幕末維新から平成、そして未来へ−近現代史と皇室を考える

【彰往考来 新時代のヒストリア】幕末維新から平成、そして未来へ−
近現代史と皇室を考える 所功・京都産業大名誉教授(1)
2019.4.2 10:00
歴史(往事・往時)を彰(あき)らかにすることによって新時代(未来)を考える−。
「平成」から「令和」という歴史の転換点を迎えた現代こそ、
こうした「彰往考来(しょうおうこうらい)」(※1)が求められるであろう。
その最初の試みとして、皇室史の第一人者である所功・京都産業大学名誉教授に
明治から平成にいたる時代と歴代天皇や皇室、
そしてファミリーヒストリーについて語ってもらった。(編集委員 関厚夫)

◆「万機公論(ばんきこうろん)に決すべし」 戦前と戦後をつなぐ五箇条の御誓文
大化の改新・建武中興(新政)・明治維新は「日本史上の三大改革」と言われています。
昨年は「明治150年」という節目でしたが、残念だったのは明治の初めに掲げられた五箇条の御誓文(※2)が
あまり注目されなかったことです。
「広く会議を興し、万機公論に決すべし」をはじめとする五箇条の御誓文は単に明治元(1868)年3月、
明治天皇が国是(国家の基本方針)である5カ条の順守を天地神明に誓約されたのみならず、
新政府の副総裁だった三条実美以下、総勢七百数十人の文武百官らが一人一人、
「この御誓文を命がけで実行します」という決意を示す誓約の署名をしています。
それゆえ従来は260にも分かれていた諸藩が一つにまとまり、
翌年の版籍奉還、そして廃藩置県(明治4年)という近代的統一国家をつくる大前提が整いました。
その意義はいくら強調してもしすぎることがないほど重要だと考えています。
しかも、「天皇人間宣言」の通称でしられる昭和21(1946)年元日に公表された
「新日本建設に関する詔書」は、昭和天皇のご意向により五箇条の御誓文が冒頭に掲げられ、
日本は敗戦・占領下にあるけれども、誓いを新たにして
「このご趣旨にのっとり、新日本を建設すべし」などと述べられています。
つまり戦後の日本は五箇条の御誓文を新国是として再出発したといえるのです。

◆故郷・岐阜と「ご一新」
〈司馬遼太郎の短編に『美濃浪人』という佳作がある。主人公の志士、所郁太郎は西濃(岐阜県南西部)出身で、
適塾で学んだ蘭方医でもあった。幕末長州藩の内紛で襲撃され、瀕死だった後の顕官、
井上馨の一命を救ったことでしられる。しかし、まもなく病に倒れ、“無名の志士”のまま、数え歳28で生涯を終える。
郁太郎(旧姓・矢橋)の養子先の所家は、所さんの実家の隣町にあたる現在の岐阜県大野町にある〉
お国自慢の一つですが、西濃は江戸時代から非常に教育熱心です。
とくに大垣近辺は明治中期以降、数少ない博士号取得者を輩出したため「博士の町」とも呼ばれていました。
また、所姓はところどころにいるのですが(笑)、郁太郎も、長生きをすれば大きな働きをしたかもしれません。
故郷の西濃は幕末期、譜代大名の大垣藩(戸田氏)領や御三家の一つの尾張藩領、
それに天領(幕府の直轄地)などがモザイクのように入り組んでいました。
わが家は平凡な農家ですが、江戸時代の庶民がすごいと思うのは、かなり読み書きそろばんができたことです。
10年ほど前に仏壇を整理していたら、幕末のころに書かれた上手な手紙をみつけました。
なんと、それは恋文でした(笑)。
少し横道にそれましたが、私の故郷にとっても明治維新は大きな変革でした。
幕末まではすぐ隣の地区でも天領か尾張藩領か、あるいは大垣藩領かどうかで意識が異なり、
お互いに張り合ったり争ったりしたことが少なくなかったようです。
それが版籍奉還や廃藩置県によって解消されるようになったのです。

◆近代国家建設を可能にした歴代天皇と「帝王教育」の担い手たち
その後、明治10年の西南戦争を乗り越え、22年2月11日には欽定の大日本帝国憲法が公布され、
その施行とともに翌23年11月、帝国議会が開設されました。
このようにしてわが国は、天皇を中心として全国民が一致協力するという「君民一体の国柄」を堅持しながら、
西洋に学んだ立憲君主政体のもとで三権が機能する近代国家を構築しました。
やがて朝鮮半島をめぐる対立から日清戦争(明治27〜28年)や
日露戦争(同37〜38年)が起こったさいには政・軍・民が一体となって戦い抜き、
清とロシアという2つの大国に勝利をおさめました。特に日露戦争は長引けば危ういところでしたが、
外交的に英米などを味方にして奇跡的な勝利を実現したのです。
その結果、白人絶対であった欧米の主要国も植民地化されていた有色人種の国々も
日本を評価し、敬意を払うに至りました。
これらのことを可能にしたのは、近代を迎えたわが国に数多くの人材がいたからです。
しかも、その中核に明治天皇という格別な精神的リーダーがおられた、ということが非常に大きかったと思われます。
大和朝廷を中心とする統一国家の形成以降、隋・唐に学んだ律令体制のもと、
名門の貴族や武家が政治・軍事の実務を運用し、そのうえに伝統的な権威をもつ天皇が
一貫して全体を統合するという日本的なあり方が続いてきました。
日本の近現代はその延長線上に形成されてきたのです。
その中心におられる天皇は、2千年来の歴史を受け継いでこられた皇統のご子孫ですから、
一般とは異なる資質や伝統を備えておられます。
しかも同時に人間であられますから、幼少期より多くの教育を受けられます。
明治から戦後に至るまで、非常に優れた「帝王学」の指導者がいました。
立派な天皇の周辺には優れた奉仕者がおり、いろんなかたちでお導きしてきたのです。
明治天皇についていえば、西郷隆盛や山岡鉄舟をはじめとする側近たちが帝王教育に渾身の努力をしました。
その明治天皇に信任され、昭和天皇にも大きな影響を与えたのが後年、
学習院院長を務めた陸軍大将の乃木希典(のぎ・まれすけ)です。

