2018年1月-4月 雑誌記事

雅子さまの即位に向け 小和田家もバックアップ始動か
2018.01.08 16:00
1月1日の午前、皇族方や総理大臣、各国の駐在大使公使夫妻などが新年の挨拶のため天皇皇后陛下のもとを訪れた。
朝9時30分頃、雅子さまは皇太子さまと愛子さまとご一緒に、半蔵門から皇居へと入られた。
その1時間ほど前の朝8時15分、乾門を1台のハイヤーが通過した。
乗っていたのは雅子さまの両親である小和田恒・優美子夫妻だった。
ご実家である小和田家の人々は、皇后という大役を引き継がれる雅子さまにとってかけがえのない存在のようだ。
外務省のトップエリートだった恒氏は、1999年に退官後、2003年に国際司法裁判所(オランダ・ハーグ)の
判事に任命され、2009年には日本人初の同裁判所の所長に就任した。
「2012年に所長を退任したあとも判事を務める恒氏は、生活の拠点をオランダに置いています。
日本には、年3〜4回の休暇に帰ってくる程度だそうです」(外務省関係者)
恒氏と、実業家の令嬢だった優美子さんとの間に雅子さまが誕生されたのは1963年。
3年後には、双子の妹・礼子さんと節子さんが生まれた。
恒氏の転勤の関係で幼少を欧米で過ごされ、ハーバード大学に進学、帰国後は東大在学中に
外交官試験をパスされた雅子さまは、1986年に皇太子さまと運命の出会いを果たされ、1993年に皇室に嫁がれた。
当時から、雅子さまと小和田夫妻、2人の妹たちとの結束は固かった。
◆思わぬ批判も発生した
「雅子さまは、皇太子さまからのプロポーズを“住む世界が違いすぎて、自信がありません”と、
一度断っていらっしゃいます。その不安は、相当なものだったでしょう。
民間初の皇太子妃として嫁がれた美智子さまは、かつて度重なるつらい思いをされました。
雅子さまに同じ経験をさせてはならないと、雅子さまとご実家との専用電話を設置され、
優美子さんはマイカーで荷物を運び込んだりと、当時の東宮仮御所を頻繁に訪れていました」(ベテラン皇室記者)
心細い思いはさせたくないという美智子さまの配慮だったのだろう。だが、それが思わぬ批判を呼んでしまう。
「ご結婚後2か月で、優美子さんが雅子さまの元を訪ねたのは十数回に及びました。
雅子さまとご実家との距離感が近すぎて、“嫁いだという自覚があるのか”という批判が起こりました。
さらに、美智子さまが嫁がれた際に正田夫妻が“娘は皇室に差し上げた”と話していたことを引き合いに出した、
小和田夫妻へのバッシングにも繋がったんです。結婚前、雅子さまと出かける優美子さんが毛皮をまとっていたことが、
“派手すぎる”と揶揄された火種も一気に燃え広がりました」(前出・ベテラン皇室記者)
2004年3月、前年末から体調を崩されていた雅子さまは愛子さまを連れ、
長野県軽井沢町にある小和田家の別荘で療養された。1か月に及ぶ療養には、優美子さんと礼子さんも付き添った。
「民間の別荘に滞在するのは警備上の問題もあり、加えて皇太子さまがお見舞いに行かれることに
“小和田家は皇太子殿下を呼びつけるのか”という批判まであがったのです」(前出・ベテラン皇室記者)
小和田夫妻を知る人物が明かす。
「娘のためを思うことが、娘をさらなるバッシングにさらしてしまうことに、夫妻は心を痛めていました。
そして、一定の距離を保つことが、雅子さまのためだという結論に達したようです。
恒さんは2012年に国際司法裁判所の所長を退任。高齢でもあり帰国すると思われていましたが、
その後も判事という立場を継続しオランダでの生活を続けています。
その理由は、雅子さまと物理的な距離を保つためだったそうです。
自分たちが日本にいると、娘にかえって迷惑になると考えたのでしょう」
一方、日本で暮らす2人の妹たちは、ずっと雅子さまの心のよりどころだった。
慶應大学からジュネーブ国際問題研究所に進んだ礼子さんは、国連難民高等弁務官事務所勤務などを経て、
現在は2児の母。皇太子ご一家のディズニーランドや那須でのご静養に同行したこともある。
「都内にある礼子さんのマンションで開かれるクリスマスやハロウィンパーティーに、
ご一家で足を運ばれることも多い。最近では、恒例となっているご一家のスキー旅行にも、
子供を連れて同行しているそうです」(宮内庁関係者)
一方の節子さんも、東大卒で文化人類学者として活動した才媛だ。現在は夫と目黒の実家に隣接する邸宅に住む。
「実は、節子さんは昨年の12月9日に赤坂御用地を訪れています。その日は雅子さまの誕生日だったので、
東宮御所での夕食会に足を運ばれて、一緒に誕生日を祝いました。
その前日の12月8日、政府は天皇陛下の退位の日取りを2019年4月末に正式に決定しました。
それで雅子さまが新皇后になられる日が決まったわけです。雅子さまの胸中には覚悟とともに
不安もあったと思いますが、その翌日に会われた妹の節子さんにも胸の内を明かされたのかもしれません。
かつてバッシングを受けたこともありましたが、やはり雅子さまにとってご実家は心安まる場所。
不安を抱えられる雅子さまにとって、美智子さまや皇太子さま、愛子さまの存在と同様に、
小和田家がバックアップに動き出すことに心強さを感じていらっしゃるのではないでしょうか」
(皇室ジャーナリスト)
撮影/本誌・田中麻以
※女性セブン2018年1月18・25日号
http://www.news-postseven.com/archives/20180108_642476.html

雅子さま、未来の皇后に向け前進 お休みの具体的理由示す
2018.01.19 07:00
太平洋戦争末期の沖縄戦最後の激戦地・糸満市には、18万人以上の遺骨が納められた『国立沖縄戦没者墓苑』がある。
その地を皮切りに、3月18日から3日間の日程で、天皇皇后両陛下が11回目の沖縄訪問を果たされる。
「来年4月末の退位までに残された時間は、天皇皇后としての両陛下の集大成といえます。
戦跡地や被災地訪問など、これまで両陛下が心を砕かれてきたお出ましなどが続くことになるでしょう」(皇室記者)
元日から行事や祭祀が立て続けに行われ、両陛下は多忙な新年を過ごされた。そんな最中の1月9日、
皇居で両陛下、皇太子ご一家、秋篠宮ご一家が集まる食事会が予定されていた。
「恒例の新年の食事会です。めまぐるしい日々から少しだけ離れて、毎年必ずご家族で集まって
ゆったりとしたお時間を過ごされつつ、今年1年間を平穏無事に過ごせるように祈念されるそうです。
ところが、今年は皇太子ご一家のお姿がありませんでした」(宮内庁関係者)
1月4〜6日の日程で長野県にスキー合宿にお出かけになった愛子さまが、
インフルエンザに罹ってしまったことが欠席の理由だった。
「1月5日には、ご一家で参加されないことが決まったそうです。両陛下はともに80才を超えられていますし、
もしうつしてしまうようなことがあれば一大事。当然の配慮だったのでしょう。
結局、両陛下と秋篠宮ご一家のみで行われました。
ですがせっかくなら、みなさまがお揃いになれる機会に延期するという選択肢もあったのではないかと思います。
皇太子家と秋篠宮家の足並みの揃わなさに、違和感を覚えてしまいます」(前出・宮内庁関係者)
◆雅子さまは動揺されなかった
翌10日、皇居・宮殿の松の間で『講書始の儀』が執り行われた。
陛下や皇族方が各分野の権威3名に講義を受けられる新年の行事で、雅子さまは2003年以来15年ぶりに出席された。
「日本史に認知科学、光科学と大変高度な内容でした。東大からハーバード大と才媛でいらっしゃる雅子さまは、
熱心なまなざしで講義をお聞きになっていました」(前出・皇室記者)
その2日後には、こちらも新年恒例の『歌会始の儀』が行われた。
だが、『講書始の儀』と同じく15年ぶりの雅子さまの出席は叶わなかった。
「連日の行事によるお疲れを考慮してのことだったと聞いています。
新しい年を迎え、雅子さまへの期待が膨らんでいただけに、落胆の声も聞こえました。
ですが、同じ欠席でも大きな変化があったんです。
東宮大夫の会見で、欠席の理由が“一定の所作があることと、所要時間が『講書始の儀』と比べて長いことが
負担になる”と明かされたのです。これまで、雅子さまが公務などをお休みになる場合
“医師団と相談して総合的に判断した”といったような言い回しばかりで、
具体的な理由が示されることはほとんどありませんでした。皇后となられる日が来年に迫ったことで、
より国民に詳しい状況を伝えなければいけないという雅子さま、ひいては皇太子さまのお考えなのでしょう」
(皇室ジャーナリスト)
その姿勢は、前述した愛子さまの不調にも見て取れる。
「愛子さまのインフルエンザ罹患は、わざわざ宮内庁ホームページに
発症の日付やその後の対処法が掲載されたのです。これは大変異例なことで、
その背景には、間もなく“天皇皇后の娘”となられる愛子さまについて、
広く国民に知らせるべきだというご夫妻のお考えもあったといわれています。
また、長野から愛子さまのご不調を伝え聞いた雅子さまは、大きな動揺は見せられなかったと聞きます。
これまで公より私を優先し、愛子さまとの“母娘密着”が批判の的になったこともありましたが、
母親としてのお気持ちの大きさに負けないくらい、未来の皇后としてのご自覚が芽生えた証左なのでしょう」
(前出・皇室ジャーナリスト)
撮影/本誌・田中麻以
※女性セブン2018年2月1日号
http://www.news-postseven.com/archives/20180119_645054.html

皇太子さま悲壮な訴え!雅子さま救う「宮中改革」への覚悟
《あたらしき住まひに入りて 閖上の人ら語れる 希望のうれし》
1月12日、皇居宮殿松の間で催された「新年歌会始の儀」で披露された、雅子さまのお歌である。
昨年11月に皇太子さまと一緒に訪問された、宮城県名取市の閖上地区。東日本大震災から6年目の夏、
ようやく復興住宅に入居して、新生活を始めた住民と語らったときのことをお詠みになったものだ。
宮内庁関係者はこう語る。
「ご療養以来、披露された雅子さまのお歌は、愛子さまをはじめとした“私的なテーマ”が多かったのです。
今回は、被災地訪問という“公的なテーマ”でした。来年のお代替わりに向けて
“皇后になる覚悟”も伝わってきました」
しかし今回、雅子さまご本人の歌会始へのお出ましはなかった。
「雅子さまは来年、新しい皇后になられる身ですし、久しぶりのご出席となればとりわけ注目を集めるでしょう。
歌人としても高く評価される美智子さまの前で、ご自身の歌が読み上げられることに、
プレッシャーもあったはずです」(前出・宮内庁関係者)
'19年4月30日に天皇陛下は退位され、皇太子さまが新天皇として即位される5月1日、雅子さまは皇后になられる。
政府も1月9日、一連の儀式のあり方や日程を検討するため、準備委員会を設置し初会合を開いた。
昭和から平成へのお代替わりでは『即位礼正殿の儀』『祝賀御列の儀』に続き、
その夜から4日間にわたり昼と夜、計7回の宴席『饗宴の儀』が催された。
雅子さまは1月10日に出席された講書始の儀でも、かなり緊張のご様子だった。長時間にわたる宴席、
十二単での出席となる『即位礼正殿の儀』は心身ともに大きな負担となる。皇室ジャーナリストが明かす。
「儀式や宴席の一部については、皇太子さまお1人で臨まれることを検討されているようです。
今回の『即位の礼』に関しては、陛下も皇太子さまも『できるだけ簡素に』というお考えです。
そのご意向には予算削減の意味以上に、雅子さまにご無理をさせないようにというお心遣いがあるのです」
雅子さまが適応障害での療養に入られてから、今年で15年。皇太子さまは
《雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です》と
'04年5月の会見で訴えられたこともあった。
「この異例の発言にバッシングもありましたが、身を挺して雅子さまをお守りする、
皇太子さまはそのお気持ちをずっと胸に秘めていらっしゃいます。
お代替わりを前に、皇后のお役目についても検討を続け、
“ご公務の大幅削減”さえも視野に入れていらっしゃるようです。
具体的にいえば、地方行幸啓でも、皇后は式典に出席しても、視察への同行は減らす、といったことです」
こうした“宮中改革”には、なぜ『皇后陛下は来られないのか』といった批判の声も予想される。
「10年近くの長い期間をかけて、慎重にご公務の取捨選択を行っていく必要もあります。
皇太子さまはそれでも、次期天皇の重圧に耐えながらも、雅子さまを守るために悲壮な覚悟を持たれているのです」
(前出・皇室ジャーナリスト)
幾度となく《時代に応じて求められる皇室の在り方を追い求めていきたい》と発言されてきた皇太子さま。
そのご胸中について、前出の宮内庁関係者はこう語る。
「国民に寄り添うお心は、ご公務の数だけで測れるものではありません。
雅子さまがお出ましになれないときも、国民に心を寄せるお2人の強い思いを伝えていく。
そういった新しい皇室像の確立は容易ではありませんが、揺るぎない皇太子さまのお気持ちは、
やがて国民の理解を得て支持されるはずです」
皇太子さまの雅子さまへの思いが、新しい皇室への道を切り開いていく――。
https://jisin.jp/serial/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84/imperial/32338

