硫黄島の高松宮殿下

明日への選択平成10年2月号

『高松宮日記』全八巻の完結を前に、『This is 読売』一、二月号に連載された
高松宮妃殿下と作家の阿川弘之氏の対談の中に、初めて紹介されるエピソードがある。
昭和四十六年三月、高松宮殿下が硫黄島戦跡をご訪問になった時のことである。

硫黄島は大東亜戦争末期、米軍七万五千の猛攻を、二万余の日本軍将兵が祖国防衛のため、
一ヶ月以上に渡って奮戦し玉砕(全滅)した島である。
戦後、昭和四十三年まで米国の管理下にあったため、
殿下のご訪問当時は、まだ未整理の洞窟があり、遺骨はそのまま散乱していたという。
殿下が先ずお訪ねになったのは、米軍の火焔放射器でやられ、ブルドーザーで生き埋めにされかけ、
苦しみもがきながら脱出を試みた兵隊たちが、折れ重なって死んだ跡地だった。
「前もっての説明何もなしで洞窟の前へ立たれた殿下は、ハッと息を呑む気配をお見せになり、
やがて地べたに正座し、両手をついて首を垂れて、暝想状態に入られた。
一言もおっしゃらないから、何を念じていらっしゃるのか祈っていらっしゃるのか分からないけれど、
随行の者みな、電気に打たれたような気分だったと聞いております。
大分長い時間そうしていらして、やっと立ち上がられた」

次にお訪ねになったのは、遺骨の整理が既に済んでいる壕だった。
とはいえ、拾い尽せなかった骨もあり、至る所に散らばったままの骨片もあった。
仕方なしに海上自衛隊駐屯部隊の隊員も、ふだんは靴で遺骨を踏んで歩くようになってしまっていたという。 
「ところが、殿下はためらわれた。そうして、つと靴を脱ぎ靴下も脱ぎ、素足になって、
骨片の散らばる洞窟内へ入って行かれた。
私も知ってますが、硫黄島という名前の通り、あの島の壕の中に地面から硫黄のガスが噴き出しているんです。
そこを素足で視察した人は、後にも先にも高松宮様お一人だそうです」

東宮家より目立たないようにしろ

週刊文春2011年9月1日号
秋篠宮家は両陛下と密にコミュケーションを取っているが(皇太子一家とは)正直"距離"があるように思う。
タオル詰めを紀子妃殿下たちがお手伝いされたが我々は複雑だった。
職員が連携できていたら手伝えた。(東宮職関係者)

女性自身2011年11月22日号
東日本大震災後、秋篠宮ご夫妻は勢力的に全国の避難所や被災地を回られた。
その際、ある東宮職員が「あちらの動静が分からない。全く連絡もないし東宮職としても困っている」と嘆く。
皇族方の被災地ご訪問は原則的に同じ地域には訪れないようにされてきた。
東宮職員は“秋篠宮ご夫妻のご予定が分からないと皇太子夫妻の被災地ご訪問計画も立てようがない”と困惑。

被災地訪問の順序にはこだわらないが(楽な日程を組んで渋々行くが)
お見舞いの順序には文句をつける

皇族は「皇室経済法」を肝に銘ずるべし

テーミス2008年8月号

皇族費に年間2億8千万円
皇族は「皇室経済法」を肝に銘ずるべし

■黒田清子さんに1億5千万円
皇室経済法第3条には「予算に計上する皇室の経費は、
これを内廷費、宮廷費及び皇族費とする」と三つにはっきりと示されている。
まず、内廷費とはいわゆる“お手元金”といわれる天皇家の生活費である。
所得税などの税金はかからないので、サラリーマンの給料にたとえれば“手取り”にあたる。
年間予算は3億2千400万円に固定されている。
その内訳は私的使用人や賢所に仕える内廷職員の給料、食費、両陛下や皇太子ご夫妻のご静養にかかる旅費など。
その他、災害見舞い金や社会事業奨励金なども含まれる。
宮廷費は国賓を招いての宮中晩餐会、著名人を招いての園遊会、皇居など皇室関連施設の維持、
ご公務、外国訪問などにかかる費用で、公金として宮内庁が経理する。
'08年度は61億7千25万円の予算が計上されている。
皇族費は天皇家以外の皇族の“お手元金”で、宮家の皇族の生活費である。

皇室経済法第6条にはこうある。
「皇族費は、皇族としての品位保持の資に充てるために、年額により毎年支出するもの
及び皇族が初めて独立の生計を営む際に一時金額により支出するもの並びに
皇族であった者としての品位保持の資に充てるために、
皇族が皇室典範の定めるところによりその身分を離れる際に一時金額により支出するものとする。
その年額又は一時金額は、別に法律で定める定額に基づいて、これを算出する」
つまり、皇族には「品位保持」が必要であり、その資に充てるために皇族費が支出されているということだ。
逆にいえば皇族として「品位保持」がなければ、皇族費を受ける資格はない。

現在、皇族費が支出されているのは秋篠宮、常陸宮、三笠宮、桂宮、高円宮といった各宮家と寛仁親王家である。
当主1人あたり年額は3千50万円を基礎として、妃殿下はその半額の1千525万円、
成年皇族には10分の3の915万円、未成年皇族には10分の1の305万円が毎年支払われている。
'08年度の皇族費の合計は、2億7千984万円だ。
承子さまの留学費用も、この皇族費から支出されたわけだが、その使途について皇室経済法にある
「皇族としての品位保持の資に充てる」と定められていることからすると、
有効に使われたかどうかはきわめて疑問である。
7月22日には、高円宮家の二女・典子さまがご成年を迎えている。
高円宮妃・久子さまは現在当主になり高円宮さまに支払われていたのと同じ定額の3千50万円が支払われている。
三女・絢子さま(17歳)を含めて高円宮家だけでも、
5千万円以上の皇族費(つまり税金)が支出されることになる。
また、皇族が結婚して宮家を創設する場合や皇室を離脱する場合にも、一時金として皇族費が支給されている
(皇室経済法6条)。黒田清子さんが天皇家から離脱したときには、1億5千250万円が支払われた。
かつては、三笠宮家の二女・容子さんが、フランスのソルボンヌ大学に留学中、
派手な遊びや男性との交際を広げたために「奔放なプリンセス」といわれたことがあった。
容子さんはその後、裏千家の若宗匠・千政之氏('03年に16代家元・千宗室を襲名)と結婚。
現在は2男1女の母である。

■皇太子一家と秋篠宮家の格差
結婚当時を知る皇室関係者がいう。
「容子さんは昭和天皇の弟・三笠宮崇仁親王の二女。
兄に寛仁親王、桂宮宜仁親王、弟に亡くなった高円宮憲仁親王、姉に日赤社長の近衛氏に嫁いだ方がいる。
彼女は学習院大学法学部に進むが、途中でスイスの全寮制の学校へ、その後フランスへ留学した。
パリでは酒とタバコを覚え、ジゴロに引っ掛かり、やがて日本にまで追いかけてきた恋人までいた。
その自由奔放ぶりについては、ヒゲの寛仁さまも脱帽したほどだ。
容子さんの縁談はあらゆるルートを使って探し回ったが、結局、彼女は30歳過ぎまで独身。
やっと決まったのが、5歳年下の政之氏だった。仲を取りもったある経済人の話では、
結婚が決まったとき、三笠宮さまが『よく貰って下さる方がいた』と喜んだというのだが……」
裏千家は千利休に連なる茶道諸流派のなかでも最大勢力を誇る。
いかに「奔放なプリンセス」と揶揄されようが、裏千家にとって
ロイヤルファミリーの血脈を手に入れるメリットは大きかった。
しかし、結婚当初、容子さんの“浪費癖”は相当なもので、裏千家は財産の処分まで考えたという。

翻って皇室財政について見直しの声もある。
天皇家が使える内廷費が3億2千400万円であるのに対し、秋篠宮家の皇族費は5千490万円だ。
皇位継承権は皇太子さま、秋篠宮さま、悠仁さまの順だが、天皇家と秋篠宮家の間には著しい格差がある。
仕える宮内庁職員数も皇太子一家が51人であるのに対し、秋篠宮家は15人である。
皇太子ご一家がお住まいの東宮御所は、この夏から2年で約10億円をかけて大規模な改修が行われる。
敷地面積が秋篠宮邸の約4倍あるうえに、東宮御所がリニューアルすることによって、
両家の格差はますます広がりそうだ。皇室典範改正にばかり目が行きがちだが、
皇室経済法の改正も視野に入れて、これからの皇室のあり方を根本的に考え直す時期に来ている。

対談 田母神俊雄・中條高コ

歴史通2009年7月号
対談 田母神俊雄・中條高コ
軍人は戦争をしたくない!

