2017年10月-12月雑誌記事

愛子さま、高校野球大会を観戦 過去に野球を巡る秘話も
2017.10.14 07:00
秋に似つかわしくない暑さとなった10月8日、明治神宮球場(東京・新宿区)に隣接する第二球場で、
高校野球秋季大会の試合が行われた。第1試合でぶつかったのは、学習院高等科と駿台学園高校。
午前10時のプレーボールを前にして、両チームのアルプススタンドは応援の熱気に包まれる。
そのとき、学習院側の応援席に、愛子さまがお忍びで姿を見せられた。
デニムスカートに白い半袖のカットソー、足元は白のスニーカーという出で立ちの愛子さま。
トレードマークのポニーテールを若草色のシュシュで結ばれ、
首元には白い花びらがデザインされたネックレスをされていた。
「お友達とご一緒にいらっしゃったようで、バックネット裏の前から8番目の
“絶好ポイント”に着席されました。愛子さまが通われる学習院女子高等科と学習院高等科は、
いわば姉妹校。水色の帽子にタオル、メガホンで用意万全、大きな声援を送られていました」(学習院関係者)
愛子さまの野球好きは有名で、ご一家でプロ野球の試合を観戦されたこともある。
毎年6月、学習院と筑波大附属中・高の間で、野球や陸上競技、バスケットボールなどの試合が行われる
通称「附属戦」というイベントがある。愛子さまは今年の附属戦で、野球部の試合を観戦された。
「学習院初等科5年生の時には野球クラブに入りたいというお気持ちもあったそうです。
結局、男子児童しか入れないため断念されました」(宮内庁関係者)
2回に4点、3回に2点を奪われ序盤から苦戦を強いられる展開の中、
チャンスのシーンでは飛び跳ねんばかりにバッターにエールを送られていた。
「赤い双眼鏡を取り出されて終始熱心に応援されていましたが、一際声援が大きくなったのが、
愛子さまと同学年のA君がバッターボックスに立ったときでした。
デジカメをバッグから取り出され、パシャパシャと撮影をされていたのです。
終盤にA君がヒットで出塁し、続くバッターのヒットでホームに帰ってくると、
愛子さまは両手を上げられて大喜び。隣のお友達に笑顔で話しかけられ、
何度もうなずきながら拍手を送られていました。A君は学習院中等科出身。
もしかしたら、初等科で愛子さまと机を並べられていたのかもしれません。
年頃の女の子なら誰でも通る道と申しましょうか、大変おかわいらしいご様子でした」(前出・学習院関係者)
まさに「神宮球場の青春」。実は愛子さまの中で、「野球」と「恋心」が結びつくのは初めてではない。
「初等科6年生の頃、愛子さまと仲良しだった女子児童が、
意を決して野球クラブに入っていた男子にラブレターを渡して告白したことがあったそうです。
そのとき、緊張して怖がる女子児童に付き添った女の子の1人が愛子さまでした」(別の学習院関係者)
残念ながら、試合は学習院が1-11の大差で敗北。それでも、グラウンドを駆け回るA君の勇姿は、
愛子さまの心にしっかりと焼き付けられたことだろう。
※女性セブン2017年10月26日号
https://www.news-postseven.com/archives/20171014_620675.html

雅子さまの「愛子さまファースト」に対し懸念の声出る
1年半後にやってくる次代の到来に向け、雅子さまへの期待は日を追うごとに膨らんでいる。
だが、皇太子さまに「おひとり公務」を託された雅子さまの、連日の私的お出ましが波紋を呼んで──。
「愛子さまは頭に白いバンダナを巻き、カラフルな柄をあしらったクリーム色のエプロン姿で、
てきぱきとお弁当を売っていらっしゃいました。メニューはおこわや天むす、すき焼き弁当など。
お友達とご一緒に、笑顔で“看板娘”を務められていました」(目撃した人)
10月最後の週末、愛子さまが通われる学習院女子高等科(東京・新宿区)で、
恒例の文化祭『八重桜祭』が開催された。
「終日雨でしたが、台風を吹き飛ばすくらい校内は活気に溢れていました。
各教室では書道や華道の作品が展示されていたほか、
愛子さまは高校3年生のダンスパフォーマンスなどをご覧になったそうです」(学習院関係者)
中等科3年だった昨年、長期欠席のさなかにあった愛子さまは文化祭を欠席された。
「毎年心待ちにされているイベントだっただけに、ご体調が整わなかったことは大変残念だったことでしょう。
昨年は、欠席中でもクラスの出し物の景品のミサンガ作りなどをお手伝いされていましたが、
やはり今年参加できたことに大変満足されているようでした」(宮内庁関係者)
土、日の2日間にわたって行われた文化祭には、雅子さまも両日足を運ばれた。
「愛子さまとお友達のツーショットを撮られたり、お友達のママも含め4人で写真に収まられたりしたそうです。
また、国際交流部の展示教室に立ち寄られたり、東日本大震災で被災した福島県の復興協力をした
ボランティア同好会の写真やレポートをご覧になったそうです」(前出・学習院関係者)
土曜は14時前に到着され、17時過ぎにお帰りに。日曜は、13時頃から16時頃まで滞在された。
「文化祭は子供たちの日頃の様子を間近で感じられるいい機会ですから、
これまで、愛子さまの学校生活を心配されたことのある雅子さまも、
愛子さまがはつらつと参加される姿にほっと胸をなで下ろされたことでしょう。
ですが“今回ばかりは、自重すべきだったのではないか”という意見も宮内庁内部には散見されるのです。
まして2日間連続でお出ましになられなくても、と」(前出・宮内庁関係者)
その“諫言”の理由は、東京から遠く離れた四国・愛媛にあった。

陛下の意向で誕生した大会
10月27〜29日の2泊3日の日程で、皇太子さまは『全国障害者スポーツ大会』の開会式に出席されるため、
愛媛県で“おひとり公務”に臨まれていた。
「開会式では、“3年後の東京パラリンピックに向けて力強く羽ばたく選手が数多く誕生することを
期待しております”と挨拶され、車椅子バスケットボールや聴覚障害者のバレーボールなどを観戦されました。
また、サイクリング推進の取り組みを視察されるためレンタサイクル施設に足を運ばれたほか、
造船会社のドックで建造中の船舶をご覧になり、その大きさに感嘆の声を上げられていました」(皇室記者)
皇室と障害者スポーツのかかわりは深い。
「もともとこの大会は、皇太子時代の天皇陛下のご意向で誕生しました。
1964年の東京五輪と同時開催されたパラリンピックを両陛下は連日観戦。
大会後、陛下が“このような大会を国内でも毎年行えないものだろうか”と述べられたのをきっかけに、
翌年前身となる大会がスタートしました」(皇室ジャーナリスト)
その後、両陛下はこのイベントに熱心に取り組まれた。思い入れのある大事な公務を引き継がれたのが、
皇太子さまと雅子さまだった。
「残念ながら、療養生活に入って以降、都内で行われた年を除いて、雅子さまはお出ましになっていません。
2泊3日のスケジュールのため、ご負担が大きいということで今回も見送られたのでしょう。
また直後の11月1日には東日本大震災の被災地訪問のため、宮城県に足を運ばれる予定でした。
翌週には秋の園遊会を控えていて、愛媛行きを断念されたことには致し方のない面もあったのでしょう」
(前出・皇室記者)
着実にお出ましの機会が増えている中にあって、今から1年半後には皇后となられる雅子さまへの期待は
日を追うごとに大きくなっている。
「一方、その声に応えようと無理をされ、また病状が後戻りしてしまうことに不安を覚える声も聞こえてきます。
ですから、愛媛にお出ましにならないという判断は理解もできます。しかし問題は、その期間に私的外出として
愛子さまの文化祭に、しかも2日間とも足を運ばれるべきだったのかということです。
文化祭をご覧になることは“できることからする”という治療方針の雅子さまにとってプラスだったかもしれませんが、
このことを障害者スポーツ大会の関係者が知ったらどう感じるか。
“愛子さまファースト”の外出を自粛されるという選択肢もあったのではないでしょうか」(前出・皇室ジャーナリスト)
文化祭2日目の10月29日、天皇皇后両陛下は『全国豊かな海づくり大会』の式典行事や
7月の集中豪雨の被災地訪問のため、福岡県を訪れられていた。
大会の式次第が終わり両陛下が退場される際、ちょっとしたハプニングが起こった。
「壇上に、作文コンクールの受賞者の小学2年の男子児童がいました。
そのとき、席を立たれた陛下が児童の前を素通りしてステージ脇に向かわれてしまったのです。
美智子さまからお声があったようで、陛下はそこで踵を返され、改めて児童にお声掛けをされました」(別の皇室記者)
年間300件を超える公務は、80才を超えられている両陛下にとって大きなご負担であることは明白だろう。
対して、雅子さまの公務の数は50件前後に留まっている。
「皇后になられた雅子さまが、いきなり美智子さまと同じ公務の数を担われることは現実的ではないでしょう。
天皇となった皇太子さまがおひとりでお出ましになる公務も引き続きあると思います。
そうなったとき、雅子さまの“行動選択”が新たな火種とならないか、一抹の不安を覚えます」
(前出・皇室ジャーナリスト)
「次代の皇后」と「母」の間で、雅子さまの心は揺れ動いている。
※女性セブン2017年11月16日号
https://www.news-postseven.com/archives/20171103_626185.html

愛子さまがふっくら! 12月1日にお誕生日を迎えられて16歳に
週刊女性2017年12月19日号
2017/12/6
「愛子さまは、12月1日に16歳のお誕生日をお迎えになりました。
当日の午後6時ごろ、両陛下に挨拶するため皇居を訪れた際に、
周囲から“敬宮さま〜、おめでとうございます!”と声をかけられると、
車の窓を開けて見えなくなるまで笑顔で手をふられていました」
皇太子ご夫妻の長女で学習院女子高等科1年生の愛子さまの近況をそう話すのは、東宮職関係者。
高校生になり学校の勉強や行事にも積極的に取り組まれている愛子さま。
「愛子さまは、高等科から新しく漢文や世界史などの科目が加わり、これまで以上に勉学に励んでおられます。
10月末の文化祭『八重桜祭』では、上級生と2人1組で受験生に学校施設を案内したり、
高等科のダンスチームの公演の司会を務めるなど学校行事でも活躍されました。
11月に入って気温が下がった時期に熱を出して数日間、学校を欠席したこともありましたが、
2学期はほとんど登校してお元気に過ごされていましたよ」(同・東宮職関係者)
昨年のお誕生日では、体調不良のためにかなりおやせになっていたものの、
今年は顔もふっくらしてとても元気そうなご様子。周囲も国民も安心していることだろう。
http://www.jprime.jp/articles/-/11229

秋の園遊会で見せたご快復ぶり「雅子さま」15分の壁
社会・政治 2017.12.08
「この秋以降、地方公務を多数こなされて、ご快復ぶりが自信につながっているようでした。
そこで今回は『15分の壁』を越えるのではないかと期待されていたのです」(皇室ジャーナリスト)
11月、東京・元赤坂の赤坂御苑で催された秋の園遊会。皇太子妃・雅子さま(53)は、またも途中でご退席された。
14時15分ごろ、三笠山と呼ばれる丘に皇族方と整列された雅子さま。
式典行事を終え、数十メートルの距離を歩いて招待客と懇親されたが、
皇太子さまが「そろそろ……」と合図なさると、名残り惜しそうな笑顔を見せながら、
浅黄幕の切れ間に消えていった。
雅子さまは、2004年7月に「適応障害」というご病名が発表されて以降、長らく園遊会に出席されなかった。
2015年秋のご出席は、じつに12年ぶりのこと。
以来、4回連続(2016年秋は三笠宮殿下薨去により中止)の園遊会ご出席となるが、
いずれも15分以内で中座なさっている。だが2017年、宮内庁関係者には、たしかな兆しが感じられたという。
「ご退席までの時間は長くなっている。雅子さまが招待客とじっくりお話しなさっていたためだ。
参議院議員の朝日健太郎氏の前では、雅子さまが手を挙げて “身長が高いですね” と示されたようで、
和やかな雰囲気が見て取れた。
また、退席場所付近で皇太子殿下が合図を送られた後、雅子さまはさらに招待客に声をかけていた。
皇太子ご夫妻の前を進まれる両陛下との距離が、最大で30メートル近くも空くほどだった」
じつは開催前日まで、雅子さまの完全出席が検討されていた。皇室ジャーナリストの山下晋司氏が解説する。
「今回、退出されたのは過去3回と同じ場所。ここを越えると50メートルほど先の取材カメラの前を通り過ぎるまで、
退出する機会はありません。無理はされないように中座されたのでしょう」
園遊会での女性皇族の装いを決めるのは皇后陛下だ。春が和装の場合は、秋は洋装をお召しになるのが定例。
労力がかかり、体を締めつける和装を、雅子さまは苦手とされている。しかし、今回は春に続き和装が選ばれた。
「和装が予定されていた昨年秋の園遊会が中止になったことで、今回和装が続いたとの見方がある。
だが、装いを決めた美智子さまの思いもこめられていたのではないか。雅子さまの体調を慮りながら、
皇后となるまでに皇族として人前で振る舞うことに少しずつ慣れていけるように、
雅子さまの快復を後押ししようとされたのかもしれない」(前出・宮内庁関係者)
2019年の皇后となる日へ向けて、ご快復の道を進んでいる雅子さまは、園遊会のみならず、
今後も「皇后への壁」を越えていかなければいけない。
「雅子さまは、皇族と接する機会の多い人との接触に、特に重圧を感じるようだ。
繰り返し参加する人の多い皇居の勤労奉仕団へのご会釈や、記者会見には現在参加されていない。
今後これらに復帰されれば、大きなご快復の目安になるだろう」(皇室ジャーナリスト)
行事を欠席しがちな雅子さまが、美智子さまと同様に振る舞えるのかーーそんな疑念の声もある。
だが皇室研究家の高森明勅氏はこれに異を唱える。
「たしかに雅子妃殿下のおつとめのなかで、宮中祭祀は身体的にも精神的にも、
もっともハードルが高いと理解していいでしょう。
ですが、皇后におなりになったら、ご公務や祭祀が増えるかというと、そうではないのです。
地方公務は皇太子殿下のほうが多いですし、祭祀の回数は皇后陛下と皇太子妃殿下は同じ。
そもそも、美智子さまと同じように振る舞う必要はありません。
雅子さまの新しい皇后像を求めていかれればいいのです」
「壁」は必ず越えられる。
(週刊FLASH 2017年11月28日号)
https://smart-flash.jp/sociopolitics/29566

雅子さま 美智子さまに直訴!「外国元首とお忍び懇談」
「政府は、新しい天皇陛下となられる皇太子さまの『即位の礼』を19年秋に行う方向で調整を進めています。
外国からの賓客も大勢招かれ、盛大なものになることでしょう」
そう語るのは、宮内庁関係者。政府は年明けにも菅義偉官房長官をトップとする準備組織を設置し、
譲位・即位に向けた準備を本格化させていくという。
12月9日、雅子さまの54歳のお誕生日に発表されたご感想には、こんなご心境がつづられている。
《これから先のことを考えますと、身の引きしまる思いが致しますが、両陛下のお導きをいただきながら、
皇太子殿下をお支えしつつ務めを果たしていくことができますよう、努力を重ねて参りたいと思っております》
このお言葉通り、雅子さまは“新皇后”に向けての努力を密かに重ねられている。
本誌は、それを裏付けるエピソードをキャッチした。ある外務官僚は、本誌にこう明かした。
「まったく報道されていませんが、実は皇太子さまと雅子さまは11月30日に、
千代田区にある在日ルクセンブルク大公国大使館をお忍びで訪問されたのです」
ルクゼンブルクのアンリ大公と長女のアレクサンドラ王女が、国賓として日本に滞在していたのは、
11月下旬のことだった。
「基本的に、アンリ大公のおもてなしは、“同格”である天皇陛下と美智子さまがなさいました。
もちろん皇太子さまと雅子さまも宮中晩餐会には出席されましたが、その場では、ご挨拶程度しかされず、
親しくお話しする機会はほとんどなかったと思います」(前出・宮内庁関係者)
皇太子ご夫妻がルクセンブルク大使館を訪問されたのは、宮中晩餐会の3日後。前出の外務官僚が続ける。
「ご訪問の目的は、離日直前のアンリ大公と懇談されるためでした。ご到着は午後3時ごろ。
大公と王女に迎えられた皇太子ご夫妻は、まず大使館の1階に飾られている写真をご覧になったのです」
写真は、写真家やエッセイストとしても人気があり、国際的に活躍するハービー・山口氏が、
ルクセンブルクの街並みを撮影したものだった。
「明るい雰囲気で写真をご覧になった後、皇太子ご夫妻と大公と王女は、
お茶とお菓子を楽しまれながらお話しをされたそうです」
宮内庁のHPには、皇太子ご夫妻の日程も記載されているが、
ここに11月30日の大使館ご訪問についての記載はない。だが、前出の宮内庁関係者は言う。
「その情報を聞いてから該当部署などに確認したところ、確かに皇太子ご夫妻は、
アンリ大公とお会いになっていたことがわかり、私も非常に驚きました。
皇太子ご夫妻が、お忍びで大使館を訪問され、相手国の元首と会談をされたわけですが、
こうしたケースはこれまでにはなかったことだと思います」
この“前例なき会談”は、皇太子さまと雅子さまが強く望まれたことだったという。宮内庁関係者が続ける。
「皇太子ご夫妻はお代替わり後を見すえられ、『私どもも、日本の皇室とご縁の深い、
ルクセンブルクの王室との関係を大事にしたいと考えています』と、天皇陛下と美智子さまに相談され、
お許しを受けたそうです」
いわば“直訴”によって、実現したものだというのだ。
「ご婚約以来25年、雅子さまにとって“皇室外交”は夢であり続けたと思います。
そして皇位継承が目に見える時期になったいま、ついに動き出されたのではないでしょうか。
これまでのご活動から、雅子さまの目指されている皇室像も、おぼろげながら見えてきます。
その未来の構想の1つが、世界の恵まれない子どもたちを救うというものなのです。
先日のお誕生日にも《広く世界に目を向けても、困難な状況に苦しんでいる人々が数多くいることに心が痛みます》
と、国際的な協力が大切だと訴えられました。ルクセンブルク大公国との絆を深められることも、
その第一歩とお考えになられたのでしょう」
きっと大使館での懇談では、国民との関係の両国の差についても語りあわれたに違いない。
https://jisin.jp/serial/社会スポーツ/imperial/32048

象徴性の力

WiLL2016年6月号
象徴性の力
渡部昇一
(略)
ふと「昭和」という年号について連想した。
敗戦後は、保守派と見做されている人々の中にも、
「昭和天皇は退位されて、一応、戦争責任を明らかにされるべきだ」という意見を言う人もいた。
左翼の人はたいていそう考えていたようだし、もちろん皇室廃止論者も多くいた。
平等主義者からすれば、皇室そのものが民主主義と相容れないという主張になる。
しかし、何ということなく「昭和」は残った。
昭和天皇御自身が退位に反対だったのだろうと御推察申し上げるのだが、
今になって見ても、戦前・戦中・戦後を通じて、一人の同じ人が天皇であらせられ、
したがって年号も「昭和」で一貫していることは、日本の歴史の連続性にとって実に有難い象徴的なことであった。
敗戦直後は皇統断絶の懼れさえあった。断絶はなくとも、もし昭和天皇が退位されて、
別の方が皇位につかれたとしても、皇位の一貫性が、米軍の占領によって、
つまり外国の力で傷つけられたという「感覚」は残ったと思われる。
約七年間、日本が外国によって間接統治を受けていたのは事実としても、
「昭和」が続いていたことは歴史的に重大である。
百年、二百年と経てば、間接統治の七年間は単なるエピソードになってしまうであろう。
そして将来の日本人には、日本人の歴史の一貫性が記憶されるであろう。
そういう自国の一貫性の感じひそは、意識下において愛国心のもととなり、
国民としての誇りのもととなるものだと思う。そして国の繁栄のもとともなるであろう。
(中略)
一見何でもないことのようであるが、些事に見えても、象徴的な意味あることは、
意外に大きな結果を生むことがあるのではないだろうか。
近くの例では平成4年10月の天皇・皇后両陛下の中国訪問を思い出す。
天皇が外国を訪問されることは親善外交の姿としてよろこばしいことであると思う。
しかし相手を考えなければならない。
欧米諸国やアメリカの御訪問ならまことに結構である。
しかし東アジアの元首の訪問は、これを朝貢と見做す国の場合は話が違う。
シナ大陸の王朝では、昔から周辺の君主が首都にやってくれば、
それは朝貢であり、臣下の礼を執ったち見なされるのだ。
日清戦争、満州事変、シナ事変以来、シナのリーダーたちが日本や日本人を憎んだとしても当然である。
しかし蒋介石も、毛沢東も、周恩来も、ケ小平も、
日本を憎んだとしても、懼れたり、尊敬の念は持っていたと思う。
何しろ阿片戦争以来、シナ人を見下し、シナの公園なのに「犬を連れた者とシナ人は入るべからず」という
立札を建てたと言われるほど傲慢だが強かった白人たちに勝った日本や日本人に
一目置く気があったに違いない、と私は思う。
しかし平成4年10月でそれが変ったのである。それは平成元年6月、いわゆる天安門事件が起った時、
中国当局は天安門広場を占拠して市民を装甲車や戦車で制圧し多数の死者を出し、
それが世界中にテレビで放送されたことに関係がある。
この市民虐殺に対してアメリカは武器輸出、軍事交流を停止し、フランスも対中国関係を凍結し、
イギリスも武器禁輸し、ソ連ですらゴルバチョフが憂慮を表面するなど、中国は外交は孤立化した。
中国支持したのは東ドイツとチェコぐらいであった。
それで中国を取り囲む外交の輪の一番弱いところと言われた日本に
平成4年4月に中国共産党総書記であった江沢民が来日し、宮沢首相に天皇の中国訪問を要請したのである。
そして翌日、江沢民は天皇に表敬訪問し、与野党の首脳とも会談したのであった。
この要請を受けて宮沢内閣はその年の10月、両陛下の中国御訪問を実現させたのであった。
中国から見れは、日本の天皇を朝貢させたことになる。
日本の歴史ではシナの王朝との交渉は聖徳太子に始まるとされている。
そして、よく知られるように聖徳太子の書状は、東の天皇が西の皇帝に書いたものという形式で、
大国隋とも平等の姿勢であった。それ以来、日本の天皇がシナ大陸の王朝に朝貢することはなかった。
それが平成4年(1992)の10月に変化が起ったのである。このシナ史上空前の手柄のためか、
この年10月の中国共産党第14回大会において江沢民は党総書記に再選されている。
その江沢民は6年後の平成10年(1998)の11月に日本を再訪問した。その時の皇居における
公式晩餐会での江沢民の姿は、一部テレビにも出たので知られたが傲慢そのものであった。
第一に服装からして他国の元首と公式の食事をするものとは言えなかった。
何より日本の過去を批判するようなスピーチをしたのである。
6年前、宮沢内閣時代にゆってきた江沢民と、この時の江沢民とは別人の如くであった。
天皇陛下を見下している態度なのである。これに対して多くの日本人は腹を立てた。
しかし江沢民側からすれば、すなわち中国人の方から見れば当然なのである。
日本の天皇も、江沢民の目から見れば、今や東の島にある国の「朝貢した君主けにすぎないからである。
宮沢さんにしてみれば、日中関係をよくするためにやったことだったろう。
しかし秀才の多くいたと言われる宮沢内閣に「朝貢」の意味を考える人はいなかったのであろうか。
もちろん朝貢などは公務員試験の対象となる事項ではないだろう。
しかし社名、年号、武士の髪などなど、いろいろなことに象徴的なものがあり、
それには理を越えた何かしらがあると思われてならないのである。

