皇室の危機は終わらない

週刊新潮2006年9月21日号
皇室の危機は終わらない 日本大学教授 百地章

41年ぶりの親王ご誕生は、数年来続いていた、皇室の先行きを心配する声をかき消し、
一転、国民の間には楽観ムードが漂い始めているかに見える。
が、親王誕生というご慶事をもってしてもなお、皇室が直面する危機に大きな変わりはない。
まず、懸念される点として、皇太子ご一家をめぐる問題があげられる。
特に、長引く皇太子妃雅子さまのご病気が心配だ。次の皇后となられる方であり、
一日も早いご回復を祈念申し上げたい。

平成15年12月、静養に入られた雅子妃について、その翌年5月10日、皇太子殿下が、
「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言された。
それが発端となり、国民の間では何が原因なのか。誰が悪いのか。様々な憶測を呼んでしまった。
昨年12月に公表された医師団の見解では、「適応障害」と診断された同妃の病は皇室にいることそれ自体が原因、
とも読み取られかねない。もしそうであれば大変なことだ。
ご静養は今年12月で4年目に入る。まだ復帰の見通しは立っていないというが、国連大学で研究され、
外交に関するご進講は東宮御所でお受けになっているご様子だ。
皇太子殿下はお一人で立派に公務を果たしておられる。しかし、国民の一部には、
天皇皇后両陛下や秋篠宮ご夫妻が公務で多忙であるのに比べ、
東宮家がそのお立場に相応しい公務をなさっていないのではないかとの疑問や批判がある。
天皇陛下は前立腺がんの治療中であり、皇后陛下も体調を崩されることが多いにも拘わらず
多忙なご公務をこなされている。ご静養が長引くにつれ、批判の声が高まっていく恐れもある。
先月には、雅子妃殿下のオランダでのご静養に伴い、皇太子殿下まで2週間も国内を留守にされた。
天皇のご名代ともいうべき方が、私的な静養で海外に出られた前例は、今まで一度もない。
もし、ご高齢の陛下が病気で倒れられるなど万一のことがあった場合、どうされるのか。
皇太子殿下には、くれぐれも慎重なご配慮をお願いしたい。
最も心配なのは、皇太子殿下や雅子妃に対する国民の批判が、皇室に対する尊崇や敬愛の念を失わせ、
国民統合の象徴である皇室にひび割れを生じさせかねないことだ。それだけは絶対に避けなければならない。

また、雅子妃殿下のご実家である小和田家の皇室に対するスタンスを疑問視する向きもある。
2年前の春、雅子妃が静養先に選んだのは、軽井沢にある小和田家の別荘であった。
このことに違和感を覚えた国民は少なくない。昨年、女系天皇容認の報告書を提出した有識者会議では、
妃殿下の父上、小和田恒氏に近い人々が中心的役割を果たしていた。
例えば、この有識者会議を実質的に取り纏めてきたのは古川貞二郎・元内閣官房副長官である。
元通産官僚の八幡和郎氏が指摘しているように、
元厚生事務次官の古川氏は、元外務次官の小和田氏とほぼ同じ時期に、事務次官会議のメンバーだった。
さらに、小和田氏の妻、つまり妃殿下の母上と同じ佐賀県出身でもある。
これは。偶然の一致だろうか。
羽毛田信吾宮内庁長官は古川氏の元部下で、内閣官房内にある皇室典範改正準備室の柴田雅人初代室長も
厚労省出身である。また、この4月、東宮大夫に就任した野村一成氏は、かつて小和田恒氏と
駐モスクワ日本大使館で同僚だった人である。直接の部下ではなくとも、現在の宮内庁には、
小和田氏に極めて近い人々が働いており、女系天皇容認を画策しているのではないかとの疑念はぬぐいきれない。
そして、先月のオランダ静養である。よく知られている通り、現在、国際司法裁判所判事の小和田氏は
オランダのハーグ在住である。皇太子ご一家は、小和田氏の自宅で食事を共にされているのだ。
美智子皇后の父上・正田英三郎氏は、ご成婚以後、控え目にすることに徹底したという。
「李下に冠を正さず」の例えを頑なに守り通した正田家と極めて対照的な態度ではないだろうか。
最近では、「まるで皇太子が小和田家のお婿さんになってしまわれたようだ」との失礼な揶揄さえ聞こえてくる。
家族を大切にされるお姿は立派ではあるが、果たして皇太子ご一家が、一般の家庭と同じ感覚で良いのだろうか。

雅子妃殿下について特に気がかりなのが、宮中祭祀のご欠席である。一般には、皇室と祭祀については
あまり知られていない。しかし、祭祀こそが天皇の天皇たる所以、皇族の皇族たる所以と言っても
過言ではないのだ。8月14日、オランダへのご出発に先立ち、皇太子殿下はお一人で武蔵野陵に参拝をされた。
潔斎で身を清め、長時間を神域で過ごすなど負担の大きい宮中祭祀について、
雅子妃のご出席が困難であることは理解できる。しかし、潔斎などを要せず、比較的身軽な参拝であれば
ご同行が可能だったのではなかろうか。

かつて第96代・後醍醐天皇は、天皇のあり方を、以下のお歌に詠まれた。
 世をさまり 民やすかれと 祈るこそ 我が身につきぬ 思ひなりけれ
世が治まり、民が安穏であれと祈ることこそ、自分にとって尽きぬ思いなのだ――。

後醍醐天皇に限らず、歴代の天皇は、こうして無私の心で国民のために祈ってこられた。
これは二千年の間、続けられてきた皇室の伝統である。
両陛下だけでなく、皇室と国民の架け橋となる他の皇族方も、無私の祈りを続けられている。
片道十数時間をかけての外国への移動が静養のためなら可能であるのに、なぜ数時間程度のご参拝ができないのか。
これには私ならずとも、多くの国民の間に釈然としな思いが残っているのではないだろうか。

皇室と国民の絆を示すこんなエピソードがある。
終戦後、昭和天皇は敗戦で焦土となった全国各地をご巡幸され、国民を励まされた。
昭和天皇は、「全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の
勇気を与えることが自分の責任と思う」「自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、
健康とか何とかはまったく考えることなくやって欲しい」
そうしたご覚悟を持ち、昭和21年2月から29年8月までの8年半続いた行程は3万3千キロにも及んだ。
陛下は全国津々浦々で国民の熱狂的な歓迎を受けられ、それが戦後日本の復興の原動力となった。
昭和20年12月、陛下の思いにお応えするように、宮城県の農村から60人の青年たちが上京した。
空襲で荒れ果てた二重橋前の広場に生い茂る草取りや掃除をしたい・・・・・、そんな純粋な気持ちからだった。
しかし、GHQの占領が始まっていた時代である。天子様のために働いたら検挙されるやもしれないとの
覚悟までし、出発前に親兄弟と水盃を交わした者さえいた。彼らが皇居内で連日、清掃作業をしていたことが、
陛下のお耳に達し、お出ましになった陛下から、温かいお言葉を頂いた。
一同、思いもよらない感激の拝謁となった。この話が伝わるや、北海道から、九州まで、
全国から勤労奉仕の願い出が殺到した。以後、今日に至るまで、全国各地からの奉仕団が、ほぼ毎日、
皇居及び東宮御所で勤労奉仕を行っている。皇居では、従来通り両陛下のご会釈がある。
ところが、近頃では、東宮御所でお出ましになるのは皇太子殿下だけで、ご静養以後、
妃殿下は勤労奉仕団とお会いになっていない。勤労奉仕団は、皇室と国民との絆を示す象徴的な存在である。
雅子妃が将来の皇后として、国民との絆を大事にされるのであれば、一日も早く、
ご会釈を勤労奉仕団の人々にたまわる日が来て欲しいと願う。

しかし、やはり皇室最大の危機は皇位継承をめぐる問題だ。
親王のご誕生で、皇室は41年ぶるに新たな皇位継承者を得た。
これで皇位継承の危機は先送りになったとはいえ、秋篠宮家を除く全宮家(常陸宮、三笠宮、桂宮、高円宮)が、
男子後継者不在のため廃絶する運命にあることに何ら変わりはないのである。
こうした現状に、昨年、有識者会議は、女系天皇を容認し、女性皇族による宮家創立を可能にすべきだと説いた。
しかし、万世一系を可能にしてきたのは男系男子による皇位継承がなされてきたからである。
そこで、私はかねてより、旧皇族の皇籍復帰を可能にする法整備より、
男系男子による皇位継承を維持するべきだと考えている。
親王がご誕生になっても、同世代の皇族男子はお一人だけである。
宮家の整備、拡大は喫緊の課題であることを今一度、強調したい。
その過程で、間違っても女系天皇の誕生などという事態があってはならないと考える。
昨年、有識者会議の報告書を通してわかったことは、世界最古の二千年という
長い歴史を持つ日本の皇室であっても、一部の政治家や官僚たちの手で簡単に伝統が否定され得るということだ。
小泉首相は、郵政改革と同じ感覚で「皇室の改革」を唱え、一部の政治家、外務省、厚労省などの左翼官僚によって、
言わば「皇位の乗っ取り」が行われようとしたのである。
その対策として、私は皇室の根本に関わるような問題については、皇室のご意向をしっかり反映させられる
法システムに改めることが必要だと思う。
昨年9月、寛仁親王は「我が国固有の歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更してよいのかどうか」と、
男系維持を求める意見を福祉団体会報で述べられた。ところが、羽毛田宮内庁長官は
「対外的に意見表明されないのが皇室の対応」と述べ、風岡典之宮内庁次長に至っては
「天皇陛下や皇族方は憲法上発言すべき立場にない」と断言した。明らかに皇族の意向を無視し、
封じ込めようとさえしていたのだ。戦前、皇室典範は憲法と同格の地位にあり、
改正にあたっては皇族会議と枢密顧問の諮詢を経るというものだった。
議会や世俗権力の介入を許さない仕組みになっていたのである。
ただ現在の憲法では、国会が「唯一の立法機関」(41条)とされており、
皇室会議が直接、立法にかかわるわけにはいかない。しかし、皇室典範の改正に関しては、
何らかの形で皇室のご意向を反映できるようにすべきではないかと考える。
このように、親王ご誕生の日を迎えても、皇室から危機が去ったとは依然言い難い。
しかし、これだけ課題が明らかになったことは、逆に国民にとって皇室の意義、
あり方を考える絶好の機会となっているのではないだろうか。
皇室とは、常に天下万民、国家と国民のために祈ってこられた存在である。
決して個人的な幸福を祈るのではない。それこそが天皇、皇族のお姿である。

