新天皇と雅子皇后、初の地方訪問が示す「皇室大変革の予感」

2019.06.01
新天皇と雅子皇后、初の地方訪問が示す「皇室大変革の予感」
二重権力、三重権力が現れる可能性
原 武史

新天皇・皇后の地方公務デビューが、6月2日に愛知県尾張旭市で開催される「第70回全国植樹祭」だ。
この行事から読み解ける「令和流」の天皇像とは、いかなるものなのか?
令和の幕開けに際し、放送大学教授・原武史氏が「象徴天皇」の過去と未来について語る特別インタビュー。
(取材・構成:伊藤達也)

早くも示された「平成流」との違い
徳仁天皇は今回、雅子皇后と共に6月1日に東海道新幹線で愛知県入りし、
あま市の伝統工芸施設を視察。翌日に全国植樹祭の式典に出席した後、
肢体不自由児などの医療・療育施設を視察し、帰京するという日程になっています。
私は改元前から、新天皇として初めての地方訪問がどのようなかたちで行われるか注目していました。
毎年5月ないし6月の植樹祭への出席は、明仁天皇が昭和天皇から引き継いでいた恒例行事ですから、
おそらくそれが初めての地方訪問になると考え、情報収集も行っていました。

その上で、前述の日程が判明したとき、以前から抱えていたある予測に確信を得ました。
つまり、新天皇は、「平成流」をそのまま引き継ぐことはしない――ということです。
まず私が得心したのは、この地方訪問が、1泊2日の日程で行われるという事実についてです。
「平成流」においては、式典への参加を目的とした天皇皇后の地方訪問は、
社会福祉施設などへの訪問とセットであり、それは令和でも引き継がれるようです。
ただし従来であれば、この日程なら2泊3日か3泊4日が通例でした。
例えば明仁天皇の最後の植樹祭訪問としてニュースになった、昨年の第69回ふくしま植樹祭への参加は、
6月9日から11日の3日間で日程が組まれていました。
このときは福島での開催ということもあり、植樹祭の前後には復興住宅への訪問や震災慰霊碑への訪問、
供花などの公務も行っています。福島ゆえに3日間だったわけではなく、
平成の間の植樹祭訪問は、平成元年の徳島開催、平成8年の東京開催、平成23年の和歌山開催を除けば、
すべて3日以上の日程が組まれています。

もちろん、平成になって初めての植樹祭訪問も1泊2日でしたので即断は避けるべきでしょうが、
今回の日程は、新天皇皇后の初めての地方訪問にして、早くも平成との違いを示しているように見えます。
宮内庁はそのことを承知しているからこそ、
5月の発表時に「皇后さまのご負担を考慮した」とわざわざ説明したのです。

明仁天皇と徳仁天皇の「性格の差」
天皇・皇后は6月1日に新幹線で愛知県に入り、2日には中部国際空港から特別機で帰京する予定になっています。
専用車で中部国際空港まで直接行き、羽田空港から再び専用車に乗り、赤坂御所に帰るとすれば、
名古屋から東京まで新幹線に乗るのと比べて、国民の目に触れる機会も自然と限られてきます。
平成に比して、国民に接する時間はきわめて短くなっていると言えるでしょう。

単純に考えれば、その違いは、美智子皇后と雅子皇后の体調面での違いに起因するでしょうし、
もちろん、良し悪しを判断すべき性質のものでもありません。
ただし、令和においては「平成流」がそのまま受け継がれるわけではないであろう、
ということは確かに言えるのです。

もうひとつ私が着目しているのは、明仁天皇と徳仁天皇との「性格の違い」です。
明仁天皇の言動は、倫理的で実直です。
「平成流」の天皇像が、国民の敬意によって裏付けられていたのは、こうした性格ゆえもあるでしょう。
ただ、ユーモアがある印象は薄い。
口数の少なかった昭和天皇ですら、園遊会で柔道家の山下泰裕氏に
「柔道は骨が折れますか」と尋ねるようなユーモアがありましたが、
明仁天皇にはそうしたエピソードがあまりありません。
また、地方訪問で国民と対話する姿が印象に残っていますが、
実はこの「天皇と国民が相対する」状況を作り上げるには、膨大な警備コストがかかっていました。
「親しみやすさ」を担保するために、その裏では厳戒態勢が敷かれていたのです。
徳仁天皇はそれに比べると、普段の言動にもユーモアが感じられます。
柏原芳恵のファン、ウルトラセブンが好き――そのようなエピソードが
このひと月あまり頻繁に報道され、徳仁天皇を身近に感じた人も多いでしょう。

