慈愛と祈りの歳月にお供して

諸君!2008年7月号(文藝春秋)
慈愛と祈りの歳月にお供して
渡邉允(わたなべまこと) 宮内庁侍従職御用掛・前侍従長
「側近中の側近」が初めて明かす、知られざる日常、祭祀への真摯な取り組み、そして若き世代への思い
(一部)

■侍従長拝命まで
平成六年、両陛下は、夏にアメリカ、秋にフランス、スペインをご訪問。
そのとき、私は、外務省の儀典長として全面的にかかわりました。
アメリカでは、すでに退任されていたレーガン大統領を訪ねられ、長時間にわたってご懇談、
フランスでは、体調のすぐれないミッテラン大統領が飛行場まで自ら出迎え、丁重なおもてなしをされました。
印象的なのは、両陛下に対する好意が、両首脳の表情にはっきりとあらわれていたことです。
両陛下は、レーガン、ミッテラン両氏のような年長者に対しては、とりわけ謙虚な態度で接しられます。
失礼ないいかたかもしれませんが、とても感じがいいのです。
一方で、高齢の国家元首たちも両陛下との関係をとても大切にする。
そういう間柄が築かれるんです。これは海外要人に対してだけの話ではありません。
例えば、文化勲章受章者は宮殿でのお茶に招かれ両陛下に拝謁するならわしになっていますが、
高齢の受賞者に対して、陛下が「どうぞお座りになりませんか」と何度もお声をかけられる。
常にそういう気遣いをされる方々なのです。

■陛下の秘書官
現在、宮内庁の組織図では、侍従長の下に侍従次長がひとり、さらに侍従が七人います。
それぞれが担当を持っていて、侍従長は全体を取り仕切っているというかたちです。
侍従長の仕事について、以前、新聞のインタビューに答えて、
「天皇家の三太夫」と表現したことがありますが、
これは入江相政元侍従長の言われたことで、ひらたくいえば、執事や番頭といったところでしょうか。
たとえば、各方面から、両陛下にご臨席を賜りたいとか、
拝謁をお願いしたいという申し出は、たくさん寄せられます。
それをお受けするか否か、担当部局と一緒に交通整理をするのも、ひとつの役目です。
さらに調整がついて日程が決まり、細かい手はずを検討する段になると、
両陛下のお立場に立って、事務方や主催者側と一緒に固めていくことになります。
両陛下が式典などで述べられる「お言葉」の原案を考えるというのも、大事な役目です。
多くの場合、主催者側の希望を基本にして、その内容を陛下の普段のお考えや、
これまでのお言葉と比較し、元となる案を作成します。
また、外国の王室や、内外のお知り合いの方々との非公式なお手紙のお取次ぎなども受け持ちます。
侍従職のなかには、女官長をトップとした「女官」がいます。皇后陛下の秘書役を含めて、
日常生活の大部分はこの女性たちが中心となって担当しています。
掃除、洗濯などは、「女儒(にょじゅ)」、「雑士(ざっし)」が担当します。
ほかに、陛下の担当として「内舎人(うどねり)」と呼ばれる若い男子職員がいて、
陛下の服装などのお世話をしています。
ほかに「侍医」と呼ばれる医師が侍医長以下四名ほどおります。
お食事を担当するのは「大膳」です。五月七日、来日中の胡錦濤・中国国家主席を招いて、
宮中晩餐会がひらかれましたが、こういった公式のお食事も、両陛下の日常のお食事も、大膳が受け持ちます。

■日々のタイムテーブルは
宮中祭祀はとくに苦労した分野です。たとえば新嘗祭で、侍従長としての所作があるのですが、
宮内庁内に他に経験者はいません。
祭りを担当する掌典長にも、古参の侍従にもわからない。
結局、祭祀の専門家として掌典職に居られた御用掛の鎌田純一さんに相談にのっていただいたのです。
たとえば、両陛下に、ある著者から本が献上されたとしましょう。
まず、お受けしていいかどうか検討し、お受けするとなれば、
どういう経緯で送られてきた本なのか、メモを添えて、両陛下に差し上げる。
そして、著者に「たしかにお渡ししました」と伝える。
すると、しばらくして両陛下から著者にご伝言のある場合がある。それをまた著者にお伝えする。
そういう緩やかな流れのなかで、一件が完結するまで二、三週間はかかります。
著書の献上だけでなく、こういったことが、常に、大小無数にあるわけです。
私自身の心構えとして、自分の好みや優先順位というものは、絶対にあってはならないと考えていました。
常に両陛下のプライオリティーに添って考え、処理しなくてはいけない、と。
また、ルール、原則に従って判断するということが非常に重要になってきます。
たとえば、例外はありますが、お会いになったことのない方からの著書献上は受けられない、といったルールです。
私の勝手な判断で、「この著者はいい人だから」と、本をお渡しするようなことは、厳に慎んできました。

■両陛下のお人柄と日常
まず、大変に規則正しい生活をされているとうことですね。
朝はかならず六時に起床。変更されることはまずありません。
一方、夜、当直の侍従や女官は原則として午後十時半には寝てもよいことになっていますが、
両陛下がその時間にお休みになるかといえば、そういうわけでもありません。
昼間は公務でご多忙ですから、読まなくてはいけない本や書類、
書かなくてはいけない手紙などは次第にたまっていきます。
夜遅くまで起きて、机に向かわれる日も少なくないようです。
何時にお休みになっているかは、じつのところ、われわれにも分からないのです。
ただ、どんなにお疲れになっていてもお昼寝などはされません。
そして、もうひとつ驚かされるのは、ぼんやりとしておられる時間がまったくないということです。
週末に式典などの公務が入ることもありますし、とくに祝日は、新嘗祭をはじめとする宮中祭祀が目白押しです。

御用邸のご滞在はいつも短くなってしまうし、ぼんやりされることがない。
かならず人にお会いになったり、どこかを訪ねたりなさる。
その中には、農家をお訪ねになったりするお仕事が入ってしまうといった具合なのです。
御用邸ではご静養いただき、お仕事はなさらない建て前ですから、通常は侍従長や女官長は滞在しません。
お供するのは担当の侍従、女官だけです。ただ、御用邸に滞在なさる場合、
初日に、その県の知事が県政概要のご説明をニ十分ほどします。
それには、侍従長、女官長が陪席することになっているので、結果的に往路だけはお供することになります。
葉山、須崎の御用邸には、侍従長になって間もないころ、宿泊したことがあります。
陛下から「一度泊まってみるように」とお声をかけていただいたためです。
那須には毎年夏に一泊します。昭和天皇の時代から、
この季節に、両陛下が宮内記者会とニ十分ほど非公式にお会いになるならわしがあり、
これに立ち会うためです。両陛下がキジなどを放鳥なさるために外出された折り、
たまたま御用邸の中の東屋で記者団と会って、立ち話をなさる、そういう不思議な設定になっています(笑)。
その前夜、侍従長が記者団と一杯飲むのも、昭和時代以来の慣習です。
栃木県那須は温泉地として有名ですが、御用邸のなかにも近くの泉源から湯がひかれています。
これがとにかく熱い(笑)。初めて宿泊したとき、とても浴槽にはいれず、
お湯をくみ出して水で薄めて体にかけたりしていた。
その後、陛下から「侍従長も温泉に入ったか」とお尋ねがあった。
「いえ、どうにも熱くて…」と申し上げると、「それは、自分でうめるのだよ」と(笑)。
たしかにそのとおりで、冷水の蛇口もちゃんとありました。
テレビは時折は観ておられると思いますが、ご日程が立てこんでいて、
毎週、きまった時間にドラマをご覧になったりするのは難しいと思います。
陛下は、自然についての番組がお好きで、内舎人に録画を頼んで、
空いている時間にご覧になっているのではないかと思います。

とくに食べものの好みはおっしゃいません。大膳の作った食事を喜んで召し上がる。
朝は朝食、昼夜は和、洋、中をバランスよく回しておられるようです。
ふだんは、どちらかといえば粗食≠ナすね。美食への関心はとくにお持ちではない。
地方にいらしても「宿舎で出せる普通の食事を」と。
ご希望は、「地元のものを」というだけです。
「自分たちのために特別なことをしないでほしい」と、口癖のようにおっしゃいます。
われわれが行幸啓先の方々にお願いするのは、
特に、量が多くなりがちな外国などで、お食事の量を少なめに、ということだけです。
両陛下は、食事をけっして残されない。皿に料理が残っていると、
ホスト側にお口に合わなかったのでは≠ニいう心配をさせてしまう。
すべてを召し上がるのはその点へのご配慮です。
ですから、大盛りの料理はかえってご負担をおかけすることになりかねません。
ときどき、私もご相伴の機会がありますが、ふだんの両陛下は小食です。
おかずは多くて二、三品という感じ。
お昼には、カレーライスなども喜んで召し上がります。

陛下は式典のお言葉や記者会見のための原稿をご自分で書かれたり、
われわれが上げた文案に、ご自身で手を入れたりなさることがよくあります。
で、私のところに下ろされてきた陛下の原稿を拝見すると、
かならず一度使った書類の裏側にプリントされているのです。

ワープロとしての機能をお使いで、インターネットはされていないと思います。
長い原稿はまず鉛筆で認め、入力は内舎人に任せられることもありますが、
短い直しなどについては、ご自分でパソコンに向かわれる。
マウスの操作も非常にお上手ですよ(笑)。
そのパソコン机の引き出しに、片面使用済みの紙がたくさん入っている。
プリンタも、つい最近まで、ギーコギーコと音がする、印字が遅い、
古いタイプのものをお使いになっていた。さすがにこれでは時間がもったいないということで、
われわれからお願いして新しいものに替えていただきました。

お使いになるのは、ホンダの「インテグラ」といいう車種で、車体の色はグレー。
平成三年製造で、これもずいぶん古い。
皇太子時代は、軽井沢の公道でも運転されていたようです。もちろん運転免許も持っていられます。
昨年、免許更新のために高齢者講習を受けられました。
シミュレーターによるテストは、警視庁に頼み、機器を御所に持ち込んで行いました。
実地訓練も東御苑に道路標識を設置して行い、無事、免許は更新されました。
ふだん運転されるのは、御所から宮殿に移動されるときや、テニスコートにむかわれるときです。
人もほとんど通っていなければ、対向車も滅多にきませんが、運転はきちっと法令遵守でなさいます。
皇居のなかの制限速度は二十五キロから三十キロと決められていますが、それを守られる。
四つ角ではかならず一時停止、曲がるときは相当前からウインカーを出される。
慎重なご性格そのものの模範的な安全運転です。
皇后陛下が助手席に乗られるときには、後部座席に、侍従、女官、皇宮警察官が三人乗っています。

陛下は、必要以上に自動車の台数を増やそうとなさらない。
皇居外にでるときも同様で、たいていは二台、非公式な外出では、車一台で移動されます。
人や車を増やしましょうと申し上げても、なかなか「うん」とはおっしゃらない。
無駄をしないということに加えて、車列が長くなると、
それだけ一般の交通の妨げになることを心配されているんです。

■ご病気も包み隠さず
前立腺ガンに関しては、手術後も四週に一回のペースで、ホルモン療法のため注射を受けられています。
その副作用で筋肉や骨が弱くなり、骨粗鬆症になるおそれもあるという状態。
その対策としては運動がいちばんという医師の意見に従って、
ご公務の合間、テニスや水中歩行などを励行されています。
陛下は、医師の指示を一生懸命に守ろうとされる。
手術の後のご入院中も、まだ点滴などの管がついている時から、
医師から「これだけ歩いてください」といわれると、それより少し多いくらい歩かれる。
ですから、回復は順調でした。担当医も「本当に模範的な患者でいらっしゃる。
ふつうは痛いのを嫌って、サボったりするものですが」と話していました。
皇后陛下は、長いあいだに蓄積した心身のお疲れが、腸出血や首の痛みなどにあらわれているよに思います。
両陛下は、ご自身の健康については、包み隠さず、すべて発表してほしいというのが平素からのお考えで、
前立腺ガンのときもわれわれはお言葉通りにしました。
当然ながら、発表前、いわゆる「告知」も受けていられます。
両陛下には、ご自身の健康は、プライベートな問題ではないというお考えがあるのでしょう。
国民全体の関心事であり、病気で公務を休めば、たくさんの人に影響がでる。
そうした責任感から、規則正しい日常を過ごし、節制につとめておいでなのです。
皇后さまは、陛下のご健康を気遣い、運動の種類や量、栄養面などで、
医師や大膳とつねに入念な相談をされています。

(皇后陛下は)
普通の主婦と変わらないご苦労もありますね。例えば、なにかの献上があると、
お礼をどうするかは、大体、皇后様が具体的にお考えになる。
一般家庭でも、誰かに招ばれたときなど、奥さんがお礼状を出しますよね。同じことなんです。
御所に誰かを非公式にお招きになる際、どんな料理をお出しするか、これを決めるのも皇后様のお仕事です。
公のお仕事に加えて、日々沢山ある細々とした事柄に、このような心遣いをされるのは、大変なことだと思います。
さらに、お母さま、お祖母さまというお立場からなさること、なさらねばならないこともある。
侍従や女官など、宮内庁職員へのご配慮も濃やかです。年末、御所で行われるお餅つきは有名になりましたが、
侍従、女官から皇宮警察にいたる側近の職員をみな集め、両陛下も一緒になって二つの臼で、お正月用のお餅をつく。
似たような行事は、年に数回あって、秋には吹上にある大きなイチョウの木の下で
皆で銀杏拾いをしたあと、小さい袋に分けて、ご下賜があります。
このようなお心遣いは、職員にとって、このうえなく嬉しいことですが、
それだけご負担をおかけしているのではないかと心苦しい。

■宮中祭祀の重いご負担
象徴的なのは、陛下の一年が祭祀で始まるということです。元旦の午前五時半、あたりは真っ暗で、寒い。
神嘉伝での四方拝から始まり、つづいて宮中三殿での歳旦祭。賢所、皇霊殿、神殿と順番にお祈りをされる。
陛下のお話では「皇霊殿」に行くころになると、少し明るくなってくる」とのことです。
明けの明星を見る時刻、東の空が段々に明るくなる。
とても清々しい身の引き締まる瞬間ですね。
宮中祭祀は年間三十回以上」。明治時代に制定された「皇室祭祀令」の定めたもの、
毎日一日に行われる旬祭、歴代天皇の式年祭など、多岐にわたります。
宮中祭祀のなかでも、最も重いのが新嘗祭。
11月23日、午後6時から8時までの「夕の儀」と、11時から翌日午前1時までの「暁の儀」の二回があり、
基本的には同じ内容を繰り返します。
お米をはじめ、山の幸、海の幸を神様にお供えし、五穀豊穣に対するお礼をなさる儀式です。
陛下が神嘉殿でお祭りをされ、「御告文(おつげぶみ)」をお読みになる。
その後、皇太子殿下のご拝礼があり、皇族様方以下、総理大臣、宮内庁関係者などが順に拝礼します。
そのあいだ、侍従長と東宮侍従長は、外廊下で二時間、正座して待っています。
なかの様子は外からは見えません。
儀式が終わると、掌典長が先導、剣を持った侍従、陛下、そして璽を持った侍従があとにつづきます。
私は平伏したままこの列を見送り、スッと立ち上がってあとにつづきます。
その時は、それこそ必死の思いで立ち上がります。
陛下も儀式のあいだはずっと正座なのですが、
「自分は、二時間のあいだ、お供えをしたり、『御告文』を読んだりして多少の動きがあるからまだいい、
侍従長はただじっと座っていなければならないから大変だろうね」と、
ねぎらいの言葉をかけていただいたこともあります。
私は、夏を過ぎたころから、少しずつ正座に脚を慣らすようにしていましたが、
陛下も同じだったようで、「テレビを見ながら座るといい。
何々の番組はちょうど四十五分だから、そのくらいからはじめるのが適当」と、
有益なご助言を下さったこともありました。

宮中祭祀の服装に関していえば、御所で潔斎をされてから、まずモーニングに着替えられる。
さらに、賢所の綾綺殿(りょうきでん)で侍従ふたりが前後について、祭服に着替えられます。
もちろんボタンでとめるのではなく、紐で体を締めつける装束です。
皇后様の場合は、さらに鬘を整え、お化粧もなさる。
両陛下とも、精神的に緊張なさるのは拝見していて分かるし、正座、平伏などの動作もおありになる。
宮中祭祀は、現行憲法の政教分離の原則に照らせば、陛下の「私的な活動」ということにならざるをえませんが、
陛下は、国民の幸せと世のなかの平穏のため、私心を去り、一心に取り組んでおられます。
常に国民の幸せを祈るというお気持ちをかたちにしたものとして祭祀がある。私はそう解釈しています。

昭和天皇の例では、今の陛下のご年齢よりもだいぶ前から毎月の旬祭を年二回にされ、
六十九歳になられたころからは、いくつかの祭祀を御代拝によって行われたりした。
私も在任中、両陛下のお体にさわることがあってはならないと、ご負担の軽減を何度もお勧めしましたが、
陛下は「いや、まだできるから」と、まともに取り合おうとはなさいませんでした。

陛下は筋の通らないことは本当にお嫌いです。
なにかをしていただくにも、逆におやめいただくにも、そうなんです。
ただ、そのとき「来年は在位二十年になるから、来年には考えよう」ともおっしゃった。
そこで、宮内庁は、やっと方針を発表できたのです。

■戦没者慰霊への尽きせぬ想い
平成17年のサイパン訪問にお供したことが、強く印象に残っています。
戦後60年の節目になにをすべきか、ご自身でお考えになり、
行き着いた答えがサイパンへの慰霊の旅だったのだろうと思います。
いまや終戦直後に生まれた人でさえ還暦を越え、現役世代のほとんどは戦争を知りません。
陛下はそこを心配なさっている。戦争がいかに悲惨なものか、平和がいかに尊いものかを、
国民に分かってもらうために何をすればいいのか。
陛下にしかできない大きなお仕事が、ここにありました。
サイパンにある慰霊碑は、日本の軍人、民間人のためのものだけではありません。
アメリカの軍人、現地住民、さらには朝鮮出身者、沖縄出身者の慰霊碑もあります。
大勢の人が身を投げた「バンザイクリフ」もあります。
陛下はご自分の意思で、そのすべてを回られた。
自分が慰めるべきは、あの戦争にかかわるすべての人の魂である、そういう思いからでしょう。
平成10年のイギリスご訪問、平成12年のオランダご訪問の際、かつて旧日本軍の捕虜になった人々や、
日本軍に抑留された人々が抗議行動を起こしました。
イギリスで陛下は「戦争により人々の受けた傷を思う時、深い心の痛みを覚えますが、
この度の訪問に当たっても私どもはこうしたことを心にとどめ、
滞在の日々を過ごしたいと思っています」と述べられました。
また、同じイギリス訪問の折、皇后陛下は「旅の日に」として、次の歌を詠まれた。
「語らざる悲しみもてる人あらむ 母国は青き梅実る頃」
イギリスで元捕虜たちの抗議の声を耳にされながら、ふり返って、
捕虜となった経験を持つ旧日本海軍兵士の悲しみを思われた。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」の故に、じっと悲しみに耐えて、
寡黙に戦後の日々を生きるほかなかったこれらの人々の心中をお察しになっての御歌で感動しました。
陛下は、物心ついてから終戦まで、戦争のないときはなかった、としばしばおっしゃる。
疎開して、東京に帰ってみればあたりは一面の焼野原。
何百万人という人が亡くなった。これは本当に衝撃だったでしょう。
そして戦後、陛下は戦争のことや昭和天皇のご苦労について心をこめて勉強された。
それらのことから、戦争で亡くなった人々の霊を慰め、
同時に遺族を慰めつづけることこそご自身の課題であると、思いさだめておられるのではないかと思います。
毎年8月15日、武道館で「全国戦没者追悼式」が行われます。
関係者の高齢化はとめどなく進み、戦没者の親世代はもとより、妻の世代もいなくなりつつある。
出席者の多くは、子ども、孫です。しかし、その人たちがいる限り、陛下の慰霊はつづく。
さらに、この人たちの戦争と平和への思いは、国民すべてが共有しなければばらない、
そう感じておられるのだと思います。

沖縄は日本で唯一、地上戦があった土地。戦火に巻き込まれ、地元住民がおおぜい亡くなった。
しかも、戦争が終わり、講和条約が結ばれたあとも、
長くアメリカの施政権下に取り残された。そんな苦難の歴史があったにもかかわらず、
住民は日本に復帰したいという気持ちを持ちづつけてきた。
だからこそ、迎える側としては、その歴史を十分理解し、共有しなくてはいけない、それが陛下のお考えです。
沖縄の文化を熱心に研究され、琉歌を詠んだりされるのも、その延長でしょう。
平成6年の訪米の折、サンフランシスコに立ち寄られたのは、沖縄慰霊の日である6月23日でした。
陛下は、皇太子時代、日本人が覚えていなければならない四つの日として、
8月6日広島原爆記念日、9日長崎原爆記念日、15日終戦記念日、
そして、沖縄慰霊の日をあげられています。たとえ外国ご訪問中であっても、
それらの日に慰霊の意を表するのを怠られることはありません。
出発前、陛下は、沖縄で追悼式典が何時に行われるか、時間を調べるようにお命じになった。
それはちょうどサンフランシスコ市長が主催する晩餐会がはじまる時刻とかさなっていました。
陛下は、晩餐会の開始を少し遅らせてもらうよう市長に頼んでほしいとおっしゃり、
その時刻、両陛下お二人でホテルの部屋で黙禱を捧げられました。