かつて明治天皇は、
 いにしえの ふみ見るたびに 思ふかな おのがをさむる 国はいかにと

とのお歌を詠まれたが、歴代の天皇は歴史と伝統の重みを感じながら、
常にこの国と国民のことを思い続けてこられた。その上で、天皇皇后両陛下は、伝統を大切にしながらも、
ご自分たちの新しいスタイルを築かれてきた。被災地を訪問された今上陛下が膝を折って励ましの言葉をかけられ、
皇后さまが国民を抱きしめられる。そのお姿は、戦前では考えられなかったことであろう。
この「ご公務」のあり方をめぐって、一時、皇太子殿下と秋篠宮殿下の対立が伝えられた。
しかし陛下は「秋篠宮の『公務は受け身のもの』という発言と皇太子の『時代に即した新しい公務』とは、
必ずしも対極的なものとは思いません」(平成16年12月23日の文書による回答)と述べられている。
陛下のご発言を受けて、皇太子殿下は今年2月、お誕生日の会見で、
「今まであった公務は・・・・・・大切にしていきたいと思っています。
また一方で、・・・・・・今の時代にできること、私たちの世代だからできるものを
真剣に考えていくことも必要ではないか」と仰っている。
懸念されたご意見の対立は一先ず解消されたようだ。
新しい時代の皇室像といっても、あくまで伝統を大切にしたものであるべきだ。
時代の変遷の中で、方向性に変化が見られても、皇室の本質は変わってはならない。
法制度の整備とともに、皇室はいかにあるべきか、また皇室と国民の絆を強化するために何をなすべきか。
皇族方、国民ともに今一度、このことを真剣に考えてみる必要があるのだと思う。



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日本を卑屈にするシナ大陸侵略神話

WiLL2009年3月号
特集 田母神論文の争点

日本を卑屈にするシナ大陸侵略神話
渡部昇一 上智大学名誉教授

問題はシナ大陸
田母神問題が麻生内閣を揺さぶったのは、「日本は侵略国家ではない」という一文でした。
この言葉を聞いた防衛大臣、防衛省事務次官、そして麻生総理は、
富士川で鳥の羽音に驚いて逃げ出した平維盛の軍勢のごとく、
根拠なく大慌てで田母神氏をクビにしようとしましたが、それもできず肩叩きという姑息な方法に出ました。
肩叩きとしては実に俊敏な動きでありました。
彼らが俊敏に動かざるを得なかったのはなぜか。
先の戦争が侵略戦争だと東京裁判で決めつけられたため、そう思い込んだ日本人もいるかと思います。
しかし時間が経つと、侵略したといっても、フィリピンやビルマは日本が戦争をしている時に独立させているし、
インドの独立のために日本はインパールまで行って大きな犠牲を払っているということ、
インドネシアにも近い将来の独立を認めていたことを思い出します。
そして昭和18年の大東亜会議で実に立派な宣言までしています。

考えてみれば、日本が攻め込んだのはイギリスやアメリカやオランダの植民地であり、
イギリスやアメリカやオランダを侵略したとは言えません。
むしろ、そこで搾取されていた植民地の人たちを独立させた。
今になってみれば、誰にでもわかる話です。問題は、「大陸は侵略したのではないか」という懸念です。
このことで未だに文句を言い続けているのは韓国と中国です。
韓国については大昔の話であり、しかも韓国併合はイギリスやアメリカなど全ての関係諸国が後押ししており、
日本がごり押ししたということではありません。日本が侵略したのではなく、
むしろ奨められて併合したといっても過言ではない。
それに反対の声はロシアや清国(中国)の政府からも出なかった。
さらに、アメリカはフィリピンから略奪しましたが、日本は韓国に持ち出しで投資を行いました。
ですから、日本が侵略したことが問題になるのは、シナ大陸なのです。

塩川正十郎氏が自治大臣の時に、数人の物書きや学者を呼んでの食事会があり、
私はある外務省高官と同席しました。その時にその外務省高官が、
「中国には何を言われても日本は受け入れなければならない。それだけのことを日本はしたのです」
という主旨のことを言いました。
この人が後に駐米大使になっていることを考えれば、彼のような考え方が外務省の中心的な意見です。
そして、それが「村山談話」を生み、安倍内閣、麻生内閣まで縛っていたことが
田母神問題で明らかになりました。
ですから、日本を卑屈にしている最大にして唯一の原因は、日本の「大陸侵略」という神話だと言えます。
その時に問題になってくるのが一つは満州事変、もう一つがシナ事変です。

満州族の独立
満州事変は、東京裁判で一級資料であるジョンストンの『紫禁城の黄昏』
(R・F・ジョンストン著、中山理・渡部昇一訳、完訳版は祥伝社刊)を証拠として取り上げなかったことから、
日本が侵略したように決めつけられることになりました。
しかし、『紫禁城の黄昏』を読めば、実際は全く違う。
辛亥革命という名の下に、シナ人が満州政権に対する独立運動をした。
それによって皇帝の座を追われた満州人皇帝溥儀が、
信頼する家庭教師・ジョンストンと共に命からがら日本公使館に転がり込んできたことが
満州事変につながる事件の始まりであることは誰が読んでも明らかです。
溥儀と共に行動したジョンストンが記しているのです。
『紫禁城の黄昏』が、もし三年早く出版されていれば、リットン報告書も不要でした。
ジョンストンは本の中で、リットン報告書を書いた人たちはあの辺りの状況を
まるで知らないと書いているほどなのです。
ただし、そのリットン報告書ですら、「満州事変は、いわゆる侵略だとは簡単に言えない」と記しています。
いわんや、その後、間もなく満州は独立したのですから、そこで起こった様々な事件は満州族独立と
いうことに集約するわけで、一つの国の誕生物語になるだけの話です。侵略とはなんら関係ありません。
満州国は日本の傀儡政権だったという人もいますが、そんなことを言うのであれば今のイラクも傀儡政権です。
また、現在中国のチベットやウイグルに対する行いに比べれば、
日本と満州国の関係は比較にならない立派なものです。
満州問題について侵略だと言うならば、これは歴史に対する全くの無知を表明することに他ならない。
張作霖爆死事件が歴史的に確定したというような不正確なことを言って、
日本の侵略を証明しようとするいわゆる歴史家がいます。
近年、ロシアから出ている資料や中西輝政教授が研究されているように、
張作霖爆死事件はむしろロシア勢が引き起こした可能性が高いと私は思っていますが、
もし日本が行っていたのだとしても、それは満州独立のための一歩だったと言えます。
張作霖爆死事件はそういう意味で日本の侵略性の問題にしては絶対にいけない。

爆弾三勇士の死
ではシナ事変はどうか。
シナ事変には序曲があります。
『「在支二十五年」米国人記者が見た戦前のシナと日本』(祥伝社)を書いたジョン・B・パウエルは、
満州事変やシナ事変前後に当地にいた人です。彼はシナ事変が起こった頃、上海にいたそうですが、
その時、シナ人は落ち込んでしまっていたと言います。
当時のシナ人は今と同じで国境の観念がないですから、満州も自分たちの国だと思っていたのでしょう。
そこにいた20数万人のシナ軍が一万そこそこの日本軍に追いまくられ、全員追い出されてしまった。
これがショックで落ち込んでいたそうです。
ところが間もなく、第一次上海事変が起こりました。日本軍は居留民保護が目的で駐留しており、
戦争するつもりなどないところで戦争が起こってしまった。
ですからこの第一次上海事変の解決には日本は非常に骨を折るはめになりました。するとシナ人たちは、
我々も日本とちゃんと戦えるじゃないかと自信を回復した、という主旨のことをパウエルは書いています。
この第一次上海事変のことを日本人は忘れてしまっていますが、我々の世代は有名な爆弾三勇士の話を
よく覚えています。与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹作った曲は、小学生でも歌っていました。

  廟行鎮(びょうこうちん)の敵の陣
  我の友隊(ゆうたい)すでに攻む
  折から凍る如月の
  二十二日の午前五時

日本軍が廟行鎮で苦戦していたため、突撃路をひらくため鉄条網を爆破し、自らも爆死した江下武二、
北川丞、作江伊之助各一等兵がこの爆弾三勇士です。銅像も作られましたが、敗戦で取り除かれ、
その後、このことは日本では忘れられてしまっていました。
ただし、蒋介石は忘れませんでした。北シナの平地では日本軍にかなわないが、
上海に引き込んで戦えば勝てるのではないかという発想を持ったのです。
そしてドイツを巻き込むことを考えました。

反日ドイツの関与
先の戦争では防共協定や三国同盟があったため、日本人はドイツを友好国だと思い込んでいます。
しかし、第一次大戦で日本はドイツのシナ大陸における植民地であった青島を占領し、後にシナに返還しました。
また、日本はドイツから太平洋のカロライン諸島やマーシャル群島を委任統治領として奪いました。
このことを日本人は忘れていますが、ドイツ人にとっては凄まじい恨みとなって残っていたのです。
ドイツは欧州で戦争を行っていたにもかかわらず、何の関係のない日本に権益をとられた。当時のドイツと
シナの貿易は巨大であり、さらに太平洋にドイツの足がかりが何もなくなったのですから、恨み骨髄です。
ドイツとシナとの貿易がいかに盛んだったかは、
渋澤栄一が「ドイツに見習え」と言ったことからもよくわかります。
ドイツは政府も商人も一丸となり国を挙げてシナと貿易を行っているが、日本はやり方が下手だと
渋澤が言ったほどでした。それをドイツは全部失ったわけです。
そのドイツと蒋介石のシナが結びつきます。
シナはタングステンの主たる生産地でした。タングステンは鉄鋼弾という硬い弾頭を作るために重要な資源です。
このタングステンを得るために、ドイツはシナに多額のカネを注ぎ込みました。
同時に、ドイツの参謀長級の高級軍人を次々とシナに送り込みました。
ゼークトやファルケンハウゼンのような日本で言えば参謀次長、参謀総長を歴任したような人物を
何人も次から次へと送り込み、シナ軍の訓練を請け負った。
この辺りのことは、最近出版された阿羅健一氏の近著『日中戦争はドイツが仕組んだ』(小学館刊)で
詳しく描かれています。
蒋介石がドイツに目をつけたのは、日本の陸軍で学んだからです。その日本陸軍はドイツから学んだことを
蒋介石は知っていますから、本家本元から学ぶという発想は自然です。
ところが、第一次大戦後のドイツ軍は、日本が学んだ頃のドイツとは全く違う軍隊になっていました。
ドイツ軍は第一次大戦の西部戦線で塹壕戦をくぐり抜けてきたからです。
塹壕戦では拠点が重要ですから塹壕やトーチカを作ることになります。
トーチカはベトン(コンクリート)で作った要塞です。それを二千も三千も作る。
さらにクリークを掘り、民家もすぐ要塞にできるよう壁を厚くする。
これらの知識をシナはドイツから学びました。
さらに重要なのは、武器の援助です。
私が子供の頃に講談社の絵本などで頻繁に描かれた武器に、チェコ機関銃というドイツ製の軽機関銃がありました。
これはすごく優秀な機関銃です。日本の軽機関銃は撃つとすぐに弾が詰まったりするためチェコ機関銃の
足元にも及びません。
また塹壕戦でお互いが睨み合っている時に重要となる武器は手榴弾です。
私は子供の頃に本で見て知っていますが、シナ軍が持っていた手榴弾は柄がついていました。
日本の手榴弾はただ握って投げるような普通のもので、なかなか破裂せず、性能が悪かった。
しかし、シナ軍が持っていたドイツ製の手榴弾はうまく破裂しました。
この手榴弾に日本は悩まされることになります。後でわかったことですが、
シナ軍はそのドイツ製の手榴弾を十個も二十個も腰にぶら下げていました。
日本軍はせいぜい一個か二個しか持っていません。
このようなシナ軍の武器の先進性に、日本軍は全く注目していませんでした。
これは明らかな日本軍上層部の失策です。

