大正天皇


明治四十五(1912)年七月二十九日、明治天皇は崩御され、昭宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王は践祚した。
新たな元号は大正と決まった。
大正天皇はいつも病にとりつかれていた。本当に成人できるか、明治天皇は悩み続けた。
二十四年間の皇太子時代に公爵九条道孝四女節子(さだこ)と結婚したが、健康がおぼつかないため
明治三十二(1899)年八月の内定から発表はしばらく伏せられ、結婚は翌年春五月となった。
明治天皇のご大喪儀は東京・青山葬場殿で挙行された。
日露戦争下、旅順郊外の二百三高地であまたの兵士を失った陸軍大将乃木希典は八瀬童子五十人が
轜車(じしゃ)に寄り添う葬列が宮城を離れたころ、自宅にて礼装をまとい軍刀で割腹し、
頸部を貫いて殉死した。妻静子も左胸を短刀で刺し貫いて夫の後を追った。
(中略)
明治天皇の亡骸を納めた霊柩車は九月十四日特別列車で京都び運ばれ、祭場殿で葬送の全てを終えた。
大正天皇と貞明皇后は宮中の側室制度を実質上、廃した。
百姓家で健康増進を図り黒姫さまとまでいわれた貞明皇后が頑健な体を信じ、恃みとした現れだったかもしれない。
幼時病気がちだった大正天皇だが、乗馬を良くし、相撲に興じた。
皇子にも恵まれ、皇太子時代には明治三十四(1901)年四月二十九日ご誕生の皇孫裕仁親王を筆頭に
秩父宮雍仁(やすひと)、高松宮宣仁の三皇子が、即位後には三笠宮崇仁(たかひと)親王が生まれた。
大正天皇は皇子と遊ぶのが大好きだったという。
皇太子時代に韓国訪問ができたほど健康だった天皇が、具合が悪くなったのはその後である。

大礼服ご着装を好まれた大正天皇は大隈重信(外相・首相・早大総長)を寵臣として遇するあまり、
元老山県有朋を慨嘆させたことで知られる。天皇としての激務が合わなかったのか、
帝国議会開院式で勅書を巻いて望遠鏡として議場を眺めたとの風評が広がるなど奇矯のお振る舞いが多くなり、
やがて栃木県日光に建てた田母澤御用邸にひきこもるなど療養生活に入っていく。
大正三(1914)年、裕仁親王のために東宮御学問所が開かれた。総裁は東郷平八郎海軍元帥、
御用掛となった杉浦重剛は常にフロックコートを着用して週二回倫理学を講じた。
御学問所は高輪東宮仮御所内に設けられ、東宮大夫浜尾新(前東京帝大総長)が副総裁、
四人の評議員、幹事、御用掛という構成だった。
当時、皇太子に関する事務を行う部局は東宮職と呼ばれ、側近として東宮大夫、東宮侍従長、
東宮侍従、東宮武官長などが仕えていた。また東宮御所詰に侍医、武官がいた。
御学問所開設期に学習院初等科を修了した四十二人から松平直国、久松完孝、南部信鎮(のちの松平直鎮)、
大迫寅彦(のちの永積寅彦)、堤経長の五人が選ばれて裕仁親王と起居をともにした。
中等科一年生に相当し、学籍を学習院に置く形だった。こういう方々を「ご学友」と呼ぶ。
宮家でいうと雍仁親王(秩父宮)、宣仁親王(高松宮)にもこういう「ご学友」がおられ、
崇仁親王(三笠宮)にご学友はいない。単に学習院で机を並べたわれわれは「同級生」に過ぎず、
マスコミが勝手にご学友と呼んできただけだ。
いずれにしても明治天皇がいかに皇孫殿下に期待をかけたか、御学問所開設は物語っているといえよう。

大正四(1915)年十一月十日、戦時下の即位大礼が京都で挙げられた。
明治42(1909)年に公布された皇室令第一号登極令に基づく初めての大典だった。
紫宸殿に設置された高御座の東に御帳台を置き、皇后が参列する様式は従来にない新例であった。
但し貞明皇后は三笠宮出産を翌月に控えており、京都にはいらっしゃらなかった。
大正天皇の即位は昭憲皇太后崩御のためまるまる一年遅れたことを追記しておこう。
両陛下おそろいならばこうなるはず…という形式を重んじたもので、
明治天皇に続いて大正天皇もお一人で即位大礼に臨まれた。

大正九(1920)年ごろになると天皇の病勢が進み執政がいよいよ困難となり、大正十(1921)年
六カ月の外遊を果たして帰国した皇太子裕仁親王が十一月二十五日摂政の地位に就く。
この後、大正十二(1923)年九月一日午前十一時五十八分、関東大震災が南関東圏を襲った。
死者行方不明者十万人以上、二十万以上の住宅が焼失した。
このとき裕仁親王は摂政として表宮殿で執務されていた。
加藤友三郎首相が八月二十四日に急逝し、首相の座は不在だった。
したがって当面した仕事は首班指名した山本権兵衛海軍大将による第二次山本内閣の組閣の進捗を見守ることだった。
同年十二月二十七日、帝国議会開院式当日、摂政宮座乗の車が虎の門を通過中に狙撃されるという事件が起きた。
犯人難波大助は死刑となったが、ソ連政府の出現とドイツ帝政の崩壊に刺激され、
社会主義、無政府主義の思考に傾き、罪を犯したものである。
虎の門事件の発生は、大正時代という特異なルーズ感覚あふれる世相を反映した無警備状態の犯罪といわれる。
当時の宮内省には皇族と国民との距離を縮め警備を軽微に抑える方針があったように思われる。
しかしこうしたデモクラティックな皇室戦略も一時的なもので、虎の門事件によって再び警備は厳しくなる。
第一次世界大戦後、世界列強に並んだという意識が天皇の地位を国及び国民の長、
神聖不可侵とする方向に後押ししたともいえるだろう。
大正十五(1926)年十二月二十五日、大正天皇は葉山御用邸で亡くなった。
四十七歳という若さだった。摂政として日本の頂点に立って五年、経験を積んだ裕仁親王は御用邸で即時践祚した。
昭和天皇の即位の礼は昭和三(1928)年十一月十日、また大嘗祭が十四日京都御所で行われた。

(平成皇室論 橋本明 朝日新聞出版2009年7月)

宮中で執り行われる祭

大事な日は元日、穀霊の「死と生」を演じる冬至の日。
冬至の日には夏にどうか豊作をと願うタマフリの祭りを行う。
新嘗祭の前日に鎮魂(たまふり)という神祇令を挙げるが、
岩屋に隠れた陽の神を誘い出す儀式であって、一般にいいならわされている「一陽来復」
つまり日の神が再生し、復活する祈りの場そのものである。

宮中で拍手する所作が登場するのは新嘗祭の前日、天皇皇后、皇太子皇太子妃の長寿安泰を祈る鎮魂祭だけ。
場所は綾綺殿。「やひらで」という八開手のことを指す八度の拍手をする。
長さはほぼ十分間。陛下がお告文あるいは御拝のとき
ジャラジャラと十センチくらいの金色の鈴を何十個と紐でくくったものを内掌典が振る。
振っている間に降神があり、御祭典を挙げる。
御鈴が鳴っている間、陛下はずっと平伏したままだ。
こうした複雑な手順を要する宮中祭祀は陛下の日常の一部となっている。
平成21(2009)年を節目としてご高齢の両陛下の負担の軽減がなされるまで、
年間三十数回の祭祀を執り行ってきた。
それはしばしば早朝・深夜におよぶ。いわゆるマニュアルのようなものはない。
天皇から皇太子へと見よう見まねで伝えられる所作である。
旬祭は一日、十一日、二十一日の日に行われるが一日は御直拝、他は侍従による代拝。
平成21(2009)年に入り、陛下の御直拝は五月一日、十月一日のみになるとの発表が宮内庁からあった。
主要な祭祀には大祭と小祭、その他元旦に行われる四方拝などがある。

新嘗祭を始めとする大祭は天皇自ら祭典を挙げるものであり、お告文を奏上される。
皇后、皇太子、同妃は順序に従って内陣で拝礼となる。
今上天皇の誕生日を祝する天長祭などの小祭は掌典長が祭典を行い、陛下がご拝礼になる形である。
原則として天皇と皇太子だけで皇后は出ない。
しかし先祖である歴代天皇の御例祭では皇后、皇太子妃も出席するならわしだ。
小祭で皇后が出ないのは元旦に行われる祭祀、
毎年二月十七日に五穀豊穣を祈って行われる祈年祭くらいという。
陛下が行幸で不在の折など、侍従による代拝は賢所と皇霊殿さらに神殿の順で行われている。
平成20(2008)年3月下旬まではご神体が仮殿に移っていたためモーニングでよかったが、
普段は束帯をまとう。
日供(につく)のお供えは内掌典の役割だ。
次に主要な祭祀の詳細を記す。