 ※1 彰往考来 『春秋左氏伝』の研究者としてもしられる
中国西晋の武将・学者、杜預(222〜84)の著書にある言葉。
「黄門さま」こと水戸藩主の徳川光圀が『大日本史』を編集するために開設した彰考館は
この言葉にちなんで命名されている。
 ※2 五箇条の御誓文全文 一、広く会議を興し、万機公論に決すべし 
一、上下心を一にして盛(さかん)に経綸(けいりん)を行うべし 
一、官武一途庶民に至る迄、各(おのおの)其志を遂げ、人心をして倦(うま)ざらしめん事を要す 
一、旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基くべし 
一、智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし(カタカナをひらがな表記にし、句読点を補うなどの編
https://www.sankei.com/life/news/190402/lif1904020003-n1.html


幕末維新から平成、そして未来へ−近現代史と皇室を考える 
所功・京都産業大名誉教授(2)
2019.4.3 10:00
明治時代の中ごろまで、天皇に和漢洋書を講義する「侍講(じこう)」という官職がありました。
この侍講を長期間にわたって務めた元田永孚(ながざね)(※1)が果たした役割は
きわめて大きかったと考えています。
明治天皇と元田の関係は、まさに「水魚の交わり」でした。
元田は「天皇・皇室は別格」という信念のもと、あえて明治天皇に厳しいことも申し上げました。
それでいて厚いご信任を受け、「御手許機密の顧問」として活動したのです。
伊藤博文が大日本帝国憲法の制定や帝国議会の開設というハード面で明治天皇を支えたのに対して、
元田は帝王学というソフト面で支えた忠臣です。

◆昭和天皇と乃木希典
同様に明治天皇のご信任を得たのが陸軍大将の乃木希典(のぎ・まれすけ)です。
乃木が学習院の院長に就任したのは明治40(1907)年1月。
当時5歳で翌年に学習院に入学される皇孫・裕仁親王(後の昭和天皇)の“薫陶役”をも兼ねるという大任でした。
そこで乃木は、裕仁親王が心身ともに強健な立憲君主として成長されるよう尽力しました。
その証しの一つが先日確認された、昭和天皇晩年の直筆歌稿のなかにもみられます。

 雨(の)時は馬車(うまぐるま)にて學校にかよひたること(りしが)のぎはさとせり

この御製(歌稿)には「赤坂御殿より通ふ のぎは乃木大将のこと」というご自身の「説明」が添えられています。
つまり、当時は東宮御所だった赤坂離宮(現・迎賓館)から四谷の学習院初等(学)科に通学するさい、
裕仁親王が晴の日は徒歩で、雨の日は馬車を利用されていたところ、
乃木院長から「雨の日も歩いて通われるように」と諭された、という思い出を詠まれたのです。
昭和天皇は昭和46年のある会見(※2)で、前述の御製に詠まれた出来事について
「(乃木から)質実剛健(が大事だということ)を教えられたと思います」と語っておられます。
その後、晩年の昭和62年に至ってもこの御製のように詠まれました。
小学校時代に乃木から学ばれたことが、いわば一生を貫く精神的な中核をなしていたことがわかります。
乃木や元田のような側近たちは、あえて苦言・諌言を申し上げたことも少なくありません。
それらを天皇は寛大に受け入れられ、道徳的に自らを高めていかれたのです。
以上、申し上げたのは「帝王教育」に関する話ですが、一般庶民にとりましても明治以後に学校教育が普及し、
充実したことはきわめて重要なことだと考えています。
たとえ裕福な家の出身ではなくても、勉強し、努力すればその才能を認めてもらえるような社会が到来したのですから。

◆庶民に根付き、花開く明治以後の学校教育
都会でも田舎でもほとんどの親たちは、苦労を重ねながらも、
自分の子供たちについては小学校だけは通わせようとしました。
立身出世のためという現実的な動機もあったでしょう。
でもそれとともに、教育がないのは人間として恥ずかしい、教育を受けて立派な人間になりたい、
というような意識が日本国中に広がっていたからではないかと思われます。
身内の話ですが、私の父は男2人、女3人という5人きょうだいの長男に生まれました。
田舎の貧しい小作農でしたが、父の両親とも「尋常小学校にだけは行かせたい」と考えていました。
ですので、小学校時代の父の生活は田畑の仕事をしてから学校へ行き、
授業が終わると田畑の仕事に帰ってくる、という日々の繰り返しでした。
それでも1日も学校を休まず、毎年「皆勤賞」をもらったことが父にとって何よりの自慢だったようです。
母も尋常小学校しか出ていませんが、良い先生に恵まれ、
明治天皇やおきさきの昭憲皇太后の御歌(和歌)をたくさんそらんじていました。
また、家計を助けるため住み込みで働いていたときにいろいろな習い事を覚え、かなりの教養を身につけていました。
 遠縁にあたる父と母が見合いの後、結婚に至ったさい、
母は嫁入り道具の一つに漢和辞典を携えてきました。
「嫁ぎ先で手紙を書くときにわからない字があったら恥ずかしいから」というのがその理由だと言っていました。
このように田舎の普通の主婦でも向学心があり、和歌や俳句を詠む豊かな感性を備えていました。
教育というものは学歴云々ではありません。基礎さえしっかりしていれば、
後は置かれた環境に応じて生きる楽しみを養ってゆくことができる。そんな「人間力」だと考えています。
〈所さんの父、久雄さんは大正元(1912)年、母のかなをさんは大正5年生まれ。
久雄さんは尋常小学校を卒業後、青年学校(勤労青年のための定時制の中等教育機関)に通い、
そこでも皆勤を続けた。また家業を継いだ後、農閑期には町工場で働き、生きた技術を身につけたという。
2人は昭和13年に結婚し、16年12月に長男の所さんが誕生した。
しかし、半年後に久雄さんは「赤紙召集」され、戦地へ。
この後、一家3人で再び相見る機会が訪れることはなかった〉
 