宮殿で陛下とお話ししている最中、都心が中程度の地震に見舞われたことがあります。
われわれなら、すぐに自分の家の無事をたしかめようとアタフタしますが、
陛下はご自分のことは委細かまわず、すぐにテレビのスイッチを入れ、
速報のテロップをじっとご覧になり、「これくらいなら、さほど大きな被害はない」と安心なさって、
話に戻られたことがありました。
自然災害は、いつでも、また、どんな小さなものでも被災者のことを心配なさる。
災害の程度によっては、侍従長が都道府県知事に電話をします。
両陛下の犠牲者に対するお気持ちと、救援活動にあたる人々へのお励ましをお伝えするためです。
両陛下からのお見舞金を出すケースもあります。
そうした方針を決めるにあたって、いちばん初めにご相談を受けるのは侍従長ということになります。
私がお見舞いに同行したのは、平成16年の新潟県中越地震のとき。
自衛隊のヘリコプターやマイクロバスで長岡市、小千谷市を回られました。
日帰りで、大変ハードなスケジュールでした。最後の川口町の中学校に着いたころには、あたりはもう真っ暗。
お昼には、救援活動の人々と同じコンビニ弁当のようなものを召し上がりました。
両陛下は、早く現地に行って被災者を慰めたいと願われる一方、
お見舞いに行くとかえって迷惑になるのではないかということを、絶えず気にされます。
人手が両陛下への対応に割かれることで、救援活動や復旧活動が滞ってはいけない。
両陛下としては一刻も早く行きたいお気持ちでも、
宮内庁長官が現地と相談して、タイミングをはからなければなりません。

■きっぱりとした新妻・清子さま
香淳皇后は、5月ごろまで、ずっと安定したご体調で過ごされていました。
ところが、急にご容態が変化して、崩御はあっという間という感じでした。
両陛下は、長い間、しばしばお見舞いにいらしていましたし、崩御には強い喪失感を感じられたと思います。
皇太后崩御は、昭和26年の貞明皇后以来ですから、ご葬儀をどうするかが、大変でした。
前例はあっても、戦争直後と今とは全くちがう時代のころ。
今日の状況にあわせてひとつひとつ検討し直して、決めていただかなくてはなりません。
両陛下も疲労困憊されたと思います。
葬儀の期間、何度も八王子の武蔵野東陵に行かれましたが、
ある時、車が中央高速道にはいると、驚いたことに、両陛下とも居眠りを始められました。
十年以上お仕えして、両陛下が居眠りをなさるお姿を拝見したのは、あのときだけです。
それだけ、心身ともにお疲れだったのだと思います。
平成14年11月、高円宮殿下が若くして薨去。平成16年12月には高松宮妃喜久子さまが薨去されました。
高松宮妃は、紀宮さまのご結婚をなによりも心待ちにされていました。
亡くなられたのはご婚約発表直前のことで、残念なことでした。

紀宮さまは、本当に立派な内親王でいらした。
お幸せになっていただきたいというのが、われわれすべての願いでした。
ただ、内親王のご結婚は、おいそれと決まるものではありません。
まだ具体的な経緯はお話しできませんが、秋篠宮さまのお力が大きかった。
紀宮さまは、お相手として誰かの名があがり、マスコミの取材が殺到したりすることを大変恐れておられた。
「人に迷惑をかけるくらいなら、私のことはもう結構です」というお気持ちから、
消極的になられることがとても心配なことでした。
ご結婚が決まってからは大忙しでした。内親王の結婚は、昭和の島津貴子さま以来。
昭和天皇の三人の皇女は、いずれも高輪にあった光輪閣で挙式されていますが、
その建物は取り壊され、いまはありません。
会場から新たに探さなくてはならず、その他実に沢山のことがありました。
ほとんど紀宮さまと黒田慶樹さんが相談され、お決めになりましたが、
放っておくと、あのお二人ですから、ただただ遠慮がちな地味なものになってしまいかねません(笑)。
披露宴のやりかたも含めて、両陛下、とくに皇后陛下は細やかに気を配っていらっしゃいました。
いろいろ苦労もありましたが、楽しい思い出です。

もちろん家事はひと通り習っていらっしゃるけれども、あまり実地のご経験はないわけです。
前例では、嫁がれた内親王には、一定期間、宮内庁の職員がお手伝いに行っていたようです。
ところが、紀宮さまは「お手伝いはいりません。私は最初から自分でやります」とおっしゃる。
慣れないスーパーマーケットでのお買い物に、若い女性の元出仕がお手伝いしたこともありましたが、
基本的にはすべてご自身でやってこられました。
購入予定に新築マンションが贅沢すぎるのではないかと真剣に悩まれたのは、
じつに紀宮さまらしいエピソードでした。
宮内庁職員が、「いまの世のなか、この程度はけっして贅沢のうちにはいりません」と説得申し上げ、
やっと納得していただきました。
ただ、紀宮さま、いや黒田清子さまは、意外な思いきりの良さを持ちあわせていらっしゃる。
これまで内親王として、さまざまな団体とかかわってこられ、
顧問のようなかたちでの継続を望む団体も少なくなかったのですが、
「私には当面、そのようなことをする余裕はありません」と、すべて辞退されました。
侍従職がなにかお世話をしようとしても、「私は、もう侍従職のお世話になる立場にはありません」とおっしゃり、
御所に来られるときの車の手配さえ遠慮されます。
あんなにやさしく穏やかな清子さまの、どこからあのようなきっぱりしたものがでてくるのかと、
感心せずにはいられません。

■愛子さま、悠仁さまへのまなざし
どちらのときも、両陛下はたいそうお喜びでした。
愛子さまご誕生のとき、両陛下は地方にお出かけになっている可能性がありました。
いつお生まれになるか分かりませんから、いざという時のご報告の仕方をめぐって、
宮内庁の中でいろいろ机上の演習をしたこともありました。
幸い、お誕生の時は御所に居られ、ご報告に駆けつけたことを思い出します。
悠仁さまが誕生されたときは、両陛下は国際学会で札幌にいらした。
帝王切開のため、お生まれになる時間はあらかじめ分かっており、
ホテルの部屋で秋篠宮さまから報告の電話を受けられました。
直後の国際学会では、主催者からお祝いの発言があり、満場の拍手があったのを受けて、
陛下がアドリブで「みなさんにお祝いしていただいたことを、深く感謝しております。どうもありがとう」
とおっしゃったのには、陛下の素直な喜びが感じられ、胸が一杯になりました。

百二十五代にわたる伝統を背負っておられる陛下にとって、皇位継承問題の重み、
ご自身の御世の間にしっかりと後に繋げていかねばならないというお気持ちの強さは、
われわれの想像を絶するものがあると思います。
東宮家にお子さまがなかなかお生まれにならなかった時期、深く心配されたことは疑うべきもありません。
しかし、そこに愛子さまがお生まれになったんです。
そうすると、今度は皇室典範改定をめぐって、賛否の議論が起こり、国論がはげしく二分された。
この事態が、また、陛下のお心を深くお悩ませすることになってしまいました。
皇室にかかわることで、国論が二分する事態だけが避けなければならないというのは、
陛下の基本的なお考えだと思います。

(皇太子殿下の人格否定発言について)
大きな騒ぎになり、陛下のご心配もひとかたならぬものでした。
皇太子殿下は、発言直後に欧州訪問に出かけられ、
陛下は「あらためてその内容について説明しないと国民も心配しているであろう」とおっしゃった。
マスコミは、憶測記事の大洪水になりました。すべてを否定すればそれがまた騒ぎになる、
一部を打ち消せばほかは正しいのかということになりかねない。
宮内庁は、さながら立往生の様相でした。そんなとき、両陛下は
「報道の多くが家族のなかの問題に関する憶測であるならば、
その一つ一つに釈明することが国のためになるとは思われない。
宮内庁はほかにやるべき仕事があるのだから、一つ一つの釈明に労を費やすことは望まず、
今は沈黙を守ってくれて構わない」とおっしゃいました。

−−その年の12月、天皇誕生日の会見で、陛下は
「皇太子の発言の内容については、その後、何回か皇太子からも話を聞いたのですが、
まだ私に十分に理解しきれないところがあり、こうした段階での細かい言及は控えたいと思います」
と発言されています。

世間の関心をあつめている問題について記者会見で訊かれた質問には、
事実をそのとおりに答えなくてはならない。
そういうお気持ちから出たお言葉でしょう。ご自身の健康問題についても
隠し立てしないというのと同じことだと思います。
よく、皇太子殿下とのご関係について、
「記者会見で発言などなさらずに、直接ご本人とお話し合いになればいいのに」という感想を語る方がいます。
もちろん直接のお話し合いは何度も持たれているのです。
ただ、陛下の場合、それはそれとして、記者会見での質問に誠実に答えるというスタンスは徹底されています。
侍従長に就任して間もないころ、私は、自分の経験から、
「多少質問の趣旨とズレても、おっしゃりたいことをおっしゃればいいのでは」と、
陛下に申し上げたことがあります。
しかし陛下は非常に真面目に、質問のすべてに正面からお答えになろうとする姿勢をお変えになりません。
陛下は、ご自身が昭和天皇から引き継がれたものを、今度は次の世代にきっちり引き継ぎたい、
そして、次の世代はそれをしっかりと受け止めてくれるだろうという期待を強くお持ちになっている。
だからこそある程度、厳しいこともおっしゃる。
仲違い、喧嘩ととらえるのは、全く違うと思います。
皇太子殿下はやがて百二十六代天皇になられるお立場にあります。
そのときどきの天皇のあり方は、国民との関係によって決まってくると思います。
今上陛下は皇室の伝統や憲法を重んじられる一方、国民の要請や期待に謙虚に耳を傾け、
それに応えていこうと全身全霊で努めてこられた。
ご自分の務めは国と国民のために尽くすことにあるのだと。
天皇の務めには、変わらない部分と時代とともに変わっていく部分とがある。
それをわきまえて、ほんとうに国民のためになると思うことなら、自信をもってするべきである。
それが陛下のお考えではないかと思っています。

(羽毛田長官の皇太子殿下への苦言について)
長官の発言の趣旨は、ご参内を増やしていただきたいということもさることながら、
むしろ、皇太子殿下に、ご自身の発言を大切にしていただきたいというお願いであったと理解しています。
ご参内について言えば、両陛下は、東宮時代、週に一度、お子さま方を連れて参内されていました。
そして、その折に、昭和天皇、香淳皇后から多くのことを学ばれたのだと思います。
両陛下には、子々孫々に伝えたいことがたくさんおありになる。
それは帝王学というような難しいことではなく、皇居内でやっている稲作や、
お蚕に関することであるとか、皇室の伝統的な行事に関すること、
さらには、国民の幸せ、戦争と平和のことなど、まさに数限りがないのではないでしょうか。
平成17年、両陛下が眞子さまを満州からの引き揚げ者が住む那須の千振開拓地に連れて行かれたのも、
そうした意味があってのことだったと思います。
もちろん愛子さまとのあいだにも、そういう時間をたくさんお持ちになりたい。
愛子さま、眞子さま、佳子さま、悠仁さま、いずれにも分け隔てなく、
両陛下のそうしたお気持ちは向けられていると思います。

昭和天皇は、新憲法下の天皇として戦後を生きられましたが、
やはりそれ以前に大日本帝国憲法下の天皇として在位されたことは否めないことでした。
一方、今上陛下はご即位のはじめから、現憲法下の象徴天皇であられた。
陛下は、そのような立場で何をなさるべきかを考え続け、実効し続けて今日まで来られたのだと思います。
たとえば、阪神淡路大震災のとき、両陛下は被災地の体育館の床にひざまずき、
国民と同じ目線の高さで語りかけられました。
これは昭和天皇にはなかったことでした。
ただ、そうされたのは、両陛下が「なにか新しいことをやろう」とお考えになったからではけっしてない。
国民との関係に深く思いをめぐらせ、誠心誠意、大震災に打ちのめされている人々を慰め、励まそうとされた。
その結果が、ごく自然に行動となってあらわれたのだと思います。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


天皇家の執事―侍従長の十年半 渡邉 允
文藝春秋 (2009/10)

「陛下は皇太子時代、昭和四十九年から、日本赤十字社名誉副総裁として、
毎年七月の献血運動推進全国大会に出席しておられましたが、
五十一年になって、ご自分でも希望されて献血を始められました。
献血量はその時々の赤十字の基準に従って二百ミリリットルないし四百ミリリットルでしたが、
当時の献血の制限年齢になられた平成十年まで続けられました。」

皇太子さま「会見の度に深まる懸念」の深層

テーミス2014年4月号
憲法から皇室の将来まで
皇太子さま「会見の度に深まる懸念」の深層
雅子妃の症状について十年一日の如く答えられるだけではなく皇室外交でも勘違いが

「回復しているがまだ途上」
十年一日の如し、とはまさにこのことだ。皇太子殿下の誕生日(54歳、2月23日)に先立って
毎年行われる記者会見では、雅子妃殿下のご病気に関連した質問が必ず出る。そのご回答を見る限り、
雅子さまの適応障害が良くなっているのか悪くなっているのか、国民はさっぱりわからない。
今年の誕生日記者会見はさる2月21日。雅子さまは'03年12月から療養に入られて丸10年になる。
皇太子さまは、昨年4月末のオランダ訪問などを取り上げて、こう答えられた。
「このように、雅子は確かに快方に向かっておりますが、
これですぐに活動の幅が広がるわけではないと思います」
病名を公表して1年たった9年前の2月の記者会見では、こうだった。
「雅子の様子については、病状は回復傾向にあって、前向きの気持ちが出てきているように見受けられます。
また、私的な外出を少しずつ重ねることなど、心身のエネルギーを高めていこうと積極的に努力しています」
病状が快方に向かっているのかいないのか。
驚くべきことは、記者団ときこんな調子のやりとりが9年間も延々と続けられていることだ。
「お陰様で、雅子は順調に回復しておりますが、
まだ回復の途上にあることを皆さんにもご理解いただき…」('06年2月)
「オランダでの静養などもあり、徐々にではありますけれども、
1年前に比べますと、より快方に向かっていると思います」('07年2月)
「5年前の治療開始のころに比べて、着実に快復に向かっており…」('09年2月)

皇室ウオッチャーが語る。
「こんな問答が10年も続くと、マスコミや国民のほうも、
自ずと疑心暗鬼になってくる。いろいろ説明されても、
結局は東宮職医師団を巻き込んで、雅子さまへのストレスを少しでも減らすように
周囲が気を使っているだけではないのか、という疑心だ。皇太子さまも誰かにいわされているようで、
ご自分の言葉で語られる毅然としたところがまったく感じられない」
今後も同じような記者会見が開かれる度に、皇太子ご夫妻に対する国民の心はいよいよ離れ、
皇室の将来に対する懸念は深まるばかりである。
皇太子ご夫妻を取り巻くもう一つの国民の関心が、雅子さまが大好きな「皇室外交」である。

皇室外交は和解から国際親善
皇太子さまと小和田雅子さんが最初に出会ったのは、雅子さんが外務省入りが決まっていた'86年の10月18日。
だが、その1年後の接触を最後に、4年8か月のブランクがあり、再会を果たしたのは'92年8月だった。
以降、皇太子さまだけでなく、柳谷謙介JICA(国際協力事業団)総裁(元外務次官)らが積極的に動いて
雅子さんを説得していくのである。そのとき、彼らの口説き文句は「皇室外交の担い手」であったといわれる。
当時、外務次官だった父親の小和田恒氏(現、国際司法裁判所判事)については、最近では娘の皇室入りを
絶好のチャンスとして捉え、あらゆる機会をつくってバックアップしていたと信じられている。
外務省には、2代3代と続く外交官一族のキャリアがゴロゴロしており、
それが外務省の間では一つのステイタスになっている。小和田氏のように“ポッと出”のキャリアが
次官に上り詰めたところで、権限はあるとしてもそれだけで一目置かれるような存在になれるわけではない。
そんな小和田家にとって、雅子さんの皇室入りは、願ってもないチャンスだったようだ。
しかし、雅子さまの皇室外交に対する思いには、大きな勘違いがある。
皇室外交は「憲法違反では」という見方もあるが、そう堅苦しく考える必要はない。
その実態は表敬訪問。記念式典臨席などの国際親善が中心である。
皇室の事情に詳しい政治ジャーナリストが語る。
「ただ国際親善といっても、昭和天皇や今上天皇の皇室外交には、『戦後和解』の模索という側面が強かった。
昭和天皇と良子皇后の欧州7か国訪問('71年9月〜10月)、その4年後の米国訪問('75年9月〜10月)などは
その典型的ケースだ。今上天皇はこの昭和天皇の遺志を継がれて、より具体的な『謝罪の辞』を語っておられる。
ところが皇太子ご夫妻となると、皇室外交で何を目指していくのかがはっきりしない」
時代が移り、皇室外交は結局、国際親善のウエイトが圧倒的に高くなっているのだが、
こちらのほうはある意味では「戦後和解」より厄介だ。
当人の人柄、振る舞いなどが国際親善では最も大事な要素になってくるため、普段の全人格がモノをいうからだ。
雅子さまに、そんなことを期待できるものだろうか。

父・小和田恒氏の振り付け通り
「国際親善の方面でも、昭和時代の皇太子さまと美智子妃、そして平成に入ってからのお二人の皇室外交は
強烈だった。皇太子時代に23回、美智子妃が22回、天皇、皇后に即位されてからは天皇陛下が17回、
皇后陛下が18回。'60年から'13年までの53年間で延べ106か国を訪問されている」(前出、政治ジャーナリスト)
'60年、当時の皇太子さまが美智子妃と日米修好100年を機に訪米されたときは、「日米関係修復」という
政治目的があったものの、民間から皇室に初めて入った「シンデレラガール」美智子妃の人気が凄まじく、
ご夫妻は熱狂的歓迎を受けた。
以降、皇室外交にとって美智子さまの存在く大きくなっていく。
逆に雅子さまの出番は少なく、ご結婚以降の外国訪問は7回、延べ15か国に過ぎない。
皇室外交にとって、キャリア外交官であることは何の関係もない。
雅子さまの勘違いというのはここだ。雅子さまはいまだにご自分の「ライフワーク」を探し求めているというが、
学生じゃあるまいし、そんなことをなぜ会見などで訴えなければならないのかわからない。
この雅子さまの皇室外交に、最近、小和田氏がかつての外務省の部下を使って積極的に動き回っている事実は、
すっかり知られるようになった。
ただ今年の記者会見では、「皇室の活動と政治の関わり」について聞かれ、皇太子さまはこう答えられた。
「今の日本は、戦後、日本国憲法を基礎として築き上げられ、現在、我が国は平和と繁栄を享受しております。
今後とも、憲法を遵守する立場に立って、必要な助言を得ながら事に当たっていくことが大切だと考えています」
これは年末の天皇誕生日に先立って記者会見された天皇陛下のご発言と平仄が合っている。
だが、押しつけられた憲法であるため改正を目指す安倍政権とは真っ向から衝突する。
平和時に国民の象徴である皇室の存在がこれほど揺れたことはない。

宮中の職人―庭園課、大膳課、編修課

文藝春秋2016年10月号
宮中の職人―庭園課、大膳課、編修課

宮内庁で働く人々には、専門家集団と呼ぶべき職員がいる。
14年に公開された『昭和天皇実録』で注目を浴びたのが編修課だ。
「実録編纂に関わった編修課の職員は、博物館の学芸員や外交史料館の職員などから抜擢されて
その任にあたりました。現在は試験採用で博士号の取得者を対象に公募をかけますが、
一人の枠に百名ほど応募があるなど狭き門になっています。東大出身者が多いですね」(宮内庁OB)
宮中では、歴代天皇の没後何周年というタイミングには式年祭が執り行われるが、
その際に資料を作成するのも編修課の仕事だという。
「例えば今年は、神武天皇2600年、春日宮天皇1300年が主だった式年祭ですが、編修課は対象となる
天皇にまつわる歴史をまとめたパンフレットを作成して陛下にお渡しします。
陛下はそれを読まれた上で識者から進講を受けて式年祭に備えられるのですが、
『このてんのうの陵墓は本物ですか』など鋭い質問が飛び出すこともあります」(同前)
晩餐会や茶会、また皇族の日常の食事を準備するのが大膳課。
洋食、和食、菓子、パン、東宮担当と五つの係があるが、どんな経歴の人が採用されるのだろうか。
大膳課OBの谷部金次郎氏が自身の採用経緯を振り返る。
「義兄が日本調理師会の会長と知り合いで、17歳の時にその推薦を受けたのがきっかけです。
“天皇の料理番”秋山徳蔵さんの面接を受けましたが、料理の腕前を試されるようなことはなかった。
欠員が出ないと募集はないですから幸運な巡り合わせだったと思います」
最近は、各国の日本大使館やホテルなどで経験を積んだ中堅の料理人も採用されているという。
彼らが調理する食材は栃木の御料牧場で育てられたものが多い。約20種類の有機野菜や果物のほか、
晩餐会でメインディッシュとなる羊、牛乳やバターも生産されている。
大膳課には配膳の担当者もいる。晩餐会や園遊会など大規模な宴席の際は、民間の配膳会に派遣を
依頼するが、天皇皇后や主賓のテーブルは大膳課の職員が受け持つという。
「陛下への料理のサーブや椅子を引く役目も担います。彼らは公務員ですが、
あれほど緊張する公務員の仕事もないでしょう」(同前)
皇居や東宮御所の庭園や樹木の管理を行っているのが庭園課だ。
「やはり農業高校や農学部の出身者が多いですね。背の高い植栽の宣は業者に委託しますが、
正月用の寄せ植え盆栽『春飾り』など、宮殿を飾る数多くの盆栽の手入れは庭園課が担当しています」
(前出・山下氏)
皇后の仕事の一つである御養蚕は春から初夏は泊まり込みになるため、庭園課だけではなく
臨時の助手が特定の高校のOBから四名採用される。
ほば毎年助手を派遣している熊谷農業高校の朝比奈永晋教諭が語る。
「ウチの生徒は真面目だと評価していただき、五年も助手を務めた教え子もいますよ。
ただ助手は期間限定の雇用で、普段は庭園課の職員の方が桑園の管理をしているそうです」