《四方拝・歳旦祭》
早朝4時ころ陛下は床を離れ支度に移る。
潔斎のうえ黄櫨染御袍の正装に着替え5時半から始まる四方拝の主役を務める。
場所は神嘉殿南庭。地面に薄く白布をかぶせた板敷きが用意され真薦(まこも)が敷いてある。
御座がある。一双の屏風で囲んである。東京であるから、伊勢神宮を指す南西の方向に少し開けてある。
陛下は着座すると南西に拝礼され、順次右回りに白虎・玄武・青龍・朱雀と四方を拝する。
各拝礼とも両段再拝(四度拝むこと)と丁重なお姿。
皇后は御所で同じ時間帯を陛下への気遣いと祈りと共に過ごされる。

去年」(こぞ)の星宿せる空に年明けて歳旦祭に君いでたまふ
神まつる昔の手ぶり守らむと旬祭(しゅんさい)に発(た)たす君をかしこむ
やがて出づる日を待ちをればこの年の序章のごとく空は明けゆく
新嘗(しんじょう)のみ祭り果てて還ります君のみ衣夜気冷えびえし

このように皇后はご出発を送り、一人静かに待ち、冷え冷えとした天皇を迎える。
四方拝が終わってすぐ歳旦祭となり陛下は賢所に向かい、皇霊殿・神殿と拝礼する。
皇太子が共になさる。綾綺殿に戻ってお召し替えとなる。
御所で「晴れの御膳」に箸を立て、元日の諸行事に対応して行く。

《節折(よおり)・大祓》
6月30日と12月31日には節折が行われる。これは皇太子妃まで含む親族のお祓い。
まず天皇お一人が正殿竹の間に立たれる。午後2時、掌典長が一拝して退く。
天皇の御衣御贖物(みあがもの)ふたつがあらかじめ卓上に用意されて置いてある。
絹製で白の荒世(あらよ)と紅の和世(にごよ)があり、それぞれ柳筥(やなぎばこ)に納めてある。
最初に行われるのは「荒世の儀」。
侍従が荒世の衣を納めた柳筥を捧持して御前に進み、うずくまり蓋を開く。
包み紙を開けて捧げ出ると天皇が息をかける。侍従が天皇の息がかかった衣を元に納めて退室、掌典に渡す。
掌典長が御麻(みぬさ)という紅白の絹をつけた榊を侍従に渡す。侍従がそれを天皇に捧呈する。
天皇は御麻を執り、左右左と自ら祓い、侍従に渡す、さらに掌典に渡す。
次に掌典がお竹を一本献進する。侍従から侍従に渡されたこの細い篠竹で、天皇の背後にて頭上の背を測る。
硯から筆を執って印をつける。先の侍従に返す。
次いで竹二本の一本で肩から下までを測り、三番目も二本の竹で横に伸ばした背筋中央から指先までを測る。
四番目は腰の下を、五番目は膝の下を測り、印をつける、それぞれの印のところを折るので「節折」という。
それから侍従が差し出した素焼きの壺に天皇が息を吹き入れて荒世の儀が終わる。
続いて「和世の儀」となる。御衣が異なるだけで所作は「荒世の儀」とまったく同じだ。
節折を終えた御衣は唐櫃(からびつ)に納められ、賢所構内神嘉殿の大祓の式場に運ばれる。
皇后以下は天皇の息がかかった御衣を頂戴して、それでお祓いをする。
皇后、東宮、東宮妃の分はそれぞれご自分の衣を一つだけ、
あらかじめ和世の儀のために用意しておき、天皇の御衣と同じ卓上に置いておく。
この儀には皇族を代表するお一方の着座を伴う。その日に元気な方であればどなたでもいい。
最近は秋篠宮文仁親王が務めておられる。「祓いやれと宣(の)る」という締めくくりで
参列者を国民全体に見立てて大祓の儀式が終わる。
すべては従来隅田川に流すのだが、河川法もあり、いまでは皇居内のお濠に投棄している。

《大祭》
大祭には1月3日に国家国民の繁栄を願う「元始祭」、
春分の日に行われる「春季皇霊祭」、秋分の日に行われる「秋季皇霊祭」、
10月17日、新穀を皇祖ら神々に供える「神嘗祭」などがある。
「神嘗祭」では陛下が伊勢神宮を遥拝。宮中では午前から神嘉殿南側廊下の殿上で行われる。
賢所に進みご拝礼、お告文があり、お鈴の儀を挙げる。皇后、東宮、東宮妃が続いて拝礼する。
もっとも重要な大祭は天皇が新穀を神々に供え自らも食する「新嘗祭」である。
11月23日に神嘉殿内部に御神座、御寝座、陛下御座を設けて行われる。
御座の前には御食薦(おんしょくせん)(みけこも)を置く。
その上に葛筥(くずばこ)、鮮物筥(なまものばこ)、干物筥(からものばこ)、
御菓子筥と汁ものが出る。
陛下はお手水を済ませると葛筥を受け取り、蓋を開けて小筥を取り出して采女に渡す。
采女が密に編まれた神食薦に供える。
采女という女性は正式には四人いて、一人が陪膳、もう一人が後取(しんどり)。
二人は女官で殿上にて務めを果たし、後の二人は女嬬と身分が低く、
働く内容も神饌(しんせん)や脂燭(ししょく)を東の隔殿まで運んでくる役割だ。
天皇が采女二人と御直会をしている間、皇太子は西の隔殿北側に設けられた座に座っている。
東宮大夫の先導で南廂の中央に設けてある拝座から御正殿に向かって拝む。これまでを「夕の儀」という。
さらに午後11時から「暁の儀」が同じように始まる。
御寝座は八重畳というごわごわした分厚い畳表様のものを重ねて敷いてあり、一畳より大きい。
そばに沓箱と麦藁を巻いたような形のものが用意されてある。
こうした備えは天皇即位に沿ってあげられる大嘗祭と基本的には同じである。皇后、皇太子妃の参列はない。
この「暁の儀」も平成21(2009)年からの公務・祭祀の見直しに伴い、時間を限ってのものになるという。
「先帝祭」と「神武天皇祭」の晩には皇霊殿御神楽がある。
天皇拝礼のあと午後6時からお神楽が始まり終わるのは12時を過ぎる。
昭和天皇祭は1月7日だからいずれも極寒の中の儀式となる。
新嘗祭で供える米は全国から献納される。陛下お手植えの収穫米も供えられる。
指定された地方ごとに米一人、粟一人の献納者が選ばれ、精米は一升、精粟は五合と献じる量が決まっている。
献納者は両陛下、東宮両殿下からお会釈を賜る。
大嘗祭については前に記したが、天皇の式服は新嘗祭のときと同じように純白生絹(すずし)の装束だ。

《小祭》
先帝、神武天皇の式年祭は大祭だが、その他の歴代天皇の式年祭は小祭りである。
南北朝で格差や差別は認められない。各天皇の位牌めいたものがあるのかどうか不明だが、
皇霊殿には大きな唐櫃が置いてありご神体が入っていると聞く。式年祭に先立って
天皇は歴史家を召し、該当天皇の事蹟について進講を聞いている。
時にニュースとして報道されるが、東宮ご夫妻にも声がかかる。
天皇と同年輩のわれわれは歴代天皇名を思い出すとか、
記憶の底に沈殿している文章が浮かび上がるなどの現象を共有している。
トヨアシハラノ チイホアキノミズホノクニハなどである。
天照大神はなぜか孫を地上に送った。送り先は豊葦原の千五百秋の瑞穂の国。
農業盛んな美しい土地である。ニニギノミコトといわれる。
現代語に直すと―。
「たくさん豊かに稲穂がみのる葦原のナカツクニは、
アマテラスオオミカミの子孫が国主として統治なさるべき土地である。
汝ニニギノミコトよ、下界に下り、その国を支配せよ。
さ、でかけよ。天の日嗣(皇統)は天地とともに窮ることはないからだ」
ついでだが、この言葉から天壌無窮とか天長地久といった言葉が生まれている。
父つまり大神の子だった天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)をさしおいて、
天孫降臨となったニニギノミコトに父親は鏡を手渡しただけだった。
「吾が児、この宝鏡を視まさんこと、まさに吾を視るがごとくすべし」
三種の神器はこの八咫鏡(ヤタノカガミ)、天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)、
それに八尺瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)を指し、彼の後裔である神武天皇に伝えられていく。
これらは天皇位の象徴であり、歴代天皇が苦難に打ち克って代々伝えてきた。
鏡は別途鋳造し、宮中賢所の神体となって奉安され、原鏡は伊勢神宮に入っている。
剣は東征の折、火に包まれた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)がこれを振るって脱出に成功、
爾来別名草薙剣(クサナギノツルギ)として熱田神宮に納められた。
新しく作った剣は曲玉とともに宮中にある。
昭和天皇は三種神器を守り、日本人の種を残す目的で戦争終結を決意した。
剣璽動座(けんじどうざ)という名称は天皇が移動するたびに神器も移動するという意味であり、
普段は御所ご寝所隣の六畳の間ほどの部屋に袱紗で覆われて置かれている。
こうしてみてくると、陰陽二元の立場を濃厚に伝える宮中祭祀が主として豊かな農耕を期待し、
安定した環境の中で五穀豊穣を実現するために捧げられていると知る。
農業振興はとりもなおさず食べるという国民の欲求を満たす目標であるから、天皇は平和を祈り、
国民の幸福を願う務めを伝統的に背負ってこられた。明治維新による近代化の激変、
天皇元首制を経てもこうした基本的な柱はいささかの影響も受けず、連綿と伝わってきた。
伝えたのはほかでもない、天皇ご自身である。
鉄砲や軍艦に鎧われても、天皇は武神とはほど遠く、平和な中での営みを守る穀霊神であったことを知るのである。
井上辰雄教授が指摘するように、太陽の運行を軸に月を読み、
耕作・植え付けと育成、収穫を律してきた陰陽の定めに特徴的な精神は、死と再生の輪廻ではなかったろうか。
春を待って厳しい冬に耐える、仲冬の卯に大嘗祭を催す、
こうしたもろもろの姿勢は一陽来復を信じる素直さに満ちているように感じられる。