 ※1 元田永孚(1818〜91) 熊本藩出身。枢密顧問官。
「日本大百科全書」によると、「明治天皇の君徳輔導に尽力。立憲制に対しては天皇の徳治を、
教育政策では開明派の知的啓蒙に対して仁義忠孝の徳育を主張。(中略)教育勅語の草案作成に参画し、
(中略)明治公教育の理念形成を主導」した。
 ※2 昭和46年4月20日、ご訪問先の松江市での記者会見。
同月29日付の本紙によると、乃木と元帥、東郷平八郎にまつわるエピソードを尋ねられた昭和天皇は、
乃木についてふれた後、「東郷元帥たちからは帝王学の基礎を教えてもらいました。
それぞれ、いまも尊敬しています」と述べられた。
(編集委員 関厚夫)
https://www.sankei.com/life/news/190403/lif1904030003-n1.html


幕末維新から平成、そして未来へ−近現代史と皇室を考える 
所功・京都産業大名誉教授(3)
2019.4.4 10:00

◆「大正」の光と影
大正天皇(1879〜1926年)とその時代に話を移したいと思います。
大正天皇は幼少のころからご病弱でした。
しかし、東宮(皇太子)輔導となった有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王(※1)が
ご健康の回復に尽力されました。そして皇太子時代の大正天皇は、全国各地へ出かけられるようになり、
一般国民と直にふれあって一体感を醸成されました。
これは父君の明治天皇が地方を巡幸されたよりも自由な形で行われました。
今上陛下のお出ましのスタイルの先駆けといえるかもしれません。
明治後期に起きた日露戦争(1904〜05)に勝利した後から大正の終わりごろまで、
日本は表向き景気がよく、社会的にも「大正デモクラシー」のムードが広がりました。
しかし、即位の大礼を終えられたころから大正天皇の病状が進行し、
大正10(1921)年11月に20歳の皇太子、すなわち後の昭和天皇に摂政を委ねられることになります。
関東大震災をはさんでその5年後に大正天皇が崩御するまで、昭和天皇は摂政として立派な働きをされましたが、
非常にお辛かったと思われます。なぜなら、摂政を委ねられた皇太子がその役割を果たすということは、
父君の大正天皇がもはや公務を何もおできにならないことを裏付けることになるからです。
昭和に入りますと、厳しい内外情勢のなか、25歳で即位された昭和天皇は、
大日本帝国憲法が規定する元首として、また陸海軍を統帥する大元帥として非常なご苦労をなさいます。
もちろん近代的な立憲君主制ですから、政治・軍事の実務は臣下に委ねられ、
政府や軍部の決定を承認する無答責(法律上の責任を負わなくてもよいこと)というお立場にありました。
とはいえ、昭和4(1929)年、「張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件」の
真相究明における首相、田中義一の食言を問責されたことで内閣が総辞職した(※2)結果、
国政に混乱を招いてしまったと反省され、ご真意の表明を控えられるようになります。

◆国民がことほぐ「皇太子さまお生まれなつた」
こうしたなかで何よりの朗報は、昭和8年12月23日の「皇太子さま(今上陛下)ご生誕」のニュースです。
昭和天皇と香淳皇后の間には4人の皇女(内親王)が次々と誕生されました。
しかし、皇位を継承できる皇子のご生誕はまだでしたから、この朗報に皇室も国民も大喜びだったようです。
そのころ、私の母(かなをさん)は岐阜市の会社重役方に住み込みで働いていました。
祝砲代わりのサイレンを聴いて飛び出し、みなでちょうちん行列をしたそうです。

〈ご生誕のさい、東京近辺では皇子さまならば祝砲代わりのサイレンは2度、
皇女さまならば1度鳴らされることになっていた。
「日の出だ、日の出に/鳴つた、鳴つた、ポーオ、ポー、/サイレンサイレン、ランラン、チンゴン、
/夜明けの鐘まで。/天皇陛下お喜び、/皆々(みんなみんな)かしは手、
/うれしいな、母さん、/皇太子さま、お生まれなつた。」
北原白秋が作詞した奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』の第一番である。
これに「カチューシャの唄」や「てるてる坊主」でしられる「大衆歌曲の父」の
中山晋平が曲をつけた奉祝歌は国民に愛された。
また与謝野晶子は「新しき光さし出(い)づあなかしこ 東方の主をおん父として」
という和歌でご生誕をことほいだ〉

