大正天皇


明治四十五(1912)年七月二十九日、明治天皇は崩御され、昭宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王は践祚した。
新たな元号は大正と決まった。
大正天皇はいつも病にとりつかれていた。本当に成人できるか、明治天皇は悩み続けた。
二十四年間の皇太子時代に公爵九条道孝四女節子(さだこ)と結婚したが、健康がおぼつかないため
明治三十二(1899)年八月の内定から発表はしばらく伏せられ、結婚は翌年春五月となった。
明治天皇のご大喪儀は東京・青山葬場殿で挙行された。
日露戦争下、旅順郊外の二百三高地であまたの兵士を失った陸軍大将乃木希典は八瀬童子五十人が
轜車(じしゃ)に寄り添う葬列が宮城を離れたころ、自宅にて礼装をまとい軍刀で割腹し、
頸部を貫いて殉死した。妻静子も左胸を短刀で刺し貫いて夫の後を追った。
(中略)
明治天皇の亡骸を納めた霊柩車は九月十四日特別列車で京都び運ばれ、祭場殿で葬送の全てを終えた。
大正天皇と貞明皇后は宮中の側室制度を実質上、廃した。
百姓家で健康増進を図り黒姫さまとまでいわれた貞明皇后が頑健な体を信じ、恃みとした現れだったかもしれない。
幼時病気がちだった大正天皇だが、乗馬を良くし、相撲に興じた。
皇子にも恵まれ、皇太子時代には明治三十四(1901)年四月二十九日ご誕生の皇孫裕仁親王を筆頭に
秩父宮雍仁(やすひと)、高松宮宣仁の三皇子が、即位後には三笠宮崇仁(たかひと)親王が生まれた。
大正天皇は皇子と遊ぶのが大好きだったという。
皇太子時代に韓国訪問ができたほど健康だった天皇が、具合が悪くなったのはその後である。

大礼服ご着装を好まれた大正天皇は大隈重信(外相・首相・早大総長)を寵臣として遇するあまり、
元老山県有朋を慨嘆させたことで知られる。天皇としての激務が合わなかったのか、
帝国議会開院式で勅書を巻いて望遠鏡として議場を眺めたとの風評が広がるなど奇矯のお振る舞いが多くなり、
やがて栃木県日光に建てた田母澤御用邸にひきこもるなど療養生活に入っていく。
大正三(1914)年、裕仁親王のために東宮御学問所が開かれた。総裁は東郷平八郎海軍元帥、
御用掛となった杉浦重剛は常にフロックコートを着用して週二回倫理学を講じた。
御学問所は高輪東宮仮御所内に設けられ、東宮大夫浜尾新(前東京帝大総長)が副総裁、
四人の評議員、幹事、御用掛という構成だった。
当時、皇太子に関する事務を行う部局は東宮職と呼ばれ、側近として東宮大夫、東宮侍従長、
東宮侍従、東宮武官長などが仕えていた。また東宮御所詰に侍医、武官がいた。
御学問所開設期に学習院初等科を修了した四十二人から松平直国、久松完孝、南部信鎮(のちの松平直鎮)、
大迫寅彦(のちの永積寅彦)、堤経長の五人が選ばれて裕仁親王と起居をともにした。
中等科一年生に相当し、学籍を学習院に置く形だった。こういう方々を「ご学友」と呼ぶ。
宮家でいうと雍仁親王(秩父宮)、宣仁親王(高松宮)にもこういう「ご学友」がおられ、
崇仁親王(三笠宮)にご学友はいない。単に学習院で机を並べたわれわれは「同級生」に過ぎず、
マスコミが勝手にご学友と呼んできただけだ。
いずれにしても明治天皇がいかに皇孫殿下に期待をかけたか、御学問所開設は物語っているといえよう。

大正四(1915)年十一月十日、戦時下の即位大礼が京都で挙げられた。
明治42(1909)年に公布された皇室令第一号登極令に基づく初めての大典だった。
紫宸殿に設置された高御座の東に御帳台を置き、皇后が参列する様式は従来にない新例であった。
但し貞明皇后は三笠宮出産を翌月に控えており、京都にはいらっしゃらなかった。
大正天皇の即位は昭憲皇太后崩御のためまるまる一年遅れたことを追記しておこう。
両陛下おそろいならばこうなるはず…という形式を重んじたもので、
明治天皇に続いて大正天皇もお一人で即位大礼に臨まれた。

大正九(1920)年ごろになると天皇の病勢が進み執政がいよいよ困難となり、大正十(1921)年
六カ月の外遊を果たして帰国した皇太子裕仁親王が十一月二十五日摂政の地位に就く。
この後、大正十二(1923)年九月一日午前十一時五十八分、関東大震災が南関東圏を襲った。
死者行方不明者十万人以上、二十万以上の住宅が焼失した。
このとき裕仁親王は摂政として表宮殿で執務されていた。
加藤友三郎首相が八月二十四日に急逝し、首相の座は不在だった。
したがって当面した仕事は首班指名した山本権兵衛海軍大将による第二次山本内閣の組閣の進捗を見守ることだった。
同年十二月二十七日、帝国議会開院式当日、摂政宮座乗の車が虎の門を通過中に狙撃されるという事件が起きた。
犯人難波大助は死刑となったが、ソ連政府の出現とドイツ帝政の崩壊に刺激され、
社会主義、無政府主義の思考に傾き、罪を犯したものである。
虎の門事件の発生は、大正時代という特異なルーズ感覚あふれる世相を反映した無警備状態の犯罪といわれる。
当時の宮内省には皇族と国民との距離を縮め警備を軽微に抑える方針があったように思われる。
しかしこうしたデモクラティックな皇室戦略も一時的なもので、虎の門事件によって再び警備は厳しくなる。
第一次世界大戦後、世界列強に並んだという意識が天皇の地位を国及び国民の長、
神聖不可侵とする方向に後押ししたともいえるだろう。
大正十五(1926)年十二月二十五日、大正天皇は葉山御用邸で亡くなった。
四十七歳という若さだった。摂政として日本の頂点に立って五年、経験を積んだ裕仁親王は御用邸で即時践祚した。
昭和天皇の即位の礼は昭和三(1928)年十一月十日、また大嘗祭が十四日京都御所で行われた。

(平成皇室論 橋本明 朝日新聞出版2009年7月)