現代の藩屏

文藝春秋2016年10月号

現代の藩屏
―霞会館と菊栄親睦会
新年恒例の「歌会始の儀」が行われた日の夜、天皇皇后が必ずお見えになる場所がある。
霞が関ビルの三十四階。分厚い木目調の自動ドアが格式の高さを感じさせる、
旧華族の社交場として知られる霞会館だ。
歌会始で、皇族方や一般から選ばれた歌を朗詠する「披講」の諸役(所役)は、
霞会館の披講会が例年務めている。
天皇皇后は披講会メンバーの労をねぎらい、会館内のレストランでご夕食を共にされるのだ。
両陛下がお見えになる機会はほかにもある。
薩摩藩主だった島津家の子孫や親類縁者が集まる「錦江会」もその一つ。
二年に一度、霞会館で百人ほどが参加する会が開かれ、両陛下と皇太子がご臨席される。
香淳皇后の生母が島津家の出身(島津忠義の七女)という縁があるからだ。
また、雙葉小学校附属幼稚園の同窓会が開かれるときは、皇后陛下が旧交を温めにこられるそうだ。
「会員には、顔見知りの方が少なくありません。
両陛下にとっても気兼ねなくお立ち寄りになれる場所なのではないでしょうか」(霞会館事務局長・佐藤栄治氏)
霞会館の前身は、明治7年に発足した華族会館。明治20年代から鹿鳴館内にあり、現在の場所に移転したのは昭和2年。
戦後、華族制度の廃止と共に霞会館に名称を改めた。
昭和43年、霞会館が所有する三千坪の土地を三井不動産に貸して建てられたのが、日本の超高層ビルの霞が関ビルだ。
霞会館の収入はその地代と所有するフロアのテナント料が主なものとなっている。
現在の理事長は、元皇族で前神宮大宮司、神社本庁統理の北白川道久氏。
名誉会員として秋篠宮、常陸宮などの現皇族が名を連ねる。
霞会館の会員資格は、旧皇族や旧華族の当主および成人に達した嫡男。
どれだけ資産があっても、この条件を満たさなければ入会できない。現在の会員数は約750名。
戦前には1000名以上の時代もあり、
「この10年間でも100名ほど減っている。世継ぎがなく、途絶えてしまう家があります」(同前)
霞会館は、定款に基本理念の一つとして「皇室の藩屏」を掲げる。
藩屏とは天皇家をお守りする役割で、明治天皇が華族会館に臨幸された際、
「日本の国家近代化に努めて、皇室を守るように努めてほしい」との勅諭があったことに由来する。
戦後でいえば、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政、徳川義寛などは会員であり、
平成では、渡邉允元侍従長が会員だった。
かつては会員の親族が女官となることもあったが、現役の侍従や女官はゼロ。
旧華族といっても、いまではほとんどが一般企業に勤める。それでも、皇室の藩屏という姿勢は崩していない。
天皇と皇族をより近い立場でお支えしているのが旧皇族。その集まりが「菊栄親睦会」だ。
戦後、旧十一宮家が皇籍離脱する際、昭和天皇の発案で誕生し現在もつづく。
恒例となっている年始の集まり、天皇誕生日のお祝いのほか、結婚や出産なとせ皇室の慶事があったときに開かれる。
両陛下と皇族は名誉会員で、旧皇族やその子孫で現当主などが正会員となっている。
メンバーからは、「自分たちは子どもの頃に、皇族と一緒に過ごす時間もあったが、若い世代はそれがない。
堅苦しい集まりと思うだけじゃないかな」(元皇族の賀陽宗徳氏、81)との声も聴かれる。

皇太子ご夫妻「公務より愛子さま」の衝撃

テーミス2011年4月号
「雅子さま、子離れを」の声が
皇太子さまに向けられた「皇位継承」の不安
公務よりも“私事優先”のスタンスに「いかがなものか」というバッシングが
■音楽会で“インフルエンザ”に
愛子さまの通学問題を理由に昨年3月から同伴登校が1年間続けられていて、
その間の国内公務はごく稀。こんな状態に皇室関係者からも「いかがなものか」という
バッシングが起こっていたという背景あり。
2月23日の皇太子の誕生日会見の発言((同伴通学含めて)雅子はよく頑張っている。
だか公務などの活動が限られたものとならざるを得ない。
国民はこの状況を理解した上で、暖かく見守ってほしい。)
雅子さんが療養に入ってもう8年、強烈な“私事優先”メッセージに国民が違和感を覚えても仕方がない(編集部)
学習院初等科内では、皇太子が愛子さまに注ぐ深い愛情が評判
2月18日、学習院初等科で「小さな小さな音楽会」が保護者参観の下開催、
皇太子夫妻も参観(雅子さまと愛子さまは2時間目に登校、皇太子は3時間目直前に到着)
当日、皇太子は笑顔で雅子さまと校内を歩いていた。
平日だったので父親の参観は極端に少なく、皇太子はとても目立った。
在校生の父親の中でも、とりわけ“ご熱心なお父さま”と評判(学習院初等科関係者)
この音楽会のあと、愛子さまのクラスはインフルエンザのため急遽午前授業となり、
24日まで学級閉鎖。皇太子も27日にインフルエンザ発症のため28日の公務とりやめ。

週刊朝日2011年8月12日号
愛子さま“付き添い”も担われて 皇太子さまの「過密スケジュール」
7月26日昼過ぎ、東京駅。被災者のお見舞いに発つ皇太子夫妻が現れると歓声が
「雅子様がゆっくり歩きながら方々へ手を振る大サービス。
ご静養に出掛ける際は警備陣もピリピリするが、今日はいい写真を撮ってと大らか。
雅子様は一目で体調がいいとわかるほど晴れ晴れ」雅子様ファン歴10年超の“追っかけオバサン”
夫妻がそろって被災地に入るのは2回目、仮設住宅への訪問は皇族で初
「新幹線で1時半に郡山着。被災状況説明を1時間受け、2時間かけて
徒歩2分の距離にある避難所と仮設住宅を見舞い6時前帰京」皇室担当記者
「皇太子は雅子様と一緒の方が被災者が喜ぶとご存じ。
雅子様の体調を考慮して東宮職が日程を決めたと思う」松崎敏弥
7月22日、皇太子は終業式のため朝8時に愛子様と徒歩で登校
7月24日、愛子様と日生劇場に出掛け、お友達親子と「三銃士」鑑賞
「愛子様は管弦楽部へ入部、皇太子は早朝・土曜の練習に6回付き添い、
愛子様がチェロを弾くのを見守った」学習院初等科関係者
雅子妃が早朝練習に付き添ったのは、皇太子訪独中の6月22日のみ

テーミス2011年10月号
■那須では夜11時近くまで食事
「愛子さまをできる限り一人にしたくない」。
皇太子ご夫妻から伝わる愛子さまへの強烈な愛情はわかるが、「公務は片手間」(皇室関係者)の印象はぬぐえない。
皇太子さまが付き添いは早朝なので公務への影響は少ないが、いかがなものかという声は多い。
公務の減少につながる可能性もある。雅子さまが病気なので、夫妻に新たな公務を依頼するのは難しい。
「愛子さまのことが優先だから…」と主催者側が気を遣う。
皇太子さまが付き添った2学期最初の3日間、愛子さまは遅刻せずに登校
9月6日午前8時前に登校(始業式)
7日と9日は午前7時半前(管弦楽部朝練参加)
しかし、雅子さまが付き添った9月8日は2時間目から登校。
愛子さまの通学問題は改善どころか、さらに深刻化しているといっていい。
3週間の静養を終えて帰京した9月1日夕方、東京駅で皇太子ご一家を撮影しようと
カメラを構えていた一般客に、宮内庁関係者のきつい口調でこのように注意。
「三殿下ともお疲れなので、写真は撮らないでください!」
一般客「さんざん遊んでいたのに『お疲れ』なんて、よくわからない」
■那須ご静養のハードスケジュール
8月11日 皇太子ご一家、那須御用邸到着
8月19日 愛子さまのお友達が御用邸近くの会員制リゾートホテル到着
その夜皇太子ご一家とお友達一家は、高級会員制リゾートホテル
「二期倶楽部の個室で夜11時過ぎまで特別コースを楽しむ。
8月21日 りんどう湖ファミリー牧場で遊覧船を貸し切っての花火鑑賞
8月22日 午前、友達が宿泊しているホテルのプールで泳ぐ。
夕方、那須ハイランドパークでレゴスタジアム見学の後、夕食へ。
「アジアンオールドバザール」でエスニック料理レストランを借り切って、夜11時頃まで
8月23日 午前 りんどう湖ファミリー牧場
その後ホテルでスイミング&ランチ 夕方再びファミリー牧場
■皇太子さまがバスを見送って
8月23日夜に那須御用邸に入られた秋篠宮さまと眞子さまとは会わずじまい
小和田家との親密さは変わらず
(宮内庁関係者の話)
小和田優美子さんの姿が御用邸近くのホテルで目撃されている。
皇太子ご夫妻と、雅子さまの妹含めて小和田家の人たちで食事会もあったようだ。
宮内庁内でも『皇太子さまはマスオさん状態だ』という声が囁かれているほど。
9月14日、皇太子さまは校外学習に参加する愛子さまを見送り。
早朝から、バスが見えなくなるまで手を振っていた。
雅子さまも別の車でバスを追いかけ、愛子さまの足跡をいちいちたどる。
“山ガール”のいでたちで別行動し、どちらが“付き添い”が必要なのかわからないほど。
(学習院初等科関係者の話)
通学問題が生じて以来、東宮側からご相談はほとんどない。
学校側は雅子さまが付き添うことを受け入れるしかない。
意思を一歩的に伝えられる。校外学習も例外ではない。
宮内庁も皇室記者もこうした現実を踏まえて、皇太子ご夫妻への“進言”をすべきときではないのか。