田母神
自衛隊は新しい軍に生まれ変わったんだから、旧日本軍とは違うんだとわれわれも教えられました。
旧軍が悪かったという前提なわけですね。そんなことはない。
旧日本軍は国際的にいっても非常に正しい軍だったんです。
それをおとしめるために、そういう言い方をするわけです。
自衛隊も旧軍も一緒ですよ。いわば日本的な武士道の精神とか自己犠牲の精神とか、基本的には同じなんです。
ところが、自衛隊に入ってくる人たちはみんな戦後の反日教育を受けて入ってくるから、
なんとかしなければいかんと思って、自衛隊員に歴史教育を始めた結果、クビになった(笑)。

中條
いい例が1900年の義和団事件だ。清の義和団が反乱を起こして北京の大使館や公使館が襲われ、
その鎮圧のために八ヵ国の連合軍が派遣された。リーダー国まイギリスの要請で、地理的に中国に近い日本が
大量の軍隊を派遣した。その時北京にいて籠城戦を行った連合国の実質的な指揮官が柴五郎だった。
会津の出身だ。柴大佐の活躍は各国の絶賛を浴びた。しかも、軍律きびしく礼儀正しい日本軍は、
中国の市民たちからの評価も高かったから、イギリスは、これから手を結ぶべきは日本国だと感じ入った。
その二年後な日英同盟が結ばれたのは、これが大きな理由ですよ。

田母神
しかも、いちばん活躍した日本が、一番少ない賠償金で引き揚げた。
翌年、義和団事件の最終議定書が十一ヵ国で結ばれて、そこで日本は正式に北京に軍を置くことを承認された。
それから36年後の1937年7月7日に盧溝橋事件が起こるわけです。
中国が正式に承認した軍だから、日米安保条約にもとづいて日本にいるアメリカ軍と同じ扱いなんですね、日本軍は。
ところが、夜間演習をやっているところに実弾が飛んできた。
それで周囲の中国軍に善処を申し入れたけれども、繰り返し繰り返し実弾が飛んでくる。
ずっとがまんしていた日本も、7月8日の朝になってようやく発砲した。
で、4日後に現地停戦協定が一度書面で結ばれる。これで大丈夫かなと思ったら、
そのあとも日本軍に対するテロ行為が続き、7月29日になって通州事件というのが起こるんです。
この通州事件で、日本人二百十数名が中国人に非常に残虐な殺され方をした。
目玉をくりぬかれるとか、日本人には考えられないような残虐さです。
それでも日本政府は中国との戦争を避けようとして停戦協議を続ける。
ところが、8月13日になって上海に飛び火して第二次上海事変。
蒋介石国民党が地上から空中から日本人居留区に対して大規模攻撃を行う。
それで人が大勢死んで、日本政府はやっと戦争の決心をするんです。
一ヵ月半、一所懸命抑えていたのが、どんどん引きずりこまれていくんですね。
そこに毛沢東共産党のゲリラが加わる。
蒋介石国民党と日本軍を戦わせる、それが共産党の背後にいるコミンテルンの狙いだから、
日本がなんぼやめようとしても向こうがどんどん仕掛けて来て戦争に引きずりこまれた。
これのどこが侵略ですか。

田母神
シベリア出兵のあとにニコライエフスク事件が起こりましたね。
あれもロシア人、中国人、朝鮮人の共産パルチザンの手によって
日本人七千人が無差別虐殺された。これも学校では教えていない。

中條
そうそう、尼港事件ともいう。犠牲者の半分は民間人だった。
だから戦後の歴史教育の欠陥は、その時代に起きたことを正しく教えていないことだ。
事実を明らかにしなければ自分の考えも出てこない。そもそも「歴史を教えるな」と言ったのは占領軍だ。
私はこの目で見、この耳で聞いたんだから間違いない。

田母神
敗戦の年、昭和20年の12月8日から、アメリカがすべての新聞に「太平洋戦争史」という歴史記事を
一週間にわたって連載させたんですよ。
これが、正義の民主主義国家アメリカ、極悪非道な独裁国家日本という構図の、
アメリカから見た一方的な歴史なんです。
これを『太平洋戦争史』という一冊の本にして、十万部刷って日本全国に配った。
「これで歴史教育をやれ」というわけです。日本が侵略国家だという教育の始まりですよ。
「いや、俺はこんな教育はできない」というような先生は、みんな公職追放されていたわけです。

中條
全国紙はもちろん、たとえば長野だったら八割のシェアを誇る信濃毎日新聞はじめ、全国の主要地方紙に載せた。
NHKまで動員して、どんな山の奥にいても、
「おまえの国のほうが悪かった、俺の国が正しかった」と日本国民の頭に浸みこませた。

田母神
昭和20年の9月から、徹底的な検閲も行われた。新聞・雑誌社、ラジオ放送局に
原稿を二部持って来させて徹底的に直すわけですよ。
そして検閲の痕跡が残らないように直して再提出させてからOKが出た。
しかも、検閲を受けたことをしゃべったら発行・放送禁止処分にさせられるから、国民にはわかりません。
検閲をやるのは誰かといったら、GHQの下につくられた6500名の民間検閲組織のアルバイト、
うち5100名の日本人です。英語がしゃべれる、書けるこの人たちが、大変な給料でやとわれた。
東条英機総理大臣の全資産が15万円だった敗戦直後の時代に、この人たちは年収3万円でやとわれた。
その給料は誰が払っているか。日本国民の税金です。
アメリカも悪いことをした、日本はいいこともしたというような記事を見逃したらクビ。まさに言論弾圧ですよ。
これらの人たちも、生活のためにやむをえず、自分の国を売るような仕事に携わってしまったわけだから、
そういううしろめたさもあって、その後もほとんどしゃべっていない。
(中略)

中條
京都大学の滝川幸辰とか、左翼の人たちをわが教育界に戻した。彼らは弟子も一緒に連れてくるわけだ。
だからその後の東大や京大という、要するに国家リーダーの養成学校はほとんど左翼がかった人たちに占領された。
(中略)

田母神
焚書もありましたね。かつて白人国家が300年、400年にわたって
有色人種の国家を侵略しつくしたことを書いた本がいっぱいあった。
それが占領時代に全部焼かれてしまった。一方、日本が朝鮮半島、台湾、満州で
どういうことをしたかを書いた本もたくさんありました。
日本が何をしたかといえば、まず学校をたくさん作っていますよね。
それから道路を作り、橋を作って鉄道を敷いて、
工場、発電所を作って、社会のインフラをどんどん整備しているんですね。
日本が支配していた地域の住民がどんな生活をしているか、
それを普通に読めば、侵略なんかではないということが、白人国家がやったことと比べて読めばすぐわかる。
これは占領軍にとっては都合が悪いということで、そういう本が、7900種類くらい、
いま一年に出版されるくらいの本がみな焼かれたというんですね。
これは歴史の抹殺です。

中條
それはまちがいのない事実だ。しかし、それは日本民族がいかにすぐれていたかという証明でもあるよ。
恐ろしくてしようがないわけだ、この民族が頭をまたげてくるのが。
占領政策は徹底破壊活動であったことはまちがいないんですよ。

田母神
人間というのは、特別な教育とか思想を注入されない限りは
自然に自分の生まれたところはいいところだと思うわけですよ。
ところが学校で「この国は悪い国だ」と教えるから、子供たちがおかしくなってしまう。
愛国心うんぬんというよりも、まずそれを改めればいい。

中條
そのとおり。まともに教えていないから、軍人が勝手に戦争を起こし、
靖国神社に祀られて褒め称えられて―と、そう思っているんだよ。
バカこけって言うんだ。北の独裁者や共産圏を除いては、
法治国家では国にとって最も大事な戦争マターは国会が決めるんだ。

田母神
だからね、関東軍の策謀によってどんどん戦争に引きずり込まれたなんてことはありえないんですよ。
中央政府がやると決めなければ、末端の軍隊が戦争を続けられるわけがない。これも戦後教えた嘘なんですよ。
軍人にしゃべらせて行動させると戦争になるなんて、よく言いますよ。南京が陥落したあと、1937年12月、
あのあと陸軍参謀本部も海軍軍令部もね、近衛首相にこれでシナとの戦争はやめてくれと頼んだんですね。
中国の言い分はぜんぶのんでやめようと。
ところがここで戦争をやめたらシナにバカにされるとか、
内閣がつぶれるからぜひやらせてくれと主張したのは近衛首相です。
軍人じゃない。
(中略)
軍人というのは意外と戦争に慎重なんですよ。だって命がかかっているんだから。
本音を言えば、軍人は戦争をしたくないんです。

中條
昭和16年12月8日、この国家の政治体制はどうであったか。立憲君主国ですよ。憲法のもとに立法して運営する
法治国家なんだから。したがって、まぎれもなく国会が開戦を決定した。
軍人は、その決定にしたがって戦争せざるをえない。悲しい戦争引受人なんですよ。
だから、お国のために死んだ軍人にはね栄光の座を与えなければいけない。

田母神
「戦前の日本はろくでもない国で、民主主義は戦後アメリカに教えてもらった」と教えているわけですよね。
じつは米海軍の厚木基地の入り口に、日本人が寄贈したマッカーサーの銅像が建っているんです。
そこに「日本民主主義の親、マッカーサー」と書いてある。
徹底的な言論弾圧をして、歴史の抹殺をしたアメリカが、本当に民主主義なのか。
アメリカで黒人が選挙権を得たのは1964年ですよ。東京オリンピックが終わってからなんです。
私が昭和40年代後半に初めてアメリカへ行ったときには、
田舎ではトイレが「ホワイト」と「アザーズ」にまだ分かれていた。
日本が戦ったのは、そういう人種差別が徹底していて、
白人以外は人間じゃないと思われていた時代だったということを
理解しないと、なんのために戦ったのかがわからない。
日本はとにかくアメリカの言うとおりにしていれば戦争もせず、あんなに人が死なずに、
いまの平和な世がきたと、石破元防衛大臣なんか言うわけですよ。
そんなうまくいくわけがない。戦わなかったらどうなったか。
植民地になっていましたよ。強い者が弱いものに譲るなんてことは歴史的に見てありえないんです。
まして人種差別が徹底しているときに白人国家が有色人種国家に交渉で譲るなんてことは絶対にありません。
戦ったからこそ人種平等の時代がきたんです。