◆日露戦争後の暗雲
少し話を戻します。わが国は、明治後半の日清戦争と日露戦争では全国民が一体となって戦い、勝利しました。
これを機に産業革命が進み、国際的に高く評価されるようになったことは確かです。
ただ、それによって日本人は一種の錯覚に陥ったのではないか。
つまり、「自分たちは世界の一等国になった」という意識が次第におごりとなり、
たとえば中国やロシアに優越感をもち、彼らを蔑視するような傾向が強まったとみられます。
大正の前半に起きた第一次世界大戦(1914〜18)で
日本は英仏露を中核とする協商国側として参戦しました。
結果、戦勝国の恩恵に浴し、一時的な好景気にわきました。
「にわか成金」という言葉に代表されるようにお金さえもうければよい、
自分さえよければよいという利己主義・刹那主義の風潮が広がりました。
その矢先、昭和に入って世界的な大恐慌に巻き込まれ、国際的に孤立するような道をたどります。
ちなみに、東宮侍従や侍従次長などを歴任した木下道雄氏(1887〜1974)が
残したノートをもとに編集された「側近日誌」が平成元年春に公開されました。
そこに昭和20年8月の終戦当時、日光に疎開されていた皇太子殿下−−
11歳当時の今上陛下がつづられた「八月十五日 新日本の建設」という題の作文が書き写されています。
その作文では、前線で戦った人々や銃後を守った人々の辛苦をねぎらうとともに、
敗戦の原因について「英米の物量が我が国に比べ物にならない程多く、
(中略)科学の力が及ばなかつた」からと冷静に分析されています。
のみならず、「日本人が大正から昭和の初めにかけて国の為よりも私事を思つて自分勝手をした」
ということも敗因として挙げられています。
これを初めて読んだとき、従来そんなことをまったく思ってもみませんでしたから、たいへん驚きました。
このご指摘が意味するところを、私共は直視しなければならないと痛感しています。

 ※1 有栖川宮威仁親王(1862〜1913) 幕末維新と明治前期に活躍した
有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第4王子。有栖川宮家を継承。海軍大将・元帥。
 ※2 昭和3年6月、中華民国陸海軍大元帥の張作霖が関東軍高級参謀、
河本(こうもと)大作大佐の謀略により奉天で爆殺された。
真相が秘匿されるなか、首相の田中義一は当初、軍法会議を開いて関係者を処分する方針を昭和天皇に上奏した。
しかし、結果として真相が明らかになることなどから陸軍や閣僚、与党の政友会幹部らが一致して反対。
このため田中は「警備上の不行き届き」として、より軽い行政処分にとどめるという内容の再上奏を行った。
それに対して昭和天皇は「それでは前と話が違ふではないか、
辞表を出してはどうかと強い語気で云つた」(『昭和天皇独白録』)という。
(編集委員 関厚夫)
https://www.sankei.com/life/news/190404/lif1904040002-n1.html


幕末維新から平成、そして未来へ−近現代史と皇室を考える 
所功・京都産業大名誉教授(4)
2019.4.5 10:00

◆史上の名君
〈昭和天皇崩御から12日後にあたる平成元年1月19日付本紙「正論」欄で、
作家の阿川弘之さんは次のように述べている。
「対米開戦の詔書が天皇裕仁の名前で出されているにもかかわらず、陛下は世界に類い稀な、
二十世紀の名君だったという私の印象には変わりがない。
愚かな臣下どもが、半ば自分をだますようにして、勝てるはずのない無謀のいくさに突入し、
あげ句の果て、徹底的敗北を喫して、全国の都市が焼野原になり、国民は餓え、国土は戦勝国の軍隊に占領された。
その時、占領軍最高司令官のもとへ自ら出向いて行って、
『自分の一身はどうなっても構わない。どうか国民を救ってやってほしい』と懇願した、
そんな帝王が、世界の近代史の上にだれかいただろうか」(※1)
所さんもまた、昭和天皇を「類い稀な二十世紀の名君」と評価する一人である〉

「大東亜戦争」は開戦も終戦も同じ天皇のもとで行われたわけですから、
当然外部からその責任を問われかねません。それをだれよりも自覚しておられたのが昭和天皇ご自身です。
また、法的に立憲君主は無答責(法律上の責任を負わなくてもよいこと)となっていても、
自分には道義的な責任があることを晩年にいたるまで痛感しておられました。
たとえば、昭和61(1986)年の天皇誕生日(4月29日)に
在位60年の祝典が開催されたさいの御製(和歌)の草稿が先日、確認されました。

 國民の祝ひをうけてうれしきもふりかへりみればはづかしきかな
お祝いをしてくれるのは確かにうれしい。しかし、戦争によって多くの命が失われ、
国民が塗炭の苦しみを味わったことを思うと、そのようなお祝いを受けることは恥ずかしく、
自責の念にたえない。昭和天皇のそんな悔恨・痛悔の念がにじみ出ています。

◆戦死した父の「導き」

〈所さんの父、久雄さんは昭和17年7月に「赤紙召集」され、1年後、南太平洋のソロモン諸島で戦死した。
30歳だった。昭和47年夏、30歳の所さんが現地に住む日本人の協力を得て
ジャングルをかきわけて捜索したさい、偶然にも「所」と刻まれた飯ごうのふたを発見した。
さらにその翌日の7月27日朝、わずかに残っていた遺骨を拾い上げた。
「くしくも足かけ30年目の命日だった」という。
「私も人並に教育を受けて、いわゆる合理主義というものを身につけたつもりの人間であるが、
(中略)もしも霊の導きというものがあるならば、このことではないかと思わざるをえない」。
所さんはそう記している〉