(平成皇室論 橋本明 朝日新聞出版2009年7月より)

大喪礼、即位礼、大嘗祭

平成皇室論
橋本明 朝日新聞出版2009年7月

(昭和天皇のご大喪)
ともあれ、ご大喪は大正天皇の時と同じく新宿御苑で行われ、八王子・武蔵野墓地内の
武蔵野陵に永遠の眠りに就かれた。京都市伏見区の伏見桃山陵に埋葬された明治天皇の
先例を踏襲していない。旧皇室典範では即位の礼および大嘗祭は京都において行う(十一条)とされ、
私の母方祖父、陸軍騎兵中将三好一(騎兵監・弘前師団長)も大礼服を着用して参加している。
(中略)
東園基文掌典長からご大喪祭官の一人として奉仕するように伝えられた級友旧公爵島津忠廣は
皇居へ向かって遥拝し、12日宮内庁へ登庁、正式に辞令交付を受けた。祭官長はご学友永積寅彦、
祭官副長に山内豊秋、香川朝男を配し、柳原承光、嵯峨公元、園基信、松平保定ら計十八人、
祭官補十八人には宮内庁OBが当たった。政教分離の原則から現職公務員は皇室の宗教儀式に携われない。
掌典職も宮中三殿の通常祭祀をとりおこなうため、ご大喪には参加できない。(島津忠廣『昭和天皇の
ご大喪に奉仕して』)
ご大喪の神道に置かれている、シンプリシティ(簡素)とピュアリティ(清潔)とでもいおうか、
古代から受け継がれてきた日本人の素朴な自然観、生命観を通じて培われた伝統的な文化が息づいている。
例えば一年の喪明け11月に行われる大饗の儀二日間だが、天皇が神々と食した
食事やお酒を国民の代表として参列した人々にふるまう儀式である。
この祝宴を通して神々と天皇、そして国民が一体になる。
殯宮(ひんきゅう)に関連する儀式、斂葬から轜車発引(じしゃはついん)の儀、葬場殿(そうじょうでん)の儀、
山稜関係の儀式、一年にわたる権殿(ごんでん)の儀などが皇室行事であった。皇室の伝統を守り、
旧皇室喪儀令、貞明皇后大喪儀などを斟酌して諸儀式の内容が詰められたと聞く。
これ以外に行われる大喪の礼あるいは即位礼は国の儀式であり、新天皇即位礼の年の仲冬に
行われる大嘗祭もまた、皇室行事である。こうした区別はもとより祭政不一致の原則から明確にされたのだった。
練習を意味する習礼(しゅうらい)は五回行われた。1月31日午前10時に追号奉告の儀、
つまり亡き天皇に、新たに百二十五代天皇となった方が「贈り名」を告げる儀式が先行し、
「大行天皇には、御即位にあたり、国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され」
「ここに、追号して昭和天皇と申し上げます」と述べた。それから殯宮祗候までに
全ての儀式に参加する祭官と祭官補のために練習が組み込まれたのだった。
宮殿で最後のお別れの儀式が2月24日午前7時半から行われ、お柩が南車寄から宗明楽の調べが
奏でられるなか、皇居を後にした。二重橋から桜田門、国会議事堂前と進むころ警視庁音楽隊が演奏する
哀之極(かなしみのきわみ)が静かに流れた。島津は「普段は多くの人で賑わう四谷の駅前も
人の姿はなく、警戒の機動隊の車だけが目にとまり、西部劇にみる死の街さながらの後継を眺めながら…」と
都心のたたずまいを描写した。
冷雨が降りしきっていた。葱華輦(そうかれん)は左右に並んだ幄舎(あくしゃ)を埋めた内外の列席者に
見守られて祭場殿に奉安される。ここで奏でられた調べを道学(みちがく)という。古代から伝わる雅楽だ。
祭場殿の儀は三方二十一台の献饌に始まり、天皇ご拝礼、皇后、皇太后(ご名代常陸宮華子妃殿下)、
皇太子以下皇族の拝礼を経て、ほぼ50分で終わった。
手ひどい寒さはテレビ画面を見つめた国民にも均しく感じられた。八王子市郊外にある武蔵野陵御陵総門に
儀式が移った午後3時過ぎ、さしもの雨も降り止み、北山杉が靄に包まれて、「雅楽の悲しい調べと
玉砂利を踏みしめる音だけが聞こえていた」(前掲島津)。ご親族だけによる「お土かけ」という
内輪の儀は柩が御須屋(おすや)に納められてから薄闇に暮れなずむ午後6時まで進行した。
ぞうりなど日常のご愛用品、礼宮文仁親王の字を刻んだ墓碑銘(陵誌)が昭和天皇にご一緒し、
永遠の眠りにつかれた。

(即位礼)
明仁天皇は一年を三期に分けた喪が明けると、大正15(1926)年12月25日大正天皇崩御後の
「昭和大礼」について残された詳細な資料を取り寄せ、書陵部に収集されている唐時代などの
即位礼なども加えて、「平成大礼」をどのように構成するか、勉強を重ねられたと聞いている。
昭和大礼当時は首相の下に「大礼使」という組織体を置き、総数1499人で即位礼の準備にかかっている。
また登極令という決まりでは、「天皇は神器を奉じて皇后とともに京都に赴く」と決まっていた。
一体として動かなければならない天皇と皇后に注目しよう。
新皇室典範に場所を京都に特定する条項はもはやない。
昭和天皇は香淳皇后と共に名古屋一泊を加え京都へ向かったのだが、両陛下に先んじて
賢所など宮中三殿も移送された。賢所大前の儀はこうして京都御所で行われ、
昭和3(1928)年11月10日午後両陛下は紫宸殿に入っている。
平成の場合、式典は政府・行政・司法が置かれる首都東京で挙行と決定。
従って京都御所紫宸殿から高御座と御帳台が東京に運ばれた。
こうして迎えた平成2(1990)年11月12日の即位礼。午前、先立つ賢所大前の儀が
皇居内で行われた。これは国家行事である即位礼とは異なる皇室行事であり、
皇族がたは白絹を地とした白の束帯をそれぞれ召されて臨んだ。
午後、即位礼正殿の儀は宮殿の正殿松の間を舞台にして展開した。
正殿、およびチャールズ英皇太子・ダイアナ妃はじめ外国賓客が参列する長和殿、
さらに豊明殿などで囲むほぼ正方形の中庭に緑、黄、白、紫の旛が林立。
鉦、鼓、桙さらに弓、太刀をたばさんだ古装束の宮内庁職員らが居並んだ。
正殿に向かって左際に月像纛旛(げっしょうとうばん)、右際に日像纛旛(にっしょうとうばん)、
十八段階段下左右に万歳旛、菊花大中小旛、威儀者棒持者が中庭左右に居並んだことになる。
即位の礼委員長海部俊樹首相ら三権の長が正殿に向かって左側回廊から松の間に入った。
続いて男子皇族が入場、そして同年6月29日結婚されたばかりの秋篠宮紀子妃ら女子皇族が
位置に着いた。男子皇族は束帯を着用し、これまで永らく陛下が着用されていた黄丹袍(おうにのほう)は
いまや徳仁親王が身に着けて陛下の前に、女子皇族は十二単姿で皇后の前に列立する。
天皇は黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)に立纓冠(りゅうえいのかんむり)で高御座に立ち、
皇后は五衣・唐衣・裳(十二単)の正装で御帳台に昇る。
高御座は総檜木づくり三層の継壇上に八角形の屋根を据えた構造。
幅六メートル、奥行き五・四メートル、八トンで高さ六メートルの頂点に大鳳凰が乗っている。
鏡・玉・小鳳凰で飾られ、深紫を表とし、濃い朱色を裏地とした帳(とばり)が正面と斜め左右だけ
開けてある。畳二枚の上に陛下のいすが置かれている。御帳台は一回り小柄で、
天井に鏡が張っていない。
新天皇は、「さきに、日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、
ここに『即位礼正殿の儀』を行い、即位を内外に宣明いたします。
このときに当たり、改めて、御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、
国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、
日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智と
たゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と
繁栄に寄与することを切に希望します」
と宣じた。昭和天皇の場合は難解な勅語であったから、平明な話し言葉に時代の変化が読み取れた。
海部首相が寿詞(よごと)を述べ終わると、三、四歩下がり、「ご即位を祝して」との言上を合図に
万歳三唱が参列者から沸き起こる。零時五十分の首相入場から数えて午後一時四十分、
予定より十分食い込んで即位式は終了した。

