愛子さま不登校関連 雑誌等2

週刊文春2010年4月22日号
▼愛子さま同級生「暴力」で前代未聞の退学−皇族の「新学期」が始まった
愛子さまを強引に通学させ再び"登校拒否"になることを恐れて、徐々に慣れさせる方針。
2年西組にいた児童が3/31に退学していた。他クラスの子が教室に入ってきて暴力を振るう、と訴え。
この児童の両親は信頼を覆した学習院に対してより強い怒り。
暴力を振るった子が「暴れん坊」かどうかは不明。
「暴れん坊」は北組から東組へ。愛子さまは南組のままなので、もっとも離れたクラスに。
4/7、皇太子一家が学習院を訪問したが、背景には学習院の焦り。理事ほか2名が出迎え、
皇太子夫妻への説明には波多野院長らの(マスコミで語るような)居丈高な調子ではなく、ひたすら低姿勢。
学習院は皇族と言えども特別扱いしないが伝統だが、
春休み期間中に一部の父兄にだけ説明なんて特別扱いもいいところ。
雅子さまの参観も続いている。昔の院の伝統を取り戻して欲しい。(学習院OB)

女性自身2010年4月27日号
雅子さま・愛子さま<傷心ケア>へ学習院と「決意の直談判」120分!
愛子さまはボーゲンから足をそろえて滑れるようになったようだ。
4/9、遅れて登校した愛子さまは式には出ず、雅子さまと教室で待機。まだ不安を感じるらしい。
翌10日、一家は千葉県へ出かけ、友達と一緒に(午前中貸し切った)スケートを楽しむ。
雅子さまは2日間に渡って愛子さまと仲の良かった子(クラスが別れた子も)を
東宮御所に呼び、「これからも友達でいてね」と心を砕く。
7日、一家で学習院を訪れるが、「ちょっと行くから」と連絡があった。(波多野院長)

サンデー毎日2010年4月25日号
ついに出た退学者
4月9日8時20分、学習院初等科 2階の正堂で始業式が始まる
それから30分後の8時50分、雅子さまと一緒にワンボックスカーで乗り付けた愛子さまは小走りで教室に。
始業式には出席しなかったが、雅子さまとともに「3年生の新しい生活に備えての授業の時間」に出席。
学習院側としては、「看護当番」といって教員が休み時間の生活指導を従来から行ってきたが、
今年度から教員の数を増やし、徹底するように務める とのこと。
しかし、最も危惧された事態が起こってしまった。愛子さまの学年の一人の児童が退学した。
3月5日の騒動以前から、男児による乱暴な振る舞いや学級の乱れに巻き込まれていた児童がいたが、
そこに例の件での報道合戦が加わり、親御さんが「うちの子に何かあってからでは遅い」と修了式の日に退学届けを提出。
この児童はごく普通の子だったが、男児のイジメの対象になり困惑していた。
また、その問題児童と通学路がほぼ同じことも、両親の悩みの遠因だったようす。
学校側は届けを保留にし、慰留に努めたが、決心は変わらず、4月からは公立小に転校。
愛子さまは休み時間などは、友達と仲良く談笑しているそうで
漫才師みたいに「なにゆうてんねん」で話して笑いあっている。
学習院広報課でも、その事実は認めながらも、今回の一連の件とはまったく関係ないと説明。

女性セブン2010年4月29日号
皇太子妃雅子さま・愛子さま始業式欠席に込めた<ふたつの>「不信」
愛子さまが始業式を欠席したのは雅子さまの意向が影響。
4/7に一家は学習院を訪れたが、応対したのが教頭と女性教諭。
皇族である二人が訪問したのだから、科長(校長)が出てきても良いはず。
今まで皇族が在籍する6年間は主管(教師)は変更無しが慣例だったが、
新年度は(4人中)2人が変更になっており、学習院としては最大限の努力をしているつもりらしいが。
夫妻が訪問するまで学習院からの(主管変更などの)報告はなかった。
学習院を出た雅子さまは落胆の色が濃かった。
東宮職の対応。要望などがほとんど学習院に伝わっていない。波多野院長が認めている。

週刊現代2010年5月1日号
遅刻に早退 愛子内親王「新学期」課題
愛子さまは「お辞儀」と「挨拶」があまりうまくできない。
感情のコントロールも上手ではなく、押し黙ってしまうことも(初等科関係者)
不登校発覚後、徒歩から車登校へ。
皇太子は「ゆっくり見守りましょう」
愛子さまは学業成績は優秀。対人関係の形成が不得意で、時折、悔しそうな表情をあらわにされる。
「学校に行きたくない」が始まったのは、実は昨年秋頃から。

サンデー毎日2010年5月2日号
父母会
雅子さまは一度愛子さまを東宮御所に見送った後戻って出席。
雅子さまも男児の母親も父母会に欠席すると思われていたのに出て来て、
「勇気があるというか、KYというか...」(初等科父兄)
二人が出席していたために、初等科長の話も抽象的で判りにくいものになった。
科長は、良いことは良い、悪いことは悪い、報道は必ずしも事実を伝えてない、
低学年では勉強は家庭でも教えられるが、対人関係は学校でないと学べない等々の話をした。
初等科長の話の途中メモをとる手が止まり不快そうな表情が露に。内容に不満だったのだろう。

FACTA5月号 VOL.49
嘆かわしき皇太子夫妻
娘の不登校で世の中を騒がせて何とする。危機管理なき野村東宮大夫には資格なし。
またもや騒ぎの発信源は、皇太子一家である。天皇家の家庭問題は、
2004年の皇太子「人格否定発言」以来、絶えずマスコミの俎上に載せられ通しだ。
そこへ今回の愛子さま不登校事件。こんな私的なことがなぜ表沙汰になるのか。
「修身斉(ととの)える)」あってこその「治国平天下」である。
次代の象徴天皇には、この言葉の意味を十分理解してほしい。
「学校生活にもすっかり慣れて、毎日楽しんで通学しています」。
学習院初等科2年(当時)の愛子さまについて、皇太子は2月、満50歳の誕生日を前にこう述べた。
ところが会見直後の2月22日から、愛子さんは微熱を訴え授業を欠席していた。
腹痛などを理由に、学校へ行くのを嫌がった。典型的な不登校の症状である。
■残念な天皇の「お出まし」
3月5日午後、野村一成東宮大夫は定例会見で、「複数の男児の乱暴な行動があるので欠席している」と公表した。
理由は「公の立場の方が1週間学校に行っていないから」だという。
そして「同学年の違うクラスの複数の男児が、愛子さまらに乱暴をした」と、独自の調査結果を公表した。
学習院側は「愛子さまをターゲットにした暴言・暴力行為は、一切ない」と見解を異にしている。
その後は雅子妃が付き添って、一限だけ登校するなどし、16日の修了式、4月9日の始業式にも出席しなかった。
いじめや校内暴力はどこにでもある。学習院だって同じだ。
東宮職には学習院幼稚園長を務めた女官がおり、愛子さまはお付きと皇宮護衛官と一緒に登下校する。
彼女が被害者になったのは昨年夏ごろからのようで、「いじめ情報」は早くから東宮職幹部や両親に上がっていた。
こうしたケースは内部処理で済ませるのが常識だが、なぜ東宮大夫がメディアに好餌を提供したのか。
同級生に悪影響を及ぼすことは必至で、既に週刊誌は「犯人」を割り出し、
「小2で体格のよい乱暴者」などと書いている。騒ぎの発端は野村大夫にある。
翌週の会見で、「皇太子夫妻が本当に公表しろと言ったのか」と質すと、
「私の口からは控えたい。しかし、両殿下の了解なしに発表することは想定できない」と答えている。
しかし、それを抑えるのが危機管理であろう。
波多野敬雄学習院院長には、野村大夫から事前連絡があり、
会見内容のファクスも入っていた。野村は波多野の外務省の後輩にあたる。内容に異議を挟むと、
「愛子さまがそう言っている話なんだから、しょうがないじゃないか」と言ったという。
「野村も苦しい立場なのでしょう。しょうがないじゃないか、と繰り返すばかりでした」(「週刊朝日」3月19日号)。
さらに「どこまでが野村の発意で、どこまでが違うのか。
ただ、野村が勝手にやっているわけではないでしょう」と発意者を暗示している。
2月5日、東宮職医師団は、雅子妃の病状は確実に回復に向かっている、としながらも「なお体調には波がある」、
公務に就くのは「さらなる時間が必要」と発表した。海外公式訪問は負担が大きすぎるが、
私的なら「治療の面からも効果的」という。発表文は妃と調整をした上である。
当然、妃の意思も勘案される。皇太子も先の会見で「(旅行は)雅子とともに考えていきたい」と語った。
今年の夏は4年前のオランダに続いて、再び海外静養のようである。
今回の件は、6年前の「人格否定発言」と構図が似ている。
皇太子は「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実」と述べ、
妻の気持ちを縷々代弁した。
そして、してはならない「臣下の批難」を口にした。
天皇は驚き、「“動き”という重い言葉を伴った発言であったため」、
皇太子に説明するよう求めた。私的なことを公の席上で述べたことは大きな反響を招き、
天皇家のコミュニケーション、嫁姑の仲、天皇、皇太子、秋篠宮の発言など家庭内部の問題が
毎週のようにメディアで取り上げられた。
今回も天皇皇后は憂慮し、9日には野村を呼んで事情を聞いている。
「学校や複数の児童が関係する問題であり、いずれかが犠牲になる形で解決が図られることのないよう」と言ったという。
またもや残念なことに、天皇の「お出まし」である。
■まず「斉家」に努めよ
皇太子は50歳である。父天皇も結婚直後は「マイホームパパ」などと言われ、週刊誌などで酷評された。
沖縄の「ひめゆりの塔事件」は41歳の時。その夜の県民へのメッセージを読むと、
悪口を言われていた時代から、沖縄に深い関心を寄せていたことが分かった。
その後平和について積極的に発言し、象徴天皇、皇室のあり方について、自分の言葉で語っている。
ところが皇太子の発言には、印象的なものはあまりない。
先の会見では、天皇が昔言った「忠恕(ちゆうじよ)」を引用したり、
また皇室観の話もしたりしたが、父の借り物だった。
「雅子との結婚、愛子の誕生により、心温まるやすらぎのある家庭を持った」と述べたが、
本当にそうなら家庭内の波風は表面には出まい。
天皇の「即位後の朝見の儀」のお言葉は、天皇制に距離を置く人たちにも広く支持された。
災害時の真心のこもった見舞い、戦後50年の「慰霊の旅」、60年の時のサイパン島訪問。
高齢で夫妻とも決して体調は万全ではないが、多彩なメッセージを送り続けている。
それに比べて、とやっぱり言いたい。
将来の皇室像について皇太子はどう考えているのか。皇位継承の問題は皇太子の責任ではないが、
この一件で女性天皇派は後退するのではないか。とりあえず、まず「斉家」に努めよ、と言いたい。(敬語敬称略)