皇室は祈りでありたい

WiLL2016年6月号
皇室は祈りでありたい 長部日出雄(作家)
昭憲皇太后が明治4年に吹上御苑で始められた宮中の養蚕は
「皇后御親蚕」と呼ばれて歴代の皇后に受け継がれて来た。
現在は皇居の森の中の小高い丘に佇む「紅葉山御養蚕所」で、
日中交雑種と欧中交雑種の蚕、それに日本産種の「小石丸」が飼育されている。
日本の純粋種である小石丸は繭の採れる量が少ないため、外来の新品種に座を譲り、
一般の養蚕農家ではもう飼育されていない。
御養蚕所でも飼育中止が検討されていたが、美智子皇后の「繭の形が愛らしく糸が繊細でとても美しい。
もうしばらく古いものを残しておきたいので、小石丸を育ててみましょう」という意向により
辛うじて生き残った。
そこへ平成5年、正倉院宝物の復元模造に取り組んでいる奈良の宮内庁正倉院事務所から、
古代の染織品を復元するために、当時の繭に最も近いとおもわれる御養蚕所の小石丸を使わせて貰えないか、
という申し入れがあった。その頃御養蚕所で生産する全種合わせて244キロの生繭のうち、
小石丸の収繭量は僅か3.38パーセントの8キロでしかない。
従って正倉院の染織品復元に要する量を満たすのは非常に難しく、
美智子皇后は人手が少ない御養蚕所の所員の負担が過重になるのを気遣われたが、結局要請を受け入れ、
「正倉院宝物染織品復元十箇年計画」に加わった御養蚕所では、
小石丸の収繭量を従来の6、7倍に増やすことにして、初年度には48キロの生繭を正倉院事務所へ送り出した。
御養蚕は美智子皇后が中心になって行なわれ、一回の養蚕期間のうち二日に一度は、
多忙なご公務の合間を縫い、紺絣の着物の上位にスラックスという姿で所員と共に作業をされた。
皇后は皇太子妃の頃から養蚕について幾首も歌を詠まれているが、
この「十箇年計画」の間の心境を伝えるものに次の一首がある。

「この年も蚕飼(こがひ)する日の近づきて桑おほし立つ五月晴れのもと」
(「おほし立つ」は「生し立つ」の意)

小石丸の増産が始められてから十年目の平成16年3月に、染織を京都の川島織物が担当して
絢爛豪華な古代裂(こだいぎれ)を大量に復元した「十箇年計画」は無事終了した。
収繭量が増えた小石丸の糸は、続いて鎌倉時代に製作された『春日権現験記絵』
(大和絵で描かれた社寺縁起絵巻の代表作であると共に歴史資料としての価値が極めて高いとされる)
全二十巻の表紙裂地の復元に用いられることになった。

以上は「皇后陛下古希記念」として刊行された『皇后さまり御親蚕』という本で知ったことである。
美智子皇后が国民の多くの目に触れないところで、わが国の伝統文化を後世に伝えようと地道な努力を、
いかに根気よく続けているかが察せられるであろう。
美智子皇后は「伝統」に関して独特の考えを持っていて、御結婚五十年り記者会見で、
お二人で守って来られた皇室の伝統について質問されたのに対し、こう答えられた。

「伝統と共に生きるということは、時に大変なことでもありますが、伝統があるために、
国や社会や家が、どれだけ力強く、豊かになれているかということに気付かされることがあります。
一方で型のみで残った伝統が、社会の進展を阻んだり、伝統という名の下で、
古い慣習が人々を苦しめていることもあり、この言葉が安易に使われることは好ましく思いません。
また、伝統には表に現れる型と、内に秘められた心の部分があり、
その二つが共に継承されていることも、片方だけで伝わってきていることもあると思います。
WBCで活躍した日本の選手たちは、鎧も着ず、切腹したり、ゴザルとは言ってはおられなかったけれど、
どの選手も、やはりどこか『さむらい』的で、美しい強さをもって戦っておりました。」

このように言葉の表現はいつも和らかで、
それがいかにも「和の国」であるわが国の皇后陛下にふさわしく思われる。
また伝統には守るべきものとそうでないものがあるという話は、ご結婚されてから、
皇太子殿下が宮廷内の強い反対を押し切って、天皇家の伝統であった親子別居とそれを支えていた
乳人制度を廃止し、親子同居の家庭生活という画期的な改革を実現されたことをおもい出させる。
美智子皇后の記者会見でのご発言や、宮内記者会の代表質問に対し文書で寄せられた回答で、
発表当時から私の記憶に強く残っていた箇所は次の二つであった。
一つは御即位十年に当っての記者会見で、十年を迎えたお気持ちを聞かれ、次のように答えられたことだ。

「社会に生きる人々には、それぞれの立場に応じて役割が求められており、皇室の私どもには、
行政に求められるものに比べ、より精神的な支援としての検診が求められているように感じます」

「様々な事柄に関し、携わる人々と共に考え、よい方向を求めていくとともに、国民の叡知が
よい判断を下し、人々の意志がよきことを志向するよう常に祈り続けていらっしゃる陛下のおそばで、
私もすべてがあるべき姿にあるよう祈りつつ、自分の分を果たしていきたいと考えています」

このご発言は「皇室は祈りでありたい」という皇后陛下の願いとして、
かねてより伝えられていたことであった。
もう一つは、その三年前のお誕生日に、若い世代を中心に皇室への無関心層が増えているように思いますが、
今後、皇室と国民の絆を強めるためにどのような努力が必要だとお考えでしょうか、という
宮内記者会の代表質問に、文書でこう答えられたことである。

「常に国民の関心の対象となっているというよりも、国の大切な折々にこの国に皇室があって良かった、と、
国民が心から安堵し喜ぶことのできる皇室でありたいと思っています。
国民の関心の有無ということも、決して無視してはならないことと思いますが、皇室としての努力は、
自分たちの日々の在り方や仕事により、国民に信頼される皇室の維持のために払われねばならないと考えます」

このように答えられるより五年前に、われわれは既にそのような皇室と国民の結びつきを、
テレビを通じて目の当たりにしていた。

国の悲しみを国民と共に悲しむ
平成3年7月10日は、皇室と国民の間に、遥かな古からの伝統を踏まえつつ、
全く新たな結びつきが生れた日であった。
その一年前の11月半ばから始まった雲仙普賢岳の噴火は、次第に拡大の度を増し、
この年の6月3日に発生した火砕流は、取材に当っていた報道関係者16人と同行のタクシー運転手4人、
アメリカから来た火山学者ら4人、警戒中の消防団員12人、警官2人、住民ら6人など、
合せて44人の死者・行方不明者と9人の負傷者を出す大惨事を生み、警戒区域に設定された
山麓の住民一万人以上が避難生活を余儀なくされた。
それから約五週間後の7月10日午前、天皇、皇后両陛下は、定期便の民間機で長崎空港に着き、
政府専用のヘリコプターに乗って県立島原工業高校のグランドに降り立った。
天皇が災害のさなかに被災地を訪問されるのは戦後初めてのことであった。
両陛下はまず火砕流で死亡した消防団員の遺族34人が集まっていた近くの旅館を訪ねて、
一人一人に慰めと励ましの言葉をかけられた。そのあと背広の上着を脱いでネクタイを外し
ワイシャツの袖をまくって被災者と同じ夏向きの軽装になった天皇陛下は、皇后陛下と共に
仮設住宅と避難所巡りを始めた。
島原市総合体育館を利用した避難所に入られた時、
臨時に敷かれた畳に坐っている被災者達に近づいて行った天皇陛下は、
ごく自然な動きで膝を曲げて腰を落とされ、硬い板敷きのままの床に正座して、
相手と同じ目の高さでお見舞いの言葉をかけられた。
「膝突き合わせて」という常套句があるが、まさにその通りの格好で、
後に随った美智子皇后も硬い床に膝をつき、顔を寄せて被災者を慰めた。
これは本当に被災者の苦しみと悲しみに心を寄せていなければできない姿勢であるとおもわれ、
硬い床に膝をつけられるのは、以後に起ったいくつもの災害で避難所を慰問する際、
必ずそうされる定型となった。
美智子皇后の災害地慰問で心に深く残るのは、平成7年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の被災地を
31日に見舞われた時、ジャンパー姿の天皇陛下に同行され、まだ行方不明者と遺体の捜索が続く
神戸市長田区の焼け跡に、皇居から摘んで来た黄色い水仙の花束を敬虔に捧げて弔意を表し、
体育館や小学校の避難所の床に膝をつかれて被災者を優しくいたわられた皇后陛下に、
感極まった一人の女性がおもわず縋りつきそうになった場面であった。
きっと温かみのある母性を象徴する存在のように感じられたのだろう。
戦後のわが国に最大の苦しみと悲しみを齎した東日本大震災が平成23年3月11日に発生すると、
天皇、皇后両陛下が30日に東京武道館に避難していた被災者を見舞われたのを皮切りに、皇太子、皇太子妃、
秋篠宮、秋篠宮妃、常陸宮、常陸宮妃が、相次いで都内や近県の避難所を慰問された。
親兄弟やわが子や配偶者や親友を失った人々の苦しみや悲しみが
想像を絶するものであるのはいうまでもあるまいが、被災者にとっては不幸のどん底にあって
国や自治体から見捨てられた気持ちになるのもまた辛いことであるに違いない。
そういう時、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である天皇陛下と皇后陛下、
それに皇族方の慰問は、国は被災地と被災者を見捨てない、という気持ちの表れとして、
大きな慰めと励ましの力になる。
国の悲しみを国民と共に悲しむ。その皇室の姿勢を象徴的に示すものとして感銘を受けたのは、
4月27日に宮城県南三陸町を慰問された天皇、皇后両陛下が、
瓦礫にの山に向って黙禱を捧げられた場面であった。
この瓦礫の山は、東日本大震災の厖大な犠牲者と被災者のありとあらゆる苦しみと悲しみの象徴である。
そこに籠められた無数の物語に対する想像力を、われわれは長く忘れないようにしたい…。
切実にそうおもわされた両陛下の黙禱であった。
このあと両陛下は、南三陸町の歌津中学校体育館へ行かれ、いつもの避難所慰問の例に洩れず、
床に両膝をつけて被災者の一人一人に声をかけられた後、手を振って退出される際に、
被災者から起った「有難うございました」という声が最後には拍手に変った。
両陛下の慰問が被災者に希望を齎したことの証明であろう。
これがなければ被災者の苦しみと悲しみと辛さは、更に深まっていたかもしれない。
戦後のわが国が最も活力に満ちていた昭和の後半に皇太子、皇太子妃として、
さまざまな面で次第に厳しい状況に置かれた平成の時代には天皇、皇后として、
両陛下が存在されたのはわが国にとって幸運なことであったとおもう。
そして、いささか唐突の感を与えるかもしれないが、お二人が結ばれるまでの経緯を考えれば、
数々の猛反対にも屈せず、民間からの出身である美智子さまを皇太子妃の第一候補として貫き通した
小泉信三の功績の重要さを、改めて痛感せずにはいられないのである。

『日本を支えた12人』(集英社文庫)所収「美智子皇后陛下」より抜粋

倉山満氏

眞子様の御婚約「女性宮家を創設して皇族を増やそう」が間違っているわけ
【憲政史家・倉山満】
2017.05.18 ニュース
眞子内親王殿下の御婚約が発表されました。
めでたい限りです。お相手は、民間人の小室圭さんとのこと。
眞子様は小室家に嫁入りし、皇籍を離脱なされます。惜しむ声も多いようです。
とくに、「ただでさえ皇族の数が少ないのに、これ以上、減らしてどうするのか」との声もあります。
また、陛下がご高齢で御公務が大変なのに、
代わって御公務ができる皇族が減るのは問題なのではないか」との声もあります。
ごもっとも。
そこで、内親王がご結婚の際に皇籍を離脱しなければならない現行の皇室典範を改正し、
女性宮家を創設すべきではないかとの意見もあります。
これに関しては、結論はそんなに難しくないので、簡単に答えておきましょう。

 問一 女性宮家創設は是か非か。
 答一 是、です。絶対ダメではない程度の、消極的な是ですが。

先例があるので構いません。
江戸時代に桂宮を継承した淑子内親王(仁孝天皇の第三皇女)の一例だけではありますが。
ちなみに淑子内親王はお子さんを残さず薨去されたので、桂宮家は断絶しました。
これは佳例とは言えませんので、女性宮家は何が何でもやる話ではありません。
どうしても必要ならば、絶対にダメとは言わない、程度の話です。

 問二 その場合、小室さんの御身分は?
 答二 准皇族が適切です。

今はありませんが、昔は准三后という身分がありました。
皇后・皇太后・太皇太后の三后に准じるという意味です。
有名なところでは、人臣最初の摂政の藤原良房、『神皇正統記』の著者の北畠親房、
室町幕府最後の将軍の足利義昭などが准三后でした。
というふうに、民間人が准皇族となった先例はいくらもあります。
だから、小室さんが准皇族となっても問題はありません。
ただし、「准」であって、皇族にはなれません。
皇族ではない単なる民間人が、皇族となった例は、歴史上一度もありません。
皇室では許されないことです。「准」の一文字が付くのと付かないのでは、天地の違いなのです。
なお、インターネットで検索すると「準皇族」の文字ばかりが並びますが、誤字です。
野田佳彦内閣で女性宮家が議論されたとき、誤字が報道された影響でしょう。
 
問三 小室さんが准皇族となられた場合、小室さんの敬称は?
 答三 殿下です。

女性宮の配偶者なのですから、「殿下」です。
江戸時代の先例では、桂宮淑子内親王の婚約者は皇族の方でしたから、当然、敬称は「殿下」でした。
では民間人出身の小室さんは? 殿下で構いません。
皇室の先例では、民間人を殿下と呼んで構いません。日本人なら誰でも知っている有名人の先例があります。
単なる農民の子供の出身から殿下に成りあがった人物がいます。
ここまで言えばわかるでしょう。豊臣秀吉です。
晩年の秀吉は「太閤殿下」と呼ばれました。太閤とは元関白の意味です。
天皇の代理人である摂政や関白の登った人は、殿下と呼ばれるならわしなのです。
だから、内親王の配偶者の方を殿下とお呼びしても何の差支えもありません。
 
 問四 女性宮家を創設された場合、眞子様と小室さんの間に生まれたお子さんの身分は?
 答四 民間人です。皇族にはなれません。

ここまで「先例」という言葉を繰り返してきました。
皇室の歴史は、『古事記』『日本書紀』の神話にさかのぼります。
初代天皇神武天皇の伝説にさかのぼれば、皇室は公称二千六百年の歴史を誇ります。
なぜそれほど皇室は続いてきたのか。神話や伝説の時代から変わらぬ伝統を保持してきたからです。
だから皇室では、先例が吉、新儀は不吉なのです。
なぜ? と言われても、そういう世界だからとしか言いようがありません。
そのもっとも重要な伝統は、歴代天皇はすべて父親をたどれば天皇に行きつきます。
父親が天皇でなければ、その父親、さらに父親とたどりつけば必ず歴代天皇の誰かにたどりつく。
これを男系と言いますが、歴代天皇はすべて男系です。
天皇になる資格がある人を皇族と言いますが、二千六百年間、皇族全員が男系です。
女性の皇族も、全員が男系です。つまり父親が天皇・皇族です。
しかし、民間人と結婚された女性皇族が、その子供を皇族にした例は一度もありません。
仮にですが、眞子様が女性宮家を創設され、小室さんとの間にお子様が生まれても、
そのお子さんは皇族になれません。
皇室の歴史では一度も許されてこなかったからです。絶対にやってはいけない新儀です。
御公務軽減のために女性宮家創設という意見ならば、
「どうしてもやりたいなら」という消極的賛成はしても構いません。
しかし、「女性宮家を創設して皇族を増やそう」というならば許されません。
皇族が減っていくままの今、皇位の安定継承は急務です。
しかし、女性宮家の話は何の関係もありません。
ちなみに勘違いしていそうな人がこちら。

民進・蓮舫代表「国民の一人としてお喜び申し上げる」 
女性宮家の議論「期限切り結論出すべき」(産経ニュース2017.5.16より)
(以下引用)
蓮舫氏は、今後眞子さまが一般男性とのご結婚で皇籍を離脱する見通しを念頭に、
「私たちは(天皇陛下の譲位に関する)議論のとりまとめで、
女性宮家のあり方を早急に検討し、期限を切り結論を出すべきだと主張してきた」と述べた。
くれぐれもご用心あれ。
https://nikkan-spa.jp/1334170