(大嘗祭)
新帝の即位の礼の年に行われる新嘗祭を大嘗祭という。天皇がその年の新穀を神々に供え、
五穀豊穣を感謝し、それを神々と共に食するのが新嘗祭であり、日本の収穫祭である。
皇室ばかりでなく広く日本人の伝統的な習俗の中にその源泉をもっており、大嘗祭は
それを大きくしたもので、基本的には変わらない。
皇位継承儀礼に国費から捻出された総額123億円の費用は大嘗祭も含んでの額だった。
皇居東御苑に大嘗宮域が、東に悠紀殿(ゆきでん)、西に主基殿(すきでん)、
北に廻立殿、外部に幄舎を造成して形を成した。間口95メートル、奥行き99メートルの大嘗宮であった。
皮付きの木材が柱に使われ、屋根は茅葺、床は竹張りがしてあった。その上に莚あるいは近江表が敷かれ、
屋根には古代の殿舎を模して千木と勝男木が乗った。
即位礼から十日後の11月22日午後6時半、純白祭礼服に身を包んだ天皇が前後に剣璽を持つ
侍従らを従え廻立殿から悠紀殿に着いた。かがり火だけたかれた荘重な雰囲気に囲まれて
悠紀殿供饌(きょうぜん)の儀が始まった。
全国民がテレビの前に釘付けになった。陛下は采女(うねめ)(饌女とも書く)の助けで
秋田県で収穫された新穀、白酒、黒酒、果物、調理した鯛など神饌を神座脇に供えた。
拝礼の後、お告文(つげぶみ)を述べ、新穀と酒を口にされ、儀は午後9時過ぎ終了。
さらに日が変わって午前0時半から三時間ほどかけて今度は主基殿供饌の儀が大分県農民が
生産した新穀を使っておこなわれ、天皇は天照大神に供え、国家の平安を祈り五穀豊穣に感謝した。
これが皇室の秘儀とされるのは、新天皇が皇祖天照大神を招じて魂の一体化を実現する
一夜の宴が、注目されるからであろう。天皇となる皇子が“こもり”、そこで霊格を得る、
あるいは入魂の場を持つという解釈なのだが、厳格な儀礼に埋もれる何か温かな交流を見る思いで、
国民が注視している。非科学的なところに、とても捨て去れない物語性が認められ、
国家の神秘な部分が天皇の営まれる祭祀によって代表されていることを実感する。
大嘗祭こそ万世一系というか日本の同一性と連続性を保証している。国家という組織体には
物語部分が必要不可欠だと言ってもいい。それは神話と置き換えられる世界である。
国の持つ神秘性は最も純粋に日本的なものを守って継承してきた唯一絶対の日本人、
天皇によって体現され、国民と共にあろうとする象徴性に加えて伝統の守り手の側面を色濃くにじませる。
農商務が専門であり朝日新聞の論説委員も務めた民俗学者・柳田国男はこう書き残している。
「世界最古の国の公の御祭、起源もっとも遥かな大嘗祭にいつも常民生活と比べて、
多くの著しい一致を見出すkとは第一の神秘である。豊かな秋の収穫を終えて後、
直ちに新穀を取って酒を温め飯を炊き、神に感謝の祭りを申すことは、
今も村々の常の行事であって、ことに直会の古例を存する土地においては、
至尊御自ら執行させたまうところとほぼ様式を一にしている」

お二人の時代が到来したご大喪以降、初めて両陛下と旧華族との桎梏がとりはらわれる機会となったのが
平成の即位礼および大嘗祭であった。さまざまな役目は旧華族を召しだして依頼し、
仕事を割り振って協力を求めた。受けるほうも大きな伝統的式典の再現であり、
重々しい即位の大礼への関与であるから、光栄と感じて引き受けた。
壮大なドラマが完結したとき両陛下はねんごろに彼らの奉仕に感謝した。

神武東征  もう一つの天孫降臨族・長髄彦(ながすねひこ)との戦い

読む年表 日本の歴史
渡部昇一 WAC 2015年1月

神武東征 
もう一つの天孫降臨族・長髄彦(ながすねひこ)との戦い

神武天皇は「東征」を行って大和朝廷を建てる。日向国(現宮崎県)を出て北九州までは陸を行き、
そこからは船で瀬戸内海を行くが、まっすぐ東をめざしたのではなく、各地に立ち寄り、
大和に至るまで十年近くかかっているが、その間に大きな戦争の記載は『日本書紀』にないから、
その途中の土着の人々は大きな抵抗をすることもなく、天皇に従ったようである。
いよいよ河内国草香邑(日下村)の白肩津(しらかたのつ)に着き、生駒山を越えて
大和に入ろうとすると、土地の豪族長髄彦(那賀須泥毘彦)の軍隊がこれを迎え討ち、
孔舎衛坂(くさえのさか)で激戦になる。
このとき神武天皇の兄彦五瀬命(ひこいつせのみこと)の肘脛(ひじはぎ)に矢が当たり、
それがもとで彦五瀬命は進軍中に亡くなっている。
長髄彦は、やはり天孫降臨した饒速日命(にぎはやひのみこと)に仕える者で、
饒速日命は長髄彦の妹と結婚し、子供もいると記されている。
天孫降臨といえば瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)ということになるが、
それとは別に、饒速日命も、天磐船(あまのいわふね)に乗って河内に天降(あまくだ)っていたというのである。
これは、南方から来た日本の支配階級である「天孫降臨民族」が一つではなく、
いくつかの集団が日本に渡ってきていて、河内のあたりに先に来ていた一族の者が、
土着の強力な酋長の妹と結婚したということではないだろうか。
つまり、その酋長が長髄彦というわけである。
苦戦を強いられた神武天皇は「自分は日神(ひのかみ)の子孫であるのに、日に向かって進み
敵を討つのは天道にさからっている。背中に太陽を負い、日神のご威光を借りて戦うのがよいだろう」と考え、
いったん船で紀州へ向かう。この紀国(きのくに)の竈山(かまやま)で、
孔舎衛坂の戦いで深傷(ふかで)を負った兄の彦五瀬命は亡くなり、この地に葬られた。
現在も和歌山市には彦五瀬命を祀った竈山神社がある。
熊野から大和を赴こうとしたとき、八咫烏という大きなカラスが現れて先導してくれたという。
これは山城(現京都府南部)の賀茂氏の祖であり、賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)の
祭神である鴨建津之身命(かもたけつねみのみこと)の化身だとも言われているが、
おそらく土着の人間が道案内をしてくれたということだろう。このときに大伴氏の先祖である
日臣命(ひのおみのみこと)が大軍を率いて八咫烏のあとにしたがい、ついに宇陀(現奈良県)に着いた。
いよいよ長髄彦との決戦に臨んだとき、金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、神武天皇の弓の先にとまった。
その鵄は稲妻のように光り輝き、長髄彦の軍勢は、目がくらんで戦えなかったという話が残っている。
明治以来、軍人に与えられる最高の名誉だった金鵄勲章は、この神話からきている。
結局、長髄彦は神武天皇を「天神の子」と認めたあとも改心しなかったということで、
これも「天孫降臨族」である妹婿饒速日命は長髄彦を殺して、神武天皇に帰順した。
この饒速日命が物部(もののべ)氏の先祖であるという。