平成「尊王」論―今こそ正気の光を

別冊正論Extra.14
(平成23年1月7日発行)
平成「尊王」論―今こそ正気の光を
皇學館大学教授 松浦光修

“憲政史上最悪”の不敬発言
昨年(平成22年)、11月29日の午前のことである。
参議院本会議場で、天皇皇后両陛下、秋篠宮殿下・同妃殿下のご臨席を仰ぎ、
「議会開設120年」の式典が行われている。
しかし、国会議員の、なんと約半数が「欠席」であった。(衆参両院の国会議員721名のうち、出席したのは370名)。
それだけでも非礼の極みというべきであるが、この式典では、さらに信じがたいことが起きている。
式典中、秋篠宮殿下に対し、前代未聞の「不敬ヤジ」を飛ばした「民主党ベテラン議員」がいたのである。
その事実は、翌日の朝に更新されたみんなの党の参議院議員・桜内文城氏のブログによって明らかになった。
桜内氏は、こう記している。
「報道されてはいませんが、ある民主党ベテラン議員は、秋篠宮殿下御夫妻が入場された後、
天皇皇后両陛下の御入場をお待ちになる間、ずっと起立されていた。
(当初の式次第では、着席されることになっていた)
のに対して、『早く座れよ。こっちも座れないじゃないか。』と野次を飛ばす始末。
想像を絶するようなことが起こっていたのです」。
すぐにネット上で大騒ぎになり、早くも同日の午後には、その「民主党ベテラン議員」の名前が特定される。
国家公安委員長在任中、赤坂の議員宿舎のカード・キーを銀座のホステスに渡したり、
金賢姫を“国賓あつかい”の待遇で招いたりと…、
世間の顰蹙を買う話題にはこと欠かなかった衆議院議員・中井洽氏である。
(選挙区は、三重県第一区〔津市・伊賀市・名張市〕)
中井氏は、その後の報道を見るかぎり、どうやら、そもそも皇室に対する「敬意」がない人物のようで、
たとえば、その日の中井氏の行動について、自民党の理事は、12月1日の衆議院議院運営委員会で、こう指摘している。
「中井氏は、天皇皇后両陛下、秋篠宮同妃両殿下のお迎えに際しても、
一人(モーニング姿ではなく)平服で、お迎え前にもポケットに手を入れ、まわりの民主党議員と雑談していた。
秋篠宮同妃両殿下のご入場の際も、一人着席のまま、数秒後に立つ対応だった」(「産経ニュース」平成22年12月4日)。
(中略)
ちなみに、「不敬ヤジ」が世間で大騒ぎになり、中井氏への「懲罰動議」が出ると、
民主党は、同式典で携帯電話の着信音を響かせた自民党の衆議院議員・逢沢一郎氏へ
の「懲罰動議」を出して相殺をはかっている。
姑息としかいいようがない。
「逢沢氏の着信音は、天皇陛下に聞こえたかもしれないが、中井氏の発言は聞こえていない」というのが、
その理由らしいが、「過失の不敬」と「故意の不敬」の罪の軽重さえ、民主党にはわからないらしい。
たぶん「恥の上塗り」というのは、こういう態度のことをいうのであろう。
もしも民主党が「聞こえていない」などという理由で、
あくまでも中井氏の「不敬ヤジ」を不問に付そうとするのであれば、
民主党は、みんなの党の参議院議員・水野健一氏の次の証言に対して、どう釈明するつもりであろう。
「中井氏が殿下に対して『早く座れよ。こっちも座れないじゃないか』と言ったのが鮮明に聞こえた。
『聞こえるようにいわなければダメだ』とも言っており、確信犯だ。独り言ではない大きな声だった」
(『産経新聞』平成22年12月2日)。
中井氏の地声は(国会でのヤジなどで、周知の事実であろうが…)、きわめて大きい。
その中井氏が「聞こえるように」言ったのである。
あの静粛な議場内でのことであるから、秋篠宮殿下・同妃殿下に声が届いていた可能性は高い。
もし、殿下がなにかの機会に、さらりと、「ああ…あれ。聞こえていましたよ」などとおっしゃったら、
さて…、民主党首脳部は、どう責任をとるのであろう?
ちなみに、今回の一件で、民主党の非常識を象徴したのが、
中井氏と同じ三重県選出の民主党幹事長・岡田克也氏の対応である。
岡田氏は、「皇室がご関係になったような話を、軽々に取り上げるべきではない」などという、
意味不明な言い訳をしつつ、中井氏の謝罪の必要性を否定している(「産経新聞』平成22年12月3日)。
岡田氏といえば、かつて国会の場で、秋篠宮妃殿下の「紀子様」を、「のりこさま」と読んだ人である。
伊勢神宮御鎮座の三重県から選出された議員でありながら、
そろいもそろって、皇室に対する「不敬」な言動が目立つ。
それは、たぶん偶然ではない。なにしろ三重県の教育は、
戦後ずっと、反天皇思想をもつ職員団体の支配下にあるからである。
(中略)

「不敬装置」としての民主党
そもそも民主党は、日本人なら皇室に対して自然に生じるはずの敬意が、
党全体から、まったく感じられないという不思議な政党である。
ここで話を平成21年秋の「政権交代」の時点にもどし、民主党政権の皇室に対する“不敬の歴史”を確認しておきたい。
まず平成21年10月23日、先の岡田克也氏(当時、外務大臣)が、
閣僚懇談会で、国会開会式での天皇陛下のお言葉について、
「(毎回)同じ挨拶をいただいている。国会に来ていただいているのだから、よく考えてもらいたい」、
「陛下の思いが少しは入った言葉がいただけるような工夫を考えてほしい」などと発言し、
宮内庁に対して陛下のお言葉の見直しを求めた。
陛下のお言葉に「注文」をつけるなど、前代未聞のことである。
そして、その二ヵ月後の12月、民主党政権は、言語道断の不敬事件をおこす。
天皇陛下への「接見教養事件」である。
あたかも民主党幹事長(当時)・小沢一郎氏が、143名の一般参加者を引き連れ、12月10日から13日にかけて、
「朝貢外交」を行っているさなかの出来事であった。外国の要人が天皇陛下への接見を希望する場合、
通常は一ヶ月前に申し込むのがルールになっていたが、官房長官(当時)の平野博文氏は、
12月7日と10日に二度にわたり、電話で宮内庁に圧力をかけ、
中共の副主席・習近平氏との接見を、陛下に強要したのである。
結局…、接見は二回目の電話の五日後である15日に強行されたが、
あたかも、この日は、宮中では神聖な「賢所御神楽の儀」の日であった。
当時、私は民主党首脳部の何者かが、故意にそのような神聖な日に接見をぶつけてきたのではないか、
と疑ったものである。いったい、この一件について、陛下は、どのような思いをいだかれたのであろう?
むろん、正確に知るすべはないものの、ある宮内庁関係者は、こう語っている。
「両陛下は、周囲に『昭和天皇の御代から大切にしてきた
“あらゆる国のその立場にある人に公平に分け隔てなくお会いする”ということが、
簡単にないがしろにされてしまった』と漏らされた、と聞いております」(『週刊文春』平成21年12月24日号)。
どのような大国であろうと、また、どのような小国であろうと、
「一視同仁」の立場で臨まれるのが、ご歴代の大御心である。
おそらく今上陛下は、“先帝陛下が守ってこられた大切な外交の作法を、
私は守れなかった”との思いで、御自身をお責めになったのではなかろうか。
恐懼のきわみである。
しかし、この言語道断の「接見強要事件」においても、そのころの民主党内から聞こえてきたのは、
幼稚な詭弁と、傲慢な答弁ばかりであった。
小沢氏にいたっては、「内閣が判断したことについて、陛下がその意をうけて行動なさるのは、当然のことだ」、
「陛下は、『手違いで遅れたかもしれないけれども会いましょう』と必ずおっしゃると思う」などと、
取りようによっては、陛下に対する「脅迫」まがいのセリフも吐いている。
いずれも、皇室に対する日本人らしい敬意のカケラも感じられない“もの言い”であり、
これらの言葉に、当時、強烈な嫌悪感を覚えた向きも少なくなかったはずである。
ともあれ私は、この一件によって、はっきりと「民主党は朝敵である」と確信し、
以来、いつでもどこでも、そう公言しつづけている。

ちなみに、秋篠宮悠仁親王殿下が、おすこやかに成長されているにもかかわらず、
「女性・女系天皇」の実現を諦めていない一部の官僚と宮内庁関係者のなかには、
民主党政権の成立に期待する向きがあったらしい。
平成21年9月15日、宮内庁長官・羽毛田信吾氏は、
「政権が変っても、皇室が安定的に続いていくかどうかという観点から、
問題含みの状態であるという意識は変わらない」、
「新しい政権が発足後、できるだけ早くこの問題について説明する場を持ちたい」などと述べているが、
じつは、これは、新しい政権下で、「女性・女系天皇」を実現させよう…との動きであったという。
そのことについて、八木秀次氏は、当時の「事務方の政府高官と宮内庁筋」の動きを、こう記している。
「宮内庁は、今年(平成21年)初めから非公式に女性天皇容認のための研究会を発足させ、
女系容認の研究者を呼んでいる。
さらに麻生政権が密かに進めていた別方向での皇位の安定的継承のための検討を妨害したのは、
事務方の政府高官と宮内庁筋だった。
最後は、内奏の際のありもしない御下問を持ち出し『大御心』を捏造までして潰しにかかった」
(『正論』平成21年11月号)。
「別方向での皇位の安定的継承のための検討」とは、
おそらく、旧皇族の男系男子の子孫の方々に皇位に復帰していただくための具体策の検討ではないか…と推測される。
また、「大御心」の「捏造」とは、おそらく、何者かが
「天皇陛下は、じつは女系容認のお考えをおもちなのです」などというデマを、
当時の政府首脳部に伝えたということではないか…と推測される。
そもそも、秋篠宮悠仁親王殿下のご誕生によって、いったん下火になっていた「女性・女系天皇」推進論が、
近年になって、ふたたび息を吹き返したこと自体、不思議な話である。
おそらくその背後には、「事務方の政府高官と宮内庁筋」の動きがあるにちがいない。
不幸中の幸いは、民主党政権の成立後、すぐに「接見強要事件」が起こり、
羽毛田信吾氏と小沢一郎氏の対立が表面化したことである。
それによって、両者が「女性・女系天皇」の実現で協力し、
国体を破壊するという最悪の事態は、当面、避けられたわけであるが、
今から考えれば、それもひとつの「神風」であったといえよう。
ともあれ、以上のような民主党政権の“不敬の歴史”の延長線上に、中井洽氏の“憲政史上最悪”の「不敬ヤジ」がある。
官房長官の仙谷由人氏は、平成22年11月18日の参議院予算委員会で、
自衛隊を「暴力装置」と言ったが、このように見てくれば、
民主党政権は、政権発足以後、ずっと「不敬装置」であったといえる。
それが、「国体破壊装置」にバージョンアップしてからでは遅い。早期の「政権交代」が望まれる所以である。
(中略)

高師直・師泰兄弟と小沢一郎の皇室観
(中略)
決定的なのは、師直の(別本では、師泰の)この発言である。
「京都に『王』というものがあって、多くの土地を領有し、『内裏』とか『院御所』などというところがあって、
前を通るにも、一いち馬から降りねばならず、じつにメンドウだ。
『王』などいてもいなくても、政治は武家が諸事万端、うまく取り計らっている。
『王』などなくても、まったく不便はない。もし『いないと困る』という者がいるのなら、
木像でもつくっておくか、金属で鋳たものでも安置しておくか、
その二つのうち、どちらかをやればすむ話だ。
その上で、ほんものの上皇、天皇などは、どこへなりとも流して、捨ててしまえばよい。
それが、天下のためにもよいことで、そもそも公平というものであろう」
(小学館古典文学全集本『太平記』巻第二十六「師直師泰奢侈のこと・現代語訳は松浦)
近現代の天皇制廃止論者と、言うことが、じつによく似ている。
まるで日教組の教員のようである。そして、この師直の発言と
「接見強要事件」のさいの小沢一郎氏の発言は、よく考えてみれば、その思想構造が、まことによく似ている。
先にも引いたとおり、あの時、小沢氏は
「内閣が判断したことについて、陛下がその意を受けて行動なさるのは、当然のことだ」
と発言しているが、それは、つまり「主権者は国民であり、内閣は、
その国民の負託を受けているのであるから、内閣と与党の命令は絶対である。
したがって天皇は、内閣に従わなくてはならない」という意味かと思われる。
たしかに「日本国憲法」には、「(天皇の)地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」との文言がある。
これを恣意的に解釈すれば、小沢氏の発言は、一見すると正論のように見えなくもない。
しかし、もしも、そのような解釈が可能であるなら、日本では、内閣の下位に皇室が位置する…、
つまり、“皇室は内閣の下部機関”という位置づけになってしまう。
もちろん、そんなことは、日本の歴史と伝統を考えれば、ありえない解釈であるし、さらには
「日本国憲法」のどこにも、そのようなことは書かれていない。そ
れに、そのような解釈が成り立つのなら、天皇の「政治利用」など、いくらでも可能になってしまおう。
民主党が、昨年の「接見強要事件」に見られたとおり、天皇の政治利用を躊躇なく強行し、
その後、党内から、反省の声一つあがらなかったことからすると、
あるいは小沢氏の天皇観は、民主党全体の天皇観を象徴するものなのかもしれない。
(中略)

北畠親房の「種」と「徳」
悠久の歴史をふりかえれば、古代の日本には、広く国民のあいだに「尊皇」の心が横溢していたように思われる。
残念ながら、今の日本史学者のほとんどはサヨクであるから、そのことを、なんだかんだといって認めたがるまいが、
たとえば、「防人」の一人である今奉部与曽布(いままつりべよそふ)は、こういう和歌を詠んでいる。
「今日よりは/顧みなくて/大君の/しこの御盾と/出で立つ君は」(『万葉集』巻第二十)。
歌意は、こうである。「今日から私は“私”を滅して生きよう。
なぜなら、これから私は、天皇をお守りする強い盾になるという、尊い任務につくための旅に出るのだから…」。
壱岐、対馬、筑紫い「防人」が置かれたのは、天智天皇2年(663)の白村江の戦いの翌年で、
わが国に迫るシナの軍事的脅威に備えるためである。(近年の東アジアの外交状況は、この時代に近い)。
その危機にさいして、はるばる東国から、「防人」として九州に旅立つ民間の一青年によって、
このような和歌が詠まれているのであるから、やはり古代の日本では、
官民を問わず、「尊皇」の心が共有されていたと見るべきであろう。
それにもかかわらず、数百年の歳月を経て、どうして日本では、土岐頼遠や高師直・師泰のような不敬の言動が
横行するようになったのであろうか?むろん、その原因を挙げはじめたら、きりがあるまいが、
その直近の大きな原因の一つとして、皇統が長く二統にわかれていたことがあるのは、まちがいなかろう。
二統とは、御嵯峨天皇(1220-72)の第一皇子・後深草天皇にはじまる大覚寺統と、
その第二皇子・亀山天皇にはじまる持明院統である。
後宇多天皇(1267-1324)から伍代(1288-1339)までの六代の天皇は、両党から交互に即位している。
このような危うい皇位継承がつづくことによって、
しだいに「正統」という観念が曖昧になっていくのは当然のことであろう。
そして、そのことが、南北朝の騒乱を招く最大の原因になるのである。
皇位継承とは、それ以上のものはない、と言っていいほどの国家の重大事であり、
あくまでも、建国以来の皇室伝統にもとづく原則にしたがって行われるべきものである。
その原則は、けっして、その時々の天皇や皇族、ましてや政治家などの意思で、勝手に変えてよいものではない。
したがって、「次の天皇はどなたか?」ということについて、ある時代の人々の答えがバラバラである…ということは、
基本的にあってはならないことで、もしも、そのような状況であれば、すでにその時、
伝統的な皇位継承の原則は“揺らいでいる”ということになる。
その“揺らぎ”は、ほかならぬ日本の“揺らぎ”であり、その振幅が大きければ大きいほど、
国は、しだいに乱世へと向かい、結果的に、国民は塗炭の苦しみを味わうことになる。
まさに南北朝がそのような時代であったわけであるが、
その渦中にあって、北畠親房(1293-1354)の書き上げた名著が、『神皇正統記』には、こういう言葉が散見される。
「わが朝の初めは、天神の種を受けて」・「天祖よい…ただ一種にまします」・
「(外国は)勢力あれば下劣の種も国王となり」
近代以前においては、農業が主な産業であったから、
そのような社会において「種」は、「男系」などという言葉よりも、よりリアリティのある言葉であったろう。
「種を受けて」が、すなわち「男系」により継承を意味することは、常識のある者なら、誰が見てもはっきりしている。
親房にとっての難問は、そのようなことではなく、同じく神武天皇の「種を受け」ながら、 
なぜ、ある天皇の血統が絶え、別の血統に皇位が移るという現象が、
歴史上、何度も繰り返されてきたのか、ということであった。
その難問を、親房は「徳」というキーワードで解いている。
たとえば、武烈天皇を評して、親房は「不徳の子孫、宗廟の祭りを断たむこと。疑いなし」と記す。
仁徳天皇の子孫である武烈天皇は「不徳」であったがために、その血統は絶えてしまい、
次の天皇には、仁徳天皇の兄弟の子孫である継体天皇が即位した…と、親房は解釈するのである。
同じような血統の「交替」は、他にもあって、親房は、文徳天皇からはじまる血統が
陽成天皇という「不徳」の天皇の出現によって絶え、
その次の天皇に、文徳天皇の兄弟である光孝天皇が即位したことも、その一例であるとする。
親房にとって、血統は偶然絶えるのではなく、「不徳」の結果として、いわば“必然的”に絶えるのである。
つまり、親房が言いたいのは、こういうことであろう。「皇統は、神武天皇より男系で連続している。
ただし、“不徳”の天皇があらわれれば、その系統は断絶し、
別の系統の神武天皇の男系の子孫が、天皇として即位する」。
そのようにして神武天皇を初代とする、いく筋もの男系の皇統が伴走しつつ、
「徳」の有無によって交代しながら維持されてきたのが、親房にとっての「正統」なのである。
これは、いわば「神武天皇の男系子孫内の易姓革命思想」といってよい。

本居宣長から井上毅へ
ところが江戸時代になって、社会が安定し、学問が広がるにつれ、親房の「種」と「徳」による「正統」の概念規定は、
きわめて問題を含むものに変質する。とりわけ、親房が「正統」と信じた南朝が滅んでしまったという事実が、
知識人たちの前には、悩ましい問題として横たわっていたであろう。
親房の思想にしたがえば、南朝には「徳」がなかった、ということになるからである。
それのみならず。楠木、新田、名和などの「忠臣」たちも、
「不徳」の天皇に仕えた愚かな武将たちということになってしまう。
しかし、考えてみれば、そもそも、「徳」というのは―なるほど麗しい言葉ではあるものの
―むろん可視化できるものではない。
そのようなものによって「正統」が決定されるなら、結果的に、江戸時代の、どの大名家であろうと、
お家騒動が頻発する危険性が高まる。
これらの難問に解答を見出したのが、江戸時代初期の大学者・山崎闇斎(1618-82)と、その学派の学者たちであった。
その解答とは、簡単に言えば、こうなる。
「徳」の君主に仕えることは容易であるが、「不徳」の君主に仕えることは容易ではない。
しかし、「不徳」の君主に仕える時こそ、「忠」の真贋があらわれ、真の「忠」が光を放つ…。
したがって、「不徳」の天皇に仕えた南朝の武将たちこそが、真の「忠臣」といえる。
そうであるなら、おそらく、もっとも後醍醐天皇の「不徳」を知りつつ、
しかし、もっともご確認に忠義をつくした楠木正成こそが、最高の忠臣なのである。
(詳しくは、拙稿「平成『臣民』論」〔『正論』平成22年1月号〕参照)。
こうして、闇斎とその学派の学者たちの学問的・思想的な苦闘によって、必ずしも君主にとって、「徳」は
必要不可欠な」ものではない…ということになった。そして、闇斎が没して数十年の後のことであるが、
江戸時代の日本に、ふたたび学問的・思想的な巨人が生まれ、やがてはその人物が、
親房以来の「徳」の議論に、はっきりと決着をつけることになる。
その人物こそが、本居宣長(1730-1801)である。宣長は、こう断言している。
「なるほどシナなどでは、徳によって君主の位につく者もあって、
そのこと自体を、貴いことだと思う者もいるかもしれない。
その気持ち、わからないではないが、それは、じつは悪いことなのである。
わが皇国は、神代より君臣の分が、きっちりと定まっていて、
君主は、何の理由づけをする必要もなく、そもそも尊い。
その尊さは、『徳」などとは、まったく関係がなく、もっぱら『種」のみを根拠としている」
(『葛花』・現代語訳は松浦)。
ここでも、「種」がでてくる。というよりも…、もう宣長にとって、
「正統」の条件は、「種」のみになっているといってよい。
現在の学会でも、宣長は「学者としては、最上級の、ほとんど不世出の天才」(城福勇『本居宣長』)と
評されている人物であるが、その宣長が、長年の研鑽の果てに、
君主の条件を「種」にしぼったことの意味は、きわめて重い。
その後、宣長の学統は、皇学(国学)の主流をなす巨大な学派を形成する。
そのなかに宣長の養子の本居大平(1756-1833)から、その養子の本居内遠(1792-1855)へ、
その内遠から小中村清矩(1821-94)へと受け継がれた学統がある。
そして、小中村の養子となったのが、熊本出身の皇学(国学)者・池辺義象(1864-1923)である。
この池辺は、同じ熊本出身の法制官僚・井上毅(1844-95)の「秘書」となる。
いうまでもなく井上は、「大日本帝国憲法」「皇室典範」の起草者の一人であり、
「教育勅語」の制定にも主導的役割を果たした明治の忠臣である。
井上は、池辺に学びつつ、日本の古典の精密な研究をもととして、わが国の「国のかたち」を探求しつづけ、
やがて、その研究成果を近代日本の「成文法」として確立する。
こうして「旧皇室典範」が、明治22年2月11日に制定される。その第一条には「皇位は祖宗の皇統にして、男系の男子、
これを継承する」とあり、その「義解」には、
「皇統は男系に限り、女系の所出に及ばざるは、皇家の成法なり」と記されている。
また、「義解」には「皇統にして皇位を継ぐは、必ず一系に限る。
而して二三に分割すべからず」などともあるが、これらは、むろん井上個人の思いつきなどで記されたものではない。
これまで記したところからも明らかなように、それらは日本史上に屹立する、
北畠親房、山崎闇斎、本居宣長など、学問的・思想的な“巨人”たちの、
数百年にわたる思索と経験を結晶化させたものなのである。
このように見てくれば、「女系天皇」などというものは、しょせんは平成の、
あるいは近代の「邪説」・「珍説」のたぐいにすぎないことがわかる。
それにもかかわらず、平成17年11月に「皇室典範に関する有識者会議」の「報告書」が発表されて以来、
神武天皇以来の皇位継承の原則を破壊しようとする人々の動きは、先にも記したとおり、いまだにとまらない。
「皇室典範」の改正が急がれることは、むろん確かである。
しかし、それは、あくまでも建国以来の皇位継承の原則を護るための改正でなければならない。
皇位継承の原則を無視する言論は、いくら「皇室を思うがゆえに…」などいう断り書きを入れたところで、
しょせんは、皇位継承の原則の“ゆらぎ”をもたらすだけである。その“ゆらぎ”をもたらそうとする者は、
結果的には、国を騒乱に陥れ、国民を塗炭の苦しみに陥れる「朝敵」である。
おそらく、そのような“揺らぎ”と、民主党政権という「不敬装置」の出現とは、無縁ではあるまい。
皇統が二統にわかれ、その結果、いつ果てるともない内乱がつづき、
土岐頼遠や高師直・師泰などという「逆賊」を生んだ忌まわしい過去を、私たちは、けっして忘れてはなるまい。
思えば、南北朝の時代は、それらの不敬を生んだ“闇の時代”であったが、
逆説的に言えば、そのような時代であったからこそ、
楠木正成のような、日本人にとっては“永遠の忠臣”と呼ぶべき人物が生まれたのであろう。
幕末の志士の“原型”とも呼ぶべき藤田東湖(1806-55)は、こう記している。
「時代によって、わが国は衰弱することもあるが、そういう時にこそ、正気は、光を放つ」(『正気歌』)。
わが国の歴史とは、闇と光が交錯しつつ、結果的には、そのようなかたちで、
いわば「神の見えざる手」によって導かれてきたのであろう。
「不敬装置」の政権下にある今の日本も、たぶん、“闇の時代”のなかにある。
しかし、そうであるならば、なおさら私たちは、「邪説」「珍説」に惑わされることなく、
わが国の歴史上に屹立する“巨人”たちの叡知に学びつつ、一人一人が“正気の光”を発すべく、
今こそ、心を奮い立たせなければなるまい。