雅子妃、ご結婚から四半世紀 未だ貫く「ご実家至上主義」
社会週刊新潮 2018年2月15日号掲載
雅子妃(54)が「皇后陛下」となられる日まで400日強。来年からは「国民の母」の役割を担われるが、
宮中からは嘆きの声も絶えないという。
ご結婚から四半世紀。未だ「ご実家至上主義」を貫かれている――という哀しみの声が。
年明け、雅子妃には特筆すべき出来事があった。1月10日に行われた「講書始の儀」に、
15年ぶりの出席を果たされたのである。お代替わりを来年に控え、ご快復傾向か、と思えるけれど、
「いやいや、一進一退というご様子です」と指摘するのは、さるベテラン皇室記者だ。
「その2日後の『歌会始』には相変わらずご欠席でしたし、宮中祭祀もお出ましにならない状況が続いています。
同じような負担の行事であっても出られたり出られなかったり。不安定な状況はお変わりないのです」
1月12日には、療養に入って以来、ほとんどお姿を見せていない「勤労奉仕団」へのご会釈もなされたものの、
「これも青森県の松風塾という高校の生徒に対してです。雅子さまは不思議とこの高校が来た時には、
お姿を見せる。こうなると、どうしても公務を選り好みなさっている、と見られてしまいます」(同)

スキー、花火、ハロウィン
むろんこうしたお振舞いは、現皇后陛下のそれとは程遠い。そして残された「準備期間」も少ない――。
そんな状況では、周囲の焦燥が募るのは当然で、
「皇后になられても、妃殿下はお仕事をまっとうするのは難しいでしょう」
とは、さる宮内庁関係者。
今年でご夫妻は結婚25年。銀婚式を迎えられるが、
「妃殿下は、今でも何かにつけ、『ご実家自慢』をされるというのです。こうした様子を聞き及び、
皇后陛下にお仕えする女官たちの間からも“あの方は未だに、我が家は素晴らしいと、
ご実家至上主義でいらっしゃる”“早くご実家から離れるべきだとみんな心配しているのに
なかなかそれが出来ない”との嘆きの声が広がっているのです」(同)
これまでも、雅子妃と父親が外務省のトップ官僚だったご実家・小和田家との“密着”は指摘されてきた。
春のスキー、夏の花火大会、秋のハロウィンなど、事ある毎に雅子妃は行動を共にされてきたし、
そもそも2004年にご体調を崩された際、妃殿下が静養されたのは、軽井沢の小和田家の別荘。
「皇室に差し上げた娘ですので」と最後まで皇后陛下との距離を保たれた正田家と比べて異例で、
時に厳しく論じられてきた。
「愛子さまが大きくなるにつれ、そういった話が出るのも少なくなりましたが……」
と嘆息するのは、さる皇室ジャーナリスト。
「精神的には、未だご実家を向いていらっしゃるということなのでしょう。
しかし、皇室というのは、国民のために私を捨てる、言わば、特殊な家庭なのです。
一方のご実家は一般のそれ。皇室に嫁がれて25年も経つのに、未だそちら寄りの心構えでは、
ご公務などままならないのは言うまでもありません」
昨年12月の誕生日には「これから先のことを考えますと、身の引き締まる思いが致します」と
皇后へのご意欲を滲(にじ)ませた雅子妃。今度はそのご覚悟が問われる1年となりそうなのだ。
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/02210556/?all=1

雅子妃の「皇后即位」に向けた父と元上司を巡る気になる動き
2018.03.07 16:00
皇太子が2019年5月の天皇即位に向けた準備を進めているのと並行して、
雅子妃の「皇后即位」に向けた準備も動き出している。
その象徴といわれるのが、雅子妃の実家である小和田家の変化だ。2月13日、父の小和田恆氏(85)が、
オランダ・ハーグにある国際司法裁判所(ICJ)の裁判官を辞任する意向を安倍首相に伝えた。
外務事務次官や国連大使を歴任した小和田氏は2003年からICJで勤務。任期はあと3年残っているが、
6月に退任して帰国する予定だ。皇室ジャーナリストの山下晋司氏が言う。
「退任は雅子妃殿下が皇后となることを見据えた判断でしょう。
来年、小和田さんは国際親善の場では元首の扱いを受ける天皇の義父になります。
そういう立場の方が、国際司法裁判所の裁判官というのは好ましくありません。
政府・宮内庁の意向も影響していると思います」
雅子妃の両親がオランダに滞在中は、都内在住の2人の妹と時折会ってきた。
「皇后即位を控えたタイミングでの両親の帰国は、何より心強い支えとなるでしょう。
かつて小和田ご夫妻が東宮御所を訪れる回数が多すぎるとの批判もありましたが、
そうした声が出ないように配慮した上で、陰からバックアップをなさるのではないでしょうか」(宮内庁関係者)
もう一つ気になる動きがある。2月27日に駐米大使の退任会見を開いた佐々江賢一郎・元外務事務次官の動向だ。
佐々江氏は雅子妃の外交官時代の上司で、深い信頼関係にあるという。
「雅子妃をバックアップする体制に協力するのであれば非常に心強い存在で、
将来の侍従長候補とも言われています」(同前)
公務でも「平成流」とは違う新たなスタイルを模索する動きがあるという。
皇室ジャーナリストの渡辺みどり氏が語る。
「現在の天皇皇后両陛下は、常にお二人でお出ましになるという形が定着していますが、
皇太子ご夫妻は公務を分担して別々に活動するという可能性も考えられます。
雅子さまは元々活動的なお方ですし、英語だけでなくロシア語も堪能です。
皇后になって“海外の公務は雅子さま”というように分担されれば、さらなるご活躍が期待されるでしょう」
元外務官僚の雅子妃は結婚当初、新たな「皇室外交」の担い手として期待されていたが、
それが叶わぬことが体調を崩す原因のひとつとなったとされる。時を経てついにその期待が実現するのかもしれない。
※週刊ポスト2018年3月16日号
https://www.news-postseven.com/archives/20180307_656977.html

雅子さま、タイ訪問は厳しくも3年ぶりの海外訪問で「花の都」秋のパリへ
週刊女性2018年4月24日号
2018/4/10
「皇太子ご一家は、3月末に4泊5日の日程で、長野県で静養されていました。
県北部のホテルを拠点に、ブラジル訪問から帰国された皇太子さま(58)とともに、
“家族の時間”を楽しまれていました」(東宮職関係者)
3月20日に3学期の終業式を迎えた愛子さま。
一部では、お友達と都内のカラオケ店や、学習院高等科の野球部が臨んだ春季大会の試合に、
お忍びで足を運んだと報じられるなど、春休みを満喫されているようだ。
一方で、“勉学”にも励まれる予定のようだ。
「4月上旬に高校2年生の始業式を迎える愛子さまは、学習院以外の大学も視野に入れられています。
具体的には、一橋大学や筑波大学、上智大学のほか、海外の大学も候補に挙がっていると聞いています」
(東宮に近い人物)
高校2年生ともなれば、受験勉強も本格化する時期だが、今夏には海外留学も検討されていると
前出の東宮職関係者は話す。
「学習院の海外研修プログラムを利用し、短期留学をされる方向だそうです。
候補国は、イギリスやオーストラリアなどですが、
仲よしの友達といろいろ相談して決められるのではないでしょうか。
すでにご両親も留学を了承していて、愛子さまの意思を尊重される方針のようです」
勉強とプライベートのどちらも充実されている愛子さまだが、お母さまである雅子さまも、
とある“挑戦”を計画中とのこと。
実は今年、'15年に訪れたトンガ以来の海外公式訪問が検討されているという。
「時期はまだ未定ですが、今年中に皇太子さまがタイを訪問される予定です。
'16年に即位した同国のワチラロンコン国王の祝賀関連行事に臨席されるためなのですが、
その折に雅子さまも皇太子妃として同行される可能性があるのです」(宮内庁関係者)
しかし、とある皇室ジャーナリストは、雅子さまのタイ訪問は「現実的に厳しいのでは」と語る。
「まず、“気温”の問題があります。タイは平均気温が高く、1年中蒸し暑い気候なので、
『適応障害』で療養中の雅子さまにとってはハードルが高いかもしれません。
さらに今回のような祝賀行事は、格式ばった場が予想されますが、そういった緊張感のある公の場では、
“プレッシャー”も大きいでしょう」
皇室を長年取材するジャーナリストで文化学園大学客員教授の渡邉みどりさんは、
今年1月の新年行事を例に出して説明する。
「今年初めにあった『講書始の儀』は、基本的に座って講義を聞くだけということもあり、
雅子さまも参加されました。
しかし、その2日後に行われた『歌会始の儀』では、決められた所作があるからなのか、ご出席を見送られました。
やはり、ご病気のことを考えると、厳かな雰囲気で、しかも段取りが決まっている緊張感のある行事への参加は、
難しいのかもしれません」

タイ訪問よりも可能性があるのは……
残念ながら、タイ訪問は厳しそうとのことだが、もうひとつ、雅子さまが訪問を検討されている国があるという。
それは、あの“花の都”─。
「今秋、フランスに皇太子ご夫妻がそろって行啓される可能性があるそうです。
今年は日仏外交関係160周年という節目で、政府から皇太子さまにフランスご訪問を打診しています。
この件は公務扱いとなり、“雅子さまも同行するのでは”と関係者の間でうわさになっているのです」(外務省関係者)
フランスといえば、'94年に両陛下が公式訪問された際、ミッテラン大統領(当時)が
“異例”の歓迎ぶりで、もてなした過去がある。
「エリゼ宮で開かれた大統領主催の晩さん会では、エリザベス女王の訪仏時を上回る240人が招待されました。

加えて、通常は大統領が顔を出さない在仏大使主催の答礼レセプションにも出席したり、
昼食会まで開くという手厚い配慮が行き届いていたんです」(皇室担当記者)
そんな良好関係が続くフランスで、おふたりがお立ち寄りになる可能性があるのは、
パリで開かれる日本文化を紹介する企画『ジャポニズム2018』だという。
「『ジャポニズム2018:響き合う魂』というタイトルのもと、両国の関係機関が連携して取り組んでいる一大行事です。
歌舞伎や茶道などの公演や、アニメ・漫画を紹介する展覧会などを開き、
日本文化の魅力を世界的に発信することを主目的としています」(前出・外務省関係者)
この計画が実現すれば、雅子さまにとって、皇室入りしてからは初めてのフランスご訪問となる。
実現する可能性を、前出の皇室ジャーナリストはこう示唆する。
「雅子さまは、昨年から体調が回復されているのは明らかで、
宿泊を伴う地方訪問や都内の公務にも積極的に参加されています。
さらに先日、皇居・東御苑の音楽堂で行われた『音楽大学卒業生演奏会』では、
皇太子さまがブラジル訪問で不在でしたが、きちんと参加されていました。
少し緊張した面持ちでしたが、美智子さまと談笑されるなど療養中だとは感じさせない雰囲気でしたね」
外国語も堪能な雅子さまは、昨年10月に来日したデンマークのメアリー皇太子妃と談笑された。
もともと雅子さまは、“国際親善”を目指して皇室入りしたといわれているため、
フランス訪問も前向きにお考えになっていることだろう。
「雅子さまは、以前から国連大学にたびたび足を運び国際関係の勉強をされています。
昨年4月にはスウェーデン皇太子、10月にはデンマーク皇太子夫妻が来日の際に、
夕食会を開いて、コミュニケーションをうまくとられていました。
1年後には皇后陛下になられる雅子さまですから、フランスご訪問は、
皇太子妃時代の“ご勉強の集大成”といえるでしょうね」(渡邉さん)
お代替わりまで約1年。皇太子妃として最後の海外訪問に期待がかかっている─。
http://www.jprime.jp/articles/-/12117

愛子さまの休日 カツ丼とお団子をペロリ 高円宮家の絢子様とバッタリ鉢合わせ
2018.4.16 12:26
4月15日の日曜日。学習院女子高等科の2年生に進級したばかりの愛子さまが、
学習院目白キャンパスで開かれた「オール学習院」に姿を見せた。
これまでほぼ毎年、愛子さまはチェロ、皇太子さまはビオラ奏者として「オール学習院合同演奏会」に出演し、
客席では雅子さまが父娘の共演を見守るのが常だった。だが、OGとしての演奏参加は中等科までという決まりがある。
今年は後輩たちに客席から拍手を送る役目に徹した。愛子さまの演奏がないためか、
皇太子ご夫妻もキャンパスに姿を見せなかった。
一昨年、愛子さまの15歳の誕生日写真が公開されるとその「激やせ」ぶりで、世間を驚かせたことは記憶に新しい。
昨年の「オール学習院」では、折れそうなほど細い身体や足に、記者も目を見張った記憶がある。
しかし、すぐに状況は好転。4ケ月後の昨年夏には、以前のふっくら愛子さまに戻っていた。
この日の愛子さまも、ぷくぷくのほっぺに、ぽっちゃりと健康的な姿を見せてくれた。
ポニーテールに小顔効果が高い「横髪」をさりげなく残した、ヘアアレンジ。
そして肩にかけた紺の通学バックには、ふわふわの青色の着ぐるみに包まれたミッキーとテディベア―など
いくつものキーチェーンがぶらさがるなど、キャンパスに現れた愛子さまは、16歳の女の子そのものである。
お友だちとふたりで、歩きまわってお腹がすいたのだろうか。お昼どき、愛子さまが学食で選んだのは、
ボリューミーなカツ丼(380円)。小鉢の豆腐とみそ汁がついて892キロカロリーのセットをペロリと平らげると、
売店でたっぷり餡子が絡んだお団子セット(150円)を購入。
きゃっきゃとはしゃぎながら、お友だちと建物の奥に消えていった。
デザートタイムを満喫したあとは食後の運動。緑に覆われたキャンパスを奥に進み茂みを下った先に馬場がある。
皇居を除けば都内で唯一の馬場だ。
「愛子さまは馬がお好きみたいですね」、とは学習院の関係者。初等科の頃から、オール学習院に参加すると
必ず馬場に立ち寄り、馬に餌を上げたり体験乗馬のイベントに参加してきた。
馬術部のお兄さん方が、手綱を引くなか馬場をゆっくり回った。毎年の恒例イベントとはいえ、
馬上から、くったくない顔でお友だちに笑いかける愛子さまだった。
次に立ち寄ったのは、「お楽しみ縁日」のスペース。侍従に通学バックをさっと預け、射的を楽しむ愛子さま。
ここでは、「親戚同士」ばったり鉢合わせというハプニングもあった。
輪投げコーナーでは、黄緑のスタッフ用上着をはおった、色白のきれいなお姉さんが優しい表情で
子どもに遊び方を教えていた。高円宮家の三女、絢子さま(27)である。城西国際大学で福祉を学び、
いまは同大学の福祉総合学部研究員として勤務しているだけあって、子どもへの接し方も堂にいったもの。
デニムのパンツに黒いスニーカー。ブルーシートやコンクリートの床にひざをついて子どもの目線に合わせながら、
可愛くて仕方がない、といった表情で話しかけている。以前よりもすっきりと痩せて、
明るい茶色のボブカットがよく似合っていた。
おもちゃを取りに来た愛子さまと鉢合わせた絢子さまは、愛子さまににっこりと笑いかけた。
しかし、愛子さまは学校で
「親戚」と会ったのが照れくさいのか、恥ずかしそうに笑って会釈をすると、
お友だちと走りながら縁日コーナーをあとにした。
昨年よりも走り回ることが減り、ジュースをお供に座ってお友だちとお喋りする時間が増えるなど、
お姉さんらしい時間の過ごし方が増えたように感じた。
「オール学習院」終了は午後4時――。この日も、蛍の光の曲が大音響で流れ、
イベント終了を告げるアナウンスが流れても気にするそぶりもなく、遊び続ける様子は例年と同じである。
この日も愛子さまとお友だちは、4時半を過ぎて再び馬場に向かい、馬に餌をあげに行ってしまう。
「もう終了時刻を大分過ぎているので」と学習院側のスタッフが慌てて追いかけるが、
付き添いの東宮職員が注意する気配もない。
身辺警護のためについている皇宮警察の側衛や警視庁職員ら大勢の大人たちは、
愛子さまが帰るまで付き添い、警備体制を敷く。結局、愛子さまが学習院をあとにしたのは、
終了時刻を1時間ほど過ぎた午後5時前だ。
来年の5月には天皇の代替わりの儀式が執り行われ、愛子さまは天皇と皇后の娘という立場になる。
天真爛漫な少女から、さらにひとまわり成長されることだろう。(本誌・永井貴子)
※週刊朝日 オンライン限定記事
https://dot.asahi.com/wa/2018041600022.html