テーミス2011年11月号
学習院もお手上げ状態だが 皇太子ご夫妻「公務より愛子さま」の衝撃
皇太子ご夫妻は愛子さまの通学の付き添いで手一杯
園遊会
皇太子さまは午前中の1〜4時間目までしっかり授業参観
園遊会が始まる一時間前に東宮御所に戻った。平日の父親の授業参観は珍しい。
運動会では父兄に撮影に関する注意書きが配られた。
雅子さまの二泊三日校外学習付き添い。山中湖で行われた校外学習は雅子さまが愛子さまの後をなぞられた。
付き添いは愛子様のご要望。
学習院の東園常務理事の話。昨年のかまぼこ工場見学の時も「妃殿下が児童のバスに同乗するのは可能か」
と打診があった。その時も打診を断ったのに、今回の校外学習でも同様の打診があった。
警備のことや他の児童への影響を考えて、妃殿下の付き添いを止められなかった東宮職の対応に首を傾げる。
山下晋司氏
雅子さまは自分が外出すれば多くの人が動いたり、マスコミが騒いだりするのを十分わかっているはず。
何かに挑戦しているように見える。
園遊会や被災地を差し置いて愛子さまにつきっきりの皇太子ご夫妻の言動に国民はとまどいを隠せない。
これでは「本当に天皇皇后にふさわしいのか」との疑問も出てくる

女性セブン2011年12月8日号
緊迫の天皇家/もはやご名代ではすまされない―
皇太子さま求められる決意
11月18日。午後12時半を回った頃雅子さまが学習院初等科に到着。大きなマスク姿。
1時間ほど滞在後、一人で東宮御所へ。
どうやらお昼の時間だけでも愛子さまと過ごすために学校へ来た模様。
雅子さまのお昼登校はマスコミ各社は把握済み。
この日、皇太子さまが陛下に公務の報告に行く予定だったため、
愛子さまの付き添いが出来るのであればこの日は陛下のお見舞いにも行かれるはずとマスコミは注目。
東大龍岡門前には夕方5時過ぎ報道陣が集まり始め、その数30人ほど。
時間の経過とともに騒然となるも、病院に来たのは皇太子さまおひとり。
「まだ一度もお見舞いに行かれていない雅子さまが、
学校には行けて病院には行けないという事実には違和感を覚えずにはいられなかった」(皇室記者)
宮中からもこの日の皇太子ご夫妻の行動を巡って不満の声があがっているという。
「お見舞いに行かれないのであれば同じ日になぜ学校という私的な用事での外出をされたのか。
これでは雅子さまが陛下に会われたくないということを世に知らせているようなもの。
それを許されているとしたら皇太子さまに疑問を抱く人も少なくない」(宮内庁関係者)

雅子さまは国賓であるブータン国王夫妻を歓迎する行事全て欠席。
この事を知ってか、陛下は皇太子に「“雅子妃の体調には気をつけるように”という旨のことをおっしゃられたそうだ。
心配されての言葉なのか、自己管理をしっかりしなさいというニュアンスなのかは分かりませんが…。
これに対し、皇太子さまは頭を下げて陛下に申し訳ない気持ちを表されたそうです」(皇室関係者)
陛下が発病されてから皇太子さまが務めた公務は約2週間で20件(11/21現在)。
これに皇太子さま自身の公務もあるため、これまで経験したことのない多忙な日々。
とはいえ、このハードスケジュールはご高齢の両陛下が当然のように果たされてきたもので、
つまり天皇という立場にならえるかたはこのお役目を務めなければならない。
「陛下はご自身のお体が許す限り国民のために国民のために公務を務めたいという気持ちは
退院されてからもお変わりにならないだろうが、今回はしっかりとお休みになることが必要。
そのためには皇太子さまが“名代”や“代行”という気持ちではなく、
全て自分が果たすくらいの覚悟が求められているのかもしれない」(皇室ジャーナリスト・神田氏)
「11月10日に皇太子さまが一人で陛下を見舞われた際、
陛下は皇太子に“頼みましたよ”とその思いを託されたと言われています」(前出・皇室記者)

そんな中で一部では皇太子さまへの懸念の声があがっている。
きっかけはお召し列車の中から写真を撮りながらのお手振りだったと週刊文春も報じており、
「ご名代という立場でこのような行動を取られてしまうとこれまで両陛下が守られてきた
“国民とともに、国民のために”という思いが色褪せてしまう気がしてならない」(前出・宮内庁関係者)
皇太子さまには陛下の代わりとなる上でふたつの課題が突きつけられている。
まずは雅子さまと愛子さまの問題。もう一つは秋篠宮家との関係。

「これまで国民は天皇皇后のお二人は常にご一緒であると脳裏に焼きつけていた。
しかしこれだけ長い間回復を待っても雅子さま復帰のめどは立っていない。
そうなると否が応でも皇太子さまは今後一人ででもお役目を果たして行かなければならない。
外国へも地方へも一人で行かれて国民に“将来、天皇は一人でも大丈夫”と示すことも
必要な時期にきているのかも」(皇室ジャーナリスト・橋本氏)
そうなると、これまで雅子さまが愛子さまに同伴できない時は皇太子さまが付き添っていたが、
「陛下の代わりとなられる以上、私的行為の時間は諦めていただかなければならない」(神田氏)

悠仁さまの着袴の儀のお祝いの夕食会も、愛子さまが入院していたとはいえ皇太子ご一家は欠席。
しかしもともとこの日は葉山御用邸での静養が計画されており、
皇太子ご一家は最初から食事会に参加する予定がなかったことになる。
眞子さまの成人を祝う夕食会にも皇太子ご一家は参加しなかった。
両家の微妙な関係を露呈するかのような相次ぐ出来事に一部の宮内庁関係者からは嘆きの声が。
両家の溝を生んだ最大の原因は皇位継承問題といえる。
「皇位継承順位第3位の悠仁さまが、継承権を持たない愛子さまと金銭面、人員面、
あまりに待遇が違うことに秋篠宮家としては複雑な思いがおありなのでしょうか」(別の宮内庁関係者)
また秋篠宮家としては両陛下のお気持ちに沿われてご公務に邁進されてきたという思いが強いと思われる。
震災後、両陛下が那須御用邸のお風呂を被災者に開放されたとき、
紀子さま、眞子さま、佳子さまは宮内庁職員とともに被災者に配るタオルの袋詰めを手伝われ、
被災地訪問も両陛下が行かれていない地域にも足を運び被災者を励まされたのは秋篠宮ご夫妻。
「もちろん秋篠宮ご夫妻としては皇太子ご夫妻に将来の天皇皇后としてお役目を果たしてほしいという思いが
あるでしょう。しかし現状でそれは厳しい状況。そうなるとご自分たちが何とかしなければという思いを強くされ、
ますます両家の溝は深くなっていってしまう気がします」(前出・宮内庁関係者)
「いま皇太子さまを支えることが出来るのは秋篠宮ご一家だけ。だからこそ皇太子さまには
自分から歩み寄られて兄弟で力を合わせる覚悟をしていただければと思う」(神田氏)

宮中晩餐会では、名代を務めるはずだった雅子さまが前日になって欠席を発表すると、
美智子さまは急きょ 11月1日、18日の2回、ブータン国王夫妻と面会。
「美智子さまは雅子さまの欠席を知って、“それではブータン国に失礼になってしまう”と
考えられたのでしょう。歓迎行事とは別に面会の機会を作られました」(前出・宮内庁関係者)
つまり美智子さまは皇太子夫妻に対して、天皇皇后という立場は自己都合で休んではならない
とても重い責任がある立場なのだということに気づいてほしいという気持ちを込めて
あのような行動を取られたのはないだろうか。今こそ皇太子さまには未来の天皇としての自覚を明確に示し、
天皇皇后両陛下が築きあげてこられた国民とともに歩む皇室を継承する決意を
明らかにしていただくことが求められているのではないだろうか


週刊女性2011年12月13日号
■父のご不例、妻のご病気、娘のイジメ、弟との不和…
孤独/皇太子さまが「かわいそう」
「ある東宮職員のいうには、最近皇太子殿下はあまりの多忙とお疲れからか不機嫌な日もあったそうです。
人やモノにあたるようなことはないが、殿下の機嫌がよくないと
東宮全体が暗い感じになってしまう」(ある宮内庁関係者)
皇太子さまは連日眠りも浅かった様子。(宮内庁担当記者)
雅子さまは結局陛下のお見舞いには行かず、
「次代の皇后としてまず第一に陛下のお見舞いをしていただきたかった」(渡辺みどり)
皇太子さまにとって愛子さまの不規則登校も悩みの種となっているに違いない。
「当初は雅子妃が全て付き添っていたが、今夏ごろからは皇太子さまが部活動の朝練や
1時間目からの授業の付き添いをはじめ、後で雅子妃と交代されることもある」(初等科関係者)
9月の校外学習出発時
「皇太子さまが愛子さまを見送りにいらっしゃいましたが、ご自分からママたちの輪の中にお入りになり、
“よろしくお願いします”と挨拶されていたのには驚いた」(学習院関係者)
「今上陛下が皇太子時代にももちろん挨拶はされていたが、
威厳があったというか自ら進んで溶けこむようなことはされなかった。
特に愛子さまの不登校問題以降、周囲に迷惑をかけていると
申し訳なさそうに気を遣われているのは皇太子さまのようです」(同・前)
園遊会があった10月23日にも皇太子さまは朝のホームルームから4時間目まで全て授業参観してから園遊会へ。
雅子さまは授業参観にも園遊会にも欠席。
11月26日の初等科祭でも皇太子さまは午前中愛子さまに付き添い、昼前に雅子さまが合流。
「愛子さま問題以前は“夫婦で協力しあっている”
“皇太子さまは育児に積極的に参加”という声が保護者の間では大半だった。
しかし愛子さま問題から雅子妃の“気まま”と取れる行動が目立ち始め、
皇太子さまの行動が“雅子妃の『ご名代』ばかりされている”
“恐妻家なのでは”と一部で言われ始めた」(前出・学習院関係者)
皇太子さまなりに妻子のサポートに努めているはずなのに、周囲からは浮き立ち“孤独感”は募るばかり。
更に弟宮である秋篠宮家との距離も生まれ始めているという。
「もし雅子妃がお元気ならさまざまな場面で相談に乗られたり進言されたりしたのではないかと思う」
と宮内庁関係者が現在の皇太子さまには相談相手がいないと嘆く。
「人格否定発言前後から相談できる人を探していたそうだが最近はもう諦めてしまったのかも。
相談した内容が外部に漏れることを心配されたのだと思う。本来なら東宮大夫や東宮侍従長が
その役目を果たすべきだが、最近は数年で異動してしまう」(前出・宮内庁関係者)
皇太子さまと頻繁に連絡を取り、年の離れた相談相手として月刊誌に手記を発表したこともある人物に話しを聞いたが、
「最近は連絡をとっていないのでお話を出来ることはない」というのみ。