中條
1904年、5年の日露戦争ね、あれは普通の戦争じゃないんだよ。
白色人種と有色人種の最終章の戦だという歴史的意義を伝えなければ。
日露戦争で日本が負けていたら、ほぼ500年かけた白色人種たちの植民地化は100%完成するはずたった。
それなのに、ああそれなのに、黄色いサルと揶揄されていた極東の日本が勝った。この意義は実に大きい。
戦争があってはなりません、これは何回でも言う。
しかし、日本が立ち上がって、勝ったという意義を忘れてはならない。

田母神
日本はもともと侵略される側にいたんですね。その日本がずっと首をしめられて、
これ以上しめられたら死んでしまうというときにボンと一発殴って立ち上がった。
これが真珠湾攻撃でね、それで日米戦争になった。緒戦では日本がフィリピンで
アメリカをやっつけ、ビルマとかインドでイギリスをやっつけ、
インドネシアでオランダをやっつけて白人国家を次々に降していったわけですよね。
これを見ていた東南アジアの人たちが「おれたちもやれる」と目覚めたことが戦後の独立や人権平等実現を早めた。
1955年(昭和30年)に、インドネシアのスカルノ大統領の呼びかけで29ヵ国が参加して
戦後の第一回アジア・アフリカ会議が開かれた。
中国も参加して、周恩来とかネールとかナセルとかが出た、国家レベルの国際会議です。
日本は鳩山首相が参加せず、代理として高碕達之助経済企画庁長官(東洋製罐創業者)が出席した。
日本の戦争責任を問われるのかなと、おそるおそる行ってみたら、まったく違っていた。
われわれがいま白人国家と対等な口がきけるのは日本のおかげである、
日本があれだけの犠牲を払って戦ってくれたからこそ、
いまイギリスやオランダの植民地から脱して独立ができたんだ、
人種平等の世界が実現したのは日本のおかけだと。そういうことを彼らが異口同音に言ったというんです。
しかも1943年11月の大東亜共同宣言が大変よかった、あれで戦う目的がよくわかったと。
白人のアジア支配を脱するためにわれわれアジア人が団結して戦うんだということがよく認識できたと言われたわけでね。

中條
ロシアは中東にも行って、トルコを侵略した露土戦争でトルコは敗れた。
だから、トルコには「東郷通り」や「乃木通り」がある。
それほどロシアを倒した日本をトルコは尊敬しているんですよ。

田母神
戦後の間違いは、朝鮮半島でも台湾でも満洲でも、豊かに平和に暮らしていたところへ日本が出て行って、
それを全部ぶちこわしたというふうに教えていることです。これはまったく逆なんですね。
馬賊とか匪賊とか盗賊の頭領みたいなのが群雄割拠して、いつ命が奪われるかわからない、
生活水準も非常に低い状態で暮らしていたのを、日本が開発してあげたおかげで生活が安定して
治安も非常によくなったというのが事実なんです。それをまったく逆に教えられている。

中條
そうそう。これは重大なポイント。五百年間、白人の国々が有色人種の国々を植民地化してきた。
原住民を人間扱いせず奴隷化した。そしてその国の産品をおれのものだと自国に運んだ。
そういうやり方を歴史は「植民地政策」と名づけている。ところが、遅れて近代国家になった日本は、
日露戦争の結果、下関条約で中国人が化外の地と言っていた台湾を手にした。
朝鮮の自主独立を認めさせて大韓帝国ができた。それから日韓併合となった。
そのときの台湾と韓国に対する日本統治を「植民地化政策」と呼ぶならば、中身をよく見比べるべきだ。
現地におけるひとりあたまのインフラの投資に、内地より余計かけているんだから。
それを白人人種の植民地政策と同じように言うなんてのは大間違いだ。

田母神
日韓併合だって、植民地にしたわけじゃないんですね。
朝鮮人にも基本的に日本人と同じ権利を与えようとしたんですから。
朝鮮人も日本の陸軍士官学校を出て、帝国陸軍の中将にだってなれた。これがたとえばインド人が
イギリスの士官学校を出てイギリス軍の将校になれたか。とんでもないという話ですよ。

中條
王室だって残したわけじゃないか。皇后様候補であったお姫様の方子(まさこ)様を差し上げている。
そんな植民地政策がありますかっていうんだ。
(中略)

田母神
最後は韓国の障害児の養護教育に力を尽くされたから、韓国では尊敬される女性のベストファイブに
つねに入っているらしいですよ。方子様は。それに満洲国皇帝、溥儀殿下の弟の溥傑殿下に嫁いだのは
日本の嵯峨侯爵家のご令嬢、浩様。愛新覚羅浩殿下です。こういうことからも、日本人は朝鮮人も満州人も
差別意識なく扱ったことがわかります。五族協和を実現したんですよ。
(中略)

田母神
軍は悪いものだから、できるだけ目立たせず、押さえつけておこうというのが今の日本ですよ。
だから自衛隊が動けるようにならない。拉致被害者だって救えない。

中條
田母神さんの問題てせもわかるように、リーダーたちが文民統制というのをまったく理解していない。
制服組を背広組が抑えるのが文民統制だと思っている(笑)。
(中略)

中條
リーダーは国家にとっての軍の価値を勉強しなおすべきだ。
国民が選ぶ立法府と、行政府のメカニズムこそ文民統制だ。
いまみたいなことをやっていたら軍人はどんどん戦う気をなくしていく。
(中略)

田母神
そういう意味では、戦前の教育がよかったのは、リーダーをつくる教育が徹底していたこと。
自分のためではない、国家、国民、あるいは会社のために頑張る心構えを教えた。次に道徳を教えたこと。
戦後、教育勅語が廃止されたり修身の教科書がなくなったりして道徳教育がなくなってしまった。
そのせいで―日本の道徳教育の根幹には先祖崇拝があったと思うんですが―
こんなことをしたらご先祖様に顔向けが出来ないと思う気持ち、これがもう根こそぎなくなった。

中條
またそういうふうに64年前の占領政策が仕向けた。人権の尊さ、個の尊厳と言われればも表看板は立派だし、
なんら攻撃すべき理由はない。その美辞麗句の裏でそれまで日本が生きてきた文化を弱体化し、破壊したんだ。
ボヤッとしていたらみんな引っかかるわけだよ。個の尊厳なんて立派な価値概念だからね。
(中略)

中條
日本は基本的に恥の文化ですが、そうでないヨーロッパの人たちは、法律をつくって人間の欲望に歯止めを
かけたわけですよ。日本人は法律がなくても秩序を保てる民族だから、占領軍はそれを崩しにかかったわけだ。
自由と言えばとっつきやすいけれど、自由の裏ではそれにともなう同等の義務が要求されるべきなのに、
その心で日本国憲法を読んでごらん、全部自分たちの心地よい主張だけをメインテーマにして、
なすべき義務の項目を薄味にしていった。巧妙きわまりない。
(中略)

中條
ハーグ陸戦法規四十三条、
「占領軍が被占領地に到達した時はよほどの事情なき限りその国の法律を変えてはならない」
という定めはいまも生きているんだよ。
それなのに占領軍は憲法まで変えた。国民はそれすら知らないでしょう。

田母神
完璧な国際法違反ですよ。占領政策で公共の法を変えてはいけない、強制してはいけない。
だから日本は独立した時点で占領政策は無効だと言えば戦前の世界に戻ることができたのに、
国の仕組みが変えられて戻れなくなってしまった。

中條
彼らはいかに巧妙だったか。マッカーサーが幣原喜重郎総理大臣を呼びつけて、
ケーディス大佐が6日間で作った憲法の草案を議会にかけろと言った。
そうすれば、おまえたち国民が一番心配している国体の護持を保障するよと、と。
ぼくはこの目で見ていたよ、この耳で聞いていたよ。
ニュージーランドやオーストラリアが天皇の戦争責任を声高に叫んでいたから、
「見てごらん、ああいうのがいるだろう。おれは総司令官ではあるが、
彼らを100パーセント抑えられるものではないよ。
だが、この憲法を議会にかけさえすればおれがギャラントしてやるよ」と脅した。
もうひとつ、これさえ通せば占領期間を短くしてあげるよとも言った。
それで6年8ヵ月で引き揚げたか、それはわからない。
こういうことすべて国会図書館に資料が残っているんだぜ。

田母神
日本が独立したあとも決められた戦犯の刑期を守ること、とサンフランシスコ講和条約の十一条に書いてある。
これも国際法違反です。講和条約締結後に被占領国を拘束してはいけないということになってるんですから。
その十一条のせいで、独立したのに戦犯がなかなか釈放されない。それで署名運動が起きた。
この署名運動をリードしたのが日本弁護士連合会だ。日弁連が二ヵ月くらいで四千万人の署名を集めて提出した。
当時日本の人口は八千万人足らずだったらしいから、大人はほとんど署名したことになります。つまり、
当時の日本人で「戦犯はけしからん」なんて思っていた人はほとんどいなかったということですよ。
だから国会議員も動き出した。