愛子さま学習院内部進学へ 東大説囁かれるも受験クラス入らず
新学期を迎えてすぐの4月12日のこと。学習院女子中・高等科の通学路には、新緑まぶしい木々が風に揺れていた。
その下を愛子さまが、ご友人とガールズトークに花を咲かせながら、笑顔で校舎に向かわれた。
学習院女子高等科の保護者はこう語る。
「春休み期間中に、愛子さまは、お友達とご一緒に学習院高等科野球部の試合を観戦され、
別の日には、カラオケやボウリングも楽しまれたようです。
最近は、こうしたお出かけに、愛子さまのほうからお友だちを誘われることもあるようですね」
この春は愛子さまのはつらつとしたお姿を多くお見受けしている。
しかし、女子高等科2年に進級された愛子さまにとって、大きな転機があったようだと、学習院関係者が語る。
「高2からは5クラスのうち2クラスに、他大学への受験を希望する生徒が振り分けられるのですが、
愛子さまはその2クラスに入らなかったそうです。つまり、これまで報道の報道で名前の挙がっていた、
雅子さまの母校である東大、上智、ICU(国際基督教大学)などの受験をやめて、
学習院大学への内部進学を決められた可能性が高いのです」
学習院女子高等科では、約7割の生徒が内部進学で学習院大学に進み、外部の大学を受験するのは3割程度。
中等科のときから愛子さまと仲のよかったお友達の多くは、医学部や獣医学部を目指す“受験組”だという。
それでも愛子さまが、「外部受験をやめる」と決意された背景には、何があったのだろうか。
皇室ジャーナリストは、「眞子さまのご結婚延期が、影響している部分もあるのでは」と見る。
「眞子さまも小室圭さんとICUのキャンパスで出会われましたが、自由に外出することも難しい皇族方にとっては、
大学がご結婚相手を見つける貴重な“出会いの場”でもあるのです。
学習院は皇族のための学校でした。かつては旧皇族や旧華族の家の方達の多くも、学習院で学んでいます。
皇族方を支えたいと考えているOB、OGの人脈も残っています。
小室圭さんの借金トラブルが報じられ、眞子さまのご結婚が延期になった今、
関係者の間では『学習院で将来のお相手をお選びになれば安心だ』という声が日に日に大きくなっていたのです」
前出の学習院女子高等科の保護者は、喜びを隠さない。
「愛子さまに、学習院大学に進学していただけるのであれば、これほどうれしいことはありません。
眞子さまの後を追って佳子さまも、学習院大学を中退してまでICUに行かれてしまいました。
悠仁さまは、幼稚園からお茶の水女子大附属ですし……」
来年5月には皇太子さまが新天皇に即位され、愛子さまにも大きな注目が集まるようになる。
「雅子さまとしては、むしろ皇族の受入れ態勢がしっかりしている学習院のほうが、
愛子さまがと学生生活を送れるとお考えになったのでしょう。愛子さまも、昨年は外国の要人と英語で懇談されるなど、
皇族としてのご活動にもやりがいを見出されているように感じられます。
愛子さまが大学生になられる’20年には、東京オリンピックが開催されます。
世界中の王族や要人も東京に集まりますから、皇太子さまや雅子さまと一緒に、
愛子さまもご接遇のため、お出ましになるに違いありません。“新天皇の娘”として、私に何ができるのか――。
お代替わりが近づくにつれ“受験よりよりも大切なことがある”と、
愛子さまはお考えになったのでしょう」(宮内庁関係者)
この春、人生の転機となる決断をされた愛子さま。
1年後の新体制に向けて、皇族としてのご自覚を、日々強められていく――。
http://blogos.com/article/291783/

雅子さまを「会見拒否」に向かわせる“15年前のトラウマ”
2018年04月25日 16:00 JST
東京都港区の「ホテルオークラ東京」別館に到着された皇太子さまと雅子さまが式典会場に入られると、
招待客が万雷の拍手でお迎えした。
4月18日、皇太子さまご夫妻は日本とアメリカの交流団体「ジャパン・ソサエティー」の記念式典へご出席に。
「髪をアップにされた雅子さまは、ご表情も明るかったです」(宮内庁関係者)
お代替わりを1年後に控える皇太子さまと雅子さまは、6月9日に銀婚式を迎えられる。
今年に入ってから記者クラブ「宮内記者会」は、この日に向けて東宮職に、ある強い要望を出しているという。
「結婚25年を記念して、ご夫妻お揃いでの“銀婚式会見”を開いていただきたいという要望です」(宮内庁関係者)
天皇皇后両陛下も、皇太子ご夫妻時代の'84年、銀婚式をお迎えになり、おそろいで会見に臨まれている。
「雅子さまが最後に会見に出席されたのは、長期ご療養に入られる前の'02年12月。
それから実に15年半もの間、会見が開かれていません。
宮内記者たちにとって銀婚式は、雅子さまの貴重な肉声を取材・報道できる千載一遇のチャンスなのです」
しかし、前出の宮内庁関係者の表情は暗い。
「現時点で、銀婚式の記者会見を実現するのは、非常に難しい気配です。
なぜかというと、雅子さまご本人が、会見出席を断固として拒否されているからだそうです」
適応障害の療養に入られる前は雅子さまも、多くの記者会見に臨まれてきた。
「しかし、それが批判的な報道に繋がったこともあり、
雅子さまにとっては“トラウマ”というほどの体験だったようなのです」
そう話すのは、ベテランの社会部記者だ。
愛子さまご誕生後の'02年12月、ニュージーランド、オーストラリアご訪問に際しての会見では、
ご結婚後8年間お子さまに恵まれず、なかなか海外に出られなかった苦しさをお話しになった。
それは、海外生活が長く、外交官を志されていた雅子さまにとっては率直なお気持ちだった。
だが、言葉尻をとらえて「皇室の将来を担う男のお子さまを産むことより、
自分の好きな海外訪問のほうが大事なのか」などと筋違いの批判をする記事も散見された。
「雅子さまにとっては、悪夢のような出来事だったでしょう。
帯状疱疹を発症し緊急入院されたのは、その1年後、40歳のお誕生日会見の直前でした。
適応障害を発症されたのも、会見ご出席の重圧が要因の一つになった可能性があります。
それ以来、雅子さまは報道陣との接触を極端に避けられるようになりました。
地方でのお出ましでも、集まった記者団の前を車で素通りされることもあり、
記者クラブとは一時“冷戦状態”となってしまいました。
今回も理由を説明せず銀婚式会見を行わなければ、
再びその状態に陥ってしまう可能性もあります」(前出・社会部記者)
しかし、適応障害の回復期にある方たちにとって、自分の状況を周りの人たちに説明することは、
改善への大事なステップともいわれている。精神科医で立教大学教授の香山リカさんはこう話す。
「雅子さまもいずれ、会見で国民に説明される機会は、必要になってくるでしょう。
しかし、今は皇后となることが最優先です。それ以前に記者会見で失敗されると、
せっかくの回復傾向が逆に悪化に向かう可能性もあります。
皇太子妃として、ご自分のお言葉で語られることは大切ですが、新皇后になられてからでも遅くはないと思います」
雅子さまが会見のトラウマを払拭され、自ら語られる日が早く訪れることを願いたいーー。
https://jisin.jp/serial/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84/imperial/34133

愛子さま ボーイフレンド?

女性自身2010年9月14日号
昨年茶臼岳登山をした愛子さまだが、体調が良くなかったためか登頂を断念。
今年は眼鏡をかけた男の子A君(母親・姉も同行)と。
手を使ってよじ登らなければならない箇所もあるが、愛子さまは頑張って登頂した。
山頂付近では愛子さまが、一行の先頭。
愛子さまのすぐ後ろにはA君がいて、愛子さまがよろけたりすると支えてあげていた。
下山し、登頂口付近の駐車場に行く際も、愛子さまが手を繋いでいたのは
雅子さまでも皇太子さまでもなく、A君。
この日はA君も愛子さまと同じ車に乗り込んだ。
「皇太子一家のワンボックスカー、御料車では無いが、それに準じるもの。
その車に愛子さまの友達が乗るということは極めて異例」(宮内庁関係者)
愛子さまから積極的にA君に話しかけたり触れたりしている。
「A君とは幼稚園の頃から仲がいい。初等科1年の時の初等科祭でも手を繋いでいた。
でも、3年生にもなると、手を繋いでいる男の子と女の子はいなくなる」(保護者の一人)
27日でのりんどう湖のメリーゴーランドでも、愛子さまの隣にはA君。
二人は手を繋いだり、時には腕を組み、そして愛子さまがA君をハグしちゃうことも。
この日は、池田礼子さん・渋谷節子さんも来ていた。
A君と愛子さまの仲の良い様子を雅子さまは目を細めて見ていた。
「天皇皇后両陛下は、3人のお子さまたちの同級生に関しては、特別扱いをせず、
平等に扱うといった方針だった。皇太子夫妻は愛子さまと仲の良い同級生と御用邸に
招待されたり、一緒に出かけたりと、とても気を遣っている。両陛下と方針は違うが、
皇太子夫妻の愛子さまへの気持ちが強く伝わってくる。友達との絆を深めることで、
2学期からの登校をサポートしたいという考えなのでしょう」(渡辺みどり氏)
A君はさながら子ども東宮侍従のよう。
動物ランドでは池田礼子さん・渋谷節子さん家族が合流。
節子さんの知人(も同行した)が紹介されたとき愛子さまは両手をA君に回した。
A君は幼稚園時代からの仲良しで、(おっとりしたところが)のびたに似た雰囲気。
りんどう湖ファミリー牧場を楽しまれた後、皇太子一家はイタリアンレストランで夕食。
「レストランでは、池田一家・渋谷一家も合流されたそうです。
同じ27日、天皇陛下が秋篠宮ご夫妻、眞子さま、悠仁さまと軽井沢で登山をされました。」(松崎氏)


女性自身2011年9月13日号
愛子さま、雅子さまのいない動物園で同級生BFと「ひと夏の経験」!
8月23日、10時頃、りんどう湖ファミリー牧場に到着した皇太子ご一家。
皇太子さまは雅子妃とゴーカートに乗り快走。
友人家族3組が同行した愛子さまは楽しそう。22日もハイランドパークなどを精力的に回る。
24日、那須どうぶつ王国を訪問したが連日の外出にさすがに疲れたのか雅子妃は同行せず。
母親不在でも愛子さまは、A君がいたためか楽しそう。
26日は登山予定だったが雨天中止、しかし小雨降るなか那須ステンドグラス美術館へ。
そこにA君一家が待っていた。
19日にホテルで夕食を共にしてから編集部が確認しているだけで6日間はA君と過ごした。
"ひと夏の経験"は愛子さまの小さな胸の奥に大切にしまわれたに違いない。

週刊女性2012年4月10日号
愛子さま のび太似BFと同じクラスでウキウキ5年生
クラス替えに伴って"宮様シフト"に?
この2年で仲の良かった2人の子が転校してしまった。
"のび太似"、"子ども侍従"と呼ばれているA君が同じクラスに。