川島裕「随行記」天皇皇后両陛下にお供して

文藝春秋2016年10月号
鼎談書評
山内昌之×片山杜秀×後藤正治

川島裕「随行記」天皇皇后両陛下にお供して

山内
2007年から15年まで侍従長を務められた川島裕さんによる、天皇・皇后両陛下の旅の記録です。
ヨーロッパ歴訪やサイパン・ペリリュー島の慰霊の旅、そして東日本大震災の被災地ご訪問など、
行かれた先々で陛下がどのようにお考えになり、何をおっしゃったのか、
我々ではなかなか窺い知れない陛下の佇まいが自然に浮かび上がる、大変貴重な一冊になっています。
8月8日にあった「お言葉」で改めて天皇の在り方について考えた人も多いと思います。
この本を通してわかるのは、最初から象徴天皇として地位に就かれた現天皇が、
「象徴とは何なのか」を日夜模索してこられたことです。
天皇・皇后両陛下とともに、よく「国民に寄り添って」とおっしゃられますが、
これは単純に慰霊の旅や被災者たちのお見舞いに行かれる行為だけを示すのではないと、
本から浮かび上がってきます。
ご自身が体験していない苦しみや悲しみを本当に共有できるのか、ひじょうに深く考えていらっしゃいます。
川島さんはそれを「気」という言葉で表現し、「悲しみの『気』を心の中に擁したまま、
その後の生活を続けておられるものと思う。
(中略)慣れるということの決して出来ない辛いお仕事を、それでも、そこに行って、
その人たちの側にあることをご自分方の役割としてなさっているように拝察している」と書いています。
「気」を介して、人々の苦しみや悲しみに同化する―、
これこそが、両陛下の言われる「寄り添う」という意味だと思われますね。
天皇は国事行為として定められた法的行為だけ果たせばよいと考える人もいますが、
それでは国民に寄り添うことにはならないのです。

後藤
東日本大震災の被災地に何度も足を運んでおられる。
私の乏しい体験でも、現地に入ると否応なく覚えるのは「何ができるのか」「自分は何者なのか」という問いです。
天皇・皇后両陛下の発言から忖度して受け取れるのは、慰問も辛い役目ではあるが、
「人々の傍らに出向いて共にあることが自分たちの役割」と考えておられることです。
感性において優しい人だと思えますね。
天皇は少年期に戦争と配線を体験し、一般社会とは離れた環境下ではあれ、新しい価値観のもとで大きくなられた。
戦後の民主主義を大切に考えるリベラルな人であるように思えます。

片山
1945年までは現人神であり、ご聖断によって配線も決断された政治的な存在でもあった昭和天皇と違い、
今上天皇はまさに「戦後民主主義の申し子」として生まれた天皇です。昭和天皇はいわゆる「人間宣言」で、
天皇陛下と国民とは相互の信頼と敬愛によって結ばれた形で存在するとおっしゃっていましたが、
今上天皇は、国民の前になるべくおでましになってコミュニケーションすることが象徴天皇のあるべき姿だと
考えられているのだと思います。ただ存在するのではなく、できるだけ国民に寄り添い、“共感共苦”する。
この本はその実践の記録としても読むことができます。


想像以上にハードな行程

山内
現天皇は今年で八十三歳を迎えられます。周囲にいる侍従や宮内庁長官が七十歳を目途に退官されていくなか、
天皇陛下だけは定年がない。ないのが当然と考える人びともいます。
私たちなら「今日は疲れたから早く帰ろう」なんて融通がききますが(笑)、陛下の場合はそうはいかない。
現天皇が公務をなさる姿に慣れ、頼るあまりに陛下も人間だという当然の事実をついつい忘れがちです。
ご発言について考える際には、基本的人権やヒューマニティの観点も必要ではないでしょうか。
川島さんが「お年を召したご夫妻が短期間に続けてこれだけの長距離をクルマで旅されるケースは
日本中探しても例を見ないのではないか」と書いているように、その行程は想像以上にハードなのですね、
東日本大震災の被災地をお訪ねになるとき、両陛下は新幹線の最寄駅から海沿いまで
片側一車線の一般道で長時間のドライブをなさるようです。
安全上の問題から御料車も使えず、ミニバスに乗られたりもします。
また、びっしりと詰まったご公務の合間を縫うようにして行かれるのでほとんどの場合が日帰りです。
先日のお言葉でも「全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが難しくなる」とありましたが、
現天皇は徹頭徹尾、手抜きのない方です。

後藤
平和への思いは大変強い。戦後六十年でサイパン、七十年でパラオをご訪問され、
なかでもサイパンのバンザイ・クリフに向かって両陛下が頭を下げられている追悼の姿からは、
強い意志が伝わってくる。
体験者が高齢になり、戦争の記憶が薄れて国が間違った方向へ進んでいくことを危ぶむ発言を何度もされています。

山内
今年の終戦記念日のお言葉でも、「深い反省」という表現を昨年に続いて使われていました。たいへん重い言葉です。
一方で、現天皇はハゼの研究に熱心に取り組まれる学者なのです。
だから物の考え方が自然で無理がないのです。川島さんは外務事務次官までなさった方ですが、
陛下が欧米の学者と話されていると、聞いたこともない単語が飛び交うそうですよ。
日本人の象徴天皇の口から、ラテン語の学名などがぽんぽん発せられたのは誇らしくもあり、
さぞ独特の感動を受けたことでしょう(笑)。

片山
今上天皇は、その姿かたちやお声からも、慎みがにじみ出て柔らかく、対話的な物腰が身についておられると言いますか、
まさに戦後民主主義の申し子という気が致します。本書に描かれるご様子からも、
その一端を知ることができます。「お言葉」のあとでもあり、多くの人が何かを感じ取れる一冊だと思います。

人格否定発言 雑誌記事等


人格否定発言
人格否定発言 両陛下、秋篠宮殿下は…

岩井克己氏
ご成婚前後に長老皇族周辺からこんな言葉が流れてきたのを思い出します。
『妃殿下というのは、外交官である必要はないんだ。
つまり、ご本人はある意味ではある種、超絶したもので動いてはいけない。
まあ、儀礼的な存在である。そういう中にさまざまなメッセージを込めることが、
一つの皇族の在り方あって、外交や政治とは一線を画さなきゃならない。
憲法上の立場からも、その辺りを誤解してはならないのだと。
本来の本分(果たすべき、尽くすべき義務。)は、ですね。
長い歴史や伝統を受継いで、そして国内の国民に目を向けてですね、その苦楽におもいを寄せると、
それがあってこその海外での国際親善のベースがいわば、そこにあるのだと云う。
考え方を示唆されたのではないかと、そこでですね、
ご本人の持ち味と皇太子妃としてのさまざまな制約がある中でそれを、どう発揮していいか分らない。
そういう長年の苦労の積み重さなりがあったのではないかと思います。』


皇太子は会見翌々日(5/12)出発
見送りには秋篠宮両殿下、紀宮様(現:黒田清子さん)ら皇族方6人、
そして小和田優美子さんの姿も。(TV朝日のニュース内で)
雅子妃と愛子様は私室でのお見送り。


記者から「コミュニケーション不足なのではないですか?」と質問された長官は、
「難しい問題ですね。それにはお互い風通しのいい関係が大切なのですが、それが難しいのです・・。」
「プライバシーの問題もあるし、ご夫妻の内面の問題はご夫妻が話し合っていかないと、
こちらはどこまで踏み込んでいいかわからない」


皇室記者
今回の発言原稿は雅子妃の手が入っている。
「後ろ髪ひかれる〜」発言は相手国に失礼


皇室記者が語る、宮内庁内部の意見
お役に立てなくて申し訳ありませんというような内容のお言葉を、皇太子様は仰らなくてはいけない。
東宮職・側近は力不足。
2002年の、雅子妃の「外国に行きたい」発言に波紋があった。
外国からの招待状を受け取った、外務省からの要請を宮内庁が受け取り、
案件をあげ最終的には、天皇にも案件を上げる。
その後、政府が最終判断をする。宮内庁職員は、先に天皇の意向を優先させるので、
皇太子夫妻と天皇の意向が違う場合もある。
具体的には、皇太子さま宛ての「招待状」を皇太子らに報告せずに、断ったケースがあった。
雅子妃の父は外交官のため父親経由で外交情報が、入ってくることも少なくない。
そこで雅子妃が、知らない間にいつのまにか断られていた外訪招待の存在を聞かされていたのではないだろうか。
宮内庁が外国訪問をさせない理由に子作りが疎かになるという考えがある。
今回の欧州訪問も、皇太子は二人で行くことを考え雅子妃も最後まで、一緒に行ければと口にされていた。
だが、宮内庁が雅子妃の心身不良を考え、断念させた。
別荘での長期静養は母親優美子さんの案。
雅子さまの家族は宮内庁と、何度も話し合い説得させた。
静養場所も御所だと母親が泊まりこめないため別荘になった。これも、小和田家側からの提案。
3人で、スイスに静養へ行くという話も存在していた。
宮内庁批判に、職員と長官らは腹をくくっている。
今年の3月に開催された内々の天の古希の祝いは前立腺ガンからの復帰祝いを兼ねて美智子皇后が主催。
雅子妃以外の皇族はみな出席していた。
雅子さまは天皇皇后両陛下に新年の撮影会(昨年暮れ)以来一度も会わず挨拶もしてない。
新年の撮影会の後には食事会も予定されていたが愛子さまをつれてさっさと帰った。
平成11年に秋篠宮両殿下がドイツに公務に行ったのが面白くない。(2泊4日の強行スケジュールだったが)
今回の皇太子のヨーロッパ訪問の前に天皇皇后両陛下に挨拶と食事をしたが、当然の如く雅子さまは欠席。
予定より1時間も早く皇太子は退席。
皇太子殿下会見は30分遅れでスタート。理由は皇太子殿下による回答原案の推敲が長引いたため。
宮内庁長官官房審議官等が事前に発言チェックするが、
政治的発言、日本国憲法との整合性等形式的な部分で、感情の吐露といった箇所はノータッチ。
人格の否定とは、湯浅長官の「第三子発言」と推測。
公園デビューは警備・宮内庁反対でのとりやめについて、雅子妃は苦悩(子育ても制約されたと感じた)
皇太子夫妻が内々に相談できる人がおらず、不満や注文がすべて会見の場で行われる異常事態。
現在雅子妃は東宮御所内散策などして静養中。公務復帰の見通しは全く立っていない。

アエラ
両陛下の思いとして「周囲を傷つけるような言葉を言うべきではなかった。
自分で引き起こした混乱は自分で納めなさい」というのがあるだろう。
宮内庁が皇太子夫妻が愛子さまを公園に連れていくのを中止させたのは、両陛下の意向の延長との見方もある。

雅子妃は婦人科で細かい検査をしたが、無問題だった。
「両陛下に私は子供を産める身体であることを、両陛下にお知らせできてほっとした」と周りの人に言った。
小和田恒氏が香淳皇后危篤の際に、御所まで駆けつけたが恒氏は皇族ではない。
恒氏の外務官僚特有の傲慢さが染み付いた行為。宮内庁だけではなく皇族方も不快に感じられていた。
いつまでも官僚を辞めないのはいかがなものか。
雅子妃は朝起きるのが苦手で昼まで寝ている。皇太子は雅子妃が起きてくるのを待っている。
家族でのお食事会の時、紀宮様はみんなのお皿に食べ物を載せて渡したりするが、
雅子妃はぼ〜っと眺めているだけで何もしない。
優美子さんは、皇后陛下よりも先に皇孫敬宮愛子を抱いた可能性が大きい。
皇族関係者から不敬極まり行為と批難の声。
宮内庁では小和田家に対する反感が強い。
文藝春秋 櫻井よしこ氏
「同時に雅子さまは皇室に入られたことの意味を本来もっと認識しなければならないのではないかとも考える。
皇室の存在意味は、この国の成り立ちを私たちに示してくれることだと、私は大雑把にとらえている。
神々が自然の中に宿っていると感じ(略)
この国の姿を慈しみ、そうした日本の国柄というべきものを
国民に感じさせて下さることが皇室の役割だという気がする。
この国の起源としての文明の担い手としての役割がである。私は雅子さまの在り様に少々疑問を抱く。
雅子さまにそのような精神性を感ずることができないことに気付かせられる」


朝日新聞新書/岩井克己著/「天皇家の宿題」
人格否定発言後、陛下に促されて、皇太子が追加説明の文書について発表されるまで半月もかかったのは、
雅子さんが説明する必要はないとなかなか納得しなかったため。
雅子妃が側近に『説明文書を出すなら、皇太子妃をやめます』と激しい口調で言って、電話を切った。
その側近はこのため心労で体調も崩してしまったようだ。
下書きの段階で皇太子は紀宮さま(黒田清子さん)に相談。
両陛下にわびる趣旨が入っていたが、発表された文書では
「(両陛下に心配をかけてしまったことについて)心が痛みます」と変化。
紀宮さまもこれには驚かれた。
両陛下の周辺も「恵まれない人々に対する気持ちの表明みたいだ」と困惑した。


帝王に私心無し 文藝春秋七月号:小堀桂一郎(東大名誉教授)
皇室の第一の使命は 「祭祀の御厳修を通じての蒼生の統合である」
「元来皇室に外交面での何らかの国益上の貢献を求めるという事自体が我が国体にそぐわない事」
この考え(法律)を元に考えると、皇室の海外国家との自主的外交、交流はやってはいけない事、であり、
皇太子殿下と雅子さまが求める「外交」とは何ぞや、と言う事に繋がる。
そうでないとするならば、雅子さまの求める皇室外交とは単に海外旅行がしたい、
と言っているに過ぎないわけで国民の税を使っての観光&自己の満足にしか過ぎない。
これを訴えた皇太子殿下と雅子さまは私情をぶちまけて国民を混乱に貶めた事に他ならない。
この事は皇太子殿下と雅子さまは「皇族としての役割の理解が出来ていない事であり、非難されて当然。
又、皇室典範に戻れば皇孫を作る事が雅子さまが果たす最大の役割であり、
これが無くして、又はこれが叶わぬならば、その他の役割は些少であるのではないか。
皇室典範改正論議は皇太子発言とリンクさせるべきではない。

平成皇室論 橋本明 朝日新聞出版2009年7月
「人格否定」の発言が出た後、改めて東宮ご成婚十年の東宮職人事を点検して、おや、と首をかしげた。
東宮大夫だけでも菅野弘夫、森幸男、古川清、林田英樹と四人を数え、
東宮侍従長も平成十四(2002)年までに七人も代わっている。
宮内庁内部組織でもとかく独自世界を構築しがちな東宮職で首のすげ替えが頻繁に行われていた。
陛下が東宮殿下のころ、穂積重遠東宮大夫兼東宮侍従長−
野村行一元学習院教授−鈴木菊男と東宮大夫は代わったが、
鈴木が在職二十年などいずれも長期奉職であり、ひとかどの人物像を結んでいた。
雅子妃入内以来東宮職の人事がひんぱんに行われた客観的事実は、
何事か潜行する形で発生した異変を予知する動きではなかったろうか。

外交官の延長のように外国訪問を望む雅子妃に対しては、
むしろ古巣の外務省関係者から疑問の声が上がっていた。
外交とは国益を守るために政治家や官僚が行う交渉ごとであり、生々しく政治的な色合いを帯びる。
皇族の国際親善とは次元が違うというのである。
殿下は雅子妃の「人格否定」を訴えた記者会見の中で「雅子のキャリア」という表現を使っている。
カタカナ語でキャリアとは、専門における長き道のりを表す。
外務省に入省してほどない一外交官の卵に冠するには「経歴」とされるべきであった。
殿下には折角の道を手折って来てくれた、という思い入れが強すぎるのかもしれない。



東奥日報 断面2004年(2004年6月8日付)
▽“素人集団”
ご夫妻が暮らすのは、皇居から西に約二キロ離れた東宮御所。
秘書役の「侍従」「女官」各四人のほか、直近の身の回りの世話は内舎人(うどねり)と言われる男性職員、
女嬬(にょじゅ)、雑仕(ざっし)と呼ばれる女性の衣服担当、清掃担当が各四人。調理や警備を含めると、
総勢約百人が二十四時間態勢で仕え、「独自の世界」を形成する。
しかし幹部や侍従、女官は最も勤務経験が長い人でも、ご夫妻の結婚時からだ。
「皇室のしきたり」を雅子さまに指南するような「古参」はおらず、出向の役人を中心とした“素人集団”だ。
そのせいか「皇居で行われる宮殿行事や神事、そのほかの場面でも妃殿下と女官が作法を知らず、
後で両陛下の側近が注意したことがよくあった」と関係者は言う。


小堀桂一郎<正論> 産経
今回の文書は訪欧前の曖昧な表現の真意を明確にするようなものではなかった。
殿下は公務について思い違いをなされているのではないか心配。
そもそも公務というのは、海外での外交を重視するか或いは古来よりの伝統行事や国賓を迎えるなどの
国内公務のどちらかに重点を置くなどと <選り好み>できるものではない。曰く「帝王に私無し」である。
ああいう高い地位にいる方ならば、世間に与える影響力を考えて
軽軽しく内情及び公務に対する不満などぶちまけるべきではない。