テーミス2010年5月号
愛子さま不登校問題の波紋
「皇太子ご夫妻『皇位継承』へ疑念が噴出!」
皇太子ご一家の"異例訪問"(始業式2日前の初等科突然訪問)について、
TBSが夕方のニュース「Nスタ」で報じた。ところが、翌朝、その項目が番組のHPから
削除されたことも波紋を広げた。「実は2日の定例記者会見で、東宮大夫と記者会の間に一悶着あった。
4月2週目のご夫妻の公務予定が非常に少なかったので
『両陛下が須崎でご静養中に、また家族で出かけるのか』と、記者会が突っ込んだ。
大夫はしどろもどろだった。放送後、東宮職側がかなり強く抗議したようだ」(皇室担当記者)
雅子さまと東宮職側のコミュニケーションは、以前、成立していない状態だ。
雅子さまは国連関係の公務に"急遽"お出かけになることがよくある。
「なぜ東宮職はとめないのか」との疑問があるが、
「雅子さまに怒鳴られないようにするだけで精一杯の状態が、ご発病以来続いている」(宮内庁関係者)
「雅子さまは気分が上向きになると『何かしなくちゃ』と張り切られる。会見の直前も
"ハイ状態"で、野村大夫は雅子さまから『発表するように』と、かなり詰め寄られたという。」(皇室関係者)
■ご夫妻のコメントに違和感も
昨年4月の末綱侍従長突然辞任や、2ポストの新設。
元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司氏
両陛下の東宮時代には日頃の交流があったので、係員にいたるまで両殿下のお考えを
理解しているという自信を持って仕事が出来たが、そのような環境作りのない状況で、ポストだけを増やしても無意味
3月19日、皇太子ご夫妻は「愛子の欠席で国民の皆さまにと心配をかけ、私たちも心を痛めております」
というコメントを発表した。これに違和感を持った関係者も多い。

週刊文春2010年6月10日号
「東宮御所には、学習院と、愛子に暴力を振るった子どもの保護者に謝罪を求める声があります。
でも私は、それをすべきではないと思っています」御所を訪れた皇太子が天皇皇后にそう漏らされた。
皇太子はさらに続けられた。「あのような会見をすべきではなかったのではないかと思っていました」
会見は基本的に雅子さまの要望に沿ったもの。皇太子も迷っていたが結局止めなかった。
「皇太子もご意志を明確にされなかった」。皇太子は、お一人で決断される事に慣れておられない。
東宮御所幹部は「あの方(皇太子)はああいう方ですから」
「殿下がはっきりと中止を明言しないために、会見が開かれたのだと言いたいようでした」(皇室関係者)
不登校会見の直前に皇太子は携帯電話で「皇太子に近い人物」に会見の是非を相談しようとしたが行き違いになった。
5月半ば、皇太子の頭皮にはストレス性の発疹
先日の迎賓館におそろいのお出ましは、「妃殿下と愛子さまは当初、
出席される予定はなかったのですが、途中から参加されました」
その後、全員で秋篠宮邸でお食事をされましたが、通常なら東宮御所に集まるものです。
妃殿下と愛子さまの状態に配慮されたのでしょう。(皇室ジャーナリスト)


週刊新潮2010年6月10日号
愛子さまの4時間目登校は雅子さまが決めた。(そういうアドバイスがあった)
1時間目よりも昼前後の出席のほうが「クラスにいた」という印象が同級生に残り、
愛子さまがクラスに戻りやすいとの配慮から。
「乱暴少年」の両親は今回の報道を受けて、自主退学を申し出たが、学習院が認めなかった。
その理由は、これを機に退学となると、野村東宮大夫は少年を退学に追い込んだ張本人となり、
雅子さまは怖い存在、愛子さまは近寄ると面倒だと思われかねないから。
神田秀一氏「今回、東宮大夫が発表するに当たり十分な対応がなされたとはいえない。
これまでの東宮大夫は現場に足を運び、教諭に直に会うなど解決の努力をしてきた。
だが今回は電話とファックスで学習院の了解をとったという程度の手続きで発表しており、
認識の欠落があるのではないか」
「雅子妃の気持ちはわかるが、ご夫妻は『普通の子と同様に教育してほしいといっている』のだから
単身の参観を認める学習院もおかしい」
東宮大夫の会見前に、皇太子殿下から両陛下には会見の内容について報告はあったはず。
しかし、殿下からの説明が不十分で、両陛下にはあれほど踏み込んだ内容になることについては伝わっておらず、
そのために9日、東宮大夫が陛下にご説明にあがることになった。


サンデー毎日2010年6月20日号
結婚記念日の会食は、9日の予定を、雅子様の体調を考慮され
11日(翌日学校休みの金曜日)に変更(ある皇室ジャーナリスト)
日程変更に両陛下困惑 両陛下は翌12日早朝ご出発予定、他にも超御多忙
以前は両陛下のご予定が何よりも優先されていたが、今度のご予定はどういうこと?といいたくなる(宮内庁関係者)
だが両陛下は「仕方ない、いいよ、いいよ」とおっしゃっている(別の宮内庁関係者)
皇太子様は雅子様に引きずられている、相談できる相手も少ない(皇室関係者)
5/7父母会総会が開かれ、その際の東園常務理事による「箝口令」の他に
「個人を特定するような報道がなされているが、そのお子様がそうであることは一切ない」
父母会総会開催前に疑われた保護者に別の4名の名前が伝えられ、関与を疑われた児童の保護者には謝罪
雅子様の「謝罪をさせる」に、両陛下は驚愕「学校を相手に…」と困惑。

週刊女性2010年6月22日号
愛子さま不登校問題長期化の中、夫婦関係までもが…皇太子ご夫妻 広がる溝
愛子さまは6/4欠席。この日は研修で他校の教職員が多数来校し、授業を参観したため。
10時半頃登校し、お昼頃下校の日々が続く。勉強について繰り返し記者から質問があるが
東宮大夫は「(皇太子ご夫妻を含む)職員が対応している」
「皇太子はそろそろ愛子さまを一人で 登下校させても良いのではないかと考えているが、
雅子さまは自分が付き添わないと、と考えている」(元東宮職関係者)
雅子さまは大野医師に相談に乗ってもらっており、「どう批判をされても気にはしない」。

女性セブン2010年7月8日号
皇太子妃雅子さま−「続く宮内庁異例の発表」の裏を読む
6/19、学習院では翌日の父の日に向けた全校授業参観が開かれる。
去年は皇太子夫妻が出席したが、今年は皇太子はスウェーデン、雅子さまは欠席。
「毎日授業参観しているのに、欠席するとはそんなに体調が悪いのか」。
17日、東宮職から食事会に対する雑誌の記事に対して訂正の申し入れがあった。
両陛下は愛子さまと会うのを楽しみしているのに、雅子さまの体調が原因で取りやめた、
と発表されたことで逆に雅子さまにはプレッシャーになってしまうのではないか。
翌18日には侍従名で訂正を求める書類が掲示板に張り出された。
この日は宮内庁次長による定例会見の日で、通常は口頭での説明後ペーパー、という形だが、
最初から書類という形での公表に驚き。
内容は同記事内での、皇后さまが愛子さま転校のため、5月中旬に母校を訪問したという部分について、
皇后さまは今年に入ってから聖心を訪問したことはないので訂正を求める、という内容。
皇后さまは(いじめ会見を)「本当に発表したのですか」と驚き、
侍従などに「誰もが傷つかないように」とお任せになっているので、みずから動かれることはまず無い。

週刊現代2010年7月10日号
愛子さまは11時(4時限)ごろ登校するが、登校前は雅子さま・侍従・女官が家庭教師役。
特に算数が好きで主要科目は非常に良くできる。
登校し、授業が終わるとすぐさま雅子さまに駆け寄り帰り支度を始めてしまう。
下校後は担任から渡されるレポートを元に補習や宿題。
6/22、10時56分頃、二人の女官を従えて母子がワゴン車から降りる。
門に向かって歩く間雅子さまがしきりと話しかけるが愛子さまは真正面を向いたまま。
今回の男の子も私たちの目からはそれほどひどいとは思えない。
愛子さまに何か問題があると、とたんにあたふたする学習院には辟易している。(同母親)
学習院は皇族を特別視しない伝統を持っている。この程度のことで弱くなっている原因を
家庭教育で発見し、耐えていく力を家庭で与えることが先決という姿勢。
家庭で鍛え直してから学校に戻して欲しい、そうすれば学校としてきちんと取り組むという意味。(橋本明氏)
学習院で他に不登校の子が続出しているわけではなさそうなので、
愛子さま本人に集団生活を苦手としていて、そちらに要因があると捉えるべきでは。
そう考えると現状は無理矢理「登校している」という事実だけを示そうとしているのではないか。(矢幡洋氏)
小和田家では今回の一連の学習院の対応に不満を持っていて、学校に抗議も行った。

サンデー毎日2010年7月18日号
7月2日 この日愛子さまが雅子さまと一緒に登校したのは午前11時30分過ぎ
4時間目の音楽の時間にリコーダーを練習
昼食をはさんで5時間目の道徳、6時間目終了まで学校に滞在(午後3時30分まで)
ただしこの日の6時間目は「放課後遊び」で自由に校庭で遊ぶ。
「愛子さまは他の児童といくつかの球技を楽しまれていた」(学習院の保護者)
この日の昼食は貴賓室で雅子さまと一緒に食べた様子
6月3日 この日は月1度のお弁当の日。給食の日は3階にある食堂で他のクラスの児童と
一緒に食べるが、お弁当の日は各教室でとる。
4時間目の授業を終え、いつものように帰り支度を始めた愛子さまにクラスメートの一人が 
「愛子ちゃんも一緒に食べようよ。お弁当分けてあげるから」と声を掛ける。
愛子さまも表情が明るくなり、にっこりうなずく。
「今日は先生、あまりおなかがすいていないから」と話す担任や、
他の児童からも少しづつ弁当のおすそ分けがあり、やがて一人分のお弁当になった。
「ありがとう。みんなと食べると楽しいね」愛子さまは笑顔で言って、にこやかな表情を浮かべ、
その間雅子さまはやはり教室の後ろで見守っていた。雅子さまもお召し上がりになった。

女性自身2010年7月27日号
雅子さまは愛子さまと親しい同級生の保護者に、夏休みにはぜひ東宮御所に遊びに来て欲しい、と電話。
学習院の夏休みが7/23なのにその誘いは6月からあったため、ずいぶん早くから夏休みの予定を考えているようだ。
夏休みに那須御用邸に愛さま学友を招く計画もある。
羽毛田長官は雅子さまが付き添うことに肯定的ではない。