共産党と蒋介石の密約
さて、シナ事変当時の大本営作戦部長は石原莞爾です。石原莞爾はシナと戦争するつもりは全くありませんでした。
これは明らかです。他に別の意見の人がいたとしても、作戦を立てる部門の長がシナとの戦争に徹底的に
反対ですから、大本営からシナで戦争を始めるという計画は出るわけがない。
すると、現地で起こったことに火がついたと解釈せざるを得ません。
日本の当時の体制から考えれば、それ以外の解釈はできません。
その当時のシナはどういう状態だったか。『日中戦争』(林思雲、北村稔共著、PHP研究所刊)によれば、
当時のシナ人たちは、日本をやれ、と人民たちが燃え上がっていたといいます。
しかし日本は燃え上がっていませんでした。
そこに1936年12月12日、蒋介石が監禁される西安事件が起こったことを忘れてはいけません。
蒋介石は東北軍の張学良に騙され西安で監禁されました。張学良は共産党(八路軍)と共に日本に対抗する
いわゆる“一致抗日”を主張しますが、その背後には共産党の事前の工作があったと言われています。
いずれにしても、壊滅寸前だった共産党の毛沢東にしてみれば、チャンスです。毛沢東は周恩来を西安に派遣し、
張学良と協議させました。毛沢東はそれまで蒋介石にさんざんな目にあっているのですから
殺害するのが自然でしょう。
しかし、事実として毛沢東は殺さずに蒋介石を解放しました。
何かを要求せずに解放するはずはない。密約があったと考えるほうが自然です。
しかし、この密約については
誰も何も明らかにしていません。張学良でさえも、彼は百歳を超えるほど長生きしましたが、何も言っていない。
しかしながら殺されるべき蒋介石が、無事に解放されたことは確かです。
そして翌年、第二次国共合作が成りました。
毛沢東はソ連からの命令があったのでしょう。盧溝橋事件の五年も前、昭和9年には対日作戦基本綱領、
対日作戦宣言を作り、日本に宣戦布告していました。シナの日本への宣戦布告は、
すでに毛沢東が行っていたのです。
ですからここで推定されるのは、蒋介石は毛沢東に「命を助けてやるから一緒に日本を叩け」と
要求されたということです。蒋介石は日本と一度は戦うつもりでいたとは思いますが、
順序としては毛沢東軍を一掃し、蒋介石政権を完全に樹立して、強力なシナを作るというシナリオだったはずです。
それが毛沢東の要求から、計画より早く日本と戦争をせざるを得なくなった。
それでも蒋介石はすぐに戦争を始めたわけではありません。盧溝橋事件は何度も触れているので簡単に述べますが、
条約に則って駐留しており、戦争する気などないから鉄兜も被らずに演習していた日本軍に、
何度も何度も弾が飛んできて、日本軍はそれに応戦したという成り行きです。
これは中国共産党の分子が蒋介石軍に入り込んで工作したということがほぼ明らかで、
それについての資料も出てきています。
そのような小競り合いをシナから起こされていましたが、日本は停戦まで持って行き、
戦争をするつもりは毛頭なかったのです。
しかし、そんな中で昭和12年7月29日、通州事件が起こりました。
北京のすぐ近くの通州にいた日本の一般人二百数十人が虐殺されたのです。これに日本人は怒りを覚えた。
今であっても、アメリカ人の一般市民が、どこであれ200人以上虐殺されたら、すぐに報復戦争をするはずです。
日本はすぐに兵を動かしましたが、日本軍が強いことを知っているシナは、北京をオープンシティにしたため、
ほぼ被害もなく解決しました。そのため、日本はこの間の事件を戦争とみなさずに「北支事変」としたのです。

水兵が戦った日本軍
この北支事変で片が付いたと思っていたら今度は8月13日に、上海で新たな戦いが始まった。
この8月13日に始まった戦いについては、私はライシャワー元駐日大使の書いた本で読んだことから
興味を持ちました。
ライシャワー大使のお兄さんは、キャセイホテルでその時に亡くなったといいます。
8月13日からの戦争のことをまるで当時そこにいて、全てみたかのように書いているアメリカの
ベストセラー小説『SHIBUMI』(トラヴェニアン著)を私は原書で読みました。「渋み」からきたタイトルですが、
邦訳は早川文庫から『シブミ』として発行されています。
この著者は正体不明ですが、小堀桂一郎教授が東大の研究誌でこの著者が何者かを問題にしているほど、
調べれば調べるほど当時の状況を正確に扱っています。
この『SHIBUMI』には上海の租界の状況が書かれています。日本人は共同租界に住み、工場などを造って
数万人が生活していました。他にはフランス租界やイギリス租界など、各国の租界があります。
そして、居留民を守るために日本も他国と同様に揚子江に軍艦を浮かべたりしていました。
そしていざという時に居留民を守るのは、水兵、つまり海軍陸戦隊でした。
陸戦隊とは、水兵さんが軽武装で居留民を守る役割をする部隊で、アメリカの海兵隊とは全く違います。
水兵さんですから、もちろん侵略の意図などありません。
そこに8月13日に突如、シナ軍による空襲を伴った攻撃が始まりました。日本の軍艦にも爆弾を落としていますが、
慌てて落としたとめに、これは当たらなかった。しかし、それた爆弾はデパートやホテルなどに落ちたようです。
一ヵ所で千人も亡くなるような惨状でした。

後でわかったことですが、8月13日に突然、大軍が押し寄せたのは、張治中の五万の精鋭が一気に攻めて
黄浦江と揚子江に日本軍を落として殲滅するという予定だったようです。しかし、日本の水兵さんは皆、
鬼神のごとく勇敢に戦って持ちこたえ、日本政府は慌てて二個師団を送ってなんとか救ったわけです。
その頃にことを私は絵本などで読みました。日本の水兵さんが市街戦で機関銃を撃ちますが、
その時に機関銃が詰まってしまう。それでやられそうになりますが、機関銃を持った太田一等水兵は
落ち着いて機関銃を整え、ようやく間に合って撃ったという話です。
日本は二個師団を送って簡単に制圧できると思っていましたが、そうはいかなかった。
そして逐次、兵を送ることになります。
シナ軍のトーチカは大きなものは直径200メートルもあるベトンで固めたもので、それには機関銃が据え付けてある。
その機関銃はチェコ機関銃なので故障しません。肉薄してくると手榴弾がやってきます。
ですからわずか2ヶ月くらいで日本軍は四万以上の死傷者を出すことになりました。
これは半年かけて攻めた旅順の死傷者にも近い数です。
阿羅健一氏が最近出版された前掲書を書いた動機は、この時に亡くなった日本兵の石像群を見たからだそうです。
そんなにたくさんの人が亡くなるとは思っていない戦いですが、亡くなった兵の白骨がどんどんと戻ってくる。
残った人たちは、彼らが出兵した時の写真に基づいて石像を作り、それは何十体にもなりました。
この石像は台座に乗せてあって背が高かったのですが、進駐軍が取り除けと言った。
しかし取り除くわけにはいかないということで、有志が知多半島に移動させて今でも守っています。
いずれもいい顔をした、いい石像群です。

戦うつもりがなかった日本
さて、戦線を拡大しないはずのシナに兵力を送るしかなくなったため、作戦部長の石原莞爾は辞職します。
一方で、この上海地区の戦争をなんとかしなければならない。
上海は全体が旅順のようになっているため、日本は覆面将軍柳川平助を送り込みました。
覆面将軍は杭州湾に上陸し、一気に上海の裏に出たため、シナ軍は総崩れとなり、
後はひたすら逃げることになった。
「日軍百万杭州湾上陸」と飛行機に大きな字幕を引かせながら覆面将軍と言われた柳川平助中将の
第十軍が行く姿は、絵本で見て覚えています。それに驚いて逃げるシナ軍を、日本軍は追撃し、
そのまま南京にまで入城したのです。この戦いでようやく、日本は北支事変からシナ事変と名称を改めました。
それまで北支で収めるつもりだったのです。
もし、最初からシナと戦争をするつもりであれば、もっとうまい戦い方はありました。
もともと北京をすぐに平定したのですから、そのまま真っ直ぐに南京に向かうという手もあったのです。
しかし、日本は戦争をするつもりがなかった。
実際、戦後に中国の人が、日本が北京から真っ直ぐ南京に入れば、
シナ軍は全滅して終わったと書いている本を読んだことがあります。
しかし、そういう発想が日本になかったのです。
しかも当時、日本は軍縮をしていましたから、兵隊もおらず、弾薬の備蓄も少なかった。
シナに送ったら、ほとんど空っぽだったといいます。
日本はヒトラーのルートで、ドイツが蒋介石軍に支援するのを止めるように何度も求めていますが、
ドイツ参謀本部はヒトラーに最後まで抵抗した勢力ですからそう簡単には止めません。
ドイツにしてみれば、タングステンという重要物資が必要だということもありました。
後に南京事件でインチキな証言をしたドイツ人・ラーべは、シーメンスの武器商人です。
彼ら死の商人たちは、シナに武器を売れば儲かりますから反日でした。
そして、ドイツの将校は実際に現場の指揮までとっていました。第二次大戦で最初に戦死したドイツ人将校は、
日本とシナとの上海戦で死んだ人です。さらに、参謀であったゼークトは、
「日本を憎まなければならない」という「憎日」をシナ軍に教え込みます。
これは第一次大戦でドイツがフランスを憎んで戦ったことによります。
このように、日本は戦争をしたくなかった。しかし他方で、シナはドイツの手を借りてまで
戦争がしたくて仕方がなかったのです。
従ってシナとの戦争は、日本が侵略しようとした戦争では決してありません。