小学校を卒業してからも青年学校(勤労青年のための定時制の中等教育機関)に通い、
そこで機械工学の基礎も身につけていたのか、出征先で父は、機関銃など機械類の操作に秀でていた、
と生還した戦友が言っていました。大東亜戦争では兵隊の質が落ちたと言われていますけれど、
名もなき兵士たちが自分がもつ知識や技能の限りを尽くし、まさに命懸けで戦ったことは確かだと思います。
父が戦死したとき、母は26歳、私は1歳半でした。父方の祖父母はすでに他界しており、
いわゆる母子家庭となりましたが、当時、故郷(現・岐阜県揖斐川町)では、
隣近所や親戚、とりわけ母の両親が本当によく助けてくれました。
いまもありがたいと思うのは、お互いに困ったときには助け合うのがまったく当たり前だったことです。
国全体としては大戦に敗れ、占領下に置かれても、昭和天皇は毅然としておられました。
また戦争で傷ついた人々を慰め、励ますため、全国を巡幸しておられます。
占領下にある国民が立ち直るためにできることは何でもしたい、という
強い気持ちをもたれていた昭和天皇は自分を省みず、固い意志で実行に移されたのです。
その結果、多くの国民が勇気づけられ、再建への道を歩み始めることになったわけです。

◆至高の名文「遺児の皆さんへ」との出会い

〈昭和30年、中学2年生の所さんが夏休みに日本遺族会の世話で靖国神社へ参拝したさい、
小冊子を受け取った。そこには「遺児の皆さんへ」の題で小泉信三(※2)の文章がつづられていた。
「身を殺して仁をなすは仁の最も大なるものであるといいます。即(すなわ)ち人を愛し、
人を救うために自分が死ぬということは、最高の愛の行為だということです。
戦死者は特定の人を救うために死んだのではありませんが、日本国民という、
過去から未来に及ぶ同胞の全体のために身を殺したものであって、
その人々に身を殺させた同胞国民としては、その人々とその行為とを忘れては済まないのです。
皆さんのお父さん、私の伜(せがれ)、その他無数の戦死者の死は、このような意味を持つのです。
その人々の死にも拘(かかわ)らず、日本が敗れ、彼等の死を空しくしたのは、
まことに忍びないことですが、貴とい犠牲の価値は、敗戦の故に亡びるものではありません」(※3)〉

戦後、戦没者遺族を戦争協力者として非難するような風潮もありました。
そんななか、小泉先生は遺児の私共を励ましてくださったのです。
小泉先生の最愛の一人息子だった信吉さんは海軍士官となり、戦死されています。
また小泉先生自身、空襲で家を焼かれ、顔と両手にやけどを負い、一時は重篤に陥りました。
しかし、節を変えることなく、占領下に置かれた日本が何とか精神的な独立を回復できるようにと
論壇で活躍されました。そのうえ、昭和24年から東宮御教育常時参与として
皇太子時代の今上陛下の教育に尽力しておられます。その功績については改めて述べたいと思います。

〈前述の小泉の一文は次のように続けられている。
「どうか今後、国民が国を護(まも)るために身を殺さなければならないような事態の起らぬようにしたいものです。
けれども、そういう事態の起らぬ世界の来るのを待ち望むということは、
身を殺して同胞を護ろうとした人々と、その行為の貴とさを忘れるということではありません。
皆さんのお父さんがなされたように、国のために死ぬというのはこういうことなのです」〉

 ※1 『阿川弘之全集』(第18巻=新潮社)では旧仮名遣いで収載され、ごく一部に表現の違いがある。
 ※2 小泉信三 1888〜1966 経済学者。慶應義塾の名塾長。
 ※3 引用はすべて『小泉信三全集 16』(文芸春秋)から。
(編集委員 関厚夫)
https://www.sankei.com/life/news/190405/lif1904050002-n1.html


幕末維新から平成、そして未来へ−近現代史と皇室を考える 
所功・京都産業大名誉教授(5)
2019.4.6 10:00
所さんは故郷(現・岐阜県揖斐川町)の公立小・中学校を経て、
県下でも有数の進学校である県立大垣北高校に入学したが、高校卒業後は就職を考えていた。
しかし、クラス担任から奨学金制度の活用を勧められたことをきっかけに方針を転換。
「授業料の安い国立大で、しかも家から通える範囲なら」という母、かなをさんの意をうけて
名古屋大学文学部を受験し、合格した。通学には往復で5時間あまりかかるなか、
帰路には家庭教師などのアルバイトを続けた〉

◆『風流夢譚(ふうりゅうむたん)』の衝撃

私が名古屋大に入学した昭和35(1960)年春は「60年安保闘争」(※)の真っ最中でした。
民主青年同盟(民青)の指導する学生自治会が授業拒否のストを行い、
大規模なデモにはノンポリの学生も動員されていました。
また彼らは、反米・親ソを連日吹聴しましたので、
「ひょっとしたら日本にも共産革命が起こるのではないか」という懸念がありました。
このような騒然とした世情のなかでさらに衝撃を受けたのが、
それまで良心的な総合雑誌だと思っていた「中央公論」の12月号(この年の11月10日発売)に
『風流夢譚』が掲載されたことでした。