硫黄島の高松宮殿下

明日への選択平成10年2月号

『高松宮日記』全八巻の完結を前に、『This is 読売』一、二月号に連載された
高松宮妃殿下と作家の阿川弘之氏の対談の中に、初めて紹介されるエピソードがある。
昭和四十六年三月、高松宮殿下が硫黄島戦跡をご訪問になった時のことである。

硫黄島は大東亜戦争末期、米軍七万五千の猛攻を、二万余の日本軍将兵が祖国防衛のため、
一ヶ月以上に渡って奮戦し玉砕(全滅)した島である。
戦後、昭和四十三年まで米国の管理下にあったため、
殿下のご訪問当時は、まだ未整理の洞窟があり、遺骨はそのまま散乱していたという。
殿下が先ずお訪ねになったのは、米軍の火焔放射器でやられ、ブルドーザーで生き埋めにされかけ、
苦しみもがきながら脱出を試みた兵隊たちが、折れ重なって死んだ跡地だった。
「前もっての説明何もなしで洞窟の前へ立たれた殿下は、ハッと息を呑む気配をお見せになり、
やがて地べたに正座し、両手をついて首を垂れて、暝想状態に入られた。
一言もおっしゃらないから、何を念じていらっしゃるのか祈っていらっしゃるのか分からないけれど、
随行の者みな、電気に打たれたような気分だったと聞いております。
大分長い時間そうしていらして、やっと立ち上がられた」

次にお訪ねになったのは、遺骨の整理が既に済んでいる壕だった。
とはいえ、拾い尽せなかった骨もあり、至る所に散らばったままの骨片もあった。
仕方なしに海上自衛隊駐屯部隊の隊員も、ふだんは靴で遺骨を踏んで歩くようになってしまっていたという。 
「ところが、殿下はためらわれた。そうして、つと靴を脱ぎ靴下も脱ぎ、素足になって、
骨片の散らばる洞窟内へ入って行かれた。
私も知ってますが、硫黄島という名前の通り、あの島の壕の中に地面から硫黄のガスが噴き出しているんです。
そこを素足で視察した人は、後にも先にも高松宮様お一人だそうです」

東宮家より目立たないようにしろ

週刊文春2011年9月1日号
秋篠宮家は両陛下と密にコミュケーションを取っているが(皇太子一家とは)正直"距離"があるように思う。
タオル詰めを紀子妃殿下たちがお手伝いされたが我々は複雑だった。
職員が連携できていたら手伝えた。(東宮職関係者)

女性自身2011年11月22日号
東日本大震災後、秋篠宮ご夫妻は勢力的に全国の避難所や被災地を回られた。
その際、ある東宮職員が「あちらの動静が分からない。全く連絡もないし東宮職としても困っている」と嘆く。
皇族方の被災地ご訪問は原則的に同じ地域には訪れないようにされてきた。
東宮職員は“秋篠宮ご夫妻のご予定が分からないと皇太子夫妻の被災地ご訪問計画も立てようがない”と困惑。

被災地訪問の順序にはこだわらないが(楽な日程を組んで渋々行くが)
お見舞いの順序には文句をつける

皇族は「皇室経済法」を肝に銘ずるべし

テーミス2008年8月号

皇族費に年間2億8千万円
皇族は「皇室経済法」を肝に銘ずるべし

■黒田清子さんに1億5千万円
皇室経済法第3条には「予算に計上する皇室の経費は、
これを内廷費、宮廷費及び皇族費とする」と三つにはっきりと示されている。
まず、内廷費とはいわゆる“お手元金”といわれる天皇家の生活費である。
所得税などの税金はかからないので、サラリーマンの給料にたとえれば“手取り”にあたる。
年間予算は3億2千400万円に固定されている。
その内訳は私的使用人や賢所に仕える内廷職員の給料、食費、両陛下や皇太子ご夫妻のご静養にかかる旅費など。
その他、災害見舞い金や社会事業奨励金なども含まれる。
宮廷費は国賓を招いての宮中晩餐会、著名人を招いての園遊会、皇居など皇室関連施設の維持、
ご公務、外国訪問などにかかる費用で、公金として宮内庁が経理する。
'08年度は61億7千25万円の予算が計上されている。
皇族費は天皇家以外の皇族の“お手元金”で、宮家の皇族の生活費である。

皇室経済法第6条にはこうある。
「皇族費は、皇族としての品位保持の資に充てるために、年額により毎年支出するもの
及び皇族が初めて独立の生計を営む際に一時金額により支出するもの並びに
皇族であった者としての品位保持の資に充てるために、
皇族が皇室典範の定めるところによりその身分を離れる際に一時金額により支出するものとする。
その年額又は一時金額は、別に法律で定める定額に基づいて、これを算出する」
つまり、皇族には「品位保持」が必要であり、その資に充てるために皇族費が支出されているということだ。
逆にいえば皇族として「品位保持」がなければ、皇族費を受ける資格はない。

現在、皇族費が支出されているのは秋篠宮、常陸宮、三笠宮、桂宮、高円宮といった各宮家と寛仁親王家である。
当主1人あたり年額は3千50万円を基礎として、妃殿下はその半額の1千525万円、
成年皇族には10分の3の915万円、未成年皇族には10分の1の305万円が毎年支払われている。
'08年度の皇族費の合計は、2億7千984万円だ。
承子さまの留学費用も、この皇族費から支出されたわけだが、その使途について皇室経済法にある
「皇族としての品位保持の資に充てる」と定められていることからすると、
有効に使われたかどうかはきわめて疑問である。
7月22日には、高円宮家の二女・典子さまがご成年を迎えている。
高円宮妃・久子さまは現在当主になり高円宮さまに支払われていたのと同じ定額の3千50万円が支払われている。
三女・絢子さま(17歳)を含めて高円宮家だけでも、
5千万円以上の皇族費(つまり税金)が支出されることになる。
また、皇族が結婚して宮家を創設する場合や皇室を離脱する場合にも、一時金として皇族費が支給されている
(皇室経済法6条)。黒田清子さんが天皇家から離脱したときには、1億5千250万円が支払われた。
かつては、三笠宮家の二女・容子さんが、フランスのソルボンヌ大学に留学中、
派手な遊びや男性との交際を広げたために「奔放なプリンセス」といわれたことがあった。
容子さんはその後、裏千家の若宗匠・千政之氏('03年に16代家元・千宗室を襲名)と結婚。
現在は2男1女の母である。

■皇太子一家と秋篠宮家の格差
結婚当時を知る皇室関係者がいう。
「容子さんは昭和天皇の弟・三笠宮崇仁親王の二女。
兄に寛仁親王、桂宮宜仁親王、弟に亡くなった高円宮憲仁親王、姉に日赤社長の近衛氏に嫁いだ方がいる。
彼女は学習院大学法学部に進むが、途中でスイスの全寮制の学校へ、その後フランスへ留学した。
パリでは酒とタバコを覚え、ジゴロに引っ掛かり、やがて日本にまで追いかけてきた恋人までいた。
その自由奔放ぶりについては、ヒゲの寛仁さまも脱帽したほどだ。
容子さんの縁談はあらゆるルートを使って探し回ったが、結局、彼女は30歳過ぎまで独身。
やっと決まったのが、5歳年下の政之氏だった。仲を取りもったある経済人の話では、
結婚が決まったとき、三笠宮さまが『よく貰って下さる方がいた』と喜んだというのだが……」
裏千家は千利休に連なる茶道諸流派のなかでも最大勢力を誇る。
いかに「奔放なプリンセス」と揶揄されようが、裏千家にとって
ロイヤルファミリーの血脈を手に入れるメリットは大きかった。
しかし、結婚当初、容子さんの“浪費癖”は相当なもので、裏千家は財産の処分まで考えたという。

翻って皇室財政について見直しの声もある。
天皇家が使える内廷費が3億2千400万円であるのに対し、秋篠宮家の皇族費は5千490万円だ。
皇位継承権は皇太子さま、秋篠宮さま、悠仁さまの順だが、天皇家と秋篠宮家の間には著しい格差がある。
仕える宮内庁職員数も皇太子一家が51人であるのに対し、秋篠宮家は15人である。
皇太子ご一家がお住まいの東宮御所は、この夏から2年で約10億円をかけて大規模な改修が行われる。
敷地面積が秋篠宮邸の約4倍あるうえに、東宮御所がリニューアルすることによって、
両家の格差はますます広がりそうだ。皇室典範改正にばかり目が行きがちだが、
皇室経済法の改正も視野に入れて、これからの皇室のあり方を根本的に考え直す時期に来ている。

対談 田母神俊雄・中條高コ

歴史通2009年7月号
対談 田母神俊雄・中條高コ
軍人は戦争をしたくない!