東奥日報2010年7月23日
愛子さま不登校問題/「良い兆候」も展望見えず
皇太子家の長女愛子さまは、雅子さまに付き添われて一部授業だけに出席する時限登校を続け、
学習院初等科3年の1学期を終えた。宮内庁が「複数の乱暴な振る舞いの男児がいて通学に不安を覚えている」
と公表してから4カ月。最近は愛子さまが同級生と楽しく過ごす「良い兆候」(宮内庁)が増えた。
だが天皇、皇后両陛下が憂慮を示した“不登校”は解決への展望が見えず夏休みに。
雅子さまの療養も続き、宮内庁は二重苦に頭を抱えている。
▽安堵
学期末を控えた20日。東京都新宿区の学習院初等科の体育館では、愛子さまが笑顔で、
クラス対抗のドッジボールに興じた。この日は皇太子さまも雅子さまとともに参観。
2人は穏やかな表情で見守ったという。
「以前に比べたら格段に良い状況になっている」。3年生になってからほかの3クラスの
児童と交流する機会がほとんどなかっただけに、皇太子家のお世話をする宮内庁東宮職幹部も
学習院側も安堵(あんど)の表情を浮かべた。
ただ通常の通学には程遠い。午前10時すぎに雅子さまとともに登校し、教室の後ろで
雅子さまが控える中、午前中の2時限の授業を受け給食を食べずに下校する。写生大会や
泊まりがけの校外学習は欠席し「不登校に近い状態」(東宮職幹部)に変わりはない。
「一日も早く普通に通ってほしい」「どうして最初からいないのかな」。同級生の同情の声はやまないという。
▽義務
2003年末から療養が続く雅子さまは「授業をずっと見るのは大変で疲れがたまっている」(東宮職関係者)。
なぜ、同行を続けるのか。「一緒でないと登校できない」と訴える愛子さま。雅子さまは
付き添いについて「学校が大好きな娘を守るために母としての義務と考えている」(同)からだ。
こうした状況が雅子さまの公務への本格復帰に影を落としている。宿泊を伴う公務での
地方訪問は今年1月の阪神大震災15年の追悼式典に足を運んで以降、途絶えたまま。
一昨年、昨年と出席した皇居での国賓歓迎行事も今年5月のカンボジア国王の際は欠席した。
▽平行線
東宮職と学習院は定期的に意見交換を継続中だ。雅子さまの主治医も大半は出席。
1学期末には皇太子ご夫妻も加わり、東宮御所での自習や夏休みの過ごし方などが話し合われた。
「多くの人と触れ合えば、通学にも良い影響が出るはず」(東宮職)と、
夏休みは外出や友人を呼ぶ機会を増やす予定だ。
ただ、東宮職と学習院との擦れ違いは続く。東宮職側は「怖い思いをして不登校になった事実がある以上、
学校としてもっと真剣に努力してほしい」と要請。学習院側は「いまさら犯人捜しのようなことはできない。
集団の中での人間教育は大切。事情はあるにせよ、普通のパターンで登校してほしい」と主張し、平行線のままだ。
「いずれかが犠牲になる形で解決が図られることのないよう十分に配慮することが必要」と
異例の談話を3月に出した天皇、皇后両陛下。側近によると、心痛は今も続いているという。

週刊朝日2010年8月6日号
■愛子さまが学習院の水泳授業を避けられる憂鬱
愛子様はいじめ会見以来、雅子妃との親子登校を続けてきた
1学期の水泳の授業はすべて欠席
「あの騒動以来、例の男児との接触はない。しかし水泳は学年単位。
乱暴な男児グループと会うと恐怖心がよみがえるのでは、との周囲の配慮か。
愛子様は写生大会・一泊遠足など学年が揃う行事には欠席し続けている」宮内庁関係者
去年のプール授業では楽しそうだったという
「愛子様は泳ぎは少々苦手で『水が怖い』とおっしゃっていた。
『水に慣れること』が目標のグループで楽しそうだったが」学習院関係者

テーミス2010年8月号
愛子さま海外留学へ 皇太子ご夫妻「別居→離婚」危機の波紋
「いまや、愛子さまはお友だちの間でも『お姫さま』扱いらしい。」
7月8日12時半頃、他の母娘と一緒に早退。
校門でバイバイと手を振り合っていたが、動き出したワンボックスカーに
この母娘は「深々とお辞儀をして見送ったのだった。」
この日は10分遅刻しての登校だったが「お二人は慌てず急がず、悠然と校舎に向かわれた。」
「学習院初等科関係者はこう語る。『愛子さまは環境を変えなければ普通に登校されることは
出来ないと思います。でも、いくら東宮家のお子さまであっても、学校が一人の児童のために
教育方針を変えることはあり得ない。愛子さまはとても活発で積極的なお嬢さまだから、
3月の会見は誰かが作り上げたこととしか思えない。
学校を信頼できないのならば、転校とか海外留学もやむを得ないと思います』」
愛子内親王の級友でのあだ名は「トシちゃん」
スイス、オーストラリア留学には小和田ラインで外務省関係者が動いた。
「雅子さまは学校と男児の親に謝ってほしいという思いは変わらないようだ。
皇太子さまを含めて何も進言できない雰囲気があるのでしょう。」(皇室関係者)
「雅子さまは離婚をお望みかもしれない。できなくはない。
どうしても離れたくないなら離婚をして雅子さまが付き人として愛子さまに同行も可能になる」

週刊文春2010年8月12日・19日号
いじめられた時愛子さまは?
三月のいじめ騒動後、学習院では愛子さまと同じクラスの全生徒と父兄にヒアリングを行い、
その結果新たに判明したことがあった。
「愛子さまは主管(担任)を“少し怖い”と感じていた。そのきっかけとなったのが保健室」(学習院関係者)
騒動の前から愛子さまは「お腹が痛い」などと言ってよく保健室に。
「しかし愛子さまの主管が『大したことはない』と認めないことも。
彼女は国語を担当するベテランの女性教師で、どの生徒にも公平に接する評判の良い人ですが…」(同前)
いじめ発覚直後、主管を替えることが検討されることもあった。

サンデー毎日2010年8月15日増大号
「皇太子・雅子さまと学習院「和解」の中身」
皇室関係者
「雅子さまは学習院側に謝ってもらわねばとのお気持ちが強くあったようです。
学習院側はできる限りの対応をしていたようなのですが…」
皇太子ご夫妻と学習院との懇談の場では、学習院側より「いろいろと行き違いが生じてしまい、
申し訳なく思っています。今後もしっかりと対応していきます」と謝罪。 
これに対して皇太子さまは「これからもどうぞよろしくお願いいたします」とあいさつをされた。

愛子さま ボーイフレンド?

女性自身2010年9月14日号
昨年茶臼岳登山をした愛子さまだが、体調が良くなかったためか登頂を断念。
今年は眼鏡をかけた男の子A君(母親・姉も同行)と。
手を使ってよじ登らなければならない箇所もあるが、愛子さまは頑張って登頂した。
山頂付近では愛子さまが、一行の先頭。
愛子さまのすぐ後ろにはA君がいて、愛子さまがよろけたりすると支えてあげていた。
下山し、登頂口付近の駐車場に行く際も、愛子さまが手を繋いでいたのは
雅子さまでも皇太子さまでもなく、A君。
この日はA君も愛子さまと同じ車に乗り込んだ。
「皇太子一家のワンボックスカー、御料車では無いが、それに準じるもの。
その車に愛子さまの友達が乗るということは極めて異例」(宮内庁関係者)
愛子さまから積極的にA君に話しかけたり触れたりしている。
「A君とは幼稚園の頃から仲がいい。初等科1年の時の初等科祭でも手を繋いでいた。
でも、3年生にもなると、手を繋いでいる男の子と女の子はいなくなる」(保護者の一人)
27日でのりんどう湖のメリーゴーランドでも、愛子さまの隣にはA君。
二人は手を繋いだり、時には腕を組み、そして愛子さまがA君をハグしちゃうことも。
この日は、池田礼子さん・渋谷節子さんも来ていた。
A君と愛子さまの仲の良い様子を雅子さまは目を細めて見ていた。
「天皇皇后両陛下は、3人のお子さまたちの同級生に関しては、特別扱いをせず、
平等に扱うといった方針だった。皇太子夫妻は愛子さまと仲の良い同級生と御用邸に
招待されたり、一緒に出かけたりと、とても気を遣っている。両陛下と方針は違うが、
皇太子夫妻の愛子さまへの気持ちが強く伝わってくる。友達との絆を深めることで、
2学期からの登校をサポートしたいという考えなのでしょう」(渡辺みどり氏)
A君はさながら子ども東宮侍従のよう。
動物ランドでは池田礼子さん・渋谷節子さん家族が合流。
節子さんの知人(も同行した)が紹介されたとき愛子さまは両手をA君に回した。
A君は幼稚園時代からの仲良しで、(おっとりしたところが)のびたに似た雰囲気。
りんどう湖ファミリー牧場を楽しまれた後、皇太子一家はイタリアンレストランで夕食。
「レストランでは、池田一家・渋谷一家も合流されたそうです。
同じ27日、天皇陛下が秋篠宮ご夫妻、眞子さま、悠仁さまと軽井沢で登山をされました。」(松崎氏)


女性自身2011年9月13日号
愛子さま、雅子さまのいない動物園で同級生BFと「ひと夏の経験」!
8月23日、10時頃、りんどう湖ファミリー牧場に到着した皇太子ご一家。
皇太子さまは雅子妃とゴーカートに乗り快走。
友人家族3組が同行した愛子さまは楽しそう。22日もハイランドパークなどを精力的に回る。
24日、那須どうぶつ王国を訪問したが連日の外出にさすがに疲れたのか雅子妃は同行せず。
母親不在でも愛子さまは、A君がいたためか楽しそう。
26日は登山予定だったが雨天中止、しかし小雨降るなか那須ステンドグラス美術館へ。
そこにA君一家が待っていた。
19日にホテルで夕食を共にしてから編集部が確認しているだけで6日間はA君と過ごした。
"ひと夏の経験"は愛子さまの小さな胸の奥に大切にしまわれたに違いない。

週刊女性2012年4月10日号
愛子さま のび太似BFと同じクラスでウキウキ5年生
クラス替えに伴って"宮様シフト"に?
この2年で仲の良かった2人の子が転校してしまった。
"のび太似"、"子ども侍従"と呼ばれているA君が同じクラスに。

愛子さま のび太くん似のご友人と那須どうぶつ王国を満喫
NEWS ポストセブン 9月5日(木)7時5分配信
最高気温31.0℃を記録し、避暑地とは思えないほどの蒸し暑さだった8月30日。
この日の午前中、皇太子ご一家は栃木県那須にある那須どうぶつ王国に姿を見せられた。
8月23日から那須御用邸でご静養中のご一家は、他にも朝日岳へ登山に行かれたり、
りんどう湖ファミリー牧場で遊覧船やカートに乗られたり、地元の人気ホテルでランチや陶芸を楽しまれた。
そんな皇太子ご一家が、今回のご静養のメインイベントとして向かわれたのが那須どうぶつ王国で、
愛子さまの同級生数名の家族も同行した。
ご一家は広大などうぶつ王国を隅から隅まで回り、うさぎ、ペンギン、カピバラ、羊、ラクダなども観賞された。
アットホームな雰囲気のご一家だったが、気になったのが愛子さまのご成長ぶりだった。
「愛子さまの横には、ずっとメガネをかけた男の子がいました。歩いて移動する際も、
動物を見学する際もいつも一緒でした。ときおり愛子さまは楽しげに、彼の胸をポンポンと叩いてみたり、
腕を撫でてみたりと、見ているこっちが一瞬ドキッとするほどでした」(居合わせた観光客)
この男の子は、以前から“のび太くん”似のボーイフレンドと報じられている同級生の男子児童で、
那須での静養を愛子さまとご一緒するのは、今年で4年目となる。
イベント会場で行われたバードショーを見学した際には、こんなシーンまで。
「ショーの進行役が“誰かショーのお手伝いをお願いします”と声をかけると、その男の子が手を挙げて、
ショーに参加したんです。すると愛子さまはバッグからスマホを取り出され、
彼の活躍をバシャバシャと撮影されたり、彼に手を振ったりと大ハシャギだったんです。
そして彼が戻ってくると、顔を寄せ合って、スマホの画面を2人で仲よくご覧になっていました」
(別の居合わせた観光客)
小学6年生になられ、少しずつ大人への階段を上られているようだ。
※女性セブン2013年9月19日号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130905-00000005-pseven-soci

愛子さまに「ボーイフレンド」? 登校問題も解決〈週刊朝日〉
dot. 3月19日(水)7時19分配信
この3月に学習院初等科を卒業し、4月から学習院女子中等科に進む、皇太子ご夫妻の長女愛子さま。
交友関係も広がり、特にこの一年は愛子さまにとって飛躍の年でもあったようだ。
昨年の8月、栃木県の那須御用邸に滞在した皇太子ご一家は、愛子さまのお友達とその家族と一緒に、
標高1915メートルの那須連峰茶臼岳に登った。
愛子さまは初等科2年のときから、何度も那須連峰に登っている。
そのため、地元の住民も愛子さまの成長を温かく見守っている。
「おととしまでは、周りの大人が話しかけても、うつむいたり
『うん』と返事をしたまま黙っているといったご様子でした。
しかし、ここ2年ほどは、きちんとお話ができていました。お姉さんになりました」
標高1900メートルを超える茶臼岳は、大人でも肩で息をするほどキツイ登山コースである。
しかし、登山に慣れた皇太子さまと雅子さまは、それぞれ持参したカメラで写真を撮る余裕を見せた。
案内役が戊辰戦争の舞台となったこの土地について、歴史的な逸話を解説すると、
皇太子さまは興味深げに聴き入っていたという。
愛子さまら子供たちは、大人とは一定の距離を置きながら、山登りを楽しんでいた。
愛子さまはバスケットボール部で鍛えた成果か、足取りも軽くスタスタと登っていったという。
昼食後の下山では、軽快な気分になったのだろう。
「愛子さまもお友達との冗談に、キャッキャと笑い転げて、楽しそうでしたね」(居合わせた登山客)
お友達のひとりは、毎年一緒に登っている同級生の男の子で、地元の住民の間では、
「愛子さまのボーイフレンド」の愛称で呼ばれている。
愛子さまは心を許せる友達にも恵まれているようで、もう登校問題の影は見えない。
※週刊朝日 2014年3月28日号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140319-00000002-sasahi-soci

やめられるなら、とっくにやめている!