「軽やかな天皇」の前例
象徴的なのが、徳仁天皇の「登山好き」です。テレビでも盛んに映像が流されていましたが、
雅子妃や愛子内親王と連れ立って那須御用邸周辺の山に登り、すれ違う一般の登山客と気さくに挨拶を交わす。
上皇になってからも、厳重な警備の上での「お忍び」が報じられている明仁上皇とは、かなりの違いがあります。
天皇ともなれば、そんな気軽な言動は難しいのでは――と思われるかもしれません。

しかし、明治以降の天皇の歴史を眺めてみれば、
軽やかな「人間らしさ」を持った天皇もいたのです。
大正天皇です。
政治状況もあって在位時から「神格化」が推し進められた明治天皇に対して、
大正天皇は皇太子の時から、自由な言動を繰り返しました。
旅行好きでもあった大正天皇は、皇太子時代に沖縄県を除く全道府県と大韓帝国を回り、
それに伴って福島県の霊山や京都府の成相山、香川県の屋島や象頭山など、各地の山にも登っています。
また兵庫県では軍事演習の合間に突然旧友の家を訪問するなど、スケジュールも気にしなかった。
天皇になってからも、皇后と一緒に葉山や日光の御用邸に1ヵ月も2ヵ月も滞在し、
ヨットや馬に乗る生活を続けました。
しかしこの「大正流」は、天皇の権威を求める人々には都合が悪かった。
明治天皇と同様の天皇の役割を押し付けられた大正天皇は、次第に体調を崩してゆき、
最終的には引退させられました。
その後「大正流」が引き継がれることはなく、
昭和になると逆に天皇の神格化が図られた経緯は、ご存知のとおりです。

もし「大正流」が引き継がれていたら、天皇像は大きく変わっていたでしょうし、
もしかすると昭和の歴史も大きく違っていたかもしれません。
しかし、昭和の反省から「平成流」を徹底した明仁天皇が、「大正流」に倣ったかといえば、そうではなかった。
あくまでも自らの考えに基づいて「象徴」を定義したものの、それは大正流の「人間らしさ」とは異なるものでした。
でなければ、2016年の「おことば」を受けて
「これは天皇の人間宣言だ」などという世論の反応は生まれなかったはずですから。

「令和流」の鍵を握る雅子皇后
私には、上皇亡きあとに本格的に現れるであろう「令和流」の天皇像が、
「平成流」よりはむしろ「大正流」に近いものになるのではないかという予感があります。
「平成流」を引き継ごうにも、雅子皇后の行幸への完全同行の難しさ、
また宮中祭祀へのコミットメントの低さもあり、必ずしも平成と同じ「象徴としての務め」が果たせるとは限らない。
そうした制限の中で、新時代の「象徴天皇」を自分で作り上げるという意識が、
徳仁天皇にはあるのではないかと思うのです。

その意味で、今後の地方訪問、宮中祭祀には注目しています。
今回の植樹祭に続いて注目すべきは、新天皇・新皇后として初めての定例の宮中祭祀となる、
6月16日の香淳皇后例祭です。
代替わりはしたものの、宮中祭祀の体系は平成と基本的に変わらないようですが、
皇太子妃から皇后へ立場が変われば、祭服も変わるなど、負担も違ってきます。
ここに雅子皇后が出席するか、そしてどう祭祀と向き合うか。
より突っ込んだ議論をするのであれば――
むしろこうした歴史的事実がここまでないがしろにされていることのほうが問題なのですが――
宮中祭祀の中には、皇室に代々受け継がれてきた伝統ではなく、明治以降の「作られた伝統」も少なからずあります。

例えば神武天皇祭は、歴史上は実在しない神武天皇の命日である4月3日と定められている。
歴史学者でもある徳仁天皇や、外務省のキャリア官僚だった雅子皇后が、
そこに疑問を呈してゆく可能性も考えられます。
「良妻賢母」の役割を担い続けた美智子上皇后と、キャリア官僚を経て皇太子妃となり、
皇室に入ったあと「適応障害」に苦しんだ雅子皇后とでは、考え方や人生観も大きく異なるはずです。
それに、女性の権利向上がこれほど叫ばれる時代に、世の女性たちや世論がこの先も黙っているでしょうか。
この論点は、これから徳仁天皇と雅子皇后がどのような「令和流」を打ち出すか、ということとも関係してきます。