田母神
自衛隊は新しい軍に生まれ変わったんだから、旧日本軍とは違うんだとわれわれも教えられました。
旧軍が悪かったという前提なわけですね。そんなことはない。
旧日本軍は国際的にいっても非常に正しい軍だったんです。
それをおとしめるために、そういう言い方をするわけです。
自衛隊も旧軍も一緒ですよ。いわば日本的な武士道の精神とか自己犠牲の精神とか、基本的には同じなんです。
ところが、自衛隊に入ってくる人たちはみんな戦後の反日教育を受けて入ってくるから、
なんとかしなければいかんと思って、自衛隊員に歴史教育を始めた結果、クビになった(笑)。

中條
いい例が1900年の義和団事件だ。清の義和団が反乱を起こして北京の大使館や公使館が襲われ、
その鎮圧のために八ヵ国の連合軍が派遣された。リーダー国まイギリスの要請で、地理的に中国に近い日本が
大量の軍隊を派遣した。その時北京にいて籠城戦を行った連合国の実質的な指揮官が柴五郎だった。
会津の出身だ。柴大佐の活躍は各国の絶賛を浴びた。しかも、軍律きびしく礼儀正しい日本軍は、
中国の市民たちからの評価も高かったから、イギリスは、これから手を結ぶべきは日本国だと感じ入った。
その二年後な日英同盟が結ばれたのは、これが大きな理由ですよ。

田母神
しかも、いちばん活躍した日本が、一番少ない賠償金で引き揚げた。
翌年、義和団事件の最終議定書が十一ヵ国で結ばれて、そこで日本は正式に北京に軍を置くことを承認された。
それから36年後の1937年7月7日に盧溝橋事件が起こるわけです。
中国が正式に承認した軍だから、日米安保条約にもとづいて日本にいるアメリカ軍と同じ扱いなんですね、日本軍は。
ところが、夜間演習をやっているところに実弾が飛んできた。
それで周囲の中国軍に善処を申し入れたけれども、繰り返し繰り返し実弾が飛んでくる。
ずっとがまんしていた日本も、7月8日の朝になってようやく発砲した。
で、4日後に現地停戦協定が一度書面で結ばれる。これで大丈夫かなと思ったら、
そのあとも日本軍に対するテロ行為が続き、7月29日になって通州事件というのが起こるんです。
この通州事件で、日本人二百十数名が中国人に非常に残虐な殺され方をした。
目玉をくりぬかれるとか、日本人には考えられないような残虐さです。
それでも日本政府は中国との戦争を避けようとして停戦協議を続ける。
ところが、8月13日になって上海に飛び火して第二次上海事変。
蒋介石国民党が地上から空中から日本人居留区に対して大規模攻撃を行う。
それで人が大勢死んで、日本政府はやっと戦争の決心をするんです。
一ヵ月半、一所懸命抑えていたのが、どんどん引きずりこまれていくんですね。
そこに毛沢東共産党のゲリラが加わる。
蒋介石国民党と日本軍を戦わせる、それが共産党の背後にいるコミンテルンの狙いだから、
日本がなんぼやめようとしても向こうがどんどん仕掛けて来て戦争に引きずりこまれた。
これのどこが侵略ですか。

田母神
シベリア出兵のあとにニコライエフスク事件が起こりましたね。
あれもロシア人、中国人、朝鮮人の共産パルチザンの手によって
日本人七千人が無差別虐殺された。これも学校では教えていない。

中條
そうそう、尼港事件ともいう。犠牲者の半分は民間人だった。
だから戦後の歴史教育の欠陥は、その時代に起きたことを正しく教えていないことだ。
事実を明らかにしなければ自分の考えも出てこない。そもそも「歴史を教えるな」と言ったのは占領軍だ。
私はこの目で見、この耳で聞いたんだから間違いない。

田母神
敗戦の年、昭和20年の12月8日から、アメリカがすべての新聞に「太平洋戦争史」という歴史記事を
一週間にわたって連載させたんですよ。
これが、正義の民主主義国家アメリカ、極悪非道な独裁国家日本という構図の、
アメリカから見た一方的な歴史なんです。
これを『太平洋戦争史』という一冊の本にして、十万部刷って日本全国に配った。
「これで歴史教育をやれ」というわけです。日本が侵略国家だという教育の始まりですよ。
「いや、俺はこんな教育はできない」というような先生は、みんな公職追放されていたわけです。

中條
全国紙はもちろん、たとえば長野だったら八割のシェアを誇る信濃毎日新聞はじめ、全国の主要地方紙に載せた。
NHKまで動員して、どんな山の奥にいても、
「おまえの国のほうが悪かった、俺の国が正しかった」と日本国民の頭に浸みこませた。

田母神
昭和20年の9月から、徹底的な検閲も行われた。新聞・雑誌社、ラジオ放送局に
原稿を二部持って来させて徹底的に直すわけですよ。
そして検閲の痕跡が残らないように直して再提出させてからOKが出た。
しかも、検閲を受けたことをしゃべったら発行・放送禁止処分にさせられるから、国民にはわかりません。
検閲をやるのは誰かといったら、GHQの下につくられた6500名の民間検閲組織のアルバイト、
うち5100名の日本人です。英語がしゃべれる、書けるこの人たちが、大変な給料でやとわれた。
東条英機総理大臣の全資産が15万円だった敗戦直後の時代に、この人たちは年収3万円でやとわれた。
その給料は誰が払っているか。日本国民の税金です。
アメリカも悪いことをした、日本はいいこともしたというような記事を見逃したらクビ。まさに言論弾圧ですよ。
これらの人たちも、生活のためにやむをえず、自分の国を売るような仕事に携わってしまったわけだから、
そういううしろめたさもあって、その後もほとんどしゃべっていない。
(中略)

中條
京都大学の滝川幸辰とか、左翼の人たちをわが教育界に戻した。彼らは弟子も一緒に連れてくるわけだ。
だからその後の東大や京大という、要するに国家リーダーの養成学校はほとんど左翼がかった人たちに占領された。
(中略)

田母神
焚書もありましたね。かつて白人国家が300年、400年にわたって
有色人種の国家を侵略しつくしたことを書いた本がいっぱいあった。
それが占領時代に全部焼かれてしまった。一方、日本が朝鮮半島、台湾、満州で
どういうことをしたかを書いた本もたくさんありました。
日本が何をしたかといえば、まず学校をたくさん作っていますよね。
それから道路を作り、橋を作って鉄道を敷いて、
工場、発電所を作って、社会のインフラをどんどん整備しているんですね。
日本が支配していた地域の住民がどんな生活をしているか、
それを普通に読めば、侵略なんかではないということが、白人国家がやったことと比べて読めばすぐわかる。
これは占領軍にとっては都合が悪いということで、そういう本が、7900種類くらい、
いま一年に出版されるくらいの本がみな焼かれたというんですね。
これは歴史の抹殺です。

中條
それはまちがいのない事実だ。しかし、それは日本民族がいかにすぐれていたかという証明でもあるよ。
恐ろしくてしようがないわけだ、この民族が頭をまたげてくるのが。
占領政策は徹底破壊活動であったことはまちがいないんですよ。

田母神
人間というのは、特別な教育とか思想を注入されない限りは
自然に自分の生まれたところはいいところだと思うわけですよ。
ところが学校で「この国は悪い国だ」と教えるから、子供たちがおかしくなってしまう。
愛国心うんぬんというよりも、まずそれを改めればいい。

中條
そのとおり。まともに教えていないから、軍人が勝手に戦争を起こし、
靖国神社に祀られて褒め称えられて―と、そう思っているんだよ。
バカこけって言うんだ。北の独裁者や共産圏を除いては、
法治国家では国にとって最も大事な戦争マターは国会が決めるんだ。

田母神
だからね、関東軍の策謀によってどんどん戦争に引きずり込まれたなんてことはありえないんですよ。
中央政府がやると決めなければ、末端の軍隊が戦争を続けられるわけがない。これも戦後教えた嘘なんですよ。
軍人にしゃべらせて行動させると戦争になるなんて、よく言いますよ。南京が陥落したあと、1937年12月、
あのあと陸軍参謀本部も海軍軍令部もね、近衛首相にこれでシナとの戦争はやめてくれと頼んだんですね。
中国の言い分はぜんぶのんでやめようと。
ところがここで戦争をやめたらシナにバカにされるとか、
内閣がつぶれるからぜひやらせてくれと主張したのは近衛首相です。
軍人じゃない。
(中略)
軍人というのは意外と戦争に慎重なんですよ。だって命がかかっているんだから。
本音を言えば、軍人は戦争をしたくないんです。

中條
昭和16年12月8日、この国家の政治体制はどうであったか。立憲君主国ですよ。憲法のもとに立法して運営する
法治国家なんだから。したがって、まぎれもなく国会が開戦を決定した。
軍人は、その決定にしたがって戦争せざるをえない。悲しい戦争引受人なんですよ。
だから、お国のために死んだ軍人にはね栄光の座を与えなければいけない。

田母神
「戦前の日本はろくでもない国で、民主主義は戦後アメリカに教えてもらった」と教えているわけですよね。
じつは米海軍の厚木基地の入り口に、日本人が寄贈したマッカーサーの銅像が建っているんです。
そこに「日本民主主義の親、マッカーサー」と書いてある。
徹底的な言論弾圧をして、歴史の抹殺をしたアメリカが、本当に民主主義なのか。
アメリカで黒人が選挙権を得たのは1964年ですよ。東京オリンピックが終わってからなんです。
私が昭和40年代後半に初めてアメリカへ行ったときには、
田舎ではトイレが「ホワイト」と「アザーズ」にまだ分かれていた。
日本が戦ったのは、そういう人種差別が徹底していて、
白人以外は人間じゃないと思われていた時代だったということを
理解しないと、なんのために戦ったのかがわからない。
日本はとにかくアメリカの言うとおりにしていれば戦争もせず、あんなに人が死なずに、
いまの平和な世がきたと、石破元防衛大臣なんか言うわけですよ。
そんなうまくいくわけがない。戦わなかったらどうなったか。
植民地になっていましたよ。強い者が弱いものに譲るなんてことは歴史的に見てありえないんです。
まして人種差別が徹底しているときに白人国家が有色人種国家に交渉で譲るなんてことは絶対にありません。
戦ったからこそ人種平等の時代がきたんです。

中條
1904年、5年の日露戦争ね、あれは普通の戦争じゃないんだよ。
白色人種と有色人種の最終章の戦だという歴史的意義を伝えなければ。
日露戦争で日本が負けていたら、ほぼ500年かけた白色人種たちの植民地化は100%完成するはずたった。
それなのに、ああそれなのに、黄色いサルと揶揄されていた極東の日本が勝った。この意義は実に大きい。
戦争があってはなりません、これは何回でも言う。
しかし、日本が立ち上がって、勝ったという意義を忘れてはならない。