〈『風流夢譚』は『楢山節考』の著者として知られる深沢七郎(1914〜87)の短編小説。
夢の中という設定ながら、「革命の様なこと」が起き、群衆が皇居を占拠。お祭り騒ぎのなか、
当時の皇太子ご夫妻や天皇・皇后両陛下を処刑する−−というセンセーショナルな内容だった。
掲載後、宮内庁は法的措置を検討。批判(一部には「革命への恐怖を語った寓話(ぐうわ)的な文学作品」
として擁護する声もあった)が高まるなか、中央公論社側は編集長が宮内庁に出向いて陳謝した。
宮内庁もこれを受け入れたが、右翼団体は抗議行動を継続。
そして翌36年2月、右翼少年が中央公論社社長方に侵入、家政婦を刺殺し、
夫人に重傷を負わせるテロ事件が起きた。前後して深沢は世間から身を隠し、放浪生活に入った〉

私は学内生協の書店で偶然これを見つけて立ち読みし、がくぜんとしました。
たとえ夢物語とはいえ、現行の憲法に「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と明記される
天皇とご家族を斬殺して嘲笑するような小説が公表される、というのは異常です。もしこれを放置すれば、
やがて本当に天皇制度が抹殺されるような事態になるのではないかという危機感に襲われました。

◆孤軍奮闘
そこでまもなく「皇室の尊厳をお守りする運動」があることを知り、その署名運動に協力しました。
気の小さい田舎者の私がそんなことに参加したのは、高校時代の恩師、稲川誠一先生の影響です。
先生は戦争末期に東大に入り、戦後も東大大学院で日本中世史の研究をしておられましたが、
両親に孝養を尽くすために郷里へ帰られ、ちょうど私の高校入学の年に赴任してこられました。
先生のユニークな授業とご人徳に引かれて私は心底、歴史が好きになりました。
当時は日本教職員組合(日教組)全盛の時代でした。先生は教育正常化のために日教組を脱退し、
彼らから猛烈な非難にさらされましたが、堂々と信念を貫かれ、後には日本教師会の会長も務めておられます。
この稲川先生が「皇室の尊厳をお守りする運動」に奔走され、私にも協力を求められたのです。
私は政治的なことに関わることが嫌いでして、いろんな誘いを受けても断ってきました。
ただ、このときばかりは別でした。学内でも署名活動をしなければならないと思い立ち、
行動に移したところ、たちまち総スカンどころか、罵詈雑言を浴びせられる毎日となりました。
当時の名古屋大は学生運動が盛んで、校舎のあちこちに赤旗が立てられ、
教室ではアジビラがまかれていました。
「天皇制は有害無益どころか、早急に廃止・撲滅すべきである」といった考え方が、
学生自治会のリーダーだけでなく、一般のノンポリ学生にも共有されているようでした。
だから私が「日本の象徴として天皇が続いてゆくためには、皇室の尊厳を守る必要がある」などと言っても、
耳を傾けてくれる人はほとんどいませんでした。

◆皇室観が激変した理由
あれから60年近くたったいま、当時を振り返りますと、隔世の感があります。
天皇・皇室と一般国民の関係が激変したと言っても過言ではありません。
それはなぜか。いろいろな内外情勢の変化が背景に考えられます。
でも何より、60年以上在位された昭和天皇のご人徳とご活動が多くの人々に理解されたこと、
さらに今上陛下が昭和天皇をお手本に「国民統合の象徴」としての務めに全身全霊を注いでこられたこと
−−こうした実績によるところが大きいと思われます。
ですので、いまでは「天皇が皇后とともに大きな役割を果たしておられる」
「われわれにとって重要な存在だ」というような理解をする人の方が圧倒的に多くなっています。

〈所さんは名古屋大学を卒業後、同大大学院に進学する。
そして昭和41年春、文学研究科修士課程(国史学)を修了し、皇學館大学文学部助手に就任した。
皇學館大は明治15(1882)年の神宮皇學館(後に内務省所管の官立専門学校を経て
文部省所管の官立大学に昇格)創設以来の歴史をもつ。
神宮皇學館は昭和21年、連合国軍総司令部(GHQ)から廃学処分を受けたが、
私立皇學館大として37年に再興されていた〉

 ※60年安保闘争 岸信介政権(当時)が、昭和27年に発効した日米安保条約を改定するために、
国会の承認を得ようとしたことに対する反対運動。野党や左派言論人などが主導し、大規模な国会デモやストが行われた。
(編集委員 関厚夫)
https://www.sankei.com/life/news/190406/lif1904060002-n1.html


幕末維新から平成、そして未来へ−近現代史と皇室を考える 
所功・京都産業大名誉教授(6)
2019.4.7 10:00

◆生きた歴史の宝庫・伊勢
昭和41(1966)年春、文学部助手として赴任した皇學館大には
あこがれの日本古代史研究者、田中卓(たかし)教授(のち学長)をはじめ、
国史・国文の大家がたくさんおられました。
またここのキャンパスは故郷・岐阜県に近い三重県の伊勢市にありますから、
週末には帰省して母の手助けをすることもできました。
奉職の3年後に妻(京子さん)とスピード結婚しました。
彼女は京都女子大の史学科を卒業してからソーシャルワーカーの資格を取り、
ある病院に勤務した後、母校の大学院で平安貴族社会の研究をしていました。
ですから、田舎住まいや農作業なんかできないと思っていたところ、むしろ私の実家や故郷に喜んで溶け込み、
母にとって嫁というより実の娘のようになり、そのおかげで私は研究と教育に専念することができました。
妻にはまったく感謝のほかありません。
私の文献的な歴史研究は名古屋大でスタートしましたが、皇學館大に勤めてから
古代以来の伝統を体感することができました。とくに伊勢神宮で昭和48年に行われた第60回式年遷宮は、
数年前の準備段階から完成後にいたるまでの祭儀を継続的に間近で見聞させていただけた。
これは、伝統文化を保存し継承してゆくのに、どれほど多くの知恵と工夫が必要かということを
具体的に学ぶ機会となりました。
しかも、そこで展開される祭儀に用いられる衣装や調度などは、
私の専門とする平安時代の宮廷儀式や行事にきわめて似ています。
ですから、文献史料と伊勢神宮での見聞を照らし合わせることにより、
実によく理解できるようになったと思います。