愛子さま のび太くん似のご友人と那須どうぶつ王国を満喫
NEWS ポストセブン 9月5日(木)7時5分配信
最高気温31.0℃を記録し、避暑地とは思えないほどの蒸し暑さだった8月30日。
この日の午前中、皇太子ご一家は栃木県那須にある那須どうぶつ王国に姿を見せられた。
8月23日から那須御用邸でご静養中のご一家は、他にも朝日岳へ登山に行かれたり、
りんどう湖ファミリー牧場で遊覧船やカートに乗られたり、地元の人気ホテルでランチや陶芸を楽しまれた。
そんな皇太子ご一家が、今回のご静養のメインイベントとして向かわれたのが那須どうぶつ王国で、
愛子さまの同級生数名の家族も同行した。
ご一家は広大などうぶつ王国を隅から隅まで回り、うさぎ、ペンギン、カピバラ、羊、ラクダなども観賞された。
アットホームな雰囲気のご一家だったが、気になったのが愛子さまのご成長ぶりだった。
「愛子さまの横には、ずっとメガネをかけた男の子がいました。歩いて移動する際も、
動物を見学する際もいつも一緒でした。ときおり愛子さまは楽しげに、彼の胸をポンポンと叩いてみたり、
腕を撫でてみたりと、見ているこっちが一瞬ドキッとするほどでした」(居合わせた観光客)
この男の子は、以前から“のび太くん”似のボーイフレンドと報じられている同級生の男子児童で、
那須での静養を愛子さまとご一緒するのは、今年で4年目となる。
イベント会場で行われたバードショーを見学した際には、こんなシーンまで。
「ショーの進行役が“誰かショーのお手伝いをお願いします”と声をかけると、その男の子が手を挙げて、
ショーに参加したんです。すると愛子さまはバッグからスマホを取り出され、
彼の活躍をバシャバシャと撮影されたり、彼に手を振ったりと大ハシャギだったんです。
そして彼が戻ってくると、顔を寄せ合って、スマホの画面を2人で仲よくご覧になっていました」
(別の居合わせた観光客)
小学6年生になられ、少しずつ大人への階段を上られているようだ。
※女性セブン2013年9月19日号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130905-00000005-pseven-soci

愛子さまに「ボーイフレンド」? 登校問題も解決〈週刊朝日〉
dot. 3月19日(水)7時19分配信
この3月に学習院初等科を卒業し、4月から学習院女子中等科に進む、皇太子ご夫妻の長女愛子さま。
交友関係も広がり、特にこの一年は愛子さまにとって飛躍の年でもあったようだ。
昨年の8月、栃木県の那須御用邸に滞在した皇太子ご一家は、愛子さまのお友達とその家族と一緒に、
標高1915メートルの那須連峰茶臼岳に登った。
愛子さまは初等科2年のときから、何度も那須連峰に登っている。
そのため、地元の住民も愛子さまの成長を温かく見守っている。
「おととしまでは、周りの大人が話しかけても、うつむいたり
『うん』と返事をしたまま黙っているといったご様子でした。
しかし、ここ2年ほどは、きちんとお話ができていました。お姉さんになりました」
標高1900メートルを超える茶臼岳は、大人でも肩で息をするほどキツイ登山コースである。
しかし、登山に慣れた皇太子さまと雅子さまは、それぞれ持参したカメラで写真を撮る余裕を見せた。
案内役が戊辰戦争の舞台となったこの土地について、歴史的な逸話を解説すると、
皇太子さまは興味深げに聴き入っていたという。
愛子さまら子供たちは、大人とは一定の距離を置きながら、山登りを楽しんでいた。
愛子さまはバスケットボール部で鍛えた成果か、足取りも軽くスタスタと登っていったという。
昼食後の下山では、軽快な気分になったのだろう。
「愛子さまもお友達との冗談に、キャッキャと笑い転げて、楽しそうでしたね」(居合わせた登山客)
お友達のひとりは、毎年一緒に登っている同級生の男の子で、地元の住民の間では、
「愛子さまのボーイフレンド」の愛称で呼ばれている。
愛子さまは心を許せる友達にも恵まれているようで、もう登校問題の影は見えない。
※週刊朝日 2014年3月28日号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140319-00000002-sasahi-soci

やめられるなら、とっくにやめている!

週刊文春2013年3月7日号
皇太子「退位論」にご友人が怒りの猛反論
「やめられるなら、とっくにやめている!」
皇太子と三十年以上親交を持ち,現在も東宮御所にうかがう間柄のご友人の発言
「天皇陛下でさえ定年がないのに、皇太子殿下が「辞めた、降りた」って言えますか!
できないような事を言って世間を騒がせるなんて理解できない!」
「もし、皇太子さまがやめたいと言ってやめられるくらいならとっくにやめていると思います。
それほど皇太子というのは重い立場なのです。」 
「普段弱音を吐くことのない殿下ですが、かつて私に、『雅子妃が公務に出ないと批判される』と悩みを打ち明け、
ある時は『どうしたらいいんだろう。(皇太子を)やめたい』とおっしゃった事もありました。」
「殿下が私に傾きすぎるという批判もありまあ、自分の仕事をまっとうするなら、
まず家族をしっかり守らないといけない。健全な生活があってのそのご公務なのです。
どうしてそのあたりをわかって差し上げないのでしょうか?」
皇太子の公務の数が天皇皇后より少ないという批判について
「両陛下が一生懸命ご公務に取り組んでいらっしゃるからこそ、首を突っ込む事はなさらないのです。
例えば被災地に足を運ぶ回数にしても、両陛下より多くては、かえって失礼にあたる。
それが皇室のしきたりというものなのです。」
「今は公務が少なくても。天皇になられた場合には新しい天皇像が出来て、
国民の為にありがたい存在になります。山折氏は皇太子殿下についてどれほどご存じなのか、
殿下はいつも日本の事を考えているご立派な方です。
あの方を失うことがどれだけ日本にとって損失か考えて頂きたい!」

もう一度だけ皇太子さまへの御忠言

WiLL-2008年9月号
西尾幹二 「もう一度だけ皇太子さまへの御忠言」より

−皇室のことは皇室にお任せしておけばよい、というレベルを越えているかどうか、
人によって考えは異なるが、越えていると考える人が増えているのも事実である。
国を思い、皇室の行く末を我が身のことのように気にかけ、心配している人はことにそうである。
心配しない人がすべてお上にお任せでよいと思っている。
国民に違和感を与えている−日本人が歴史の中に見てきた皇室のイメージに合わない−をいっさい見ない。
いっさい触れない。問題はまるきりなにもないことにしている。
そしてご病気だということのみを強調して、ご病気は放って置けばそのうちお治りになり、
全体としてさしたる心配はなにもないといい、国家と国民がやがて被るかもしれない混乱について想像力を働かせない。
−ご病気とは別個に、ご病気以前からの雅子妃に、このまま皇后陛下になられることへの不安を感じている人が多いのだ。
皇室を変えてしまうのではないかという不安である。
福田(和也)氏が、「皇后陛下になったらいきなり回復する」「自己主張する機会が増えます」は言い得て妙で、
裏返せば今は猫をかぶっておられて、皇后になったら皇室をご自分流にしてしまうことを皆は心配しているのに、
福田氏は心配なことは何もないことにして、いやなことは見ない、考えないの極楽蜻蛉の典型である。

−WiLL編集部の問い合わせに対する宮内庁東宮職の回答では、
平成18年から平成20年現在までに約30回、妃殿下の国連大学ご訪問があるという。
しかも国連大学の建物内に妃殿下のための「個室のようなもの」が用意されていることも突き止められた。
妃殿下が国連大学に通われるに当たり不自由しないためではあるが、
奇妙なことにこの個室の存在を宮内庁東宮職は知らない。
東宮大夫は訪ねて確認もしていない。
東宮大夫は情報公開においても不熱心であり、皇太子殿下に直に各種のことでご忠告できる唯一の立場でありながら、
はたしてそれをしているのかもつねづね疑問に思っている。

−小泉信三はこう書いている(昭和25年)
「常に殿下(今上陛下)にくり返し御考へを願わねばならぬことは、
今日の日本と日本の皇室の御位置及び其責任といふことであります。」
「開戦に対して陛下(昭和天皇)に御責任がないとは申されぬ。
それは陛下御自身が何人よりも強くお感じになってゐると思ひます。
それにも拘らず、民心が皇室を はなれず、況や之に背くといふ如きことの思ひも及ばざるは何故であるか。
一には長い歴史でありますがその大半は陛下の御君徳によるものであります。」

そうなのである。まさにこのことを「戦争を知らない子供たち」に属する現・皇太子ご夫妻に
しっかりお伝えしなくてはならないと私も思っている。
さりとてお心がけいただくのは「国際化」や「グローバリズム」では決してない。
民心が天皇家を離れることが今後なしとしない危うさを孕んでいる未来において、長い歴史に甘えるのではなく、
新しいご皇族の「御君徳」が何よりも歴史を築いていくのだということを知ってもらいたい。

−昭和20年1月25日、岡田啓介、米内光政、近衛文麿は京都仁和寺の門跡岡本慈航とともに、
京都の近衛の別邸「虎山荘」に集まった。4人はそこで日本降伏のときには、
先例にならって陛下に「落飾」していただくのが皇室を守る一番の策、ということで意見が一致したという。
落飾とは高貴の人が剃髪して仏門に入ることである。先例にならって、というのは、
仁和4年(888年)に宇多天皇が出家し大内山仁和寺と号した例があるし、
明治天皇も万一官軍が敗北したときを考え仁和寺に入御する手はずを整えていたことなどを指す。
岡本慈航の書き残したものがあり、仁和寺としては落飾した天皇を裕仁(ゆうにん)法王と申し上げ、
金堂にお住みいただく計画を立てていたという。
この密談の翌日、虎山荘の同じ部屋に近衛と高松宮が座っていた。
高松宮はまったくのお忍びで、侍従武官さえ連れずに、近衛との密談に入った。
「お上を仁和寺にお連れした後、高松宮様に摂政となっていただき、
皇太子ご成長の日まで皇室の行く末をお守りいただきたい」という近衛の説得に、
宮はうなずいて、「同感だ」と応えたという。
この最初の退位計画は細川護貞、木舎幾三郎(『政界往来』発行者)、
森諦円(仁和寺30代門跡)、酒井美恵子ほかの証言に拠るが、戦後長い間、極秘のままだった。
いよいよ敗戦と決まって、その直後にも近衛は天皇退位を発言しているが、
木戸幸一らの反対にあうと同時に近衛自身の立場が急激に弱くなって、近衛主導の退位説は消えるのである。
昭和20年の宮中では、歳末年始の御儀式は空襲はげしい中でとりやめとなった。
皇女、皇子たちは栃木などに疎開して、宮城に残ったのは天皇と皇后だけであったが、
ほとんど防空壕ぐらしに近かった。3月9日の死者8万人余の東京大空襲の夜、
第一皇女の照宮が麻生六本木で出産した。天皇の初孫は、電灯が消え、水道の断たれた、
焼夷弾、爆撃が絶え間なく頭上で炸裂する地下壕でお生まれになったのである。
5月25日、帝都の山の手の大半がはい灰燼に帰した。宮城も焼き尽くされ、
皇居の職員や警察官33名が殉職した。覚悟の焼死をした者も少なくなかったという。
大本営が移転を計画していた長野県松代への両陛下の疎開は、皇居から動かないという天皇の決意で実現されなかった。
天皇は心痛と激務、食事の粗末さのために10キロ近くもお痩せになった。一汁二菜、七分つきに麦をまぜたご飯で、
配給量も一般国民と同じにせよと何度も仰せられたという。
戦争をどう終結させるかが天皇の心を領している最大の問題だった。
独りごとを言いながら部屋を歩き回るのが天皇の癖だったが、
戦争も末期になるに従い、防空壕の中でもほとんど連日そんなご様子だった。
昭和20年の年頭から、天皇は隠密に終戦工作を進めていたようだ。重臣たちを個別に呼んで、対策をこらしておられたが、
切っ掛けをつかめないまま空しく歳月が流れた。2月1日付けの『細川日記』の中に、
いっさいの皇族をお近づけにならない、との記述がある。
6日付には高松宮が参内する日は朝から興奮しておられる様子だ、と書かれている。
天皇と高松宮との間のある種の軋轢を予想されるが、
日付からいって仁和寺入りのご退位の提案と関係があるのではないか。
『近衛日記』にも、天皇は神経衰弱気味で、しばしば興奮すると書かれている。高松宮が何か上奏しようとすると、
「無責任の皇族の話は聴かぬ」と仰せになら れたという。それが仁和寺の話だとしたら、自分は退位など決してしない、
戦争の責任は自分しかとれない、という秘かなご決意ではなかったろうか。
それだけに悪化する戦局に日ごとに追い込まれていく焦燥感はただならぬものがあったと思う。 
今からは天皇が昭和20年の前半、どんなご心境であったかを正確に窺い知ることはできない。
自分一身のことや皇室のことなど心配しなくてもよい、と言い続けて戦争を終結させた天皇は、
当時、明らかに国民の側に立っていた。
他方、高松宮や近衛文麿 たちは皇統の維持を何よりも重大に考えていた。
しかしこれはどちらか一方でいい、というわけにはいかない、両立させなければならない課題だった。
国が敗れるということが実際にはどういうことなのか、誰ひとりわからなかったのだから、
恐怖も大きかったし、見当はずれも当然あった。
こうして終戦を迎えた8月 末、天皇は木戸幸一に、忠臣たちを戦争責任者として連合国に引き渡すのは忍びないので、
自分が退位して納められないかと戦後のここへきて相談しているが、これは見当はずれの類だろう。
アメリカがとても退位くらいで承知しそうもない、と木戸は応じている。状況認識の甘さを知って、
天皇は一段と決意を高めたものと思われる。