田母神
日本はもともと侵略される側にいたんですね。その日本がずっと首をしめられて、
これ以上しめられたら死んでしまうというときにボンと一発殴って立ち上がった。
これが真珠湾攻撃でね、それで日米戦争になった。緒戦では日本がフィリピンで
アメリカをやっつけ、ビルマとかインドでイギリスをやっつけ、
インドネシアでオランダをやっつけて白人国家を次々に降していったわけですよね。
これを見ていた東南アジアの人たちが「おれたちもやれる」と目覚めたことが戦後の独立や人権平等実現を早めた。
1955年(昭和30年)に、インドネシアのスカルノ大統領の呼びかけで29ヵ国が参加して
戦後の第一回アジア・アフリカ会議が開かれた。
中国も参加して、周恩来とかネールとかナセルとかが出た、国家レベルの国際会議です。
日本は鳩山首相が参加せず、代理として高碕達之助経済企画庁長官(東洋製罐創業者)が出席した。
日本の戦争責任を問われるのかなと、おそるおそる行ってみたら、まったく違っていた。
われわれがいま白人国家と対等な口がきけるのは日本のおかげである、
日本があれだけの犠牲を払って戦ってくれたからこそ、
いまイギリスやオランダの植民地から脱して独立ができたんだ、
人種平等の世界が実現したのは日本のおかけだと。そういうことを彼らが異口同音に言ったというんです。
しかも1943年11月の大東亜共同宣言が大変よかった、あれで戦う目的がよくわかったと。
白人のアジア支配を脱するためにわれわれアジア人が団結して戦うんだということがよく認識できたと言われたわけでね。

中條
ロシアは中東にも行って、トルコを侵略した露土戦争でトルコは敗れた。
だから、トルコには「東郷通り」や「乃木通り」がある。
それほどロシアを倒した日本をトルコは尊敬しているんですよ。

田母神
戦後の間違いは、朝鮮半島でも台湾でも満洲でも、豊かに平和に暮らしていたところへ日本が出て行って、
それを全部ぶちこわしたというふうに教えていることです。これはまったく逆なんですね。
馬賊とか匪賊とか盗賊の頭領みたいなのが群雄割拠して、いつ命が奪われるかわからない、
生活水準も非常に低い状態で暮らしていたのを、日本が開発してあげたおかげで生活が安定して
治安も非常によくなったというのが事実なんです。それをまったく逆に教えられている。

中條
そうそう。これは重大なポイント。五百年間、白人の国々が有色人種の国々を植民地化してきた。
原住民を人間扱いせず奴隷化した。そしてその国の産品をおれのものだと自国に運んだ。
そういうやり方を歴史は「植民地政策」と名づけている。ところが、遅れて近代国家になった日本は、
日露戦争の結果、下関条約で中国人が化外の地と言っていた台湾を手にした。
朝鮮の自主独立を認めさせて大韓帝国ができた。それから日韓併合となった。
そのときの台湾と韓国に対する日本統治を「植民地化政策」と呼ぶならば、中身をよく見比べるべきだ。
現地におけるひとりあたまのインフラの投資に、内地より余計かけているんだから。
それを白人人種の植民地政策と同じように言うなんてのは大間違いだ。

田母神
日韓併合だって、植民地にしたわけじゃないんですね。
朝鮮人にも基本的に日本人と同じ権利を与えようとしたんですから。
朝鮮人も日本の陸軍士官学校を出て、帝国陸軍の中将にだってなれた。これがたとえばインド人が
イギリスの士官学校を出てイギリス軍の将校になれたか。とんでもないという話ですよ。

中條
王室だって残したわけじゃないか。皇后様候補であったお姫様の方子(まさこ)様を差し上げている。
そんな植民地政策がありますかっていうんだ。
(中略)

田母神
最後は韓国の障害児の養護教育に力を尽くされたから、韓国では尊敬される女性のベストファイブに
つねに入っているらしいですよ。方子様は。それに満洲国皇帝、溥儀殿下の弟の溥傑殿下に嫁いだのは
日本の嵯峨侯爵家のご令嬢、浩様。愛新覚羅浩殿下です。こういうことからも、日本人は朝鮮人も満州人も
差別意識なく扱ったことがわかります。五族協和を実現したんですよ。
(中略)

田母神
軍は悪いものだから、できるだけ目立たせず、押さえつけておこうというのが今の日本ですよ。
だから自衛隊が動けるようにならない。拉致被害者だって救えない。

中條
田母神さんの問題てせもわかるように、リーダーたちが文民統制というのをまったく理解していない。
制服組を背広組が抑えるのが文民統制だと思っている(笑)。
(中略)

中條
リーダーは国家にとっての軍の価値を勉強しなおすべきだ。
国民が選ぶ立法府と、行政府のメカニズムこそ文民統制だ。
いまみたいなことをやっていたら軍人はどんどん戦う気をなくしていく。
(中略)

田母神
そういう意味では、戦前の教育がよかったのは、リーダーをつくる教育が徹底していたこと。
自分のためではない、国家、国民、あるいは会社のために頑張る心構えを教えた。次に道徳を教えたこと。
戦後、教育勅語が廃止されたり修身の教科書がなくなったりして道徳教育がなくなってしまった。
そのせいで―日本の道徳教育の根幹には先祖崇拝があったと思うんですが―
こんなことをしたらご先祖様に顔向けが出来ないと思う気持ち、これがもう根こそぎなくなった。

中條
またそういうふうに64年前の占領政策が仕向けた。人権の尊さ、個の尊厳と言われればも表看板は立派だし、
なんら攻撃すべき理由はない。その美辞麗句の裏でそれまで日本が生きてきた文化を弱体化し、破壊したんだ。
ボヤッとしていたらみんな引っかかるわけだよ。個の尊厳なんて立派な価値概念だからね。
(中略)

中條
日本は基本的に恥の文化ですが、そうでないヨーロッパの人たちは、法律をつくって人間の欲望に歯止めを
かけたわけですよ。日本人は法律がなくても秩序を保てる民族だから、占領軍はそれを崩しにかかったわけだ。
自由と言えばとっつきやすいけれど、自由の裏ではそれにともなう同等の義務が要求されるべきなのに、
その心で日本国憲法を読んでごらん、全部自分たちの心地よい主張だけをメインテーマにして、
なすべき義務の項目を薄味にしていった。巧妙きわまりない。
(中略)

中條
ハーグ陸戦法規四十三条、
「占領軍が被占領地に到達した時はよほどの事情なき限りその国の法律を変えてはならない」
という定めはいまも生きているんだよ。
それなのに占領軍は憲法まで変えた。国民はそれすら知らないでしょう。

田母神
完璧な国際法違反ですよ。占領政策で公共の法を変えてはいけない、強制してはいけない。
だから日本は独立した時点で占領政策は無効だと言えば戦前の世界に戻ることができたのに、
国の仕組みが変えられて戻れなくなってしまった。

中條
彼らはいかに巧妙だったか。マッカーサーが幣原喜重郎総理大臣を呼びつけて、
ケーディス大佐が6日間で作った憲法の草案を議会にかけろと言った。
そうすれば、おまえたち国民が一番心配している国体の護持を保障するよと、と。
ぼくはこの目で見ていたよ、この耳で聞いていたよ。
ニュージーランドやオーストラリアが天皇の戦争責任を声高に叫んでいたから、
「見てごらん、ああいうのがいるだろう。おれは総司令官ではあるが、
彼らを100パーセント抑えられるものではないよ。
だが、この憲法を議会にかけさえすればおれがギャラントしてやるよ」と脅した。
もうひとつ、これさえ通せば占領期間を短くしてあげるよとも言った。
それで6年8ヵ月で引き揚げたか、それはわからない。
こういうことすべて国会図書館に資料が残っているんだぜ。

田母神
日本が独立したあとも決められた戦犯の刑期を守ること、とサンフランシスコ講和条約の十一条に書いてある。
これも国際法違反です。講和条約締結後に被占領国を拘束してはいけないということになってるんですから。
その十一条のせいで、独立したのに戦犯がなかなか釈放されない。それで署名運動が起きた。
この署名運動をリードしたのが日本弁護士連合会だ。日弁連が二ヵ月くらいで四千万人の署名を集めて提出した。
当時日本の人口は八千万人足らずだったらしいから、大人はほとんど署名したことになります。つまり、
当時の日本人で「戦犯はけしからん」なんて思っていた人はほとんどいなかったということですよ。
だから国会議員も動き出した。

中條
国会が戦争を始めたんだから当然のことだ。

田母神
国会決議に奔走したのは堤ツルヨという女性議員でした。あの党は昔から女が強かった(笑)。
社会党も、だから当時はまともだったんです。参議院と衆議院で戦犯釈放の国会決議が行われた。
翌年、恩給法と戦傷病者戦没者遺族等援護法という二つの法律が変えられた。
犯罪人には恩給は出ないんだけれども、戦争犯罪人は犯罪人ではありませんということになったんですよ。
すでに処刑されたり死んだりしてしまった人の遺族にも弔慰金を出すことにしたんです。
法律を変え、国の意思としてそうしたんですよ。大橋武夫法務総裁が「戦犯と言われる人たちは
国内法では犯罪人じゃないんです」と国会で答弁している。そういう経緯をまったく無視して、
A級戦犯が祀られている靖国を参拝するのはいかがなものかとかいまの政治家は言っているわけです。

中條
近隣諸国の声に怯えているだけの話だと思うんだよ。それと、マスコミにたたかれて支持率が落ちるのを恐れている。
(後略)

児戯に等しい小和田家の振る舞い

会員誌「選択」2014年1月号
東宮 皇室危うくする雅子妃

児戯に等しい小和田家の振る舞い
東宮は独立した存在であり、天皇と言えども口出ししにくい。
親子であると同時に世代を担うライバルのような面もあり、異なる考えがあるのも自然だろう。
しかし最大の課題は天皇の務めや歴代の心構えの継承である。
昭和時代は皇太子一家が毎週必ず皇居を訪ね夕食を共にする「定例参内」があったが、絶えて久しい。
12年の天皇心臓手術時、秋篠宮夫妻から病状や手術の見通しを尋ねる連絡が何度もあったが東宮からはなし。
東宮御所内部も改修のたびに天皇皇后が住んでいた頃の内装はどんどん変えられた。
改修工事で東宮が皇族共有殿東邸に一時引っ越した頃、
天皇が長年愛用した古い机が粗大ゴミとして捨てられそうになっているのに
秋篠宮家関係者が気付き、密かに宮邸に引き取ったという。
親子兄弟の距離感を物語る。
04年の皇太子の「人格否定」発言の際には、天皇が驚いて説明を求めたが、
皇太子は「世継ぎを求められるばかりで外国訪問させてもらえなかった」
「自由に外出もできない」などの例を挙げたという。
一方で、人格否定したのは天皇・皇后であり
懐妊できないのは皇太子側の問題と示唆する実家がソースと満たれる雑誌記事
当時の宮内庁参与が「こんなことをしていたら国民を敵に回すことになる」と電話で諌めた。
その後も「皇后から作法のことでひどく叱責された」とか
「天皇が皇族紹介の際に雅子妃を飛ばした」とか宮内庁や東宮職元幹部らの実名を挙げて
雅子妃がいかに酷い目にあったかと強調する記事が後を絶たない。
誤解や事実関係の誤りも多く、ある元幹部は苦々しい表情で「児戯に類する」と吐き捨てた。

<天皇家>は今、何を召し上がっているのか?