中條
国会が戦争を始めたんだから当然のことだ。

田母神
国会決議に奔走したのは堤ツルヨという女性議員でした。あの党は昔から女が強かった(笑)。
社会党も、だから当時はまともだったんです。参議院と衆議院で戦犯釈放の国会決議が行われた。
翌年、恩給法と戦傷病者戦没者遺族等援護法という二つの法律が変えられた。
犯罪人には恩給は出ないんだけれども、戦争犯罪人は犯罪人ではありませんということになったんですよ。
すでに処刑されたり死んだりしてしまった人の遺族にも弔慰金を出すことにしたんです。
法律を変え、国の意思としてそうしたんですよ。大橋武夫法務総裁が「戦犯と言われる人たちは
国内法では犯罪人じゃないんです」と国会で答弁している。そういう経緯をまったく無視して、
A級戦犯が祀られている靖国を参拝するのはいかがなものかとかいまの政治家は言っているわけです。

中條
近隣諸国の声に怯えているだけの話だと思うんだよ。それと、マスコミにたたかれて支持率が落ちるのを恐れている。
(後略)

児戯に等しい小和田家の振る舞い

会員誌「選択」2014年1月号
東宮 皇室危うくする雅子妃

児戯に等しい小和田家の振る舞い
東宮は独立した存在であり、天皇と言えども口出ししにくい。
親子であると同時に世代を担うライバルのような面もあり、異なる考えがあるのも自然だろう。
しかし最大の課題は天皇の務めや歴代の心構えの継承である。
昭和時代は皇太子一家が毎週必ず皇居を訪ね夕食を共にする「定例参内」があったが、絶えて久しい。
12年の天皇心臓手術時、秋篠宮夫妻から病状や手術の見通しを尋ねる連絡が何度もあったが東宮からはなし。
東宮御所内部も改修のたびに天皇皇后が住んでいた頃の内装はどんどん変えられた。
改修工事で東宮が皇族共有殿東邸に一時引っ越した頃、
天皇が長年愛用した古い机が粗大ゴミとして捨てられそうになっているのに
秋篠宮家関係者が気付き、密かに宮邸に引き取ったという。
親子兄弟の距離感を物語る。
04年の皇太子の「人格否定」発言の際には、天皇が驚いて説明を求めたが、
皇太子は「世継ぎを求められるばかりで外国訪問させてもらえなかった」
「自由に外出もできない」などの例を挙げたという。
一方で、人格否定したのは天皇・皇后であり
懐妊できないのは皇太子側の問題と示唆する実家がソースと満たれる雑誌記事
当時の宮内庁参与が「こんなことをしていたら国民を敵に回すことになる」と電話で諌めた。
その後も「皇后から作法のことでひどく叱責された」とか
「天皇が皇族紹介の際に雅子妃を飛ばした」とか宮内庁や東宮職元幹部らの実名を挙げて
雅子妃がいかに酷い目にあったかと強調する記事が後を絶たない。
誤解や事実関係の誤りも多く、ある元幹部は苦々しい表情で「児戯に類する」と吐き捨てた。

<天皇家>は今、何を召し上がっているのか?

サンデー毎日2011年7月31日
<天皇家>は今、何を召し上がっているのか? 
3.11以降食の安全が問われているが皇族は普段どのような食事を取っているか。
2週間前に献立を立てるがとても質素。朝トースト。昼カレーなど。夜は一汁一菜が基本。
フォアグラや伊勢エビは例外。
御所、東宮御所、共に食堂は20畳ほどで小さな台所が隣接。
雅子妃は愛子様のお弁当を作る。ウインナーなど子どもが好む食材を注文する事が多い。
各宮家は皇族費から料理人を雇うが、紀子妃殿下は自分で作ることも多い。得意はパスタ。
御料牧場は大きな被害を受け、ほとんどの加工・食材の供出ができない状態。
放射性物質は栃木県内では低い値を測定しているが、
本当は高い数値なので(食材が送られていないので)はないか?(皇室ジャーナリスト)
現在は東京のデパートで安全が確認され食材を購入しているらしい。
3月に避難民に提供された芋や缶詰などは昨年収穫されたので安全性は問題なし。
7月26日に両陛下は御料牧場を視察予定


平成23年7月21日
1.サンデー毎日7月31日号に掲載されている「天皇家は今,何を召し上がっているのか?」
と題する記事には,東日本大震災以降の,御料牧場による皇室に対する製品提供について,
事実に反する記述が見られます。
御料牧場に関する,3月11日以降の事実関係は以下のとおりでした。
(1)御料牧場では,3月11日の大震災により乳製品関係の機器
(原乳滅菌機,自動瓶詰機,発酵品生産機)及び肉加工機(缶打ち機,燻製製造機,加熱機器)が
損傷した結果,6月下旬まで,乳製品及び肉加工製品(ハム,鶏燻製,ベーコン,ソーセージ等)の生産は
一切停止しました。
(2)この間,3月25日に,被災者のために肉加工品,さつまいも及び新鮮な鶏卵の提供が行われましたが,
肉加工品はすべて震災以前に生産された製品であり,さつまいもは,すべて前年秋に収穫された物でした。
また,その後,4月末に被災者への製品提供が終了するまでの間,
5回にわたって被災者のために新鮮な鶏卵の提供が続けられました。
なお,この間,原乳滅菌機の損傷のため,毎日搾乳されている原乳は,家畜の飼料として使用するもの以外は,
全て廃棄せざるを得ませんでした。
(3)一方,震災から3月30日までの間は,道路事情が悪かったため,御料牧場から皇室への食品提供は
停止されていましたが,3月30日から,皇室のために,バター類の乳製品,肉加工品,鶏卵,
野菜類(パセリ,レタス,大根,トマト等)等の提供が再開されました。
この内,バター類の乳製品及び肉加工品はすべて震災以前に生産された製品でした。
(4)以上を要するに,御料牧場から被災者及び皇室に提供された肉加工品は,
全て震災以前に生産された製品であり,また,震災後も御料牧場での生産が続いていた鶏卵は,
被災者,皇室の双方に提供されました。
2.サンデー毎日7月31日号においては,
「実は震災以来,御料牧場の製品は一切東京に届いていないと言われています。
放射能汚染の心配があるためです。」との皇室ジャーナリストの発言を引用する一方,
被災者に対しては,御料牧場で生産された鶏卵・豚肉・さつまいも等の食品が3月25日から
提供されたと記し,あたかも,皇室は,放射能汚染を恐れて,御料牧場の製品摂取を差し控えつつ,
被災者への製品提供だけが続けられていたような印象を与える記述が掲載されています。
上記のとおり,これは,全く事実関係に反しており,遺憾であります。
宮内庁においては「サンデー毎日」編集部に対して,
速やかに同記事についてしかるべき訂正処置を取ることを求めました。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/taio-h23-0721.html

週に二回の公務は難しい

「雅子さま週2公務厳しいと医師判断」 東宮大夫発言の波紋
2015.02.26 07:00
2月23日、55才の誕生日を迎えられた皇太子さまは東宮御所で会見に臨まれた。
国民が気になるのは、ご療養生活が12年目に突入した雅子さまに対するお言葉だ。
皇室ジャーナリスト・神田秀一氏はこう話す。
「今年も期待できる発言はありませんでした。例年同様、前年の雅子さまのご活動を羅列しただけの内容で、
皇太子さまのご発言には具体的な治療状況や復帰へのメドなどが一切含まれていませんでした。
皇太子さまが“快方に向かっている”と言い続けて、何年経ちますでしょうか。
結局、以前と何も変わっていないのが現状なのです」
そんななか、皇太子ご一家をお側でサポートする東宮職のトップである東宮大夫が、
思わず漏らした発言が大きな波紋を広げている。
2月6日、『第60回青少年読書感想文全国コンクール』の表彰式とパーティーに、おひとりで出席された皇太子さま。
「表彰式当日に行われた東宮大夫の定例会見で、小町恭士東宮大夫(69才)は“雅子さまにご出席の気持ちはあったが、
2月3日に東宮御所でOECD東北スクールのイベントに参加した高校生たちとのご接見があったばかりで、
『週に2回の公務は厳しい』と医師が判断したため欠席しました”という旨の説明をしたそうです。
この発言を伝え聞いてびっくりしました。
もうご療養生活に入られて12年の歳月が流れているにもかかわらず、
週2のご公務も厳しいほど、病状は回復されていないんだなと感じて落胆してしまいました」(皇室記者)
2年前の誕生日会見で皇太子さまは、こんなことを述べられていた。
「私としましては、今まで見ておりますと、東宮職医師団が大変によくやってきていただいていますし、
その治療を私も非常に深く多としておりますので、今のところセカンドオピニオンという考え方は特にございません」
そんな皇太子さまのお考えに従って2年──結局、“快方に向かっている”とおっしゃられるが、
実際には雅子さまのプリンセスとしてのご活動には結びついていないのが現状。
「皇太子さまと雅子さまは私人ではなく国民のために存在する公人なのです。
ですから、医師との信頼関係を優先するのではなく、雅子さまのご病気の快方を優先させていただきたいのです。
今世の中は、セカンドオピニオンだけではなく、サードオピニオンとなっている時代です。
今からでも遅くはないので、新たな医師に診察してもらうなど、
次なる行動を示さなければ、国民の理解は得られないのではないでしょうか」(前出・神田氏)
※女性セブン2015年3月12日号
http://www.news-postseven.com/archives/20150226_306296.html