陛下 初等科時代

平成皇室論 橋本明 朝日新聞出版2009年7月

陛下と私が学習院初等科に入学したとき、山梨勝之進海軍大将が学習院院長。
前職の十六代院長野村吉三郎は駐米大使に転出していった。
昭和15(1940)年春、級友は東組西組合計67人だ。六年間を半分ずつ東西に分け、
常時東組にいることになった明仁親王と3年はご一緒するという工夫がなされていた。
私は東組だった。親王は車を使わず、赤坂御用地内東宮仮御所から徒歩で離宮近くを通り
権田原から四谷をつなぐ道路を渡り初等科東にあった小門から入って通学した。
ランドセルを背負い、短パンに赤線で縁取った海軍式制服を着用して。
警備などはほとんど無く、東宮傅育官一人が付くだけ。校庭を斜めに突っ切って来る具合だった。
教室に入ると前門のオオカミは秋山幹主幹、鈴木弘一国語教授であり、
後門のトラは傅育官(東園基文、村井長正ら)だった。常にはさまれて勉強した。
姿勢が悪いと彼らは遠慮会釈なく宮の背中を叩いた。
東組は玄関上の貴賓室隣にあり、東側奥に傅育官用控え室が配されていた。
初等科を特徴付けた精神面の鍛え方に「教学聖訓」と「科訓」がある。
軍人勅諭、教育勅語、学習院に賜る令旨などを詰め込んだ和綴じの文書が「教学聖訓」。
ほかに乃木希典が遺した不文律の教え「科訓」が存在した。
乃木は質実剛健を旨とする教育方針を貫いた武人である。
日露戦争で旅順陥落直前、無為に数万の兵士をあの世に送った直情径行の無策将軍。
凱旋後明治天皇に詫びを乞い、ご大喪に際して妻と共に殉死した陸軍大将。
生前天皇から学習院で皇孫裕仁親王の初等科教育を任され、
在職中実行した諸々の言辞が科訓の内容をなしている。
「寒いときには暑いと思え」「破れた着物を着るのは良くないが、つくろってあれば恥じることはない」
といった教えから、一日を登校、在校、帰途、家庭に分け、あるべき言動を記してある。
「先生に会ったならば大きな声でおはようと申し上げよ」
「集合時間が決まったら遅くとも五分前に到着せよ」などなど。
山梨はわれわれ級友を皇太子が送る生活圏の一つとみなし、
東京都四谷仲町に新築となった鉄筋コンクリート三階建て校舎で
「厳格を旨とし、一般学生と差別せざること」を大方針として明仁親王の基本教育とした。
戦争中のこととて、学校行事としての見学先は富国強兵策に沿った産業、軍事施設が多く、
ときたま新宿御苑で豚汁をすすりながら行進するなどもあった。時局暗転に応じて学童疎開が始まる前、
初等科四年生の夏は慣例に従い静岡県沼津市桃郷の遊泳場で一週間の集団生活を送り、
皇太子も積極的に参加した。
昭和19(1944)年、五年生の春、われわれはこの遊泳場に疎開し、サイパン陥落まで滞在した。
海軍中尉で戦艦三笠に座乗、日本海海戦に参戦した山梨が青空教室よろしく敵前回頭を敢行して
バルチック艦隊を葬った海戦の模様を講義するなど、子どもらは手に汗を握る臨戦感覚を味わったりした。
サイパン玉砕後は一時親元に帰り、9月初め、上野駅に集合して栃木県の日光金谷ホテルに再疎開している。
非常時の暮らしを共にするわれわれは同じ釜の飯を食った仲間となる。
強烈な靱帯で結ばれ、友情を育み、生涯の友となる基礎を築いたのだった。

銀ブラ

平成皇室論
橋本明 朝日新聞出版2009年7月

私は学習院高等科三年生三学期期末試験終了日、陛下と決行した「銀ブラ」を思い出した。
遡ること57年前の昭和27(1952)年2月末。東宮職職員を欺いての外出には、「決行」という
悲壮感漂う勇気と決断が必要だった。大層な悪事を働いたという感覚が私には未だにつきまとう。
このたくらみを先導したのは、実は陛下ご自身だった。
「東宮職の職員は侍従、侍医も含めて今日が一番ほっとしている。春休みが目の前だ。
休みが明ければ大学に進む。区切りがついたいまが、もっとも油断している」
凄い戦略家だと見直す思いだった。行き先を尋ねると、ガラスを切るような答えが返ってきた。
「銀座がよかろう」
もう一人の級友を引き込んで綿密な計画を立て、皇宮警察の側衛官一人に同行してもらうという
手を打った。決行はその日の夜。目白にあった学習院・清明寮を抜け出し、見つからないように、
ばれないように配慮して目白駅から山手線の内回り電車に乗った。車内は込み合い、
陛下はドア付近に立つステンレス棒を背にされたが、あれほどうれしそうな笑顔をみたことは
なかったと記憶している。新橋駅で降りて銀座を散策し、二軒の喫茶店に立ち寄った。
一軒目では陛下に気づいた支配人に挨拶され、早々に退散。
二軒目は「宮内庁御用達の洋菓子店」という陛下の情報を得て「コロンバン」へ。
一同の所持金を使い果たし、有楽町駅から山手線外回り電車に乗り目白駅で下車。帰寮は午後11時ごろだったと思う。
寮にはすでに側衛官から連絡が入っており、大変な騒ぎになっていた。陛下は自室に消え、
カギをかけて閉じこもった。私と級友の二人は、「拉致」「監禁」「逮捕」といっていいような扱いを受け、
偉い方々に謝って回った。東宮大夫には「労働運動はなお苛烈であり、
ご身分がばれて労働者に取り囲まれるようなことが起こったらなんとするつもりであったか」と
誅された。大夫は怖かったのだ。戦後、民主主義国家となった日本では、戦前の「格差社会」を
是正する大きなうねりがあった。国内では労働争議が噴出し、昭和24(1949)年7月には
人員整理の先頭に立った日本国有鉄道初代総裁・下山定則が轢死体となって発見された。
一方、米議会では共産主義者を訴追する「レッド・パージ」が起こり、
その空気が日本にも伝わる不穏さがあった。
陛下は最後まで周囲からの批判に対して黙し、妥協を拒んだ。
あの反抗精神は、独立への助走だったと私は理解している。
当時の東宮職内部にも「よくやった」と理解を示してくれた職員も何人かいた。

これに対し、昨今の東宮ご一家の外出は、あまりに気楽な日常茶飯事めいていて、
根源的に我々の悪餓鬼時代に敢行された銀座行きとは異なるようにみえる。
むろん、外食や観光、実家の親族との触れ合いといった息抜きぐらいはいいではないか、
という意見もあろうが、私には違和感が残るのだ。
「従来の公務を縮小する場合には、時期的な問題や要請した側への配慮を検討し、
無責任でない形で行わなければなりません。《時代に即した公務》が具体的にどのようなものを指すかを示し、
少なくともその方向性を指示して、周囲の協力を得ていくことが大切だと思います」
陛下は平成16(2004)年、71歳の誕生日前に宮内記者会から出された質問に
こう文書で回答を寄せた。「時代に即した新しい公務」を求めた皇太子ご夫妻に、
勝手は許されないとモノ申された形だった。天皇皇后と皇太子ご一家にこの年支払われた
内廷費は結婚前の紀宮清子内親王(現・黒田清子)を含めて総額3億2400万円だった。
当時まだ四人構成だった秋篠宮家に支払われた皇族費は5000万円である。
5億円を超えるという予算での東宮御所改装も平成20(2008)年秋に実行された。
さらに近年の東宮ご一家については、第一位皇位継承者を擁するとはいえ過剰とも思える警備が
完璧に行われる。また東宮ご一家のお出かけ先は、東宮ミッドタウンや六本木ヒルズ、
青山・表参道や丸の内、恵比寿ガーデンプレイスでのクリスマスのイルミネーション見物など、
華やかな観光名所が多い。いやがうえにも目立つうえ警備も大規模になり、
場合によっては居合わせた人たちに迷惑をかけることになる。
行楽地への私的外出の皮切りともいえるのが、平成18(2006)年3月、東京ディズニーリゾート行きだった。
敬宮愛子内親王の幼稚園入園を前に、普通の子と同じような体験を積ませたいというご夫妻の発案だった。
ご一家は雅子妃の妹・池田礼子母子や職員とともにアトラクションカーや園内を走る列車で移動し、
来園者に手を振った。
この月、東宮ご一家は愛子内親王の友人家族らとともに休園日の上野動物園でも遊んだ。
その翌日、天皇皇后両陛下はヘリコプターに分乗し、噴火の続く三宅島を視察。
親子間の落差が目立つ日程であった。
東宮ご一家のオランダ静養が発表されたのは、同年6月23日、陛下恒例の祈りの日の一つ、
「沖縄慰霊の日」午後2時半だった。16日に皇后が風邪に伴う口唇ヘルペスの症状をおして
香淳皇后例祭のお務めをされたのに、雅子妃は欠席だった。
病気療養中とはいえ、私には落差があるように感じられた。

「水俣は見捨てられたんですね」 天皇陛下、患者に心寄せ続け

18:02 2018/04/02
2018年04月02日 06時00分

不知火海の向こうに天草の島々が見える。熊本県水俣市の水俣湾埋め立て地。
水俣病を引き起こしたメチル水銀が今も、コンクリートや土砂で封じ固めた地下に眠る。

2013年10月27日、天皇、皇后両陛下は初めてこの地に立たれた。
「語り部の方々とお会いしたい」。
陛下の意向が県を通じて市立水俣病資料館の島田竜守前館長(53)に伝わったのは訪問の約2カ月前だった。
宮内庁とやりとりする中、陛下の水俣に対する思いを伝え聞いた。
「機会があればぜひ、水俣に行きたいと思っていた」
「胎児性患者たちと皇太子の年齢が近く、水俣病は身近な問題と感じる部分があった」−。