週刊文春2013年3月7日号
皇太子「退位論」にご友人が怒りの猛反論
「やめられるなら、とっくにやめている!」
皇太子と三十年以上親交を持ち,現在も東宮御所にうかがう間柄のご友人の発言
「天皇陛下でさえ定年がないのに、皇太子殿下が「辞めた、降りた」って言えますか!
できないような事を言って世間を騒がせるなんて理解できない!」
「もし、皇太子さまがやめたいと言ってやめられるくらいならとっくにやめていると思います。
それほど皇太子というのは重い立場なのです。」 
「普段弱音を吐くことのない殿下ですが、かつて私に、『雅子妃が公務に出ないと批判される』と悩みを打ち明け、
ある時は『どうしたらいいんだろう。(皇太子を)やめたい』とおっしゃった事もありました。」
「殿下が私に傾きすぎるという批判もありまあ、自分の仕事をまっとうするなら、
まず家族をしっかり守らないといけない。健全な生活があってのそのご公務なのです。
どうしてそのあたりをわかって差し上げないのでしょうか?」
皇太子の公務の数が天皇皇后より少ないという批判について
「両陛下が一生懸命ご公務に取り組んでいらっしゃるからこそ、首を突っ込む事はなさらないのです。
例えば被災地に足を運ぶ回数にしても、両陛下より多くては、かえって失礼にあたる。
それが皇室のしきたりというものなのです。」
「今は公務が少なくても。天皇になられた場合には新しい天皇像が出来て、
国民の為にありがたい存在になります。山折氏は皇太子殿下についてどれほどご存じなのか、
殿下はいつも日本の事を考えているご立派な方です。
あの方を失うことがどれだけ日本にとって損失か考えて頂きたい!」

佳子さまフィーバーが気に食わない

週刊新潮2015年4月30日号
「佳子さま」過熱に「雅子妃」「高円宮妃」のさざ波

フィーバー自体を危ぶむ声が、他ならぬ内々にあるというのだ。
「一宮家でありながら、悠仁親王という将来のお世継ぎ候補を擁される秋篠宮家には、
ただでさえ国民の注目が集まっている。
そうしたところに降って湧いたのが、佳子内親王を巡る熱狂。
庁内には“これ以上バランスが崩れてしまったら……”と、嘆く者も少なくありません」(宮内庁幹部)
すなわち、「本来、両陛下に次いで存在感を示すはずの東宮家が、
相対的に話題に上らなくなっているのは明らかです。
世間の目には、突出した秋篠宮家の陰にすっかり隠れてしまったかのように映っていることでしょう」(同)
そもそも愛子さまの不登校騒動が起きた10年春以降、雅子妃はメディアを蛇蝎のごとく嫌ってこられた。
ご自身のみならず、愛子さまのお姿もカメラから遠ざけるよう努めてきたのだ。
「今回、佳子さまブームという新風が吹いたことで、天敵に等しかったメディアは
一斉に宮家の方を向いてくれたわけです。胸をなでおろされているのは想像に難くありません」(前出記者)
そんな中で雅子妃の「ご変心」を見てとるのは、さる東宮職関係者である。
「妃殿下はこのところ、東宮御所のご自分の部屋で、佳子内親王に関するニュースにおひとりで見入られています。
直接にお名前を口にされることはありませんが、やはり愛子内親王との間に大きな扱いの差があることを
目の当たりにされ、いたわしく思われるお気持ちが一層強まったのでしょう。最近は、両陛下と東宮家、
秋篠宮家のご公務予定が組み込まれたスケジュール表を職員から受け取り、じっとご覧になっています。
これまでにはなかったことで、ご一家の存在感を発揮することが内親王のためになる、とお考えなのです」
が、体調は一向に好転する兆しが窺えず、21日の園遊会も、早々にご欠席を表明なさるなど、
ご両家のコントラストは際立つばかり。
さらに、“予兆”はこんな方面からも見てとれる。
「本来は同じお立場であるはずの各宮家では、得てしてお付きの職員同士、
そして時には皇族方の間でも“微妙な関係”が生じることがあります。
各宮家の予算である皇族費は法律で定められていますが、
例えば人員補充や宮邸の修繕・改築などの順番を巡って、折衝せざるを得ないケースもあるのです」(前出幹部)
そうした状況下、煌びやかな佳子さまのお姿に心がざわめくのは、雅子妃だけではないというのだ。
「佳子さまは一昨年4月に学習院大に入学され、俄かに露出が増えたわけですが、
本格的に注目され始めたのは、やはり昨秋のICU合格を経て、年末に成年を迎えられてからでしょう」
そう指摘するのは、さる皇室ジャーナリストである。
「新年の一般参賀に“デビュー”されたことで、人気は盤石となりましたが、
それまでは悠仁さまを別として、宮家で存在感を示されていたのは、何と言っても高円宮家だったのです」
久子妃は一昨年、文字通り五輪招致の立役者となられ、
また昨年、次女の典子さまが出雲大社に嫁がれたのも記憶に新しい。
「元来、高円宮家は活発なお家柄で、そのご両親の血を3女王も受け継いで育たれた。
皇室内に独特の地歩を築いておられた久子妃からすれば、現在の状況は面白いはずがありません」(同)
加えて、先の典子さまの成婚に際し、テレビ番組で“先を越された”と発言なさった三笠宮家の瑶子さま、
そして姉の彬子さまも、「ともに亡き寛仁さまの後を継ぎ、瑶子さまは昨年1月から社会福祉法人友愛十字会、
彬子さまはこの4月から中近東文化センターのそれぞれ総裁職を務めておられる。
にもかかわらず、さほど注目されていません。
ご公務においては、佳子さまなど足元にも及ばないほどの実績をお持ちのお二方の胸中は、
拝察するに余りあります」(同)
お足許にさざ波が立ってしまうとは、フィーバーも痛し痒しである。

はじける笑顔の雅子妃に複雑な思い

櫻井よしこ氏
「はじける笑顔の雅子妃に複雑な思い 皇室はなんのために存在するのか?」

週刊ダイヤモンド2006年9月2日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 655
8月18日、皇太子ご一家がオランダに到着され、
オランダ王室のお出迎えを受けて撮影された写真が各紙の一面を飾った。
「はじける笑顔」と見出しを付けた社もあったほど、雅子妃の表情は明るかった。
国内で見なれてしまった鬱々とした表情の上に努力して重ねて見せる笑顔とはまったく異質の、
心底楽しそうな豪快な笑いがそこにあった。
笑顔の妃を見て、十分な休養を願いつつも、心中複雑な思いを抱いた日本人は少なくないだろう。
皇室はなんのために存在するのか。日本人は皇室のために何をなし、何を求め、皇室はどう応えるのか。
雅子妃の問題に限らず、このところ、皇室と国民のあり方について頻りに考える。

天皇の思いを記した書として「昭和天皇独白録」がある。
敗戦直後の1946(昭和21)年3月から4月にかけて、昭和天皇のご記憶を5人の側近が記録したものだ。
そこには気になるお言葉が少なからずある。
一例が、42(昭和17)年12月12日の伊勢神宮ご参拝に関する項である。
そのときすでに、日本はミッドウェー海戦で大敗し、戦争の行方は見通しが立たなくなっていた。
同年12月、昭和天皇は伊勢神宮に参拝され、そのときのお気持ちを次のように語られている。
「あの時の告文を見ればわかるが、勝利を祈るよりも寧ろ速かに平和の日が来る様にお祈りした次第である」
一方、ご参拝は当時「一天万乗の大君御親ら神宮に御参拝、大御神に御告文を奏せられ、
親しく戦勝を御祈願あらせ給うた御事は、神宮御鎮座以来未だ嘗て史上にその御前例なく……」
と報じられた(「独白録」)。

勝利よりも平和を願ったとしながらも、昭和天皇は右の新聞報道のように、戦勝祈願もなさっていた。
それは「伊勢神宮は軍の神にはあらず平和の神なり。
しかるに戦勝祈願をしたり何かしたので御怒りになったのではないか」と語られたことが、
木下道雄侍従次長の『側近日誌』(文藝春秋)に書かれていることからも判断出来る。
戦局不利のなかでの天皇による戦勝祈願は国民を大いに鼓舞し、戦いへの新たな決意を堅固ならしめたことだろう。
が、昭和天皇は、勝利は二の次で早い平和をこそ願っていたと仰る。
立憲君主としての矩(のり)を守ろうとなされば、戦争続行の政府決定を受け入れるしかなく、
その限りにおいて、真意を表現出来ないおつらさはあっただろう。
また目前の戦争での勝利よりは、長い目で将来を見つめるがゆえの、
平和を優先するお気持ちを持たれるのは、上に立つお方として必要な良識でもあろう。
だが現実に、軍人を輩出し、戦死者を出しながらも勝利を信じて力を尽くさざるを得なかった国民は、
天皇の“ご本心”を、戦後になって目の当たりにして、
置き去りにされてしまったかのように感ずるやもしれない。このギャップは埋め得るのか。
それにしても、天皇の存在が必要となるのは、明治維新のときや終戦時がそうであったように、
100年あるいは200年に一度、国家の危機に直面し、最終的に国民を統合し国をまとめる権威を発揮していただくときだ。
分裂する国論をまとめ、この国を一体として守り通すことは、国民を守るための必須の基盤である。
皇室に求めるものが国家統合の権威であるなら、その余のことを問題にするより、
国民はまず、権威を真の権威ならしめる尊崇の思いを心のうちに育てていきたいものだ。
応えて皇室は、ひたすら国民のために祈り、その祈りを実践なさっていただきたいものだ。
どちらが欠けても皇室の存在意義は失われる。日本の日本らしさも同様だ。
憂うべきは、その心構えの双方における稀薄さである。雅子妃のご健康を祈りながらも、
妃のはじける笑顔から皇室の存在理由としての国民のための祈りを読み取ることが出来ないのは、
残念なことに私一人ではあるまい。

「美智子皇后」「雅子妃」「紀子妃」知られざる嫁姑戦争 20年

週刊新潮2013年5月2・9日ゴールデンウィーク特大号
「美智子皇后」「雅子妃」「紀子妃」知られざる嫁姑戦争 20年
(※内容的には雅子妃の異常性)