週刊文春2015年3月5日号
雅子さま「ご公務欠席」会見の緊迫場面
「そもそもご体調とは何なのか?」記者も苛立った。
「正直に申し上げると、皇太子の存在を強烈に印象付ける内容はありませんでした。
天皇陛下が即位されたのと同じ55歳となられたご感想は、
『身の引き締まる思いと共に、感慨もひとしおです』と首を捻りたくなるようなお答えでした。
次代を見据えたような、凛としたご覚悟を拝聴したかったのですが……」(東京大学名誉教授・御厨貴氏)
2月23日、皇太子は55歳の誕生日を迎えられた。
記者会見で、「天皇のあり方について昭和天皇のお姿から感じられたことは」という質問に対し、
皇太子はこう述べられた。
〈研究者としてのまなざしを肌で感じ、研究をするのというのはすばらしいことだなと、子供心に思った〉
この回答にベテラン皇室担当記者は本音を洩らす。
「そういうことではなく、祖父である昭和天皇との触れ合いの中でどのようなやり取りがあり、
そこに“帝王学が垣間見えるような話を期待したのです。しかし残念ながら、肩透かしの印象でした」
(中略)
会見の少し前、記者会では雅子さまの公務出欠問題を巡って事件が起きていた。
「2月6日、東宮大夫の定例会見でのことです。雅子さまが青少年読書感想文全国コンクールの表彰式を
欠席されたことについて、小町恭士大夫から
『今週二度目のご公務になられる式典へのご出席は難しいとの医師の判断があった』と説明がなされたのです。
そこで記者から『週二回の公務が難しいとはどういうことなのか』などと、
厳しい質問が飛んだのです」(宮内庁担当記者)

にわかに会見場は緊迫したという。記者たちはさらにこんな質問を投げかけた。
―何年も前からよくわからないのだが、そもそも(出席できない時の)妃殿下のご体調というのは、
ご自分の意思があっても体が動かないという状況なのか。
「ご体調などを踏まえて、最後は医師に相談されたということです」

―症状として例えば、めまいや血圧の変化があるとか、具体的には東宮大夫もわからないのですか。
「…はい」

―昨日まで様子を見て検討していたというのは、何を勘案していたのか。
「式典に出たいというお気持ちと、ご自分のご体調などを勘案しておられた」

―ご体調として、必ずしも万全ではない何かがあるということですか。
「ご体調を勘案されたのは事実。従って昨日医師と相談されたということです」

小町大夫の説明は要領を得ないが、実は記者会もそれは“想定内”だったという。
「記者も敢えて聞いているのです。ある程度、ご回復されているという情報は記者の耳にも入っているからです。
それでも出られないのであれば、説明がなければおかしい。皇太子が55歳を迎えられたことで、
雅子さまがどんな皇后になられるか、国民も注目しています。
まずは東宮職が記者会との齟齬を埋める努力をすべきです」(前出・宮内庁担当記者)
確かに雅子さまは一部の公務では、元気そうなお姿をお見せになることもある。
2月3日には復興人材育成プログラム「OECD東北スクール」に参加した高校生と接見されたが、
パリでの復興イベントの報告を受け、ご夫妻は非常に楽しそうな様子だったという。
「雅子さまにお疲れのご様子は全く見られませんでした。事前にお送りした報告書を丹念に読み込んでくださっていた。
途中、職員がドアをノックしたのですが、皇太子さまが『無視していいですよ』とおっしゃり、
両殿下ともにもっとお話しを続けたいご様子でした」(総括責任者の三浦浩喜氏)
雅子さまの公務への参加不参加についての判断は「ご体調次第で出られたら出る」という状態で、
宮内記者たちも当日まで分からないのが現状だ。
(中略)

(ある千代田関係者)
「…皇后陛下は昨年、東宮妃の体調が整わないことがあったとしても愛子が皇族にとって節目となるような場所へ行く機会や
陛下のお話を直接聞くことがてきる機会を持ってほしい、と仰せになったことがあるのです。
かつての紀宮さまのように、天皇陛下を支える内親王として成長してほしいというお気持ちでいらっしゃる。…」
皇太子の誕生日当日に進講者らが集まった茶会にも、雅子さまのお姿はなかったという。
新しい時代の皇室は“皇后不在”となるのだろうか。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150226-00000009-pseven-soci


女性セブン2015年3月12日号
雅子さま週2公務はご無理
東宮大夫の激震発言!
(皇太子のお誕生日の会見)
「…このように、雅子は、確かに快方に向かっておりますが、
これですぐに活動の幅が広がるわけではないと思います。
お医者様からもご助言を頂いているように、体調を整えながら、
引き続き、焦らず慎重に、少しずつ活動の場を広げていってほしいと思っています」
この皇太子のお言葉について皇室ジャーナリスト・神田秀一氏はこう話す。
「今年も期待できる発言はありませんでした。例年同様、前年の雅子さまのご活動を羅列しただけの内容で、
皇太子さまのご発言には具体的な治療状況や復帰へのメドなどが一切含まれていませんでした。
皇太子さまが“快方に向かっている”と言い続けて、何年経ちますでしょうか。
結局、以前と何も変わっていないのが現状なのです」
(中略)
そんななか、皇太子ご一家をお側でサポートする東宮職のトップである東宮大夫が、
思わず漏らした発言が大きな波紋を広げている。
2月6日、「第60回青少年読書感想文全国コンクール」の表彰式とパーティーに、おひとりで出席された皇太子さま。
「表彰式当日に行われた東宮大夫の定例会見で、小町恭士東宮大夫(69才)は、
“雅子さまにご出席の気持ちはあったが、2月3日に東宮御所でOECD東北スクールの
イベントに参加した高校生たちとのご接見があったばかりで、
『週に2回の公務は難しい』と医師が判断したため欠席しました”という旨の説明をしたそうです。
この発言を伝え聞いてびっくりしました。
もうご療養生活に入られて12年の歳月が流れているにもかかわらず、週2回のご公務も厳しいほど、
病状は回復されていないんだなと感じて落胆してしまいました」(皇室記者)
2年前の誕生日会見で皇太子さまは、こんなことを述べられていた。
「私としましては、今まで見ておりますと、東宮職医師団が大変によくやってきていただいていますし、
その治療を私も非常に深く多としておりますので、今のところセカンドオピニオンという考え方は特にございません」
そんな皇太子さまのお考えに従って2年――結局、“快方に向かっている”とおっしゃっられるが、
実際には雅子さまのプリンセスとしてのご活動には結びついていないのが現状。

皇太子ご夫妻結婚20年関連雑誌記事

皇太子ご夫妻結婚20年

週刊文春2013年1月10日号
雅子さま、この二十年、お幸せだったのでしょうか?   
特別寄稿 林真理子
そして困ったことに、というのはさらに失礼な言い方かもしれぬが、
国民の大多数は雅子さまのことが未だに好きだ。
期待外れだったと困惑するものの、最後は、「まあ、ご病気だから仕方ない……」 と言葉を濁す。
これと反対に、私は未だかつて男でも女でも、紀子さまを好きだという人に会ったことがない。
あの喋り方に、どうしても違和感を持つというのだ。
そして女性たちは最後に、「好きで皇室に入った方なんですもの、何でもうまく立ちまわるわよね」
と意地の悪いひと言をつけ加える。
あれだけ両陛下に仕え、男児も出産され、嫁として非のうちどころのない紀子さまに、
案外世評は冷たいのはどういうことか。
皇室に適応することが出来ず、病を得た女性の人間的苦悩に、共感と好意を抱くが、
うまく適応出来た女性に、人々はそっけない。
これは興味深い現象だ。私は申し上げたい。
二十年前に比べ、かなり低くなっているものの雅子さまにはまだ人気がある。
これを味方にして、はっきりとご自分の肉声でお話になる時がきたのではなかろうか。


週刊新潮 2013年6月13日号
ご成婚20年のタブーだった「それ以前」の秘恋秘話 
「雅子さま」と結ばれる日を夢見た「福田赳夫」元総理外孫の代議士
「愛称はマーコ」
「僕だって結婚したい」
皇太子さまと皇太子妃雅子さまは、この6月9日でご成婚20周年を迎えられます。
雅子さまの独身時代の交際関係については、これまで、ご成婚前に、
具体的におつきあいがあったかかどうかなどの裏付けのある情報はなかったようです。
ロマンスの相手は越智隆雄議員
越智家と雅子さまの実家小和田家の関係は、
雅子さまの実父小和田氏が、1976年に発足した福田赳夫内閣で、外務省から出向して総理秘書官を務めました。
越智隆雄氏の父、越智通雄氏は、72年に初当選し、大蔵省の先輩にあたる福田元総理の長女と結婚。
それ以前の65年、福田氏が大蔵相就任時には大臣秘書官でした。
世田谷の福田家では親戚、秘書、後援会関係者とその家族が招かれた行事がよく開かれていたそうです。
雅子さまは中学生の頃、福田家の(元総理の)孫たちといっしょにスキーに行かれたことがあり、
特に隆雄氏とは、同学年だったこともあり、親しくなったそうです。
本人も、越智家の人々も結婚相手として意識していた、と言います。
行楽地で撮ったらしい、隆雄氏と雅子さまのツーショットの写真が子供部屋に飾られていた、ともいいます。
越智氏も 「結婚したい」と周囲に漏らす。
その後、雅子さまが皇太子妃の最有力候補と騒がれ始め、88年には英国留学に起たれますが、
その翌年、越智隆雄氏はフランスに留学します。
「なぜフランスなのか?」と父の通雄氏に問われて「イギリスに好きな人がいる」と答えたそうです。
しかし皇室の話が浮上すると小和田が大喜びでそちらに乗り替え、宮内庁関係者に縁談を取りまとめるよう働きかけた。
越智氏はこれについて沈黙を守っている。