サンデー毎日2011年7月31日
<天皇家>は今、何を召し上がっているのか? 
3.11以降食の安全が問われているが皇族は普段どのような食事を取っているか。
2週間前に献立を立てるがとても質素。朝トースト。昼カレーなど。夜は一汁一菜が基本。
フォアグラや伊勢エビは例外。
御所、東宮御所、共に食堂は20畳ほどで小さな台所が隣接。
雅子妃は愛子様のお弁当を作る。ウインナーなど子どもが好む食材を注文する事が多い。
各宮家は皇族費から料理人を雇うが、紀子妃殿下は自分で作ることも多い。得意はパスタ。
御料牧場は大きな被害を受け、ほとんどの加工・食材の供出ができない状態。
放射性物質は栃木県内では低い値を測定しているが、
本当は高い数値なので(食材が送られていないので)はないか?(皇室ジャーナリスト)
現在は東京のデパートで安全が確認され食材を購入しているらしい。
3月に避難民に提供された芋や缶詰などは昨年収穫されたので安全性は問題なし。
7月26日に両陛下は御料牧場を視察予定


平成23年7月21日
1.サンデー毎日7月31日号に掲載されている「天皇家は今,何を召し上がっているのか?」
と題する記事には,東日本大震災以降の,御料牧場による皇室に対する製品提供について,
事実に反する記述が見られます。
御料牧場に関する,3月11日以降の事実関係は以下のとおりでした。
(1)御料牧場では,3月11日の大震災により乳製品関係の機器
(原乳滅菌機,自動瓶詰機,発酵品生産機)及び肉加工機(缶打ち機,燻製製造機,加熱機器)が
損傷した結果,6月下旬まで,乳製品及び肉加工製品(ハム,鶏燻製,ベーコン,ソーセージ等)の生産は
一切停止しました。
(2)この間,3月25日に,被災者のために肉加工品,さつまいも及び新鮮な鶏卵の提供が行われましたが,
肉加工品はすべて震災以前に生産された製品であり,さつまいもは,すべて前年秋に収穫された物でした。
また,その後,4月末に被災者への製品提供が終了するまでの間,
5回にわたって被災者のために新鮮な鶏卵の提供が続けられました。
なお,この間,原乳滅菌機の損傷のため,毎日搾乳されている原乳は,家畜の飼料として使用するもの以外は,
全て廃棄せざるを得ませんでした。
(3)一方,震災から3月30日までの間は,道路事情が悪かったため,御料牧場から皇室への食品提供は
停止されていましたが,3月30日から,皇室のために,バター類の乳製品,肉加工品,鶏卵,
野菜類(パセリ,レタス,大根,トマト等)等の提供が再開されました。
この内,バター類の乳製品及び肉加工品はすべて震災以前に生産された製品でした。
(4)以上を要するに,御料牧場から被災者及び皇室に提供された肉加工品は,
全て震災以前に生産された製品であり,また,震災後も御料牧場での生産が続いていた鶏卵は,
被災者,皇室の双方に提供されました。
2.サンデー毎日7月31日号においては,
「実は震災以来,御料牧場の製品は一切東京に届いていないと言われています。
放射能汚染の心配があるためです。」との皇室ジャーナリストの発言を引用する一方,
被災者に対しては,御料牧場で生産された鶏卵・豚肉・さつまいも等の食品が3月25日から
提供されたと記し,あたかも,皇室は,放射能汚染を恐れて,御料牧場の製品摂取を差し控えつつ,
被災者への製品提供だけが続けられていたような印象を与える記述が掲載されています。
上記のとおり,これは,全く事実関係に反しており,遺憾であります。
宮内庁においては「サンデー毎日」編集部に対して,
速やかに同記事についてしかるべき訂正処置を取ることを求めました。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/taio-h23-0721.html

週に二回の公務は難しい

「雅子さま週2公務厳しいと医師判断」 東宮大夫発言の波紋
2015.02.26 07:00
2月23日、55才の誕生日を迎えられた皇太子さまは東宮御所で会見に臨まれた。
国民が気になるのは、ご療養生活が12年目に突入した雅子さまに対するお言葉だ。
皇室ジャーナリスト・神田秀一氏はこう話す。
「今年も期待できる発言はありませんでした。例年同様、前年の雅子さまのご活動を羅列しただけの内容で、
皇太子さまのご発言には具体的な治療状況や復帰へのメドなどが一切含まれていませんでした。
皇太子さまが“快方に向かっている”と言い続けて、何年経ちますでしょうか。
結局、以前と何も変わっていないのが現状なのです」
そんななか、皇太子ご一家をお側でサポートする東宮職のトップである東宮大夫が、
思わず漏らした発言が大きな波紋を広げている。
2月6日、『第60回青少年読書感想文全国コンクール』の表彰式とパーティーに、おひとりで出席された皇太子さま。
「表彰式当日に行われた東宮大夫の定例会見で、小町恭士東宮大夫(69才)は“雅子さまにご出席の気持ちはあったが、
2月3日に東宮御所でOECD東北スクールのイベントに参加した高校生たちとのご接見があったばかりで、
『週に2回の公務は厳しい』と医師が判断したため欠席しました”という旨の説明をしたそうです。
この発言を伝え聞いてびっくりしました。
もうご療養生活に入られて12年の歳月が流れているにもかかわらず、
週2のご公務も厳しいほど、病状は回復されていないんだなと感じて落胆してしまいました」(皇室記者)
2年前の誕生日会見で皇太子さまは、こんなことを述べられていた。
「私としましては、今まで見ておりますと、東宮職医師団が大変によくやってきていただいていますし、
その治療を私も非常に深く多としておりますので、今のところセカンドオピニオンという考え方は特にございません」
そんな皇太子さまのお考えに従って2年──結局、“快方に向かっている”とおっしゃられるが、
実際には雅子さまのプリンセスとしてのご活動には結びついていないのが現状。
「皇太子さまと雅子さまは私人ではなく国民のために存在する公人なのです。
ですから、医師との信頼関係を優先するのではなく、雅子さまのご病気の快方を優先させていただきたいのです。
今世の中は、セカンドオピニオンだけではなく、サードオピニオンとなっている時代です。
今からでも遅くはないので、新たな医師に診察してもらうなど、
次なる行動を示さなければ、国民の理解は得られないのではないでしょうか」(前出・神田氏)
※女性セブン2015年3月12日号
http://www.news-postseven.com/archives/20150226_306296.html

週刊文春2015年3月5日号
雅子さま「ご公務欠席」会見の緊迫場面
「そもそもご体調とは何なのか?」記者も苛立った。
「正直に申し上げると、皇太子の存在を強烈に印象付ける内容はありませんでした。
天皇陛下が即位されたのと同じ55歳となられたご感想は、
『身の引き締まる思いと共に、感慨もひとしおです』と首を捻りたくなるようなお答えでした。
次代を見据えたような、凛としたご覚悟を拝聴したかったのですが……」(東京大学名誉教授・御厨貴氏)
2月23日、皇太子は55歳の誕生日を迎えられた。
記者会見で、「天皇のあり方について昭和天皇のお姿から感じられたことは」という質問に対し、
皇太子はこう述べられた。
〈研究者としてのまなざしを肌で感じ、研究をするのというのはすばらしいことだなと、子供心に思った〉
この回答にベテラン皇室担当記者は本音を洩らす。
「そういうことではなく、祖父である昭和天皇との触れ合いの中でどのようなやり取りがあり、
そこに“帝王学が垣間見えるような話を期待したのです。しかし残念ながら、肩透かしの印象でした」
(中略)
会見の少し前、記者会では雅子さまの公務出欠問題を巡って事件が起きていた。
「2月6日、東宮大夫の定例会見でのことです。雅子さまが青少年読書感想文全国コンクールの表彰式を
欠席されたことについて、小町恭士大夫から
『今週二度目のご公務になられる式典へのご出席は難しいとの医師の判断があった』と説明がなされたのです。
そこで記者から『週二回の公務が難しいとはどういうことなのか』などと、
厳しい質問が飛んだのです」(宮内庁担当記者)

にわかに会見場は緊迫したという。記者たちはさらにこんな質問を投げかけた。
―何年も前からよくわからないのだが、そもそも(出席できない時の)妃殿下のご体調というのは、
ご自分の意思があっても体が動かないという状況なのか。
「ご体調などを踏まえて、最後は医師に相談されたということです」