「女性天皇」賛成派は愛子様に生涯独身で通していただくつもりか?
【憲政史家・倉山満】
2017.05.27 ニュース
女性天皇に68%が賛成! 反対は12%。5月24日の毎日新聞が報じている。
だから、どうした?
現在の皇室典範では女性天皇(女帝)は認められていない。
では女帝容認論者は、悠仁親王殿下の皇位継承を阻止し、愛子内親王殿下の御即位を目論んでいるのか。
毎日新聞が何を企んでいるのかよくわからないが、
悠仁親王殿下と愛子内親王殿下の対立を惹起したいのではないかと勘繰りたくなる。
平成17年にも似たようなアンケートが次々と繰り広げられ、
「愛子様が天皇になれなくてよいのか?」という女帝論、
「今の皇室典範では愛子様のお子様が天皇になれないのだぞ!」との女系論が、
多くのマスコミでヒステリックに絶叫されていた。
しかし、「女帝と女系の区別がついているのか」との一声に、その種のアンケートは尻すぼみになった。
最初に大事な結論を言っておく。皇室は一人の例外もなく、男系で継承されてきた。
その男系とは男女差別であるとの誤謬がまかり通っているが、
それを言うなら、むしろ男性排除の論理であると何人がわかっているのだろうか。
アナタは女帝に賛成ですか? と聞かれたら、
私は「絶対に反対とは言わないが、無理やり推進する話でもない」と答える。
皇室に関して迷った時の根本基準は一つ。先例だ。
そして、どの先例に従うべきかどうかを考えるために、吉例を探す。
確かに、女帝には先例がある。伝説の時代の神功皇后(神功天皇)は数えないので、
有史以来、十回ある。推古天皇、皇極天皇(斉明天皇)、持統天皇、元明天皇、元正天皇、
孝謙天皇(称徳天皇)、明正天皇、後桜町天皇である。
皇極天皇と孝謙天皇は重祚(ちょうそ)といって返り咲いて天皇に二度おつきになられたので、八方十代である。
女帝は飛鳥時代から奈良時代にかけて集中し、明正・後桜町の二代だけは江戸時代である。
さて、この八方には共通点がある。未亡人か、生涯独身である。
推古、皇極、持統、元明の四方は即位の際に未亡人であり、その後も再婚されなかった。
元正、孝謙、明正、後桜町の四方は、生涯独身を通された。
なぜか。女帝の配偶者に権力を握らせないためである。
推古天皇は、敏達天皇の未亡人である。聖徳太子と蘇我馬子との三人で、飛鳥時代を指導した。
崇峻天皇暗殺という動揺に際して、擁立された。
皇極天皇は、舒明天皇の未亡人である。中大兄皇子(天智天皇)の実母でもある。
大化の改新前後の動揺期に、二度も擁立された。
持統天皇は、天武天皇の未亡人である。壬申の乱に勝利した天武天皇の威厳は偉大だった。
それだけに後継をめぐる争いは激しく、天皇の候補者が多すぎたので擁立された。
元明天皇は、草壁皇子の未亡人である。草壁皇子は、天武天皇と持統天皇の実子である。
草壁皇子も、その子・文武天皇も早逝した。
しかし、草壁皇子の系統に皇位を継がせようとの執念が、元明天皇擁立をもたらした。
以上の四方五代の天皇は、激しすぎる古代の政争のゆえに、擁立された。
繰り返すが、全員が未亡人で再婚していない。
元正天皇の時代は、皇族どうしの結婚が普通であったが、それでも遠慮された。
配偶者の皇族が権力を持つのが警戒されたからだ。
称徳天皇は、愛人と噂された道鏡が皇位につこうとし、国を挙げての大騒動になった。
我が国の歴史において、明確に天皇になろうとの意思を示した民間人は、道鏡ただ一人である。
ここに、女帝は生涯独身か未亡人の不文法が確立した。そもそも、江戸時代まで850年間、女帝が絶える。
明正天皇は、父・後水尾天皇の政治的意思で即位させられた。
明正天皇の母は徳川和子、二代将軍・秀忠の娘である。
後水尾帝と秀忠は激しく対立し、帝は抗議の意味で明正天皇に譲位された。
それがなぜ、抗議になるのか。明正天皇は、皇室の先例(不文法)により、
生涯独身を余儀なくされるからである。
結果、秀忠の曾孫が天皇になることはできなくなる。
明正天皇は、わずか五歳で即位し、十九歳で譲位された。
その間、後水尾上皇の院政が敷かれ、女帝にはなんの実権もなかった。
そして最後は尼となり、七十四歳の生涯を閉じる。政治に翻弄された人生だった。
後桜町天皇は、宝暦事件などで緊迫していた、朝廷と幕府が絡んだ複雑な政治対立を緩和するためだけに擁立された。
そして後桃園天皇の若すぎる崩御も乗り切り、光格天皇を支え続けた。
なお、光格天皇は現在の皇室の直系の祖先である。
そして七十四歳まで静かに暮らされた。
後桜町院は、皇室と日本国の繁栄のために女の幸せを自ら捨て、その私心のない姿が国母として尊敬された。
ここで、問う。
「愛子様が天皇になってほしい」と願うのは勝手だ。では、どの先例を、吉例とするのか。
愛子内親王殿下にふさわしい先例とは、何ぞや。
過去の女帝は、八方とも苛酷な人生を歩まれたことを知ったうえでも、まだ言うのか!?
皇室の先例、不文法に従えば、愛子内親王殿下が御即位されるとあらば、生涯、独身を通さねばならない。
皇室は男系絶対であり、男性排除の論理で成立しているからである。
仮に愛子内親王殿下が民間人の男性とご結婚されたとしよう。
その民間人が皇族、そして天皇になれば道鏡そのものである。
我が国の歴史で一度も存在しなかった事態である。
またその民間人の男性との間に生まれた子供が皇族、そして天皇になっても未曽有の事態である。
そんなものが許されるなら、
「天皇に娘を嫁がせて、その子供を天皇にする」などというメンドクサイ摂関政治は不要だった。
徳川秀忠だって同じことをしようとしたが、皇室の不文法の前に敗れた。
男系絶対とは、皇室の血をひかない民間人を排除する原理なのである。
ちなみに女性は必ずしも排除されない。
今の皇后陛下は正田、皇太子妃殿下は小和田の苗字の民間人だったが、いまでは皇族となられている。
古くは、藤原光明子が光明皇后となられた先例に遡る。だから、女性差別どころか、男性排除なのである。
女系は先例がないので、論外である。絶対に不可である。
女帝は先例があるので、「絶対に反対とは言わないが、無理やり推進する話でもない」と答える。
愛子内親王殿下は過去八方と同じく、男系女子であり、資格はある。
現在の典範が女帝を禁止しているなら、典範そのものを改正すればよい。
明治につくられたたかが百数十年の歴史しかない典範よりも、
皇室の不文法である古代よりの先例が優先するのは当たり前だ。
では、生涯独身で通していただくのか。
実は、一つだけ方法がある。皇族の男性と結婚されることである。
現時点では悠仁親王殿下だけが有資格者である。
いとこ婚は生物学的には問題ないが、無理やり推進する話でもあるまい。
あるいはダグラス・マッカーサーに無理やり皇族の資格をはく奪された
旧宮家の子孫である旧皇族の方々から適切な方を探し出してくるか。
皇族のご結婚は国家の大事なので、非礼不敬を承知で申し上げた。
しかし、「女帝に賛成か反対か」と問うならば、これは絶対に避けて通れない問題である。
何よりも大事なのは、現在の皇統は、幼き悠仁親王殿下お一人にかかっているのだ。
何よりも肝要なのは、殿下が御即位される際に、帝を支える男性の皇族がどれほどおられるかであろう。
女帝に賛成か反対かなどと、お遊びに興じている暇はない。
【倉山満氏】
https://nikkan-spa.jp/1338263

2017年4月-9月 雑誌記事

雅子さま 長野県スキー旅行での知られざる「交流の場」
2017.04.07 16:00
東京都心で桜が満開を迎えた4月2日の朝7時半、
天皇皇后両陛下は、皇居・北桔橋門から皇居外周に姿を見せられた。
「両陛下は毎朝、皇居内を散策されますが、外に出られるのは非常に珍しいこと。
沿道のシダレザクラが見頃ということで足を延ばされたようで、
頭上の桜を見上げながら楽しげに言葉を交わされていました」(皇室記者)
わずか5分ほどの限られた時間ながら、居合わせた“皇居ランナー”たちに
にこやかな笑顔を向けられていた両陛下。
人々との交流を大事にされる姿勢は、そのまま皇太子ご夫妻にも受け継がれている。
3月27〜31日、皇太子ご一家は静養のため長野県に足を運ばれ、
奥志賀高原スキー場で恒例のスキーを楽しまれた。
「愛子さまは白銀に映えるオレンジ色、雅子さまはピンクと白のウエアが印象的でした。
ご体調が心配された愛子さまもお元気そうで、雅子さまは念入りにストレッチされていました。
宿泊されているホテルのお部屋から、外でバーベキューをしていたスキー客に向かって
手を振ったりもされていました」(居合わせたスキー客)
雅子さまの妹・池田礼子さん一家も同行し、愛子さまが年下の池田さんの息子の面倒を、
“お姉さま”のように見られるシーンもあったという。
このスキー静養はこれまで何度も波紋を呼んできた。
初めてお出かけになられたのが愛子さまが3才だった2005年のこと。
前年に『適応障害』と発表された雅子さまの療養のためという目的もあった。
「ゲレンデで愛子さまとともに笑顔を見せられる雅子さまの姿が公開され安堵が広がった一方、
直前の国体を欠席されたほか、スキーから戻った後に体調を崩され、
知的障害者のスポーツ大会『スペシャルオリンピックス』の観戦を出発1時間前に急きょキャンセル。
“スキーはできるのに、公務には出られないのか”と批判されたんです」(前出・皇室記者)
2010年のスキー旅行は、“いじめ”による愛子さまの不登校問題のまっただ中。
2014年には、皇太子ご夫妻の務めではないにしろ、
皇室にとって重要な両陛下の伊勢神宮参拝(3月25〜28日)と日程が重なった。
2015年にも、帰京翌日に行われたデンマークのフレデリック皇太子夫妻との晩餐会を欠席された。
度重なるタイミングの悪さに、「雅子さまは“公”より“私”を優先しすぎる」と囁かれるようになった。
だが、2005年から数えて13年目を迎えた“逆風旅行”には
まったく知られていない“公”の目的もあった。スキー場関係者が明かす。
「ゲレンデのスキー客に挨拶程度で声をかけられるだけでなく、
実は雅子さまは宿泊されるホテルで、人々と積極的に交流の場を持たれてきました。
ホテルは貸し切りなのですが、ホテルやスキー場の関係者のほか、地元の人、スキー客なども訪れて、
雅子さまは終始和やかに、相手に合わせて話題を変えてお話しされるのです。
外国のかたには、流ちょうな英語で話しかけられていました。
東日本大震災の被災者がいたときには“大変だったでしょう。
大丈夫でしたか?”とお声がけされていました」
両陛下が続けられてきた「祈りの旅」を雅子さまがしっかりと受け継がれている証左だろう。
雅子さまに限らず、皇族方は皇室を取り巻く批判に対して、まっこうから反論する手段を持たない。
それでも雅子さまは、皇后となる日に向けて、ただ黙々と務めを果たされている。
撮影/雑誌協会代表取材
※女性セブン2017年4月20日号
http://www.news-postseven.com/archives/20170407_508161.html

「特別扱いはなし」 叱られても笑顔で学習院JKライフを満喫する愛子さま
(更新 2017/4/19 07:00)
愛子さまはこの春、学習院女子高等科に進学した。
4月16日に学習院目白キャンパス(東京都豊島区)で催された「オール学習院の集い」では、
母の雅子さまが客席で見守るなか、演奏会でチェロを披露。
その後は仲良しのお友達とプライベートな時間を満喫していた。
*  *  *
にっこり笑ってピースサインをする愛子さま。
顔を寄せる3人の女の子は、仲良しのお友達たち。
ひとりがデジタルカメラを持った手を伸ばし、4人組は自撮り写真をパシャリ。
高等科進学とともに紺から黒に変わったスカーフが、お姉さんらしい雰囲気を見せる。
愛子さまの頬にわずかに見えるソバカスは、春休みにご家族でスキー旅行を満喫した名残である。
今年2月、皇太子さまのお誕生日に公表された「激やせ写真」をきっかけに、
愛子さまの深刻な体調不良が明らかになったのはつい2カ月前のことだ。
「実際、私たちでさえ、おやせになったあの姿を目にしたときは、驚きましたよ」(宮内庁職員)
それでも3月22日の女子中等科の卒業式と4月8日の高等科の入学式には、
報道陣に笑顔で、学校生活の感想や抱負を語る愛子さまの姿があった。
「オール学習院の集い」が開かれたこの日。
2月よりはふっくらしたとはいえ、愛子さまの頬やあごに、思春期の女の子らしい丸みはまだ見えない。
膝丈のスカートから覗く脚は、標準よりもだいぶ細い。
それでも、ふくらはぎにうっすらついた筋肉は春スキーの賜物なのかもしれない。
そうした世間の心配など杞憂(きゆう)とばかりに、愛子さまはお友達とクスクスと笑い声を立てながら、
キャンパスを走り回る。15歳の春を満喫していた。
愛子さまは、午前中からお昼にかけての演奏会の出番が終わると、お友達とキャンパス内の食堂を目指す。
自動販売機で食券を購入するとカレーの列に並び、女子トークを展開しながらランチタイムに突入した。
お昼を終えた愛子さまたちは、思いたったようにキャンパスの南に茂る森を駆け下りていった。
目指したのは馬場だった。
そこでは馬術部による体験乗馬会が催されていたのだ。
30分ほど並んだあとに、愛子さまはヘルメットと赤いベストを着用。
部員が手綱を引くなか、7歳の雄馬「薫桜」にまたがり馬場を一周した。
「天皇陛下も高等科在学中は馬術部に在籍し、昭和26年には主将として関東リーグ戦に出場し
優勝を果たした実績があります。皇居に参内した際に、話題にあがるかもしれませんね」(皇室ジャーナリスト)
馬にまたがる愛子さまの周りにお友達が集まり、またまたカメラでパシャリ。
この日、都内の最高気温は26度まであがり初夏の日差し。
周りにいる護衛官らからは、やや疲れ気味の表情が見てとれたが、疲れ知らずのJK(女子高生)、
愛子さまたちは、軽快な足取りで坂道を上りキャンパス中央へ戻る。
愛子さまは、例年立ち寄る公益財団法人アイメイト協会による盲導犬体験のコーナーへ。
アイマスクをつけて盲導犬と10メートルほど歩く。体験を終えると係員の説明を聞いている。
東宮御所では猫と一緒に「由莉」という雑種犬を飼っている愛子さま。
しゃがみこむと、慣れた様子で、盲導犬の頭やおなかを何度も何度もなでる仕草を見せた。
そして、募金箱を持つ視覚障害のひとたちの前に行くと、愛子さまはピンクのお財布から千円札を出した。
すこしだけ恥ずかしそうにしながら、募金箱にそれぞれ、千円札を計3枚ほど、そっと入れたのだった。
午後4時。「オール学習院の集い」の終了時刻を回り、各コーナーは、テントをたたみ出した。
ゴミを清掃するワゴンが走り回り、お開きの空気が漂う。しかし、帰る気配を見せない愛子さまご一行。
後片づけに入った縁日コーナーに滑り込む。
学習院OGらしき上品な老婦人が、「もう終了時間よ。(皇族だからといって)特別扱いはなしよ!」、と
大きな声で叱り飛ばすものの、愛子さまとお友達は怯むことなく、射的のコーナーに挑戦。
愛子さまは、玩具の銃を勇ましく構え人型の標的を狙う。
と、夕方の風で的がパタパタと倒れるアクシデントに、苦笑いをしつつ数発を命中させる。
じっくりと、籠に入った景品を吟味すると、お友達と再び食堂の方へ。
お菓子らしき商品を手にして戻ると、キャンパス内をウロウロ。
どうやら、お菓子を食べつつ女子トーク第2部をスタートさせるための、場所を探している様子なのだ。
旧図書館の建物を覗いては、「やっぱりダメだあ」とばかりに出てきたり、ウロウロはしばらく続いた。
キャンパス内の後片付けはほぼ終わっている。
あとは愛子さまのお見送りをするばかり、といった様子で学習院関係者や護衛官、東宮職員らが
遠巻きに愛子さまご一行を見守っている。
お友達の一人は帰宅し、残る2人とジャンケン大会が始まった。
負けた人は、拳をマイクに見立てて何かスピーチしている様子。
そのたびに、愛子さまもおなかを抱えるようにして大笑いしている。
「箸が転んでもおかしい年頃」を地でゆくような光景である。
あまりの盛り上がりぶりに、周囲の護衛官や愛子さまの帰りを待つ学習院スタッフも苦笑気味。
午後5時すぎ。東宮職員に何度も促されたのだろうか。
名残惜しそうに、お友達にバイバイを繰り返したあと、やっと車でキャンパスを後にした。
この日、愛子さまは万華鏡のように豊かに変わる素顔を見せてくれた。募金箱に寄付をしたり、
地面に落ちていた学習院スタッフのジャンパーを拾う場面では、ちょっと恥ずかしそうな仕草を見せた。
一方で、友達とピースサインをして写真を自撮りし、クスクスと笑いながらキャンパス中を歩く愛子さまがいた。
薄桃色の桜の花びらが、カーテンのように風に舞い上がった。
それは、愛子さまの笑顔を祝福しているかのようだった。(本誌・永井貴子)
※週刊朝日オンライン限定記事
https://dot.asahi.com/wa/2017041800074.html

雅子妃が思い描く「愛子さま」お相手のお家柄
25歳の眞子さまが来年にも嫁がれ、22歳の佳子さまに熱視線が注がれる。
となれば、残る内親王は東宮家の愛子さま(15)のみ。おめでたはお代替わりの後となろうが、
その日に向け、雅子妃もお気持ちを新たにされたのは想像に難くない。
宮内庁関係者が言う。
「今回、雅子さまはご心中、穏やかでなかったはずです」
昨夏、陛下が生前退位のご意思をお持ちであると分かって以降、
将来の皇統の起点となる悠仁さまを擁する秋篠宮家の存在感はいや増し、
「皇嗣職」の創設や予算の大幅増などが予定されているのはご存知の通りだ。
「ただでさえ秋篠宮ご一家の話題ばかりのところ、東宮家では愛子さまのご体調などもあり、
雅子さまのご気分は決して晴れやかではありません。そうした中、今回のおめでたをどう捉えていらっしゃるのか。
拝察するに余りありますが、愛子さまに思いを致されたのは間違いありません」(同)
というのも、「雅子さまはやはり、お父様の小和田恒さん譲りで、
周囲に対していささか峻厳なお振舞いを見せられることがあるのです」
とは、さる外務省OBである。そもそも93年に成婚なさった経緯としては、
皇太子さまが初志を貫かれ、決心しかねている雅子妃と小和田家がその熱意にほだされた。
巷間そう伝わっているのだが、
「実際はあべこべで、雅子さまがお妃候補に挙がるや、
小和田さんは『光栄この上ない。ぜひお願いしたい』と大乗り気で、
関係者を通じて縁談の取りまとめを依頼していました」(同)
この時点で“将来の皇后”との立場を見定めていたのは言うまでもなく、
「そうしたストラテジーを備える小和田さんの血筋ですから、
おのずと愛子さまの“お相手のハードル”も上がるわけです」(同)
■経済力も必要
再び先の関係者いわく、
「同じ内親王である眞子さまのケースは一つの目安となるでしょう。
すなわち出身大学は、東大や京大をはじめICU以上、お仕事もキャリア官僚や医師、
ないしは財閥系企業の御曹司などが相応しいとお考えになるのではないか」
皇太子さまが即位されたのち愛子さまが結婚なさる場合、支払われる一時金は黒田清子さんと同額の
1億5250万円とみられる。
「こうしたお金を使わずとも新居が購入できる経済力の人を、婿に据えるはずです。
さもなければ面目が立たないとお考えになっても不思議ではありません」(同)
つくづく、波紋の止まない慶事なのである。
https://www.dailyshincho.jp/article/2017/06050556/?all=1

「生前退位」 皇居への引っ越しで雅子さまを心配する声も
2017.06.19 07:00
天皇陛下の「生前退位」にまつわる特例法が成立した6月9日、皇太子さまは1泊2日の日程で、
「みどりの愛護」のつどいへのご臨席のため石川県に足を運ばれた。
「式典のほか、金沢市内にある特別支援学校で生徒と交流されたり、
白山市の『千代女の里俳句館』で江戸時代に活躍した女性俳人に関する展示や俳句教室の様子をご覧になりました。
到着時、JR金沢駅に集まったのは約800人。警察によると、滞在中の2日間で計約8000人が奉迎したそうです。
“皇太子としてのお姿を見られる機会は残り少ないから”という声も聞かれました」(皇室記者)
特例法が成立したことで、来年末にも陛下は退位され、
2019年のスタートは皇太子さまが新天皇となって迎えるとされている。
「石川県へ向かわれる北陸新幹線で、皇太子さまは最高級のグランクラスではなくグリーン車を利用されました。
『質素倹約』は、皇室の精神の原点。雨中でも人々に笑顔を見せようとされたお姿からも、
即位への準備段階にあることが伝わってきます」(前出・皇室記者)
当初はご一緒される予定だった皇太子妃雅子さまだが、熱や扁桃炎による咳といった風邪の症状を訴えられ、
お取りやめになった。5月25日の全国赤十字大会、31日の認定こども園の訪問も同様の理由で取りやめられており、
これで5月14日の大相撲五月場所の観戦を最後に、雅子さまは約1か月間、公の場にお姿を見せられていないことになる。
「4月末の春の園遊会に続いて大相撲観戦も着物姿でお目見えになった雅子さまへの注目度は日に日に高まっていました。
そんな中にあって、赤十字大会を欠席されたことは雅子さまにとって大きなショックだったのではないでしょうか。
最近、雅子さまの公務へのお出ましの機会が増えてきていても、あくまで“当日の体調を考慮して”という状態でした。
ですが、赤十字大会に限っては報道陣に配られた事前資料に雅子さまが臨席される旨が明記されていた。
それだけ雅子さまのお気持ちも強かったということです」(宮内庁関係者)
2004年以降、長期療養中にあって、雅子さまの体調は一進一退を続けてきた。
「かつてはなかなか判断がつかず、お出かけの直前になって“ご体調を総合的に判断”という
曖昧な理由で欠席されることがほとんどでした。そう考えると、最近の取りやめは
熱や咳という具体的な理由が示されていますから、
決して長年の療養の成果が後戻りしてしまったわけではないということなのでしょう」(前出・皇室記者)
しかし、6月15〜21日のデンマーク訪問も、当初「ご夫妻で」という招待だったが、
皇太子さまがおひとりで訪問されることが事前に決定した。
「今年4月のマレーシア訪問も、雅子さまの同行が検討されましたが、結局皇太子さま単独での訪問となりました。
そのときは、直後に春の園遊会を控えていたこともあり、体調を整えられるという意味合いもあったそうです。
今回の場合は、“国内の公務はできないのに、海外には行けるのか”と
あらぬ批判を受けかねないといったことへの配慮もあったのでしょう」(皇室ジャーナリスト)
◆隔絶された皇居という空間
皇太子さまのお隣に雅子さまがいらっしゃらないことに、一抹の寂しさを覚える声は根強く聞かれる。
《女性皇族の存在は、実質的な仕事に加え、公的な場においても私的な場においても、
その場の空気に優しさと温かさを与え、人々の善意や勇気に働きかけるという、
非常に良い要素を含んでいると感じています》
2005年の誕生日会見で、陛下は女性皇族の役割をそう明かされていた。
「陛下は国民に寄り添い、国民と共に歩むという象徴天皇像を具現化されてきました。
そして、そのお姿が国民の心に深く入っていったのは、
常におそばにいらした皇后陛下のご存在が大きかったといっていいでしょう。
そういった点では、皇太子殿下が天皇としてご活動される際に、
皇后がご一緒でないとすると、新しい象徴天皇像を国民に広く受け入れてもらうことが
難しくなる可能性はあります」(皇室ジャーナリストの山下晋司氏)
お立場の変化は、同時に生活環境の変化ももたらす。
「かつて、即位したばかりの両陛下は、皇居に御所が完成するまで赤坂御用地から“通勤”されていました。
その道中で、学生の制服が夏服になったり、コートを着込んだりする人がいるのを見て、
両陛下は季節の移ろいを感じられていたといいます。
ですが、皇居に引っ越されてからは“季節がわかりません”と漏らされたこともあったそうです。
赤坂御用地内では、出歩けばほかの宮家の皇族方はもちろんのこと、
職員や警察官と顔を合わせて挨拶を交わすことが頻繁にあります。
ところが、皇居はそうもいきません。皇居は赤坂御用地よりずっと隔絶された空間なんです。
森閑とした環境が、雅子さまにとって苦になってしまうことを心配する声もあります」(別の皇室ジャーナリスト)
撮影/雑誌協会代表取材
※女性セブン2017年6月29日・7月6日号
https://www.news-postseven.com/archives/20170619_564582.html