雅子妃に「海外禁足」を強いた人物
週刊女性2004年7月20日号
ご発言の波紋と秋篠宮家の困惑
当初、宮内庁は「欧州から帰国された殿下に長官が面会し、発言の真意について発表する」方針だった。
しかし、帰国された皇太子さまは、湯浅利夫長官の面会要請を事実上拒否。
記者会見という形ではないが、自らコメントを発表されることになった。
「宮内庁長官の面会要請に、殿下が応じられなかったというのは異例のことです。
一方、欧州から帰国後、すでに約半月がたちますが、
発言の波紋について、殿下も慎重にお考えになったようです」と、ある東宮関係者は語っている。
(略)
あの皇太子発言が、皇室とその周辺に与えた衝撃は大変なものがあった。
それは親善外交など公務のあり方といった次元の問題にとどまらず、皇室の微妙な人間関係、
とりわけ美智子さまと雅子さまの嫁姑問題をも表面化させたからである。
「英国のタイムズ紙は、《雅子妃は天皇、皇后に敵意を抱いている》と過激な報道をしていますが、
天皇はともかく、皇后との意思疎通に問題があったのは事実。
皇后には心外なことかもしれませんが、うつ状態といわれる雅子妃にとって、
この問題が大きな一因になっていると指摘する声があるのも事実です」とある宮内庁記者はいう。
先月22日、欧州3か国訪問を終え、東宮御所に帰られた皇太子さまを出迎えたのは、
秋篠宮夫妻と紀宮さま。そこに雅子さまと愛子さまの姿はなかった。
(略)
「数年前から、皇室やその周辺では“皇太子妃には、
むしろ素直で控えめな紀子妃のような人がよかった”なんて囁かれていた。
そんなことも、雅子妃をうつ状態にした一因といえなくない。
それだけに今回の騒動では、秋篠宮夫妻も微妙な立場におかれているんです」(旧宮家関係者)
実際、昨年12月11日の湯浅長官発言(「秋篠宮家に第三子を」)は、雅子さまの心を決定的に傷つけた要因だが、
それだけに名指しされた秋篠宮夫妻の困惑も大変なものだったという。
(略)
実際、愛子さま誕生後、なぜか美智子さまと雅子さまの交流は次第に少なくなっている。
一方、秋篠宮家との、交流は以前にもまして密なものになっていたのも事実。
雅子さまが軽井沢の実家別荘で静養中の4月中旬、両陛下は紀宮さまとともに、
赤坂御用地に花見にお出かけになっている。
最初、東宮御所で皇太子さまから雅子さまの様子を聞かれたというが、
その後は秋篠宮家を訪ね、一家と食事を一緒にされている。
「次男の嫁は何事にも素直、長男の嫁は自己主張が強く、なにかと難しい、となれば
次男の嫁に目が向くのは人情として当たり前でしょう」前出の旧宮家関係者はそう苦笑するが、
さらに「実は、'02年末の雅子妃の記者会見での発言が、今回の騒動の発端」と注目すべき指摘をする。
この記者会見で雅子さまは、「外国訪問が難しい状況に適応することに大きな努力がいった」と発言されている。
愛子さま誕生の翌年、3度目の外国公式訪問前のこと。
「皇太子妃が記者会見の場でああいう不満を口にされるのは異例のことです」と宮内庁記者はいうが、
この会見後、湯浅長官は皇居に両陛下を訪ねて懇談をしている。
そして数日後、この雅子さまの発言について、次のような感想を語った。
「あれほど海外にお出かけになりたかったのかと驚いている。
ただ、お世継ぎ誕生は大きな問題であることを、ご理解願いたい」
この湯浅長官発言は、雅子さまの不満、要望への「事実上の皇室の答えだった」と、旧宮家関係者は指摘する。
「あれでは、海外訪問は物見遊山といわんばかり。あの答えで、雅子妃の心は傷ついたのだと思いますね。
一方、皇室サイドでは、お世継ぎ(男子)誕生はまだなのに公の場で不平不満を口にするとは…
という気持ちもあったのだと思う。いずれにせよ、あのときから双方の意思疎通に齟齬が生じたんですよ」
実際、その後、雅子さまは心身の疲れから公務を休まれることが目立つようになった。
そんな雅子さまの心中について、小和田家に近い知人は、こう語っている。
「8年間、雅子さまは“お子さまさえ誕生すれば…”という皇室の約束を信じて耐えてこられた。
だから、愛子さま誕生後の記者会見で“生まれてきてくれてありがとう”という涙ながらの言葉が出たんです。
そんな雅子さまを思うと、あの対応は不誠実すぎます」
今回の騒動で明らかになったことのひとつは、皇太子妃選びにおいて、
皇室や宮内庁には“皇太子妃にキャリアはいらない”という考えが根強かったということだ。
このため雅子さまを皇室に嫁がせるとき、
小和田家では“皇室の釈明”を求めたとも…。親心としては当然のことだろう。
ともあれ'02年末の雅子さまの記者会見では発言を機に表面化した皇室内の確執は、
翌年5月の“愛子さまの公園デビュー”で決定的なものになったといわれる。
「ご夫妻が愛子さまを近くの公園にお連れになった5月23日は、皇宮警察音楽隊創立記念行事の日。
これには例年、皇太子ご夫妻が出席されていた。
その公務を休んでのことでしたから、皇后さまは大変お怒りだったそうです」(前出・元女官)
が、その後も、皇太子ご一家は3回、公園にお出かけに。
「これについても、相当に厳しいやりとりがあったという声も聞きます」(同前)
事の是非はともあれ、独立独歩の姿勢を強く打ち出され始めた皇太子ご一家。
一方、そんな中、雅子さまの心身のお疲れが度合いを深めていったのも事実だ。
そして、帯状疱疹の治療から退院された3日後の昨年12月11日、
雅子さまの心の傷を決定的にした湯浅長官の発言が飛び出す。
「「秋篠宮家に第三子(男子)を!という発言の前に、長官は“これは私の考えだが”と前置きしているけれども、
あんな重大なことを個人の考えでいえるわけがない。
実際、数日前に、長官は皇居を訪ねて雅子妃の容体などについて協議している。
だから、あれは事実上“皇室の将来は秋篠宮家に期待する”という両陛下の意向を意味している。
少なくとも皇太子夫妻は、そう受けとられたのだと思う。
それが今回の衝撃発言を生んだんですよ」(元・宮内庁関係者)
欧州訪問前の発言について、皇太子さまは“(湯浅)長官時代のことではない”と否定されたと伝えられるが、
そのことは逆に、愛子さま誕生後の長官発言に象徴される一連の動きを示しているというのが、
今では皇室関係者の一致した見方である。
(略)


(女性セブン緊急増刊「雅子妃のお気持」2004年)
「人格、キャリア否定」問題の核心 森暢平
…こうした経緯を踏まえ、鎌倉氏は、「皇太子ご夫妻がなすべきことは、『お世継ぎ』づくり。
そのために中東訪問を区切りとして、政治問題に巻き込まれやすい外国訪問は当分、ご遠慮いただく」
…鎌倉氏が宮内庁を去るまで、皇太子夫妻の「公式」の外国訪問は途切れる。
'95年1月の中東訪問から、'02年12月の豪州・ニュージーランド訪問まで、いわゆる「空白の8年間」である。
そんな折、皇太子ご夫妻に外国訪問のチャンスが訪れた。先に「空白の8年間」と書いたが、
葬儀、結婚式出席という「非公式」な形での海外訪問は例外的に2回だけである。
'99年2月、フセイン・ヨルダン国王の葬儀と、同年12月のフィリップ・ベルギー皇太子の結婚式への出席だ。
ヨルダン国王が死亡したのは同年2月7日。(略)外務省は数日前の危篤状態のときから、
皇太子ご夫妻の葬儀出席を求めてきた。鎌倉長官は渋ったが折れたという。
…皇太子ご夫妻にとっては一筋の希望になっただろう。自信を取り戻したご夫妻は、次の機会をうかがっていた。
そして、好機はすぐに訪れる。この年12月4日、ベルギーのフィリップ皇太子の結婚式が行われることになったのだ。
宮内庁サイドと皇太子ご夫妻がどうやり取りしたのかまではわからないが
ご夫妻が鎌倉長官を必死に説得したのだろう。


日刊ゲンダイ【俵孝太郎の辻斬り説法】 
2004年12月3日 掲載  
重大な意味持つ秋篠宮の「皇太子発言」への苦言
秋篠宮の皇太子発言に対する苦言は、もっとも至極だ。
マスコミが大きく伝えたのは当然だが、報道ぶりは核心を外れたものが多かった。
その核心とは、この苦言は秋篠宮個人の見解ではなく天皇の意思の代弁だ、という点だ。
秋篠宮は、記者会見の場で話す以上、
「発言前に、せめて(天皇)陛下と内容について話をし、その上での発言であるべき」だったと、
皇太子妃のキャリアや人格を否定する動きがあったことは事実、という5月の皇太子発言を批判した。
同様に記者会見の場での発言なのだから、事前に天皇に内容について話し、了解を得ていたことは明らかだ。
皇太子妃の「生活に伴う様々な苦労」の中身が、「生活空間にいろいろな人がいて配慮しなければならなかった」とか
「容易に外出することが難しかった」とかという、皇族にとって当然のあり方に対する不平不満にすぎなかった点を、
皇太子から直接聞いた話として明らかにしたのも、
皇太子妃の元外務省職員というキャリアにふさわしい公務のあり方について考慮を求めた皇太子の姿勢に対し、
「私は自分のための公務は作らない。したいことは色々あるけれども、イコール公務かどうかは別」
(以上引用は30日付読売)と述べたのも、天皇の意思の反映だろう。
率直にいって、最近の皇太子と皇太子妃の言動には、首をかしげる面が多かった。
病気なら療養は当然だが、身内の不幸では外出できるが災害で被災した国民の見舞いにはいけない病状など、
私人ならいざしらず最高の公人にありうるだろうか。
余震の中、体育館の床に膝をついて被災した幼児をあやした天皇・皇后の姿とは、違いがありすぎる。
秋篠宮の発言は「陛下のご軫念(しんねん)」、天皇の憂慮の念の代弁として、まことに重い。【俵孝太郎】

朝日新聞コラム
「文化にはしきたりもあれば、手続きもある。皇太子ご夫妻はそれを伝承する規定課題をこなした上で、
自由課題にのびのびと挑戦してほしい」

文藝春秋9月特別号「皇室断絶の危機に」
対談記事:八木秀次氏
私が疑問に感じたのは、6/8に皇太子が文書で出したコメントです。
「伝統やしきたり、プレスへの対応等々、皇室の環境に適応してきた課程でも大変な努力が必要でした」
「雅子には、経歴を充分に生かし新しい時代を反映した活動を行ってほしいと思っています」とある。
つまり、伝統やしきたりよりも、新しい公務を重視したいというご趣旨のご発言なのです。
しかし、これでは本末転倒ではないでしょうか。皇室が何ゆえに存続してきたのかを考えると、
伝統やしきたりを軽視していただいては困る、と敢えて申し上げます。
小沢一郎
ともかく皇太子の人格否定発言は大間違い。
皇室の義務も責任も自覚していないと結論していた。
秋篠宮発言については、言っていることはまっとう。
支持する立場だが、皇室内で意見の別れるのを公にすることについては疑問。


WiLL創刊2号 皇統「百二十五代」が日本の誇り
上智大学名誉教授 渡辺昇一
今年五月の皇太子殿下のご発言にコメントすることは差控えたいと思っていましたが、
秋篠宮様のコメントもありましたので、敢えて一言申し上げることにします。
それ自体はまさにご自身から発されたもので、周囲の近しい人たち、
ましてや天皇陛下には何もご相談されなかったのでしょう。
率直に申し上げて、将来皇后になる御方の、ご結婚以前のキャリアを重んじたいという殿下のご発想はいけません。
外交官というのは、日本の国益のために外国と交渉する役目です。
いったんご結婚されれば皇室の一員であり、皇室は憲法が示すように日本全体の象徴という存在です。
そこに属する御方が、結婚以前のキャリアに言及されるのはいかがなものでしょうか。
雅子様が訴えられたことは、要するに「周囲に気を遣わなければならない」 「思うように外国に行けない」
といった意味合いでしょうが、少し古い時代の卑近な例で言えば、息子の嫁が、結婚したら
下男や女中や姑に気を遣って、気安く外出できないとこぼすようなものです。
そういう会話はご夫婦の間にあっても構いませんが、夫婦の話題を将来百二十六代の天皇になる御方として
ご発言されたことはやはり不適当だったのではないでしょうか。
また雅子様もお覚悟不足の感は否めず、やはり皇室に入られたら
「自分の公務は作らない。公務は受け身的なものではないか」と秋篠宮様が仰っている通りだと思います。


山岡コラム
件名:皇太子殿下のご発言を考える
http://
www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k6/160617.htm
「人格否定」は内外に大きな戸惑い/大切な国民の皇室への崇敬の念
懸命に働いている宮内庁職員 皇太子の衝撃的な発言は内外に波紋を広げたが、率直且つ簡潔に言うが、
問題は女性外交官の職のために一度は固辞された雅子様に「皇室外交も同じではありませんか」―と
半ば強引に求婚された皇太子に今度の事件の遠因がある。
だから雅子様は宮中に「就職」されたと言われたのである。
そうではなく、外交官と皇太子妃とは違うことを雅子様に納得してもらうべきだったのである。
(自分の責任を無視して何でも他を責める時代風潮なので敢えて直言した)。
当然、現実との乖離に加え、「お世継ぎ問題」や、無責任なメディアの犯罪によるご流産、
そして皇后陛下の「いじめ」報道や論評などで(メディアは美智子皇后様をも失語症にした
前科を有している)精神的バランスを破壊されたのが雅子様現在の情緒不安定の原因なのである。
そして国民の多くは単純に宮内庁を批判し非難した。しかし、それは間違いだ。
元式部官(外務省出向)として筆者は断言するが、宮内庁官僚は上から下まで両陛下および
皇族のためにすべて良かれと願って誇りと使命感で懸命に働いている。
だから今度の皇太子発言で最も傷ついたのは彼らなのだ。しかも彼らには反論することは許されないのである。
皇太子は心ない言葉を公言したのである。そもそも外国訪問は大仕事なのだ。
お世継ぎのことを考え、ご体調のことも考えれば外国旅行ばかり重視出来ないのだ。
一方で厳しい国民生活を考えればむしろ国内で国民をお励ましになるお仕事の方が
より大事なのではないか?の声も上がっていた。それを「後ろ髪を引かれる思いで出発する」とは、
これまた問題発言である。皇太子は自らの言葉の重みをもっと知るべきである。
同じように「生涯雅子を守ります」は結構だが、それで宮内庁官僚たちを悪者視するのは
将来の天皇として如何なものであろうか?
皇太子は例えば西欧王族と比較して過剰警備を指摘されるが、しかし、天皇制廃絶を叫んで
皇居にロケット弾を打ち込む計画もあった日本と同一視すべきではない。国情が違うのである。
それで万一不祥事が起きたら責任はまたしても宮内官僚なのか?

両陛下にご相談なされるべき
それに「開かれた英国王室」の惨憺たる状況を見るがいい。先日、デンマークの知人から電話があって
フレデリック皇太子のご成婚で国中が祝祭の雰囲気だと言っていたが、
確かに北欧三国中でデンマーク王室が最も安定しているが、それはマルグレーテ女王の人気と
ヘンリク殿下(元フランス外交官)の控えめな夫君としてのあり方のためである。
対してノルウェー皇太子の子連れシングルマザーとのご結婚は(一般に珍しくもないのだが)
さすがに王家の人となると不快感を持つ人々も少なくないのである。
「開かれた王室」と言うが、バジョット(英国憲政論)も言うように、「華やかな馬車列の背後にあるもの」
との兼ね合いは極めて難しい政治問題を有しているのである。現在(宮内庁も含めて)女帝容認論が多数派だが、
しかし皇室典範の改正だけですまない問題もあるのだ。
一例が必ず起こる皇配殿下(ご夫君)の問題がある。仮に政治家や大企業の息子あるいは凡庸すぎる
平民とのご結婚を考えてみたらいい。最悪の場合には俗世間の力が宮中に入り
女帝退位の危険も現実化するかも知れない。
そこで結論に戻るが、皇太子はあのご発言の前に、両陛下及び宮内庁首脳たちと充分にご相談なされるべきだった。
そして皇太子ご夫妻は両陛下が日本国民から模範的なご夫妻として敬愛の念を集めておられることを考え、
仮にも両陛下を敬遠するようなことがあってはならない。
実母小和田優美子夫人に過剰依存し、他方で陛下の古希の祝宴には欠席するというのも非礼である。
雅子様と同じ民間ご出身の美智子皇后様がそれなりにご苦労をなされて、今は公式行事でも
疑問点を陛下とご一緒にご相談なされている例をご参考とすべきではないだろうか―?
筆者は国民のことしかご念頭になかった故昭和陛下と、おそばに控えるだけで優しい春風を
感ずるような皇后陛下(有名なエムプレススマイル)のお人柄に完全に魅了された者であるが
(その証言は無数である)、皇太子ご夫妻は現両陛下と故昭和両陛下のあり方を学ばれるべきである。
皇太子はメディアを通じて軽率に「人格否定」などといったご発言はなすべきではなかったのである。
それは内外に大きな誤解を与えたが、筆者自身もそれによって皇室への崇敬の念を傷つけられたのである。

皇室のよきアドヴァイザーを
しかしもともとご誠実で善意と知性に豊かなお二方故、雅子様はご静養の中で改めてご自分を考えられ、
皇太子は今少し理性的且つ多角的な視野をもたれて欲しいものである。
そして結論はかつての小泉信三博士のように広く深い学識と教養をもった皇室アドヴァイザーの
必要である。入江、徳川両氏のような人々を求めるのは困難な時代ではあるが、真剣に考えるべきであろう―。
北欧文化協会理事長 武田 龍夫 世界日報 


文藝春秋9月号
「平成皇室会議 皇統断絶の危機に」
「皇太子 『平成の人間宣言』」及び「美智子皇后と雅子妃の宿命」より
櫻井 
私はここまで言わねばならないほど追いつめられていたのか、お気の毒だなあ、という部分と、
でも発言されないほうが良かったのでは、という気持ちの2つに引き裂かれるような思いを持ちました。
よく東宮御所の周りを歩くことがあるのですが、住居としては広いかもしれないけれど、
生活を完結させる空間として考えると、とても狭い空間です。
殿下は非常に先細りのする思いで暮らされているのではないか。
しかし、皇太子という特別の地位には引き受けるべき責任と、
沈黙によって守られる威厳があるだろうとも思うのです。
そこをひとたび破ってしまうと、果てしなく破れていかざるを得ないと心配しています。

櫻井 
30代、40代の女性の間で、今回の皇太子さまの発言に対する支持率は非常に高いですね。
私の周りの女性に聞いても、あれほど妻を守ってくれる現代的な感覚は素晴らしい、と言います。

米原(万理)
その意味では、あの会見はプラスの面もあったと思います。
30代女性から新たに高い評価を得た、と。

櫻井 
とはいえ、皇室の役割、この国を象徴し、日本の歴史と文明を自分の身にあらわしながら存在していくべき
人々が皇室ではないかという問題になると、皇太子を支持する彼女たちもはたと迷うわけです。

八木 
もうひとつ、私が疑問に感じたのは、6月8日に皇太子殿下が文書で出されたコメントです。
伝統やしきたり、プレスへの対応等々、皇室の環境に適応しようとしてきた過程でも、
大変な努力が必要でした」と述べられたあと、
「雅子には、経歴を十分に生かし、新しい時代を反映した活動を行ってほしいと思っています」とある。
つまり、伝統やしきたりよりも、新しい公務を実現したいという趣旨のご発言なのです。
しかし、これでは本末転倒ではないでしょうか。
皇室が何ゆえに存続してきたのかを考えると、伝統やしきたりを軽視していただいては困る、と申し上げたい。

櫻井 
いずれにしても、もし雅子さまが外務省にずっとお勤めになっていたら、
到達できたであろうキャリアがあったはずだ、という不満が、雅子さまにはある。
それが外遊を規制されることへのご不満としてあらわれているのでしょうが、
私は国民の側にも不満があると思っているんですね。
国民の側からすると、雅子さまに期待されていることはもっと大きくて、しかも難しいことかもしれません。
それは、私たち自身も非常に捉えがたい日本というものを体現する、というお仕事です。
そこのところを、雅子さまがどのくらい意識されておられるのか。
雅子さまはたぶん現代女性ですから、現代女性としての能力の開花や活躍を求めているのかもしれない。
それはそれですごく立派なことですが、皇室の一員となったからには、もっと別の役割があるのではないか。
もし自分が引き受けろ、といわれたら、しんどくてとても出来ないとは思いますけど。


週刊文春
「秋篠宮の発言内容は両陛下も承認済み」、
「秋篠宮夫妻のスケジュールは真っ黒。務めを果たしている自信からあの発言があったのでは」
「紀宮様の結婚をまとめた功績もある」
紀宮様の誕生日会見(公務は私事より先ずる〜)を引用し、秋篠宮様を擁護。
「ご高齢で、なおかつご病気の天皇と皇后が、被災地を訪れ
被災者を激励していた、その日に御料牧場へ静養する皇太子一家の非常識。」
「雅子さまの行動に国民は不信感」
「雅子さまは、「皇室に入ってあげた」という意識がある。」
皇室関係者
皇后陛下に、皇太子一家のご静養の時期をずらすよう勧められては、と進言した方もいたそうですが、
四十四歳の皇太子にそんなことは言えないでしょう。だから秋篠宮発言にはご満足のご様子だった。

フライデー
人格否定発言の時にその犯人としてやり玉にあがったのが現湯浅宮内庁長官と前鎌倉長官。
特に鎌倉氏はお世継ぎ第一の立場で、海外公務に行けなかった時期にもあたるので
この人物が雅子妃の人格否定の動きの中心と言われた。
しかしフライデーが直撃した時も、「そのうち皇太子自身のお答えでわかるでしょう」と
余裕綽々の受け答えで悪びれる様子もなかった。
人格否定発言の直後、湯浅長官が「役所の立場で(皇太子ご夫妻の)内面、家庭のどこまで入れるか、
入るべきか、入らざるべきか、難しい問題で悩ましい」と、
問題の在処が夫妻のかなりプライベートな部分であることを示唆したにもかかわらず
そのことは不問にされて、マスコミによるステレオタイプな皇太子雅子妃擁護宮内庁叩きが行われただけだった。

週刊ポスト
天皇皇后両陛下も、皇太子も秋篠宮の会見を事前に知らされていた。

週刊新潮
秋篠宮さまの発言が皇族や宮内庁に支持されている。
「秋篠宮さま発言は皇太子発言だけを念頭に置いたものでなく、雅子さまが静養のために実家である
小和田家の別荘を使ったり、公然と皇室外交を主張して'私'を強調する姿勢に疑問を呈したものですよ。
皇室は天下万民のためにある、という伝統的な考え方であり、
皇太子ご夫妻の 考え方は非常に危険ではないか、という思いが、あの発言になったのだと思います。 」


週刊現代2004年12月18日号
秋篠宮「兄・皇太子への不満」
秋篠宮さまの誕生日を祝う夕食会は、紀宮さまと婚約者の黒田氏を祝福する話題で盛り上がり、
この日報道された、秋篠宮記者会見の話はほとんど出なかったという。
紀宮の婚約を祝う夕食会が予定されていたが、新潟県で起きた地震被災者を心から心配されている、
天皇皇后両陛下の以降で延期されていた。
そのため、11/30の秋篠宮さま誕生日を祝う夕食会が、紀宮さま婚約が報道されて初めて天皇ご一家が、
一堂に顔を合わす機会になったという。
しかし、その中に雅子妃の姿はなかった。祖母の服喪中のためというのが欠席理由だが…
「夜の外出時には、愛子さまの保育係を手配しなければなりません。
しかし、雅子さまは服喪される前の時点でも、保育係を手配された形跡がありません。」(宮内庁幹部)