―症状として例えば、めまいや血圧の変化があるとか、具体的には東宮大夫もわからないのですか。
「…はい」

―昨日まで様子を見て検討していたというのは、何を勘案していたのか。
「式典に出たいというお気持ちと、ご自分のご体調などを勘案しておられた」

―ご体調として、必ずしも万全ではない何かがあるということですか。
「ご体調を勘案されたのは事実。従って昨日医師と相談されたということです」

小町大夫の説明は要領を得ないが、実は記者会もそれは“想定内”だったという。
「記者も敢えて聞いているのです。ある程度、ご回復されているという情報は記者の耳にも入っているからです。
それでも出られないのであれば、説明がなければおかしい。皇太子が55歳を迎えられたことで、
雅子さまがどんな皇后になられるか、国民も注目しています。
まずは東宮職が記者会との齟齬を埋める努力をすべきです」(前出・宮内庁担当記者)
確かに雅子さまは一部の公務では、元気そうなお姿をお見せになることもある。
2月3日には復興人材育成プログラム「OECD東北スクール」に参加した高校生と接見されたが、
パリでの復興イベントの報告を受け、ご夫妻は非常に楽しそうな様子だったという。
「雅子さまにお疲れのご様子は全く見られませんでした。事前にお送りした報告書を丹念に読み込んでくださっていた。
途中、職員がドアをノックしたのですが、皇太子さまが『無視していいですよ』とおっしゃり、
両殿下ともにもっとお話しを続けたいご様子でした」(総括責任者の三浦浩喜氏)
雅子さまの公務への参加不参加についての判断は「ご体調次第で出られたら出る」という状態で、
宮内記者たちも当日まで分からないのが現状だ。
(中略)

(ある千代田関係者)
「…皇后陛下は昨年、東宮妃の体調が整わないことがあったとしても愛子が皇族にとって節目となるような場所へ行く機会や
陛下のお話を直接聞くことがてきる機会を持ってほしい、と仰せになったことがあるのです。
かつての紀宮さまのように、天皇陛下を支える内親王として成長してほしいというお気持ちでいらっしゃる。…」
皇太子の誕生日当日に進講者らが集まった茶会にも、雅子さまのお姿はなかったという。
新しい時代の皇室は“皇后不在”となるのだろうか。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150226-00000009-pseven-soci


女性セブン2015年3月12日号
雅子さま週2公務はご無理
東宮大夫の激震発言!
(皇太子のお誕生日の会見)
「…このように、雅子は、確かに快方に向かっておりますが、
これですぐに活動の幅が広がるわけではないと思います。
お医者様からもご助言を頂いているように、体調を整えながら、
引き続き、焦らず慎重に、少しずつ活動の場を広げていってほしいと思っています」
この皇太子のお言葉について皇室ジャーナリスト・神田秀一氏はこう話す。
「今年も期待できる発言はありませんでした。例年同様、前年の雅子さまのご活動を羅列しただけの内容で、
皇太子さまのご発言には具体的な治療状況や復帰へのメドなどが一切含まれていませんでした。
皇太子さまが“快方に向かっている”と言い続けて、何年経ちますでしょうか。
結局、以前と何も変わっていないのが現状なのです」
(中略)
そんななか、皇太子ご一家をお側でサポートする東宮職のトップである東宮大夫が、
思わず漏らした発言が大きな波紋を広げている。
2月6日、「第60回青少年読書感想文全国コンクール」の表彰式とパーティーに、おひとりで出席された皇太子さま。
「表彰式当日に行われた東宮大夫の定例会見で、小町恭士東宮大夫(69才)は、
“雅子さまにご出席の気持ちはあったが、2月3日に東宮御所でOECD東北スクールの
イベントに参加した高校生たちとのご接見があったばかりで、
『週に2回の公務は難しい』と医師が判断したため欠席しました”という旨の説明をしたそうです。
この発言を伝え聞いてびっくりしました。
もうご療養生活に入られて12年の歳月が流れているにもかかわらず、週2回のご公務も厳しいほど、
病状は回復されていないんだなと感じて落胆してしまいました」(皇室記者)
2年前の誕生日会見で皇太子さまは、こんなことを述べられていた。
「私としましては、今まで見ておりますと、東宮職医師団が大変によくやってきていただいていますし、
その治療を私も非常に深く多としておりますので、今のところセカンドオピニオンという考え方は特にございません」
そんな皇太子さまのお考えに従って2年――結局、“快方に向かっている”とおっしゃっられるが、
実際には雅子さまのプリンセスとしてのご活動には結びついていないのが現状。

皇太子ご夫妻結婚20年関連雑誌記事

皇太子ご夫妻結婚20年

週刊文春2013年1月10日号
雅子さま、この二十年、お幸せだったのでしょうか?   
特別寄稿 林真理子
そして困ったことに、というのはさらに失礼な言い方かもしれぬが、
国民の大多数は雅子さまのことが未だに好きだ。
期待外れだったと困惑するものの、最後は、「まあ、ご病気だから仕方ない……」 と言葉を濁す。
これと反対に、私は未だかつて男でも女でも、紀子さまを好きだという人に会ったことがない。
あの喋り方に、どうしても違和感を持つというのだ。
そして女性たちは最後に、「好きで皇室に入った方なんですもの、何でもうまく立ちまわるわよね」
と意地の悪いひと言をつけ加える。
あれだけ両陛下に仕え、男児も出産され、嫁として非のうちどころのない紀子さまに、
案外世評は冷たいのはどういうことか。
皇室に適応することが出来ず、病を得た女性の人間的苦悩に、共感と好意を抱くが、
うまく適応出来た女性に、人々はそっけない。
これは興味深い現象だ。私は申し上げたい。
二十年前に比べ、かなり低くなっているものの雅子さまにはまだ人気がある。
これを味方にして、はっきりとご自分の肉声でお話になる時がきたのではなかろうか。


週刊新潮 2013年6月13日号
ご成婚20年のタブーだった「それ以前」の秘恋秘話 
「雅子さま」と結ばれる日を夢見た「福田赳夫」元総理外孫の代議士
「愛称はマーコ」
「僕だって結婚したい」
皇太子さまと皇太子妃雅子さまは、この6月9日でご成婚20周年を迎えられます。
雅子さまの独身時代の交際関係については、これまで、ご成婚前に、
具体的におつきあいがあったかかどうかなどの裏付けのある情報はなかったようです。
ロマンスの相手は越智隆雄議員
越智家と雅子さまの実家小和田家の関係は、
雅子さまの実父小和田氏が、1976年に発足した福田赳夫内閣で、外務省から出向して総理秘書官を務めました。
越智隆雄氏の父、越智通雄氏は、72年に初当選し、大蔵省の先輩にあたる福田元総理の長女と結婚。
それ以前の65年、福田氏が大蔵相就任時には大臣秘書官でした。
世田谷の福田家では親戚、秘書、後援会関係者とその家族が招かれた行事がよく開かれていたそうです。
雅子さまは中学生の頃、福田家の(元総理の)孫たちといっしょにスキーに行かれたことがあり、
特に隆雄氏とは、同学年だったこともあり、親しくなったそうです。
本人も、越智家の人々も結婚相手として意識していた、と言います。
行楽地で撮ったらしい、隆雄氏と雅子さまのツーショットの写真が子供部屋に飾られていた、ともいいます。
越智氏も 「結婚したい」と周囲に漏らす。
その後、雅子さまが皇太子妃の最有力候補と騒がれ始め、88年には英国留学に起たれますが、
その翌年、越智隆雄氏はフランスに留学します。
「なぜフランスなのか?」と父の通雄氏に問われて「イギリスに好きな人がいる」と答えたそうです。
しかし皇室の話が浮上すると小和田が大喜びでそちらに乗り替え、宮内庁関係者に縁談を取りまとめるよう働きかけた。
越智氏はこれについて沈黙を守っている。


週刊文春2013年6月13日号
雅子さまご成婚20周年 小和田家VS宮内庁書かれざる「6大事件」
オランダでの小和田さん親子面会はマスコミだけでなく、東宮職も直前になって知らされた。
小和田夫妻の希望で報道陣との交渉に奔走させられるなど、
「私達は妃殿下にお仕えしているのであって、ご両親の使用人ではない」と東宮職の一部から不満の声。
このオランダ面会の前に、文春が優美子さんを直撃。
「そういったことは、何も知りませんの。」と答えていたが、
隠密に面会しようとしていたのだろう。(ベテラン宮内庁担当記者)
ほとんど公務をしない雅子さまが海外公務のついでにご両親に会ったとなると、批判が出るのは明らか。
しかし、東京でも小和田家の会合はたびたび行われており、両陛下より小和田家と密接な関係。
小和田家には親族としての“一線”を画そうという意識が感じられない。
この契機は1999年の朝日新聞記事(ご懐妊スクープ→流産)であり、
その時から小和田家と宮内庁の力関係が逆転した。(同前)
稽留流産の会見時、古川東宮大夫、鎌倉宮内庁長官も強いメディア批判を行った。
幹部の(お世継ぎへの)熱意は、雅子さまのプレッシャーとなった。
しかし、当時はまだ悠仁さまはお生まれになっておらず、外国訪問は後回しという判断は当然のこと。
このとき、鎌倉長官や古川大夫は「懐妊の情報を洩らしたのはあなたたちだろう!」と
小和田家から激しい非難を受けた。
だから、彼らは激しいメディア批判に転じた。(同前)
(小和田家は)何かあれば口を挟む。小和田氏の遠慮会釈のなさはオクでも口にのぼっていた。
ご成婚前、恒氏が「両陛下がぜひにと望まれるなら、
両陛下が雅子を欲しいというなら(結婚させてもいい)」と言っていた。
これは両陛下のお耳にも入っていた。(千代田関係者)
小和田氏が宮内庁幹部を叱責していたとしても意外性はない。彼はあまり人間関係を気にしない。(外務省関係者)
国連大使に赴任したころ、来客用のワインセラーのラインナップに「なんだこの安物は」と言い、
すべて買い替えさせたこともあった。(外務省元職員)
<誕生会見での「感情失禁」から「異様な母子」と呼ばれるまで>
ご成婚から数ヶ月後には、雅子さまは朝起きられなくなってしまった。(東宮職関係者)
ご夫妻に切実に望まれていたのは、“お世継ぎ”であった。
小山東宮侍医長が「基礎体温ぐらいは報告していただかないと困ります」と言った途端に更迭された。
雅子さまにとっては我慢のならないショッキングな出来事だったのだろう。(同前)
小和田夫妻は(愛子さまの誕生に)落胆の色を隠せない様子だった。
女の子が生まれる事を予期していなかったのようだった。(宮内庁担当記者)
雅子さまも本当は男の子がよかったという気持ちがあったかもしれない。
逆にそう思うことで愛子さまの存在を否定してしまったという葛藤が、
愛子さまに対する過剰な愛情と関心の集中につながった。(香山リカ氏)
<“失われた十年”のはじまり 人格否定宣言の本当の理由>
(軽井沢滞在中)侍従や女官は別荘の中に入らず、皇太子も別荘には3泊したのみで、あとは近くのホテルに滞在。
女性の大きな叫び声が聞こえてきた。雅子さまか優美子さんか。女性の声はいつまでも響いていた。(松崎敏弥氏)
小和田家で話し合われていたのは「夫婦の危機」について。
宮内庁と優美子さんが口論。雅子さまの希望通り愛子さまをつれて出る事は難しい。
結局「愛子さまの母」として残ることを決め、はらいせに人格否定宣言の公表だった。(千代田関係者)
キャリアやプレス、人格否定など皇太子の語彙ではない。“小和田家用語”だろう。
皇太子の思考のあとは感じられず、雅子さまの言うがまま発言させられた、ということが見て取れる。(保坂正康氏)
皇室の将来を考える1500人大アンケート 皇后にふさわしいのは「雅子妃38%」「紀子妃62%」の衝撃
雅子さまと紀子さまのどちらが皇后にふさわしいか、の問いに
女性:紀子さま74%>雅子さま26%に対し、男性:48%<52%と雅子さま支持が多い。