週刊文春2013年6月13日号
雅子さまご成婚20周年 小和田家VS宮内庁書かれざる「6大事件」
オランダでの小和田さん親子面会はマスコミだけでなく、東宮職も直前になって知らされた。
小和田夫妻の希望で報道陣との交渉に奔走させられるなど、
「私達は妃殿下にお仕えしているのであって、ご両親の使用人ではない」と東宮職の一部から不満の声。
このオランダ面会の前に、文春が優美子さんを直撃。
「そういったことは、何も知りませんの。」と答えていたが、
隠密に面会しようとしていたのだろう。(ベテラン宮内庁担当記者)
ほとんど公務をしない雅子さまが海外公務のついでにご両親に会ったとなると、批判が出るのは明らか。
しかし、東京でも小和田家の会合はたびたび行われており、両陛下より小和田家と密接な関係。
小和田家には親族としての“一線”を画そうという意識が感じられない。
この契機は1999年の朝日新聞記事(ご懐妊スクープ→流産)であり、
その時から小和田家と宮内庁の力関係が逆転した。(同前)
稽留流産の会見時、古川東宮大夫、鎌倉宮内庁長官も強いメディア批判を行った。
幹部の(お世継ぎへの)熱意は、雅子さまのプレッシャーとなった。
しかし、当時はまだ悠仁さまはお生まれになっておらず、外国訪問は後回しという判断は当然のこと。
このとき、鎌倉長官や古川大夫は「懐妊の情報を洩らしたのはあなたたちだろう!」と
小和田家から激しい非難を受けた。
だから、彼らは激しいメディア批判に転じた。(同前)
(小和田家は)何かあれば口を挟む。小和田氏の遠慮会釈のなさはオクでも口にのぼっていた。
ご成婚前、恒氏が「両陛下がぜひにと望まれるなら、
両陛下が雅子を欲しいというなら(結婚させてもいい)」と言っていた。
これは両陛下のお耳にも入っていた。(千代田関係者)
小和田氏が宮内庁幹部を叱責していたとしても意外性はない。彼はあまり人間関係を気にしない。(外務省関係者)
国連大使に赴任したころ、来客用のワインセラーのラインナップに「なんだこの安物は」と言い、
すべて買い替えさせたこともあった。(外務省元職員)
<誕生会見での「感情失禁」から「異様な母子」と呼ばれるまで>
ご成婚から数ヶ月後には、雅子さまは朝起きられなくなってしまった。(東宮職関係者)
ご夫妻に切実に望まれていたのは、“お世継ぎ”であった。
小山東宮侍医長が「基礎体温ぐらいは報告していただかないと困ります」と言った途端に更迭された。
雅子さまにとっては我慢のならないショッキングな出来事だったのだろう。(同前)
小和田夫妻は(愛子さまの誕生に)落胆の色を隠せない様子だった。
女の子が生まれる事を予期していなかったのようだった。(宮内庁担当記者)
雅子さまも本当は男の子がよかったという気持ちがあったかもしれない。
逆にそう思うことで愛子さまの存在を否定してしまったという葛藤が、
愛子さまに対する過剰な愛情と関心の集中につながった。(香山リカ氏)
<“失われた十年”のはじまり 人格否定宣言の本当の理由>
(軽井沢滞在中)侍従や女官は別荘の中に入らず、皇太子も別荘には3泊したのみで、あとは近くのホテルに滞在。
女性の大きな叫び声が聞こえてきた。雅子さまか優美子さんか。女性の声はいつまでも響いていた。(松崎敏弥氏)
小和田家で話し合われていたのは「夫婦の危機」について。
宮内庁と優美子さんが口論。雅子さまの希望通り愛子さまをつれて出る事は難しい。
結局「愛子さまの母」として残ることを決め、はらいせに人格否定宣言の公表だった。(千代田関係者)
キャリアやプレス、人格否定など皇太子の語彙ではない。“小和田家用語”だろう。
皇太子の思考のあとは感じられず、雅子さまの言うがまま発言させられた、ということが見て取れる。(保坂正康氏)
皇室の将来を考える1500人大アンケート 皇后にふさわしいのは「雅子妃38%」「紀子妃62%」の衝撃
雅子さまと紀子さまのどちらが皇后にふさわしいか、の問いに
女性:紀子さま74%>雅子さま26%に対し、男性:48%<52%と雅子さま支持が多い。


週刊文春2013年6月20日号
雅子さま“陰のスポークスマン”が語り始めた「ご体調乱高下」の真実
深夜一時過ぎに「ご成婚記念文書が」が…
それは6月10日午前9時過ぎ、東宮御所の車寄せでの出来事だった。
「スペインへお発ちになる殿下の車が見えなくなったとき、お見送りい立たれていた雅子さまが
報道陣にお声をかけられたのです」(宮内庁担当記者)
「珍しいこともあるもんだと記者の間でも話題でした。雅子さまが仰ったのは、
『昨日はいろいろとありがとうございました』というお言葉。オランダでも距離が近い瞬間はありましたが、
こんなことはなかった。雅子さまの肉声を聞いたのは何年ぶりでしようか。もう何年も会見にもお出になりませんし、
今回も初めは何に対してのお言葉なのか思い当らず、皆ぽかんとしていました。
おそらく結婚二十周年の各社報道に対してなのでしょう。
この日の雅子さまは特に上機嫌なのが見ていてよく分かりました」(同前)
この前日は皇太子ご夫妻の結婚記念日だった。東宮御所では天皇皇后や秋篠宮ご一家、
妹の池田礼子さん夫妻らを迎え、お祝いの夕餐が開かれたが、
じつはこの日の雅子さまはご体調が優れない様子だったという。
東宮関係者の証言。
「午後6時半過ぎから9時前までのご内宴でした。両陛下をお迎えするということもあり、
妃殿下も相当緊張なさっていたようで、具体的には控えますが、直前は特に良くなかったようです。
翌朝の雅子さまが、非常に高揚したご様子だったのは、両陛下とのご内宴を無事に終えた
解放感からではないでしょうか。…
別の宮内庁担当記者はこう指摘する。
「やはりギリギリにならないとご体調の判断は付かないようです。じつはオランダ出発前もそうでした。…
実際は直前まで、本当に行って大丈夫なのかというほど体調は優れなかった」
一方、6月1日に行われた学習院初等科の全校参観では、雅子さまのお元気そうな様子が
保護者の間でも際立っていたという。
「雅子さまは、はしゃいだように他のお母様に
『おたくのお子さんって最近、沼津の遠泳に向けて髪を切られたの?お似合いね』などと
積極的に話しかけられていました。一緒にいらした皇太子さまは
あまりお話しになりませんからよけいに目立っていました。でも4日の朝、
愛子さまの修学旅行のお見送りにはいらっしゃらなかった。
大きな荷物もあるので、ほとんどの保護者は来ていました。
『昼夜逆転の雅子さまには朝早すぎるのかしら』ともっぱらの噂でした」(学習院関係者)
こうした雅子さまの“ご体調の乱高下”は、思わぬところにも影響している。
「ご成婚二十年に際して、両殿下のご感想がペーパーで出ましたが、
当初、宮内記者会は7日金曜日中の発表を求めていました。
翌々日に迫った結婚記念日の特別番組や特集ページの編集のためには、時間的余裕が必要だったからです。
しかしペーパーが回ってきたのは、日付も変わった夜中1時過ぎ。
真夜中まで推敲されていたということでしょうが、何をするにしても準備万端整えるという
これまでの皇室の行動様式からすると、この時間はちょっと考えられません。しかも翌日昼には追加訂正が来た。
何かと思えば、『今後とも、長い目で温かく見守っていただければありがたく思います』
という一文が加えられたのです」(前出・宮内庁担当記者)…
そうして迎えた9日当日。関係者の注目を集めたのは、とある人物のインタビューだった。
宮内庁の要職を離れてから約1年の沈黙を破り、初めて公に向かって口を開いたのは、
野村一成前東宮大夫(73)だった。…
野村氏は2011年7月に東宮大夫を辞し、その後も皇太子ご夫妻の強い意向で期間を延長しながら、
翌年の3月いっぱいまで宮内庁御用掛を務めた。外務省出身で、旧ソ連大使館では
雅子さまの父・小和田恆氏の部下であり、雅子さまを幼少期から知る人物だ。
「東宮大夫着任早々、周囲の反対を押し切り、オランダ静養を成功させたのが野村さん。
雅子さまの信頼も厚かった。このインタビューも宮内庁と話し合った上でのことで、
もちろん雅子さまのご意向に沿うものでしょう。野村氏はこれからも折に触れて発言すると洩らしているそうです。
しかし、一度身を引いた人間が“陰のスポークスマン”として戻るのはいかがなものか。
現職の面目は丸つぶれです。たしかに小町(恭士)大夫は雅子さまとうまくいっているとは言えません。
だからといって退任したばかりの前任者が、皇太子妃のご体調を公に発言するというのは、
禁じ手でしょう」(皇室担当記者)
天皇皇后に近い千代田関係者も同様の感想を持ったようだ。
「このインタビューでは、雅子さまと野村氏が最近も連絡を取っていらっしゃることや、
野村氏と担当医である大野裕医師の関係の近さが、言葉の端々から窺い知れます。
前皇室医務主管の金澤一郎氏は、今では天皇皇后両陛下とはほとんど連絡を取っていないそうです。
それが現職の方がいる前での司司(つかさつかさ)のけじめなのです。」