マッカーサーとの会見(9月27日)の日に天皇はGHQに逮捕され、
そのまま帰ってこれないのではないかと皇后や側近たちは心配していた。
これも今からすれば見当はずれの一つであった。けれども日本は敗者なのだから
GHQから指示される前に自分から出向くのが筋だと考え、
天皇は決心し、そのように行動した。マッカーサーはそれを待っていた。
そして天皇を君主にふさわしく扱おうと考えていた。
両者の呼吸はピタリと合ったのである。
しかもマッカーサーは天皇が命乞いするのではないかと恐れていたが、まったく正反対だった。
会見は結果として天皇の立場を守っただけではなく、日本の運命を変えた。
しかし、それはどこまでも結果としてであって、剣が峰に立たされた歳月に未来は不明で、
天皇は法の庇護から見離された「無権利状態」に置かれていたことは間違いない。
しかも自分一個の運命だけではなく、国民の運命と歴史への責任がかかっている。
天皇の孤独の凄絶さは我々の想像をはるかに越えている。
奥日光に疎開していた皇太子殿下(今上陛下)にも危機が訪れていた。陸軍省の少壮将校グループが徹底抗戦を唱え、
玉音放送の録音盤を奪取しようとした事件はよく知られていよう。8月15日に皇太子の身辺にも影響は及んだ。
東部軍第十四師団の一部に皇太子を奉じて、会津若松に立てこもり、最後まで抗戦しようとする不気味な動きがあった。
皇太子を護衛する近衛師団は第十四師団が湯元へ来るのを阻止するため、地雷を敷設し、
陣地を固め、交戦準備を整えた。
地元の民間人までが、湯滝をせきとめ て氾濫を起こし進入軍を阻止する計画をしきりに練っていた。
じつにものものしい。もし本当に内乱が起きていたら、日本の運命は相当に変わっていただろう。
 
−そしてその頃、皇太子に天皇から次の手紙が届けられた。
 手紙ありがとう しっかりした精神をもって 元気で居ることを聞いて 喜んで居ます。
 国家は多事であるが 私は丈夫で居るから安心してください 
 今度のような決心をしなければならない事情を早く話せばよかったけれど 
 先生とあまりちがったことをいうことになるので ひかえて居ったことをゆるしてくれ
 敗因について一言いわしてくれ
 我が国人が あまり皇国を信じ過ぎて 英米をあなどったことである
 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
 明治天皇の時には 山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があったが 
 今度の時はあたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考えず 
 進を知って 退くことを知らなかったからです
 戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなったので 涙をのんで 
 国民の種をのこすべくつとめたのである
 穂積大夫は常識の高い人であるから わからない所があったら きいてくれ
 寒くなるから 心体を大切に勉強なさい
  九月九日 父より
明仁へ

我々一般人と同じような口調で天皇が我が子にいとしげに語りかけているのを知って、
私には新鮮であるし、哀感を覚える。
9月9日という日付から、天皇の苦衷を察してほしい。ある覚悟の手紙ではなかったかと思う。
皇太子は11歳であった。

−昭和天皇だけはない、私は今上陛下にも保護してくれるもののない、
「無権利状態」の孤独の瞬間があったのではないかと推理している。
それが陛下を人格的に強くしている。
考えてみれば、武装解除は国家の終焉にほかならない。これが境目だった。
ところが国内の閉ざされた市民生活には国外で起こったこの一大事がほとんど響かない。
日本の戦後社会はそうだった。
私の生きた戦後社会は、戦争があってこそ平和があるということがまだ記憶されていた社会だった。
しかし「無権利状態」の限界にさらされた悲劇の日本人の恐怖は置き去りにされていた。
昭和天皇の孤独な戦いを深く理解する者も少なかった。
−今の日本はボコッと真ん中が陥没しかけた段階にきているのではないか。
国家中枢の陥没。それは権力の不在、ないし消滅という形で現れている。

−米国は日本を守る意志がないのなら基地を日本領土内に持つ理由もない。

−拉致問題は党派を超えた唯一の日本の愛国的テーマである。
米政府に拉致をテロ指定させるまでには日本側関係者は辛酸をなめた。
また北朝鮮の核の残存は日本 への直接的脅威である。米国による北のテロ支援国家指定解除の通告は、
完全核廃棄の保証がないのだから、
第一に日本への道義的裏切りであり、第二にNPT体制遵守の無意味化であり、
第三に日米安保条約の事実上の無効消滅である。
しかしこれに対する日本政府、野党、新聞テレビ等の反応は、ひたすら「沈黙」である。
米国への反発の声、否、日本自体の不安の声ひとつ上がらない。
日本という国家の中枢にポカッと穴があき、陥没している証拠のようにみえる。
テロ支援国家指定解除は、北朝鮮に世界銀行その他の国際金融機関を通じて資金の環流を許すことだが、
それらの機関へは日本から巨額が投資されている。
政府は資金を引き揚げる覚悟があるか。
六カ国協議は最初から日本の核武装を封じるための会議であることを私は当初からさんざん言ってきた。
米中露、それに朝鮮半島まで核保有国となる可能性がすでに生じているのが北朝鮮の問題である。
太平洋で日本列島だけが核に包囲されるのを指をくわえて見ていていいのか。
しかし日本の政界はこれに対してもただ、「沈黙」である。
もはや政治的知性が働いていない痴呆状態というしかない。
米国が悪意を持っているという前提で日本人は行動しない。
米国が自分の国の利益だけで動いているという認識を最近は多少は持っていても、
ま、仕方がない、 と黙って引きずられていく。米国や中国の利益に群がっている日本側の資本、
昔でいう「政商」に政治の中枢が絡め取られていて、
いつしか日本は阿片戦争前の清朝みたいになっている。
米国に「武装解除」され、政治と外交の中枢を握られて以来、60年 間操縦席を預けたままの飛行は気楽で、
心地いいので、自分で操縦桿を握ろうとしなくなった。
米国はこれまで何度も日本人に桿を譲ろうとした、自分で飛べ、と。米国人も今や呆れているのである。
もっとも操縦桿は譲っても、飛行機の自動運行装置を譲らないのが米国流儀である。
日本人はそれが嫌になって投げ遣り になったのかもしれない。

1945年までの日本人は、たとえ敗北しても、自分で戦争をはじめ、自分で敗れたのである。
今の日本人よりもよほど上等である。
核保有の第二次大戦の戦勝国が平和をコントロールしているのが今の世界政治である。
戦争をコントロールしているのではない。
平和をコントロールしている。そこに問題の本質がある。
核を持たない国々には手も足も出せない領域が生まれている。平和を武器にされているからである。
核大国はそれをいいことに新しい侵略をはじめている。
領土拡大欲の満足ではもはやない。世界の歴史を塗り替えるという新しい野望の実現を目指している。
ドイツと日本が標的となり、さんざん苦しめられ、今なお苦しめられている問題である。
両国は精神的次元でも「武装解除」された。権力だけでなく権威の喪失を招いた。
奪われた力を何かで埋めなければ国家は成立しない。
日本の空白は良かれ悪しかれ米国の力によって埋められた。米国流民主主義が皇道の代用をなした。
そしてこれはほぼ半世紀以上安定していた。

−ロシア人もドイツ人も「ゼロ時」の恐怖があればこその国家回復への運動を展開したのだった。
ロシア人は容易に回復し、ドイツ人はどん底を脱した程度かもしれない。
しかし日本人は満州や南太平洋からの引揚者、シベリアの抑留者、BC級戦犯、そ
して本稿では天皇陛下を特筆例示し、平穏な日常を破られ「無権利状態」に置かれた人として取り上げたが、
これら悲劇の人々を除く一般の国内居住者は、ついにどん底にもぶつからなかったのではないか。
それが敗者日本の姿ではないか。

皇室も皇太子殿下の「戦争を知らない子供たち」の世代になって危機体験には見舞われず、
自らがパブリックであることをさえ、お忘れになっている。
そのことが今日の日本の権力の不在、国家中枢の陥没を引き起こしている主たる原因ではないか。
国家が失われた恐怖がロシア人をもドイツ人をも襲った。
しかし日本の国内を襲ったのは空襲の恐怖であって、終戦後に空襲はなく、
国家再建は「リンゴの唄」や「青い山脈」で彩られ、国民は絶望からの権力への意思集中の必要を一度も経験しないで
半世紀をうかうかと過ごした。
しかも、力は自分で築かねばならないのに、米国が与えてくれたので、
今その米国が外交と軍事のお手伝いはもう止めますよ、とサインを送ってきているのに、
日本人はボーッとして呆然と立ち尽くすのみである。本当に驚くべき「沈黙」である。
昭和天皇の退位説は戦後も二度ほど表面化している。最初は新憲法発布直後で、天皇はこれを好機とみたようだ。
次は昭和23年5月に三淵忠彦最高裁長官らが道義的責任を求めた発言に動揺してのことである。
この時期、天皇はカソリック教徒になることについてスペルマン枢機卿一行に相談するなど、宗教観が揺れ動いていた。
英国政府代表にエドワード八世の退位の 手続きについて問い合わせる等のこともあったと聞く。
国内で天皇を退位させる勢力は南原東大総長を中心としていたらしい。もちろん、アメリカにもその声はあった。
マッカーサーは左翼がかったアメリカのマスコミなど気にせず、退位の必要はない、と説得していた。
 
天皇の退位論も責任論も国民の心の内で今なお燻っていて、ときどき我々の歴史回顧の議論中にさえ出てくる。
だが、私は昭和天皇がご退位にならず、日本の歴史の連続性を身をもって証明してくださったことは
大変にありがたく、感謝している。もちろん退位論にも二種類あって、
昭和初期、立て続けに女子ばかり4人 お生まれになった直後のこと、
天皇は退位して秩父宮を立てる案が秘かに検討された(工藤美代子『香淳皇后と激動の昭和』に詳しい)。
男系皇統維持のためには天皇家は何でもするという意志の表明で、
逆に男子出生がなければ皇位継承の資格を失うのは天皇制度あっての天皇で、
制度は個人のためにあるのではない証でもある。こういう場合の退位は伝統護持のために十分に理解できるが、
戦争責任による退位などは起こらなくてまったくよかった。
戦争の体験から終戦の「ゼロ時」を経て戦後の復興ならびに経済繁栄に至る長い時間を
お一人の天皇が統治されたことは、日本の歴史には戦前から戦後にかけての連続性があり、
同じ質の時間が流れていて、どこを切っても同じ日本人の体験の歩みであることを
御一人者をもって表現してくださったのである。これは我々の歴史意識にとって貴重である。
ドイツ史には断絶が生じ、日本史にはそれがない。
ドイツ人が信じられない歴史として羨望していることも付記しておきたい。
ドイツは12年間だけ悪魔に支配され、それ以前の歴史にもそれ以後の歴史にも悪魔はいない、
といわんばかりにヴァイツゼッカーなどが語る自己弁解は、思うだに見苦しく、滑稽である。
日本はこの点で幸福だった。昭和天皇のおかげである。ではあるが、国民は幸運に甘え、
あらためて戦前から一貫して変わらない日本人の心の歴史を自覚的に検証し、
継承していこうと務めないことに、今日の行き詰まりがあるように思える。
アメリカ産の歴史の見方、満州事変より後に突然日本は悪魔の国になり、
平和の使徒アメリカがついに起ち上がって悪魔を打ち負かしてくれたという「お伽噺」を
頭の中に刷り込まれたまま、意識して改めようとしていないのではないか。
米国が民主主義を与えてくれて日本を再生させたという迷信に、
一億国民がいまだに完全に支配されていないだろうか。
ドイツのように民族のアイデンティティの危機に陥らないできたのは、
今述べた幸運に属するが、意識的自覚的努力を欠いて、ただぼんやりと日本は嫌いじゃない、といいながら
外国に劣等感をもっているという半端思考の日本人が増えていて、
皇室とはそもそも何であるかの教育も与えられていない。
日本最古の王朝は邪馬台国の卑弥呼だと思い込んでいる人に、皇太子ご夫妻はどこから来たか知っているか、
ただのセレブじゃないんだよ、といくら説明してもわからせることは難しいだろう。
米国は現在、日本の皇室に悪意を抱いているとは思わない。
しかし占領当時の政策には悪意があり、破壊的な狙いがあった。
日本人自らがそれを意識的に克服しようとしなできたことこそが問題なのだ。
占領軍は巧妙で、何をせよとは命令せず、何をするなとだけ禁止した。
例えば各家の戸口に星条旗を掲げよ、等と命令しない。
代わりに占領軍への誹謗には処罰した。 
日本国民にキリスト教に改宗せよなどと無理なことは求めない。
代わりに伝統的信仰、神道と皇室を長い時間かけて亡ぼす策をあみ出していた。
天皇制度は残し たものの、皇室財産の大半を没収し、旧皇族をなくして天皇ご一家を孤立させた。
天皇が人間であるのは自明なのに、わざとらしく人間宣言をさせ、
クウェーカー教徒のアメリカ婦人を皇太子の教育係にした。
天皇が国民と同じ所まで垣根を取り払い、それを皇室の民主化であると言った。
やがて何十年後かに天皇の制度が無力化することを見越した時限爆弾を仕掛けていたのである。
その最もたるものは「焚書」である。何をせよの命令ではなく、何をするなの禁止の極限の形態は、
私が先にも挙げた拙書『GHQ焚 書図書開封』で示唆し、解明した日本の貴重な戦前の書物の没収である。
皇室、国体、天皇、皇道、神道、日本精神といった文字が標題にある書物は、ことごとく没収され、
パルプにされた。これこそ、米国が文明国ならやってはいけない信仰破壊の、先を見抜いた悪質な策謀だった。

以上、敗戦と占領で我が国の精神の中枢が毀され、権力の空白を米国が埋めた、
深刻ないきさつの一部を記述してきた。
−永年日本を支配してきた保守政党のここへきての権力の消滅と並行して、
皇室に対する国民の信頼が少しずつ希薄化している現実は恐ろしい。
国民にも責任があるが、皇室にも自覚が求められている。
砂山の頂点からこの国が崩落しないとどうして言えるだろうか。
皇族にはプライベートも人権もなく、ご存在そのものがパブリックなのだということ、
それが尊厳の根拠なのだということ。
この点の認識において皇太子ご夫妻が不十分であることを私は問うてきたのである。