「納采の儀では、自ら御養蚕所で育てた繭から採った絹糸で織り上げた絹織物を
雅子さまには5巻、紀子さまには3巻贈られました。
また結婚の儀に際し、ご自身は袴だけ新調して十二単は良子皇后のものを受け継いでお召しになったところ、
お二方にはそれぞれ、祝福を込めて十二単を新調して差し上げています」(渡辺みどり氏)
さらに、雅子妃には、
「急な環境の変化でお寂しい思いをなさらないようにと、実家とご自由に連絡できるよう手配なさったのです。
実際に、ご成婚当初から、母親の優美子さんがホンダの自家用車で
赤坂御所の門を入っていく姿が、度々見られていました」

こうしたご関係にさざなみが立ち始めたのは94年、秋篠宮家に第2子の佳子さまが誕生した頃であった。
「紀子さまのご懐妊が発表された際は、『東宮を差し置いてお二人目とは』といった批判が
宮中から出ましたが、女児とあって風向きは一転。
雅子さまには一層、“早く男子を”との声が向けられていったのです」(皇室ウオッチャー)
が、声援は徐々にプレッシャーとなり、翌95年には陛下が雅子妃を慮って、
〈国民はみな、あなたたちの子を期待していますよ〉とのお言葉を掛けられたところ、雅子妃が、
〈私の周囲には、そんなことを言う友人は一人もおりません〉
そう言い放たれる場面があったことは、すでに報じられている。場は静まり返り、
後にこの一件をお聞き及びになった皇后さまもまた、言葉を失ったという。
「その頃、ご夫妻は周囲から不妊治療を勧められても『私たちで何とかします』と拒み続け、
ご進言を試みた御用掛の産婦人科医を遠ざけてしまわれたこともありました。
御所では、両陛下が妃殿下のご懐妊の兆しを心待ちにされていた。
毎月、東宮側の医師が内々に呼ばれ、妃殿下のご体調についてご報告申し上げていたのです。
“変化”が見られないと分かるや、『そうでしたか…』と
肩を落とされる皇后さまのお姿がありました」(宮内庁OB職員)

陛下のご学友でジャーナリストの橋本明氏が言う。
「秋篠宮家の2人のお子様は、両陛下にとってはとにかく可愛いお孫さんで、
ご一家が御所に行かれると、皇后さまはお孫さんを楽しそうに遊ばせていらっしゃる。
そこに皇太子ご夫妻が合流されると、雰囲気がガラリと変わるのです。
弟宮が東宮に遠慮なさるからですが、そうしたお気遣いが、雅子妃にはかえって重圧となってしまいました」
90年のご成婚以来、紀子妃は一貫して両陛下、わけても皇后さまと良好な関係を築き上げてこられた。

宮内庁関係者の話。
「秋篠宮妃殿下は、殿下のご学友として学生時代から宮中に出入りされており、
当時皇太子だった陛下ともテニスをご一緒するなどし、『キコちゃん』と呼ばれて可愛がられていました」
このため、外交官から全く異質の世界へと転身された雅子妃に比べ、スムーズに宮中に溶け込まれたのだという。
(中略)
対して、皇太子ご夫妻である。かつて昭和天皇は皇太子時代の陛下と美智子妃を毎週水曜日に御所に招き、
夕食を共にしながらコミュニケーションを図ってこられた。
こうした「定例ご参内」は雅子妃に引き継がれ、数年は続いたものの、徐々に回数は減り、有名無実となっていく。
そんな中、99年12月には、ベルギー外遊から帰国されたばかりの雅子妃に「ご懐妊の兆候」とのスクープが持ち上がった。
が、その後の検査では、稽留流産と判明―。

そしてここから、先々のご病気へと繋がる「感情」が芽生えてしまったと指摘するのは、
皇室ジャーナリストの久能靖氏である。
「ご懐妊という情報を、ごく初期の段階で知り得るのは医師や看護師、側近など限られた人々です。
それが漏れたことで、雅子さまには周囲への拭いがたい不信感が生じました。流産なさったこともあり、
その後、宮中で孤立されていくきっかけとなってしまった大きな『事件』であったと思います」
打ちひしがれていた雅子妃に翌年、立て続けにある「トラブル」が降りかかる。
このことが先々皇后さま、ひいては御所との間に、深い溝を生み出していったというのだ。
(中略)

「2000年6月16日、皇太后さまが崩御されましたが、その際のことです」
そう振り返るのは、さる宮内庁の古参職員だ。7月25日には豊島岡墓地で、
一般の本葬にあたる「斂葬の儀」が営まれたのだが、雅子妃はこれをご欠席。
「前日には東宮大夫の会見で、妃殿下は『暑さが続き、夏バテのような状態』で体調を崩され
『お体を大切にしていただく見地からお取り止めになった』との発表がありましたが、
案の定、懸念や批判の声が相次ぎました」(同)

これに先立ち、皇族方や宮内庁職員らが24時間交代でお棺の側に詰める
「殯宮祗候(ひんきゅうしこう)」が、40日間にわたって続けられていた。
実はこの時期に、今に至るまでトラウマとなっている「出来事」が、雅子妃に起きていたというのだ。
「殯宮祗候と並行し、斂葬の儀当日までは連日、さまざまな儀式が続きました。
その際、妃殿下は現場で行事におけるきまりごとについて、
皇后陛下からごく簡単なアドバイスを受けたのですが…」(同)
それは、お召し物のベールの長さなど、これまで営々と続けられてきた、しきたりに関するものであったという。が、
「妃殿下は、この皇后陛下とのやりとりを『叱責』と受け止めてしまわれたのです。
大勢の皇族方や職員の前で自分だけが咎められたのだと解釈なさり、ショックを受けてしまいました」(同)
こうした“アクシデント”もあり、斂葬の儀だけでなく、
前日に吹上大宮御所で営まれた儀式なども、雅子妃は欠席された。

実際には「叱責」の事実などなかったのだが、
「後に妃殿下はこの一件を、主治医である大野裕医師のカウンセリングを受けた際、お話しになっています。
そして、この時の体験が大きな心の傷となり、御所への参内もままならないという趣旨のご説明をされている。
御所の側にもそうした“思い込み”は漏れ伝わっており、
念のため儀式に携わった人たちに当日の様子を確かめたところ、
そうした場面は一切なかったことが分かったといいます」(同)
一方的な思い込みがあらぬ誤解を生み、ご自身の中でも大きなわだかまりとして燻っているというのだ。
さらに、
「この問題も含め、妃殿下の症状いついての情報は“プライバシー”を盾に大野医師ら東宮職が一切クローズしている。
御所と情報を共有して事実確認をしようともせず、妃殿下の言い分だけを鵜呑みにして抱え込んだことで、
この件は、04年5月の殿下による『人格否定発言』での
“雅子のキャリアや人格を否定するような動き”の一つにカウントされてしまいました。

当の皇后陛下も、誤解を持たれているのはご存知なのですが、お立場上、あれこれと仰れないでいるのです」(同)
「両陛下が皇太子ご夫妻へ極めて強い不信感をお持ちであるのが露わになったのです」(皇室ウォッチャー)
(中略)

今回のオランダ訪問しかり。大事な連絡の返事が遅いのはもやは東宮の常となった。女性宮家のときもだんまり。
「かねてより皇后さまは,雅子妃殿下のお振舞いを制御できないどころか
引きずり込まれてイニシアチブを握られている皇太子さまのお姿をお嘆きだった」(宮内庁関係者)

「皇后陛下は皇太子妃殿下の振舞いをことさら憂えておられます。
妃殿下に将来、自分のような皇后としての働きが務まるとは考えておられず、
また国民から見た皇室像が変容していくことにも大変な危惧を抱いておられます」(侍従職関係者)

「天敵」が死んだから公務出席?と言われる雅子妃

2014.10.31 17:40
鎌倉節氏、25日に死去 宮内庁発表 元宮内庁長官、警視総監
宮内庁は31日、同庁長官や警視総監を務めた鎌倉節(かまくら・さだめ)氏が
84歳で死去したのは、今月25日だったことを明らかにした。
病死とみられ、葬儀は近親者のみで執り行われたという。
昭和60年10月から63年1月に警視総監、平成8年1月から13年4月に宮内庁長官を務めた。
http://www.sankei.com/life/news/141031/lif1410310030-n1.html



週刊文春2014年11月13日号
「国際親善よりお世継ぎ」が持論。元宮内庁長官・鎌倉節氏が逝去
第七十五代警視総監で、宮内庁長官として香淳皇后の葬儀の大喪儀委員長を務めた
鎌倉節(さだめ)氏が、八十四歳で亡くなった。
警視庁担当記者が言う。「東大法学部を卒業し、1954年に警察庁入りした鎌倉さんは、
警察キャリアのエースとして王道の警備・公安畑を歩み、警視庁公安部長を経て、
警視庁の副総監、警視総監へと上り詰めました。
総監時代には、対共産圏輸出統制委員会(ココム)の協定に反して旧ソ連に軍事物資を不正輸出していた、
いわゆる『東芝機械ココム違反事件』の捜査を公安部に指示するなど、辣腕をふるいました」
警備・公安警察は、共産主義勢力やテロリストの捜査を担う一方で、皇室の警備を任務とする。
ある警察官僚OBは「鎌倉さんの皇室への尊崇の念は、ただならぬものがあった。
宮内庁長官には、なるべくしてなったと言えるでしょう」と述懐する。
警察官僚としての鎌倉氏の人物評は「もののふ(武士)」。皇室警備を担う武官という自負が強かったため、
「明治天皇に殉死した陸軍大将・乃木希典とイメージがダブる」とまで言う警察関係者もいるほどだ。
鎌倉氏が宮内庁次長に就任したのは94年のこと。皇太子が雅子妃と結婚された翌年だ。
宮内庁関係者が振り返る。
「男系男子による皇位継承を絶対視する鎌倉さんは、
なんとしても雅子さまに男の子を産んで頂きたいという意識が強かった。
だから、次長時代の皇太子ご夫妻の中東訪問にも反対だったと言われています。
長官就任後は一貫して『国際親善より男子出産が優先』というのが持論でした。
残念ながら流産となってしまいましたが、雅子さまにご懐妊の兆候があることが明らかになった99年は、
鎌倉さんの長官時代です。鎌倉さんの強いリーダーシップが、背景にあったというのが定説です」
外国生活が長く、自由な環境で育った雅子妃と鎌倉氏が、ときに意見を対立させたであろうことは想像に難くない。
「鎌倉さんが長官を退任したのは2001年。皇太子さまの人格否定発言は04年です。
直接は何の関係もありません。ただ、退任後も『鎌倉さんの考えが正しい』という、
“鎌倉イズム”が、庁内に根強く残っていた中で、あの発言が飛び出したのは事実です」(同前)
雅子妃は鎌倉氏逝去の報に、何を感じられたのだろうか。