◆思わぬ転機

〈昭和50年の少し前、所さんに転機が訪れる。
文部省から「初等中等教育局の教科書調査官(社会科)に」との就任要請を受けたのだ〉

文部省からは「ぜひ来てほしい」と言われたのですが、私は穏やかな伊勢に永住するために土地を買った直後でした。
お断りしようと思って田中先生に相談しましたところ、
先生から「ここにいてほしいが、東京へ行って全国を見渡せる研究者になるほうが重要だ」と言われ、
「いばらの道」に進む決意をしました。
いざ東京に出てみますと、確かに田中先生のおっしゃる通りでした。全国から集まる多彩な人々と出会い、
一挙に視野を広げることができました。
ただ、教科書調査官の仕事は、大学の先生や現場の方々が書かれた検定申請用の教科書原稿に
明らかな誤記や著しい偏向などがないかどうかを丹念に調べて審議会に検討材料を提出し、
その判定結果を編著者に伝達することの繰り返しでした。教育的な意義は大きいですが、
研究者としては気分が晴れない毎日でした。
そこで計6年間にわたって小・中・高の社会科検定を2回り担当した後、
昭和56年春、京都産業大学教養部の教授に転出しました。
ところが、その翌年、歴史教科書の「書き換え」をめぐる大騒動が起き、
それにしばらく振り回されることになりました。

◆「教科書書き換え」誤報事件と教科書裁判

〈昭和57年夏、高校教科書検定で文部省が「(中国)華北に侵略」という記述を「進出」に書き換えさせた
−などとマスコミ各社が一斉に報道した。誤報だった。しかし、訂正を出したのは本紙だけだった〉

私にはいまなお、マスコミの人たちに複雑な思いがあります。
もちろん、貴紙が誤報の訂正を出されたことには敬意を表します。
けれども、57年の教科書検定報道については事実と違う内容を各社とも
よく調べもせずにうのみにしてしまいました。
そのうえ、中国や韓国の報道まで利用して一斉に文部省を袋だたきにするという異常な事態に空恐ろしい思いをしました。
あるとき、すでに退官していた私のところに若い記者が来ました。
「文部省による教科書検定の実態を正確に報道したいので詳しく話をしてほしい」と言うので、
応じることにしました。取材は3日間にわたり、双方とも録音を取りました。
ところが、実際の記事をみると、まるきり違う話になっていたのです。
即刻、その記者に抗議をしたところ、「デスクに既定方針があって、それにそった記事となってしまい…」。
そんな弁解を聞いてあきれかえりました。
これ以降、私は一時期マスコミ不信に陥りました。しかしその後、さまざまな出会いを重ね、
「どの社でも現場の人ほど真摯に相手の話を聞き、伝えようとしている。
それに応えて少しでも正確に報道してくれるよう誠意を尽くすほかない」と考えるようになりました。
ただ、私のコメントが掲載されるときには、新聞でも週刊誌でも一字一句を事前チェックすることにしました。
苦い目にあったおかげで少し知恵がついた、ということかもしれません。
ちなみに、私の在任中から続いていた家永三郎先生の教科書裁判(※)には、私も文部省側の証人として出廷しました。
家永先生は日本思想史の大家であり、非常に純粋な方です。
思想的には右でも左でもない自由主義者(リベラリスト)を自認されていました。
しかし、一連の裁判では、反権力闘争の運動グループから支援を受けて、
かなりエキセントリックな主張をかたくなに続けておられました。そんな姿をみて気の毒に感じました。
 ※ 教科書裁判(家永教科書裁判) 家永三郎氏が自著の高校教科書に対する
検定不合格処分や条件付き合格処分は学問の自由や検閲の禁止などに反し、
違憲・違法−−などとして国や文部相を相手取って提訴。計3次にわたり、30年あまりにわたって争われた。
(編集委員 関厚夫)
https://www.sankei.com/life/news/190407/lif1904070002-n1.html 