グローバル化と登山
まず想定されるのは、皇室のグローバル化です。
まだ体調の問題があるとはいえ、元外交官という雅子皇后の経歴から言っても、
海外訪問はいずれ行いたい行事の一つでしょう。
明仁天皇と美智子皇后は、太平洋戦争末期に米国と戦って敗れた南方の島々への
「慰霊の旅」を戦略的に行ってきましたが、こうした点でも違いを出してくるかもしれません。

例えば地方訪問に合わせて、式典や施設訪問の合間に登山の予定を入れ、
そこで一般国民と交流を行えば、「平成流」との違いは明らかになります。
こうした「平成流」との違いがどのようなタイミングで打ち出され、またどのような世論の反応を生むのか。
ここでひとつ懸念されるのは、徳仁天皇が登山した場合、保守派に利用されるかもしれないことです。

一見すると登山はカジュアルな趣味に見えますが、天皇が行う場合は「国見」、
つまり「高い所から国土を望み見る」という古代天皇の行為になぞらえることもできるからです。
歴史や素朴な信仰が絡み合って、保守派の期待を裏付けるような論説も今後出てくるかもしれません。
もちろん、新天皇が築いてゆくであろう令和の新たな「象徴天皇」像をどう評価するかは、国民にかかっています。
ただ、正しい評価をするためには、「平成流」を作り上げた明仁上皇・美智子上皇后の足跡や意図、
また明治以降の天皇の歴史について今一度振り返り、考察を深める必要があります。

どうして天皇や皇室について深く考えなければならないのか。
それは、令和の時代には、皇室内部の権力構造が大きく変化することが予想されるからです。

上皇と天皇「権力の二重性」
明仁上皇が、改元前日の4月30日に発表した天皇としての最後の「おことば」は、非常に簡潔な内容でした。

〈今日を持ち、天皇としての務めを終えることになりました。
ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。
即位から30年、これまでの天皇としての務めを、
国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。
象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。
明日から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、
ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります〉

必要最低限の言葉を並べただけにも見えますし、世論はその簡潔さを讃えもしました。
しかし私は、この言葉には「新天皇に『象徴としての務め』を引き継いでほしい」という願いだけでなく、
「退位して上皇になっても、私は『象徴としての務め』のひとつである
『国民の安寧と幸せを祈ること』をずっと続けてゆく」という思いが込められているのではないか、とも感じます。

もし、雅子皇后が公務を十分に果たせないまま、
上皇上皇后が「祈ること」の一環として八王子市の武蔵陵墓地を参拝したり、
私的な外出を続けたりすれば、「平成」と「令和」の区別は曖昧になります。
「平成流」に慣れ親しんだ国民からは、天皇皇后に対する疑問の声があがるかもしれない。
雅子皇后にとっては、美智子上皇后と比較されるプレッシャーが、皇太子妃時代よりますます強くなる恐れもある。
こうして上皇・上皇后への敬意が高まってゆくとすれば、そこには「権力の二重性」が現れることになります。

秋篠宮とのバランス
加えて、徳仁天皇と比べても、「宮中祭祀と地方訪問」という
「平成流の象徴としての務め」に親和的なのが、皇嗣となった秋篠宮です。
秋篠宮は昨年、宮中祭祀について「大嘗祭は国費ではなく皇室の私的活動費を使うべき」と述べ、
さらにこの問題について宮内庁が皇室の意見に耳を傾けなかったことに
「すっきりしない」「非常に残念」と強調するなど、積極的に発言しています。
言うまでもなく、秋篠宮は皇位継承順位第1位の皇嗣であり、その長男である悠仁親王が同第2位です。
いまでこそ眞子内親王の件でバッシングを浴びていますが、
天皇皇后よりも「平成流」を踏襲しているように見える皇嗣皇嗣妃や、
現在のところ「未来の天皇」である悠仁親王に、しだいに国民の期待が集まってゆくという事態も予想できます。
さらに複雑なことに、ここには天皇皇后が「将来、皇室典範を改正し、
愛子内親王に天皇になってほしい」と考えるかどうか、ということも絡んできます。
つまり遠からぬ将来、「天皇・皇后」「上皇・上皇后」「皇嗣・皇嗣妃」という、
「三重権力」の構造がこの国に現れることも、十分に考えられるのです。

その時に国民は冷静な議論ができるのか。識者は質の高い論説を提供できるか。
学者ですら大半が天皇の政治性や権力という側面に目をつむり、
語ろうとしない現状はあきらかにおかしいし、危険であると私は考えています。
「お祝いムード」に浮かれるのではなく、歴史の境目にいる今こそ、
日本人は自らの天皇観を見つめ直すべきだと思うのです。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64834