島田さんは緊張の面持ちでその日を迎えた。陛下の資料館滞在は51分。
1956年の水俣病公式確認から68年の原因確定までの経緯を説明している時だった。

「水俣という場所は、見捨てられたんですね」
陛下の問い掛けに、島田さんは言葉を詰まらせた。
背後には国や県の関係者がずらりと控えてもいた。答えに窮した島田さんに、陛下は繰り返した。
「水俣は、見捨てられたんですね」

水俣病問題の核心を突く陛下の言葉だった。
59年、熊本大医学部の研究班が水俣病の原因をチッソの工場排水による有機水銀と突き止め、
チッソもネコを使った実験で把握していた。それでも、原因確定まで9年が費やされた。
「はい、そうです」。ためらいつつ、島田さんはそう答えた。
「陛下はよほど事前に勉強されたのだろう」と身を硬くした。
水俣には陛下の父、昭和天皇も戦前と戦後の2回、訪れている。
49年6月1日、九州巡幸中に日本窒素肥料(現チッソ)の水俣工場を視察した際、
昭和天皇は「日本再建、生産増強のためしっかりお願いします」と激励の言葉を掛けたと、チッソ社史にある。

「誇りに思った」。
38年に入社し、南太平洋の激戦地から帰還して建築係にいた西川登さん(96)=水俣市=は振り返る。
「天皇の来訪で会社も従業員も一気に増産意欲が高まった」
5カ月後、水俣工場は塩化ビニールの生産を再開。柔らかくするために用いられたアセトアルデヒドの製造過程で、
メチル水銀が生じた。戦後復興と高度経済成長を下支えした企業活動の裏で、犠牲になったものはあまりに大きかった。
「水俣は見捨てられた」と、2回も繰り返した陛下。どんな思いが込められていたのだろう。

   ◇    ◇

■「真実に生きる社会を」
実は、天皇ご一家と水俣の地には少なからぬ縁がある。
皇太子さまと雅子さまのご成婚が内定した1993年1月19日。
記者会見した宮内庁の藤森昭一長官(当時)は、お妃(きさき)選定の経緯を説明する中で、こう述べた。
「(雅子さまの)祖父の江頭豊氏が水俣病訴訟継続中のチッソの社長だったこともあり、交際は中断した。
(中略)江頭氏は水俣病の発生には関係なく、刑事責任はないことが明らかになった」
雅子さまの祖父、江頭氏はチッソの主取引行だった日本興業銀行(現みずほ銀行)からチッソ専務、
副社長を経て64年12月に社長となり、71年7月から約2年、会長を務めた。
この間、70年11月に大阪で開いた株主総会では、「一株株主」となって会場に入った患者、
家族から壇上で取り囲まれている。
こうした関係から、皇太子さまと雅子さまのご成婚には政府内に慎重論があった。
「皇居にむしろ旗が立つ」と言われた。
警察庁長官時代に水俣病闘争に直面した当時の法相、後藤田正晴氏も反対したとされる。
水俣の反応はどうだったか。作家、故石牟礼道子さんは本紙の取材に
「長い受難を引き受けた患者さんたちは、高くて深い見地から人間を理解し、
慈しみの気持ちを持っておられるから、心から祝福されていると思います」と答えている。

かねて水俣病に苦しむ人々に心を寄せられていたとされる天皇、皇后両陛下。
水俣訪問はしかし、長く実現しなかった。95年に未認定患者の政治解決策がまとまり、
一部訴訟を残し「和解」が成立した後も、「水俣が訪問先に挙がった記憶はない」と元政府高官は語る。
元宮内庁職員で、皇室ジャーナリストの山下晋司さん(61)は
「加害者と被害者が共存する公害問題を、公平性を重視する皇室は扱いにくい」と説明する。
患者闘争のリーダー、故川本輝夫さんは陛下の訪問を望んでいた。
長男愛一郎さん(60)は「父は元々軍国少年。水俣病事件に巻き込まれるまで祝日に日の丸を掲げていた」と明かす。
同志の志垣襄介さん(73)=水俣市=の手元に、川本さんが陛下宛てに手書きした「請願書」の写しが残る。
かつて、足尾鉱毒事件の被害を明治天皇に直訴しようとした田中正造をほうふつさせる企てだった。
「一、政府に対し人道上、人権上の問題として御提言をしていただくこと。
二、水俣病発生地域の実情視察にお出でいただくこと」
仲間内にも反対意見が強く、実現しなかったが、愛一郎さんは2013年、
水俣を訪問された両陛下と言葉を交わすことになる。
「お父さまが亡くなられて何年になりますか」。思いがけない皇后さまの問い掛けだった。
水俣市立水俣病資料館の語り部として面会した愛一郎さんは、
面識もない父のことを皇后さまが知っていたことに驚き、救われる思いがした。
語り部の会の緒方正実会長(60)が「正直に生きる」と題して講話した後、天皇陛下は語った。
「真実に生きることができる社会をみんなでつくっていきたいと改めて思いました」
「今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています」
陛下が公式の場で、水俣病に関して語ったことはほとんどない。異例の発言は1分間に及んだ。

   ◇    ◇

水俣病は水銀に汚染された魚介類を介し、人に発症した。魚類学者でもある陛下は初訪問した後、歌を詠み、
13年12月に熊本県に伝えた。
「二度とこの悲劇は繰り返しません」と書かれた慰霊碑近くの歌碑に、刻まれている。

 《あまたなる人の患ひのもととなりし海にむかひて魚放ちけり》

=2018/04/02付 西日本新聞朝刊=

https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/405398/

甘えるミーコに皇后さまにっこり

2011年1月6日
動物園ひと物語:宮崎市フェニックス自然動物園/4 /宮崎 - 毎日jp(毎日新聞)
<祝40年> ◇開園時からの最古参−−長友茂美さん(58)=飼育員

甘えるミーコに皇后さまにっこり
1973年4月10日、毎日新聞社会面にクモザルを抱いた香淳皇后と昭和天皇の記事が写真付きで載った。
この年、全国植樹祭で宮崎入りし、動物園にも足を運ばれた。
クモザルは皇后が抱き寄せたのではない。突然、飼育員の手を離れて飛びついたのだ。
記事はこう伝えている。
<南米クモザルのミーコがひょいと皇后さまの胸へ。
皇后さまは驚かれて二、三歩あとずさりされた……
すぐ笑いが皇后さまのほおに返り、お孫さんでもあやすようにミーコの背中をポンポン>
侍従のコメントが面白い。
<こんな派手な抱きつかれ方は“皇室開びゃく以来”のことです>
この時の飼育員が長友さんだった。高校を出て3年目の春。
「しまった。引っかきでもしたら事だ」と冷や汗が流れた。
しかし、皇后は「孫のあーや(秋篠宮さま)に持って帰りたい」と優しくなでたという。
あとで園長から「とんだハプニングだったな」と肩をポンとたたかれたが、
今となっては懐かしい思い出だ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110106-00000202-mailo-l45

宮中祭祀というブラックボックス

宮中祭祀というブラックボックス
対談
原武史
保阪正康
(二〇〇四年十二月二十四日 講談社にて)

今上天皇の意外な顔

編集部 さて、こんどは読者のために「平成皇室の謎」についておおいに語っていただこうという趣向であります。
思えばここ数年、皇室関連のニュースが大きく報じられております。
それは二〇〇四年五月の皇太子による「雅子のキャリアや人格を否定する動きもあった」という衝撃の発言にはじまり、
十一月の秋篠宮の「(皇太子発言は)残念だ」との言葉、そして……。

保阪 天皇誕生日の「皇太子の発言の内容については、
その後、何回か皇太子からも話を聞いたけれども十分に理解しきれぬところがある」という旨の文書回答ですね。

編集部 そうです。しかし一連の皇室報道に接していても、どうもよくわからない。
なにやらもどかしい思いを抱く人は多いと思います。
そのもどかしさを少しでも解くためには、
いまの皇室と昭和前期の皇室を比較することが有効なのではないかと考えます。

原 『昭和史 七つの謎』(講談社文庫)Part1の帯の文句に
「いまだ過ぎ去ろうとしない『昭和』」というのがありましたが、
皇室においてもまさにそのとおりだと思いますね。

保阪 同感です。原さんは雑誌『アリエス』二〇〇四年秋号(講談社)に
「宮中祭祀というブラックボックス」という、
きわめて興味ぶかい一文をご発表になられましたね。
あれはこれまで誰も指摘していない重要な論点の提起だと思います。そこから話をはじめませんか。

原 そうしましょうか。

保阪 あそこで原さんは学者らしく慎重な言いまわしながら、
宮中でおこなわれている祭祀にたいする認識の「温度差」が
雅子妃を精神的に追いつめている可能性があることを指摘された。