「村山談話」の淵源は迷信
2009年1月14日産経新聞「正論」欄に、八木秀次氏が次のように書かれています。
《田母神俊雄前航空幕僚長の論文問題は、同氏が校長時代に設置した統合幕僚学校の
「歴史観・国家観」講座の講師人選の見直しに発展している。(中略)
統幕学校の講師の人選ばかりではない。自衛隊の一般隊員に対する研修での外部講師の人選、その講義内容、
防衛大学校での講義内容まで「村山談話」に沿っているかの点検作業が行われている。追究に熱心な
左翼政党は組織を挙げて自衛隊関係のあらゆる雑誌・新聞の執筆者の人選、執筆内容の洗い直しを行っているという。
(中略)
「村山談話」が政府機関を縛るということになれば、公教育における歴史教育は
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、
植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」
と教えなければならなくなる。
当然、教科書検定にも反映されるだろう。
これではせっかくの教育基本法の規定も画に描いた餅に過ぎなくなる。
「村山談話」が教育基本法に優位し、理念を形骸化させるという構図である。(後略)》
「村山談話」に繋がる「日本は侵略国家だ」という歴史観は、東京裁判で植えつけられましたが、
日本は戦後60年をかけてやっと正気を取り戻しつつありました。
しかし、上記に八木氏が書かれているような状況では、何十年も前に遡ってしまい、
中国に何を言われても日本はそれをそのまま受け入れるしかなくなってしまいます。
このように「村山談話」が日本を縛っている淵源は、
「欧米を侵略していないだろうが、シナ大陸は侵略したのではないか」という迷信です。
その点で、若狭和朋著『続・日本人が知ってはならない歴史』(朱鳥社)のような書籍が詠み継がれたり、
先に挙げた『日中戦争』(PHP研究所)、『日中戦争はドイツが仕組んだ』(小学館)など
が相次いで出版されたことは極めて重要で、私にとっても30年言い続けてきたことが
ますます正確に裏付けされたことを喜ばしく思っています。

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昭和天皇ご巡幸で

「手で陛下を見ました」戦後巡幸70年
宮内庁担当 島康彦
2016年5月26日16時00分
目の不自由な少女が、昭和天皇の左手に触れている一枚の写真があります。
1949年6月、宮崎市の宮崎県立盲学校(現・明星視覚支援学校)での場面です。
http://www.asahi.com/articles/photo/AS20160524000530.html

昭和天皇は1946年2月から54年8月にかけ、全国各地を回りました。
「戦後巡幸」と言われたこの地方訪問は、終戦後、「現人神(あらひとがみ)」から「象徴」になった姿が、
広く知られることになった旅だったともいえます。
その「巡幸」の始まりから今年で70年。冒頭の宮崎訪問も、この旅の一環でした。
「少女」とは、村社(むらこそ)マツ子さん。昨年7月、支援学校で、当時の様子を話してくれました。
小学2年生だった村社さんの教室に、昭和天皇が入ってきました。
「天皇陛下がおいでになりましたよ」
「いらっしゃいませ」
先生の紹介を受け、生徒みんなで元気よくあいさつしました。
「マツ子さん、あなたのすぐそばにいらっしゃますよ」。先生がそう教えてくれたので、
村社さんは立ち上がって「どこです、どこにいらっしゃいますか」と手を差し伸べるように前に出しました。
それが冒頭の写真の場面です。
振り返れば、昭和天皇が体を近づけて触れるようにしてくださったのかもしれません、と村社さんは話していました。
昭和天皇が亡くなった際、村社さんは朝日新聞の取材にコメントを寄せています(89年1月7日付夕刊)。
「あの時、手で陛下を見ました。優しそうなおじさまが、最初の印象でした。
いまは亡き両親の喜びは大変なものでした」
村社さんは闘病の末、今年5月に亡くなりました。病気などでつらいこともありましたが、昭和天皇と交流し、
「しっかり勉強して、立派な人になってください」と言われたことを励みにしてきた、と
取材に話してくれたのを思い出します。

巡幸が始まった46年2月19日。最初の訪問先は、川崎市の昭和電工川崎工場でした。
食糧増産が奨励されていた時代。戦争の空襲で被災したものの、川崎工場はこの時、早くも操業を再開し、
化学肥料を生産していました。
昭和天皇は背広にグレーのコート姿。戦争で事務所が焼けたため、仮設テントで当時の森暁社長から説明を受け、
敷地内を見て回りました。予定外に作業員に近づき、声をかける場面もありました。
工場前に作業服姿で並んでいた15人ほどに次々と話しかけました。
 「何年勤めているか」
 「なにか生活に不自由はないか」
この時のやりとりは後にNHKのラジオで全国放送され、昭和天皇が口にした「あっ、そう」はその後、
流行語になりました。
この日午後には、横浜市西区にあった稲荷台共同宿舎に足を運びました。
西前国民学校の5年生だった石川啓次郎さん(81)は同日朝、先生から昭和天皇の訪問を聞かされました。
授業は午前中で打ち切られたため、弟や友人とともに現場に見に行ったそうです。
寒さの中、一時間ほど待っていると、歩いて近づいてきた昭和天皇が石川さんの前で足を止めました。
 「家は焼けましたか」
 「学用品は焼けなかったか」
石川さんは緊張しながらも必死にこたえたそうです。手のしもやけがひどく、
母親から渡された軍手姿が目にとまったのかもしれない、と話していました。
この模様は翌日の朝日新聞などに掲載されました。石川さんはこの時の様子を児童向け新聞に寄稿しましたが、
全国の子どもから手紙が届くなど大きな反響があったそうです。
「あの時の経験から、その後の人生をしっかり生きなければと思いました」
足かけ8年、3万3千キロに及んだ旅は1954年の北海道で幕を閉じました。
「直接に国民を慰め、あるいは復興への努力を激励したいと思った」
「国民が復興に向け一生懸命働いている姿が印象に残っている」。
1980年の会見で、昭和天皇はそう語っています。
巡幸で訪れたのは46都道府県。沖縄県には足を踏み入れることができませんでした。
1988年4月25日。「健康が回復したならば、なるべく早い時期に訪問したいとの考えは
変わっていない旨を述べられる」。記者会見で、手術のために取りやめた沖縄県行幸について
問われたことについての記述です。「昭和天皇実録」からは、昭和天皇の沖縄へ寄せる思いがうかがえます。
現在の天皇陛下は2003年11月に鹿児島県を訪れ、即位後の全47都道府県訪問を達成しました。
できるだけ国民との距離を縮めようという「平成流」の表れでしょう。
沖縄県には皇太子ご夫妻時代を含めて10回訪れています。(宮内庁担当 島康彦)

http://www.asahi.com/articles/ASJ5P548CJ5PUTIL00T.html


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

出典不明

引き揚げ者の一行の前では、昭和天皇は、深々と頭を下げた。
「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」とお言葉をかけられた。
一人の引き揚げ者がにじり寄って言った。
天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは私だけではなかったのでした。
天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。
人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります。
この言葉に、側にいた青年がワーッと泣き伏した。
「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺がまちがっておった。俺が誤っておった。」
シベリア抑留中に、徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖兵として、
いち早く帰国を許されていた青年達の一人であった。
今回の行幸で、天皇に暴力をもってしても戦争責任を認めさせ、
それを革命の起爆剤にしようと待ちかまえていたのである。
天皇は泣きじゃくる青年に、頷きながら微笑みかけられた。


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車通勤

車通勤する雅子さま

FLASH1991年9月3日号

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雅子さんが父恒さん名義の駐車許可証を使って、庁舎至近の専用駐車場に車を停めていた。



さらに電車で通っているということで定期代ももらっていた?という証言もある。



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皇太子と雅子妃「苦悩の結婚16ヵ月」

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VIEWS 1994年11月号
皇太子と雅子妃「苦悩の結婚16ヵ月」
高山文彦=文


皇太子妃の疲れた姿
それは、ちょっと信じがたい光景だったという。
ことし七月六日の夕方、ある皇室ウォッチャーは、横浜市内を東京方面へむけて走る第三京浜の
保土ヶ谷インターチェンジ近くのドライブインで、友人とくつろいでいた。
そこには、どういうわけか警備警官の姿があった。なにごとかとたずねてみると、
葉山の御用邸で静養を終えた皇太子夫妻がもうすぐここを通る、という返事。
彼はできるかぎり道路ぎわまで行き、車がやって来るのを待った。
まもなく皇太子夫妻を乗せた黒塗りの車が、疾風のごとく近づいてきた。
進行方向右側の後部座席は皇太子の席、左側は皇太子妃の席と決まっている。
立っている位置からみると、車はすぐ手前の車線を右から左に走りぬけていく。
だから、左座席にすわっている雅子妃の姿がもっとも近くにみえ、皇太子の姿はその向こうにみることができる。
そのとき彼は、わが目を疑った。
「雅子妃は寝ておられたのです。おどろいたのは、その寝姿でした。左後頭部を車の窓ガラスにもたせかけ、
そのためにからだ全体は大きく斜めになって、崩れるように寝ておられた。
皇太子は居住まいを正してすわっておられたのですが……。
おなじ車両には、運転手と侍従も乗っているわけですからね。疲労の度は極限にまで達していたのでしょうか」
七月四日から二泊三日で神奈川県葉山町の御用邸で静養した皇太子夫妻は一歩も外にでなかった。
人目を気にする必要もないので、充分休養になったはずだとおもわれていたのだが、
帰りの車のなかの雅子妃の寝姿からは、疲労の堆積が感じられた。
それにしても周囲の眼を考えれば、皇太子から注意をうながすことはあってもいいとおもわれるのだが、
彼はじっと正面を見据えたまま黙っている。
結婚十六ヵ月、まだ杳として世継ぎ誕生の知らせはきこえず、
昏々と眠りつづける雅子妃と、石のように動かない皇太子。