眞子さま婚約内定会見、雅子さまの重要公務と日程重なり波紋
2017.08.24 11:00
秋篠宮さま(51才)と眞子さま(25才)は、8月23日までハンガリー・ブダペストに足を運ばれた。
2007年のマダガスカル、2010年のラオス以来3度目の父娘旅行だった。
「表向きは、眞子さまは民族博物館を、秋篠宮さまは家畜の飼育施設など
それぞれの研究分野を視察されるためというのが今回の私的旅行の目的でした。
ですが、実際の所は父娘2人の“最後の思い出作り”といった側面も大きかったようです。
秋篠宮さまは18日にご出発。眞子さまは公務の関係で1日遅れの合流となりました。
民族博物館では、眞子さまは展示物などをスマホで撮影されながら熱心にご覧になっていました。
当初、その施設は眞子さまの合流前に秋篠宮さまがお1人でお出かけになる予定でしたが、
英国留学中に博物館学を学ばれた眞子さまのたっての希望もあり、
合流後の訪問に予定が組み直されたそうです」(皇室記者)
旅行に先立って、8月17日、宮内庁は眞子さまと小室圭さん(25才)の婚約内定会見を
「9月3日」に行うことを発表した。
会見は当初7月8日の予定だったが、九州北部を襲った豪雨被害のため約2か月延期された。
「9月3日になったのは、両陛下と秋篠宮ご夫妻のご予定や、
9月12日の佳子さまの英国留学へのご出発前という事情を考慮したからだそうです」(皇室ジャーナリスト)
だが「9月3日」は、皇太子さまと雅子さまが重要な公務で奈良を訪れる予定の日にあたる。
雅子さまは、9月2、3日に奈良県で行われる「国民文化祭」に、
皇太子さまとご一緒に臨席される方向で調整が進められている。
「国民文化祭は『皇太子の八大行啓』の1つに数えられるもので、大変重要な公務に位置づけられています。
雅子さまは7月に1泊2日で秋田県へお出ましになりましたが、
4月のマレーシア訪問や6月に石川県で行われた『みどりの愛護』のつどいへの臨席、
同月のデンマーク訪問といった“宿泊を伴う公務”を立て続けに見送られてきただけに、
大変注目が集まっています」(前出・皇室記者)
前出の皇室ジャーナリストはこう話す。
「眞子さまの伯父である皇太子さまは、婚約内定の手続きには直接的には関係しません。
会見が皇太子さまをはじめとした他の皇族方の公務と重なってはいけないという決まりもありませんから、
形式的には問題はないのです。
一方で、メディアや国民の関心の集まる雅子さまのお出ましとあっても、一生に一度の慶事ですから、
ニュースなどでの扱いは必然眞子さまの婚約会見のほうが大きくなるわけです。
まさにそれが問題で、皇太子ご夫妻の重要な公務の日に眞子さまの婚約会見が重なったことに、
“皇太子ご夫妻をないがしろにしているのではないか”という声が噴出しているのです」(前出・皇室ジャーナリスト)
撮影/雑誌協会代表取材
※女性セブン2017年9月7日号
https://www.news-postseven.com/archives/20170824_606876.html

愛子さま「体調不良」克服で体重が元どおりに! 夏休みを思い切りエンジョイ
週刊女性2017年9月19日号
2017/9/7
8月30日の午後4時半ごろ、10日間の那須ご静養を終えた皇太子ご一家は、
那須塩原駅から新幹線に乗って帰京された。
「小雨がぱらついていたのにもかかわらず、ご一家は傘を差さずに、
駅前のロータリーで待っていた約100人のためにゆっくりと歩かれてお手ふりしていました。
愛子さまは爽やかな淡いブルーのワンピースにベージュのアンクルストラップサンダルをはかれていましたよ」
(居合わせた地元住民)
愛子さまも「夏休み」の終盤をエンジョイされたようで、少し日に焼けていた。
「昨秋に体調を崩してからおやせになっていた愛子さまは、今年4月以降も学校を休みがちでした。
しかし現在は体調も回復されて体重も戻り、もう心配はないと聞いています」(宮内庁関係者)
その話を裏づけるかのように7月24日から3泊4日の日程で、長野県・白樺湖を拠点に行われた「林間学校」では、
標高約2000メートルの「双子山」にも元気に登られたという。
一時期はその“激やせ”ぶりから「摂食障害」を疑われるほどだったが、もう心配はいらないようだ。

那須滞在中もお元気でーー
“快調”な愛子さまは那須に滞在中も積極的に活動されていた。8月24日の午後3時ごろには、
影絵約140点が展示されている『藤城清治美術館』を訪れ、藤城氏本人に案内されながら見て回られた。
「7月末に静養していた両陛下もいらっしゃいました。
実は美智子さま(82)と藤城は以前からご交流があり、
『つり橋はぼくのハープ』という作品の原画を皇太子妃時代の美智子さまにお贈りしたことがあります。
ほかにも、美智子さまが聖心女子学院時代に作詞された『ねむの木の子守歌』にちなんだ作品も展示しています」
(美術館の従業員)
ひとつひとつの作品を熱心にご覧になっていた愛子さま。おばあさまに縁のある作品も楽しまれていたにちがいない。
美術館を出られたあとの午後4時半ごろには、『テディベア・ミュージアム』で
世界の有名作家が手がけたテディベアを楽しまれ、帰り際に紙袋いっぱいのお土産を購入。
午後6時ごろ、この日最後に向かわれたのは『ステンドグラス美術館』。
「愛子さまはステンドグラスをあしらったストラップや装飾品を作る体験をされました。
夕食は敷地内にあるレストランスペースで、ご一家のためにお出しした特別なフルコースと
洋菓子のパンナコッタを召し上がっていましたよ」(従業員のひとり)
ここには約5時間も滞在して、御用邸に戻られたのは午後11時近く。例年より遅い時間まで楽しまれていた。
4日後の28日には、午前11時ごろからご両親や数組のお友達親子とともに『那須どうぶつ王国』へ。
「レッサーパンダやペンギンを興味深くご覧になったり、馬ににんじんをあげるなど
園内の動物たちとくまなくふれあっておられました。
アシカショーでは、雅子さま(53)が小さな輪っかをお投げになって
アシカがうまくキャッチするのを見てとても喜ばれていましたよ。
ラクダの騎乗体験の際は、ラクダのこぶに触れて驚かれていましたね」(施設関係者)
皇太子さま(57)と雅子さまがラクダに騎乗されると、
愛子さまは写真に収めようと必死にデジカメを構えるなど、家族との時間を楽しまれていたようだ。
翌日は『東急ハーヴェストクラブ』で昼食をとり、夕方ごろには遊覧船やアトラクションなどもある
『りんどう湖レイクビュー』へ……。例年以上に夏休みをご両親と一緒に思いきり楽しまれていた愛子さまだった。
http://www.jprime.jp/articles/-/10531

紀子さまの誕生会に異例の皇太子ご一家出席 その裏側
2017.09.15 11:00
東京・千代田区にある『喜山倶楽部』は、1931年創業の伝統ある大規模パーティー会場だ。和
会席からフレンチのコースまで専門スタッフが一流の腕を振るう同会場のケータリングが、
9月11日の夕方、皇族方が暮らす赤坂御用地へと次々と運び込まれていった。
その夜、御用地内にある秋篠宮邸で、紀子さまの51才の誕生日を祝う夕食会が行われた。
3日に眞子さまと小室圭さんの婚約内定会見が行われ、6日に悠仁さまが11才の誕生日を迎えられた。
誕生会の翌12日には、佳子さまが留学のためイギリスへと旅立たれた。
秋篠宮家にとって、立て続けに大きな転機が訪れた中にあって、紀子さまの誕生会にもまた異例の光景が広がっていた。
夜6時半、誕生会に出席されるため、天皇皇后両陛下を乗せた車が御用地内へと入っていった。
「皇太子ご夫妻の誕生会に両陛下が招待され、東宮御所に足を運ばれるのは毎年の恒例ですが、
紀子さまの誕生会に両陛下が顔を出されたというのは、過去に聞いたことがありません。
眞子さまの婚約を陛下がお認めになった『裁可』へのお礼や、佳子さまがしばらく日本を離れられるということもあって、
今回両陛下が出席されることになったそうです」(皇室ジャーナリスト)
誕生会には黒田清子さん(紀宮さま)と慶樹さん夫妻も参加していた。
「内親王から一般家庭に降嫁した“先輩”として、清子さんから眞子さまへのあたたかい助言などもあったのかもしれません」
(前出・皇室ジャーナリスト)
およそ3時間にわたって楽しまれたという食事と歓談。
だが、さらに周囲を驚かせたのは、その場に皇太子ご一家も招かれていたことだった。
「当初、先に出席が決まっていたのは両陛下で、あとになって皇太子ご一家も参加される方向で調整されたそうです。
園遊会や新年一般参賀など公に皇族方が揃う機会を除いて、
両陛下、皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻がプライベートの食事会などで一堂に会されることはほとんどありません。
日頃はそれぞれでご公務や宮中祭祀でお忙しく、今回のような私的なご会食は年に数度あるかないか。
それだけ貴重で珍しいことなのです。今回の実現の陰にはどうやら、両家の関係の将来を案じ、
皇室が末永く国民の心のよりどころとなることを願う美智子さまのお気持ちがあったようなのです」(宮内庁関係者)

◆秋篠宮さまだけ残られた1時間
誕生会から遡ること3日前の9月8日の昼頃、皇居では、陛下が生前退位のお気持ちを抱かれた2012年頃から恒例となっている、
陛下、皇太子さま、秋篠宮さま3者による「頂上会談」が行われた。
月1回のペースで行われる会談後の昼食には、美智子さまが同席されることもあり、
皇室の行く末についてのお気持ちはご家族で共有されてきた。
その日、皇太子さまが皇居を後にされたのは午後1時半頃。だが、秋篠宮さまが出てこられたのは、それから1時間も経ってからだった。
「眞子さまのご結婚までの今後の段取りなど、いろいろとお話しにならなければいけないことがあったのでしょう。
そしてもう1つ、眞子さまの婚約内定会見と皇太子ご夫妻の重要公務が
バッティングしたことへの言及もあったのではないでしょうか。
それが、紀子さまの誕生会に皇太子ご一家も出席されるという珍しい事態につながったのかもしれません」(前出・宮内庁関係者)
本誌・女性セブン既報通り、眞子さまの婚約内定会見が行われた9月3日、
皇太子ご夫妻は「国民文化祭」へのご臨席のため奈良県を訪問されていた。
皇太子の「八大行啓」の1つに数えられる重要な公務で、
「ご体調次第」という前置きはあったものの、雅子さまの同行が期待される注目の公務だった。
「北九州の豪雨被害で婚約内定会見が7月から延期されるという予想外の事態があったので致し方ない面もあります。
しかし、否が応にも世間の注目を集める婚約内定会見が皇太子ご夫妻の公務とぶつかってしまったことに、
両家のすきま風を心配する声も聞かれました」(前出・皇室ジャーナリスト)
皇室内には、明確な序列が存在する。「大殿下」の愛称で親しまれ、
昨年100才で薨去された三笠宮崇仁さまは、昭和天皇の弟でありながら、
皇位継承順位が上位である皇太子さまやその妻である雅子さまにも常に敬語で接していらっしゃったという。
「ですが、皇位継承権をもつ悠仁さまを紀子さまが出産されたことは、
男児のいない皇太子家との“序列”を少しいびつなものにしてしまったのです」(前出・宮内庁関係者)
生前退位が来年末、あるいは2019年3月に迫る一方で、
「女系・女性天皇」や「女性宮家創設」といった皇室を巡る問題は、解決の糸口をみないままでいる。
眞子さまの婚約内定によって、再び浮き彫りとなった「皇族の減少」という喫緊の課題もある。
そんな状況にあって、皇室が一枚岩であるべきときに、
両家の関係を危惧されていらっしゃったのは他でもない陛下であり、美智子さまだった。
「会見と公務のバッティングという話だけではありません。
眞子さまのご婚約について、秋篠宮ご夫婦は両陛下には以前から丁寧にご報告されていた一方で、
皇太子さまには充分に情報が伝わっていなかったという話も囁かれています。
ご報告の“義務“があるかないかは別として、
次の天皇への即位を目前に控える皇太子さまが知っておいた方がいいこともあったかもしれません。
ご一家を紀子さまの誕生会にお呼びになったのは、
そうした両家のバランスを正そうという美智子さまのご配慮があったのではないでしょうか。
美智子さまと、雅子さまと紀子さまという“2人の嫁”との異例の夜が実現することになったのには、
美智子さまの強いお気持ちがあったのでしょう」(前出・宮内庁関係者)
撮影/雑誌協会代表取材
※女性セブン2017年9月28日号
https://www.news-postseven.com/archives/20170915_612980.html

愛子さま 「天皇の娘」になる日に向けお気持ちの整理進む
2017.09.19 11:00
現在学習院女子高等科1年の愛子さまは、9月5日から2学期の授業がスタートした。
9月11日、いつも通りの時間に登校された愛子さまは、校門で顔を会わせたお友達に手を振り、
おしゃべりしながら教室に向かわれた。
右肩に提げた紺色の通学バッグには、白い動物のキーホルダーが揺れていた。
「昨年秋の長期欠席以降の体形の激変があり、夏休み前には欠席もかなりの日数になりました。
ですが、2学期が始まってからは毎日元気に登校されているようです。
9月末には、高等科と中等科の合同で行われる体育祭が予定されており、
愛子さまも楽しみにされているといいます」(東宮職関係者)
夏休み中に皇太子ご夫妻と静養に向かわれた那須(栃木県)では、
これまでにも増して沿道に集まった人々などと交流する姿が見られた。
「あまりに積極的な様子に、東宮大夫の会見では記者から
“この先公務を担う機会が増えるにあたっての準備なのか?”といった期待の膨らむ質問まで飛び出したほどでした。
皇太子さまが即位されれば、愛子さまは“天皇の娘”になるわけで、
立場も国民からの見方も変わってきますが、その日に向け着々とお気持ちの整理が進んでいるようです」
(前出・皇室記者)
撮影/雑誌協会代表取材
※女性セブン2017年9月28日号
https://www.news-postseven.com/archives/20170919_613314.html

「悠仁殿下」小笠原4泊はお忍びで 秋篠宮家の「帝王学」
週刊新潮2017年9月21日号
11歳になられる直前、母と子の二人旅だった。
6日、11歳の誕生日を迎えられた秋篠宮悠仁さまが7月下旬に小笠原諸島を訪れていたとフジテレビが報じた。
皇室担当記者が言う。
「紀子さまとお二人で小笠原の自然に触れるという私的なご旅行でした。竹芝から船に乗って24時間、
父島に4泊5日の滞在という日程だったそうです。
秋篠宮殿下は天皇陛下や皇太子さまよりも目立たぬようにという思いをお持ちで、
悠仁さまに関して非公表の日程が多く見受けられます」
周囲の目を気にすることなく、濃密な5日間だった。案内をした小笠原村の渋谷正昭副村長の話。
「初日はビジターセンターで島の自然や歴史についてのパネルをご鑑賞。
小笠原海洋センターにも出向き、標識をつけたアオウミガメを放流されました」
翌日以降はシュノーケリングや、船で片道2時間の母島の農家でパッションフルーツとマンゴーの収穫体験もされた。
中でも、「2日目にトレッキングツアーに行かれ、6時間半の行程を歩かれました」(同)
太平洋を望み、海抜260メートルにある千尋岩を目指すコースだ。
「基本的なルートはかつて軍道として旧日本軍が使用していました。
電波警戒機(レーダー)や乗り捨てられたトラックの残骸など今でも戦跡が残っています。
お昼はツアー側が用意したお弁当を召し上がったと聞いています」(同)
戦時中、硫黄島を含め2万人以上の犠牲者を出した小笠原諸島。
「別の日は同島内の戦没者鎮魂の碑に献花、黙祷をされていました」(同)
先の記者によれば、
「悠仁さまは学校で栽培委員を務めるなど、動植物への関心が高い。一方、秋篠宮ご夫妻はそれのみならず、
歴史や芸術、文化など広く見聞を深めてほしいと、8月には皇室ゆかりの滋賀の毛筆製造店を訪れました。
他にも、お忍びで美術館や地方にお出かけになっていて、今回のご訪問もその一環だったのでしょう」
メディアの目に触れない場所で“帝王教育”は進んでいる。
https://www.dailyshincho.jp/article/2017/09220559/?all=1

高麗神社参拝の天皇陛下を「反日左翼」と呼ぶ人たち
2017.9.29 07:00
9月20日から1泊2日。天皇陛下と美智子さまは、埼玉県へ私的な旅行に出かけた。
だが、訪問先のひとつ、朝鮮半島からの渡来人にゆかりのある日高市の高麗神社への参拝を巡り、
ちょっとした騒ぎが起きた。参拝の数日前から、ネット上には両陛下を「反日左翼」などと非難する意見や、
「反ヘイトメッセージでは?」と、その「ご真意」を臆測する書き込みであふれた。
そもそも高麗神社はどのような場所なのか。
「続日本紀」には、東国7カ国に住んだ高麗人が716年に武蔵国に移住し、高麗郡を建郡したと記される。
宮司の高麗文康(ふみやす)さん(50)がこう説明する。
「神社にまつられるのは、私の祖先にあたる高麗王若光(こまのこしきじゃっこう)。初代郡長です。
この一帯は朝鮮半島から渡ってきた高麗(高句麗)人によって栄えた土地。
昨年は建郡1300年の祝賀の年でした。境内に若光の石碑が建立され、
除幕式には高円宮家の久子さまも出席されています」
高麗宮司によれば、両陛下のご訪問が決まったのは3カ月ほど前。
両陛下の私的旅行先は、お二人の思い入れの強い場所であるのが常だ。
それだけに高麗神社参拝に意味を見いだそうとする見方が後を絶たないのだ。
翌21日には、朝鮮日報が<高句麗の王子まつる高麗神社に天皇・皇后が初訪問>と高揚した見出しとともに、<明仁天皇は日ごろから日本の過去について心から申し訳ないと考えて、
韓日古代交流史にも関心が高いと言われている>と書き、訪問の意義を熱いトーンで報じた。
周囲の熱視線とは裏腹に、当事者の反応はいたって穏やかだ。
高麗宮司は「反ヘイトメッセージですか。うーん。それはわかりませんが、
高麗ゆかりの地に関心を示してくださっただけで光栄です」と感想を述べ、
神社庁周辺も「特別な意図があるような話は出ていませんね」。
陛下は、「高句麗や百済などの国がどうして滅んだのか」などと歴史について熱心に質問された。
そして、美智子さまと神社周辺の山桜やしだれ桜の木をながめ、それは楽しそうに会話をされていたという。
※週刊朝日 2017年10月6日号
https://dot.asahi.com/wa/2017092700011.html

いま再び 皇太子さまに諫言申し上げます

WiLL2016年6月号
いま再び 皇太子さまに諫言申し上げます

加地伸行 大阪大学名誉教授(中国文学)
西尾幹二 電気通信大学名誉教授(ドイツ文学)

皇室に対する国民感情はもはや無関心から軽蔑に変わっているのでは?