週刊文春2013年6月20日号
雅子さま“陰のスポークスマン”が語り始めた「ご体調乱高下」の真実
深夜一時過ぎに「ご成婚記念文書が」が…
それは6月10日午前9時過ぎ、東宮御所の車寄せでの出来事だった。
「スペインへお発ちになる殿下の車が見えなくなったとき、お見送りい立たれていた雅子さまが
報道陣にお声をかけられたのです」(宮内庁担当記者)
「珍しいこともあるもんだと記者の間でも話題でした。雅子さまが仰ったのは、
『昨日はいろいろとありがとうございました』というお言葉。オランダでも距離が近い瞬間はありましたが、
こんなことはなかった。雅子さまの肉声を聞いたのは何年ぶりでしようか。もう何年も会見にもお出になりませんし、
今回も初めは何に対してのお言葉なのか思い当らず、皆ぽかんとしていました。
おそらく結婚二十周年の各社報道に対してなのでしょう。
この日の雅子さまは特に上機嫌なのが見ていてよく分かりました」(同前)
この前日は皇太子ご夫妻の結婚記念日だった。東宮御所では天皇皇后や秋篠宮ご一家、
妹の池田礼子さん夫妻らを迎え、お祝いの夕餐が開かれたが、
じつはこの日の雅子さまはご体調が優れない様子だったという。
東宮関係者の証言。
「午後6時半過ぎから9時前までのご内宴でした。両陛下をお迎えするということもあり、
妃殿下も相当緊張なさっていたようで、具体的には控えますが、直前は特に良くなかったようです。
翌朝の雅子さまが、非常に高揚したご様子だったのは、両陛下とのご内宴を無事に終えた
解放感からではないでしょうか。…
別の宮内庁担当記者はこう指摘する。
「やはりギリギリにならないとご体調の判断は付かないようです。じつはオランダ出発前もそうでした。…
実際は直前まで、本当に行って大丈夫なのかというほど体調は優れなかった」
一方、6月1日に行われた学習院初等科の全校参観では、雅子さまのお元気そうな様子が
保護者の間でも際立っていたという。
「雅子さまは、はしゃいだように他のお母様に
『おたくのお子さんって最近、沼津の遠泳に向けて髪を切られたの?お似合いね』などと
積極的に話しかけられていました。一緒にいらした皇太子さまは
あまりお話しになりませんからよけいに目立っていました。でも4日の朝、
愛子さまの修学旅行のお見送りにはいらっしゃらなかった。
大きな荷物もあるので、ほとんどの保護者は来ていました。
『昼夜逆転の雅子さまには朝早すぎるのかしら』ともっぱらの噂でした」(学習院関係者)
こうした雅子さまの“ご体調の乱高下”は、思わぬところにも影響している。
「ご成婚二十年に際して、両殿下のご感想がペーパーで出ましたが、
当初、宮内記者会は7日金曜日中の発表を求めていました。
翌々日に迫った結婚記念日の特別番組や特集ページの編集のためには、時間的余裕が必要だったからです。
しかしペーパーが回ってきたのは、日付も変わった夜中1時過ぎ。
真夜中まで推敲されていたということでしょうが、何をするにしても準備万端整えるという
これまでの皇室の行動様式からすると、この時間はちょっと考えられません。しかも翌日昼には追加訂正が来た。
何かと思えば、『今後とも、長い目で温かく見守っていただければありがたく思います』
という一文が加えられたのです」(前出・宮内庁担当記者)…
そうして迎えた9日当日。関係者の注目を集めたのは、とある人物のインタビューだった。
宮内庁の要職を離れてから約1年の沈黙を破り、初めて公に向かって口を開いたのは、
野村一成前東宮大夫(73)だった。…
野村氏は2011年7月に東宮大夫を辞し、その後も皇太子ご夫妻の強い意向で期間を延長しながら、
翌年の3月いっぱいまで宮内庁御用掛を務めた。外務省出身で、旧ソ連大使館では
雅子さまの父・小和田恆氏の部下であり、雅子さまを幼少期から知る人物だ。
「東宮大夫着任早々、周囲の反対を押し切り、オランダ静養を成功させたのが野村さん。
雅子さまの信頼も厚かった。このインタビューも宮内庁と話し合った上でのことで、
もちろん雅子さまのご意向に沿うものでしょう。野村氏はこれからも折に触れて発言すると洩らしているそうです。
しかし、一度身を引いた人間が“陰のスポークスマン”として戻るのはいかがなものか。
現職の面目は丸つぶれです。たしかに小町(恭士)大夫は雅子さまとうまくいっているとは言えません。
だからといって退任したばかりの前任者が、皇太子妃のご体調を公に発言するというのは、
禁じ手でしょう」(皇室担当記者)
天皇皇后に近い千代田関係者も同様の感想を持ったようだ。
「このインタビューでは、雅子さまと野村氏が最近も連絡を取っていらっしゃることや、
野村氏と担当医である大野裕医師の関係の近さが、言葉の端々から窺い知れます。
前皇室医務主管の金澤一郎氏は、今では天皇皇后両陛下とはほとんど連絡を取っていないそうです。
それが現職の方がいる前での司司(つかさつかさ)のけじめなのです。」


ご成婚20周年に……文春「皇后にふさわしいのは“雅子妃38%””紀子62%”」  新潮「“雅子妃”不適格」
2013年06月13日12時00分
先週の6月6日および本日6月13日に発売に発売された『週刊文春』と『週刊新潮』。
両誌とも、ここ2週にわたって皇室の――特に雅子様に関しての記事を掲載している。
6月9日に皇太子さまと雅子さまがご成婚20年を迎えるタイミングにあわせたものだと思われるが、
いずれの記事も「ご成婚20年をお喜び申し上げる」といった趣旨のものではないようである。
週刊文春の6月6日発売号では、「雅子さま ご成婚20周年 小和田家vs.宮内庁 書かれざる『6大事件』」と称し、
・ご結婚前に天皇皇后に届いた父・恆氏の不穏当な発言
・新婚生活の裏側“基礎体温”で更迭された東宮侍医長
・朝日ご懐妊スクープで激しい非難を受けた宮内庁幹部
・皇太子ご夫妻軽井沢の危機 小和田家別荘から絶叫が響いた日
・「人格否定」「プレス」「キャリア」小和田家のレトリック
・オランダ親子面会は東宮職も「直前まで知らなかった」
という事件を紹介。そして「誕生会見での“感情失禁”から“異様な母子”と呼ばれるまで」、
「“失われた十年”のはじまり 人格否定発言の本当の理由」という記事を載せている。
極めつけは、2ページにわたって掲載されている「皇室の将来を考える1500人大アンケート」で、
週刊文春のメルマガ読者1500人に「雅子さまと紀子さまのどちらが皇后にふさわしいか」
というアンケートをとっている。
その結果、「雅子妃38%」「紀子妃62%」であったという。
そして、アンケートに答えた人の辛辣な意見が多数掲載されている。
6月13日発売号では「雅子さま“陰のスポークスマン”が語りはじめた“ご体調乱高下”の真実」という記事を掲載、
これは、6月9日のご成婚20周年に関して“陰のスポークスマン”である野村一成前東宮太子(原文のまま)が
NHKのインタビューに答えていた件についてのものだ。
週刊新潮は6月6日発売号で「“雅子さま”と結ばれる日を夢見た“福田赳夫元総理”外孫の代議士」
という記事を掲載している。
雅子妃には皇太子さまとのご成婚の前に、越智隆雄代議士と知られざるロマンスがあったというもの
。とはいえ、内容は憶測の域を出ていない。
だが、6月13日発売号に掲載されたのは「“雅子妃”不適格で“悠仁親王”即位への道」という
かなり過激なタイトルの特集記事である。
・ついに「雅子妃に皇后は無理」の断を下した美智子さまの憂慮
・「皇太子即位の後の退位」で皇室典範改正を打診した宮内庁
・「秋篠宮は即位すら辞退」が頂上会談で了解された深い事情
・「悠仁さま」電車通学を提案した「秋篠宮殿下」の未来図
という小見出しで、7ページに渡って雅子妃や悠仁さまの現状、皇室典範の改正の動きなどについて書かれている。
めでたいはずの皇太子さまと雅子さまの“ご成婚20周年”であるが、両誌とも祝福とは程遠いものとなっていた次第だ。
http://news.livedoor.com/article/detail/7762696/