「遠慮しているような関係はよくない」
皇太子夫妻の不仲説がながれるのは、こういう光景を不用意に目撃されるからでもあるだろう。
「雅子妃の態度は、皇太子にまったく関心をもっていない証拠だ」とこの皇室ウォッチャーは言う。
皇太子の学友はこう心配する。
「なんどかお会いしましたが、皇太子妃は皮膚に炎症を起こしていました。
私が眼にしたのは首と足ですが、この炎症の痛みのためおやすみになれないこともあるのでは……」
実際に雅子妃を知る医師は「彼女は一種のカゴの鳥症候群」だと、身体的な原因ではなく、こころの疲れを指摘する。
ハーバード大卒、東大法学部中退(外交官試験合格)、オックスフォード大留学、外務省北米二課勤務という
帰国子女の元キャリア・ウーマンは、ご成婚後相当に心労をつのらせていることはまちがいない。
「一生全力でお守りする」と昨年一月十九日の婚約会見でプロポーズの言葉を披露した皇太子は、
皇室関係者によれば、雅子妃にいっさい小言を言わない。それが逆に皇族などから、
「だから、雅子妃は好き勝手にやっている」 と批判をあびることになる。
「もっと打ちとけてくれてもいいのに、雅子妃はいつも表情が固い。優秀な人は、ツンとすましている」
と露骨に嫌悪感を顔にあらわす皇族もいる。
皇族関係者によるそんな雅子妃バッシングと、衆人環視のなかでの公務の連続にくわえて、
夜は侍従をまじえて皇太子から皇室のしきたりなどについて学習する日々。
皇太子の学友のひとりは、
「そんな雅子妃を気づかって、殿下はご自身の友人と旧交をあたためるより、
雅子妃のおこころを和ませるために、雅子妃の友人と会われる機会を多くつくっておられるようです」と言う。
けれども、別の皇太子の学友は、こう話す。
「皇太子夫妻の不仲説については、殿下をよく知る仲間うちでは、結婚直後からありました。
じっさい宮内庁職員のなかからも、おたがい遠慮しているような関係はよくない、といった声がきこえてきます。
ことしの新年会での法曹界テニス倶楽部のときも、雅子さまはおみえにならず、殿下おひとりで参加されたんです。
結婚前はぼくらとテニスをしたあとかならず、殿下のほうから『ビールでも』というお誘いがありましたが、
結婚後はおふたりそろってテニスに参加されても、そういった席に顔をだすのは殿下おひとり。
それも二十分足らずで、雅子さまは一度もお顔を出されないんです」
では、雅子妃サイドはどうなのか。オックスフォード留学時代の友人は、六月にひらかれたパーティで
ひさびさに夫妻に会ったとき、雅子妃の笑顔がひどくやつれていることに内心おどろいた。
「濃紺のワンピース姿でしたが、外務省時代はどんなに疲れていても表情にだされなかった雅子さまが、
はたから見ててもお疲れの様子がありありでびっくりしました。
雅子妃は、とくに皇族の方々に不満をもっておられるようです。皇族の方々は傲慢だという印象のようです。
彼らが評価するのは、皇族であるかどうかしかない。彼女のプライドがそういうことに我慢ならないのでしょう」
こうして、あちこちから不仲説を裏付けるような話しばかりが飛び出してくる。
年に数度、天皇に会っている人物によれば、天皇もまた皇太子夫妻の話になると顔を曇らせるという。
「ご夫妻の仲があまりよろしくないという話を、陛下はすでに聞いておられたようです。
陛下はお子様のこともだいぶ気にしておられました。
ある雑誌に雅子さまご懐妊の記事がでていることを知った陛下はすぐさま問い合わせたんですが、
重田信夫侍従次長が誤報だと伝えると、陛下はそうだとおもいました、といたく落胆したご様子でした」

父小和田恒氏の野望
純愛ラブストーリーとはまったくちがった流れが
この不仲説の背景には、もっと奥深く、巨大なものがよこたわっているように感じられるのは、私だけだろうか。
たしかに民間から天皇家に嫁ぐということは、美智子皇后の苦労をもちだすまでもなく、
じつに多くの負担を強いられる。
雅子妃も同様で、あの外務省に勤務していた時代の颯爽とした立ち姿と、意志の強さをあらわしていた
大きな両眼とふくよかな顔は、嘘のように失われてしまった。そして、石のように動かない皇太子。
ふたりのそんな姿は、単なる夫婦関係の問題というだけでなく、自分たちではとても抗しきれない
ある"力"の存在に気付き、それに必死に耐えているようにさえおもわれる。
というのも婚約が決まる家庭をもう一度洗いなおしていくうちに、じつに「皇太子の片思い」という
これまでの純愛ラブストーリーとはまったくちがった流れが、浮かびあがってきたからである。
皇太子は雅子妃との結婚について、思い悩んでいた。結婚をのぞんでいたのは、むしろ雅子妃の父、
当時外務省事務次官だった小和田恒氏ではなかったか。
一年前の一九九三年秋、全国民がお妃選びに注目しているまっただなかで、天皇と小和田家のあいだを行き来し、
メッセンジャーをつとめたある福祉団体役員の証言によれば、彼が小和田氏に会ったとき、
「陛下が皇太子殿下のご結婚を気にしている」と伝えると、
小和田氏は顔を曇らせ、うつむき加減になって、こう漏らしたという。
「殿下は帝王学に徹しすぎますよ。女は、男から言ってきてくれるのを待つしかないんです。
雅子が思い悩んでいるのを、みていられない」
皇太子自身がはっきりとプロポーズをすれば、小和田雅子はそれを受け入れる用意がある、とこの人物は受け止めた。
その一ヶ月まえに、彼は天皇に会っている。そのとき天皇は
「小和田雅子さんという方は、どういう方か。皇太子の気持ちは、どうも小和田雅子さんらしい」と胸中をあかした。
そして、「外務省次官の娘さんであれば、こちらとしても結構な話だとおもうが」と話した。
この人物は、この時、小和田雅子さんが本命であることを確信したという。
その上で小和田恒氏と会ったのだが、その直前、小和田氏本人が直接、天皇と会い、
ふたりきりで結婚について話し合う機会をもったと彼は語る。
「表向きは外務省次官が世界情勢の激変について、ご進講するということでした。しかし、中身はまったくちがう。
皇太子殿下と雅子さんの結婚話が、二時間以上も交わされたときいています」
家長どうしの突っこんだ話し合いが行われていたというのである。
そのころまでに二百人ともいわれるお妃候補が、浮かんでは消えた。お妃選びのメンバーであったある人物は、
天皇と小和田氏の話し合いがおこなわれる一年近くもまえに、お妃選びが特定の流れに向かっていることに
気づいていたという。
「結論からいえば、はじめから雅子さんありき、だったのです。ただ、その時点では、
雅子さんのことには気づきませんでした。ひとつの決まった流れが存在しているということに気がついたのは、
私とおなじお妃選びのメンバーが突然、その任務からおりると言い出したときでした」
引き留めるためにでかけていった彼は、逆に相手から、じつに意味深長なことばでさとされた。
「お妃選びから、きみも手を引いたほうがいいよ。もう流れは決まっているんだから」
核心部に近ければ近いほど、匿名扱いにしなければならないことが、どうにももどかしい。そうでなくても、
ただでさえ皇室取材は、匿名がどうしても多くなる。

「一生全力でお守りする」発言の本当の意味
それにしても、この特定の「流れ」とはどういったものだったのか。この人物は、つぎのように話す。
「やがて天皇となられる皇太子のご結婚には、さまざまな国の利害など、大きな問題が絡むのです。
私はお妃選びの過程で、殿下と何回かお会いしました。じっさいにいろんなことで、殿下は悩んでおられた。
多くの候補の名前を殿下があげられたことはありますが、
雅子さまのお名前だけは、ついに一度も聞かれませんでした。
殿下が、婚約会見で一生全力でお守りする、とおっしゃったのは、単に宮中という特殊な環境から
雅子さまをお守りするという意味だけではなく、それよりもっと巨大なものからお守りするということなのです」
一九九三年六月九日、彼はご成婚のテレビをみていて、パレードに出発するときの皇太子の表情が、気にかかった。
「お車に乗りこまれるときの殿下の眼を見たのです。おもいつめた眼でした。
幼少のころからよく存じ上げていますが、あんなけわしい眼をみたのは、はじめてでした」
そうして彼は、ようやく外務省の存在を指摘するのである。
「なぜ小和田恒さんが国連大使となり、国連安全保障理事会常任理事国入りをめざした動きを強力に展開されるのか。
なぜ、いわゆる皇室外交ということが、強力に推進されるのか。
雅子妃は、小和田恒を筆頭とする外務省という家から天皇家にとついだ花嫁なんです。
小和田氏の行動を、これから国をあげてバックアップしなければならなくなるわけです」
誇大妄想だといわれればばそれまでだが、外務省のあるキャリアは、ASEAN諸国歴訪(一九九一年九月)
にはじまる天皇の外交活動をさして、はっきりとこう言うのだ。
「天皇に対しては左右いろんな意見があるが、外国からみれば、日本の象徴であり、
総理なんかではとても代役はできない位置にある。だから外務省としては、天皇には戦後処理、
太平洋戦争の後始末をしてもらいたいというのが本音のところだ。
世界の大勢は、日本の戦後処理はまだ終わっていないという見方をしており、
安保理事人理事国入りしたい外務省としては、そのまえにこの問題をクリアしておきたい。
あくまでも"外国交際"で、友好増進のための陛下のご外遊ととらえている」
天皇家と政治は明確に分離されていなければならない。
ここにいたって、にわかに疑問視されるのは、やはり雅子妃の父、小和田恒の存在である。
本来ならば、天皇家と縁戚関係で深くつながった時点で、日本外交の中枢をになう役職からは
退くべきであったと私は考える。政治経済の利害がはげしく絡み合う現実世界から距離を置くというのが、
天皇家にたいする配慮というものではなかったか。
けれども、小和田氏の言動には、積極的に外交舞台の中心人物でありつづけようとする野心がみなぎっている。