原 はい。まず確認しておくべきなのは、現天皇と現皇后が祭祀にものすごく熱心だという事実です。
現天皇と現皇后は、どこかの県を訪問するとか、外国訪問も含めてですが、
すべてのスケジュールを宮中祭祀にあわせるんです。
とにかくこれを最優先する。場合によっては、午前中に祭祀をすませて、
そのあと新幹線で移動するとかいうようなことまでしています。

保阪 ちょっと意外ですね。一般的に現天皇は、ヴァイニング夫人に教育を受け、
即位のさいには「日本国憲法を守る」と発言したように、
ある意味でリベラルな「戦後民主主義の申し子」だと思われていますよね。
最近では園遊会で、日の丸・君が代の強制は望ましくないと、
棋士で東京都教育委員の米長邦雄さんをやんわりたしなめた。

原 しかし、それは外に見せる顔であって、もうひとつの内側の見えざる天皇というものをもう少しきちんと見ないと、
いま皇室のなかで起こっていることはなかなか理解できないのではないかと思うんです。


出欠表をつくってみると

原 それでね、『アリエス』に掲載した「天皇、皇后、皇太子、
皇太子妃の宮中祭祀出欠表(一九九九年から二〇〇三年まで)」に
秋篠宮夫妻の出欠も加えて、よりくわしいものをつくってみたんです。
saisi.jpeg

大祭に当たる祭祀だけを掲げましたが、女性皇族が出席できない新嘗祭のような祭祀は除外しました。

保阪 どんな資料をお使いになったんですか。

原 宮内庁のホームページにある天皇夫妻や皇太子夫妻の日程表には、
宮中祭祀についての記載はいっさいありません。
なので『アリエス』の段階では神社本庁の機関 紙『神社新報』や、
日本青年協議会の月刊誌『祖国と青年』などをもとにしました。
その後、『わたしたちの皇室』およびこれを改めた『皇室』という雑誌に、
天皇、皇后、皇太子、皇太子妃だけではなくて、
秋篠宮とかほかの皇族の動静も書いてあることがわかりましたので、それを使いました。
ただ、これも現天皇の 在位十年を記念して創刊された雑誌なので、それ以前についてはわかりません。

保阪 それは残念。

原 この出欠表を見るとわかりますように、
天皇は二〇〇二(平成十四)年十二月の賢所御神楽の儀までは全出席なんですね。
即位してから十年近くも皆勤です。一九 九八(平成十)年四月の神武天皇祭で初めて休んだんです。
それはたしか風邪をこじらせたか何かの理由。
後で触れるように、昭和天皇も最晩年まで祭祀にはこだわりますが、
現天皇の祭祀にたいする熱心さは非常に突出していると思います。

保阪 二〇〇一(平成十三)年は他の年に比して儀式の数が少ないようですが。

原 それは香淳皇后の服喪のためです。二〇〇〇(平成十二)年六月に死去しましたので、
それから一年間は祭祀に出席していません。

保阪 なるほど。その翌年の二〇〇二年末に天皇が前立腺がんであることが発表になって、
二〇〇三(平成十五)年一月十六日に東大附属病院に入院、
翌々日の十八日に 前立腺の全摘出手術をして二月八日に退院しています。
六月の香淳皇后三年式年祭には出ているわけですから、退院後四ヵ月での祭祀復帰はたしかに熱心といえますね。
しかもその後はずっと皆勤になっている。
それと表を見ますと、美智子皇后の動静も興味ぶかい。

原 天皇の入院・療養中、一月から五月まで皇后は皆勤です。
そもそも皇后は、一九九九(平成十一)年七月にお父さんの正田英三郎さんが亡くなって服喪していた例を除けば、
ほとんどすべて出席しているんです。

保阪 なるほど、ご夫婦そろってほぼ皆勤ですね。かたや皇太子と雅子妃なんですが……。

原 皇太子は二〇〇二年一月の孝明天皇例祭と十二月の賢所御神楽の儀には欠席しています。
皇太子妃は表をご覧ください。
たとえば二〇〇二年十月の神嘗祭以降、二〇〇三年一月七日まで四回連続して欠席なんです。

保阪 神嘗祭、賢所御神楽の儀、元始祭、昭和天皇祭。

原 この四回がなぜ欠席なのか。その前の二〇〇一年から二〇〇二年にかけての欠席は懐妊、
内親王出産後しばらく静養していたということで説明できる。
しかしこの四回の欠席理由は、皇太子とともにニュージーランドを訪問した
二〇〇二年十二月の賢所御神楽の儀を除いてわからないんですね。
しかも秋篠宮はこの賢所御神楽の儀に出ている。

他の皇族は

保阪 秋篠宮夫妻はずいぶん熱心に出席していますね。

原 そうです。他の皇族でいちばん熱心なのは秋篠宮夫妻と紀宮。
次いで常陸宮夫妻。三笠宮家は必ずしも熱心ではない。

保阪 お父さんの崇仁殿下? それとも寛仁殿下?

原 オリエントのほうの三笠宮は高齢のせいもあるのでしょう、あまり出てこない。
ヒゲの寛仁さんだって、秋篠宮に比べれば明らかに頻度は落ちます。桂宮病気だからもう全然出てこられない。
むしろ亡くなる前の高円宮夫妻の方が熱心に出席していました。

保阪 庶民でいえば、さしずめ法事に兄夫婦が欠席で、
弟夫婦のほうはよく顔を出しているということですか。

原 まあ、そんな感じかもしれません。
通常ならば当然出席しなければならないはずの祭祀に、この時期は欠席をしている。
ともかく表全体の傾向として、皇太子妃は年があらたまる前後の時期、
つまりその前の年の十一月ぐらいから一月ぐらいにかけて、
言葉はわるいんですがどうも「休みぐせ」がついているように見える。
からだのリズムができてしまったのかなという感じがするほどです。

保阪 帯状疱疹で入院したのもやっぱり二〇〇三年の十二月でしたね。

原 そうです。これ以降、皇太子妃は長期の静養に入り、祭祀にはまったく顔を出さなくなります。 
皇太子妃は、だんだん年が押し詰まってくると、体調がすぐれなくなる傾向があるような気がします。
たしかに十二月から一月にかけてはわりと行事が多い。内親王の誕生日もある。自分の誕生日もある。
いうまでもなく天皇誕生日もあるし、一般参賀もある。心身ともに疲労してもおかしくはない。

保阪 行事、行事の連続でたしかにたいへんですよ。


入院中に何かが起きた!?

保阪 さて、いまのデータをもとに、原さんは重大な示唆をなさっていますよね。
「天皇入院中に何かが起きた!?」と考えられる……。

原 いや、そこまでは(笑)。

保阪 ぼくはジャーナリズムの側にいる人間だから、学者の原さんのいいにくいところをズバリいえば(笑)、
天皇不在中に、祭祀になかなか出てこない皇太子妃にたいする不満を、
皇后が皇太子に向かってぶつけていた可能性がある。
美智子皇后は皇太子を場合によっては叱責したのかもしれないですね。

原 天皇が入院、療養しているあいだのすべての祭祀に皇后と皇太子は出席していますが、
皇太子妃は一月の元始祭と昭和天皇祭、三月の春季皇霊祭・春季神殿祭、
五月の開化天皇二千百年式年祭に欠席していることは事実です。

保阪 この間は皇后と皇太子だけでおこなっている祭祀がわりと多い。
下世話にいえばもともとお嫁さんがなにかの理由で欠席がちで、
舅と姑と息子で儀式をおこなって いたところに舅が入院というわけだ。
俗なことをいいますが、天皇は雅子妃にたいして、それまでものわかりがよかったということなのかもしれませんね。

原 天皇のほうが、この表を見ていると少し寛大だったのかなと。私の印象はそうです。
その天皇が病気で不在になって、祭祀において皇后にかかってくる比重が当然大きくなるわけでしょう。
その傍らに皇太子しかいないというような、明らかに二〇〇二年までとは違った状況になったときに、
皇后と皇太子のあいだに、なんらかの感情的なやりとりのようなものはなかったか。
もちろん、これはひとつの推測にすぎませんが。

保阪 このことについて、皇室ジャーナリストのだれもきちっと書いていないんでしょう?