幕末維新から平成、そして未来へ−近現代史と皇室を考える 
所功・京都産業大名誉教授(7)
2019.4.8 10:00

◆小泉信三の教え
以前、乃木希典(のぎ・まれすけ)の薫陶が昭和天皇に大きな影響を与えた話をしました。
同じことをまもなく譲位される今上陛下について考えますと、
穂積重遠先生(※1)をはじめとしてその「帝王教育」に献身された先生を幾人も挙げることができます。
その代表が昭和24(1949)年に東宮(皇太子)御教育常時参与に就任した小泉信三先生(※2)です。
小泉先生の教育内容については「御進講覚書」や「メモ」などが先年、公開されました。
これらを読んだとき、いくつもの新鮮な驚きがありました。
 まず小泉先生は、世界史を見渡すと、敗戦国では民心が王室から離れるか、
怨嗟(えんさ)の対象となって君主制は終焉するのが通則である
−などとしたうえで「ひとり日本は例外をなし、悲(かなし)むべき敗戦にも拘(かかわ)らず、
民心は皇室をはなれぬのみか、或(ある)意味に於ては
皇室と人民とは却(かえっ)て相近づき相親しむに至ったといふことは、
これは殿下に於て特と御考へにならねばならぬことであると存じます」と問題提起しています。
小泉先生はその“解”として昭和天皇の「御君徳」を挙げます。
昭和天皇は平和を愛好し、学問・芸術を尊重し、天皇としての義務に忠実であり、
人に対する思いやりが深いということを国民は存じ上げていた−−などと説明します。
また、それが「敗戦といふ日本の最大不幸に際しての混乱動揺を
最小限に止(とど)めさせた所以(ゆえん)であると存じます」とも指摘しています。
そのうえで「この事を深くお考へになり、皇太子として、将来の君主としての責任を
御反省になることは殿下の些(いささ)かも怠(おこた)る可(べか)らざる義務であることを
よく御考へにならねばなりませぬ」「殿下の御勉強とは修養とは
日本の明日の国運を左右するものと御承知ありたし」などと結んでいます。
さらに「人の顔を見て話をきくこと、人の顔を見て物を言ふこと」という具体的な心得もあります。
今上陛下が各地にお出ましになったさいには、必ず相手の顔を見ながらその悲しみや苦しみを理解しようと努められ、
その気持ちを受け止めたうえで、相手の心にしみいるような言葉をかけられる。
これは小泉先生の教えの影響であり、すでに昭和天皇がそのお手本でもありました。

◆天皇陛下の「旅」への畏敬
昨年末の会見でもふれておられましたように、ご成婚まもない昭和34年秋、
伊勢湾台風(※3)に襲われた東海地方を見舞われたのが、今上陛下の初めての被災地訪問です。
現地に行って関係者に直接会い、その顔を見ることによって学ばれたことは多いと思われます。
その後の被災地や国内外にわたる「慰霊の旅」は、悲しみ苦しむ人々のもとを訪れ、
その心に寄り添うことの意味と意義を実感としてよく理解されているからこそ、
おできになることではないでしょうか。
明治維新以来150年にわたる日本の近現代史において、ときどきの天皇は重要な役割を果たしてこられました。
その延長線上で、今上陛下が父君の昭和天皇をお手本とされ、
新たに大きな務めを重ねてこられたことには敬服し、感謝するほかありません。
今上陛下は、国民統合の象徴として現に生きている人々だけでなく、
亡くなった人々のためにも真心を尽くしてこられました。
象徴たる天皇は何をすべきか、何ができるかということを常に考えられ、政府と十分に協議をされたうえで、
慎重かつ積極的にその務めを続けられ、はや85歳となられたのです。
明治以来、「終身在位」が原則とされてきました。
けれども、7世紀の半ばから江戸時代までを概観すると、生前に譲位しておられる天皇が多い。
陛下はそういう歴史的な事実をふまえ、高齢化を理由とした譲位のご希望を表明されました。
そして一昨年、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が与野党合意に基づき、
衆参両院で可決され、成立したのです。

◆「平成後」の皇室と日本国憲法

〈歴史的な「御代替わり」は目前に迫っている。
所さんの胸中には、皇室の将来に関する期待と不安が混在しているという〉

実は一昨年12月、私個人として最後の皇居勤労奉仕(※4)に参加し、2日目に東宮御所へ参りました。
そのさい、皇太子殿下から思いがけない激励の言葉を賜りました。また、あの凛とした立ち居振る舞いとともに、
あらゆる人々を包み込むような笑顔を拝見して一同、深い感銘を受けました。
皇太子殿下は、天皇・皇后両陛下や昭和天皇・香淳皇后のご薫陶を受けて育たれました。
また英オックスフォード大学での留学経験などから国際的な広い視野と見識を養われています。
そのすぐれた能力と心やさしいお人柄は、世界からも高く評価されるに違いありません。
明治維新以来150年の間、日本は何度も難しい局面に至りながら、中心に天皇がおられ、
皇室があるおかげで、なんとかそれを乗り越えることができました。
それがいまも続き、これからも続いてゆくという展望をもつことができるのは、
まことにありがたいことだと思います。
とはいえ、このままでは皇室が人数的にやせ細ってしまい、やがて衰微する恐れがないとはいえません。
そこで今日、いろいろな考え方を出すのはよいことです。
何より日本国憲法の第1章(1〜8条)が「天皇」の規定になっている事実に注目する必要があります。
そこには「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるとともに
「皇位は、世襲のもの」と明記されています。
この世襲の具体的なあり方については、2千年来の伝統を大事にしながら
少子高齢化が進む現代と未来にふさわしい改革を加え、近未来に備える必要があると考えています。
(この項終わり)
 ※1 穂積重遠(1883〜1951) 東京帝大教授や最高裁判事などを歴任。
「日本家族法の父」とも称される。
祖父は『論語と算盤(そろばん)』の著書でもしられる実業家、渋沢栄一。
 ※2 小泉信三 本稿第4回参照。
 ※3 伊勢湾台風 高潮による水害などで愛知・三重の両県を中心に
死者・行方不明者が5千人を超えるなど戦後最大の台風被害をもたらした。
 ※4 皇居や赤坂御用地で平日に4日間行われる除草や清掃などのボランティア奉仕。
満15〜75歳の15〜60人で構成される団体が対象(詳細は宮内庁のHP参照)。
(編集委員 関厚夫)
https://www.sankei.com/life/news/190408/lif1904080004-n1.html  
 

 ところ・いさお 昭和16(1941)年12月、岐阜県揖斐川町に生まれる。
41年、名古屋大学大学院文学研究科修士課程(国史学)修了。
慶大大学院法学研究科で法学博士号取得。専門は日本法制文化史。
文部省初等中等教育局教科書調査官や京都産業大学法学部教授、同大日本文化研究所長などを歴任。