「国連事務総長に」の声に猛然とやる気を出した
九月七日午後六時から、東京日比谷の帝国ホテル孔雀の間で、「小和田恒外交論出版を祝う会」がひらかれ、
約五百人の財界関係者が顔をそろえたことは、彼の野心を雄弁にものがたっていた。
政治家では、福田赳夫元首相、宮沢喜一元首相、柿沢広治前外相、財界からは鈴木永二前日経連会長、
速水優経済同友会代表幹事らが出席した。福田赳夫氏が外相、首相時代に、小和田氏は秘書官をつとめている。
マスコミの取材をシャットアウトしたパーティで、挨拶に立った小和田氏は、
「いま国際社会で日本がおかれている状況は、単に人といっしょになって参画するだけではなく、
もっと創造していく必要があるということだ」
と出版した本のタイトルどおり「参画から創造へ」を強調した。本の帯には
「小和田恒は早くも伝説の外交官になりつつあるかに見える」という文字が躍っていた。
おどろくべきことに、皇太子妃選び雅子妃にしぼって勧められはじめた一九九一年九月、
イギリス外務省から日本の外務省に「ミスターオワダを国連事務総長にどうか」という打診があったとき、
当時外務事務次官だった小和田恒氏は猛然とやる気をみせたと外務省担当記者は言う。
「それで外務省内に国連事務総長になる場合に対応するための、四、五人のプロジェクト・チームをつくった」
けっきょく「小和田事務総長」はまぼろしに終わったが、
国会では国連平和協力法案が廃案を目前にしていた時期であった。日本の国際貢献の方針が、
憲法の精神をめぐって決まらずじまいであった。
この微妙な時期に、小和田氏は国連事務総長ポストにこころを動かされていたということになる。
この時、自分の長女が皇太子妃として有力になりつつあることを、小和田氏はご存じなかったのだろうか。
ほぼ一年後の一九九二年十月三日、千葉の鴨場で雅子妃は皇太子からプロポーズを受け、
十二月十二日、東宮仮御所で結婚を了承する。
天皇家に深くつながることは、あらゆる利害から独立してあるべきだということと、
国連事務総長もまた、あらゆる利害から独立してあるべきだということはどちらも自明の理である。
小和田氏がどちらの立場も同時に手に入れようとしていたら、この矛盾をどう説明するのだろうか。
小和田氏の立身出世のおもいは、一九九三年八月一妃に外務事務次官を終えてからもつのっていたようで、
外務省関係者は「ご本人は、駐米大使になりたかったようだ」と話す。
栗山尚一駐米大使の任期もからみ、また天皇家と縁戚関係になったことから、
日米摩擦などで傷つけてはならないという配慮もあって、国連大使に落ち着いたのだが、
この席でも「国連には情報がない」とこぼしていたという。
そして、ことし六月八日、ニューヨークの国連本部でひらかれた国連安全保障理事会改革作業部会の席上、
小和田国連大使は、「日本は常任理事国として、世界の平和と安定のため、なしうるかぎりの責任を果たしたい」
と日本政府高官としては、はじめて「常任理事国」という直接的なことばを使って、
日本の常任理事国入りへの意欲を表明した。政界混乱のなかでの国連本部での発言は、
旧連立政権にかわって生まれた、常任理事国入りに慎重な自社さきがけ連立政権さえも、
やがて常任理事国入りに向かって動かすこととなっていった。

雅子妃の本当の姿
天皇皇后をエスコートした「国連大使」夫妻
明治維新後の東京遷都以降、天皇家は政治の波に翻弄されつづけた。それは京都御所という
民衆にひらかれた代々の居住から、江戸城という武家の城に移されることによって、
比喩的にいえば政治の側に"幽閉"されたとみることができる。
京都時代の天皇は、ときに六条河原にも足をはこび、人目にふれることはしばしばだったが、
広大な江戸城に移ってからは、民衆の目にふれることは少なくなった。こうして民衆から隔離することによって、
明治政府は富国強兵政策のもとに天皇を軍神としても奉り、戦争の時代へと国を導いてく。
太平洋戦争が終わってみれば、日本の政治にアメリカ合衆国までが加わり、
戦中は現人神としてまつられた昭和天皇は、戦後は人間天皇となり、贖罪の意識を崩御のきわまで懐きつづけた。
全国巡幸の旅や全国植樹祭への参加は、人々の気持ちを癒すというただひとつの目的のためであった。
その孫として、昭和天皇から直接、薫陶を受けつづけた皇太子は、
一九九〇年二月二十三日の三十歳の誕生日の記者会見で、右翼による本島等長崎市長の
狙撃事件について質問され、きっぱりとした口調でこたえている。
「言論の自由は、つねに尊重されなければならないものであり、これを暴力によって封ずるという行為は、
断固としてあってはならないことであると私は考えます」
本島市長は「昭和天皇に戦争責任はある」と公の場で語り、狙撃されたのだ。
皇太子はその狙撃事件を、「断固として」という強い表現を使って断罪したのだった。
おそらくそこには、たんにこの事件についてばかりではなく、
歴史的視点に立った広い意味での祈りがこめられていたようにおもう。
そんな皇太子の姿勢は一九八七年九月の沖縄訪問のときにも如実にしめされた。
皇太子は、およそ二十万人もの犠牲者をだした沖縄戦で、最後の戦場となった本島南部の「ひめゆりの塔」に
足をはこんでいる。塔に祈りを捧げたあと、人々から当時の女性とらの最期を聞いた皇太子は、
ふたたび塔のまえに歩み寄り、頭を下げたのである。
新しい政治の波が「普通の国家」というかけ声のもとに押し寄せているいま、
皇太子は石のように動かずにいなければならないのかもしれない。
常任理事国入りについての国民的な議論をなんら喚起することもなく、
「まず常任理事国入りありき」で突き進む政治の力。
果たして安保理の採決にたいして拒否権を行使できるかどうかも、いまの日本のあやふやな姿勢では危ぶまれる。
常任理事国入りのための尖兵として、政治の側から皇室外交を押しつけられたのでは、
天皇家とはいったいなんだということになってしまう。
けれども、じつはことし六月の天皇訪米で、すでにそれは果たされていた。
天皇皇后は、ニューヨークの国連本部を訪れ、ガリ事務総長夫妻が主催する午餐会に招かれた。
そのとき天皇皇后をエスコートしたのは、国連大使の小和田夫妻だった。
常任理事国入りをアピールするには、絶好のパフォーマンスであった。

「キャリア・ウーマンという雅子妃」の幻影
九月四日の日曜日の午後、東京・目黒の閑静な住宅街の一角にある小和田邸は、
ひっそりと静まりかえっていた。
雅子妃の母方の祖父母が住む江頭邸と軒並びに建ち、共同の玄関まえの植えこみのそばには、
電話ボックスタイプの警備所がある、若い警官がひとり立っていたが、警備所のなかをのぞいたとき、
くすんだ壁の奥に、場違いなほどのあざやかな色彩の束があった。千羽鶴だった。
わずか一センチほどの大きさの鶴が、白と赤と交互に五十センチほどの長さでつらなっている。
それが十連もある。根気のいる細かな手作業の成果をだれが贈ってくれたのかと問うと、
意外にも「雅子さまのお母さまが」と警官はこたえた。
雅子妃がこの家にいたころは、外務省北米二課で日米包括協議を担当していた。
マスコミはバリバリのトップキャリア・ウーマンとしてさかんに報じていたが、
現実はもっとおっとりとした女性らしい。外務相時代のある上司は、
「彼女はふつうの女性なんです。そこをみてあげないと、かわいそうだ」と言う。
「仕事もテキパキというわけではない。包括協議では、一ヶ月泊まりこんで調整をやったこともある。
けれども、彼女はのんびりしているのか、マイペースなのか、ひとり二時三時を過ぎても、
黙々と仕事をしているんです。自己主張をしない人だった。いちばんの美徳は我慢強いことです」

この話からは、伝えられるイメージとは、まるで正反対の雅子妃の地味な姿がおもい浮かぶ。
皇族方による雅子妃バッシングは、ご当人にとってはいわれのないことだろう。
この八月以降、栃木の茶白岳、北海道の羅臼岳と皇太子とともに登山を楽しんでいくうちに、
少しずつ雅子妃の表情には明るさがもどってきたようにおもわれる。
最近は外務相時代の同僚や上司を赤坂御所に招き、諸外国の情勢分析に熱心に耳をかたむけているという。
小和田邸には、いまはだれも住んでいない。その、主不在の邸宅にいろんな人々が尋ねてきた、
と若い警官は言う。親類を名乗るもの、「天皇の弟」という人も来た。
きわめつけはスポーツ新聞を手にもった二十五〜二十六歳の男が、
「おれは雅子の婚約者だ。そのことをこの新聞に書かれて迷惑している。ほんとうかどうか確認に来た」と
警官に迫った。ここだと指示されたところをみると、それはプロ野球選手の婚約記事だった。
雅子妃の幻影は、まだこの邸宅の周囲に留まっている。

もうひとつの幻影のほうは、ご成婚によって、その痕跡すらも完全に消え去ったかのようである。
軒並びに建つ江頭邸の主である豊氏は、水俣病の原因をつくったチッソの社長をつとめていたことがある。
宮内庁ではそのことが問題にされ、雅子妃と皇太子の結婚話は一度、立ち消えた。
「三代にわたって汚点なし」というのが、お妃選びの条件のひとつで、雅子妃はそれに抵触するということだった。
皇太子もそれがご成婚の妨げになっていたことを、婚約会見の席で率直にふれている。
ところが、一転して雅子に決定したとき、宮内庁の説明はつぎのようなものだった。
「江頭氏は社長といっても、水俣病が発生したあとに日本興業銀行から派遣された方。
公害病発生とは無関係で、責任はない」
たしかに水俣病の発生が確認されるようになったのは一九五六年ごろからで、江頭氏が日本興業銀行から
チッソの専務となったのは、それから六年後の一九六二年のことだった。二年後の一九六四年には副社長、
同年暮れには社長となった。
けれども、江頭氏が経営権を握ってからも、チッソは自分たちの工場排水のなかの有機水銀が
水俣病の原因であることを認めようとせず、患者との交渉もいっさいもとうとしなかった。
それどころか一九六六年まで、水俣湾に水銀をたれ流しつづけたのである。
当然そのあいだに、水俣病患者は大量発生することになった。
ご成婚より二年前の一九九一年一月三十一日の段階で、水俣病患者と認定されなかった人は一万千二百八十一名、
認定された人は二千二百四十二名、認定を待つ人は二千八百九十名だった。
それまでにも、多くの患者たちの生命が消えていった。
公害病としては、世界に類例をみない規模にまで拡大していったのである。