皇后のご覚悟
――雅子妃について相変わらず深刻な情報が相次いでいます。
ご公務欠席の多い状況を心配する皇后陛下が昨年末の天皇誕生日の夜、
宮中での食事の後に雅子妃を別室に呼び込まれる形で、
「本当の病と、自分が病とおもっているものは違う」
「小和田家と皇室というのは文化が違う」ということをお説きになったといいます。
(『週刊文春』平成28年1月21日号)。
ここからは皇后陛下のなみなみならぬご覚悟がみてとれます。
この記事について宮内庁は抗議したそうですが、スクープ続きの有力週刊誌の記事だけに
「ウソけと断じることもできないでしょう。メディアが週刊誌以外にまともに取り上げていないくせに、
週刊誌の記事だからいい加減だと頭から決めてかかるのは大間違いです。
さらに同誌4月14日号では、雅子妃の昼夜逆転の生活ぶりと、
真夜中に続けられる懐中電灯を手にした散策のご日常が報じられました。
皇室関係者はかなりの危機感を持っていることが伺えます。

加地
西尾さんが最初に皇太子ご夫妻について「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」を
『WiLL』(平成20年5月号)で発表してから、適応障害とされる雅子妃の状況を含め、
皇室の様子は八年経っても努力の跡が見えませんね。
前出の『週刊文春』(4月14日号)でも報じられていましたが、
4月3日の神武天皇没後2600年関連の行事が象徴的でした。
天皇皇后両陛下は奈良県橿原市の神武天皇陵に随行された秋篠宮ご夫妻とともに参拝されましたが、
皇太子ご夫妻は皇居の皇霊殿に参拝したにとどまりました。
関西の新聞では、陛下や秋篠宮殿下が大きく扱われた隅に、皇太子ご夫妻の記事が添えられているという状況でした。

西尾
雅子妃の行動が皇室行事全体の運営に何かと支障をきたしていることは
関係者の共通の認識になっているようですね。

加地
西尾さんの指摘がなければそこまでいかなかったかもしれません。

西尾
皇后陛下も皇太子ご夫妻をいつも心配されていて、
近しい方々には「東宮(皇太子)をよろしく」というお言葉が何度もあったと言います。
雅子妃の病状は多少の改善があるという話もありますが、十二年ぶりに出席された園遊会(平成27年11月)でも、
おいでになったが、そこにいらっしゃったのは四分間だけ。
陛下が「しばらくみなさんとご一緒に…」とおっしゃったにもかかわらず退席されました。
たしかにうつ病は回復が難しい。南朋っているうで、治っていないことも多いと聞きます。
ご病気だからという同情の声ももちろんありますが、妃殿下は公人で、ご病気はご自身を傷つけていますが、
皇室制度そのものも傷つけていることを見落としてはなりません。
国民の中でも心ある層は将来の皇室の行方を大変に憂慮しています。今上陛下も最近特に心配されています。
問題はまず、担当の精神科医がすべてを握って、国民への説明をなにひとつせず、そのままになっていること。
ここ十数年そのままなのです。

記者会見でも「雅子」「愛子」
西尾
民間では心配する人が少なくなく、雅子妃殿下の御病気を巡って『文藝春秋』(平成20年4月号)が
十七ページの大座談会を開き、その中で斎藤環医師が発言されたことばが恐らく唯一の公開された医学的診断です。
斎藤氏は長短合わせて二十五回もの発言をなされ、患者を守る立場から、
「皇太子は自分の一番の関心が妻なのだと言いつづけることが妻の病状にプラスになる」
「妃殿下が皇居へ参内したがらないのはよく知られているが、治療という観点から参内を控える判断は妥当だ」
「皇太子が一人で頻繁に皇居に出かけるのはよくない。まして娘を連れて二人だけで参内するのは
妻の病気を重くする」等々はわれわれにとって衝撃でした。
斎藤氏は「反応性のうつ病」という診断を下しました。
今にしては氏の判定は正しく、皇太子殿下はここで述べられた判定の示すとおりに、
さながらそれに縛られたかのごとく、その後もずっとこの同じ行動をなさってきたように思えます。
言いかえれば殿下は妻の病状に寄り添うように生きてこられて、国家や国民のことは二次的であった。
皇位継承後もこうであったら、これはただことではありません。
古河市日本大震災の被災地に行っても被災民を気遣うより、雅子妃に配慮した発言が多くなっています。
「雅子がよくやってくれた」というようなお言葉を必ず付け加える。
妃殿下が被災地の見舞いに特別によくやられたように国民の目にはまったく見えないのに、
こういうお言葉がでるたびに、皇太子殿下は自らを軽くし、自らの尊厳を傷つけています。

加地
皇太子殿下の一番新しい記者会見は2月の五十六歳の誕生日の会見でしたが、違和感がありました。

西尾
「雅子」「愛子」という言葉がそれぞれ九回、八回出てきました。
皇太子殿下のご心中を察するに象徴的でした。
斎藤医師は「環境調整が治療に一番よい」、いいかえれば皇室という環境がいけないということです。
皇室がいけないんだと言っているのです。陛下がお怒りになったという話もあります。
また、「症状は軽い」とも診断されましたがこれ実は大変なことなんです。軽いということは「慢性」です。
快癒を期待できない慢性的な病状がたらだらとずっと続くということを意味します。
皇室の機能を損なう深刻な状況です。国民と皇室を傷つけている。
皇太子殿下も宮内庁も医療関係者も、総理大臣も知らん顔をしているのはまったくもって遺憾ですね。

無関心から軽蔑へ
加地
これまでは「国民が皇室に無関心になることを恐れる」という問題が論じられていましたが、
今はそれを超えて、内心では、国民は皇室を軽蔑しているのではないでしょうか。
タレントの噂話と同じレベルで皇室の話をしている感じがあります。
庶民が表立って「蔑視発言」をすることはないでしょうが、
いまや皇室のイメージが、ゼロならまだいいが、マイナスの方向に向かっているように見えます。

西尾
無関心にも二種類あって、天皇のご存在に国民が日頃強い関心を持たないのはある意味で健全かもしれません。
あまりに過度の関心を持つ時代は幸福ではない。けれども、それとは違う関心、無関心があります。
健全な無関心ではない。根源的な無関心です。
学校教育の中で皇室について何ひとつ教えられないで七十年たちました。
「ついに天皇制が国民投票で廃止されたんだって」と言われても、「あ、そう」で終わる人々がいるのではないか。

加地
そうですね。今の日本ならその可能性があります。

西尾
天皇陛下が御心配の余り、ご自身で動き出していらっしゃるように思います。
一所懸命にご公務をお務めになっているのは、「こういう風に国民に向かって語りかけるものなのですよ」と
皇太子殿下に自ら身をもってお示しになっているのだと思います。
それはもう限界を越えるほどまでになっている。
秋篠宮は支えようとなさっているが、皇太子は余りにクールです。

加地
雅子妃は国民や皇室の祭祀よりもご自分のご家族にご興味があるようです。
公務よりも「わたくし」優先で、自分は病気なのだからそれを治すことのどこが悪い、
という発想が感じられます。新しい打開策を探るべきでしょう。
いまは雅子妃が自分を突出させるのをお止めすることができない状況です。

皇太子殿下は摂政に
加地
私の考えでは、皇太子殿下は摂政におなりになって、国事行為の大半をなさればいい。
ただし、皇太子はやめるということです。
皇太子には現秋篠宮殿下がおなりになればよいと思います。摂政は事実上の天皇です。
しかも仕事はご夫妻ではなく一人でなさるわけですから、雅子妃は病気治療に専念できる。
秋篠宮殿下が皇太子になれば秋篠宮家が空くので、そこにお入りになるのがよいのでは。
新しい宮家を増やす必要はありません。そして陛下は皇室祭祀に専念なさる。

西尾
皇太子殿下が同意なさるでしょうか。
ご幼少の頃から不可侵なご存在だと言われつづけ、ご自身もそう思っておられるのではないか。

加地
日本にとって大事なのは、皇太子殿下ではなくて皇室です。

西尾
もちろんです。ただ、国民がそう思っていても、ご本人が思っていなければ手の打ちようがありません。
今上陛下がお元気なうちに断を下しておいて頂けると有難いのです。
『週刊新潮』(平成25年6月20日号)で一つの注目すべき記事が出ました。
天皇陛下、皇太子殿下、秋篠宮殿下の頂上会談があり、次代はまずは皇太子殿下にご即位いただき、
その後速やかに悠仁親王殿下に皇位を継承していただくという方向に決したという趣旨でした。
「幼帝」ですね。「幼帝」は歴史上いくらでもあることです。

加地
皇室典範には退位について書かれていません。不備があるとみいえるので、
退位論が出ても皇室会議が認めるかどうか。

西尾
皇室会議に皇太子殿下は入っていません。ほかの皇室の方々は入っているのに。
いきさつは知りませんが、プラン通りにいったん即位して、
すぐに退位して悠仁親王に即位していただくというプロセスが本当にできるのかどうか。
いずれにせよ、頂上会議で「幼帝」という話が出てそれは私も名案と感服しました。
読んだときは、陛下もついにそのご決断をなさったかと感銘を受けました。
でも、その後続報はありません。

「もっと公務をしなさい」
加地
心ある皇室関係の方々は、なぜこんな状況になったかとお嘆きとお聞きしています。

西尾
それは明らかに小和田家の影響ですね。皇室に一般人の自由を持ち込み始めている。
皇室の行事にはたいてい欠席する雅子妃が妹一家とは頻繁にお会いになっている。
平成15年(2003年)から祭祀にはいっさいお出になりません。園遊会にも、新年祝賀の儀にも、
歌会始にも、講書始にも、赤十字の集いにも、多くの宮中晩餐会にも、そして庭先の奉仕団へ
ご挨拶にも出られないのに、スキーだけは休まない。そういうことが国民を傷つけています。

加地
個人主義の名を借りた利己主義です。もっとも、近ごろはそれでいいと肯定する世代も増えてきています。
伝統的皇室のイメージを持っているのはわれわれ老人だけなのかもしれませんね(笑)。

西尾
今の若い人にはただのセレブになっちゃっているんですよ。もはや皇室ではありません。
英国ではエリザベス女王がキャサリン妃に「もっと公務をしなさい」と叱りました。
メディアも声を上げます。ヨーロッパの王家がお式なら、こういうことも学習なさるべきです。
皇室も一般人と同じでもいいじゃないか。雅子妃も自由に活動すれば、という
リベラルな意見もあるだろうが、それならば皇太子妃はいらない。特別なご存在ではなくなるから。
皇太子殿下は一般人と同じようにふるまうと国民が喜ぶと思っていらっしゃる。
拍手される存在になるには妻子に対する毅然とした態度をお見せすることが大切なのに、
わざと甘いパパななろうとする。愛子さまがお小さいときにはうさぎ跳びであやすところを見せたり、
Vサインをしたりというシーンもあった。
昭和天皇は戦後に全国を回られたときにどうふるまっていいかわからずにただ帽子をお振りになった。
それをみんな喜んだ。その不器用さに真心が感じられた。その時代とは違うが、今上陛下には、
的確に国民の空気を読んだ発語がある。どこに何があるかをご覧になっている。
皇太子殿下も発言なさるけれども、どこかピントが外れている。国民の無言の感情を踏まえていない。
「雅子が」「愛子が」となるから、感服させられる言葉が聞こえてこない。

幻夢空間の宇宙人
加地
雅子妃には皇太子妃という公人らしさがありません。
ルールをわきまえているならば、あそこまで自己を突出できませんよ。

西尾
雅子妃は不思議な存在になってしまっている。一般人は生活と義務、制約があって不自由な暮らしをしています。
勤め先から休暇をとるときも大変な気配りをします。
皇室の中心にも生活があるし、天皇陛下にも皇后陛下にも義務があります。
しかし、それは一般人には経験のできない権利でもあり、喜びでもあるはず。
その代わりに一般人の自由は捨てているのです。
今上陛下には自分は若い頃から一般人の自由は許されないものだと知っていた、という意味のお言葉があります。
美智子皇后は、「ただの一度でいいから古本屋に行ってみたい」とおっしゃったということです。
学生時代の気侭な自由の時間をもう一度試してみたいという意味でしょうが、それは許されません。
皇室という空間で生活し、儀式を守ることに喜びを見出さければならないのに、小和田家がそれをぶち壊した。
これまでの皇室とは別の尺度が可能だという幻想を与えて送り込んだ。加えて、適応障害でうつ病なら、
何をしてもいいんだよとなってしまった。一般人の自由や不自由がないし、皇室の自由・不自由感もない。
夢幻空間の宇宙人みたになっています。自由といえば自由だけど、自由でないといえば自由ではない。
かわいそうといえば、かわいそうですが。

不敬極まりない小和田家
西尾
昨年末の『週刊文春』(27年12月31日号)で雅子妃の母優美子氏のコメントとして次のように載っています。
「親馬鹿だと思われるかもしれませんが、私は妃殿下が心配なのです。妃殿下はありのままの人なのだから、
演技はできない。何かあると『小和田が悪い』と言われるけれど…。日本も皇室も変わらなければ」

加地
小和田家のために、また一皇太子妃のために、なぜ皇室が変わらなければならないのですか。
不敬極まりない言葉ですよ。皇室は日本国・日本人のために不動の地位があるのです。

西尾
「変わらなければ」という意識は必ず皇太子ご夫妻にもあると思う。ご夫妻は国連に関するお仕事に
ご関心があり、特に皇太子は「水」にご興味があるようで、「水」に関する演説を国連でなさっている。
雅子妃は国連大学に以前から熱心でした。いずれも小和田氏の影響だと思いますが、
私たち国民は祭祀をする天皇を尊重していて、日本国国連特別代表のような政治的なお役目を期待していません。
このままいくと、さらに進んで小和田家が皇室から宗教的意味合いを取り除いていく方向に持っていくことも
不可能ではありません。祭祀をしないのは天皇ではない。

加地
逆に言うと、雅子妃は外にお出ましになるのではなくて、皇居で一心に祭祀をなさっていていただきたい。
それが皇室の在りかたなのです。

西尾
陛下のご公務は多いと思いますか?

加地
多いですね。国際学会のごあいさつなどはお出ましにならないほうがいい。
現在の公務の半分は減らせると思います。皇室は<開かれた皇室>ではなくて、
可能な限り<閉ざされた皇室>であるべきです。

西尾
陛下は国民の前に自分の役割を一所懸命お見せになろうとしている。太平洋戦争の激戦地の慰霊、
東日本大震災の慰問をなさっている陛下のお姿はありがたい限りですが、
これが次の世代にどうなるのか不安です。ことに皇后陛下と雅子妃には天と地の差がある。
落差があまりに大きいので、それが皇室の危機になる。

加地
これだけ雅子妃の公務欠席が多いと、
皇室行事や祭祀に雅子妃が出席したかどうかを問われない状況にすべきでしょう。
そのためには先ほど申し上げたように、皇太子殿下が摂政になることです。
摂政は天皇の代理としての立場だから、お一人で一所懸命なさればいい。
摂政ならば、その夫人の出欠を問う必要は全くありません。雅子妃が矢面に立たないためには
そうするしかありません。

西尾
矢面に立たないようにしてあげる、ということがたしかにとても大切ですよね。
皇太子殿下が妃殿下をどこまでも守りたいというお気持ちが強いなら、加地先生が仰るように
殿下がご自身の立場をお変えになることです。
それ以外に、妻と国民のどちらかを傷つけないで済ますことはできません。

日本に独裁者が出ない理由
加地
歴史を振り返ると、日本でもスターリンや毛沢東といった独裁者が出てくる危機がありえましたが、
皇室があるためにそのような独裁者は出なかった。ものすごい抑止力があります。
天皇を上回る独裁者になろうとしてもなれなかった。この一点だけでも存在価値は大きい。
国民はなんとなく「天皇を上回る権力者は出現しない」と知っています。最大の危機管理ですよ。
日本政治の安定のためには皇室は必要なんです。

西尾
天皇制ファシズムという言葉を左翼が持ち出したが、天皇制があったからファシズムにならなかったのです。
日本には総統も大統領も生まれません。英国風の議会主義です。
天皇は武家政権とは常に戦わず、それでいて宗教的権威だった。
ですが、ここに今、大きな落とし穴があるのです。戦後、武家政権に代わったのがアメリカです。
アメリカの軍事力が日本の権力の源泉です。としたら、天皇の権威はアメリカの権力をすらも越えるのか。
日本の信仰は、外国の軍事力をどう乗り超えるかという実験が行われている。
国民がどういう選択をするか、決着は五十年後になるでしょう。米国が衰退するかどうかわかりませんが、
日本が本当に独立したとき、天皇はどうなるのか。明君でなければ乗り切れません。

加地
制度と解釈の違いをうまく使うのが日本人です。征夷大将軍は律令制の中にはない令外官だった。
原則と現実とのバランスをうまくとってきたのではないでしょうか。
現在の日本では天皇陛下は解釈として全権を内閣総理大臣に与えています。
その解釈論は機能していて、安倍首相がどんなに頑張っても天皇にはなれません。
この制度と解釈とのよきバランスをきちっと継続していけば、独裁者や絶対的権力者の登場は防げる。
皇室は祭祀を中心に行っていけばよいと思います。

西尾
まつりごとを中心にして制度と解釈により国家を導いていくということが国民の合意として存在していれば、
政治権力と遠いところにいて政治を無言のうちにコントロールするというこれまでどおりの存在で
何とかしのいでいけるというご意見には賛成です。

「国連大学」行事は公務か
西尾
雅子妃が国連大学に特別の興味をお持ちということも非常に問題です。
古森義久氏『国連幻想』によると、この組織は左翼の巣窟で、慰安婦問題追及セミナーなどを開催していた。
戦後の設立時に、ほかの国が国連と大学というミスマッチに手を引いていく中、日本は国民の
センチメンタルな国連万歳主義をあおり立てて巨額の資金を投じて引き受け、今でも毎年多額の負担をしている。
性奴隷という言葉を使ったのも国連大学。クマラスワミ報告にも関係がある。
そのような環境に足繫く通うのは理解できません。
雅子妃は何もご存じでないまま、国連大学の行事に行かれているとは思えませんが、
妃殿下はこれを公務としています。

加地
特定の組織や団体や個人に肩入れするのは、皇族としておかしいですね。

西尾
問題はやはり小和田家です。父親の恆氏が国連の司法機関である国際司法裁判所の判事になられた時に、
私はそれを歓迎しないという意味のことを、『週刊朝日』に書きましたし、『諸君!』誌上でも発言しました。
案ずるかな、間もなく、領土問題や捕鯨の問題が起きた。
皇室に悪い影響を与えそうな分野にはできるだけ近づかないのが妃殿下を皇室に送り出した父親の心得なのでは。
身を慎み出家のような覚悟をすべきお立場なのでは?
それを徹底していたのが皇后陛下のご実家である正田家です。
ご父君はそれを模範とすべきと思っているが、そのふるまいは直らない。
週刊誌に皇室批判が出ると「自分たちが悪く言われるのは心外。皇室が変わらなければいけない」という。

謝罪マニアの小和田氏
加地
本音かもしれませんね。しかし、一般庶民でも、娘の嫁ぎ先に口出しをするのは珍しい。
まともな家なら、婚家に遠慮しますよね。

西尾
天皇より俺の言うことを聞けという感じ。
小和田氏が外務次官だった時代に、天皇皇后両陛下が即位後初めての海外訪問として
平成3年秋に東南アジアをまわられたことがあります。最初の訪問先がタイだったのですが、
当時タイ大使だった故岡崎久彦氏が、
亡くなる少し前に『読売』(平成26年7月2日)に次の様な証言を残しています。

<外務省本省からバンコクで予定されていた天皇陛下お言葉として、
真っ先に先の戦争で日本のした行為を謝罪する案が来た。私は反対でした。
タイには日本に謝罪を求める気持ちなどないことを知っていましたから。
タイ外務省に確認し、何も謝ってもらう必要はない、とのタイ側の意思を本省に伝達しました。
抵抗していたら小和田恆次官が、これで勘弁してくれって言ってきたのは、
天皇陛下が、まず日本とタイがいかに仲がよかったかと、お言葉をずっと述べられる。
そして最後に、全東南アジアに向けての発言として、
「先の誠に不幸な戦争の惨禍を再び繰り返すことのないよう、平和国家として生きることを決意」という
言葉を述べていただくことにした、という。
この箇所は、タイではなく全東南アジアに向かって言う部分なのだから、タイ大使としては反対しにくい。
私は一時、辞表を書いて抵抗することも考えたけれど、それで黙っちゃった。
最初の案を書き直させただけでも意味があったのかなあ>(同紙面より引用)

小和田氏は外務官僚に例の多い一種の“謝罪マニア”で、
このタイへの対応が、天皇の訪中と対中謝罪につながったとみるべきです。
取り返しのつかないことをしているのです。
岡崎氏の決意の遺言とみるべきでしょう。

加地
外務省はルールを知りませんね。講和条約やそれに類するものを結ぶということは、
その締結後は、お互いに不平不満はあっても、合法的にはもう非難したり論じ合ったりしないということです。
しかし、日本は自虐的になってそれを守っていない。同じく中国や韓国ドラマも加虐的に守っていない。
それらを正常化するのが外務省の役目ですよ。

外交官は接待係だ
西尾
小和田氏の件に限らず、外務省に対しては不満や疑問が世に渦巻いています。
根本から変えてもらいたい官庁です。採用試験から見直すべきです。入省したら若いうちに
歴史教育をやり直しし、外国には媚びるのではなく戦うものだということをたたきこむ必要があります。

加地
以前、外務省改革案を書いたことがあります。政策はもちろん日本政府が握り、
外国との実務上の交渉自体はお雇い外国人にまかせるべしというものです。
日本人では押しが弱くなる場面でも、顔色一つ変えず厚かましく主張できる外国人を雇えばいい。
そしてプラスを獲得した後に本隊が登場して交渉に入るのです。

西尾
今の外交官は、自分が貴族だと思っていますね。交通が不便な百年前は全権大使だったわけですが、
今は外交の中心は政府が直接握っている。外務官僚はただの接待係です。
命がけで現地の情報を手に入れるスパイもとぎの血のにじむ努力を今の外務省はやっているのだろうか。
そもそも愛国心があるのだろうか。

加地
英語もローマ字発音。あの程度の英語力じゃ恥ずかしい。

西尾
天皇家はそもそも民主主義や平等とは無関係の伝統に根差しています。
にもかかわらず、雅子妃により近代化の象徴である学歴尊重や官僚気質というものが皇室に持ち込まれた。
愛子さまに礼儀を教えるよりも一所懸命勉強しなさいと教えられています。
皇太子殿下が口にした「公務の見直し」「時代に即した新たな公務」「プライバシー」「人格」などは
小和田家が持ち込んだ言葉です。これまでの皇室の言葉にはありません。
愛子さまはディズニーランドに行っても行列に並ばなくてもいい。それはなぜかを教えなければならない。
自分は一般人とは違うのだから、欲望は抑えなければいけないなどと自然に、気付かせるべきです。
皇室では本来、「人をじっと見つめてはいけない」「指をささない」「後ろを向いてはいけない」
「ゆっくりしゃべる」といったことから皇室の存在意義まで徹底的に教育されていました。
今の陛下がそれを体現しています。