雅子さま11年ぶり宮中晩餐会出席は「天敵」の死の直後だった
2014.11.07 07:00
雅子さまが11年ぶりに宮中晩餐会に出席されたその2日後となる10月31日、
宮内庁はかつて警視総監や宮内庁長官を務めた鎌倉節氏(かまくら・さだめ氏/享年84)が
10月25日に亡くなっていたことを明らかにした。
2003年12月、帯状疱疹で宮内庁病院に入院されて以来、
10年以上の長きにわたり、療養生活を送られている雅子さま。
雅子さまが倒れられて半年後の2004年5月、皇太子さまは、
「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」という、
いわゆる“人格否定発言”をなさる。
当時、この“人格否定”をしたひとりとして名前が上がったのが鎌倉氏だった。
鎌倉氏は警視総監を務めた後、1994年4月から宮内庁次長として入庁。
1996年1月から2001年4月までは同庁長官を務めた人物だ。
「鎌倉さんは強い皇室崇拝の念を持っていました。そのため長官になると“国体護持”を掲げ、
皇室を絶やさないためにと、当時、子供がいなかった皇太子ご夫妻のために
男児がお生まれになりやすい環境を作るという方針を打ち出し、万が一、男児誕生が叶わなかった際に備えて、
皇室典範改正の検討などの新たな体制作りを始めました」(当時を知る皇室記者)
皇太子ご夫妻になかなかお世継ぎが誕生しないという状況もあってか、
長官となった鎌倉氏は問題点を見つめ直し、豪腕を振るった。
皇太子ご夫妻の公務旅行が多いことが、お世継ぎ誕生を停滞させていると懸念した鎌倉氏は、
「皇太子ご夫妻がなすべきことは“お世継ぎ”づくり。
そのために(1995年1月の)中東訪問を区切りとして、政治問題に巻き込まれやすい海外訪問は当分、
ご遠慮いただく」という方針を打ち出し、皇太子ご夫妻の海外訪問を“禁止”したのだった。
実際、前述の中東以降、鎌倉氏が退任後の2002年12月の豪州・ニュージーランド訪問まで、
雅子さまは8年間も海外に赴かれることはなく、“空白の期間”となった。
2001年12月、愛子さまが誕生されたが、結局、鎌倉氏の在任期間中にはお世継ぎは誕生せず、
雅子さまとの間には複雑な感情が残ることとなってしまった。
前述した、2002年の豪州・ニュージーランド出発前の会見で、雅子さまはこう語られている。
「正直を申しまして、私にとりまして、結婚以前の生活では私の育ってくる過程、
そしてまた結婚前の生活の上でも、外国に参りますことが頻繁にございまして、
そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから、(妊娠、育児の2年間を除いた)6年間の間、
外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況に適応することに
なかなか大きな努力が要ったということがございます」
“海外訪問で能力を発揮したい”“皇室外交で能力を発揮したい”
──それが雅子さまの強い願いだったことが表れたお言葉だった。
「実際、皇太子さまはプロポーズされたとき、結婚を躊躇される雅子さまに対して
“外交という分野では、外交官として仕事をするのも、皇族として仕事をするのも、
国のためという意味では同じではないでしょうか”と説得されています。
ですから鎌倉氏の方針は、皇室の将来を考えたこととはいえ、
雅子さまの“皇室外交”へのお気持ちを無視したものだったため、人格否定発言が波紋を呼んだ際に、
宮内庁内部や皇室記者の間では鎌倉さんに対するさまざまな声が噴出しました」(前出・当時を知る皇室記者)
その後、雅子さまは「適応障害」と診断され、現在に至るまで、治療を続けられている。
そんないわば“天敵”とも呼べる人物の死の直後、宮中晩餐会での“皇室外交”に力を発揮された雅子さま。
なんとも不思議な運命といえよう。
※女性セブン2014年11月20日号
http://www.news-postseven.com/archives/20141107_285699.html

「雅子さま」追っかけおばさんが生活保護だった

皇室写真集を2冊出版でも 「雅子さま」追っかけおばさんが生活保護だった〈週刊新潮〉

BOOKS&NEWS 矢来町ぐるり 1月5日(月)12時20分配信
夢を見させてくれる」。これが誰かを“追っかけ”る者に働く心理だ。
もっとも、皇室の追っかけ歴21年。
自ら撮影した雅子さまや愛子さまの写真集を2冊も出版した女性の場合、
その情熱は人並み外れたものがある。何しろ、生活保護を受けながらも追っかけを続けているのだから。
彼女は、これまで小林春美の名義で『あこがれの雅子さま』(2001年)と
『愛子さま こっちをお向きになって』(02年)を出版している。
年の頃は40代後半で独身。関東近郊に住み、
皇室を取材するマスコミや警備を担当する皇宮警察官の間では超有名人なのだという。
そもそも、高校生の頃、現在の天皇・皇后両陛下が乗る車に遭遇。
車から手を振る美智子妃の姿に感激し、皇室ファンになった。
1993年3月、雅子さまのお妃教育が始まったが、これを機に小和田邸に通うようになり、
本格的な「追っかけ生活」が始まったそうだ。
「お二人が結婚されてからは、地方でもどこでも行きました。
98年10月、長野の車山高原に行かれた際は、頂上付近で皇太子さまが『空気がきれいですね』などと、
話しかけてくださった。もう、感動して涙が止まりませんでした。
また、03年、皇太子ご一家が葉山で静養されている時、皇太子さまから
『(写真集の)ご出版おめでとうございます』と声をかけられ、
この時も嬉しくて涙が止まらなかったですね」(小林さん)
皇太子ご夫妻“公認”の追っかけというわけだ。
「皇室の方々はみんな美しくて気さく。追っかけは私の生きがいです。
14年は一般参賀に始まり、3月には愛子さまの学習院初等科の卒業式を見に行きました。
ただ、雅子さまはご静養中ですし、追っかけをする機会もめっきり少なくなりました」(同)

■「内緒ですよ」
そんな彼女に、追っかけ仲間からは、こんな声が上がっている。
「実を言うと、彼女は生活保護を受けているそうなんです。にもかかわらず、
地方にもよく出没している。追っかけ仲間の間でも、
交通費や宿泊費をどうやって捻出しているのかしら、と話題になっています」
最近では、島根県出雲大社で行われた高円宮典子さまの結婚式(10月5日)、
両陛下の長崎訪問(10月11日〜13日)、広島訪問(12月4日)で、小林さんの姿が目撃されている。
さて、この点を彼女に聞くと、「前夫が病気で働けなくなり、15年くらい前から生活保護を受けています。
離婚したのは4、5年程前で、私自身は警備の仕事をしながら毎月8万円支給されていた。
ところが、私も体調を崩し仕事を辞め、14年6月から毎月12万円もらっています」
毎月、家賃や光熱費、電話代を引くと、残るのは5万円。このうち食費は2万5000円で、
娯楽や趣味に使えるのは2万5000円とか。
「追っかけの費用は、東京駅とか電車で行けるような近場の場合、
毎月の生活保護で手元に残った2万5000円の中から。
地方へ行くときは、前の仕事で貯めていたお金から出してます。あっ、貯金の話は内緒ですよ」(同)
生活保護受給者にしてヘソクリがあろうとは、皇族方も苦笑いを禁じ得まい。
「ワイド特集 羊の皮を被った狼 虎の皮を着た羊」より
※「週刊新潮」2015年1月1・8日新年特大号
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150105-00010003-shincho-soci

2017年10月-12月雑誌記事

愛子さま、高校野球大会を観戦 過去に野球を巡る秘話も
2017.10.14 07:00
秋に似つかわしくない暑さとなった10月8日、明治神宮球場(東京・新宿区)に隣接する第二球場で、
高校野球秋季大会の試合が行われた。第1試合でぶつかったのは、学習院高等科と駿台学園高校。
午前10時のプレーボールを前にして、両チームのアルプススタンドは応援の熱気に包まれる。
そのとき、学習院側の応援席に、愛子さまがお忍びで姿を見せられた。
デニムスカートに白い半袖のカットソー、足元は白のスニーカーという出で立ちの愛子さま。
トレードマークのポニーテールを若草色のシュシュで結ばれ、
首元には白い花びらがデザインされたネックレスをされていた。
「お友達とご一緒にいらっしゃったようで、バックネット裏の前から8番目の
“絶好ポイント”に着席されました。愛子さまが通われる学習院女子高等科と学習院高等科は、
いわば姉妹校。水色の帽子にタオル、メガホンで用意万全、大きな声援を送られていました」(学習院関係者)
愛子さまの野球好きは有名で、ご一家でプロ野球の試合を観戦されたこともある。
毎年6月、学習院と筑波大附属中・高の間で、野球や陸上競技、バスケットボールなどの試合が行われる
通称「附属戦」というイベントがある。愛子さまは今年の附属戦で、野球部の試合を観戦された。
「学習院初等科5年生の時には野球クラブに入りたいというお気持ちもあったそうです。
結局、男子児童しか入れないため断念されました」(宮内庁関係者)
2回に4点、3回に2点を奪われ序盤から苦戦を強いられる展開の中、
チャンスのシーンでは飛び跳ねんばかりにバッターにエールを送られていた。
「赤い双眼鏡を取り出されて終始熱心に応援されていましたが、一際声援が大きくなったのが、
愛子さまと同学年のA君がバッターボックスに立ったときでした。
デジカメをバッグから取り出され、パシャパシャと撮影をされていたのです。
終盤にA君がヒットで出塁し、続くバッターのヒットでホームに帰ってくると、
愛子さまは両手を上げられて大喜び。隣のお友達に笑顔で話しかけられ、
何度もうなずきながら拍手を送られていました。A君は学習院中等科出身。
もしかしたら、初等科で愛子さまと机を並べられていたのかもしれません。
年頃の女の子なら誰でも通る道と申しましょうか、大変おかわいらしいご様子でした」(前出・学習院関係者)
まさに「神宮球場の青春」。実は愛子さまの中で、「野球」と「恋心」が結びつくのは初めてではない。
「初等科6年生の頃、愛子さまと仲良しだった女子児童が、
意を決して野球クラブに入っていた男子にラブレターを渡して告白したことがあったそうです。
そのとき、緊張して怖がる女子児童に付き添った女の子の1人が愛子さまでした」(別の学習院関係者)
残念ながら、試合は学習院が1-11の大差で敗北。それでも、グラウンドを駆け回るA君の勇姿は、
愛子さまの心にしっかりと焼き付けられたことだろう。
※女性セブン2017年10月26日号
https://www.news-postseven.com/archives/20171014_620675.html

雅子さまの「愛子さまファースト」に対し懸念の声出る
1年半後にやってくる次代の到来に向け、雅子さまへの期待は日を追うごとに膨らんでいる。
だが、皇太子さまに「おひとり公務」を託された雅子さまの、連日の私的お出ましが波紋を呼んで──。
「愛子さまは頭に白いバンダナを巻き、カラフルな柄をあしらったクリーム色のエプロン姿で、
てきぱきとお弁当を売っていらっしゃいました。メニューはおこわや天むす、すき焼き弁当など。
お友達とご一緒に、笑顔で“看板娘”を務められていました」(目撃した人)
10月最後の週末、愛子さまが通われる学習院女子高等科(東京・新宿区)で、
恒例の文化祭『八重桜祭』が開催された。
「終日雨でしたが、台風を吹き飛ばすくらい校内は活気に溢れていました。
各教室では書道や華道の作品が展示されていたほか、
愛子さまは高校3年生のダンスパフォーマンスなどをご覧になったそうです」(学習院関係者)
中等科3年だった昨年、長期欠席のさなかにあった愛子さまは文化祭を欠席された。
「毎年心待ちにされているイベントだっただけに、ご体調が整わなかったことは大変残念だったことでしょう。
昨年は、欠席中でもクラスの出し物の景品のミサンガ作りなどをお手伝いされていましたが、
やはり今年参加できたことに大変満足されているようでした」(宮内庁関係者)
土、日の2日間にわたって行われた文化祭には、雅子さまも両日足を運ばれた。
「愛子さまとお友達のツーショットを撮られたり、お友達のママも含め4人で写真に収まられたりしたそうです。
また、国際交流部の展示教室に立ち寄られたり、東日本大震災で被災した福島県の復興協力をした
ボランティア同好会の写真やレポートをご覧になったそうです」(前出・学習院関係者)
土曜は14時前に到着され、17時過ぎにお帰りに。日曜は、13時頃から16時頃まで滞在された。
「文化祭は子供たちの日頃の様子を間近で感じられるいい機会ですから、
これまで、愛子さまの学校生活を心配されたことのある雅子さまも、
愛子さまがはつらつと参加される姿にほっと胸をなで下ろされたことでしょう。
ですが“今回ばかりは、自重すべきだったのではないか”という意見も宮内庁内部には散見されるのです。
まして2日間連続でお出ましになられなくても、と」(前出・宮内庁関係者)
その“諫言”の理由は、東京から遠く離れた四国・愛媛にあった。