祖父江頭豊氏と水俣病
皇太子と雅子妃がいま望んでいることは何か
水俣の海は、遠くに天草の島影を映しながら、透きとおるような青をどこまでもひろげていた。
あれほどの公害病を蔓延させた海は、まるで嘘のように明るく輝いている。
私は水俣湾を見下ろす小高い丘で、川本輝夫という六十三歳の農夫と会った。
農夫といっても、水俣病患者の救済のために、みずからも水俣病のからだをおして闘いつづけてきた
牽引車のひとりだ。川本氏は病のためにときおり首から上をぶるりと振るわせながら、こう語るのだった。
「戦争中、チッソは国策会社でした。戦後は戦後で食糧増産のかけ声のもと、肥料の大量生産をやっとりました。
昭和天皇は昭和六年と昭和二十四年の二回、水俣の窒素向上に来とられる。ひとつの会社の激励のために、
わざわざですよ。
私たちの調べじゃ、チッソは昭和七年から水銀をたれながしとるんです。その七年後には、
水俣病らしきものがでとる。江頭さんは発生には関係なかていうこつらしいが、
江頭さんがチッソをやめる昭和四十六年までの約十年間が、いちばん水銀が拡大放置されとった時期なんですよ」
四、五年まえ、水俣病の患者たちのあいだで「水俣をみにきてほしい」という請願書を、
天皇家に送ろうという動きがあった。けっきょく内部の反対で実現しなかったが、
いまでも川本氏は天皇家に請願書を送りたいとおもっている。
「私らのあいだじゃ、皇太子夫妻で新婚旅行に来ればいいて言うとったんです。
賠償やらなにゃらの問題はともかく、気持ちの癒しがいちばんなんです」
御成婚の恩赦によって、選挙違反に問われた人々に大赦がおこなわれたりしたが、
なぜ政治的な違法行為者にはそのようなことができて、水俣の犠牲者には慰めひとつあたえることができないのか。
私は水俣から北上し、宇土半島の付け根の町まで行った。大潮のその晩、神社の境内から、
漆黒の海の彼方に不知火がともるのをみた。不知火は一所でぱっと炎をあげるとふたつから三つに別れ、
帯のように水平線を横につらなっていく。あの不知火のはるか向こうは、水俣の海だ。
記紀の時代、景行天皇の九州遠征のさいに、海上で迷った天皇を陸にみちびいたのが不知火とされる。
天皇を助けたこの海域は、いまだに癒されることなくたゆたっている。
諸外国への戦後補償にあけくれたところで、足下の自民の民のこころが癒されないかぎり、
日本の戦後は終わらない。なおされそれが天皇家の政治利用によっておこなわれつづけるのなら、
人々のこころは天皇家から離れていくばかりだ。政治の狙いが、じつはそこにこそあるのだとしたら、
皇太子と雅子妃の姿がどことなく陰影をおびているわけもわかる。
「天皇家のあり方についての国民的な議論を、皇太子殿下はのぞまれているはずです」
皇太子の学友である乃万鴨敏氏は、そう話す。
二十一世紀の天皇は、いま寒々とした荒野に立たされている。


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森茉莉 著 マリアの空想旅行

森茉莉 著 マリアの空想旅行
昭和46年 芸術新潮
現代の国民が今上陛下や皇族方に親しみを持ち、
とくに常陸宮、華子妃、礼の宮に親愛を抱いていることが、
週刊誌などにちらつく興論の中に見える。
常陸宮、常陸宮妃のとりつくろわない、どう見せよう、というところのない、自然なところや、
礼の宮の自然児のところを国民は感じ取るのだろう。
私は礼の宮の、どこか偉きな(おおきな)ところと、
天衣無縫なところ、我儘で、感受性の鋭いところがなんともいえなく好きである。
常陸宮、礼の宮、ともう一人、まだあまり一般の国民には親しまれていないが、
三笠宮の寛仁親王、このお三人はたしかに明治天皇的である。

雅子妃「妊娠」どころかゴーゴーダンス熱狂

週刊新潮2000年6月8日号
雅子妃「妊娠」どころかゴーゴーダンス熱狂

雅子妃殿下(36)がゴーゴーを踊られた。ロックのリズムに身を乗せて、軽やかに、楽しげに。
去る5月28日に行われたテニスクラブのバーティーでの出来事だが、見ていた参加者もビックリ仰天。
そのご様子からは「妊娠」はまだ・・・。

東京・港区南麻布の一等地にある『東京ローンテニスクラプ』は、
1900年に創設された日本最古の名門テニスクラブ。
名誉会員に天皇皇后両陛下、皇太子など皇族方が名を連ね、
一般会員にも各国の駐日大使や旧華族、有名企業のトップなど紳士淑女がズラjと並んでいる。
その名門クラブの創設100周年の記念行事が、この5月26日から3日間にわたって催された。
皇太子ご夫妻が揃ってクラプハウスにお姿を見せたのは、最終日の28日。日曜日の午後6時過ぎだった。
「今回の記念行事は、26日にクラブでのカクテルバーティー、
27日に東京湾でクルーザーを借り切っての洋上バーティー、
そして28日に、またクラブで最後のお名残りパーティーが行われたのです」と、さる女性会員。
「でも、両陛下はど訪欧と重なっていたし、
皇太子ご夫妻も最初の2日間はお見えにならなかったので、
もし最後の日にでも来てくだされば、
こんな光栄なことはないと内輪で話していたんです」
それだけに、当日ご夫妻が突然、会場に現れると、参加者たちは大感激。

さる古参会員も嬉しそうにこう話す。
「いわゆる、お忍びでお見えになったわけですが、
私たちも直前まで知らされていなかったので、そりゃ大喜びでした。
あの日の参加者は日本人が約200人で、外国の方が40人ぐらいですか。
拍手でお迎えしましたが、皇太子殿下はスポーツシャツにジャケット、
雅子様もプラウスにスポーツジャケット、
それにやや短めのベージュのスラックス姿でね。
それがまたファショナブルに決まってました」
日本酒で乾杯後、バイキング形式の食事を楽しみながら会話に加わったお二人だ。
くつろいだ雰囲気の中、始終ご機嫌のご様子だった。
「皇太子殿下自ら、列に並んで雅子様のためにローストビーフをお取りになったりされましてね。
殿下は学習院のと学友、雅子様は外国の方と主にお話をされていたようですが、
そのうち19世紀末のコスチュームでテニスの試合をする余興なども始まって、
ますます盛り上がっていきました」(古参会員)
で、やがてダンスが始まった。会場では、カントリーウェスタンの生バンドが演奏していたが、
最初はクラブブハウスの中から屋外のコートまでつながった輸が出来て、
みんなでフォークダンスのようなものを踊っていたという。
別の男性会員が語るには、
「あれは何と言うのかな。前の人の肩に手を置いて、ぐるぐる回る踊りですが、
ご夫妻も笑いながら参加されて、ワイワイやっていたんです」
と、今度は曲調がガラリと変ってディスコ風のロックが演奏され始めた。
さすがに年配者はこれには加わらなかったが、
外人会員たちがそれに合わせてゴーゴーダンスを始めると、
皇太子ご夫妻もその中に入っていかれたという。
「その時は、もうみんなビックリしていましたよ。
確かブレスリーの曲だったと思いますが、
とにかく会場がちょっとしたディスコのようになったんです。
そこに雅子様が飛び入りされて、激しく踊っておられるんですから、
まず前代未聞でしたねえ。リズム感はなかなかでした。
殿下も一緒に踊られましたが、それはまあ、雅子様の方が格好はよかったですね。
やっぱりお若いんだなあと思いました」
そんなダンスは5分近くも続いたが、
同時に、見ていた参加者の間からは「お喜びの日はまだ先になりそうだ」という囁きも聞かれたという。
「先日も、一部のマスコミに雅子様に『ご懐妊』の兆しだの『マスコミはすでに厳戒体制』だのと
全く根拠のない記事が書き立てられたばかりでしょう。
ご夫妻は予定をオーバーして午後9時前まで、3時間近くも楽しんで帰られました。
でも、ゴーゴーを踊る元気な雅子様を見て、私たちは嬉しかった。
まだしばらくの間は静かに見守ってさしあげたいですね」(女性会員)




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雅子さま「愛子を天皇に・・・」

女性自身2007年9月25日号
小和田家の知人が明かす「切なる願い」 雅子さま「愛子を天皇に…」


雅子さまのご実家・小和田家とは長年、家族ぐるみの交際があり、
ご成婚前から雅子さまを知るA氏は、本誌の取材に初めてこう明かす。
「雅子さまは、秋篠宮家に悠仁さまがお生まれになってから、ますます孤立を深められているような気がします。
なぜなら雅子さまは、愛子さまに将来、皇位を継承してほしいと、切に願っていらっしゃると思うからです。
それが悠仁さまご誕生以来、皇室典範改定の議論もされなくなってしまった。
雅子さまのご病気が癒えない最大の原因は、ここにこそあると考えています」


「雅子さまはご結婚から8年間も“お世継ぎを産まなければいけない”というプレッシャーに苦しまれてきました。
しかし愛子さまがお生まれになったにもかかわらず、今度は皇太子ご夫妻のお子さまでありながら皇位継承権がない。
雅子さまは昔から大変責任感の強い方でした。皇太子妃として男のお子さまを産めなかったという忸怩たる思いと、
皇太子さまとご時分の子どもが、なぜ将来、天皇になれないのかという寂しさのようなものがあるのだと思います」

「最近は、お元気になられたようにお見受けする雅子さまですが、
ご公務復帰を望む声もプレッシャーになってしまうのだとうかがっております。
責任感とプレッシャーの悪循環のなかで、愛子さまの将来を幸せを願う雅子さまのお気持ちを察するなら、
もはや一刻の猶予もないのです」

※記事中からA氏の発言のみ抜粋


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続・憂国呆談

続・憂国呆談
浅田彰・田中康夫共著 ダイヤモンド社 2005年

※週刊ダイヤモンドでの対談

【田中康夫】
仰るとおり。紀子スマイルとやらに秋篠宮だけでなく
天皇・皇后夫妻も“なびいてしまっている”のは、いやはや、何ともだ。
皇太子妃の古巣である外務省なんかじゃ、父親が事務次官だったことも含めて、
いまだに嫉妬が渦巻いているみたいだしさ。
しかも、宮内庁記者クラブも、怪しからん話だけど、皇太子夫妻に対して冷たい。
気の毒だよね、ほんとうに。

【田中康夫】
勝谷誠彦がWEB日記で書いてるけど、皇太子批判の急先鋒は「朝日」だよ
(http://www.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=31174&log=20041225)。
岩井克己という皇室番記者の編集委員がね、
「気になるのは、憶測が広がり、様々な人が傷つきつつあることに対して、
皇太子ご夫妻からブレーキをかける強い意志が感じられないことだ。
両陛下が心を痛めていることや、自分たちが務めを充分に果たしていないことについて
率直にわびる言葉も聞こえてこない」と言い切ってるの。
雅子妃の心の痛みを増大させているのは誰なんだ(苦笑)。