天皇制度は国民との関係性において維持される。妃殿下がご病気であろうとなかろうと、
国家の問題は消えてなくならない。
皇室の安定と国家の安全保障はじつは切っても切り離せない。
ドイツは安全保障の問題を事実上解消したが、日本はこれからが正念場である。
いつまでも手を拱いている日本を米国は見放して、あと何年もせぬうちにアジア から撤兵する可能性がある。
あるいは、逆に日本を軍事的に半永久的に無力化する約束を中国と交わし
−すでに実際にそうしていると思うが−米中経済同盟の維持を図る。
日本は米中間の取引材料にされ続ける。
いうまでもなく、皇室に政治的役割を私は期待していない。
皇室は「民を思う心」によって国民の崇敬と信頼をかち得ていてくださればよい。
我侭や傲慢は国民が一番忌み嫌う。
私がずっと気懸かりなのは、米中の綱引きの中で中国の手に落ちたネパール王朝の廃絶のドラマである。
王室が国民の中で不評判であったことが最後の致命傷となった。
米中にチベット、インドが絡まる国際的争いの犠牲でもある。
歴史も国力も違うのでネパールと同じ動乱は日本には起こり得ないが、
皇室に対する中国の介入、それに迎合する外務官僚や保守党政治家、
怪しげな特定宗教の 跋扈、そして畏れおおいから皇室批判をしてはいけないと
遠巻きにしてオロオロするだけの保守系言論人と団体
−今からすでに役者は揃っている。皇室が国民に畏敬されている限り、問題は何も起こらないが、
逆にいえばどうでないなら、安全保障の危機に際し、何が起こっても不思議はないだろう。
ノンフィクション作家の佐野眞一氏が宮内庁高官に取材したときのことである。
「環境を雅子妃にとって過ごしやすいものにする以外、治療方法はない」という 斎藤環医師の発言に対し、
高官は「この考え方を敷衍すれば、天皇制は雅子さま制に変わるということです。
到底容認できません」と言ってのけたという。
佐野氏は「皇室はただならぬ危機にあることをあらためて痛感した」。
天皇皇后両陛下と皇太子ご夫妻の関係は
「いまやわれわれが想像している以上に深刻な事態に 突入している」と書いている(『中央公論』7月号)。
もう終わったはずの女系天皇論が、今後またまた亡霊のように立ち現れる可能性もある。
男系皇統を絶たないために古来天皇家はどんな大胆なこともしてきた。
ご誕生日を迎える悠仁親王殿下はあっという間にご成人あそばされる。
言論誌に書く人にも、妃殿下はご病気だ、可哀相だとそんなことばかり言っていないで、
ご病気はご病気、これは個人の治療のテーマ、
それとは別に国家の問題が厳としてあることを片ときも忘れないでいただきたいと申し上げる。
さもなければ公論誌を煩わせる理由がない。
皇統維持のための旧宮家の復活についても、皇族の公務のご負担を軽減すべきことについても、
思い切って京都遷都を図り政治からもっと離れるべきことについても
−そのほうが政治の安定にも役立つ−いろいろ提言したいことはあるが、今回はこれで幕を引く。

佳子さまフィーバーが気に食わない

週刊新潮2015年4月30日号
「佳子さま」過熱に「雅子妃」「高円宮妃」のさざ波

フィーバー自体を危ぶむ声が、他ならぬ内々にあるというのだ。
「一宮家でありながら、悠仁親王という将来のお世継ぎ候補を擁される秋篠宮家には、
ただでさえ国民の注目が集まっている。
そうしたところに降って湧いたのが、佳子内親王を巡る熱狂。
庁内には“これ以上バランスが崩れてしまったら……”と、嘆く者も少なくありません」(宮内庁幹部)
すなわち、「本来、両陛下に次いで存在感を示すはずの東宮家が、
相対的に話題に上らなくなっているのは明らかです。
世間の目には、突出した秋篠宮家の陰にすっかり隠れてしまったかのように映っていることでしょう」(同)
そもそも愛子さまの不登校騒動が起きた10年春以降、雅子妃はメディアを蛇蝎のごとく嫌ってこられた。
ご自身のみならず、愛子さまのお姿もカメラから遠ざけるよう努めてきたのだ。
「今回、佳子さまブームという新風が吹いたことで、天敵に等しかったメディアは
一斉に宮家の方を向いてくれたわけです。胸をなでおろされているのは想像に難くありません」(前出記者)
そんな中で雅子妃の「ご変心」を見てとるのは、さる東宮職関係者である。
「妃殿下はこのところ、東宮御所のご自分の部屋で、佳子内親王に関するニュースにおひとりで見入られています。
直接にお名前を口にされることはありませんが、やはり愛子内親王との間に大きな扱いの差があることを
目の当たりにされ、いたわしく思われるお気持ちが一層強まったのでしょう。最近は、両陛下と東宮家、
秋篠宮家のご公務予定が組み込まれたスケジュール表を職員から受け取り、じっとご覧になっています。
これまでにはなかったことで、ご一家の存在感を発揮することが内親王のためになる、とお考えなのです」
が、体調は一向に好転する兆しが窺えず、21日の園遊会も、早々にご欠席を表明なさるなど、
ご両家のコントラストは際立つばかり。
さらに、“予兆”はこんな方面からも見てとれる。
「本来は同じお立場であるはずの各宮家では、得てしてお付きの職員同士、
そして時には皇族方の間でも“微妙な関係”が生じることがあります。
各宮家の予算である皇族費は法律で定められていますが、
例えば人員補充や宮邸の修繕・改築などの順番を巡って、折衝せざるを得ないケースもあるのです」(前出幹部)
そうした状況下、煌びやかな佳子さまのお姿に心がざわめくのは、雅子妃だけではないというのだ。
「佳子さまは一昨年4月に学習院大に入学され、俄かに露出が増えたわけですが、
本格的に注目され始めたのは、やはり昨秋のICU合格を経て、年末に成年を迎えられてからでしょう」
そう指摘するのは、さる皇室ジャーナリストである。
「新年の一般参賀に“デビュー”されたことで、人気は盤石となりましたが、
それまでは悠仁さまを別として、宮家で存在感を示されていたのは、何と言っても高円宮家だったのです」
久子妃は一昨年、文字通り五輪招致の立役者となられ、
また昨年、次女の典子さまが出雲大社に嫁がれたのも記憶に新しい。
「元来、高円宮家は活発なお家柄で、そのご両親の血を3女王も受け継いで育たれた。
皇室内に独特の地歩を築いておられた久子妃からすれば、現在の状況は面白いはずがありません」(同)
加えて、先の典子さまの成婚に際し、テレビ番組で“先を越された”と発言なさった三笠宮家の瑶子さま、
そして姉の彬子さまも、「ともに亡き寛仁さまの後を継ぎ、瑶子さまは昨年1月から社会福祉法人友愛十字会、
彬子さまはこの4月から中近東文化センターのそれぞれ総裁職を務めておられる。
にもかかわらず、さほど注目されていません。
ご公務においては、佳子さまなど足元にも及ばないほどの実績をお持ちのお二方の胸中は、
拝察するに余りあります」(同)
お足許にさざ波が立ってしまうとは、フィーバーも痛し痒しである。

はじける笑顔の雅子妃に複雑な思い

櫻井よしこ氏
「はじける笑顔の雅子妃に複雑な思い 皇室はなんのために存在するのか?」

週刊ダイヤモンド2006年9月2日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 655
8月18日、皇太子ご一家がオランダに到着され、
オランダ王室のお出迎えを受けて撮影された写真が各紙の一面を飾った。
「はじける笑顔」と見出しを付けた社もあったほど、雅子妃の表情は明るかった。
国内で見なれてしまった鬱々とした表情の上に努力して重ねて見せる笑顔とはまったく異質の、
心底楽しそうな豪快な笑いがそこにあった。
笑顔の妃を見て、十分な休養を願いつつも、心中複雑な思いを抱いた日本人は少なくないだろう。
皇室はなんのために存在するのか。日本人は皇室のために何をなし、何を求め、皇室はどう応えるのか。
雅子妃の問題に限らず、このところ、皇室と国民のあり方について頻りに考える。

天皇の思いを記した書として「昭和天皇独白録」がある。
敗戦直後の1946(昭和21)年3月から4月にかけて、昭和天皇のご記憶を5人の側近が記録したものだ。
そこには気になるお言葉が少なからずある。
一例が、42(昭和17)年12月12日の伊勢神宮ご参拝に関する項である。
そのときすでに、日本はミッドウェー海戦で大敗し、戦争の行方は見通しが立たなくなっていた。
同年12月、昭和天皇は伊勢神宮に参拝され、そのときのお気持ちを次のように語られている。
「あの時の告文を見ればわかるが、勝利を祈るよりも寧ろ速かに平和の日が来る様にお祈りした次第である」
一方、ご参拝は当時「一天万乗の大君御親ら神宮に御参拝、大御神に御告文を奏せられ、
親しく戦勝を御祈願あらせ給うた御事は、神宮御鎮座以来未だ嘗て史上にその御前例なく……」
と報じられた(「独白録」)。

勝利よりも平和を願ったとしながらも、昭和天皇は右の新聞報道のように、戦勝祈願もなさっていた。
それは「伊勢神宮は軍の神にはあらず平和の神なり。
しかるに戦勝祈願をしたり何かしたので御怒りになったのではないか」と語られたことが、
木下道雄侍従次長の『側近日誌』(文藝春秋)に書かれていることからも判断出来る。
戦局不利のなかでの天皇による戦勝祈願は国民を大いに鼓舞し、戦いへの新たな決意を堅固ならしめたことだろう。
が、昭和天皇は、勝利は二の次で早い平和をこそ願っていたと仰る。
立憲君主としての矩(のり)を守ろうとなされば、戦争続行の政府決定を受け入れるしかなく、
その限りにおいて、真意を表現出来ないおつらさはあっただろう。
また目前の戦争での勝利よりは、長い目で将来を見つめるがゆえの、
平和を優先するお気持ちを持たれるのは、上に立つお方として必要な良識でもあろう。
だが現実に、軍人を輩出し、戦死者を出しながらも勝利を信じて力を尽くさざるを得なかった国民は、
天皇の“ご本心”を、戦後になって目の当たりにして、
置き去りにされてしまったかのように感ずるやもしれない。このギャップは埋め得るのか。
それにしても、天皇の存在が必要となるのは、明治維新のときや終戦時がそうであったように、
100年あるいは200年に一度、国家の危機に直面し、最終的に国民を統合し国をまとめる権威を発揮していただくときだ。
分裂する国論をまとめ、この国を一体として守り通すことは、国民を守るための必須の基盤である。
皇室に求めるものが国家統合の権威であるなら、その余のことを問題にするより、
国民はまず、権威を真の権威ならしめる尊崇の思いを心のうちに育てていきたいものだ。
応えて皇室は、ひたすら国民のために祈り、その祈りを実践なさっていただきたいものだ。
どちらが欠けても皇室の存在意義は失われる。日本の日本らしさも同様だ。
憂うべきは、その心構えの双方における稀薄さである。雅子妃のご健康を祈りながらも、
妃のはじける笑顔から皇室の存在理由としての国民のための祈りを読み取ることが出来ないのは、
残念なことに私一人ではあるまい。

「美智子皇后」「雅子妃」「紀子妃」知られざる嫁姑戦争 20年

週刊新潮2013年5月2・9日ゴールデンウィーク特大号
「美智子皇后」「雅子妃」「紀子妃」知られざる嫁姑戦争 20年
(※内容的には雅子妃の異常性)

「納采の儀では、自ら御養蚕所で育てた繭から採った絹糸で織り上げた絹織物を
雅子さまには5巻、紀子さまには3巻贈られました。
また結婚の儀に際し、ご自身は袴だけ新調して十二単は良子皇后のものを受け継いでお召しになったところ、
お二方にはそれぞれ、祝福を込めて十二単を新調して差し上げています」(渡辺みどり氏)
さらに、雅子妃には、
「急な環境の変化でお寂しい思いをなさらないようにと、実家とご自由に連絡できるよう手配なさったのです。
実際に、ご成婚当初から、母親の優美子さんがホンダの自家用車で
赤坂御所の門を入っていく姿が、度々見られていました」

こうしたご関係にさざなみが立ち始めたのは94年、秋篠宮家に第2子の佳子さまが誕生した頃であった。
「紀子さまのご懐妊が発表された際は、『東宮を差し置いてお二人目とは』といった批判が
宮中から出ましたが、女児とあって風向きは一転。
雅子さまには一層、“早く男子を”との声が向けられていったのです」(皇室ウオッチャー)
が、声援は徐々にプレッシャーとなり、翌95年には陛下が雅子妃を慮って、
〈国民はみな、あなたたちの子を期待していますよ〉とのお言葉を掛けられたところ、雅子妃が、
〈私の周囲には、そんなことを言う友人は一人もおりません〉
そう言い放たれる場面があったことは、すでに報じられている。場は静まり返り、
後にこの一件をお聞き及びになった皇后さまもまた、言葉を失ったという。
「その頃、ご夫妻は周囲から不妊治療を勧められても『私たちで何とかします』と拒み続け、
ご進言を試みた御用掛の産婦人科医を遠ざけてしまわれたこともありました。
御所では、両陛下が妃殿下のご懐妊の兆しを心待ちにされていた。
毎月、東宮側の医師が内々に呼ばれ、妃殿下のご体調についてご報告申し上げていたのです。
“変化”が見られないと分かるや、『そうでしたか…』と
肩を落とされる皇后さまのお姿がありました」(宮内庁OB職員)