陛下の意向で誕生した大会
10月27〜29日の2泊3日の日程で、皇太子さまは『全国障害者スポーツ大会』の開会式に出席されるため、
愛媛県で“おひとり公務”に臨まれていた。
「開会式では、“3年後の東京パラリンピックに向けて力強く羽ばたく選手が数多く誕生することを
期待しております”と挨拶され、車椅子バスケットボールや聴覚障害者のバレーボールなどを観戦されました。
また、サイクリング推進の取り組みを視察されるためレンタサイクル施設に足を運ばれたほか、
造船会社のドックで建造中の船舶をご覧になり、その大きさに感嘆の声を上げられていました」(皇室記者)
皇室と障害者スポーツのかかわりは深い。
「もともとこの大会は、皇太子時代の天皇陛下のご意向で誕生しました。
1964年の東京五輪と同時開催されたパラリンピックを両陛下は連日観戦。
大会後、陛下が“このような大会を国内でも毎年行えないものだろうか”と述べられたのをきっかけに、
翌年前身となる大会がスタートしました」(皇室ジャーナリスト)
その後、両陛下はこのイベントに熱心に取り組まれた。思い入れのある大事な公務を引き継がれたのが、
皇太子さまと雅子さまだった。
「残念ながら、療養生活に入って以降、都内で行われた年を除いて、雅子さまはお出ましになっていません。
2泊3日のスケジュールのため、ご負担が大きいということで今回も見送られたのでしょう。
また直後の11月1日には東日本大震災の被災地訪問のため、宮城県に足を運ばれる予定でした。
翌週には秋の園遊会を控えていて、愛媛行きを断念されたことには致し方のない面もあったのでしょう」
(前出・皇室記者)
着実にお出ましの機会が増えている中にあって、今から1年半後には皇后となられる雅子さまへの期待は
日を追うごとに大きくなっている。
「一方、その声に応えようと無理をされ、また病状が後戻りしてしまうことに不安を覚える声も聞こえてきます。
ですから、愛媛にお出ましにならないという判断は理解もできます。しかし問題は、その期間に私的外出として
愛子さまの文化祭に、しかも2日間とも足を運ばれるべきだったのかということです。
文化祭をご覧になることは“できることからする”という治療方針の雅子さまにとってプラスだったかもしれませんが、
このことを障害者スポーツ大会の関係者が知ったらどう感じるか。
“愛子さまファースト”の外出を自粛されるという選択肢もあったのではないでしょうか」(前出・皇室ジャーナリスト)
文化祭2日目の10月29日、天皇皇后両陛下は『全国豊かな海づくり大会』の式典行事や
7月の集中豪雨の被災地訪問のため、福岡県を訪れられていた。
大会の式次第が終わり両陛下が退場される際、ちょっとしたハプニングが起こった。
「壇上に、作文コンクールの受賞者の小学2年の男子児童がいました。
そのとき、席を立たれた陛下が児童の前を素通りしてステージ脇に向かわれてしまったのです。
美智子さまからお声があったようで、陛下はそこで踵を返され、改めて児童にお声掛けをされました」(別の皇室記者)
年間300件を超える公務は、80才を超えられている両陛下にとって大きなご負担であることは明白だろう。
対して、雅子さまの公務の数は50件前後に留まっている。
「皇后になられた雅子さまが、いきなり美智子さまと同じ公務の数を担われることは現実的ではないでしょう。
天皇となった皇太子さまがおひとりでお出ましになる公務も引き続きあると思います。
そうなったとき、雅子さまの“行動選択”が新たな火種とならないか、一抹の不安を覚えます」
(前出・皇室ジャーナリスト)
「次代の皇后」と「母」の間で、雅子さまの心は揺れ動いている。
※女性セブン2017年11月16日号
https://www.news-postseven.com/archives/20171103_626185.html

愛子さまがふっくら! 12月1日にお誕生日を迎えられて16歳に
週刊女性2017年12月19日号
2017/12/6
「愛子さまは、12月1日に16歳のお誕生日をお迎えになりました。
当日の午後6時ごろ、両陛下に挨拶するため皇居を訪れた際に、
周囲から“敬宮さま〜、おめでとうございます!”と声をかけられると、
車の窓を開けて見えなくなるまで笑顔で手をふられていました」
皇太子ご夫妻の長女で学習院女子高等科1年生の愛子さまの近況をそう話すのは、東宮職関係者。
高校生になり学校の勉強や行事にも積極的に取り組まれている愛子さま。
「愛子さまは、高等科から新しく漢文や世界史などの科目が加わり、これまで以上に勉学に励んでおられます。
10月末の文化祭『八重桜祭』では、上級生と2人1組で受験生に学校施設を案内したり、
高等科のダンスチームの公演の司会を務めるなど学校行事でも活躍されました。
11月に入って気温が下がった時期に熱を出して数日間、学校を欠席したこともありましたが、
2学期はほとんど登校してお元気に過ごされていましたよ」(同・東宮職関係者)
昨年のお誕生日では、体調不良のためにかなりおやせになっていたものの、
今年は顔もふっくらしてとても元気そうなご様子。周囲も国民も安心していることだろう。
http://www.jprime.jp/articles/-/11229

秋の園遊会で見せたご快復ぶり「雅子さま」15分の壁
社会・政治 2017.12.08
「この秋以降、地方公務を多数こなされて、ご快復ぶりが自信につながっているようでした。
そこで今回は『15分の壁』を越えるのではないかと期待されていたのです」(皇室ジャーナリスト)
11月、東京・元赤坂の赤坂御苑で催された秋の園遊会。皇太子妃・雅子さま(53)は、またも途中でご退席された。
14時15分ごろ、三笠山と呼ばれる丘に皇族方と整列された雅子さま。
式典行事を終え、数十メートルの距離を歩いて招待客と懇親されたが、
皇太子さまが「そろそろ……」と合図なさると、名残り惜しそうな笑顔を見せながら、
浅黄幕の切れ間に消えていった。
雅子さまは、2004年7月に「適応障害」というご病名が発表されて以降、長らく園遊会に出席されなかった。
2015年秋のご出席は、じつに12年ぶりのこと。
以来、4回連続(2016年秋は三笠宮殿下薨去により中止)の園遊会ご出席となるが、
いずれも15分以内で中座なさっている。だが2017年、宮内庁関係者には、たしかな兆しが感じられたという。
「ご退席までの時間は長くなっている。雅子さまが招待客とじっくりお話しなさっていたためだ。
参議院議員の朝日健太郎氏の前では、雅子さまが手を挙げて “身長が高いですね” と示されたようで、
和やかな雰囲気が見て取れた。
また、退席場所付近で皇太子殿下が合図を送られた後、雅子さまはさらに招待客に声をかけていた。
皇太子ご夫妻の前を進まれる両陛下との距離が、最大で30メートル近くも空くほどだった」
じつは開催前日まで、雅子さまの完全出席が検討されていた。皇室ジャーナリストの山下晋司氏が解説する。
「今回、退出されたのは過去3回と同じ場所。ここを越えると50メートルほど先の取材カメラの前を通り過ぎるまで、
退出する機会はありません。無理はされないように中座されたのでしょう」
園遊会での女性皇族の装いを決めるのは皇后陛下だ。春が和装の場合は、秋は洋装をお召しになるのが定例。
労力がかかり、体を締めつける和装を、雅子さまは苦手とされている。しかし、今回は春に続き和装が選ばれた。
「和装が予定されていた昨年秋の園遊会が中止になったことで、今回和装が続いたとの見方がある。
だが、装いを決めた美智子さまの思いもこめられていたのではないか。雅子さまの体調を慮りながら、
皇后となるまでに皇族として人前で振る舞うことに少しずつ慣れていけるように、
雅子さまの快復を後押ししようとされたのかもしれない」(前出・宮内庁関係者)
2019年の皇后となる日へ向けて、ご快復の道を進んでいる雅子さまは、園遊会のみならず、
今後も「皇后への壁」を越えていかなければいけない。
「雅子さまは、皇族と接する機会の多い人との接触に、特に重圧を感じるようだ。
繰り返し参加する人の多い皇居の勤労奉仕団へのご会釈や、記者会見には現在参加されていない。
今後これらに復帰されれば、大きなご快復の目安になるだろう」(皇室ジャーナリスト)
行事を欠席しがちな雅子さまが、美智子さまと同様に振る舞えるのかーーそんな疑念の声もある。
だが皇室研究家の高森明勅氏はこれに異を唱える。
「たしかに雅子妃殿下のおつとめのなかで、宮中祭祀は身体的にも精神的にも、
もっともハードルが高いと理解していいでしょう。
ですが、皇后におなりになったら、ご公務や祭祀が増えるかというと、そうではないのです。
地方公務は皇太子殿下のほうが多いですし、祭祀の回数は皇后陛下と皇太子妃殿下は同じ。
そもそも、美智子さまと同じように振る舞う必要はありません。
雅子さまの新しい皇后像を求めていかれればいいのです」
「壁」は必ず越えられる。
(週刊FLASH 2017年11月28日号)
https://smart-flash.jp/sociopolitics/29566