加地
皇太子一家は絶望的としても、秋篠宮悠仁親王殿下には正統的な教育をしていただきたい。

西尾
皇室の教育は特別なんです。東大を目指す必要はない。東大に行くための勉強は皇室には役に立ちません。
昭和天皇が二十の皇室教育を受けたとしたら、今上陛下は十くらいでしょう。
皇太子に至ってはゼロに近いのではないか、と皇室に近いある筋の方から聞きました。
今上陛下は自由に遊べなかった。学校から帰ると各種の先生が待ち構えていて、
勉強以外のことをたくさん教えられていた。

加地
悠仁親王に期待します。皇族、しかも将来の天皇としてのまっとうな教育を受けていただきたい。

西尾
宮内庁にその発想はありませんね。各省からの代表が来て成り立っている省なので、
安倍首相の政治力で変えてもらわなければ。安倍さんは総理になる前に旧宮家の復活を
提言してしたこともありますから。男系継承を制度的に安全なものにしてもらいたい。
そもそもいままの天皇家は江戸末期に昔からつづく宮家から血統を緊急に受け継いだお血筋なのてすよ。
GHQに破壊された旧宮家のお役目を今こそ一日も早く復活させてもらいたい。
今われわれの存じ上げている天皇家の方々が天皇家のすべてではないのですよ。

歌を詠めない妃殿下
西尾
メディアにも問題がある。面白がって若い女性皇族を追うばかりで、
一番重要な雅子妃問題には誰も見向きもしなくなった。しかし庶民は気付いています。
主婦たちが「雅子妃は一日中何をしているんだろう。ひまを持て余していないのだろうか。
美術展や音楽会も皇太子殿下が一人で行くことが多い」。実際、ご自分でなさるのはスキーとテニス。
皇室に欠かせないの歌を日々作ろうとなさっているのだろうか。
高学歴のはずなのにライフワークとしての仕事もありません。

加地
国文学者であり歌人でもあった折口信夫が書いた文章に
「陛下の御製のような歌は一般のものには作れない。御製は中身がなく、<無>のさまである」というものがあります。
一般人が作ろとどうしても個性的・個別的になる。雅子妃は歌会始でご家族のことを詠むことが続きました。
<制服のあかきネクタイ胸にとめ一年生に吾子はなりたり>(平成21年)はその例です。
自分のことを詠っている。それは庶民の歌であって、皇族の歌ではありません。
皇族にあられる方は何もない歌を詠む境地に自然と向かうものです。

西尾
雅子妃は伝統文化に拒絶反応をお持ちのようですね。親の影響でしょう。
小和田家の他者に対する優越感は国際的な活動をしてきたことなのです。
平成16年に、つまり「皇太子とまに敢えてご忠言申し上げます」を出す四年前になりますが、
御成婚後三年たっている頃に、私は雅子妃のうつ病を予言し、言論誌で発表しました。
一般社会で勝ち抜いてきた家系の方が皇室という環境に入ったらうつ病になるのは当然だと思ったからです。
そのときの私が提案したのは、銀座にでも事務所をもっていただいて、政治以外の問題で
ご発言なさったり、知的な活動をなさったりしたらいいのではということです。言論誌に論文も書かれたらよい。
内容について批判されることも当然あるでしょうが、それはそれでよい。
ハーバード大学や東大など素晴らしい学歴をお持ちなのだから、その能力を生かすべきです。
さもないとうつ病になられますよ、と。予言が当たったのは不幸なことです。
けれども皇室という環境だけがご病気の原因ではないでしょうから、予言が当たったとは言えないかもしれません。

加地
雅子妃の病気が治るのかどうか、誰もわからない。皇后陛下は心配なさっていると思います。
宮中では、細かな不具合や不都合がもっとあると思います。庶民が知らないだけ。

西尾
皇室にごく近い人物から手紙をもらいました。東宮家での雅子妃の日常の振る舞いが
きわめて具体的に書かれており、私は正直おののきました。宮内庁でも閉塞状況ですね。

愛子さまは笑わない
加地
テレビ画面に見える限り、愛子さまは笑わない。

西尾
もし雅子妃が精神のご病気なら、愛子さまがもっと幼いときに母子を引き離すべきなのに、誰も進言しない。
数年前の雅子妃の病状発表のときにもご本人が発表文を点検し、訂正や発表遅延がありました。
そしてご本人の修正を経て出てきたのは、当たり障りのない文面でしたね。
主治医はこのとき何か訴えようとしたのかもしれませんが、以後再びだんまりで、情報統制です。
一方で、妃殿下は気に入らない教育係や宮廷勤めの女性を次々に追い出すようなことが続きました。

加地
日本では、特に皇室は家族主義が基本なのですが、今は個人主義か幅をきかせている。
その縮図を見ている気がします。日本が維持してきた家族主義を崩している象徴では。
しかも崩しているのは、個人主義ではなく利己主義です。その縮図が皇室にあることを強く憂います。
皇室は日本の象徴です。
「新しい」とか「人格」などという前に、歪んだ社会を正す存在になっていただきたいですね。
今回の私たち二人の意見は、非難ではありません。諫言です。
平安時代から昭和天皇に至るまで、皇太子ならびに皇族は、幼少のときの学業において、
儒教の重要文献の『孝経』を学ばれました。その第十五章は諫争章で、天子にとって臣下の諫言が
大切であることを説いています。皇族の方々に、ぜひ『孝経』をお読みになられることを希望してやみません。

2017年1月-3月 雑誌記事


来たるべき雅子さまの皇后即位のため美智子さま沈黙守るか
2017.01.29 16:00
来たるべき日に向け急ピッチで準備が進んでいる。「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」は
1月23日、論点整理を公表した。最終提言は4月頃が予定され、
それを受けて5月のGW前後には「生前退位」の特例法案が国会に提出される見込みだ。
2019年1月1日にも誕生するといわれている新たな天皇皇后。
これまでの「御代がわり」は天皇が崩御されたことをもって新天皇が即位するので、
どうしても重苦しい雰囲気があった。ところが今回は喪に服すことがない。
日本全国が新たな天皇皇后の誕生に沸き、祝賀ムード一色に包まれることになるのだ。
この冬、雅子さまの大きな変化をある宮内庁関係者は感じ取っていた。
その日、東宮御所に両陛下が足を運ばれる予定だった。
両陛下の訪問を控え、雅子さまは東宮御所に別の客人を招かれていたという。
客人が早めに帰路につこうとすると、雅子さまは「もっとゆっくりしていらっしゃって」と話されたという。
「両陛下がいらっしゃるとなれば、以前は雅子さまにはピリピリするほどの緊張感があり、
それが職員やお付きの人間にまで伝わるほどでした。それがその日は大変余裕のある雰囲気だったそうです」
(宮内庁関係者)
雅子さまと美智子さま、ひいては両陛下は長らく「途絶状態」にあるといわれてきた。
「1995年、雅子さまを慮って“国民はみな、あなたたちの子を期待していますよ”とお言葉をかけられた陛下に
雅子さまが“私の周囲には、そんなことを言う友人は1人もおりません”と言い放たれる場面があったと報じられました。
また、2000年に香淳皇后が崩御され連日儀式が続いた折には、美智子さまから行事の決まり事や
服装のアドバイスを受けた雅子さまが、大勢の皇族方や職員の面前で“叱責された”と
ショックを受けられたこともあったそうです」(皇室ジャーナリスト)
両陛下は皇太子時代、昭和天皇と香淳皇后との「毎週水曜日の夕食会」でコミュニケーションを図られた。
その習慣は皇太子さまと雅子さまに引き継がれたが、徐々に少なくなっていき、
両陛下と愛子さまの交流の機会はごく限られたものになってしまった。
また、雅子さまとの考え方の隔たりに、美智子さまが「私はお勤めした経験がないから…」と
漏らされたこともあったという。
「皇室の歴史の中で、民間から皇太子妃として嫁いだのは美智子さまと雅子さまだけ。
つまり、苦しみやプレッシャーを共有できるのもお2人だけなのです。美智子さまはそれをご存じだから、
雅子さまに対してあれこれと伝えるのを控えられていた。
それが途絶状態に結びついてしまった面もあるのでしょうが…」(前出・皇室ジャーナリスト)
それは、どこにでもある嫁と姑のちょっとしたボタンの掛け違いだったのかもしれない。
だが、雅子さまと美智子さまを待つ皇室にしかないしきたりが、話を複雑にする。
「皇室では、天皇と皇后は絶対的な存在。嫁と姑という関係性は変わらなくても、
即位の日に皇族としての雅子さまと美智子さまの立場が逆転するのです」(皇室記者)
退位後の陛下と美智子さまは、一部の私的なお出かけを除いて公の場に姿を見せられることは
ほとんどなくなるといわれている。
「即位されてからの両陛下は昭和天皇と比較され、“伝統を軽んじている”“家庭的すぎる”と批判に晒されました。
今回は、両陛下が存命のままでの御代がわりとなるわけですから、
そういった比較がより強く吹き荒れるかもしれません。それを少しでも避けるため、
美智子さまはあえて“沈黙”を守られることでしょう」(前出・皇室記者)
両陛下の「祈りの旅」の始まりは、1991年の雲仙普賢岳噴火による避難所訪問だった。
「体育館の床に膝をつかれて被災者を励まされるお姿に、当初は“天皇皇后が見せるべき姿ではない”と
批判が起きました。ところが、両陛下が頑として続けられたことで、今ではそれが慰問のスタイルとなり、
他の皇族方にも受け継がれている。美智子さまは、そうした実体験から、
静かに雅子さまのことを見守られることでしょう」(前出・皇室ジャーナリスト)
早くに大正天皇を亡くした貞明皇后は皇太后時代、公の場では香淳皇后の下座に控え、
徹底的に皇后の立場をたてようとされていたという。
美智子さまにもその時のことは語り継がれ、強くお心に焼きつけられているのかもしれない。
次代の幕開けはすぐそこまで迫っている。雅子さまのご覚悟と美智子さまの心遣い…描かれる未来図に隔たりはない。
撮影■雑誌協会代表取材
※女性セブン2017年2月9日号
http://www.news-postseven.com/archives/20170129_488265.html

御代替わりに向け皇太子はアジア大会、秋篠宮は追悼式に
2017.02.02 11:00
1月17日、皇居では天皇、皇太子、秋篠宮の三者会談が、約1時間にわたり行なわれた。
生前退位にかかわる天皇家の最終的な意思を確認する話し合いだったといわれている。
三者会談の後、天皇家には「御代替わり(みよがわり=皇位継承)」に向けた新たな動きも始まった。
皇太子は今年2月19日に札幌で開幕するアジア冬季競技大会の開会式に天皇の「ご名代」として出席し、
開会宣言を行なう。
天皇・皇后はベトナム訪問(2月28日から約1週間)を控えていることから、
「極寒の北海道から10日足らずで熱帯のベトナムへのご移動となれば体調がご心配」(宮内庁関係者)という
判断があったとされる。ただし、宮内庁OBの見方はやや異なる。
「両陛下のご体調への配慮があったのはもちろんでしょうが、主催者側が陛下の出席を依頼するなか、
病気療養や手術入院など日程的に支障が生じているわけではないのに名代を立てるのは異例です。
今回、陛下があえて皇太子に冬季アジア大会の開会宣言をお任せになるのは、
生前退位に向けてご公務を皇太子に託していくというお気持ちの表われと推察されます」
秋篠宮にも重要な公務が“委譲”された。3月11日に国立劇場で開かれる東日本大震災六周年追悼式典だ。
追悼式は昨年までの5年間、天皇、皇后が臨席し、「被災地の一日も早い復興を願われ、
被災地慰問を重ねてこられた両陛下にとって特に思い入れが深いご公務」(前出・宮内庁関係者)といわれる。
それをあえて欠席して次世代皇族に任せるという決断が、
「皇室は生前退位の準備を粛々と進めている」(前出の宮内庁OB)と受け止められている。
皇室制度に詳しい小田部雄次・静岡福祉大学教授が指摘する。
「皇太子が冬季アジア大会で陛下のご名代を務められるのも、“次の陛下”となられる皇太子の予行演習や
国際的な顔見せという意味を含めて、天皇家が退位に向けての“実績”を積み上げようとしているように見えます。
しかし、天皇家がそうしなければならないのは、政治が皇室の問題に真剣に向き合おうとしていないからではないでしょうか。
政権側に“退位の詳細は政府で決める”という意識があり、皇室とのコミュニケーションがとれていないように見える」
写真■日本雑誌協会代表取材
※週刊ポスト2017年2月10日号
http://www.news-postseven.com/archives/20170202_488682.html

哀しき皇太子さま57歳にして惑う 記者会見での「覚悟」に注目
(更新 2017/2/23 07:00)
2月16日。皇太子ご夫妻は、東京・上野にある東京国立博物館の「春日大社 千年の至宝」展を訪れた。
皇太子さまは、絵巻物などの展示物を指しながら説明するように、雅子さまに話しかけている。
「妃殿下が傍らにおられるとき、皇太子殿下はなんとも柔らかい表情をお見せになるのです」
公務を報じるテレビニュースを見ながらうれしそうに話すのは、夫妻と交流を持つ人物。
だが、すぐに真剣な表情に戻り、続けた。
「私たちが本当に関心を持っているのは、皇太子さまがどのような『覚悟』をお示しになるかです」
2月23日、皇太子さまは57歳の誕生日を迎える。昨年、皇后美智子さまと秋篠宮さまが、
お誕生日の文書回答や会見で天皇陛下の退位をめぐる報道に言及している。
とくに、秋篠宮さまは皇族方の高齢化と人数の減少を踏まえ、皇室の将来の在り方について明確に意見を述べた。
それだけに、「新天皇」となる皇太子さまの「決意表明」があるのではと世間では期待する人も多いのだが、
ある宮内庁関係者はこう語る。
「それが、宮内庁内では皇太子さまのことはあまり話題になっていないのです」
続けて言う。
「いまの陛下は、皇太子時代から象徴天皇のあるべき姿について、会見などで言及されてきた。
しかし、皇太子さまは、陛下が『回答を待っている』と言及された『新しい公務』についても、
お示しにならないままでした」
加えて、皇太子さまを取り巻く状況も、安定しているとは言い難い。
まず、先日発表された雅子さまの「冬季アジア札幌大会開会式ご欠席」も波紋を呼んでいる。
そもそも大会は、天皇陛下のご名代として皇太子さまが出席する重要な行事だが、小田野展丈東宮大夫は、
「寒い時期であり2泊3日の日程の負担などを考慮」と欠席の理由を説明した。
だが、ある宮内庁OBはこう首をかしげる。
「来月には、皇太子ご一家で恒例の春スキーに行かれると聞いています。
かつても愛子さまが江戸川区のスケート場を貸し切って練習なさる際は、付き添いをなさってきましたが……」
公務だけでなく皇室の要である祭祀や伝統を紡ぐ養蚕など伝統行事へのハードルは依然として高い。
さらに、東宮ご一家に影を落とすのは、学習院女子中等科3年に通う愛子さまのご体調の問題だ。
体重が激減したまま、2学期は長期欠席が続いた。3学期は、欠席まじりながら登校してはいるものの、
回復の兆しは見えないという。
冒頭の人物は、こう話す。
「お立場上、悩みを人に相談することもできない。皇太子さまは孤独だと思いますよ」
※週刊朝日 2017年3月3日号
https://dot.asahi.com/wa/2017022200075.html

天皇陛下の生前退位、“摂政”“公務減”ではダメな理由 「皇太子が…」のご真意
週刊新潮 2017年3月23日号
天皇陛下の生前退位をめぐる議論は、国会内での意見聴取へと舞台を移した。
今月中旬には有識者会議が再開され、結論取りまとめへと向かう運びなのだが、
陛下がかくも皇位継承に強くこだわられるのは、そこにある「思い」が秘められているからだというのだ。
 ***
天皇皇后両陛下
友好親善を目的とした初めてのベトナムご訪問、
帰途には昨年10月に亡くなったタイのプミポン国王を弔われるためにバンコクにも立ち寄られた両陛下。
「ご日程は6泊7日、まして日本と気候の異なる地域です。侍従職幹部は『両陛下は83と82になられ、
お若い時のようにはいかない。侍医も絶えずご様子を拝している』と漏らしていました」(宮内庁担当記者)
陛下が国民へ向け、生前退位のご意向を強くにじませた「おことば」を発せられたのは昨年8月8日だった。
その後、官邸が有識者会議を立ち上げ、専門家らへのヒアリングを重ねてきたわけだが、
ご退位自体への異論も多く、進捗状況に気を揉まれているのは本誌(「週刊新潮」)でも報じた通りである。
おことばで口にされた「平成30年」の終わりまで残り1年10カ月。刻一刻と時間が削られていく中で
ご公務を全うされる陛下が、次世代に深く思いを致されているのは言うまでもない。
23日は、皇太子さまの57歳のお誕生日であった。
「これに先がけて21日に行われた会見では、皇太子さまも陛下のおことばに『心を揺さぶられた』と明かされ、
『お考えを真摯に重く受け止めます』と述べられたのです」(同)
いま一度、8月の「おことば」を振り返ってみると、
〈既に80を越え(中略)全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、
難しくなるのではないかと案じています〉
そう吐露されながら、
〈天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、
その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます〉
また摂政を置くことについては、
〈この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、
生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません〉
と、否定的なお考えを示されたのだった。
ご自身の「老い」について陛下が言及されたのは、一昨年のお誕生日会見においてである。
「同じ年の終戦記念日、全国戦没者追悼式で、正午の黙祷前に陛下がお言葉を読み始めてしまうハプニングが
ありました。そうしたことが念頭にあったと思われ、『行事の時に間違えることもありました』
『少しでもそのようなことのないようにしていくつもりです』と述べられたのです。また昨年末の会見でも、
ご退出時に出口を間違われ、記者席の方へと歩み寄られる一幕がありました」(同)
陛下のなさりようを長年にわたって拝してきた、さる関係者が明かす。
「ご自身に不可逆性の現象である“老い”が着実に迫っていることを、陛下は正確に自覚なさっている。
だからこそお元気なうちに皇太子さまに譲りたいお考えなのですが、
もう1つ、おことばでは決して明かされなかった理由があるのです」
それは取りも直さず、皇太子ご夫妻の“お振舞い”だというのだ。
「皇位継承については、ご自身でしっかり見届けたいと強く思われています。というのも陛下からすれば、
やはり皇太子さまと雅子さまのお振舞いはまだ物足りなく、もどかしさを覚えてしまうことが多い。
ご心配のもとであるわけです」
とはいえ、世間でいうところの“親心”とは大いに趣を異にするようで、
「ご公務を減らしてその一部を譲り渡されたり、あるいは摂政を置いたりといった対処法では、
皇太子ご夫妻のご自覚は促せない。何より一日でも早く天皇皇后という唯一無二のお立場に就いてもらい、
そのご身位に相応しいはたらきをしてほしい、と切に願われているのです」(同)
続けて、
「かりに陛下が『上皇』となられれば、そのご活動にも制約が出てくるでしょう。
それでも、実際に新天皇のお仕事を目の当たりにされた上で、至らない部分は差し障りのない範囲で
折々にアドバイスをしたいとのお考えも持たれています。
とりわけ陛下は、宮中祭祀について最も継承が難しいと考えていらっしゃる。
ご自身も大変苦労なさったとのことで、そうした思いを繰り返させぬように、とのお気持ちもあるのです」
次代を託される東宮ご一家について陛下は、お世継ぎの皇太子さまだけでなく、2004年から療養生活に入り、
なお快復の途上にある雅子妃にも、ことのほか心を砕かれてきた。
「一般紙やテレビのニュースのみならず、週刊誌からスポーツ紙に至るまで、陛下はくまなく目を通されている。
メディアを通じ、雅子さまのご病気が国民にどう映っているのか、大変お気になさっているのです。
譲位が成っても実際には皇后のお立場でご公務はなく、『準公務』という形になるわけですが、
陛下は雅子さまにもこれを全うする意識を持ってほしいと考えており、
いっそう強く生前退位を望んでおられるのです」(同)
http://www.dailyshincho.jp/article/2017/03140800/?all=1