陛下のご学友でジャーナリストの橋本明氏が言う。
「秋篠宮家の2人のお子様は、両陛下にとってはとにかく可愛いお孫さんで、
ご一家が御所に行かれると、皇后さまはお孫さんを楽しそうに遊ばせていらっしゃる。
そこに皇太子ご夫妻が合流されると、雰囲気がガラリと変わるのです。
弟宮が東宮に遠慮なさるからですが、そうしたお気遣いが、雅子妃にはかえって重圧となってしまいました」
90年のご成婚以来、紀子妃は一貫して両陛下、わけても皇后さまと良好な関係を築き上げてこられた。

宮内庁関係者の話。
「秋篠宮妃殿下は、殿下のご学友として学生時代から宮中に出入りされており、
当時皇太子だった陛下ともテニスをご一緒するなどし、『キコちゃん』と呼ばれて可愛がられていました」
このため、外交官から全く異質の世界へと転身された雅子妃に比べ、スムーズに宮中に溶け込まれたのだという。
(中略)
対して、皇太子ご夫妻である。かつて昭和天皇は皇太子時代の陛下と美智子妃を毎週水曜日に御所に招き、
夕食を共にしながらコミュニケーションを図ってこられた。
こうした「定例ご参内」は雅子妃に引き継がれ、数年は続いたものの、徐々に回数は減り、有名無実となっていく。
そんな中、99年12月には、ベルギー外遊から帰国されたばかりの雅子妃に「ご懐妊の兆候」とのスクープが持ち上がった。
が、その後の検査では、稽留流産と判明―。

そしてここから、先々のご病気へと繋がる「感情」が芽生えてしまったと指摘するのは、
皇室ジャーナリストの久能靖氏である。
「ご懐妊という情報を、ごく初期の段階で知り得るのは医師や看護師、側近など限られた人々です。
それが漏れたことで、雅子さまには周囲への拭いがたい不信感が生じました。流産なさったこともあり、
その後、宮中で孤立されていくきっかけとなってしまった大きな『事件』であったと思います」
打ちひしがれていた雅子妃に翌年、立て続けにある「トラブル」が降りかかる。
このことが先々皇后さま、ひいては御所との間に、深い溝を生み出していったというのだ。
(中略)

「2000年6月16日、皇太后さまが崩御されましたが、その際のことです」
そう振り返るのは、さる宮内庁の古参職員だ。7月25日には豊島岡墓地で、
一般の本葬にあたる「斂葬の儀」が営まれたのだが、雅子妃はこれをご欠席。
「前日には東宮大夫の会見で、妃殿下は『暑さが続き、夏バテのような状態』で体調を崩され
『お体を大切にしていただく見地からお取り止めになった』との発表がありましたが、
案の定、懸念や批判の声が相次ぎました」(同)

これに先立ち、皇族方や宮内庁職員らが24時間交代でお棺の側に詰める
「殯宮祗候(ひんきゅうしこう)」が、40日間にわたって続けられていた。
実はこの時期に、今に至るまでトラウマとなっている「出来事」が、雅子妃に起きていたというのだ。
「殯宮祗候と並行し、斂葬の儀当日までは連日、さまざまな儀式が続きました。
その際、妃殿下は現場で行事におけるきまりごとについて、
皇后陛下からごく簡単なアドバイスを受けたのですが…」(同)
それは、お召し物のベールの長さなど、これまで営々と続けられてきた、しきたりに関するものであったという。が、
「妃殿下は、この皇后陛下とのやりとりを『叱責』と受け止めてしまわれたのです。
大勢の皇族方や職員の前で自分だけが咎められたのだと解釈なさり、ショックを受けてしまいました」(同)
こうした“アクシデント”もあり、斂葬の儀だけでなく、
前日に吹上大宮御所で営まれた儀式なども、雅子妃は欠席された。

実際には「叱責」の事実などなかったのだが、
「後に妃殿下はこの一件を、主治医である大野裕医師のカウンセリングを受けた際、お話しになっています。
そして、この時の体験が大きな心の傷となり、御所への参内もままならないという趣旨のご説明をされている。
御所の側にもそうした“思い込み”は漏れ伝わっており、
念のため儀式に携わった人たちに当日の様子を確かめたところ、
そうした場面は一切なかったことが分かったといいます」(同)
一方的な思い込みがあらぬ誤解を生み、ご自身の中でも大きなわだかまりとして燻っているというのだ。
さらに、
「この問題も含め、妃殿下の症状いついての情報は“プライバシー”を盾に大野医師ら東宮職が一切クローズしている。
御所と情報を共有して事実確認をしようともせず、妃殿下の言い分だけを鵜呑みにして抱え込んだことで、
この件は、04年5月の殿下による『人格否定発言』での
“雅子のキャリアや人格を否定するような動き”の一つにカウントされてしまいました。

当の皇后陛下も、誤解を持たれているのはご存知なのですが、お立場上、あれこれと仰れないでいるのです」(同)
「両陛下が皇太子ご夫妻へ極めて強い不信感をお持ちであるのが露わになったのです」(皇室ウォッチャー)
(中略)

今回のオランダ訪問しかり。大事な連絡の返事が遅いのはもやは東宮の常となった。女性宮家のときもだんまり。
「かねてより皇后さまは,雅子妃殿下のお振舞いを制御できないどころか
引きずり込まれてイニシアチブを握られている皇太子さまのお姿をお嘆きだった」(宮内庁関係者)

「皇后陛下は皇太子妃殿下の振舞いをことさら憂えておられます。
妃殿下に将来、自分のような皇后としての働きが務まるとは考えておられず、
また国民から見た皇室像が変容していくことにも大変な危惧を抱いておられます」(侍従職関係者)

「天敵」が死んだから公務出席?と言われる雅子妃

2014.10.31 17:40
鎌倉節氏、25日に死去 宮内庁発表 元宮内庁長官、警視総監
宮内庁は31日、同庁長官や警視総監を務めた鎌倉節(かまくら・さだめ)氏が
84歳で死去したのは、今月25日だったことを明らかにした。
病死とみられ、葬儀は近親者のみで執り行われたという。
昭和60年10月から63年1月に警視総監、平成8年1月から13年4月に宮内庁長官を務めた。
http://www.sankei.com/life/news/141031/lif1410310030-n1.html



週刊文春2014年11月13日号
「国際親善よりお世継ぎ」が持論。元宮内庁長官・鎌倉節氏が逝去
第七十五代警視総監で、宮内庁長官として香淳皇后の葬儀の大喪儀委員長を務めた
鎌倉節(さだめ)氏が、八十四歳で亡くなった。
警視庁担当記者が言う。「東大法学部を卒業し、1954年に警察庁入りした鎌倉さんは、
警察キャリアのエースとして王道の警備・公安畑を歩み、警視庁公安部長を経て、
警視庁の副総監、警視総監へと上り詰めました。
総監時代には、対共産圏輸出統制委員会(ココム)の協定に反して旧ソ連に軍事物資を不正輸出していた、
いわゆる『東芝機械ココム違反事件』の捜査を公安部に指示するなど、辣腕をふるいました」
警備・公安警察は、共産主義勢力やテロリストの捜査を担う一方で、皇室の警備を任務とする。
ある警察官僚OBは「鎌倉さんの皇室への尊崇の念は、ただならぬものがあった。
宮内庁長官には、なるべくしてなったと言えるでしょう」と述懐する。
警察官僚としての鎌倉氏の人物評は「もののふ(武士)」。皇室警備を担う武官という自負が強かったため、
「明治天皇に殉死した陸軍大将・乃木希典とイメージがダブる」とまで言う警察関係者もいるほどだ。
鎌倉氏が宮内庁次長に就任したのは94年のこと。皇太子が雅子妃と結婚された翌年だ。
宮内庁関係者が振り返る。
「男系男子による皇位継承を絶対視する鎌倉さんは、
なんとしても雅子さまに男の子を産んで頂きたいという意識が強かった。
だから、次長時代の皇太子ご夫妻の中東訪問にも反対だったと言われています。
長官就任後は一貫して『国際親善より男子出産が優先』というのが持論でした。
残念ながら流産となってしまいましたが、雅子さまにご懐妊の兆候があることが明らかになった99年は、
鎌倉さんの長官時代です。鎌倉さんの強いリーダーシップが、背景にあったというのが定説です」
外国生活が長く、自由な環境で育った雅子妃と鎌倉氏が、ときに意見を対立させたであろうことは想像に難くない。
「鎌倉さんが長官を退任したのは2001年。皇太子さまの人格否定発言は04年です。
直接は何の関係もありません。ただ、退任後も『鎌倉さんの考えが正しい』という、
“鎌倉イズム”が、庁内に根強く残っていた中で、あの発言が飛び出したのは事実です」(同前)
雅子妃は鎌倉氏逝去の報に、何を感じられたのだろうか。


雅子さま11年ぶり宮中晩餐会出席は「天敵」の死の直後だった
2014.11.07 07:00
雅子さまが11年ぶりに宮中晩餐会に出席されたその2日後となる10月31日、
宮内庁はかつて警視総監や宮内庁長官を務めた鎌倉節氏(かまくら・さだめ氏/享年84)が
10月25日に亡くなっていたことを明らかにした。
2003年12月、帯状疱疹で宮内庁病院に入院されて以来、
10年以上の長きにわたり、療養生活を送られている雅子さま。
雅子さまが倒れられて半年後の2004年5月、皇太子さまは、
「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」という、
いわゆる“人格否定発言”をなさる。
当時、この“人格否定”をしたひとりとして名前が上がったのが鎌倉氏だった。
鎌倉氏は警視総監を務めた後、1994年4月から宮内庁次長として入庁。
1996年1月から2001年4月までは同庁長官を務めた人物だ。
「鎌倉さんは強い皇室崇拝の念を持っていました。そのため長官になると“国体護持”を掲げ、
皇室を絶やさないためにと、当時、子供がいなかった皇太子ご夫妻のために
男児がお生まれになりやすい環境を作るという方針を打ち出し、万が一、男児誕生が叶わなかった際に備えて、
皇室典範改正の検討などの新たな体制作りを始めました」(当時を知る皇室記者)
皇太子ご夫妻になかなかお世継ぎが誕生しないという状況もあってか、
長官となった鎌倉氏は問題点を見つめ直し、豪腕を振るった。
皇太子ご夫妻の公務旅行が多いことが、お世継ぎ誕生を停滞させていると懸念した鎌倉氏は、
「皇太子ご夫妻がなすべきことは“お世継ぎ”づくり。
そのために(1995年1月の)中東訪問を区切りとして、政治問題に巻き込まれやすい海外訪問は当分、
ご遠慮いただく」という方針を打ち出し、皇太子ご夫妻の海外訪問を“禁止”したのだった。
実際、前述の中東以降、鎌倉氏が退任後の2002年12月の豪州・ニュージーランド訪問まで、
雅子さまは8年間も海外に赴かれることはなく、“空白の期間”となった。
2001年12月、愛子さまが誕生されたが、結局、鎌倉氏の在任期間中にはお世継ぎは誕生せず、
雅子さまとの間には複雑な感情が残ることとなってしまった。
前述した、2002年の豪州・ニュージーランド出発前の会見で、雅子さまはこう語られている。
「正直を申しまして、私にとりまして、結婚以前の生活では私の育ってくる過程、
そしてまた結婚前の生活の上でも、外国に参りますことが頻繁にございまして、
そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから、(妊娠、育児の2年間を除いた)6年間の間、
外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況に適応することに
なかなか大きな努力が要ったということがございます」
“海外訪問で能力を発揮したい”“皇室外交で能力を発揮したい”
──それが雅子さまの強い願いだったことが表れたお言葉だった。
「実際、皇太子さまはプロポーズされたとき、結婚を躊躇される雅子さまに対して
“外交という分野では、外交官として仕事をするのも、皇族として仕事をするのも、
国のためという意味では同じではないでしょうか”と説得されています。
ですから鎌倉氏の方針は、皇室の将来を考えたこととはいえ、
雅子さまの“皇室外交”へのお気持ちを無視したものだったため、人格否定発言が波紋を呼んだ際に、
宮内庁内部や皇室記者の間では鎌倉さんに対するさまざまな声が噴出しました」(前出・当時を知る皇室記者)
その後、雅子さまは「適応障害」と診断され、現在に至るまで、治療を続けられている。
そんないわば“天敵”とも呼べる人物の死の直後、宮中晩餐会での“皇室外交”に力を発揮された雅子さま。
なんとも不思議な運命といえよう。
※女性セブン2014年11月20日号
http://www.news-postseven.com/archives/20141107_285699.html