雅子さま 美智子さまに直訴!「外国元首とお忍び懇談」
「政府は、新しい天皇陛下となられる皇太子さまの『即位の礼』を19年秋に行う方向で調整を進めています。
外国からの賓客も大勢招かれ、盛大なものになることでしょう」
そう語るのは、宮内庁関係者。政府は年明けにも菅義偉官房長官をトップとする準備組織を設置し、
譲位・即位に向けた準備を本格化させていくという。
12月9日、雅子さまの54歳のお誕生日に発表されたご感想には、こんなご心境がつづられている。
《これから先のことを考えますと、身の引きしまる思いが致しますが、両陛下のお導きをいただきながら、
皇太子殿下をお支えしつつ務めを果たしていくことができますよう、努力を重ねて参りたいと思っております》
このお言葉通り、雅子さまは“新皇后”に向けての努力を密かに重ねられている。
本誌は、それを裏付けるエピソードをキャッチした。ある外務官僚は、本誌にこう明かした。
「まったく報道されていませんが、実は皇太子さまと雅子さまは11月30日に、
千代田区にある在日ルクセンブルク大公国大使館をお忍びで訪問されたのです」
ルクゼンブルクのアンリ大公と長女のアレクサンドラ王女が、国賓として日本に滞在していたのは、
11月下旬のことだった。
「基本的に、アンリ大公のおもてなしは、“同格”である天皇陛下と美智子さまがなさいました。
もちろん皇太子さまと雅子さまも宮中晩餐会には出席されましたが、その場では、ご挨拶程度しかされず、
親しくお話しする機会はほとんどなかったと思います」(前出・宮内庁関係者)
皇太子ご夫妻がルクセンブルク大使館を訪問されたのは、宮中晩餐会の3日後。前出の外務官僚が続ける。
「ご訪問の目的は、離日直前のアンリ大公と懇談されるためでした。ご到着は午後3時ごろ。
大公と王女に迎えられた皇太子ご夫妻は、まず大使館の1階に飾られている写真をご覧になったのです」
写真は、写真家やエッセイストとしても人気があり、国際的に活躍するハービー・山口氏が、
ルクセンブルクの街並みを撮影したものだった。
「明るい雰囲気で写真をご覧になった後、皇太子ご夫妻と大公と王女は、
お茶とお菓子を楽しまれながらお話しをされたそうです」
宮内庁のHPには、皇太子ご夫妻の日程も記載されているが、
ここに11月30日の大使館ご訪問についての記載はない。だが、前出の宮内庁関係者は言う。
「その情報を聞いてから該当部署などに確認したところ、確かに皇太子ご夫妻は、
アンリ大公とお会いになっていたことがわかり、私も非常に驚きました。
皇太子ご夫妻が、お忍びで大使館を訪問され、相手国の元首と会談をされたわけですが、
こうしたケースはこれまでにはなかったことだと思います」
この“前例なき会談”は、皇太子さまと雅子さまが強く望まれたことだったという。宮内庁関係者が続ける。
「皇太子ご夫妻はお代替わり後を見すえられ、『私どもも、日本の皇室とご縁の深い、
ルクセンブルクの王室との関係を大事にしたいと考えています』と、天皇陛下と美智子さまに相談され、
お許しを受けたそうです」
いわば“直訴”によって、実現したものだというのだ。
「ご婚約以来25年、雅子さまにとって“皇室外交”は夢であり続けたと思います。
そして皇位継承が目に見える時期になったいま、ついに動き出されたのではないでしょうか。
これまでのご活動から、雅子さまの目指されている皇室像も、おぼろげながら見えてきます。
その未来の構想の1つが、世界の恵まれない子どもたちを救うというものなのです。
先日のお誕生日にも《広く世界に目を向けても、困難な状況に苦しんでいる人々が数多くいることに心が痛みます》
と、国際的な協力が大切だと訴えられました。ルクセンブルク大公国との絆を深められることも、
その第一歩とお考えになられたのでしょう」
きっと大使館での懇談では、国民との関係の両国の差についても語りあわれたに違いない。
https://jisin.jp/serial/社会スポーツ/imperial/32048

月毎雑誌記事
目次5へ

いちゃもん

「秋篠宮ご夫妻」銀婚式「架空対談」の波紋
 「紀子妃は可」の行間に滲んだ「雅子妃は不可」
あたかも、お身内から矢が飛んできた格好である。
6月29日にご成婚25周年を迎えられた秋篠宮ご夫妻は、異例の対話形式によるご感想を発表。
ともに歩まれた四半世紀を振り返り、お互いの「自己採点」までなさっていたのだが、
そこで思わぬハレーションが……。

 ***
その文書は、前代未聞のスタイルであった。銀婚式を迎えるにあたり、
秋篠宮さまと紀子妃が思い出を整理しつつ、話し言葉で感想を述べられているのだ。宮内庁担当記者が言う。
「記者会は春先からご夫妻の会見を宮内庁に申し入れてきましたが受け入れられず、
質問への文書回答も不可となった。結局、『ご感想』のみが発表されることで落ち着いたのです」
それでも、こうした形は全くの想定外だったようで、
「記者会にリリースされたのは26日の夜。A4の用紙に横書きで9枚というボリュームもさることながら、
その斬新さに驚かされました。何しろ、いきなり『今年は結婚をしてから25年が経つようです』と、
秋篠宮さまが紀子さまに呼び掛けられる形で始まっている。
これまで出された皇室のご感想の中で、ひときわ異彩を放っていました。
ご発言ごとに『文仁』『紀子』とお名前が記されており、冒頭の学生時代の『出会い』から、
『結婚の日と新居』や『子どもたちのこと』、
そして最後の『夫、妻、親として』まで、7章にわたって展開されていたのです」(同)
もっとも、対談は実際には行われておらず、ご夫妻がパソコン上で構成されたというのだが、
中でも目を引くのは、「子どもたちのこと」の章である。ここでは秋篠宮さまが、
〈先日、英国にいる眞子から父の日のカードが送られてきました。
普段は必要最小限の連絡事項をメールでしているだけなので、
妙にうれしい気分になりました。久しぶりだったからかな〉
と振り返られ、紀子妃は以下のようにご返答される。
〈すてきですね。私も眞子より母の日に羊の親子のカードを受け取りましたときは、胸が熱くなりました〉
さらに秋篠宮さまは、次女の佳子さまについても、こんな“素顔”を明かされていた。
〈珍しく一緒に買い物に出かけたことがありました。
父親にたいしてつっけんどんな態度のことが多いのですが、意外と優しいところもあり、
私が自由に選んだものについて、代わりに会計をしてくれました〉
ところがこの後、
〈もっとも、帰りに彼女にそのまま荷物を持たせていたら注意されましたけれどね〉
で、ここでも紀子妃は、
〈ほほえましいですね〉
そう相槌を打たれるのであった。
「留学中の眞子さまの優しさや、お父様に似て“導火線が短い”と
自認されている佳子さまのお振舞いの一端が如実に表れています」
とは、先の記者。
「ご夫妻は、もちろん悠仁さまにも言及されています。
秋篠宮さまが『悠仁もしばしば折り紙などの作品を届けてくれます』
『最近は、絵も上手になってきました』と述べられると、
紀子さまも『私たちの手許には、子どもたちの小さいときからの作品がいくつもあります。
どれも大事な宝物』と応じられているのです」
仲睦まじさが、文面から匂い立ってくるのだ。

■「ダブル受賞」と「満点以上」
もう一つ、驚きをもって受け止められた箇所がある。結びの「夫、妻、親として」の章で、
ご夫妻はこれまでの結婚生活を自己採点なさっているのだ。まず秋篠宮さまが、
〈さて、ときどき夫もしくは親としてどのように認識されているのか気になることがあります。
あなたも同様でしょう。最後に評価でもしてみませんか〉
持ちかけられた紀子妃も、
〈面白そうですね〉
そう意欲を示され、これに秋篠宮さまは、
〈あなたと子どもたちから私の評価を聞くことは、今までの自分の行いを考えると少し怖い気もするので、
今回はあくまで自己点検・評価でいきましょう〉
そして、ご自身を「優・良・可・不可」のカテゴリーに当てはめられ、
〈漠然としたメルクマールからすると、私の場合には
限りなくボーダーラインに近い「可」といったところでしょうか〉
紀子妃も続き、
〈私も仲良く「可」にいたします。いろいろな可能性を秘めている「可」ということでいかがでしょうか〉
と、上手におまとめに。今後はさらなる高評価を「努力目標」としていくことで一致なさり、
ご感想文は結ばれている。 

が、その自己採点は、まるで予期せぬ波紋を呼んでしまった。
ご成婚以来、一途に皇后さまをお手本とし、お二人の内親王を健やかに育てられ、
その上お世継ぎまで誕生させるという“実績”を以てしてもなお、自らを「可」と評された紀子妃。
これにより、比較の対象とされることの少なくない東宮家とのコントラストが
否応なく浮き彫りになってしまうというのだ。さる宮内庁関係者が危惧する。
「御輿入りされて以降、これほどまで皇室に“過剰適応”なさり、ご公務は言うに及ばず、
お世継ぎという最大のお役目まで果たされた紀子妃殿下が『可』であるならば、
雅子妃殿下のお立場などありません。もとより異なる家同士、単純に比較するわけには参りませんが、
ご成婚から22年。うちご病気での療養生活は11年余になります。
こうした点を踏まえると、ご夫妻がことさら自らを厳しく評した今回の対談の行間から、
『雅子妃殿下の22年間は不可』といったニュアンスを汲み取る方がいても不思議でないのではないでしょうか。
むろんご夫妻にそのおつもりがなくても、皇室の周辺でかように受け取った方がいたことは事実です」
思い出されるのは、かつて今上天皇が皇太子だった1984年、
やはり銀婚式を迎えられた際にご夫妻で臨まれた会見である。
皇室ジャーナリストの山下晋司氏が言う。
「記者から『お互いに点数をつければ何点くらいでしょうか』と尋ねられた陛下は
『点をつけるのは難しいが、まあ努力賞というか』と仰り、
皇后陛下も『私もお点ではなく、差し上げるとしたら感謝状を』と応じられました。
このやりとりは当時、大きな話題になったものです。
さらに両陛下は、09年のご成婚50周年の際にも会見され、
今度はお互いに『感謝状を贈りたい』とのお気持ちを表されていましたね」
こうした「相互採点」の伝統は、皇太子さまのご成婚10周年の際にも窺えた。
「03年の6月、皇太子ご夫妻は文書で回答を寄せられ、殿下は妃殿下を『いろいろとありがとう。と言いたい』
『努力賞と感謝状ならぬ感謝賞のダブル受賞ではないかと思います』と労(ねぎら)われました。
妃殿下もまた『(殿下は)満点以上でいらっしゃることは確か』と、大いに讃えられていたのです」(同)
これに比して「可」という今回の辛口評。先述した3例と異なり自己採点である点、
また秋篠宮ご夫妻が皇室でのご身位を勘案なさったであろう事情を措いても、なお衝撃を禁じ得ないのだ。

■過去にも「あてつけ」が
秋篠宮家の事情に詳しい、さる関係者が明かす。
「今回の対話形式によるご感想は、そもそも殿下のアイデア。
これを知らされた妃殿下も大いに乗り気で、例を見ないご感想文が公表されたわけですが、
“架空対談”と言ってもご夫妻は各自のパートを熟考されています。
時には同じ画面を覗き込まれ、またお忙しい時にはわずかな空き時間を利用し、
メモリーに入れたデータをそれぞれのお部屋に持ち込まれ、
個別に作業なさってきた。つまりは“完全合作”なのです」
お互いの厳しい採点も、「ひとえにご謙遜のお気持ちの表れでしょう。
何より、両陛下の銀婚式の時の“採点”を踏襲し、さらに努力を続けていくという、
紀子妃殿下の強いご意思が拝察されます」
とはいえ、何事も過剰は禁物。ご謙遜のあまり、より大きな問題を呼び起こしてしまった感は否めない。
「秋篠宮殿下は、一昨年のお誕生日会見で
『(子どもが)20代でも私たちは40代でいられるというのは良かった』と述べられ、
その前年には『私は余り子どもの学校のことをふだん聞くことはない』と仰った。
長らくお子さまに恵まれず、また授業参観などで愛子内親王をたえず気にかけてこられた東宮ご夫妻への、
いわばあてつけと見られかねないご発言でした。
今回も、そうした延長線上にあると捉えられても致し方ないのではないでしょうか」(前出・宮内庁関係者)
折しも雅子妃は、2年2カ月ぶりとなる海外公務で、皇太子さまとともにトンガにご出発。
皇室ジャーナリストの神田秀一氏も、
「紀子さまがお子さまを3人育てられ、多くの公務をこなされている中での『可』という評価は、
84年の両陛下と同じく、ご自身のお気持ちをひたすら抑えていらっしゃるのが明らかです。
自ら『150点の出来です』などとは仰れませんし、そこには嗜(たしな)みを感じます」
その一方で、「トンガから戻られた雅子さまが、この先どうなるかは誰にも見通せません。
先回りした予測など無意味で、結果がすべてなのです」
銀婚式まで3年。果たして、評価を“合格圏内”に滑り込ませられるだろうか。
週刊新潮 2015年7月9日号 掲載
http://www.gruri.jp/article/2015/07130815/