雅子さま、美智子さまの「皇后としてのお姿」がかえって“重圧”に
週刊女性2017年4月4日号
2017/3/23
「おひとりで訪れた雅子さまは、一般の方が作られた身近で便利な発明品を興味深く見て回られていました。
優秀作品の受賞者ともリラックスされた様子でお話をされていましたよ」(東宮職関係者)
 3月9日、東京・有楽町の『東京交通会館』内で開催されていた『第50回なるほど展』に
“お忍び”で足を運ばれた雅子さま。
同展は'02年と'09年にも、ご公務で見学されているのだが、今回のお出ましに関しては公の発表はなかった。
「雅子さまは、公務などで周囲から注目されることに関しては、まだ苦手でいらっしゃるのかもしれません。
『なるほど展』は、以前からお出ましになっていて思い入れの深いイベントだったからこそ、
人の目が少ない私的なお出ましにされてまでいらっしゃったのだと思います」
そう話すのは、皇室を長年取材するジャーナリストで文化学園大学客員教授の渡邉みどりさん。
ここ数年はご体調も回復傾向にあるとはいえ、13年にわたる『適応障害』の療養は続いている。
そんな雅子さまにとって4月中旬に検討されていた「海外訪問」は、やはりハードルが高かったようだ。
「4月13日から17日の4泊5日の日程で皇太子さまのマレーシア訪問が予定されていますが、
雅子さまのご同行は見送られることになりました。もし実現すれば“初のアジア訪問”になっていました」
(皇室担当記者)
'13年にはオランダ、'15年にはトンガを訪問されるなど、海外へ行かれる機会が増えていた雅子さま。
「国際親善」を志し皇室に入られたが、なぜ今回の訪問は断念してしまわれたのだろうか。
前出の渡邉さんは、4月の“一大行事”との関連性を指摘する。
「園遊会が差し迫っていることで、ご体調の面で大事を取られた可能性もあるのではないでしょうか。
その際は両陛下とご一緒にお出ましになることもあり、プレッシャーも大きいのだと思います。
皇后になられる日も目前に迫っていらっしゃるので、慎重に対応されているのでしょう」
4月20日に行われる『春の園遊会』は、両陛下をはじめ皇族の方々も参加され、各界の功労者約2000人が集まる。
一昨年の秋には12年ぶりに一部参加され、その後も続けてお出ましになっていることで、
欠席するわけにはいかない事情もあるのだろう。
さらに美智子さまの「皇后としてのお姿」が、近くでご覧になっている雅子さまにとって
「重圧」になっていることも考えられる。
2月末から3月上旬にかけて、約1週間にわたるベトナムとタイへの訪問から帰国された美智子さまのお身体に
“異変”が起こった。
「3月14日の夕方、腹部に発疹が見られ、『帯状疱疹』と診断されました。美智子さまはベトナム訪問前から
背中に痛みを訴えられたり、『口唇ヘルペス』の症状が出たりと、お身体は万全な状態ではなかったのです」
(宮内庁関係者)
病気を患うほど今回のベトナム訪問を“懸命”に果たされた美智子さま。雅子さまも、そのお姿に
“皇后の気迫”を感じ取っておられるのだろう。美智子さまが過去に3回、マレーシアを訪れていることも、
雅子さまが訪問を躊躇された理由かもしれない。
「'70年2月には、昭和天皇のご名代として、ご夫妻で訪問されました。
気温が28度前後で立っているだけで汗ばむほどだったのですが、着物をお召しになっている美智子さまは、
立派にお務めを果たされました」(宮内庁OB)
身体障害者施設では、粘土細工セットやブロックのおもちゃを子どもたちにプレゼントなさり
“本当のお母さまのよう”と慕われたという。
平成に入って'91年に同国を訪れた際も着物をお召しになった。
「このときに美智子さまがお召しになったお着物を紀宮さまが大変お気に召し、
ご自身の結婚式のお色直しでご着用になりました」(渡邉さん)
'06年にも同国を訪れたのだが、'91年に山火事による視界不良のために立ち寄りをキャンセルした
ペラ州に“15年越し”の訪問を果たされ、地元住民も歓喜したという。
そんな美智子さまの「後継者」としてマレーシアを訪れることは、
雅子さまにとって相当なプレッシャーになっていたのかもしれない。
「再来年に雅子さまが皇后になられた際は、大変なお仕事がたくさんあります。
美智子さまは皇后として最高のお手本ですが、雅子さまは美智子さまのお姿を見ていらっしゃるからこ、
“皇后としてのカベ”が高いと感じていらっしゃるのかもしれません」(渡邉さん)
http://www.jprime.jp/articles/-/9309

皇太子ご夫妻への期待と不安

文藝春秋2016年10月号
朝日新聞皇室記者が敢えて書く
皇太子ご夫妻への期待と不安
岩井克己 ジャーナリスト

「恐れながら」と前もって非礼をお詫びしつつも本音を言えば、
皇太子殿下は筆者にとっては今も「ナルちゃん」なのである。
昭和61年2月から皇室担当を命じられ、直面した最大の“試練”は、
百名山を次々と踏破する彼の山行に懸命について回ることだった。お妃探しが当時の最大の関心事。
「まずは人柄を知らねば」と。殿下26歳、こちらは39歳。なまり切った体にむち打ち、
あごを出しながら幾つ登ったか数えきれない。
テント泊となった南アルプスの山頂で、星空を仰ぎつつナルちゃん差し入れの「シーバスリーガル」を
酌み交わしながら語らった。目を輝かせて山の素晴らしさを語る彼の姿に
「大自然と音楽や仏像など美しいものが好きな好青年」と思ったことは覚えているが、
疲労で酔いつぶれ中身は忘れてしまった。結果、記者仲間と一緒のテントで大いびきをかき、
気付いたら一人用テントに追い出されていた。翌朝顔を合わせると、殿下から
「そういえば夜中にクマの唸り声が聞こえたのかと思いましたよ」とからかわれた。
伯耆大山登山のあとの出雲大社参拝。勝手に「ナルちゃんに成り代わり」と念じておみくじを引き、
ご本人な「中身を知りたいですか?」と尋ねて「はい」と身を乗り出したところで
「結婚、急がぬがよし」と読み上げ、あはははと笑い転げさせたこともあった。
下界に降りて、美智子さまに「記者の皆さんも浩宮の山登りにおつきあいされ大変ですね。
弟の礼宮は山は好きではないようですのに」と気遣ってもらった。
ただし、後日お目にかかると訂正が入った。
「礼宮から訂正しておいてと言われましたので、お伝えします。礼宮も山は好きなのだそうです。
ただし登るのが嫌いなのだと申しております」

世間とは垣根に阻まれて
そんな楽しいご一家も、昭和天皇の闘病・崩御、天皇陛下の即位、礼宮の結婚と秋篠宮家設立、
浩宮の立太子と独立と、それぞれに新たに重責を負う道へと分かれ、
記者らにとっても牧歌的な時代は遠い思い出となった。そして気掛かりな思い出が増えた。
インド訪問に随行した時、移動の車列の道筋に大勢の路上生活者が見えた。後で彼は真剣な面持ちで
「ショックでしたね」と感想を述べた。平成になって間もなく上野公園の東京国立博物館の美術館に随行した時。
帰りがけに公園を歩くと、警察に追い払われていたホームレスの人波が続々と大荷物を手に公園に戻る姿があった。
「彼の目には入らないのだ」と思ったことを覚えている。
冷害に襲われた農村、炭鉱事故で大勢が犠牲となった炭住街、東南アジアのスラムなども現場取材した
社会記者の目には、「感受性豊かにお育ちだが、いつも垣根に阻まれ世事に疎いんだな」と映ったものだ。
霞が関の出身省庁に戻る東宮侍従が「皇太子さまも、いつまでも山とテニスが好きな爽やかな好青年ではいられない。
天皇陛下の猛勉強ぶりと行動力をもっと見習ってほしい」と嘆くのに驚いたことがある。
「そうでないと将来、お飾りになったり利用されたりしないかと心配で。
置き手紙をしようかと思い詰めたが踏みとどまった」と目に涙を浮かべていたのである。
天皇陛下が「象徴としてのあるべき姿」について自ら語り、
皇太子への譲位の意向をにじませる「お気持ち」を明らかにした。
象徴として全身全霊で務めを果たすべき天皇が高齢で十全に果たせないなら
次世代に譲りたいとのご意向と受け取れる。
いつまでも両陛下には元気で長生きしていただきたいと思う半面、だれも口には出さないが、
「皇太子ご夫妻は大丈夫だろうか」との問いかけをのみ込んでいる国民も少なくはないのではないか。
陛下の「お気持ち」を読んで、強く目に飛び込んできたキーワードは「市井の人々」であった。
「国民統合の象徴」として国民の安寧と幸せを祈るためには「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、
思いに寄り添うことも大切」と考え、全国津々浦々、離島まで旅を重ねたと。
そして「地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々」を認識し、
象徴天皇としての務めを「人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と。
誰もが敗戦の焼野原に発せられた昭和天皇の歴史的な「人間宣言」の「朕と爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、
終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」を
思い浮かべたであろう。
現天皇陛下は、「市井の人々」への「信頼と敬愛」を持てたことを「幸せなことでした」と
天皇の側から感謝したのである。
皇太子時代から積み重ねた様々な人々とのふれあいが凝縮され万感がこもっていると感じた。
平成15年9月、大阪府和泉市で皇太子さまがNICU(新生児集中治療室)を視察したことがあった。
記者たちは事前に現場で待ち受けていたが、そこで治療を受けた数組の親子が呼ばれて並んでいた。
話を聴くと、それぞれにかけがえなのい我が子の命が消えかかり、
そして救われるまでの壮絶な体験と感謝の気持ちを抱えていて胸をうたれた。
「深いやりとりがありそうだ」とメモを持つ手に力が入った。
しかし、入室してきた皇太子さまは「大変でしたでしょうね」と
数往復やりとりしただけで次に向かって行ってしまったのである。
「ナルちゃん、もっと突っ込まなきゃ」と胸の内でつぶやいたものだ。
平成16年の皇太子さまの「人格否定」発言は、まだ世の人々の記憶に新しい。
思えば平成5年の結婚以来、「世継ぎ」を求められてながら得られぬ皇太子ご夫妻の苦悩は
察するに余りあるが、それ以上に天皇陛下にとって皇位と天皇の務めの継承問題は
最大の悩みのひとつであり続けた年月であったろうと思う。
「昭和天皇の後を継いで、両陛下が営々と積み上げてきたものが一気に崩された」
「皇室なんかいらないとの声まで呼んでしまった」と両陛下周辺は怒りを隠さなかった。
折しも天皇陛下は前立腺がんが再発して二重の憂いに沈み、医師団が睡眠薬を勧めるほどの状態だった。
「家庭内の区々のトラブルのことよりも、陛下は、国と国民に対して重い責務を負い、
これからも負って行く者としての自覚を問題にしておられる」と。

言葉が実を伴っていないのではないか
結婚直後の雅子さまについて、宮内庁の主計関連職員が「妃殿下の購入された書籍などは、
並みの大使など及びもつかないほどの勉強ぶりをうかがわせる」と感心していたことがある。
外交・国際関係などの外書も含まれていたのだろう。
雅子妃の縁者は「ただ外国に行きたいという安易な話ではなく、国際舞台で日本の役に立ちたいというのが
若くからの夢で、その志を抑えられるのはアイデンティティーを否定されることなのです」と語っていた。
当初は雅子妃に同情的な声が多かった。しかし筆者は「雅子妃のために皇室があるのではない」と思い、
いわば「究極のイメージ産業」とも言える皇室を台無しにしていると、
何度か皇太子ご夫妻の言動に対する批判記事を署名入りで書いた。脅迫状もずいぶん届いたが、
どれも皇室が歩んできた歴史や伝統、国民と相互の「信頼と敬愛」の意味について
全く理解も顧慮もしていないものばかりだった。「板挟みのナルちゃんは辛いだろうな」と一人つぶやいたものだ。
平成25年、天皇陛下の傘寿の会見ではっとした。「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、
私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました」というくだりだ。
皇后さまへの感謝の気持ちと同時に、世代も遠い海外育ちの雅子妃の精神疾患への理解と諦念も
垣間見えたように思った。
深刻なのは、雅子さまが見知らぬ不特定多数の国民と接する場や宮中祭祀を避け続けていることだろう。
年間五十回前後ある勤労奉仕団の人たちへの会釈は、地方から上京して清掃奉仕してくれた人々が
じかに接する機会で、両陛下や皇太子さまはほぼ全てに出ておられるが、雅子さまはほぼ全て欠席。
まれに皇太子さまの地方訪問に同行しても、知事、議員、市町村関係者ら地元の人々との恒例の昼食会は、
一人部屋に残って顔を出されないでいる。以前、何かお気に召されないことがあったらしく、
主治医も「皇太子妃ともあろう方が余りローカルな話題におつきあいされる必要はないのでは」と
言っていると伝え聞いた時は「わかっていない」と、筆者すら慨嘆したものだ。
地方での関係者との会食は、皇太子時代から両陛下が「親しく地元の人々の話を聴きたい」と始め、
天皇、皇后としても平成元年の初めての地方公務の時から会食形式に切り変えさせて、
ずっと続けてきたものだからだ。
宮中祭祀は年間三十数件あり、天皇自らが執り行う「大祭」は一月の元始祭、昭和天皇祭、三月の春季皇霊祭、
四月の神武天皇祭、九月の秋季皇霊祭、秋季神殿祭、十月の神嘗祭、十一月の新嘗祭と先帝祭、
先帝以前三代の式年祭。新嘗祭だけは皇后や皇太子妃は御所で慎む形だが、それ以外は全て皇后、
皇太子妃は伝統装束で殿上拝礼するしきたりだ。また掌典長が執り行い天皇が拝礼する「小祭」でも、
一月の歳旦祭、二月の祈念祭、天皇誕生日の天長祭を除く「ご先祖のお祭り」つまり先帝三代の例祭、
歴代天皇の式年祭は同様だ。
皇后も皇太子妃も潔斎所で潔斎し髪をおすべらかしにして十二単に着替え、宮中三殿に上がって拝礼せねばならない。
他の皇族方がモーニング、ロングドレスで庭上拝礼するのに比べ各段に負担が大きい。
国家神道の時代につくられた過重な祭祀体系は見直されるべきかもしれない。しかし歴代の皇后、
皇太子妃は営々と継承に努めて来た。例えば平成二十年の場合、天皇陛下の祭祀は三十三回。
このうち皇后さまは十四回ご一緒されている。
平成十五年に長期療養に入って十三年。雅子さまは平成二十一年の昭和天皇二十年式年祭、
今年の神武天皇二千六百年祭で、山稜参拝に赴く皇后の名代を求められた際には出席したが、
この二回以外は全て欠席。祭祀を担当し昼夜わかたぬ激務で支える掌典職の中から
「やってられない。お代替わりすれば辞めます」との声が聞こえたこともある。
東日本大震災の直後、病を抱えた天皇陛下、皇后さまも秋篠宮ご一家は厳しい日程を組んで被災地を訪れ、
数多くの地域に入って犠牲者の冥福を祈り、被災者を見舞ったまに比べ、
どう見ても皇太子ご一家の動きは鈍かった。もちろんご夫妻も一応は東北各県に入ったけれども、
タイミングは遅れたうえ、両陛下並みに飛行機やヘリを使った移動にもかかわらず、
昼前後に出発し夕方には現地を後にするというパターンで、訪問先も空港近辺などきわめて限られた。
雅子妃の体調が理由だろうが、どうしても解せなかったのは、なぜ皇太子が、
それ以外にも単独でも赴くことをしなかったのかということだった。
もちろんお見舞いや激励などは、あくまで「お気持ち」の問題であり、外形的なことで判断したり
無理強いするような義務化はすべきではないかもしれない。しかし、記者会見などで皇太子は
「国民の幸福を一番誰よりも先に、自分たちのことよりも先に願って、国民の幸福を祈りながら仕事をするという
これが皇族の一番大切なことではないかというふうに思っています」(平成十六年の誕生日会見)などと述べている。
言葉が実を伴っていないのではないかと問いかけたくなったものだ。

「太子、前代の興廃の跡を察し観られよ」
天皇陛下は言葉が実行を伴わないことを嫌われるという。「綸言汗の如し」だからだろう。
その一貫して厳しい姿勢は、例えば皇太子時代に沖縄で火炎瓶を投げ付けられた後に発表したメッセージでもわかる。
「私たちは沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来につなぎ、
ともども力を合わせて努力してゆきたいと思います。払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によって
あがなえるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、
この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」
皇太子さまは五十歳の誕生日会見で花園天皇の『誠太子書』を引き合いに学問の大切さをかみしめていると語った。
南北朝の争乱を予感しつつ、歴代きっての学識で知られた花園天皇が甥の皇太子量仁親王(後の光厳天皇)に
皇位を担う覚悟について「帝王学」を訓戒した書である。
筆者は昨今、次のくだりも戒としていただきたいと思っている。
「太子宜しく前代の興廃の跡を察し観られよ。(略)智恵が万物に周ねく、
才能が平なるところをも険しき事をも経験して、世間の辛酸を嘗めたのでなければ、
この乱りがはしき世を治めてゆくことはできない。然るに凡庸のものは、太平の時のことに眼がなれて、
今の時の乱を知らない」「凡庸の主が、この運に当たつたならば、即ち国は衰へ、政は日に乱れて、
勢ひ必ず土崩瓦解して、手がつけられぬやうになるであらう」(辻善之助『皇室と日本精神』の意訳)
雅子さまにも近年、前向きの変化の兆しが出て来た。
昨年一年間の東宮の公務約二百件のうち雅子妃が出席した公務などは約六十件と長期療養入りしてから最も多かった。
今年も4月に昨秋に続き園遊会に一部姿をみせた。6月には千葉県での「みどりの愛護」のつどいに七年ぶりに出席し、
その八日後には泊りがけで東日本大震災復興状況視察のための岩手県訪問に同行した。
7月には、長期療養入りして以来十三年ぶりに献血運動推進全国大会に出席した。
注目されるのは、愛子内親王を伴ってご一家で皇室の伝統や戦争体験の世代間継承を図ろうとする動きが
目立ち始めたことだ。一昨年7月には、式年遷宮後の伊勢神宮に参拝。昨年7月には昭和館の戦後七十年記念展に。
今年4月には昭和天皇記念館で「思い出の昭和天皇」展を視察。7月には奈良県橿原市の神武天皇陵に参拝し
京都御所を見学した。
皇太子自身も誕生日会見で平和や憲法について積極的に思いを語り始めた。
「今年の日本は、戦後、日本国憲法を基礎として築き上げられ、
現在、我が国は、平和と繁栄を享受しております。今後とも、憲法を遵守する立場に立って・・・・・・」平成26年)
戦後七十年の平成27年にも、幼時から沖縄慰霊の日、広島、長崎の原爆投下の日、終戦記念日の
「忘れてはならない四つの日」に両陛下と一緒に黙禱したこと、
豆記者と会った際に「沖縄での地上戦の激しさ」について聞いたことを振り返り、
愛子内親王も両陛下から先の大戦について直接話を聞いていると述べた。
そして「我が国は、戦争の惨禍を経て、戦後、日本国憲法を基礎として築き上げられ、平和と繁栄を
享受しています」と繰り返し、平和の尊さを心に刻むと語った。
現天皇が長年積み上げて来た足跡を継承するとの皇太子としての決意の宣言のようにもみえる。
天皇陛下は「お気持ち」の中で、象徴としての務めは全身全霊で果たさねばならないし、
自ら「市井の人々」の傍らに赴き思いを寄せてきたと述べられた。
上で高齢化により十全に務めが果たせなくなったら務めを縮小することには「無理がある」という言い方で、
後継者に譲るべきではと示唆された。
このことは後継者にも「市井の人々」に広く接し、相互の信頼と敬愛を育みながら全身全霊で務めを
果たすことを求めていると受け止めるべきだろう。

市井の人々に寄り添っていただきたい
譲位については、明治典範の起草にあたった当代最高の法制化の井上毅も柳原前光も、
そろってこれを認める皇室典範原案をつくっていた。
「万世一系の天皇」の理念を編み出した井上ですら「至尊(天皇)と雖も人類」として、
摂政を置いてまで終身在位とするよりは譲位のほうが望ましいと考えていた。結局は伊藤博文の判断で
終身在位制度が選択され、敗戦後も昭和天皇の退位問題とも絡みも現在の典範にも引き継がれた。
しかし、歴代天皇の約半数が譲位継承だったことを考えれば、前例の全くない女系天皇の実現を
小泉純一郎内閣が試み挫折したのに比べてハードルははるかに低いだろう。
「かつての上皇、法皇といった存在が出て弊害を生ずる恐れがある」「退位が恣意的なものとなったり
皇室が政治的思惑に巻き込まれたりする恐れがある」「強制的な退位が起こり得る」などといった事態は、
かつてない情報化社会で国民主権下での象徴天皇が定着した現代では考えにくいだろう。
懸念があるとすれば「愛子内親王を天皇に」といった皇位継承原則を巡る論争が再燃し、
それと絡められて譲位をめぐる議論が暗礁に乗り上げてしまう心配くらいではないか。
もし譲位が制度化されれば、皇位継承儀礼も大きく変わる。剣璽等継承の儀を中心とした「譲位の式」が
検討されなければならない。先帝が存命で見守るなか、新天皇の即位の礼や大嘗祭が執り行われる。
改元のスケジュールも前もって決められるため、新元号も大っぴらに十分な時間をとって検討・施行されるだろう。
典範改正に伴い皇室経済法、宮内庁法、皇統譜令、宮内庁組織令なども手直しされるだろう。
天皇家の方々の班位(順位)は(1)徳仁天皇(2)明仁太上天皇(3)雅子皇后(4)美智子皇太后の
順となるだろう。
現両陛下は結婚以来三十三年間暮らした元赤坂の東宮御所を懐かしがっておられるとも聞く。
皇居の御所を徳仁新天皇ご一家に譲り、東宮御所を「赤坂仙洞御所」として穏やかに暮らされるかもしれない。
そして先帝が亡くなられれば、ひょっとしたら葬儀は貞明皇后や香淳皇后の時のような簡素な形にできるかもしれない。
既に両陛下は土葬から火葬に切り替えるなど葬儀関連行事や築陵を簡素化する薄葬を希望しており、
それが両陛下のお気持ちに沿うのかもしれない。いずれにしろ、大がかりで国家機能や国民生活に大きな影響が出る
天皇の「大喪の礼」や崩御改元は避けられるのである。
長年取材してきた実感からは、天皇皇后両陛下が能動的・積極的象徴天皇観から倦まずたゆまず展開し
増やしてきた公務などの活動や天皇の国事行為は、皇太子ご夫妻の活動に比べ質量ともに五倍、六倍の
負担を伴うものだと思う。やりがい、喜びを感じず、負荷と感じれば、
とうてい「全身全霊で」取り組めるものではない。
天皇陛下が、皇太子を支える弟宮の秋篠宮も加え、三者で話し合いを重ねた上で「お気持ち」を直に
国民に伝えたのは、「人々」への責任感と、それゆえにバトンタッチの「テークオーバー・ゾーン」を設けて
後継走者たちの健闘を見極めねば死んでも死にきれない思いもあるような気がしてならない。
これを「トロイカ」と呼べば叱られるだろうけれども、「過去」を象徴する太上天皇、「現在」を象徴する
新天皇、「未来」を象徴する弟宮家の相和した三重奏が奏でられればいいなとの思いがする。
キーマンの皇太子の「助走」は既に始まったと考えるべきで、バトンタッチまでにトップ・ギアに入れねばならない。
遠からず「人々」の期待の目が注がれるだろう。
皇太子ご夫妻には、エスタブリッシュメントだけに囲まれるな、綺麗ごとや阿諛追従に惑わされるな、
「市井の人々」に分け入り寄り添って頂きたい、と切に申し上げたい。