皇居での新年一般参賀に雅子妃が二年ぶりに出席した。でも、まだ静養が必要なんだろうね。
なのに先月のWeb版でも触れたように、このあいだの天皇誕生日の「朝日新聞」には、
「気になるのは、憶測が広がり、様々な人が傷つきつつあることに対して、
皇太子ご夫妻からブレーキをかける強い意志が感じられないことだ。
両陛下が心を痛めていることや、自分たちが務めを十分に果たしていないことについて
率直に詫びる言葉も聞こえてこない」なんて記事が出た。
紀宮の婚約をスクープした編集委員の岩井克己が書いたんだけど、ふざけちゃいけない。
誰が彼女をあそこまで追い詰めてしまったのか。
秋篠宮と並んで「微笑む」紀子妃が映し出されるたびに問い質したくなるよ。

【田中康夫】
紀宮の婚約内定の会見でも、秋篠宮夫妻への感謝の言葉はあっても、
皇太子夫妻に関してひと言もないって変でしょ
それを疑問視しない記者連中もどうしようもない。ある種の不敬罪だよ。

【浅田彰】
そう、紀宮の結婚を仲介したってことで秋篠宮がやたらと持ち上げられ、
その分、皇太子夫妻がバッシングされる。
あれはキャリア・ウーマンに対するバッシングなんだよね。子どもを産まない女性は「負け組」だ、と。

【田中康夫】
だって、ちゃんと可愛い子どもが誕生したじゃん。

【浅田彰】
そうだけど、皇室では男の子を産まないといけないから。

【田中康夫】
ならば、紀子妃も同列だよ。
真剣な話、僕は雅子妃と皇太子を囲んで励ます会でも開催したいと思ってるくらいなの。
http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200502/


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雅子妃 歌会始

■知恵おそき子 平成8年

雅子妃お歌  
もろ手もちてひたすら花の苗植うる知恵おそき子らまなこかがやく
http://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/pdf/utakai-h08.pdf

参考 「知恵おそき子」という表現は歌の世界では使われるということだが
適切ではなかったという意見も一部にあった。
雅子妃の施設訪問時の表情や態度からは、愛情はあまり感じられず、
それが、この歌に対する批判の元にもなっているという声もある。

週刊朝日2008年2月3日号
雅子さまはなぜ「私的」な歌ばかり詠むのか
平成8年の「もろ手もちてひたすら花の苗植うる知恵おそき子らまなこかがやく」
この表現をめぐって否定的な声がでた。
「反応を想定し、周りはこの歌を出すことに躊躇しました。ですが、妃殿下は表現への意思を強く示された」
案の定の反応に以後、一切公務の歌は詠まなくなった。

■抗議の乗馬 平成18年

週刊女性2006年2月14日号
「3年前の5月の愛子さま公園デビュー事件を思い出す」と語るのは、
皇室事情に詳しい旧宮家関係者。
「あのときは皇宮警察音楽隊の創立記念演奏会の日。
皇族方はそろって出席されたが、 皇太子ご一家は欠席された。
皇后などは、大変不満に思われたと聞いている。
なぜ、そういう行動をとられたか? 
「あれは一つの意思表示だったといわれているんです」
当時、愛子さまは1歳6ヶ月。第2子(男子)出産のプレッシャーが頂点にあったころのことだ。
じつは、あの日の皇太子ご夫妻の行動は、
それへの拒否の意思表示でもあったと指摘する関係者も少なくない。
「一見非常識とみられる行動には、常に深い意味がある。
あの日は、歌会始で子づくり宣言(?)とも思われるような歌を秋篠宮ご夫妻が詠まれた。
今回はたとえば、そんなことが関係しているのかもしれませんね」(同前)
そもそも雅子さまが乗馬を始められたのは、'99年の流産後、医師のすすめからだったといわれている。
そんな経緯を考えると、今回の乗馬事件は意味深なものがある。
雅子さまの、ある種の“抗議”の意思表示では……と、この関係者は推測する。

週刊ポスト2006年2月3日号
宮内庁が蒼くなった雅子妃皇居で乗馬事件
雅子妃のワガママに慣れっこになっている記者クラブと宮内庁。
しかし、歌会始のあった1月12日の午後、
雅子妃が皇居に来て1〜2時間も乗馬をしていた事実が発覚すると、さすがにお驚きの声が上がった。
体調に考慮するのなら、歌会始に出席して、午後から休養するべきではないのか。
それでも東宮大夫、侍従長に公式の場で質問が飛ぶことはなかった。
乗馬も治療の一環と回答が返ってくるのは、目に見えているからだ。
小和田恒氏は、オランダのハ−グへ赴任。
母親の優美子さんは、帰国すると東宮御所へ直行し、雅子さまの生活に関する要望を、細々と側近に訴える、
それで宮内庁VS小和田優美子さんの構図ができて、雅子妃の立場をますます悪くしていると思われる。
「雅子さまは、年頭に当たって我が国と国民全員の繁栄を祈る『元始祭』にも3年連続でご欠席されている。
天皇家の宮中祭祀であり皇族の義務ともいえるこうした行事より、
たとえ治療とはいえ自己都合を優先されるということなのでしょうか」(宮内庁関係者)
「明らかに天皇皇后両陛下と秋篠宮ご一家の仲は良いわけですから、
現在は皇太子ご夫妻だけが孤立している感が強い。
皇太子ご夫妻は、雅子さまの外国生活が長かったせいか、お友達やご相談相手が少ないんです。
(略)
東宮職も04年5月に皇太子が行った“人格否定”発言以来、
雅子さまに関しては腫れ物に触るような雰囲気になっており、誰もご進言できない。
現在の皇太子ご夫妻は、マスコミへの対応などを含めて、
ますますお立場を悪くされているのです」(皇室ジャーナリスト)

■提出が遅い 平成19年

週刊新潮2007年12月20日号
12月から新年にかけて行事が続くが、
元旦に紙面を飾る天皇ご一家の写真撮影の日程が 12月10日の段階で未定。
天皇皇后両陛下から候補日を挙げて頂いてそれに通常合わせるが、
学校行事との調整が大変な秋篠宮家がすぐに返事を出したのに
愛子さまが幼稚園で大したスケジュール調整も無いと思われる東宮から
まだ返事がなく宮内庁は非常に困っている。
おまけに年明けの歌会始の準備も皇族方は通常11月中旬までに
歌を提出しなければならないのに雅子さまだけは未提出。

■公の心がない

週刊朝日2011年12月30日号
毎年1月に、天皇陛下や皇族方が和歌を披講される歌会始の儀がありますが、
他の皇族方が世の情勢や平和など公的な内容を詠むなかで、
雅子さまは00年から09年まで一貫して、皇太子さまや愛子さまなどご家族のことを詠み続けた。
お側の人間が皇太子さまにやんわりとご注意申し上げたが、
皇太子さまは雅子さまにお伝えにならなかったようです。

■歌碑 平成25年

平成8年の訪問で平成24年に歌を詠む

皇太子妃の短歌の石碑除幕式 皇太子妃・雅子さまが去年の「歌会始」で、
福島市のミズバショウを題材に詠まれた短歌を記した石碑が完成しました。
石碑ができたのは福島市の土湯温泉にある熊野神社です。
4日は地元の住民や旅館業者などが出席して除幕式が行われました。
高さ2メートルほどの石碑には雅子さまが詠まれた
「春あさき林あゆめば仁田沼の岸辺に群れてみづばせう咲く」という短歌が記されています。
雅子さまは去年の「歌会始」で平成8年に皇太子さまとともに土湯温泉を訪れ、
10万本あまりのミズバショウが生育する仁田沼を散策した際の光景を題材にこの短歌を詠まれました。
4日は、石碑のそばに源泉かけ流しの温泉を使った足湯を楽しめる休憩所も完成しました。
土湯温泉は、原発事故の風評被害などで観光客は大きく落ち込んでいます。
土湯温泉観光協会の渡邉和裕会長は
「温泉街の復興に向けて、観光客を呼び込むきっかけにしたい」と話しています。
04月04日 19時37分 (2013)
http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6053192641.html?t=1365078656872


2012年1月15日 たかじんのそこまで言って委員会
「新年早々ムカムカしている事は?」
勝谷「皇太子の歌」
それなりの覚悟で言います。歌会始めがありました。「岸」というお題です。
天皇陛下も皇后陛下も本当に被災地の方々に心を寄せた歌を詠んでくださいました。
他の皇族の方々、例えば秋篠宮妃など数人の方が被災地のことを思って詠んでくださいました。
当然、皇太子ご夫妻はせめてどちらかが被災地のことに心を寄せた歌を詠まれると、僕は思っていました。
(皇太子と雅子妃の御歌) これはヒドイと思いますよ。
物見遊山の歌を、これだけ他の皇族の方々がちゃんと・・・・・
皇統綿々二千年の中でも何回もない(ひどい)目に国民が遭っているわけですよ。
当然、そこに心を寄せてどちらかの方が歌を詠むのが当然でしょう。
しかも、雅子さんの仁田沼の水芭蕉がきれいだねっていう 仁田沼がどこにあるか、皆さん知ってますか?
福島県福島市ですよ。 今もっとも放射能汚染で苦しんでいる方々のところに遊びに行って※
水芭蕉が咲いているのを見ました、 きれいでしたね、と。
周囲が止めるべきでしょ、まず。 あと、共依存があるな、この二人は。
(歌の)冒頭は「あさまだき」と「はるあさき」なんですよ。似すぎてる。
僕は新年から非常にムカムカしました。

(※皇太子夫妻が仁田沼に行ったのは平成8年)

■平成26年 釜石
雅子さまの特別な思い ←大絶賛

だが、実際のご訪問では…
(女性セブン2013年11月28日号)
実はご夫妻が訪問された釜石市応急仮設住宅の団地関係者には、行政からいくつかの注意があったという。
「まず事前に経歴書の提出を求められました。それも行政から配られるわけではないので、
市販の履歴書を買って提出しました。それに皇太子さまがノーネクタイでいらっしゃるから、
それに合わせたラフな格好にしてくださいとか、
挨拶するときには自己紹介だけで、こちらからは絶対に質問するなとか…。
せっかく慰問に来ていただいたのに、息苦しくて大変でしたね…」(団地関係者)

■そもそも出席しない
平成29年現在、14年連続で欠席中