「生前退位」のご意向について

WEB記事・雑誌記事

週刊朝日2016年7月29日号
8月に天皇陛下自ら「生前退位」を説明か 5年前に摂政を内々に調査
天皇陛下が明治以降初となる「生前退位」の意向を示している──。
7月13日夜にNHKが報じた「スクープ」を受けて、世間は騒然となった。
高齢に無理を押しての天皇の公務と、次代の皇太子が世間でいう60歳定年に差し掛かろうとしている現実。
陛下自ら説明するとの話が出ているが、その内容とは……。
「年齢のこともありますから、私たちも疲れてしまったわ」
数カ月ほど前、皇后さまは、親しい知人にこう漏らした。
両陛下と親交のある人たちの幾人かは、こうしたため息を耳にしている。
天皇陛下は82歳、そして皇后さまは81歳。ともに高齢の両陛下の日程は、執務や公務でほぼ毎日埋まり、
心身ともに休むいとまもない。両陛下は11日から神奈川県にある葉山御用邸に静養のため滞在していたが、
この間も天皇陛下は執務を続けていた。
そして両陛下の静養が続く13日、NHKが午後7時のニュースで、
「天皇、皇后両陛下が、生前退位の意向を持っている」と報じたのだ。
新聞・テレビの皇室担当記者が詰める宮内記者会は、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
だが、宮内庁も首相官邸側も当初から一貫して「報道されたような事実は一切ない」と否定を続けた。
14日の会見で、宮内庁トップの風岡典之長官は、
「陛下は憲法上の立場から制度について具体的な言及を控えており、そういう事実はない」と発言。
天皇は国政に関する権能を有しないと定めた憲法第4条を引き合いに出し、
官邸の政権幹部も「憲法上の問題から(皇室典範改正を伴う)生前退位は無理だ」と語った。
肝心の陛下の胸中はどうなのか。風岡長官や山本信一郎次長、そして宮内庁幹部は、
「陛下のお気持ちを第三者が、あれこれ忖度するわけにはいかない」と口をそろえる。
それでも、冒頭のように両陛下が気力、体力ともに衰えたとの嘆きを周囲に漏らしている話は聞こえてくる。
実際、昨年夏の全国戦没者追悼式や他の式典で、
天皇陛下がお言葉や式典における手順のタイミングを誤ったことが注目された。
その件が念頭にあったのだろう。天皇陛下は、12月の誕生日会見で
「年齢というものを感じることも多くなりました」と語った。
「生前退位」問題では、NHKはすでに第一報の段階で、
「陛下が自らお気持ちを公表したいと考えている」とまで踏み込んだ。
皇室担当の記者が言う。
「実際、陛下は、ご自身の状況をご自分の言葉で、国民に説明したいと願っていらっしゃるようです。
それが3.11のときのように、陛下のビデオメッセージになるのか、文書になるのかはわかりません。
すでに、陛下の文書の内容も大筋は固まっているとの情報もあります。
あとは公表の時期。早ければ8月とも言われています」
陛下が、「退位」「譲位」という表現を用いたかはわからない。
天皇家の家族会議などで皇太子さま、秋篠宮さまも了承しているとも言われている。
「象徴天皇として人びとに寄り添い、なぐさめ、祈り続けることで平成の天皇像を築き上げてきた」
(前出の宮内庁幹部)陛下にとって、天皇としての仕事が十分にできないまま、
天皇の地位にとどまることを潔しとされないのだろう。
元朝日新聞編集委員の岩井克己氏は14日付の朝日新聞で、
「務めを果たせるうちはベストをつくす」と負担軽減に消極的だった天皇陛下の姿勢を、
「積極的象徴天皇」観と表現した。
岩井氏は記事で、5年ほど前から、天皇陛下は大正天皇の病状の深刻化に伴い、
皇太子だった昭和天皇が摂政を務めた詳しい経緯や制度的背景について周囲に検討させたと明かした。
宮内庁書陵部から資料を取り寄せ、なぜ摂政しか認めていないのかといったことを丹念に調べさせたようだ。
5年前といえば、2011年2月に天皇陛下は心臓の周りにある冠動脈の精密検査を受けている。
このとき、部分的に冠動脈に血管が狭くなる狭窄が見つかり、翌年に心臓のバイパス手術が行われた。
つまり、陛下が高齢による健康不安や死生観を意識しだした時期と符合する。
皇室制度について、さまざまな角度から検証を始めた陛下について、
先の岩井氏は同じ記事中で、「皇室の制度と歴史的真実、現代と皇室の伝統について
科学者らしい手堅い思索を重ねてきた様子がうかがえる」と記した。
ところで、毎日新聞は、皇室ウォッチャーが気になる記事を掲載した。
天皇陛下の意向を受け、今年5月以降、宮内庁幹部が水面下で検討を進めていたというのだ。
風岡長官、山本次長らオモテの宮内庁トップ2と、陛下を私的に支える河相周夫侍従長らオクのトップ2人。
そこに皇室制度や歴史に詳しい元職員1人が加わった「4+1」で会合を持ち、
皇室制度の重要事項について検討と会合を重ねて、首相官邸とも調整を重ねてきたという内容だ。
「このOB職員は、宮内庁の指示で20年以上前から王室制度の調査のために欧州へ赴くなど、
研究を重ねてきた専門家です。小泉内閣が進めた女性・女系天皇に関する皇室典範改正問題のときも関わり、
今年春に定年退職しましたが、まだ宮内庁に残り、研究を続けています」(宮内庁関係者)
この6月の人事異動で、首相官邸では警察庁出身の杉田和博官房副長官を軸に、
各省庁からエース級の人材を集めた極秘検討チームを作っている。
その目的が、長年の懸案である皇族の減少に伴う、女性宮家の創設に関する皇室典範改正なのか、
「生前退位」や「摂政制度」に関するものなのかは、はっきりしない。
※週刊朝日 2016年7月29日号より抜粋
http://dot.asahi.com/wa/2016071900214.html

「生前退位」実現で皇室は新たな危機に? 元宮内庁職員が警告
(更新 2016/7/20 07:00)
13日にNHKが報道した天皇陛下の「生前退位」の意向は、国民に大きな衝撃を与えた。
現状では「憲法上の問題から(皇室典範改正を伴う)生前退位は無理だ」(官邸の政権幹部)ということだが、
もし実現すれば、安倍政権、そして天皇の在り方にも影響を及ぼす。
首相官邸は天皇陛下の意向を尊重し、典範改正など必要な法整備に向けて検討を始め、
来年の通常国会で必要な法改正を目指す方針との情報も出ている。
宮内庁幹部は「政権との調整がこれから始まるタイミングだっただけに、うまくいかないおそれもある」と話す。
政治部記者が言う。
「参院選の勝利で地盤が固まった安倍政権としては、緊急事態条項を含む憲法改正に向けて議論を始めたい。
より安定した政治環境をつくろうと、年末までに衆院の解散・総選挙に打って出る可能性もある。
現政権は、女性宮家創設を含む皇室典範の改正に消極的で、どの程度進むのかは不透明です」
第2次安倍政権が発足して3年半が経過したが、皇室の制度改革は進まなかった。
政治的なエネルギーを要する典範改正に着手すれば、憲法改正が吹き飛ぶとの懸念があるのか。
逆に、官邸情報に強いNHKがスクープしたことで、政権が典範改正を突破口に、
憲法改正への機運を盛り上げるとの疑念が野党側に広がる。
仮に、幾つものハードルを乗り越えて、「生前退位」を含む典範改正が実現したとする。
そのとき、皇室は新たな危機にさらされると、元宮内庁職員の山下晋司氏が警告する。
「平成の象徴天皇としてふさわしい働きができない、という理由で生前退位を認めたとしましょう。そして、
徳仁新天皇と雅子新皇后の仕事ぶりが国民の期待に応えないもので、
『象徴天皇としてふさわしいものではない』と評価された場合、次に『ふさわしい』
秋篠宮殿下に譲位しろとの声が起きかねない」
旧皇室典範は1889(明治22)年に、大日本帝国憲法と時を同じくして制定された。
元勲・伊藤博文らは、天皇が随意にその位を退かれるのはもってのほかと論じ、
天皇の終身在位の仕組みを作った。それは、天皇が政治的な思惑で「退位」に追い込まれたり、
退位した天皇が上皇として権力を振るう危険性を排除するためである。
国民の感情で判断する余地が生まれれば、究極には天皇の人気投票につながりかねないと、山下氏は危惧する。
「天皇陛下がご高齢で働かされてお気の毒」「早く退位の制度を整えてお休みになって」
天皇の「生前退位」報道が出ると、感傷的な声がテレビ画面や新聞の紙面を覆った。
だが、皇室制度の根幹をかきまわすような事態は避けるべきであろう。
1987年から87歳で崩御するまでの1年4カ月間、昭和天皇は病に倒れていたが、摂政は置かれなかった。
いまの天皇陛下と、皇太子さまが国事行為を昭和天皇に代わり臨時代行した。
摂政は、天皇が精神的・身体的に機能していないことが前提だ。あるジャーナリストはこう解説する。
「それは、周囲が天皇陛下は、たとえ何もできないとしても、在位してくださるだけでいい、
それこそが国民の敬愛にかなうのだ、と昭和天皇へ伝え続けたためです。
ところが今回は、天皇陛下が、『高齢で象徴天皇として十分に仕事ができない』という話が漏れ聞こえたとたん、
『お疲れ様』の大合唱が始まった。まるで『蛍の光』を大音量で流して、
舞台から強制退場させているふうにすら感じる。それはご本人の思いとはすれ違うような気もする」
天皇公務のさらなる軽減や、皇太子ご夫妻への大幅な仕事の引き継ぎなど、可能な範囲で対応できないのだろうか。
平成の天皇が、魂を注ぎ込むように築き上げた象徴天皇と、
二人三脚で歩んできた皇后の姿を、国民はもう少し見ていたいと感じているのではないだろうか。
※週刊朝日 2016年7月29日号より抜粋
http://dot.asahi.com/wa/2016071900223.html

週刊新潮2016年8月4日号
前天皇と比較される「新天皇」はやりづらい?〈生前退位の大疑問〉
国を象徴する唯一無二の存在である陛下も、
皇太子さまにとっては幼少のみぎりから背中を見て育ってこられた、
頼もしい父という面を併せ持つ。
下世話に申せば、巷では隠居した先代と後継ぎの二代目は何かと比べられ、
時に粗探しまでされるもの。仮に陛下が身を引かれ、皇太子さまが新天皇と相成れば、
「陛下と皇后さまは、ともに公的ご活動からは完全にリタイアされるはず。
その面では、新天皇のお振舞いに不都合はないでしょう」
とは、さる皇室記者。が、むしろ国民の目が“難関”となりかねないという。
「“象徴の二重構造”が起こり得ます。皇室に関心が集まるのは結構ですが、
先帝と新天皇がいらっしゃる場合、国民の尊敬の対象が定まらなくなる。
例えば被災地のお見舞いに新天皇が来られた時、
現場で『前の陛下にいらしてほしかった』などと、率直な感想が出てくる可能性は否めません」
(皇室ジャーナリストの山下晋司氏)
かてて加えて、
「ここ数年、雅子さまの問題もあって皇太子さまご一家には“公より私を優先する”とのイメージが
ついて回っている。これを払拭するとなると一朝一夕にはいきません。ご公務から退かれるとはいえ、
両陛下の近況は映像などで時折報じられることもあるでしょう。
そのたび世間は、まだ記憶に新しい陛下の現役時代を思い起こさずにいられないはずです」(前出記者)
新天皇におかれては、思いがけぬ試練が加わりそうな予感なのだ。
http://www.dailyshincho.jp/article/2016/07301001/?all=1

「雅子さま」追っかけおばさんが生活保護だった

皇室写真集を2冊出版でも 「雅子さま」追っかけおばさんが生活保護だった〈週刊新潮〉

BOOKS&NEWS 矢来町ぐるり 1月5日(月)12時20分配信
夢を見させてくれる」。これが誰かを“追っかけ”る者に働く心理だ。
もっとも、皇室の追っかけ歴21年。
自ら撮影した雅子さまや愛子さまの写真集を2冊も出版した女性の場合、
その情熱は人並み外れたものがある。何しろ、生活保護を受けながらも追っかけを続けているのだから。
彼女は、これまで小林春美の名義で『あこがれの雅子さま』(2001年)と
『愛子さま こっちをお向きになって』(02年)を出版している。
年の頃は40代後半で独身。関東近郊に住み、
皇室を取材するマスコミや警備を担当する皇宮警察官の間では超有名人なのだという。
そもそも、高校生の頃、現在の天皇・皇后両陛下が乗る車に遭遇。
車から手を振る美智子妃の姿に感激し、皇室ファンになった。
1993年3月、雅子さまのお妃教育が始まったが、これを機に小和田邸に通うようになり、
本格的な「追っかけ生活」が始まったそうだ。
「お二人が結婚されてからは、地方でもどこでも行きました。
98年10月、長野の車山高原に行かれた際は、頂上付近で皇太子さまが『空気がきれいですね』などと、
話しかけてくださった。もう、感動して涙が止まりませんでした。
また、03年、皇太子ご一家が葉山で静養されている時、皇太子さまから
『(写真集の)ご出版おめでとうございます』と声をかけられ、
この時も嬉しくて涙が止まらなかったですね」(小林さん)
皇太子ご夫妻“公認”の追っかけというわけだ。
「皇室の方々はみんな美しくて気さく。追っかけは私の生きがいです。
14年は一般参賀に始まり、3月には愛子さまの学習院初等科の卒業式を見に行きました。
ただ、雅子さまはご静養中ですし、追っかけをする機会もめっきり少なくなりました」(同)

■「内緒ですよ」
そんな彼女に、追っかけ仲間からは、こんな声が上がっている。
「実を言うと、彼女は生活保護を受けているそうなんです。にもかかわらず、
地方にもよく出没している。追っかけ仲間の間でも、
交通費や宿泊費をどうやって捻出しているのかしら、と話題になっています」
最近では、島根県出雲大社で行われた高円宮典子さまの結婚式(10月5日)、
両陛下の長崎訪問(10月11日〜13日)、広島訪問(12月4日)で、小林さんの姿が目撃されている。
さて、この点を彼女に聞くと、「前夫が病気で働けなくなり、15年くらい前から生活保護を受けています。
離婚したのは4、5年程前で、私自身は警備の仕事をしながら毎月8万円支給されていた。
ところが、私も体調を崩し仕事を辞め、14年6月から毎月12万円もらっています」
毎月、家賃や光熱費、電話代を引くと、残るのは5万円。このうち食費は2万5000円で、
娯楽や趣味に使えるのは2万5000円とか。
「追っかけの費用は、東京駅とか電車で行けるような近場の場合、
毎月の生活保護で手元に残った2万5000円の中から。
地方へ行くときは、前の仕事で貯めていたお金から出してます。あっ、貯金の話は内緒ですよ」(同)
生活保護受給者にしてヘソクリがあろうとは、皇族方も苦笑いを禁じ得まい。
「ワイド特集 羊の皮を被った狼 虎の皮を着た羊」より
※「週刊新潮」2015年1月1・8日新年特大号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150105-00010003-shincho-soci