小和田優美子さん「日本も皇室も変らなければ」

週刊文春2015年12月31・2016年1月7日号
小和田家VS.天皇家 子育て版「文明の衝突」
美智子さまのご心配には深い理由があった。
「それは、雅子さまの強い影響を感じ取られたからだと拝察いたします。
皇后陛下は『私を先んじる自分中心主義』と雅子妃のことを評されたことがあるのです。
勉学を手段にして立身出世を目指す小和田家の『官僚的価値観』を指しているのだと思います。
対照的に天皇家の内親王が身に付けなければならないのは、見返りを求めない教養と、
『無私』や『受け身』を美徳とし、他者への気遣いを第一とする在り様です。
皇后陛下は、愛子さまが゛自分中心主義゛へと流されつつあるとお気付きになり、
引き戻さなくては、と気をもんでいらっしゃるようでした」(千代田関係者)
(中略)
振り返れば、昨年までは、愛子さまの躾けについて、
皇太子ご夫妻の教育方針に疑問を感じる場面も少なくなかった。
「校門で先生に挨拶せずサッと中へ入られることは多かったですし、13年4月の
オール学習院の集いで、愛子さまはお菓子の包み紙を『これ』、鼻をかんだティッシュを
『ゴミ』と言ってスタッフに差し出された。雅子さまは06年の誕生日文書回答で
<愛子が幼稚園生活を楽しく送れるよう、できる限りの手助けをしたい>と愛子さまの
自主性を重んじられてきましたが、周囲はとても心配でした」(別の学習院関係者)
懸念されたのは、皇太子ご夫妻の“叱らない子育て”の方針だった。

小和田恆氏の秀才伝説
それを端的に表していたのは、皇太子が05年の誕生日会見で紹介された。米国の家庭教育学者
ドロシー・ロー・ノルトのこの詩だ。
<批判ばかりされた子どもは 非難することをおぼえる(中略)
可愛がられ抱きしめられた子どもは 世界中の愛情を感じとることをおぼえる>
じつはこの詩を皇太子に紹介したのは、経済学者で東京大学名誉教授の神野直彦である。
会見直前の2月18日のことだった。
「地方分権について、東宮御所へご進講に伺った折、邦訳されているスウェーデンの教科書
『あなた自身の社会』を献呈し、収録されていた詩を朗読したところ、殿下は頷きながら
じっと聞き入られ、『奥深いお話でしたね』と仰いました」
同年4月にもご進講の機会があり、神野氏は教育には「盆栽型」と「栽培型」があるとも説いた。
「前者は、子供が曲がりたくもないのに親の考えるほうへ曲げていく日本的な教育。
後者はスウェーデン的で、その木が伸びたいように伸ばし、肥料をあげたり、虫がつかないようにする
教育だとご説明すると、殿下は深く納得されたご様子で、『そうですね、やはり伸びたいように
伸ばしてあげたい』と仰いました」
現在、叱らない子育ては日本の若い親世代にも広く浸透している。だが、その在り様は、現代の
教育学ではどのように解釈されているのか。明治大学教授の齋藤孝氏が解説する。
「叱らない子育て流行の背景には、社会全体が厳しさを嫌い、優しさとゆるやかさを好む傾向がある。
委縮しない個性豊かな人間になってほしいという親の願望が根底にある。アドラー心理学等が
援用されることがあるが、教育学の定説とまでは言えず、効果は必ずしも実証されていない。
ただ、現在の教育学では、親や教師が怒りの感情を爆発させ頭ごなしに叱ったり体罰を加えたり
するよりは、道理を理解させる対話的指導が、支持されている。
一方で、危惧の声も聞かれる。『ウチは叱らない子育てです』と言われてしまうと、周囲は
その子の逸脱行動を注意しにくい。これはバランスのいい状態ではない。教師たちの実感によれば、
叱られていると感じた瞬間に心のシャッターを降ろしてしまう子供が増えてきている。
皇室のようにとりわけ厳しい規範意識を日常的に要求され実践している状況においては、
子供の過度な緊張を和らげるために、叱らない子育てによりバランスを取ることにも理がある。
叱らなくても規範意識を身につけさせる環境ができているのかが境界線となる」
叱らずに躾ける一方、特訓スタイルで勉学に集中させる。愛子さまのご教育の裏に見え隠れするのは、
やはり小和田家の流儀である。
(中略)
「小和田家は江戸時代中期からの越後村上藩士で、恆氏は分家の子孫です。雅子さまの曾祖父である
金吉氏の代に村上を離れ、祖父の毅夫氏は現在の新潟県立高田高校の名物校長でした」
(村上市郷土資料館職員)
恆氏の高校の同級生である金山龍雄氏は、「小和田さんは秀才で、いつも勉強していたと思います。
最も印象的だったのは、生徒会長選挙。当時は推薦制で、小和田さんは当選の予感があったのでしょう。
『自分に投票しないでくれ』と洩らし、結果十三票しか入らず落選しました」

職業観をめぐる根本的な違い
大学入試を迎え、恆氏は余裕で東大文Tに合格。
「小和田さんは夕食を早い時間に食べて少し休むと布団を敷いて本格的に寝てしまう。
やかましさを避けて深夜に静かに勉強に集中するわけです。しかし夜中にフランス語やラテン語を
口に出して言うので、目が覚めて眠れなくなるので困った」(寮で同室だった吉崎道義氏)
(中略)
93年1月19日、皇室会議を経てご婚約が正式決定した後の記者会見で、雅子さまはこう語られた。
<いま、私の果たすべき役割というのは、殿下からのお申し出をお受けして、皇室という新しい道で
自分を役立てることなのではないか、と考えましたので、決心したわけです。いま、悔いはございません>
日本ユニセフ協会に勤める妹の池田礼子さんが「婦人公論」に寄せた手記にはより率直な
ジレンマが綴られている。
<もとも結婚していなければ、私はニューヨークでの仕事に続いて、アフリカの紛争地域に行っていたかも
しれません。(中略)結婚に踏み切るかどうか、正直悩みました。(中略)それに育児は、やはり母親が
中心にならざるをえません。一日の時間は限られていますから、どうしても棄てなければならないものが
できてしまう。男性は棄てるものが少なくて羨ましいと感じる時もあります>(06年7月22日号)
こうした“職業観”は「無私」の精神にのっとり、頂いた仕事の先に自分の道があると
女性皇族像について記した紀宮さまのご発言とは、まったく違う。
<やはり今私にできることは、一つ一つの務めを大切に果たし、その時に感じ取ったことを
心に残しつつ、かかわった活動や国、そして人々に思いを寄せ続けていく事ではないかと考えます。
その積み重ねの先に、自分なりの内親王としての務めが充実できれぱとても嬉しいことです>
(03年の誕生日文書回答)
近年、雅子さまの母・優美子さんはある皇室ジャーナリストにこう語ったという。
「親馬鹿だと思われるかもしれませんが、私は妃殿下が心配なのです。妃殿下は
ありのままの人なのだから、演技はできない。何かあると『小和田家か悪い』と言われるけれど……。
日本も皇室も変らなければ」
家風というのはそれぞれが個性的である。そのため婚姻により家同士が結びついたとき、軋轢を
生ずるのも有り得べき事だ。しかし、一般家庭の生活様式を皇室の在り方と同じ次元で考えるものでもないだろう。
天皇家と小和田家の間で育つ、愛子さまのお健やかなご成長を願いたい。

悠仁さま10歳秋篠宮家の子育て

文藝春秋2016年10月号
悠仁さま10歳秋篠宮家の子育て
江森敬冶(毎日新聞編集委員)

秋篠宮家の長男・悠仁さまは、9月6日の誕生日で十歳になった。
秋篠宮さま(50)が昭和40年11月に生まれて以来、皇室には久しく男子皇族が生まれなかった。
平成18年9月6日の悠仁さまの誕生は、皇室にとっては41年ぶりの男子誕生となり、
それだけに多くの国民は喜びに沸いた。生まれた年の暮れの記者会見で天皇陛下は、
「初めて会った時には立派な新生児だと感じました。(略)
また、大勢の人々が悠仁の誕生を祝ってくれたことも心に残ることでした」と、喜びを語った。
悠仁さまは、平成22年4月、東京都文京区にあるお茶の水女子大附属幼稚園に入園し、
平成25年4月には、幼稚園の隣にあるお茶の水女子大附属小学校に入学した。
現在は、四年生だ。元気に学校生活を送り、休み時間も放課後遊びも、寒いときでも暑いときでも、
校庭で友達と楽しんで遊んでいるようだ。
昨年秋の記者会見で紀子さま(50)は、悠仁さまの近況について、
「興味を持っているものの一つに文字があります。旅行先などで地図を見るのが好きで、
書かれている漢字の地名や、調べ学習で使う漢字辞書に載っている旧漢字を覚えることもあります。
また、世界の文字の絵本を見ながら、まねて書いたりもします。
このように長男は、知らない文字が分かるようになり、書けるようになることが面白いようです」と、説明。
さらに、早めに行動するように心掛けるようになり、登校時間を余裕を持って守ろうとしているなど、
悠仁さまの成長ぶりを語った。
また、悠仁さまは、今年5月には、サツマイモ植えをした。
この行事は、上級生として低学年の世話をしながらの活動だった。
農園の人からサツマイモの苗植えの説明を聞いた後、三年生に教えながら、一緒に苗植えをし、
楽しく過ごしたようだ。
5月の下旬に催された学校の運動会では、四年生だけが参加する「台風の目」をはじめ、いろいろな競技に参加し、
友達と一緒に練習した成果を存分に発揮したようだ。
このほかにも、悠仁さまは、学校の遠足で高尾山にも登ったと聞いている。

受験準備を始める友達も
二人の姉の眞子さま(24)や佳子さま(21)が小学生のときも同様だが、
紀子さまは悠仁さまに対しても、生活の中で関心を持っていることを温かく見守り、
様々な経験を重ねていくことを大事にしているように見える。
科学博物館や美術館に出掛けたり、ワークショップに参加したりして、
紀子さまは悠仁さまと一緒に、科学の不思議な世界を楽しみ、考え、そして理解を深める時間、
あるいは、創りだす喜びの時間を持っているようだ。
私が初めて、秋篠宮さまに会ったのは、宮さまが紀子さまと結婚した翌年の平成3年2月のことだ。
以来、個人的な宮さまとのお付き合いは続き、今年で25年となる。
今年に入って、私は、宮さまに小学校時代の様子を伺ったことがある。
学習院初等科の高学年の頃は、日本の歴史にとても関心があったという。
その時、話題が、悠仁さまの進路に及んだ。お茶の水女子附属小学校は男女共学だ。
女子は、附属の高校まで進学できる。しかし、男子は、附属中学までは進学できるが、高校へは進めず、
高校入学時に他校を受験しなければならない。
こうしたことから、多くの男子が小学校六年生で、国立や私立などの中学校を受験することになる。
小学校四年生の悠仁さまの周囲でも、男友達が進学塾に通い始めるなど、受験準備を始めているらしい。
受験の準備をしている友達もいれば、そうでない友達もいる。
悠仁さまも、まさに今、そのままお茶の水女子大附属中学校に進学するか、
それ以外の中学校受験をするかどうかの大切な岐路に立っているのだ。
学校生活では、学年が上がるごとに、するべき事が増え、その質も求められていく。
そして、その学年で学習することをしっかりと身につけられるように、復習もより大事になってくると、
紀子さまは考えているようだ。
私は、既に両親が、悠仁さまが進んでほしい特定の学校や大学を想定しているのだと思っていた。
しかし、両親の話を聞くうちに、この先、どの学校に行って学ぶのがよいかというような具体的な考えは、
まだ、持っているようには感じられなかった。
悠仁さまが四年生から五年生へと進み、学校生活を送る中で、いろいろと考えを深め、
家族とし話し合いながら、自分の将来をじっくりと考え、決めていくのであろう。

 遠くより我妹(わぎも)の姿目にしたるまごの声の高く聞え来(く)

「虫捕りに来し悠仁に会ひて」とある平成22年の天皇陛下(82)の和歌だ。
夏、幼い悠仁さまが、昆虫採集のため、両陛下の住まいである皇居・御所を訪れた。
その際、遠くから、皇后さま(81)の姿を見つけてて喜び、その声が聞こえてくるという大意らしい。
祖母と孫とのほのぼのとした交流の場面が鮮やかに目に浮かんでくる。
平成20年11月の記者会見で紀子さまは、
「夏ごろからでしょうか、庭にいる小さな虫、バッタやカマキリなどを見つけて上手に捕まえて、
手で持ったり、また袖に乗せたりしてよく観察しておりました」と、
昆虫に興味を持ちだした頃の悠仁さまを紹介している。
「夏ごろ」と言うから、平成20年夏で、おそらく悠仁さまは、一歳末の頃から、虫に興味を持ち始めたらしい。
平成21年秋には、秋篠宮さまが「結構虫に興味が出てきまして、庭でカブトムシを見つけたり、
カマキリを見つけたりして、それを毎日何回か眺めるというか、
一緒に遊ぶことを楽しみにしているようでした」と、興味が高じてきた様子を語っている。
以来、「昆虫博士」「昆虫ハンター」としての悠仁さまの歩みは、今も続いている。先日、宮さまに聞くと
「昆虫への興味は、今でも相当ありますよ。採集するため、あちこちに出掛けています」と、即答した。
「あちこち」というのは皇居・御所や赤坂御用地だけでなく、他の場所へも足を運んでいるらしい。
今夏も、夏休みを利用して悠仁さまは両親たちと、山形県遊佐町やにいがた津南町に出かけ、宿泊した。
津南町の「農と縄文の体験実習館 なじょもん」を訪れた悠仁さまは、修復された本物の縄文式土器に触れ、
その大きさや縄目の模様などを興味深く観察していた。ジオパークの企画展では、動物の角や歯にも触れ、
生き物の種類によって様々な違いがあることに気づいたようである。屋外では、火おこし体験や復元された
竪穴式住居の中で、土器作りを体験した。土器作りは、長い時間をかけ、集中して熱心に取り組んだと聞いている。
この滞在中も、苗場山麓の豊かな自然に触れ、昆虫採集も楽しんだらしい。
「どうして、悠仁さまは虫がお好きなのでしょうか?」。私が、こう聞いたところ宮さまからは
「何故、好きなのか理由は分かりません。子供は昆虫が好きでしょう」との答えが返ってきた。

一番関心があるのはトンボ
実は、宮さまも小さい頃、昆虫が大好きだった。
天皇一家は、皇太子時代に、赤坂御用地にある東宮御所に住んでいた。
御用地の林に、陛下が考案された手製の虫捕り装置を置いていた。
それは誘蛾灯に集まってきた虫が、その下にあるじょうご状の管を通って虫カゴの中に集まる仕組みだった。
夏の日の朝、宮さまは妹の黒田清子さん(47)を連れて、採集した昆虫を見に行くのが楽しみだったそうだ。
二人は、一緒に御用地で虫捕りに出かけた。しかし、昆虫を捕り損なった清子さんをしばしば宮さまが叱るので、
清子さんは宮さまとの昆虫採集は、「とても怖かった」と、後々まで話していたという。
昆虫の中でも悠仁さまは、トンボとチョウチョが好きらしい。
「でも今、一番、関心のあるのはトンボでしょうね」と、宮さまは話す。
悠仁さまは、御用地内の水田にメダカやヤゴを放し、トンボなどの好む生息空間(ビオトープ)を作っている。
昨年の会見で紀子さまは、「長男は、以前からの興味が更に広がり、また、新たな興味も加わってきました。
田んぼの生き物などにも興味を持つようになり、(略)
今まで興味を持っていました昆虫の採集や飼育をするだけではなく、(略)
生き物が暮らす環境にも関心を向けています。
例えば、トンボやホタルなどが棲みやすい場所、好む環境を作りたいと、
自分の家の庭や御用地内を歩いて植生などを確かめ、また、小川のところでは、
水の流れを止めないように枯れ葉や小さな枝を取り除いています」と、この辺りの事情を紹介している。
学校生活だけでなく、日々の暮らしの中でも、成長しつつある悠仁さま。宮さまによると、悠仁さまは、
自分たちが住む赤坂御用地に生息するトンボと皇居にいるトンボとではどう違うのか、すごく関心があるという。
種類は、大半同じだろうが、もし、皇居にいないトンボが赤坂御用地に生息していたら、
それはそれでおもしろいデータになると宮さまは話す。
「ところで、皇居や赤坂御用地にはどのような種類のトンボが生息しているのでしょうか?」と、
門外漢の私は素直に疑問を投げかけてみた。しかし、宮さまは、「息子に何度か説明を受けましたが、
私自身、よくトンボの区別がつきません。魚類だったらある程度、理解できるのですが、虫はね。
正直、私はよく分かりません」と、あっさり白旗をあげた。昆虫の知識については、悠仁さまは父親を超えたらしい。
二人の姉は、悠仁さまにとって、とても頼りになる存在だ。
眞子さまは、幼稚園から高校まで学習院で学んだ後、東京都三鷹市にある国際基督教大学(ICU)に進学。
卒業後は、英国のレスター大学大学院博物館学研究科を修了したが、
9月からは国際基督教大学大学院博士後期課程で勉強する。
現在は、日本工芸会総裁や東京大学総合研究博物館の特任研究員なども務めている。
佳子さまは、幼稚園から高校まで学習院で学んだ後、学習院大学文学部に進んだが退学。
姉と同じ国際基督教大学に入学し、現在は同大学二年生で、学業優先の日々を送っている。
秋篠宮家の子育ては、男の子も女の子も、分け隔てなく育てる姿勢が一貫している。
悠仁さまが生まれた直後、平成18年11月に行われた記者会見で、宮さまは、
「基本的には長女、次女と同じように接するつもりでおります」と、答えている。
女性皇族の役割についても、「私たち(男性皇族)と同じで社会の要請を受けてそれが良いものであれば、
その務めを果たしていく。そういうことだと思うんですね。
これにつきましては、私は女性皇族、男性皇族という違いは全くないと思っております」と、明確に規定している。
平成20年秋の会見で、宮さまは、悠仁さまの教育方針について、
(1)きちんとした社会生活をできるようになってほしい、
(2)皇族としての立場も追々自覚する、(3)自分の関心のあることなどを深めていってくれれば良い、と話したが、
この方針は、眞子さまと佳子さまの子育てにも共通している。加えて紀子さまは、
「年齢に応じて基本的な生活習慣を身につけてもらいたい」と、あいさつや礼儀など、日頃の躾の大切さを強調した。

姉二人とローラースケート
忘れられない光景がある。それはある日の午後のことだった。東京・元赤坂の秋篠宮邸を訪れると、
玄関前で子供の声がした。「え、子供?」「なんで子供がいるのだろう」と、一瞬、私はいぶかしく思い、
近付いてよく見ると、声の主は、悠仁さまだった。その後ろに眞子さまと佳子さまがいた。
玄関前の敷地は舗装されており、どうやらみんなでローラースケートを楽しんでいるようだ。
三人はローラースケート靴を履いていた。悠仁さまは、ツーリングの際にも使うようなヘルメットをかぶっていた。
悠仁さまは、大きな声でしゃべり、キャッキャッと姉たちと戯れながら、とても楽しそうだった。
どこから見ても普通の九歳の男の子だった。テレビで見る、少し緊張し、かしこまった様子とは、まったく違った。
素顔の悠仁さまに会って、私は得心した。
しかし、なんといっても、一番、感心したのは二人の姉、眞子さまと佳子さまの面倒見の良さだった。
弟と一緒にいて本当にうれしそうだった。
一般的にみて、二十代の女の子が、一回り以上も年の離れた小学生の弟とローラースケートをして、楽しむだろうか。
同世代の友達と買物や食事をしたり、お茶をしながら彼氏の話で盛り上がっているのではなかろうか。
でも、秋篠宮家は違った。姉の眞子さまと佳子さまは、弟の悠仁さまの面倒を実によくみる。
そして、姉弟はとても仲よしだ。私は、仲の良い三人を偶然、目の当たりにできて、幸運だった。
秋篠宮さまて紀子さまは、悠仁さまや眞子さま、佳子さまが祖父母である天皇、皇后両陛下と会って、
触れ合う時間をとても大切に考えている。
天皇陛下は皇太子時代の昭和59年12月の会見で、「皇族は陛下の御心を大切にし、
また、国民の望みに沿ってつとめを果たしていくことが大切であり、
それを誠実に行っていくことが帝王学になると思っています」と、述べている。
私は、陛下と直接触れあうことが悠仁さまの成長に大きなプラスになると、信じている。
また、今回の陛下のお気持ちに込められた「天皇の心」を、何よりも悠仁さまに学んでほしいと願ってやまない。