五月に開かれた皇太子さま記者会見を振り返る。「皇族の記者会見は、数日前に事前収録しておく事が通例ですが、
出発直前まで雅子妃が同行するのか決まらなかったため、異例の当日収録当日報道となりました。」(宮内庁担当記者)
皇太子さまはこの記者会見を、天皇陛下に相談されることは無かった。
一方、今回の秋篠宮さまの会見は「秋篠宮殿下の会見の模様を収めたビデオを、
その日の内に、侍従を介して天皇皇后両陛下に届けられています。
ビデオをご覧になって陛下は苦笑されていたそうです。」(宮内庁幹部)
宮内庁内部では、今回の秋篠宮さま発言をよくぞおっしゃってくれた!と評価する声が圧倒しています。
「五月の皇太子さま記者会見は、内容が宮内庁批判だったため、
皇太子さまの側近でさえ支持するものが少なかったのです。
そのため、秋篠宮さまの発言は【自分たちの気持ちを代弁してくれた】という思いが、
宮内庁職員の中にあるようです。」(宮内庁担当記者)
天皇陛下は記者会見文書を用意して、それをそらんじて話している。
誤りがあってはいけないので、宮内庁が事前に確認しているという。
皇太子さまは、自分で文書を用意して、それを読み上げる場合が多い。
秋篠宮さまは、事前に話す概要を頭に入れておくだけで、文書を用意する事は殆どない。
「秋篠宮さまには兄と比較して待遇の不満があるとおもいます。
例えば、警備上皇太子さまが一般道を移動する際は信号がすべて青になります。
立場上、同行する人数公務が多いための配慮です。
一方、秋篠宮さまが移動する場合、一般車と同じように、赤信号なら止まらないといけません。
そのような待遇の違いが、不満の遠因になっている可能性がありますね。」(宮内庁関係者)
ちなみに、東宮家を支える東宮職員は約70人。秋篠宮家を支える宮内庁職員は、わずか6〜7人ほど。
「紀子さまは、両陛下に対する気配りが、大変お上手です。
天皇陛下が皇太子であった時代から行なわれている東宮主催の『法曹テニス』と呼ばれるテニス大会があります。
この大会は、法曹関係者を招いて毎年行なわれています。皇太子さま・天皇陛下・秋篠宮さまも参加されます。
参加者の着替えは、東宮御所で行なわれるのが通例でしたが、
今年は雅子さまがご病気のため両陛下のお気遣いで、秋篠宮邸で着替える事になったのです。
紀子さまは、両陛下がいらっしゃると言う事で、率先して準備しました。自ら草むしりをしてお迎えしたのです。
(草むしりは異常な炎天下のため、紀子さまは10分程度で終了させ後を他人に任せたという。)
このようなエピソードは、自然と両陛下のお耳に伝わるものでしょう。
一方、雅子さまはこういった、気遣いが非常に苦手な方なのです。」(宮内庁関係者)
秋篠宮さま会見では、秋篠宮さまに発言を促された紀子さまが発言せず、
そっと秋篠さまに耳打ちするシーンが映ったが・・
「あの時、紀子さまは『これを言わないと』という雰囲気で、『規模が…』とおっしゃったようです。
それを聴いた秋篠宮さまが、これまで皇太子批判めいたことを言っていたが
『東宮御所と、自分のところではまるで規模が違うし、
自分たちにはわからない苦労もあるのでしょう』と、発言して皇太子ご夫妻のフォローをしました。
紀子さまのナイスなフォローだと感心しました。」(宮内庁関係者)
一方の雅子さまは…
2002年の会見で「(6年間外国訪問が)なかった環境に適応することに、大きな努力がいりました。」と、
唐突に海外訪問がない不満を口にされた。
これを新聞報道で知った天皇皇后陛下が大変驚いて、皇太子ご夫妻の心中を案じそして、
そのような天皇の心中を案じる(天皇の)側近たちが、
大慌てで記者会見全文を取り寄せたといった、エピソードが漏れ伝わってきている。
皇太子は、皇室で「孤立」を深めているのではないか、という指摘もある。
天皇の学習院時代の「ご学友」で、元共同通信記者・橋本明氏はこう語る。
「皇太子殿下は過去10年間、天皇陛下との間が疎遠になってしまったのです」
それは、なぜか。
「皇太子さまは、天皇陛下から面会を打診されても、なかなか御所に会いに行かない。
愛子さまと天皇陛下があまり会っていないことは、以前から指摘されていることです。
雅子さまも積極的に、交流を図ろうとしない様子。
一方、秋篠宮ご一家はことあるごとに、御所を訪れます。眞子さま佳子さまも紀宮さまととても親しい。
また、秋篠宮ご夫妻は、皇后陛下の養蚕用の桑を取りに行くなどの世話をしている。
天皇お田植えの稲などの収穫も手伝いに行く。
皇太子一家はそういうことに積極的ではないようです」(全国紙宮内庁担当記者)
海外公務が無い批判が出ているがそもそも皇太子夫妻は国内公務も他の皇族と比べると少ない。
前立腺がん手術の時、天皇陛下は「まだ死ねない」と言った。
やはり日嗣が居ないことが気がかりになっているようだ。
雅子さんの流産のリーク元は医療関係者と宮内庁(東宮)、外務省説が有力。
「ご懐妊の兆候で、ベルギー訪問は微妙な時期。東宮職で反対する者もいた。だから、朝日新聞にリークした者が出た」
妊娠をマスコミにリークされた、雅子さんにとってショックだった。
でも国の一大慶事。皇太子妃なのだから。
それを過剰にショック受けて、それからは誰かと話すときは
女官がいないか確かめにドアを開けて確かめるところまでエスカレートするようになった。
実際、体調 不良を理由に公務を休まれることも多く、特に平成12年夏、皇太后の本葬にあたる
『れん葬の儀』を欠席されたときには強い批判の声も聞かされました」(宮内庁担当記者)


【皇太子ご夫妻ご成婚20年記念特集】
(1)「人格否定発言」の真意
2013.6.8 12:00
「実はあの発言の少し前、皇太子さまからご相談を受けました。
私が『思ったことを会見でおっしゃってもいいのでは』と申し上げたところ、
『本当に言ってもいいのでしょうか』と述べられていました」
皇太子さまと親交の深いある人物は、こう打ち明ける。
あの発言とは、平成16年5月10日、皇太子さまが訪欧前の記者会見で述べられた、「人格否定発言」である。
「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」
当時、皇太子さまは44歳、皇太子妃雅子さまは40歳。
雅子さまのキャリアや人格を否定する動きとは、何だったのか。
“お世継ぎ”を求めるプレッシャーや、外国訪問をなかなかさせない宮内庁への批判だと受け取られたが、
皇太子さまが具体的に説明されることはなかった。
「私たちには、いまもよく分からない」宮内庁幹部はこう語る。
発言の真意は、宮内庁に十分伝わったとはいえない。
「『2人で海外公務をできないことが残念だ』と皇太子さまが述べられても、
『2人で海外に遊びに行きたいのか』と宮内庁側には受け止められたようです。
『2人でないとできない海外公務があることを、宮内庁は理解できていない』と悩まれていたんです」

「ある人物」は、発言で皇太子さまが伝えられたかった思いを、こう明かす。
「発言前、『プロ野球の監督が選手に直接、良い悪いを言わずに、マスコミを通じて選手に伝えることがあります。
皇太子さまも、マスコミを通じて、思いを伝えられたらいかがですか』と申し上げました」
発言は、こうした助言を後押しに、宮内庁側に対して行われたものだった。
5年6月9日に皇太子ご夫妻が結婚されてから、雅子さまは皇族として次々と国際舞台に立たれた。
翌7月の東京サミットに伴う宮中晩餐(ばんさん)会では、
各国首脳夫妻と歓談し、翌年には中東4カ国をご夫妻で初めて訪問された。
その一方で、“お世継ぎ”のプレッシャーも確実にあった。ある元宮内庁幹部は語る。
「『外交官だったといっても、海外赴任経験のない卵。外国で何ができるか、海の物とも山の物とも分からないのだから、
まず“お世継ぎ”に専念されるべきだ』との空気が、庁内にあったのは事実です」
 
「外国育ちの雅子さまは皇室入りする際、ご両親の助言で日本の伝統を改めて学んだりしていたが、
そのまじめ過ぎるご性格から、皇室になじまれるのには時間がかかったのでしょう」
ハーバード大学の客員教授時代から、留学中の皇太子妃雅子さまと交流してきた書家の
小川東洲(とうしゅう)氏(85)は、こう振り返る。

流産を乗り越えて、平成13年12月に長女の敬宮(としのみや)愛子さまが誕生されても、
“お世継ぎ”のプレッシャーは続き、
長男ご出産を優先させるため外国でのご公務がなかなか認められないという現実は変わらなかった。
「6年の間、外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、
正直申しまして、私自身その状況に適応することに、なかなか大きな努力が要った」
雅子さまは14年12月、ニュージーランドとオーストラリアにご夫妻で訪問される前の記者会見で、
こう心情を明らかにしている。

翌15年12月4日、雅子さまは帯状疱疹(ほうしん)のためご入院。
その後、宮内庁は雅子さまの長期のご休養を発表した。
当初は翌春ごろまでとされたが、ご療養期間は既に9年半に及ぶ。
人格否定発言は、ご休養入りから約5カ月後のことだった。
「皇太子さまは、安易に人を批判される方ではない。よほどのお考えがあってのことだろうと思った」
宮内庁東宮職の元職員は、こう話す。発言は、天皇陛下や皇族方にも大きな波紋を広げた。
秋篠宮さまは16年11月の誕生日会見で「記者会見で発言する前に、陛下とその内容について話をして、
その上での話であるべきではなかったか。残念に思います」との趣旨の発言をされている。
天皇陛下も翌12月、誕生日に伴って発表した文書で
「何回か皇太子からも話を聞いたのですが、まだ私に十分に理解しきれぬところがあり…」と述べられている。
それでも、発言の真意について口をつぐまれた皇太子さまの意思がかわることはなかった。
宮内庁は同年6月、雅子さまの治療のために専門医をつけ、
7月には病名も適応障害と公表。ご闘病生活は一進一退を続けている。
このため、次第にご夫妻に対する風当たりが強くなっているという事実もある。
「治療が長引いているのに、なぜ(主治医以外の医師に意見を聞く)セカンドオピニオンをお求めにならないのか」
「将来、皇后になられてからも、公務に出られないのでは困る」…。
ご成婚から20年のうち、ほぼ半分を占めるご療養期間の間、
皇太子さまはご自身の誕生日会見に毎年1人で臨んでいるが、
何度となく雅子さまの病気への理解を訴えられてきた。批判めいた発言は封印し、治療を見守る姿勢を貫かれている。
だが、周囲が見守るだけで状況が改善されるのか、答えは見えない。
「本格ご復帰のために、何をしてさしあげればいいのか、分からないのが正直なところだ」。
宮内庁幹部は、こう明かした。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130608/imp13060812000003-n1.htm

進言すればクビが飛び、機嫌を損ねれば遠ざけられる

会員誌「選択」2014年1月号
東宮 皇室危うくする雅子妃
進言すればクビが飛び、機嫌を損ねれば遠ざけられる。
移り気な皇太子夫妻の周囲はイエスマンばかりとなり、御所内部は組織崩壊が止まらない。
このまま皇位を継承して、天皇・皇后という重責を果たせるのか。
御用地内は皇宮警察本部赤坂護衛署が、外周は警視庁が厳しく監視し、要所の動きは全てカメラで監視している。
以前は自由に出入りできた宮内記者…
毎週金曜の定例会見も「妃殿下は記者が大勢来ると思うだけでご負担」として
皇居の本庁記者クラブで開かれている。
雅子妃のメディア嫌いは御妃候補として追い回されたころから。
帰国後も続く取材攻勢に、40代の温厚なベテラン記者が差し出した名刺を目の前で破り捨てた。
最近は女性誌まで契約カメラマンを相次いで解雇、大手出版社に必ずいた皇室専門カメラマンもとうとう“絶滅”。

■大夫すら容易に話ができない
ある東宮大夫経験者がこんなふうに話したことがある。
「誤解を恐れず例えれば東宮は関東軍」
「皇太子ご夫妻は八百屋の社長夫婦のようなもので、
仲よく社員と店頭に出て共働きをしてもらわないと店は繁盛しない」
戦前の皇室典範にあった天皇の皇族監督権はなくなり、同じ宮内庁にありながら天皇皇后を戴く本庁からは独立独歩。
しかも公的機関であると同時に私的な家政機関でもあるから、
本人たちの性格・資質や夫婦・親子・嫁舅姑の人間関係まで絡んで難しい。
その上に嫁の精神疾患も加わって「宮廷政治」は複雑怪奇。
「宮仕え」の苦労は並大抵ではない。
東宮職員は総計約百人の大部隊。
十数人から二十人規模の宮家とは比べ物にならない「準天皇」待遇。
元東宮大夫野村 愛子内親王の不登校問題で天皇・皇后から異例の呼び出しを受けた。
最大の難物が雅子妃の「体調の波」と周辺に対する不信感。
大夫でも本人と直に話し合えず、皇太子を通じて伺うしかない状態。
予定は立てられない、ドタキャン・ドタ出は日常茶飯事。
主治医大野と実家小和田家親族が「体調の波」の行方をグリップしていて
オランダ国王即位式の出欠も直前まで決まらず、切羽詰まった本庁の長官・次長が会見で催促。
皇太子すらぎりぎりまでわからなかった。

■周りはイエスマンばかりに
東宮歴代の大夫・侍従長・侍医長・女官・養育係ら、信頼を得られず失意のうちに去ったものも多い。
「進言したらすぐクビになったのは生涯最大の屈辱だったと言って亡くなった」
「明るかった性格が別人のようになり家で編み物ばかりしている」
「妃殿下に、ご自分も少し変わられてはと言ったとたんに遠ざけられた」
死屍累々の態で周りはイエスマンばかりにならざるを得ない。
不登校問題で東宮側と折衝した学習院幹部
「大夫で話がまとまらないと主治医が出てきて不快だった。組織として歪んでいます」
雅子妃の同伴は一年半に及び学校側は「卒業までには平穏な学校生活を」と合言葉に気遣ってきた。
同伴がなくなり内親王も元気になって胸をなでおろしたが、
「妃殿下はまだ学習院をお許しになっていない」とくぎを刺され愕然とする一幕もあった。
2011年11月愛子内親王入院も東宮侍医長の全く知らないうちに決まるなど組織としての体をなしていない。
東宮に関する頼みごとで警察幹部に宮内庁幹部ががっくり肩を落として帰ってきた。
警察庁は了承したものの「致し方ないね、今の東宮のザマではね」と言われた。
「体調の波」にもっとも振り回されているのは警察。
神戸市の追悼式典、同行が発表されたのは出発前日。
式典前の遺族代表との面談は、直前に式典終了後に変更。
ホテルオークラでの昼食会も災害防止対策センター視察も欠席。
兵庫県警や応援の他県警は数百人規模の配備変更に追われた。
追悼式典で涙ぐんだ雅子妃に関係者は「余程体調がすぐれないのだろう」と受け止めた。
ところが部屋で皇太子と合流、エレベーターで降りてきた雅子妃は上機嫌で
ロビーに詰めかけた大勢の市民には目もくれず、皇太子と笑い合いながら元気な足取りで出口へ。
関係者はキツネにつままれた思いだったという。
今や皇太子夫妻の警備は天皇・皇后をしのぐ物々しさ。
公務を休んで私的活動を重ねる「療養」ぶりに批判が強まっているとの治安上の判断もある。
佐々淳行「皇太子は雅子妃の療養に専念し、秋篠宮を摂政に」」と雑誌やテレビで発言。
内閣参与飯島は園遊会での欠席続きに驚いたとして主治医の差し替えを提言。
背景には官邸や警察関係者の不満あり。

■児戯に等しい小和田家の振る舞い
東宮は独立した存在であり、天皇と言えども口出ししにくい。
親子であると同時に世代を担うライバルのような面もあり、異なる考えがあるのも自然だろう。
しかし最大の課題は天皇の務めや歴代の心構えの継承である。
昭和時代は皇太子一家が毎週必ず皇居を訪ね夕食を共にする「定例参内」があったが、絶えて久しい。
12年の天皇心臓手術時、秋篠宮夫妻から病状や手術の見通しを尋ねる連絡が何度もあったが東宮からはなし。
東宮御所内部も改修のたびに天皇皇后が住んでいた頃の内装はどんどん変えられた。
改修工事で東宮が皇族共有殿東邸に一時引っ越した頃、
天皇が長年愛用した古い机が粗大ゴミとして捨てられそうになっているのに
秋篠宮家関係者が気付き、密かに宮邸に引き取ったという。
親子兄弟の距離感を物語る。
04年の皇太子の「人格否定」発言の際には、天皇が驚いて説明を求めたが、
皇太子は「世継ぎを求められるばかりで外国訪問させてもらえなかった」
「自由に外出もできない」などの例を挙げたという。
一方で、人格否定したのは天皇・皇后であり
懐妊できないのは皇太子側の問題と示唆する実家がソースと満たれる雑誌記事
当時の宮内庁参与が「こんなことをしていたら国民を敵に回すことになる」と電話で諌めた。
その後も「皇后から作法のことでひどく叱責された」とか
「天皇が皇族紹介の際に雅子妃を飛ばした」とか宮内庁や東宮職元幹部らの実名を挙げて
雅子妃がいかに酷い目にあったかと強調する記事が後を絶たない。
誤解や事実関係の誤りも多く、ある元幹部は苦々しい表情で「児戯に類する」と吐き捨てた。

■天皇・皇后の後継は困難
現東宮には遠慮なく物言える側近も見識ある「相談役」もいない。
皇室の歴史や伝統、東宮の身位の重さに無知な外部の医師らが皇太子妃の動静を無頓着に決め、
東宮大夫がそのカバーに追われるなど組織の機能不全が続いている。
悪いのは天皇皇后、宮内庁、メディア、側近、学習院、などと
次々に「敵」視し続ける心境にあるとしたら雅子妃にとっても不幸。
否が応にも代替わりは近づく。
天皇皇后の職務は質量ともに子y大使夫妻とはけた違いでその責任と負担は重く、自由度も極端に減ることになる。
今後東宮は組織を収攬して皇室らしい君臣和楽の宮廷を実現し、確かな歴史観と憲法感を踏まえて
象徴にふさわしい自制と、人心に深く思いを致した行き届いた活動を展開する態勢を整えることができるのか。
(敬称略)

天皇家の亀裂

文藝春秋2007年3月号
天皇家の亀裂 雅子妃の孤独
美智子皇后から雅子妃への厳しい御言葉、憔悴する天皇。
鍵を握る皇太子の決断は――
岩井克己(朝日新聞編集委員)
福田和也(文芸評論家・慶應大学教授)

福田
まず、十二月の天皇誕生日の会見で
「残念なことは、愛子は幼稚園生活を始めたばかりで、風邪を引くことも多く、
私どもと会う機会が少ないことです」という文言がありました。
家族間の事情について言及されることが極めて少ない今上としては、異例といえる。
これは、皇太子家に対して、コミュニケーションが足りないという、お怒りを表明されたと考えるべきなんですか。

岩井
お怒りというのは言いすぎかもしれません。
その後に続けて「いずれは会う機会も増えて、
うち解けて話をするようになることを楽しみにしています」という結びになっています。
ただ、当初の文案はもっと厳しい表現だったという話もあります。
天皇陛下は毎年、生物学研究所周辺で稲などを育てられますが、
昨年四月の陸稲の種蒔きに、東宮家がはじめて愛子さまもご一緒に手伝いに来られたんですね。
そのご様子を見た側近が、「陛下と愛子さまが笑顔で言葉を交わされた」と、涙ぐまんばかりに喜んだと聞きました。
私は逆にショックを受けました。
愛子さまが四歳半になるまでそのような場面がなかったのか、と。

福田
交流そのものがないのですか。

岩井
皇居に東宮ご一家がいらしてのお食事や、御用邸の中などは側近も入らない空間ですから、
祖父と孫の交流がなかったとは言えませんが、少なくとも、側近が見ているような場面では初めてだったわけです。
十二月にも、こんな場面がありました。
宮内庁職員組合の文化祭に、愛子さまが、紙粘土に葉山で拾った貝殻を埋め込んだ、
宝箱と写真立てを出品されたのですが、両陛下はご覧になれなかった。
そこで東宮職がお手元に届けると、両陛下は「良くできていますね」と喜ばれながらも
天皇陛下は「でも本人が持ってきて見せてくれればもっとよかったのにね」とおっしやったそうです。

福田
対照的に、秋篠宮家の眞子さまと佳子さまは、お二人だけで皇居をたずねることもあると報じられていますね。
昨年九月には、秋篠宮家に悠仁親王が誕生されました。
皇位継承問題に、ひとまず一世代の猶予が与えられたわけで、このぎりぎりのタイミングには
皇室の底力を見せられた思いですが、天皇のご心痛はずいぶん和らいだのではないでしょうが。

岩井
悠仁親王が誕生された日の、天皇陛下の笑顔は忘れならないですね。
ちょうど北海道で国際会議に出席され、会場からの「おめでとうごさいます」という声と拍手に、
「ありがとう」とお応えになった。長年の閉塞ん゛和らいだのでしょうか。風穴が開いて、
肩の荷がすーっと軽くなったような、二十年で初めてみるお顔でした。
ただ、秋篠宮家は、悠仁さまの誕生後は、皇居をお訪ねするのが減った印象があります。
悠仁親王を連れて来られる機会もけっして頻繁とはいえません。
生まれて間もないということもあるのでしょうが。

岩井
悠仁親王の誕生は、きわめてデリケートな問題を含んでいます。
四年前に、当時の湯浅利夫長官が「秋篠宮家に第三子を希望したい」と発言したときも、
私はとっさに「第三子が男児の場合、皇位継承問題が複雑化しますが」と質問しました。
今後、皇太子ご夫妻に男子誕生があった場合、その親王は、悠仁親王はもちろんのこと、
秋篠宮さまよりも皇位継承順位が上になる。
秋篠宮家は、この何年かは、いわば宙に浮いた状態なわけです。

福田
だから「ご遠慮」するしかなかったのですね。

岩井
天皇陛下の発言を聞くにつけ、愛子さまのことで気になるのは、雅子妃のご実家の小和田家との距離が近いことです。
小和田さん夫妻はオランダ在住ですが、帰国時は東宮御所に来られますし、
妹さんやそのお子さんは、愛子さまの遊び仲間でもあり、ディズニーランドにも一緒に行かれた。
昨年のオランダ静養の折にも、女王のお城に小和田家が合流したり、
皇太子ご夫妻がハーグの小和田邸を訪れたりしています。
両陛下はこうしたことを聞いて、同じ東京で車で十分ほどの距離にいる自分たちに、
愛子さまが打ち解けない状況を、淋しく思われているのではないか。
雅子妃の小和田家との距離は、これまでの美智子皇后と正田家、
あるいは香淳皇后と久邇宮家にくらべても、かなり近い。
やはり「文藝春秋」で書かれたように、「皇居に行くと具合が悪くなる」という
雅子妃の状況があるからなのか、と思えてしまいます。

