拝などがある。

新嘗祭を始めとする大祭は天皇自ら祭典を挙げるものであり、お告文を奏上される。
皇后、皇太子、同妃は順序に従って内陣で拝礼となる。
今上天皇の誕生日を祝する天長祭などの小祭は掌典長が祭典を行い、陛下がご拝礼になる形である。
原則として天皇と皇太子だけで皇后は出ない。
しかし先祖である歴代天皇の御例祭では皇后、皇太子妃も出席するならわしだ。
小祭で皇后が出ないのは元旦に行われる祭祀、
毎年二月十七日に五穀豊穣を祈って行われる祈年祭くらいという。
陛下が行幸で不在の折など、侍従による代拝は賢所と皇霊殿さらに神殿の順で行われている。
平成20(2008)年3月下旬まではご神体が仮殿に移っていたためモーニングでよかったが、
普段は束帯をまとう。
日供(につく)のお供えは内掌典の役割だ。
次に主要な祭祀の詳細を記す。

《四方拝・歳旦祭》
早朝4時ころ陛下は床を離れ支度に移る。
潔斎のうえ黄櫨染御袍の正装に着替え5時半から始まる四方拝の主役を務める。
場所は神嘉殿南庭。地面に薄く白布をかぶせた板敷きが用意され真薦(まこも)が敷いてある。
御座がある。一双の屏風で囲んである。東京であるから、伊勢神宮を指す南西の方向に少し開けてある。
陛下は着座すると南西に拝礼され、順次右回りに白虎・玄武・青龍・朱雀と四方を拝する。
各拝礼とも両段再拝(四度拝むこと)と丁重なお姿。
皇后は御所で同じ時間帯を陛下への気遣いと祈りと共に過ごされる。

去年」(こぞ)の星宿せる空に年明けて歳旦祭に君いでたまふ
神まつる昔の手ぶり守らむと旬祭(しゅんさい)に発(た)たす君をかしこむ
やがて出づる日を待ちをればこの年の序章のごとく空は明けゆく
新嘗(しんじょう)のみ祭り果てて還ります君のみ衣夜気冷えびえし

このように皇后はご出発を送り、一人静かに待ち、冷え冷えとした天皇を迎える。
四方拝が終わってすぐ歳旦祭となり陛下は賢所に向かい、皇霊殿・神殿と拝礼する。
皇太子が共になさる。綾綺殿に戻ってお召し替えとなる。
御所で「晴れの御膳」に箸を立て、元日の諸行事に対応して行く。

《節折(よおり)・大祓》
6月30日と12月31日には節折が行われる。これは皇太子妃まで含む親族のお祓い。
まず天皇お一人が正殿竹の間に立たれる。午後2時、掌典長が一拝して退く。
天皇の御衣御贖物(みあがもの)ふたつがあらかじめ卓上に用意されて置いてある。
絹製で白の荒世(あらよ)と紅の和世(にごよ)があり、それぞれ柳筥(やなぎばこ)に納めてある。
最初に行われるのは「荒世の儀」。
侍従が荒世の衣を納めた柳筥を捧持して御前に進み、うずくまり蓋を開く。
包み紙を開けて捧げ出ると天皇が息をかける。侍従が天皇の息がかかった衣を元に納めて退室、掌典に渡す。
掌典長が御麻(みぬさ)という紅白の絹をつけた榊を侍従に渡す。侍従がそれを天皇に捧呈する。
天皇は御麻を執り、左右左と自ら祓い、侍従に渡す、さらに掌典に渡す。
次に掌典がお竹を一本献進する。侍従から侍従に渡されたこの細い篠竹で、天皇の背後にて頭上の背を測る。
硯から筆を執って印をつける。先の侍従に返す。
次いで竹二本の一本で肩から下までを測り、三番目も二本の竹で横に伸ばした背筋中央から指先までを測る。
四番目は腰の下を、五番目は膝の下を測り、印をつける、それぞれの印のところを折るので「節折」という。
それから侍従が差し出した素焼きの壺に天皇が息を吹き入れて荒世の儀が終わる。
続いて「和世の儀」となる。御衣が異なるだけで所作は「荒世の儀」とまったく同じだ。
節折を終えた御衣は唐櫃(からびつ)に納められ、賢所構内神嘉殿の大祓の式場に運ばれる。
皇后以下は天皇の息がかかった御衣を頂戴して、それでお祓いをする。
皇后、東宮、東宮妃の分はそれぞれご自分の衣を一つだけ、
あらかじめ和世の儀のために用意しておき、天皇の御衣と同じ卓上に置いておく。
この儀には皇族を代表するお一方の着座を伴う。その日に元気な方であればどなたでもいい。
最近は秋篠宮文仁親王が務めておられる。「祓いやれと宣(の)る」という締めくくりで
参列者を国民全体に見立てて大祓の儀式が終わる。
すべては従来隅田川に流すのだが、河川法もあり、いまでは皇居内のお濠に投棄している。