ご成婚20周年に……文春「皇后にふさわしいのは“雅子妃38%””紀子62%”」  新潮「“雅子妃”不適格」
2013年06月13日12時00分
先週の6月6日および本日6月13日に発売に発売された『週刊文春』と『週刊新潮』。
両誌とも、ここ2週にわたって皇室の――特に雅子様に関しての記事を掲載している。
6月9日に皇太子さまと雅子さまがご成婚20年を迎えるタイミングにあわせたものだと思われるが、
いずれの記事も「ご成婚20年をお喜び申し上げる」といった趣旨のものではないようである。
週刊文春の6月6日発売号では、「雅子さま ご成婚20周年 小和田家vs.宮内庁 書かれざる『6大事件』」と称し、
・ご結婚前に天皇皇后に届いた父・恆氏の不穏当な発言
・新婚生活の裏側“基礎体温”で更迭された東宮侍医長
・朝日ご懐妊スクープで激しい非難を受けた宮内庁幹部
・皇太子ご夫妻軽井沢の危機 小和田家別荘から絶叫が響いた日
・「人格否定」「プレス」「キャリア」小和田家のレトリック
・オランダ親子面会は東宮職も「直前まで知らなかった」
という事件を紹介。そして「誕生会見での“感情失禁”から“異様な母子”と呼ばれるまで」、
「“失われた十年”のはじまり 人格否定発言の本当の理由」という記事を載せている。
極めつけは、2ページにわたって掲載されている「皇室の将来を考える1500人大アンケート」で、
週刊文春のメルマガ読者1500人に「雅子さまと紀子さまのどちらが皇后にふさわしいか」
というアンケートをとっている。
その結果、「雅子妃38%」「紀子妃62%」であったという。
そして、アンケートに答えた人の辛辣な意見が多数掲載されている。
6月13日発売号では「雅子さま“陰のスポークスマン”が語りはじめた“ご体調乱高下”の真実」という記事を掲載、
これは、6月9日のご成婚20周年に関して“陰のスポークスマン”である野村一成前東宮太子(原文のまま)が
NHKのインタビューに答えていた件についてのものだ。
週刊新潮は6月6日発売号で「“雅子さま”と結ばれる日を夢見た“福田赳夫元総理”外孫の代議士」
という記事を掲載している。
雅子妃には皇太子さまとのご成婚の前に、越智隆雄代議士と知られざるロマンスがあったというもの
。とはいえ、内容は憶測の域を出ていない。
だが、6月13日発売号に掲載されたのは「“雅子妃”不適格で“悠仁親王”即位への道」という
かなり過激なタイトルの特集記事である。
・ついに「雅子妃に皇后は無理」の断を下した美智子さまの憂慮
・「皇太子即位の後の退位」で皇室典範改正を打診した宮内庁
・「秋篠宮は即位すら辞退」が頂上会談で了解された深い事情
・「悠仁さま」電車通学を提案した「秋篠宮殿下」の未来図
という小見出しで、7ページに渡って雅子妃や悠仁さまの現状、皇室典範の改正の動きなどについて書かれている。
めでたいはずの皇太子さまと雅子さまの“ご成婚20周年”であるが、両誌とも祝福とは程遠いものとなっていた次第だ。
http://news.livedoor.com/article/detail/7762696/

誰もわかっていない文民統制

WiLL2009年2月号
誰もわかっていない文民統制 (一部抜粋)
櫻井よしこ

福田康夫前首相は、首相就任後間もない07年11月、
自衛隊高級幹部会同に出席しながら、自衛隊の栄誉礼・儀仗を辞退した。
ちなみに、同会同は、全国の幹部自衛官が最高指揮官の訓示を聞き、それを各部隊に伝えるための恒例行事だ。
首相辞任を発表した直後の(今年)9月3日には、同会同に、代理も立てずに欠席した。
繰り返すが、会同には、全国の自衛隊幹部が集まる。
最高指揮官としての首相の訓示を聞き、日本の領土領海、国民の生命を守るための心得を再確認する場である。
究極の状況では、自衛官は死をも覚悟して任務を遂行する。
そのような隊員を代表する幹部の会同に、国軍の最高指揮官が故なく欠席することは許されないのだ。
にも拘らず代理も立てずに欠席したのは常軌を逸しており、首相自ら文民統制を放棄していると言わざるを得ない。
自衛隊に好き勝手して下さいと言うに等しい。
これこそが暴挙だと、あの時、政治家やメディアはどれだけの熱意で警告しただろうか。
福田前首相の責任放棄を批判することなく、田母神論文に関して文民統制を錦の御旗として批判するしたら、
その判断基準は明らかに二重構造だ。
田母神氏が、個人の歴史観を発表したことと、文民統制は、本来、何の関係もないのである。
田母神氏への非難は、判断基準の二重構造に加えて、事実誤認によっても行われていた。
一例が11月8日の『朝日』の天声人語である。
天声人語子は、「軍隊を文民政治家の指揮下に置く仕組みは、民主国家の原則」として、文民統制の重要性を指摘。
東京裁判で文官としてただひとり、極刑に処せられた元首相の広田弘毅について、「軍に抗しきれなかったとされる
宰相の悲運は、文民統制なき時代の暗部を伝えてもいる」と書いた。
『朝日』は田母神論文を「実証的データの乏しい」ひどい内容だと非難したが、自らの実証的データの乏しさ、
というより、明確な誤りは気にしないのだろうか。「軍に抗しきれなかったとされる宰相」広田の悲運というが、
支那事変当時、外相広田は、中国に高圧的姿勢をとり、陸軍大臣と歩調を合わせて事変拡大に積極的だった。
「軍に抗しきれなかった」と言えるわけではないだろう。
このような、文民統制という言葉の間違った使い方とその乱用こそが、日本の進路を誤る原因となる。


1920〜30年代の中国研究における米国の第一人者の一人で、駐北京公使を務めたジョン・マクマリーのメモランダム、
『平和はいかに失われたか』(北岡伸一監訳、原書房)が一例だ。
同メモランダムは日米開戦時のグルー駐日大使や、戦略論の大家であるジョージ・ケナンら、
米国のアジア問題専門家らに影響を及ぼし続けてきた。
同メモランダムでは20〜30年代の日中関係はどのように分析されていたか。
21年のワシントン会議では、太平洋地域の緊張緩和のための枠組みが作られた。このワシントン体制は、
中国の主権保全のために、各国はこれ以上の特権や地位を要求せず、当面は互いに協調し、いずれ中国が
健全な国家機能を回復する段階になるまでは現状を維持するという趣旨で、
中国にとっては非常にメリットの多い取り決めだった。
だからこそ、中国も条約遵守義務を果たしたうえで、不平等条約体制撤廃に向けた努力をしていくことが求められていた。
ところが、中国は義務を一方的に破棄し、関税実施を強行した。
その措置は諸国の中でもとりわけ日本に深刻な打撃をもたらした。
マクマリーは、「日本陸軍の現役兵士官達と『浪人』といわれる
愛国主義の権化のようなあの無責任な連中」の存在を批判する一方で、
日本政府が31年の満州事変までは、ワシントン体制の「
協約文書ならびにその精神を守ることに極めて忠実であった」、
「中国問題に最も深く関わっていた人々は、日本政府は申し分なく
誠実に約束を守っていると考えた」ことを強調している。
満州事変を起こした日本を「不快」と断じながらも、マクマリーは、
「日本をそのような行動に駆り立てた動機をよく理解するならば、
その大部分は、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、(満州事変は)事実上中国が『自ら求めた』災いだと、
我々は解釈しなければならない」と分析したのである。
日本の戦争が侵略戦争だったと主張し、その事実“事実”を疑ったり、
否定したりすること自体が許されないと主張する人々は、
当時の国際社会の視点を、当時の資料に立ち戻って、複眼的に見る必要がある。
侵略として非難される満州事変についても同様である。国際連盟が派遣したリットン調査団は次のように報告した。
「問題は極度に複雑だから、いっさいの事実とその歴史的背景について
十分な知識をもったものだけがこの問題に関して決定的な意見を表明する資格があるというべきだ。
この紛争は、一国が国際連盟規約の提供する調停の機会をあらかじめ十分に利用し尽さずに、
他の一国に宣戦を布告したといった性質の事件ではない。
また一国の国境が隣接国の武装軍隊によって侵略されたといったような簡単な事件でもない。
なぜなら、満州においては、世界の他の地域に類例を見ないような多くの特殊事情があるからだ」
日本の侵略と簡単に断ずることは出来ないと、リットン報告書は言っているのである。