福田
東宮妃の実家に関していえば、これまでの皇室で問題がなかったわけではありません。
美智子皇后のご実家が悲痛なほど禁欲的だったのはよく知られていますが、
その前の香淳皇后の父、久邇宮邦彦(くによし)王は東宮御所に頻繁に来すぎるとか、
久邇宮家の別荘を建てるのに皇室に費用を求めたとかで、貞明皇后の怒りを買っている。
昭和天皇の即位後すぐに、邦彦王が亡くなったので、問題にならなかっただけでしょう。

福田
小和田家のケースも、雅子妃がご病気になってからの緊急措置という面もあるのではないでしょうか。
私は軽井沢の小和田家別荘での静養も、ごく自然なことに見えたんですが世代的なものかもしれません。

岩井
しかし、皇室の場合はいかがなものか。自分たちの言動が、国民からどう見られるか、深く考えなくてはなりません。
たとえば、昨年十二月の誕生日に雅子妃が感想を文書で発表されましたが、
悠仁親王の誕生について「愛子にもかわいらしい従兄弟が新たに一人できましたこともうれしく」という部分があった。
東宮大夫に「イトコの表記はこれでよいのですか。従姉弟では」と尋ねると、平仮名も「いとこ」に訂正されました。
もし「従兄弟」のまま発表それれば、眞子さまと佳子さまを差し置いて、
雅子妃の妹さんの男の子のことしか念頭にないのか、と批判されかねない。
些細なことであっても、皇室は言葉を重んじるところですから、いろんな角度から配慮を重ねるべきだと思うのです。

福田
昨年十月の、皇后陛下の誕生日に際しての文書回答も、危機が深まっていることを感じました。
たとえば雅子妃のオランダ静養に関して、「この旅行後、東宮妃の健康状態に改善がみられるように思う、
と語られるのを耳にし、安堵し、嬉しく思いました」という部分には驚きました。
「見られるように思う、と語られるのを耳にし」という、
二重、三重の間接表現に、雅子妃との距離感が感じられてしまいます。
美智子皇后はたいへん言語感覚に優れた方ですから、綿密に練られた末の文章だと思うのですが。

岩井
たしかに去年までとはトーンが変わっています。
「東宮妃の公務復帰については、専門医の診断を仰ぎながら、
妃自身が一番安心できる時を待って行なわれることが大切だと思います。
あせることなく、しかし、その日が必ず来ることに希望をもって、
東宮妃も、また東宮も、それまでの日々、自分を大切にして過ごしてほしいと祈っています」
ここには、もはや見守るしかないという、諦めのような響きが感じられます。
私たちはどうすることもできない。自分たちで乗り越えてきなさい、と。

福田
これまでは、雅子妃の一日も早い回復と公務復帰を願うと、と言われていましたからね。

岩井
注文すべきは「自分を大切に」という言葉です。これは単に心身をいたわって過ごすことではなく、
もっと深い含意がある。ジャズピアニストの秋吉敏子さんは、手の関節がうまく動かなくなった時に、
危険な手術に踏み切ったことについいて、「自分に厳しいのですね」と問われて、
「いいえ、私は自分を大切にしているだけ」と答えた。皇后さまはこの話に良い感銘を受けたそうです。
つまり「自分を大切にする」とは、わがままとか我を通すということではなく、困難に挑戦する
チャンスを自分に与えることなのでしょう。皇太子ご夫妻に、自分を大切にすればこそ、
自身の言動や考え方について厳しくあることを期待します、と言外にこめておられるのだと思います。

福田
ある意味で、頑張りなさい、といわれるより厳しく重いお言葉ですね。
それにしても、なぜ雅子妃が回復傾向にあり、部分的に公務復帰するようになってから、
両陛下ともに東宮家への距離感や諦めを表明されるようになったのでしょうか。

岩井
おそらく、治療が四年目に入るのにもかかわらず、根本的な見通しが立たないとわかったためでしょう。
主治医から詳細な報告はなく、何年経っても「良くなっておられますが、まだ治療が必要です」
としか説明がない。これまで両陛下は、雅子妃の回復を最優先として、皇室の作法から見れば
首をかしげるような事態にも眼をつぶってこられましたが、臨界点かもしれません。

福田
皇室としては異例の、オランダでの静養もお許しになりましたね。

岩井
海外静養の後はたしかに雅子妃の私的な外出が増え、美術展や演奏会などの鑑賞系の公務には出席されるようになった。
だが、皇室の本来の重い公務への復帰の見通しはまだ立っていない。
このギャップが目立つようになり、わがままではないかという批判が強まっているんです。
国賓の歓迎や晩餐会を欠席した日に、皇居へ来て乗馬をするといった、配慮のない事態が度重なっています。
国民からも、宮内庁のホームページに批判のメールが増えてきているそうです。
一方で、雅子妃を苛み続ける「皇室の旧弊」というイメージが定着すれば、
いつしか皇室全体へのボディブローとなりかねない。
そうした危惧を、両陛下も、また宮内庁幹部も抱いていると思います。

岩井
結局、「治療の論理」と「皇室の論理」がぶつからざるを得ないのが、雅子妃のケースの難しさですね。
医師団のこれまでの治療方針は、私的なお出かけなどを重視し、
長年の希望であった海外滞在も試み、ご実家との行き来を優先させている。
これは雅子妃をいったん「小和田雅子さん」に戻し、本来の自己を回復させる試みなのでしょう。
しかしそれだけでは、皇太子妃としての回復がありうるのでしょうか。
いつまでも、皇室にかかわる活動を避け続けるわけにもいきませんから、
必ず摩擦がおきてくる。近ごろは、皇太子ご夫妻に対しての批判だけでなく、
「家長たる天皇がなぜこの状況を許すのか」
「身内に厳しくあらずに、どうして帝王としての敬愛がえられようか」という
激しい意見までも、ちらほら聞こえてくるのが心配です。

岩井
皇太子妃という立場を切り離して、一人の患者として治療させようとするだけでは、
結果的にご本人や皇室全体を傷つけ続けるのではないか。たとえご本人が望むことであっても、
時には「妃殿下、それは違うのではないですか」とお止めすることが、お守りすることにつながると思うのです。
本来ならば、東宮大夫や東宮侍従長が、治療の論理と皇室の論理のすりあわせをし、
御所と東宮の関係をも含めて総合判断して、責任をとる。それが役割です。
しかし、彼らも雅子妃と直接お話しすることがあまりできず、
皇太子殿下から間接的に状況をうかがうしかないので、なかなか難しいようです。

福田
皇太子殿下は、徹底的に伴侶の味方をするという基本姿勢を打ち出していますし、
「医師団の専門的な判断を尊重する」と会見で述べていますね。

岩井
お医者さまも苦しい立場なのではないかと思います。雅子妃の信頼を得ることは難しく、
現在の主治医である大野裕慶応大教授までに、何人かの医師が交代しているようです。
問題は、そのために医師が雅子妃の論理のながにつかり込んでしまい、
いわば「マサコズ・ワールド」の住人になってしまっているということではないか……。

岩井
側近も同様でしょう。かつて皇太子に添い寝するほど近くで仕えた老人が、
「いったいどうしてしまったのか。東宮御所にうかがったら、側近はみな、妃殿下の
顔色ばかりうかがってピリピリしている。あれでは駄目です」と悲嘆にくれていましたから。

岩井
しかしながら、皇太子夫妻のみならず、天皇皇后も必ずしもブレーンに恵まれてきたとはいえない。
記者会見や、公務での「おことば」も、夜更けにご自身で推敲し、いかに肉声を盛り込むか考えこまれています。

福田
近代皇室の大きな柱は、ストイシズムにあります。明治帝は御用邸での静養もせず、
一年中同じ軍服で政務に励むという謹厳実直さがありましたし、
貞明皇后は体調不良の大正天皇に代わって、ハンセン病など慈善事業に邁進された。
昭和天皇も、敗戦後ずっと、国民生活が復興するまではと仮の「御文庫」に住まわれ、
麦飯を食べられている、ということが国民にとっての支えであった。

岩井
今上陛下の慰霊の旅や、公務の増加、祭祀への精励ぶりもたいへんなものです。

福田
いま、格差社会などといわれて閉塞感に覆われています。
そのなかで皇太子家が、ご一家でディズニーランドに行かれたとか、
表参道や恵比寿のイルミネーションをご覧になったとか、そんな場面ばかり報じられるとつらいものがある。
もうすこし、雅子妃の苦しみの様子を率直に外に出してさしあげること、そのための回路が必要だと思いますし、
上手くいけば、国民との紐帯においてプラスになるのではないでしょうか。

岩井
御料牧場などでの静養中、皇太子が先に帰京された夜など、
雅子妃は一人、小高い丘まで出て行かれることがあるそうです。
そして真っ暗な闇のなかから、街の灯りを黙って眺めておられるという。
お淋しいんだろうなあ、ほんとうに閉塞感があるんだろうなあと思います。

福田
とにかく、これまでの東宮には、外部に対して上手く状況を伝えていくリテラシー、
つまり表現能力が足りない。それを補うべきブレーンもいない。
それが明らかになったのが、皇太子の「人格否定発言」だったという気がします。

岩井
あれは平成十六年、外国訪問に際しての会見でした。
殿下が緊張した面持ちで「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあった」とおっしゃられたので、
驚いた記者たちは当然、「どのような動きでしょうか」と質問した。
ところが、「そうですね。細かいことはちょっと控えたいと思うんですけれど、
外国訪問ができなかったことなども含めて、雅子もそうですけれども、
私も大変、悩んだことをひとことお伝えしようと思います」というお答えでーだったので、拍子ぬけしました。
「人格を否定」という最大級に激しい言葉を投げかけておいて「細かいことは控えたい」
というのは、あまりに説明不足で、事前に深く検討された発言ではないのかもしれない、と思ったほどです。

福田
同じ事態を、別の語り口から重ねて説明していくということが、あまり上手ではないですね。

岩井
それがさらに露わになったのが、「人格否定発言」のあとの説明文書でした。
天皇陛下に「国民も心配しているから説明したほうがいい」といわれてすぐ承諾されたのですが、
なかなか文書が出てこない。実は内容をどうすべきか、紀宮さまに相談していたようです。

福田
それは適役ですね。紀宮さまの言語能力はたいへん高い。
誕生日会見の文書もつねに、内容、表現ともに練りあげられた、読み応えがあるものでした。

岩井
しかし皇太子が発表された文章は、天皇皇后へのお詫びの表現が弱められるなど、事前に相談したものが覆されていた。
紀宮さまは憮然とした表情だった。と聞きました。

岩井
思うに、「人格否定発言」は、机の上にドン!と匕首を突き立てて、喧嘩を売るたぐいのものだったんです。
あまり詳しく説明すると、威嚇効果が薄れてしまう。
当時、雅子妃が説明文書を出すことに難色を示しているという話も聞きました。

福田
皇太子ご夫妻あいだては、文書内容について相談されていると考えてよいのでしょうか。

岩井
そこが問題ですね。千代田側では「いったいどこまでが殿下のお言葉なんだろう。
キャリア、人格といった言葉は、皇室に育った人の語彙ではない」と訝る声もあります。

岩井
この発言に対する両陛下の嘆きは、きわめて深かったでしょう。
皇室では、誰かを責めるような発言があってはならない。
昭和天皇の時代ならば、たとえ悲惨な交通事故で大勢の死者が出ても見舞いの言葉は控えました。
もし「あの事故は大変不幸なものであった」と言ったら、運転手が自害してしまいかねないからです。
それほどの自制心をもって皇室が育んできた伝統を、ひとことで崩壊させてしまった。

福田
素朴な疑問ですが、天皇と皇太子が直接に語りあうわけにはいかないのでしょうか。

岩井
親子とはいっても、天皇が言葉を発するということは、抜き差しならない状況になってしまうので、
陛下としては発言は慎重にならざるをえない。
それにどうも、皇太子さまはちょっと難しい話になると、すっと引いてしまうところがあるようですね。
この年の天皇誕生日の文書回答には、
「皇太子の記者会見の発言を契機として事実に基づかない言論も行われ、心の沈む日も多くありました」とある。
両陛下が、「人格否定」の犯人と取り沙汰されるような局面もあったわけです。
そうした言論に接するのは「苦しいことでした」と、さらりと述べられていますが、
これは天皇陛下としては最大級の表現だと思います。
いわば、刀は抜かないが、鯉口をかちんと鳴らした、というところでしょうか。

福田
ただ、皇室内に不和があると喧伝されると、著しく権威を損ねますね。
昭和天皇と秩父宮が激論をして対立されていると噂されたために、
秩父宮を尊奉していた陸軍では、天皇を軽視する流れが出てきたわけです。
やはり「人格否定発言」は、あってはならないものでした。

福田
美智子皇后は皇室入りするに際しての覚悟が深かったのでしょうね。
もちろん、時代状況も今とは違います。
昭和三十四年りご成婚は、国家的なプロジェクトでした。
敗戦と占領によって、ある種の蟄居状態に置かれていた皇室が、
民間妃とのご成婚しいう清新さで、地位を巻き返すきっかけとなりました。
昭和天皇のイニシアチブも大きかった。
美智子妃はそうした状況をすべて承知の上で、
しかも姑どころか、貞明皇后の世代の女官もいるような宮中に、民間人として入って苦労されたわけです。
平成五年の皇太子と雅子妃のご成婚も大きなプロジェクトでしたが、
皇室の浮沈をかけるというような、歴史的意味付けはありませんね。

岩井
そこは大きな違いです。
皇太子は結婚前に「雅子さんのことは僕が一生全力でお守りします」と約束された。
しかし皇太子妃時代の美智子さまは、「人格が否定された」などといえるはずがない状況で、
かつ、将来の天皇という重い責務に向かう明仁皇太子に寄り添う決意をしておられた。

福田
美智子妃は「ミッチーブーム」で、時代のイコンとなったけれど、
同時に決死の覚悟で宮中に赴くという、一般人からはかなり距離のある存在でした。
ところが雅子妃については、雇用機会均等法世代のキャリアと出産の両立とか、
あるいは夫の実家に行きたがらないなど、自分たちの家族関係に引き寄せて理解できてしまう。
私自身もそうですが、皇室が自分たちの世代にありがちな形になっていることは、必ずしもよいとはいえない。

岩井
このままでは、次の代替わりがあったときに、雅子さまが皇后として儀式や祭祀をこなすことは
無理だといわれても仕方ないでしょう。昭和から平成の代替わりの時に取材しましたが、
大喪、即位の礼、そして大嘗祭と、常人には考えられないほど複雑で身体的にも厳しい儀式のオンパレードです。
一月には、東宮御所の清掃をする勤労奉仕団への「御会釈」に、三年二ヶ月ぶりに
雅子さまがお出ましになった。ただ、以前から馴染みのある高校の生徒たちでした。
完全復帰の見通しは立ちませんし、祭祀はなおさら先になりそうですね。

岩井
「人格否定発言」と同じ会見で皇太子殿下が言われて、いまだに解決されていないのが、
「公務の見直し問題」なんです。「時代に即した新しい公務を」と強く求められたので、
どういったものをお考えなのか、長官や参与や東宮大夫がうかがいに行くわけですが、
どうも要領をえない。「丸投げにされてもなあ」とボヤく人もいました。

福田
世界水フォーラムなど、環境問題がテーマなのかと思っていましたが、具体案があるわけではないんですね。

岩井
そのうち、秋篠宮から「公務は受け身のもの」と反論されたり、天皇陛下から、
「これまでの公務を縮小するならばよく関係者の理解を得て、無責任でない形で」とも言われました。
すると昨年二月の誕生日会見で、皇太子殿下は「今までの公務をやめるように一部で
誤解された節がありますが、そのようなことはない」とおっしゃられた。
正直いって拍子抜けしました。
「前の時代からの公務を整理して、今の時代に合った新たな公務を」との趣旨の発言は
何だったのか。首をかしげる宮内庁関係者は多いです。「誤解」と片付けるには
余りに重大で、ご自身の言葉を裏切ることにはならないでしょうか。

福田
即位の礼のときに「皆さんとともに日本国憲法を守り」と述べられたこともあって、
今上陛下は平和憲法的な君主だというイメージが一部にありますが、決してそれだけにはおさまらない。
岩井さんがお書きになっていますが、即位前に、天皇と国民の関係を問われて
「朕、民の父母となりて徳覆うこと能わず。甚だ自ら痛む」という後奈良天皇の写経の奥書を引用するなど、
歴史的認識に基づいた「皇室像」を明確にもっておられる。
そうした皇室の存在感を、国民のなかにふたたび位置づけるために、
超人的な努力をされてきたんだと思います。
昭和天皇も即位から十五年間は、優秀なスタッフがいたにもかかわらず、原理原則がないために、
理想を求めようとしすぎて過剰になったり引きすぎたりというブレがあった。
それを考えると、平成になってすでに十八年、陛下は強い自制心と、
追悼というモチーフによってかなり上手く乗り切ってこられたのではないでしょうか。

岩井
皇太子さまの歴史観や、戦争体験の継承は、史学研究をされているのに今ひとつ掴みどころがありません。
四十四歳の誕生日会見のときに、
「昭和天皇が終戦の御前会議をされた時と同じ年齢になられた。感想をお聞かせください」と質問したところ、
一生懸命に答えてくださったのですが、つまるところ
「昭和天皇は大変なご苦労をなさったと思います」ということに尽きてしまったのは残念でした。

福田
山口県防府の毛利邸附属の博物館に、毛利家が所有していた、
明国から足利義満に送られた「日本國王之印」という重要文化財があるのですが、
館長によると、皇太子殿下がその金印にたいへん興奮され、詳細にご覧になったそうです。
やはり皇室は歴史とともにあります。
これまでほとんど歴史観を語られていないのは残念です。

福田
皇太子が示しているのは、無私の「仁慈」ではなく、私的なものをとおして、公的なものへつなげていく
「愛」の論理ですね。皇太子が会見で読み上げてベストセラーになった、
ドロシー・ロー・ノルトの詩は、それを体現しています。
これもまた、私たちの世代にはよくみられる傾きではあります。
皇太子はこの「愛」の論理に基づいて、伴侶である雅子妃が苦しんでいるときは、
徹底的にかばうという姿勢を選ばれたのでしょう。かなり不器用なやり方かもしれないし、
皇室という「公」との板ばさみになっているけれども、その苦しみを引き受けることでしか、
皇太子の考える新たな皇室像にたどりつけないのではないでしょうか。

岩井
たしかに、皇太子殿下にはこれまで板ばさみになる経験は少なかった。
阪神大震災の直後に、中東訪問に予定どおり出発されるかどうか悩まれた時ぐらいではないでしょうか。
昭和天皇の戦争でますさまじい板ばさみか言うまでもなく、
今上陛下も、広島、長崎、沖縄や海外でも、昭和の負の遺産に向き合わされてきました。

福田
近代皇室には、皇族こそがもっとも弱き者たちに寄り添うという「垂直の原理」があります。
美智子皇后のあり方を考えるとよくわかりますが、皇室が困っている人の側にあるというのは、
なにも寄付を募るとかスピーチをするだけではなくて、そういう人たちの心の支えになるような
生活をすることが大事なのです。そのときに、皇太子も雅子妃も、いま苦しみを味わっていることが、
必ず糧になる。同時に、その苦しみのなかから築きあげていくお二人の世界を、国民に
上手く示す必要があります。内省的なご性格なのだと思いますが、ご夫妻で閉じこもっていては困ります。

岩井
皇太子殿下は、黙々とお一人で公務や祭祀をしておられますけど、
もう少し、ご夫妻で悩みながらも自分たちの人生を前向きに努力しているという姿勢を、
はっきりと滲ませていかないと、国民の共感は得られない。

深夜の饗宴を許した東宮職の「見識」

週刊文春2008年1月17日号
雅子さま三つ星レストランロオジエ深夜の饗宴を許した東宮職の「見識」
その夜、雅子さまが話題の三つ星レストランを出てこられたのは、日付が変わった
零時四十分だった。年末、雅子さまの私的外出が続いた。
それが「治療の一環」だとしても、果たして国民の目にはどう映っただろうか。
皇太子ご夫妻を支える東宮職の「見識」を問う。

皇太子ご夫妻、銀座の「ロオジエ」をお忍びで昨年十二月二十八日、金曜日に訪れた。
この時期はジビエ料理が旬。少なく見積もっても一人五万円以上。
夜八時半にお着きになったご夫妻が店を出られたのは日付が変わった深夜零時四十分頃。
皇太子ご夫妻は同店に四時間以上も滞在された。
お帰りの際、雅子さまはお疲れの様子もなく、乗り込んだ車からお見送りの店員なお手振りをした。
店のラストオーダーは九時。
愛子さまはお留守番。宿直の東宮職員も寝ずにお帰りをお待ちしているわけですから、いかがなものか。
会食の相手はピッピとまりのかかりつけ医である、動物病院の獣医の家族三名と。
会食は獣医側からのお誘いだったという。
2006年12月、恵比寿ガーデンプレイス内「ウェスティンホテル東京」のレストラン
「ビクターズ」に出かけられた頃から、雅子さまはたびたび外食。
昨年夏以降には、
ル・シズィエム・サンス(銀座・フレンチ、8月4日)
ラ・コリナ(六本木・メキシカン、8月12日)
シグネチャー(日本橋・フレンチ、10月第2週)
溜池山王聘珍樓(赤坂・中華、10月13日)
富麗華(麻布・中華、11月4日)
とわかっただけでほぼ月一回のペース。
会食のお相手は小和田家、外務省の元同僚、田園調布雙葉学園同窓生、学習院幼稚園ママ仲間など。
お出かけが続く背景は治療の一環。
そして昨年12月21日には、再び恵比寿ガーデンプレイスをご一家でご訪問。
東宮職の要請で、カメラマンは一般の方にまぎれて目立たないように取材設定。
ところが、テラスからレストランに移動されるはずだったのに
ご一家は階段をおりてシャンデリアに向かって歩きだし、予定外の行動に現場は大混乱。
数十人の警備が周りを取り囲んで移動、人だかりになった。
静かな夜の騒動に不満を洩らす一般客が後を絶たなかった。
その二日後の天皇誕生日のお祝い御膳の後も、皇太子ご一家は皇居から東宮御所までの帰宅ルートを変更し、
六本木ミッドタウンのイルミネーションを車中からご覧になった。
翌24日のクリスマスイブには、雅子さまの妹・池田礼子さんの自宅で、
両親の小和田夫妻らと一緒に晩餐を楽しまれた。
千代田関係者「皇太子ご夫妻がロオジエに行かれた日、御所では恒例の餅つきがあったんです。
例年ならば皇太子子ご一家や秋篠宮ご一家、黒田夫妻もお招きして、それぞれの側近も集まって
大人数の会になるのですが、今年は両陛下とお付きの者だけでこぢんまりと行われた。
陛下が『今年はそのようにする』とお決めになったのですが、なぜそうなさったのかはわかりません。
ただ一昨年の餅つきでは、雅子さまがご体調が悪いのをおして
時間に遅れてまで合流されたので、気を遣われたのかもしれません」
元旦の新年祝賀の儀、雅子さまは両陛下へのご挨拶だけをされ、他の行事は欠席された。
1月2日の一般参賀には、昨年と同様、7回のうち午前中の3回だけ出席されたが、両陛下はもちろん、
年末に左腕の痛みなどで一週間ほどお休みをされていた紀子さまは、7回すべてに参加された。
「…もちろん治療は重要ですが、やはり節度というものがあります。側近がもっと
配慮するべきなんでしょうが、東宮職幹部は『私的外出には何の問題もない』という考え」(皇室ジャーナリスト)
いま、その東宮職の「見識」こそ問われている。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