《大祭》
大祭には1月3日に国家国民の繁栄を願う「元始祭」、
春分の日に行われる「春季皇霊祭」、秋分の日に行われる「秋季皇霊祭」、
10月17日、新穀を皇祖ら神々に供える「神嘗祭」などがある。
「神嘗祭」では陛下が伊勢神宮を遥拝。宮中では午前から神嘉殿南側廊下の殿上で行われる。
賢所に進みご拝礼、お告文があり、お鈴の儀を挙げる。皇后、東宮、東宮妃が続いて拝礼する。
もっとも重要な大祭は天皇が新穀を神々に供え自らも食する「新嘗祭」である。
11月23日に神嘉殿内部に御神座、御寝座、陛下御座を設けて行われる。
御座の前には御食薦(おんしょくせん)(みけこも)を置く。
その上に葛筥(くずばこ)、鮮物筥(なまものばこ)、干物筥(からものばこ)、
御菓子筥と汁ものが出る。
陛下はお手水を済ませると葛筥を受け取り、蓋を開けて小筥を取り出して采女に渡す。
采女が密に編まれた神食薦に供える。
采女という女性は正式には四人いて、一人が陪膳、もう一人が後取(しんどり)。
二人は女官で殿上にて務めを果たし、後の二人は女嬬と身分が低く、
働く内容も神饌(しんせん)や脂燭(ししょく)を東の隔殿まで運んでくる役割だ。
天皇が采女二人と御直会をしている間、皇太子は西の隔殿北側に設けられた座に座っている。
東宮大夫の先導で南廂の中央に設けてある拝座から御正殿に向かって拝む。これまでを「夕の儀」という。
さらに午後11時から「暁の儀」が同じように始まる。
御寝座は八重畳というごわごわした分厚い畳表様のものを重ねて敷いてあり、一畳より大きい。
そばに沓箱と麦藁を巻いたような形のものが用意されてある。
こうした備えは天皇即位に沿ってあげられる大嘗祭と基本的には同じである。皇后、皇太子妃の参列はない。
この「暁の儀」も平成21(2009)年からの公務・祭祀の見直しに伴い、時間を限ってのものになるという。
「先帝祭」と「神武天皇祭」の晩には皇霊殿御神楽がある。
天皇拝礼のあと午後6時からお神楽が始まり終わるのは12時を過ぎる。
昭和天皇祭は1月7日だからいずれも極寒の中の儀式となる。
新嘗祭で供える米は全国から献納される。陛下お手植えの収穫米も供えられる。
指定された地方ごとに米一人、粟一人の献納者が選ばれ、精米は一升、精粟は五合と献じる量が決まっている。
献納者は両陛下、東宮両殿下からお会釈を賜る。
大嘗祭については前に記したが、天皇の式服は新嘗祭のときと同じように純白生絹(すずし)の装束だ。

《小祭》
先帝、神武天皇の式年祭は大祭だが、その他の歴代天皇の式年祭は小祭りである。
南北朝で格差や差別は認められない。各天皇の位牌めいたものがあるのかどうか不明だが、
皇霊殿には大きな唐櫃が置いてありご神体が入っていると聞く。式年祭に先立って
天皇は歴史家を召し、該当天皇の事蹟について進講を聞いている。
時にニュースとして報道されるが、東宮ご夫妻にも声がかかる。
天皇と同年輩のわれわれは歴代天皇名を思い出すとか、
記憶の底に沈殿している文章が浮かび上がるなどの現象を共有している。
トヨアシハラノ チイホアキノミズホノクニハなどである。
天照大神はなぜか孫を地上に送った。送り先は豊葦原の千五百秋の瑞穂の国。
農業盛んな美しい土地である。ニニギノミコトといわれる。
現代語に直すと―。
「たくさん豊かに稲穂がみのる葦原のナカツクニは、
アマテラスオオミカミの子孫が国主として統治なさるべき土地である。
汝ニニギノミコトよ、下界に下り、その国を支配せよ。
さ、でかけよ。天の日嗣(皇統)は天地とともに窮ることはないからだ」
ついでだが、この言葉から天壌無窮とか天長地久といった言葉が生まれている。
父つまり大神の子だった天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)をさしおいて、
天孫降臨となったニニギノミコトに父親は鏡を手渡しただけだった。
「吾が児、この宝鏡を視まさんこと、まさに吾を視るがごとくすべし」
三種の神器はこの八咫鏡(ヤタノカガミ)、天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)、
それに八尺瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)を指し、彼の後裔である神武天皇に伝えられていく。
これらは天皇位の象徴であり、歴代天皇が苦難に打ち克って代々伝えてきた。
鏡は別途鋳造し、宮中賢所の神体となって奉安され、原鏡は伊勢神宮に入っている。
剣は東征の折、火に包まれた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)がこれを振るって脱出に成功、
爾来別名草薙剣(クサナギノツルギ)として熱田神宮に納められた。
新しく作った剣は曲玉とともに宮中にある。
昭和天皇は三種神器を守り、日本人の種を残す目的で戦争終結を決意した。
剣璽動座(けんじどうざ)という名称は天皇が移動するたびに神器も移動するという意味であり、
普段は御所ご寝所隣の六畳の間ほどの部屋に袱紗で覆われて置かれている。
こうしてみてくると、陰陽二元の立場を濃厚に伝える宮中祭祀が主として豊かな農耕を期待し、
安定した環境の中で五穀豊穣を実現するために捧げられていると知る。
農業振興はとりもなおさず食べるという国民の欲求を満たす目標であるから、天皇は平和を祈り、
国民の幸福を願う務めを伝統的に背負ってこられた。明治維新による近代化の激変、
天皇元首制を経てもこうした基本的な柱はいささかの影響も受けず、連綿と伝わってきた。
伝えたのはほかでもない、天皇ご自身である。
鉄砲や軍艦に鎧われても、天皇は武神とはほど遠く、平和な中での営みを守る穀霊神であったことを知るのである。
井上辰雄教授が指摘するように、太陽の運行を軸に月を読み、
耕作・植え付けと育成、収穫を律してきた陰陽の定めに特徴的な精神は、死と再生の輪廻ではなかったろうか。
春を待って厳しい冬に耐える、仲冬の卯に大嘗祭を催す、
こうしたもろもろの姿勢は一陽来復を信じる素直さに満ちているように感じられる。

(平成皇室論 橋本明 朝日新聞出版2009年7月より)