そして村山談話である。果たして、村山談話は、それに反したからといって更迭されるほどのものなのか。
村山富市氏は1994年6月に自社さ連立政権で首相となった。翌95年は戦後50年目の年だ。
社会党委員長を首相として迎え入れる世紀の妥協をした自民党は、政権政党であり続けるために、
社会党的価値観の受容に走った。そのひとつが戦後50年の節目に出された“国会における謝罪決議”だった。
この件については『諸君!』2005年7月号に西村眞悟氏が次のように書いた。
自社さ政権の下で国会における謝罪決議が構想され始めたが、反対の声は超党派で強まり、
決議案が上程されても否決されることが明白になった。
すると6月9日の金曜日、「本日は本会議なし、各議員は選挙区に帰られたし」
との通知が衆議院内にまわされ、反対派の議員らは選挙区に戻った。
その隙を狙ったかのように、土井たか子衆議院議長が金曜日の午後8時近くの遅い時間に本会議開会のベルを押した。
結果、265人の議員が欠席、議員総数509人の半数以下の230人の賛成で決議案は可決。
だが、参議院は採決を見送った。これでは折角の決議の権威もない。評価もされない。
そこで首相らは次に総理大臣としての談話を出す道を選んだ。1995年8月15日、
村山氏は学者や谷野作太郎内閣外政審議室長ら少数の官邸スタッフらと練り上げた談話を閣議に持ち込み、
古川貞二郎官房副長官が読み上げた。この間の経緯は、「閣議室は水を打ったように静まり返った」と報じられた。
事前説明なしで突然出された談話に、閣僚は誰ひとり反論出来ていない。
自民党にとってこのことこそが痛恨の一事であろう。
談話を出すに当って首相は記者会見に臨んだ。そして、「談話で日本が過去に国策を誤ったとして謝罪したが、
具体的にどの政策をどのように誤ったと認識しているのか」と問われ、村山首相は絶句した。
国会決議の卑劣な出自。自らの談話も具体的に説明できない虚ろな首相。
村山氏の政治家としての、否、それ以前に、人間としての資質は興醒めである。
社会党時代、長きにわたって氏は自衛隊を憲法違反だと非難した。首相になった途端に合憲だsと主張を変え、
自衛隊員に国家防衛の崇高な任務に励めと訓話した。
しかし、首相を辞して社民党に戻ったら、またもや自衛隊違憲論に戻ったのだ。
国家の重要事に関して二転三転した節操なき人物の談話を、私たちはいつまで金科玉条として掲げ続けるのか。
問うべきは内容の曖昧なまま横行する文民統制と、村山談話のいかがわしさである。

皇太子54歳誕生会見 前代未聞の「ご発言改ざん騒動」

週刊文春2014年3月6日号
雅子さまの外国ご訪問をめぐり
皇太子54歳誕生会見 前代未聞の「ご発言改ざん騒動」
…そして皇太子が約40分にわたる会見の締めくくりに、ご一家での外国訪問について、こう回答されたのだ。
〈やはり雅子にとっても外国訪問が治療上も良いのであれば、そしてまた、愛子にとっても
視野を広めるという意味で外国の地を見ておくことが良いのであれば、様々なことを考えて、
今後ともどのような外国訪問ができるかということをいろいろ考えていく必要があると思います。
実際、私たちもそのようなことをいろいろ考えているところではあります。〉
宮内庁担当記者が話す。
「ずいぶん具体的に仰ったなと思いました。多くの記者が『両殿下はスイスご訪問に前向きなのだ』と
考えたはずです」
昨年のオランダご訪問、被災三県のご慰問などV字回復を期待された雅子さまのご体調だが、年明けから
再び停滞期に。今年一年の見通しも立っていない状態だが、
それを占う意味でも、海外訪問は重要なイベントだと言える。
(略)
外務省関係者が内々に明かす。
「一切報じられていませんが、実はスイス大使から招待状として、正式な外交文書である
『口上書』が既に送られているのです」(外務省報道課は「そのような事実はない」と回答)
スイスは“国連一家”とも言われる雅子さまのご実家・小和田家にとっても縁の深い国。
雅子さまの双子の妹である池田礼子さん、渋谷節子さんがジュネーブ生まれであり、
礼子さんはジュネーブに本部を置く国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)勤務の経験がある。
一方の節子さんは、夫が世界保健機関(WHO)に勤めていた関係で、ジュネーブに住んでいた。
「しかし、昨年のオランダご訪問の際、雅子さまのご体調の見極めに時間がかかり、
先方の王室からの招待の返事を一ヵ月以上も引き延ばしたことで、宮内庁だけでなく、
政府関係者からも『あり得ないことだ』と批判された。その轍を踏まないために、
スイス行きについては、公表の時期など、慎重かつ秘密裡に進めようとしているはずです。
被災地訪問より先に外国訪問検討というのがニュースになるのでは見場が悪いですから」(宮内庁関係者)
例年通り、誕生日会見の質問は、記者会が事前に宮内庁とやり取りするかたちで決められた。
準備されていた五つの質問について、皇太子は用意されたペーパーを見ながら淀みなくお答えになった。
「その後、関連質問として代表の記者から二つ質問し、アドリブでお答えいただいたのです。
殿下は一言一句、言葉を選んで慎重にお答えになっていましたが、最後の最後で
〈実際、私たちもそのようなことをいろいろ考えている〉と仰った。
お心がそのまま出てしまったように見えました。やはり殿下の中で、雅子さまと一緒に外国訪問をしたい、
という思いが大きなウェイトを占めているのでしょう。
(略)
だが、会見後に事態は急転直下。東宮職は宮内記者会に対し、“発言の追加”を申し出たのだ。
「皆が千代田の宮内倶楽部に戻ってきた後、東宮職から幹事社を通じて連絡があったのです。
『関連質問問二の会見録には“一般論として”と付け加えてほしい。
記事を掲載する際にはその真意を汲んで書いてほしい』という。
つまり、発言は特定の国を想定した上でのことではない、というのです。
皇太子が発言を修正するなんて前代未聞。記者会では『ご発言の改ざんになってしまう!』
という声も上がりました。けっきょく、全社一致で受け入れられない、と突き返したのです」(宮内庁担当記者)
記者会の強い主張に、東宮職は引き下がったという。
この騒動を、別の宮内庁担当記者はこう分析する。「結局、雅子さまへの行き過ぎた配慮が
事態を混乱させているのです。外国訪問が〈治療上も良い〉というご発言も、海外公務を
雅子さまの私的な治療に役立てるような印象を与えてしまう。海外訪問が雅子さまにとって
いかに重要かというのがよく分かります」
海外訪問だけではない。全般的に今回の会見では、雅子さまについての言及も多く見られた。
会見冒頭、一年を振り返って印象に残ったことについて皇太子は、国内での
自然災害から話を始められたが、
「会見が始まって早々に、被災地を〈雅子と共に訪問しました〉とか、〈雅子と共に、
被災地の復興に永く心を寄せていきたい〉と仰る。他にもオランダ訪問は〈(雅子さま)
本人の努力も実り、無事に訪問を終えることができました〉など、これではまるで
雅子さまの“スポークスマン”です」(千代田関係者)
(略)
あるベテラン宮内記者も、落胆を隠さない。
「皇太子ご自身の肺腑から滲み出てきたようなお言葉には感じられませんでした。
例えば、一年を振り返ってのご感想は、被災地、オリンピック、オランダご訪問、
マンデラ大統領の追悼式の話など、総花的で事象を網羅した非常に長い回答でしたが、
まるで論文を読み上げているようでした。特に何を仰りたいのか、わからないのです」
(略)
「被災地への思いも隔靴掻痒です。言葉数ではありません。昭和天皇は災害の被災者に向かって
『気の毒に思う』とただ一言だけでした。でもそれだけで見出しになる力があった。
一緒に歩んでいただいている、という思いを国民が感じるやめにはご自身の言葉が必要なのです」(同前)
昭和62年12月、同じ54歳の誕生日を前に、皇太子時代の天皇が臨まれた記者会見は柔軟で、
腹蔵無い、ハイレベルなものだった。当時の会見は、現在のように皇太子のお答えを
拝聴するだけでなく、皇太子と記者が会話のやり取りをしていた。
「当時皇太子だった陛下は天皇の地位について、憲法の解釈や天皇機関説事件などを
引きながら、当意即妙にお答えになり、記者も、中世以降の天皇の在り方を踏まえた上で
歴史的な質問をしていたのです。一方で、浩宮さまのご結婚に時期について問われると、
殿下は〈こういうことは、前にお答えしたように、お答えしないことにしています〉と
ぴしゃりと仰る。会見は殿下の威厳を感じる場でした」(皇室ジャーナリスト)
誕生日夕刻、ようやく騒動が収まった頃、東宮御所には天皇皇后や黒田清子さん夫妻、
雅子さまの妹家族らがお集まりになり、内宴が催されたという。
「この4月に愛子さまが進学される学習院女子中等科や、夜更かしをしながらご覧になった
オリンピックについてお話しになったそうです」(別の宮内庁関係者)
(略)