平成皇室論
橋本明 朝日新聞出版2009年7月

平成19(2007)年も押し迫った12月28日、衆目を集めた皇太子ご夫妻の私的外出があった。
銀座・並木通りの資生堂本社ビルにあるフランス料理店「ロオジエ」での会食だ。
どこからともなく情報が漏れ、記者たちが当日夕方から周囲で待ちかまえていた。
ひと目で私服警官と分かる眼光の鋭い男たちが街の要所要所に立ち、
通りには一台も車がないという物々しさだったという。
ヨーロッパでは、王族はさりげなく街に出向く。
洗練された北欧の国民などは王族と遭遇しても見て見ぬふりをしながら温かく見守り、
お元気でいらっしゃると内心喜ぶという、ほほえましい構図ができている。
しかし独自の収入源や私有財産を持つ諸外国の王族とは違い、
皇族の暮らしは基本的に国民の税金でまかなわれている。
よってその暮らしぶりは比較的質素で、皇族と町民または滞在者が自然に交流できる地域は、
軽井沢町や葉山町あるいは那須などごく少ない地域に限られている。
ヨーロッパ王族のふるまいと比較すれば、よほど注意深くないと国民感情を逆撫でするか、
真意が伝わらずに騒がれるだけ、という結果に終わってしまう。
事実、年明けに発売された「週刊文春」には、
「雅子さま 三ツ星レストラン『深夜の饗宴』を許した東宮職の『見識』」というタイトルの記事が掲載された。
おりしも11月、レストランや町の評価の権威とされるフランスのタイヤ会社編纂の
『ミシュランガイド東京2008』が発売され、三ツ星がついた「ロオジエ」の名は広く国民の知るところとなっていた。
記事は「それが『治療の一環』だとしても果たして国民の目にはどう映っただろう」と問いかけ、
平成19(2007)年以降の頻繁な外食の記録も併せて掲載している。
いずれもミシュランの星がついた一流店や新たに開店した店など、話題の店ばかりだ。
ちなみに「治療の一環」という言葉は「適応障害」という病を患う雅子妃の主治医「東宮職医師団」が勧める
私的外出、乗馬などに冠せられるのが常となっている。
波紋は海外にも広まった。2月に入り「ニューヨーク・タイムズ」「ヘラルド・トリビューン」といった
海外の有力メディアが一斉に、国内で雅子妃への批判が高まっていることを報じたのだ。
たとえばAP通信は《Royal appetite draws criticism》(皇室の食欲に批難の声)と配信。
雅子妃が十三皿の特製メキシコ料理を楽しんだり、有名中華料理店でフカヒレスープや北京ダックを
食したりしたことから、皇室の厳粛なイメージを損ない批判を招いている、と報じた。
ところが、私がこの東宮ご夫妻の「ロオジエ」での会食について調べたところ、前掲の記事で
「見識」を問われた東宮職の頂点に立つ野村一成東宮大夫は、両殿下の銀座外出について
「知らされていなかった」ことが判明した。つまり、記者以上に情報過疎になっているということだ。
羽毛田信吾宮内庁長官も記者会見の席上、この外出は適当でなかった旨の発言をしている。
「ロオジエ」は東宮家の飼い犬の獣医が贔屓にしているレストランで、東宮ご夫妻はそこに招待されたという。
そこまでは結構なことだ。他の皇族も、お忍びの外食の機会をもつことは少なからずある。
だが、三ツ星を獲ったばかりの一流料理店であれば、人目にもつきやすい。そこで通常の営業時間を
大幅に過ぎた深夜までフルコースを楽しんだ。世間の実情にそぐわないという批判を招きやすい状況でもあったろう。

2007年7月-12月雑誌記事

週刊文春2007年7月12日号
愛子さまの教育係として学習院関係者が推薦した幼児教育専門家がほぼ内定していたのに、
最終段階(皇太子ご夫妻)の意向で取り消しになった。

週刊ポスト2007年7月20日号
対談 久能靖/橋本明/森暢平

久能
人格否定は雅子さまが言わせたこと。皇太子妃の立場を外交官と一緒にしている。
雅子さまは新婚直後から朝寝して殿下を見送らない。新婚時代から両陛下に会いに行かず絶縁状態。
橋本
紀子さまと紀宮さまは仲がよかった。雅子さまがその中に加わわらないのは雅子さまの性格。
橋本
「そもそも病気の兆候は93年のご結婚直後からありました。
“雅子さまのお目覚めが遅く、
宮さまがお出ましのときにお見送りする回数が減っている”という話を聞いたんです」
橋本
「実はご成婚当初からすでに天皇、皇后両陛下と皇太子殿下の関係は断絶状態が始まっていたそうです」
橋本
「・・・(皇室典範改正は)悠仁さまを中心に考えながら、その周りにある
脆弱性を埋めるための方策をわれわれが用意しておく、というのが私の意見です」
久能
「今も世論調査で天皇制維持に70〜80%が肯定する。今後も変わらないだろう」

「もともと外務省は皇太子夫妻の外国訪問を後押ししていた」
久能
「外国に行きたいという雅子妃の希望をかなえようとする動きは、少なくとも東宮(職)にはあった」
橋本
「鎌倉長官は外務省+東宮職の動きに警戒感を持っていた。
おそらく雅子妃の希望を叶えたいという勢力と潰そうという勢力があった」

週刊新潮2007年7月19日号
東宮御所「建て替え」への風当たり
13年前の「3億円大改修」は何だったのか。3000万円の「子供部屋」に代わり今度は「勉強部屋」が。
今回建て替える予定の事務棟は本当にボロボロな上に手狭。
他の部分(私室棟)はなぜ?と首をかしげる関係者が多い。
今まで東宮御所は、平成6年に3億8千万をかけて私室部分を中心に改修、
平成9年に5億8千万をかけて公室部分を改修
愛子さまが誕生した時は、3千万を掛けて改装工事を行ったので13年間で9億かかっている。

女性セブン2007年7月26日号
雅子さま心癒しに通うお忍びフレンチ
雅子さまがお忍びで通われる場所があるという。
それは東京都内にある隠れ家的フレンチレストラン。一軒家の洋館造りで落ち着いた雰囲気。
野うさぎなど野鳥獣を食材として使うジビエ料理が人気だ。
このお店を紹介したのは、双子の妹である礼子さん、節子さんだという。
「このレストランのシェフが新潟出身ということで、小和田家のみなさまは親近感を持たれたようで
礼子さんたちは、"ここならお姉様も安らげる"と考えたのでしょう」(小和田家知人)
これまで雅子さまは3回ほどその店を訪れられ、ひとときの心温まる時間を過ごされている。

週刊文春2007年8月9日号
高円宮家子供会
高円宮邸にクラスメート全員が招かれたことがしばしばあって、クラス行事のよう。
幹事のお母さんを決めて、『個別にお土産は持っていかない』とか
『青山一丁目の駅に何時に集合』といった約束事を取り決め。
お昼を挟んで長時間遊ばせてもらった。
庭にテーブルを出して、その場で職員さんが御料牧場から届けられたお肉を焼いて下さったり、
子供用ビニールプールに水を溜めて、缶ジュースがいっぱい放り込んであって
『好きに取りなさい』と振る舞ったり
宮内庁の方と思いますが、係りのお姉さんがゲームをして子供を遊ばせてくれ、
全部お任せで親同士はずっと喋っていました。(ある母親の回想)

秋篠宮家子供会
一方秋篠宮家では全員を呼ぶことはせず、
眞子さまや佳子さまの仲良しだけがひっそりとお呼ばれをしていた。
秋篠宮家では珍しい動物が飼育されているので、子供たちは動物園に行ったように喜んだ。
それも親御さんは送り迎えだけで、一般のお家と同様、子供同士で遊ぶ会でしたと聞きます。(学習院関係者)

※テーミス2007年9月号に反論記事

サンデー毎日2007年8月19日・26日号
愛子さまの送迎に姿見せず お母さん仲間から孤立? 雅子さま
電車で降園したのは「なぜ愛子ちゃんは車でくるの?」の問いに答えられなかったから
学習院幼稚園では車での送迎は禁止。他の宮家のお子様も車は使わなかった。
雅子さまも公務で忙しいでしょうが、他のお母さん方だってそれぞれ事情はある。
雅子さまが幼稚園に来る時は、行きも帰りも車。しかもどちらか一方の時もある。
職員まかせの時もある。そんな雅子さまはわがままに見えるという声もある(幼稚園関係者)

週刊文春2007年8月16日・23日号
隠された「両陛下ご静養とりやめ」 美智子さま雅子さま「すれ違い」の真相
悠仁様はご両親とともに8/4皇居を訪問、約4時間半御所に滞在。
同日、皇太子一家は銀座コリドー街のフレンチ
「ル・シズィエム・サンス」(高級フランチレストラン)で
小和田夫妻、池田礼子さん一家、渋谷節子さん夫妻が会食。
店のオーナーが優美子さんと親しい。当日は店の配慮から貸切状態。
秋篠宮家が両陛下とお会いになった日に皇太子ご一家は小和田家と会食していたというのは、
「平成皇室」を象徴するかのよう。
8/3夕方、東宮御所で愛子のお友達親子数十人を招待しての子ども祭り開催、礼子さん、節子さんも参加。
この時期、本当は8/1-8/5まで皇太子一家は須崎御用邸で両陛下とともにご静養される予定だった。
両陛下がご静養を取りやめたのは地震の2週間以上前のこと。
6月、両陛下がご静養計画を立てられたところ皇太子一家が「ぜひご一緒したい」と願い出られた。
陛下は少しお考えの後、「近頃は”潜る”練習をしていないからやはり御所で休む」と取りやめ。
それで皇太子夫妻も須崎行きをやめ、子ども祭りや会食を決めた。
「潜る」とはシュノーケリング(以前はよくなさっていた)と思われるが、
千代田関係者「当たり障りない理由をおっしゃったのでは。
東宮一家とご一緒では本当のご静養ができないということなのでしょう」
5年前のご静養時、皇太子ご一家は雅子さま運転により御用邸に。
愛子さまは皇后陛下のお見せになった海藻を投げつけてしまわれた。

月刊テーミス2007年9月号
■「両陛下はご公務に大忙しの中 雅子さま愛子さま『抱き込む』外務所の遠謀」
皇室担当記者の証言「公務復帰と入っても、本当はドタキャン続出。
東宮職サイドは、雅子さまの行動が直前まで掴みきれないようでした」
(モンゴル訪問について)「皇室担当記者『国内ではドタキャンが許されても、海外ではそうはいかない。』
皇太子さまがモンゴルをご訪問された前後の6月29日と7月19日、
愛子さまは雅子さまやお友達親子とともに、電車に乗られるという経験をされた。
警護の問題などを考えると、1ヶ月ほどの間に2度の山の手線ご乗車は極めて異例。
愛子さまがこのところ電車に大変興味を示していることから、
一部の皇室関係者の間では、「鉄子ちゃん」と呼ばれているとも言う。
だが、公共の乗り物を利用する際、皇宮警察や警視庁の警備関係者の苦労は
並々ならぬものがあることは確かだ」
「雅子さまに詳しい事情通の証言 『雅子さまは愛子さまにできる限り
一般の子供のと同じような体験をさせてやりたいという考えが強く、
このところ東宮御所へ同級生を呼ばれることが増えている。
だが、一度に数十人もの人たち招き入れるため、宮内庁も対応に大わらわのようだ。
これだけでなく、雅子さまは田園調布双葉の関係者、外務省時代のキャリア官僚の関係者も呼び入れられている。
また、雅子さまの方が、お忍びでそれらの関係者のお宅を訪問される機会も増えているようだ』
6月にスタートした宮内庁の新体制。天皇皇后両陛下に仕える新侍従長の川島氏は、
元外務省次官で、外務省時代、韓国人女性とのスキャンダルが囁かれていた人物で、
もともと宮内庁入りを疑問視されていたこともあった。」
「8月4日、秋篠宮ご夫妻は悠仁さまを連れて両陛下との昼食会のために皇居を訪れている。
ところがその当日、皇太子ご夫妻は、オランダから帰国していた小和田夫妻や妹の渋谷礼子さんらと
都内レストランで食事会を開かれていたという。」

■「週刊文春 愛子様記事に眞子さまご学友の母が反論
「アレは嘘。だって隣のクラスの人も全員呼ばれましたもの」というのは眞子さまご学友の母親。
文春の記事では、秋篠宮家は眞子さまや佳子さまの仲良しの子だけひっそりと呼ばれたとありましたが、
何回かに分けて同じ学年のお子さん全員をお呼びになりました。」
呼ばれたグループごとにお土産などで連絡を取り合い、母親たちは紀子さまとおしゃべり、
子供たちは宮内庁の職員と思われる方に遊んでもらった。
「紀子さまは学期ごとの母親同士の食事会にも毎回参加されていた。
『みんなと公平にお付き合いされるのが紀子さまです。
親衛隊のママたちとばかり定期的にお茶する雅子さまとは大違い』と、
学習院のママたちは、紀子さまのほうに好意的なようだ」

週刊文春2007年10月4日号
両陛下清子さん自宅を初訪問「幸せそうで安心しました」
美智子さまは昨年の誕生日のご回答で、雅子さまの公務復帰について、
<東宮妃も、また東宮も、それまでの日々、自分を大切にして過ごしてほしいと祈っています>と仰っていた。
宮内庁関係者は「“自分を大切に”という表現をめぐって、朝日新聞の岩井克己記者は
『文藝春秋』の対談の中で“自分を大切にすればこそ、自身の行動や考え方について
厳しくあることを期待します、と言外にこめておられる”と皇太子ご夫妻に厳しい解釈を
述べ、話題になりました。側近の中には“そんな意味はなく、文字通りの慈愛の言葉だ”と解釈する者もいた。
どちらにせよ、今年のご回答も注目されます」
9月17日、美智子さまは黒田清子さんとともに、
サントリーホールで開かれた盲導犬育成のためのチャリティーコンサートを鑑賞された。
清子さんが結婚後、美智子さまと皇居以外の行事で同席したのは初めてだが、私的には、
二週に一度は鳥類研究のために皇居を訪問し、その機会を両陛下も楽しみにされているという。
8月12日「夕方から三時間、お過ごしになりました。お付きの者も部屋に入らず、
四人水入らずで食事をされたようです。食事は清子さんが腕によりをかけて作られたのでしょう。
陛下も非常にお喜びのご様子で、周囲にも“前の家には驚いたが、今度は緑も近く、幸せそうな新居で安心した。
清子は妻としてよくやっているようだ”と相好を崩していらっしゃるそうです」皇室ジャーナリスト。
両陛下にとって、いまでも清子さんが心の支えになっているのは間違いないようだ。

週刊文春2007年10月18日号
日頃御所で愛子さまに出くわした職員は必ず「ごきげんよう」と挨拶するが愛子さまが挨拶することはない。
黙ってぷいと横を向いたりかと思えばじっと凝視したり。
運動会の時、雅子様は隣にいた他の園児の父親と話をされていたが、大きな声で笑っていた。
雅子様のお声は結構大きくて校庭に笑い声が響き渡っていた。(父兄の一人)

SAPIO2007年10月24日号
父・赳夫の首相秘書官だった小和田恒元外務事務次官(1955年外務省入省)とは
官邸の秘書官室で机を並べた仲であり、今なお家族ぐるみの付き合いだ。
言うまでもなく、小和田は雅子妃の父親である。
そして彼が東京・代沢の福田邸に幼少時の雅子さまを連れて行くことも一再ならずあり、
当時首相の赳夫に「雅子ちゃん、雅子ちゃん」と可愛がられたという。

週刊文春2007年11月1日号
10月6日の学習院幼稚園運動会、13日の初等科運動会見学。同時期に乗馬も再開。
10月11日には日本橋の超高級ホテル「マンダリンオリエンタル東京」37階の
フレンチレストラン「シグネチャー」でデンフタ時代の“同級生ランチ”。
22日には幼稚園の父母会にも参加。
皇太子ご一家は11月7日から御料牧場で静養される予定。

週刊朝日2007年11月9日号
10/26徳島行き機内
侍従らと談笑する声が記者たちの座席まで届いた。
装いはベージュのパンツスーツにシャネルのロゴ入りバッグ。30-50万円程度のもの。
お迎えする徳島では「雅子さまー」と掛け声の練習
宮内庁発表の雅子様日程は開会式臨席のみで、
美術館・工場見学などはぎりぎりまで未定、徳島県職員すら知らないと困惑。
26日美術館は雅子様はホテルで休憩。27日の開会式は、
合間にホテルでの休憩をはさむゆとりのある日程
東宮侍医長以外にも大野教授も公務に動向。まだ本格復帰とはいえない。

テーミス2007年11月号
■雅子妃の背後で蠢く小和田人脈の「怪」
皇后さまが73歳のお誕生日を迎えられ、宮内記者会の質問に文書で回答する形で
「4人の孫」や皇太子ご夫妻のことについて述べられた。
微妙な表現ながら、両陛下と皇太子ご夫妻との“交流”はいまだにスムーズではないらしい。
いまこそ宮内庁の“調整”が必要なのに東宮側では外務省出身者が
「しゃしゃり出てきた」との指摘がある。その背後を追うと……。
皇室関係者は言う「オランダ静養で雅子はかなり回復を見せたことはたしか。というのも、
のちにオランダの皇族関係者が『プリンセス雅子が心の病などということは到底信じられない』と
オランダでの生活ぶりを見ていってるからだ。
それを強調して「仮病説」まで言及する皇族もいるがさすがにそれはないだろう。
しかし、予定されていた公務を突然中止するようなときは、ある程度の説明責任がいる。
問題は宮内庁がもはや天皇一家を守りきれず、
外務省が彼らに代わってしゃしゃりでていることにあるのではないか」

■皇室を背景にした小和田哲学
「(略)宮内庁の要所は次々と外務官僚が押さえていることになる。
警察長関係者 「外務省出身の野村氏が後任についたが、ここから雅子妃というよりは、
小和田家の力が俄然強くなったことは間違いない。小和田恒氏は現在国際司法裁判所判事。
外務省と皇室を背景に彼が行使する権力や影響力は絶大なものになっている。」
「小和田氏は福田赳夫首相当時、外務省から出向して秘書官を務めた。
その縁で福田氏は小和田夫妻の仲人も努めている。
そこで問題なのは、赳夫氏の息子の康夫政権ができたことだ。
かつての秘書仲間でいわば盟友。もともと「女性天皇」を認める皇室典範改正議論は、
小泉政権下の福田官房長官(当時)が先導したものだ。
ここへ来てまたその議論が再燃しているのはその辺りの複雑な背景がある。
小和田氏がすべての役職を降りているなら話は別だが、あまりに生臭すぎる」
小和田氏はかつて「普通の国」を否定する「ハンディキャップ」論を展開。
日本は軍事面では国際貢献ができないといって、
その分をカネを出すことで埋めなければならない旨を主張している。
その小和田哲学はいまだに変わっていない。主義・主張を持つのは結構だが、
これが日本の外交・安全保障に直結、しかも皇室を背景にしているだけに危険である。

週刊新潮2007年11月8日号
「東宮御所」職員を感激させる愛子さまの「記憶力」
「力士の名前だけではありません。読んだ絵本を暗唱することもできます。
なにより凄いのは、東宮御所で働く職員の顔と名前も全て覚えておられること。
幹部は役職名まで、例えば“野村一成東宮大夫”ときちんと言えます。
職員とすれ違うときは、フルネームで挨拶をして下さるので言われた職員は皆、感激しています」

女性セブン2007年12月27日・1月1日号
最新雅子さまブランド デパートでは月2回のお買い物
「東京・日本橋にあるデパートが多いようです。
近ごろは月に2回くらいお出かけになることもあるそうです」(皇室記者)
お買い求めになるのは、洋服、食器、雑貨、愛子さまの子供服、玩具、それからお好きな絵画などだという。

女性自身2008年1月15日号
皇太子さま<ああ、ブレーンがいない>−「ご学友側近を拒否されて」
ブレーンがいない皇太子
ご学友である賀陽正憲氏が侍従になることに周囲がお勧めしたが
皇太子は「かつての学友と、上司と部下のような関係で接したくない」と断った。
秋篠宮邸では毎年“さんまの会”というご友人を集めての会があるが、誰もが酔っ払って無礼講。
一方東宮ではご友人を招いての新年会はあるが、夫妻の前で体調や世継ぎの話はしない、
正体なく酔っ払う人もいない、そして記念写真を撮った後も、
誰にどの写真が渡ったかチェックするなど堅苦しく、
とても“お友達同士”付き合いができる雰囲気ではない。