原 書いていません。ぼくは、皇室を論ずる場合、
宮中祭祀の問題は非常に重大、重要だと以前から思っているんです。
祭祀においては、秋篠宮とかそれ以外の皇族は 後ろに控えているだけです。
じっさいに大祭で宮中三殿に上って拝礼をおこなうことができるのは、
天皇、皇后、皇太子、皇太子妃の四人だけなのです。

保阪 いちおう宮中三殿を説明すると……。

原 伊勢神宮の神体である八咫鏡の形代を安置した賢所、歴代の天皇や皇族を祀る皇霊殿、それと神殿です。
皇居の南西、宮殿の裏手にありますが、ここは天皇家にとっての聖域であり、
そこに上る者には大きな責任のようなものがある。
それを二人だけでおこなわなければならない。美智子皇后がそれを重く感じたことはまちがいないでしょう。

保阪 「自分は宮中入りして以来、こんなにがんばってきたのに」と思ったかもしれない。
そういう感じは受けますよね。

原 ここで思い出されるのが、昭和初期の昭和天皇と母の貞明皇后との関係なんです。

保阪 貞明皇后が、昭和天皇にたいして「ほんとうに神を敬わないと神罰があたるぞ」といった話ですね。

原 そうです。おうおうにして、外から旧家に入って、
もともとのメンバー以上に熱心にイエのまつりをするようになった母親というのは、
イエの本来のメンバーである子どもにたいして、かなり率直に、ストレートに不満をぶつけることがある。

保阪 一種の過剰同調というのかな。まさに日本最古の旧家だからね。

原 貞明皇后にいわせれば、祭祀とはまちがいなくおこなうだけではダメなんです。
そのぐらいはできて当然。
そこにプラスして「祈る」という行為のうちに、
ほんとうにアマテラスなり皇祖皇宗を畏れる気持ちがあるかどうかが大事であって、
昭和天皇にはそれがないと叱ったわけです。
その背景にあったのが、大正天皇の病気が悪くなるとともにのめり込んでいった、
筧克彦のいわゆる「神ながらの道」でした。

保阪 貞明皇后は大正天皇が亡くなったあと、ある一室に、ほとんどだれも入れないで
大正天皇の遺影を置いて会話をし、心を通わせていたという。
ある意味で尋常でな い空間かもしれませんね。そのような志向をもっている人だから、
彼女にとっては、礼拝の式のひとつひとつの行動のうちに、
それが真剣かどうか、彼女なりに 見抜く目があるわけでしょう。
あれはたんなる形式だけではないか、心がないではないか、
敬うものがないではないかと。だけど考えれば、それはかなり主観的ですよね。

原 そのとおりです。ですから『対論 昭和天皇』(文春新書)でもひとつの推測をいいましたが、
なぜ貞明皇后が「神ながらの道」や祭祀にのめり込めたかというと、
ひょっとしたら彼女は努力すれば自分がアマテラスになれるかもしれないというような
気持ちがあったのではないかと思います。
天皇の場合は、皇后のように努力を重ねてそこまでのぼるということをしなくても、
生まれながらにして「神々の子孫」です。
そういう資格をもった存在であるにもかかわらず、
神々というものをきちんと実感しないで祭祀をおこなうなんていうことは許せないというか、
貞明皇后には考えられないわけですよ。そこから息子の昭和天皇にたいして強い態度に出てくるわけです。

保阪 宮中祭祀への熱心さということをめぐる力関係において、
少なくとも主観的には貞明皇后のほうが昭和天皇より上位にあったということになりますね。

原 そうですね。のちに昭和天皇は神器に執着するようになっていくのですが、
それも貞明皇后の感化ということがどうしても考えられるわけです。
昭和天皇がさしたるきっかけもなく、あれだけ生物学の研究に熱中していたのに、
それをだんだん振り捨てて神に祈るようになるというのは、
自力でというか、自発的にそうなったというよりは、
貞明の感化を受けて、しだいにそうなっていったというほうが……。

保阪 納得しやすい。

原 そうです。理解がしやすいんです。


「祈る」ということ

保阪 いまの美智子皇后は貞明皇后の置かれていた立場に近いのかもしれない。
皇后は祭祀を何年もおこなっているから、祈りが本物か見抜く力がある。
しかるに皇太子妃は見抜くも見抜かないもなくて、そもそも祭祀の席に来ない。

原 そう、来ないんです。
それに出席したとしても、問題はその先ですね。
まちがいなく拝礼ができるようになったとしても、プラス、そこに畏れる、さっき神罰といいましたけれども、
そういうものをちゃんと認識できるか否かというところが問われているのですから。

保阪 その点が大きな壁なのではないでしょうか。

原 そう思いますね。それでね、「祈る」ということがどういうことなのか、
美智子皇后は皇后なりにたぶんわかっていると思うんです。

保阪 美智子皇后は聖心女子大を出ていて、
カトリックで、クリスチャンじゃないかということで一時期は皇族たちに疑いの目で見られたこともありました。
宮中には、一方でキリスト教人脈もあるように思いますし…。

原 祈る対象はカトリックの神ではなくなったけれども、
祈るという行為そのものにたいする順応性はもともとあったと思うんですよ。
もちろん、対象は皇祖皇宗、い わば歴代の天皇であり、八咫鏡であり、
アマテラスであるわけだけれども、そういうものに向かって祈りつづけるということが、
同時に国民の平和を祈るということでもあるという、合理的な説明ができないけれども、
それを受け入れる素地、素養というものが皇后にはあったのではないか。
高橋紘によれば、皇后は若い ころ、「皇室は祈りでありたい」と語っていますし、
元東宮大夫の鈴木菊男には、ある事態が起きたとき最上の解決法を決めるのは「国の叡知」だが、
皇室の役 目は「善かれかし」と祈り続けることではないかと話したそうです。
それにたいして雅子妃の場合は、たしかに田園調布雙葉学園は出ているけれども、
少なくとも大学はハーバードとか東大にいって、
そういう意味では西洋近代的、 合理主義的な考え方を身につけているのではないか。
そこは美智子皇后と、育った環境も違うし、その志向性も相当違うのではないかという印象を、
ぼくはもっているんです。
雅子妃の場合に、なぜこのような祭祀をするのか、いくら考えてもたぶん理解できない。
理解できないことを、どうしてこんなに繰りかえし繰りかえしおこなわな ければならないのか。
どこかでそれに、どうしても耐えられないというか……。
たぶん、祭祀の拝礼のしかたひとつとってもかなり細かい決まりのようなものがあり、
天皇がまずそれをおこない、そのあと皇后がおこない、
それから皇太子夫妻が二人でおこなうのでしょうけれども、順序からして、
皇太子妃が、周りから 見られているなかで身体作法にきちんと則ってやるということの、
つまり、ある種の権力空間に身を置くことの苦痛というのは、かなり大きかったのではないでしょうか。

保阪 それがからだに出てくるというわけですか。口には出さないけれども。

原 もちろん推測ですよ。

保阪 しかし皇室行事の重要性について、雅子妃は結婚する前にいろいろ聞いているはずでしょう。
それを彼女自身が認識していないのか、
あるいは皇太子が、疲れているなら休んでいいよというかたちで、言葉はわるいけど少々甘く考えているのか。
たしかにそのような推測をする向きもあります。

原 皇后から見ると、もしかすると、ナアナアでやっているように見えるのかもしれないし、
天皇もひょっとしたらそういうふうに考えていたのかもしれない。

保阪 こうなってくると、いまの天皇の祭祀への姿勢がなおさら気になってきますね。
父・昭和天皇がおこなっていたことを手本にしているのか。
あるいは、これだけは必ずおこなえよと父から固くいわれていたのか。そのへんが知りたいところですね。

原 当然、昭和時代は昭和天皇夫妻が祭祀をおこない、現天皇夫妻は皇太子夫妻として参加していたわけです。

保阪 香淳皇后からキツイことをいわれたりしたのかしら。
昭和三十四(一九五九)年のころの、香淳皇后と美智子妃の関係や、
天皇と皇太子の祭祀をめぐる事情を調べたらいいかもしれませんね。
当時のそれぞれの祭祀出席率がわかるとありがたい。
たぶんきちんと出ていたんでしょう。

原 昭和天皇の侍従長だった入いり江え 相すけ政まさの日記などにあたれば、もちろん記録はあります。
だけど、その日に祭祀をおこなった、天皇が来たというところまでは書いてあるけれども、
皇后や皇太子や皇太子妃はどうだったかというところまではあまり書いていない。
そこまではたぶん厳密にはわからない。
ただ、入江日記には祭祀のあり方をめぐって、
昭和天皇と香淳皇后の間にも温度差があったことが示唆されています。
それが表面化するのは、入江が「魔女」と呼んで毛嫌いする女官の今城誼子の記述が目立つ
一九六〇年代から七〇年代にかけてです。
今城はもともと貞明皇后に仕えていた女官で、貞明皇后と同様に敬神の念が厚く、
をおろそかにするのを何よりも嫌っていました。
香淳皇后も今城を可愛がりますが、それは香淳が今城に感化されることでもありました。
入江は天皇夫妻がしだいに高齢化してきたのに伴い、
体力を要する祭祀を代拝にして負担を減らそうとし、天皇からは了解を得ますが、
そのたびに今城の抵抗にあい、皇后も「日本の国がいろいろ
をかしいのでそれにはやはりお祭りをしつかり遊ばさないといけない」
(『入江相政日記』一九七〇年五月三十日)と発言するなど、難色を示すのです。
入江によれば、今城は「真の道」という教団に出入りしていました。
聖徳太子を「聖の君」として仰ぎ、日鏡・月晶・神剣を神器として奉斎する教団です。
ただし 河原敏明は、『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』(講談社)のなかで、
これを入江の独断として否定し、今城が入信したのは「大真協会」という別の団体であり、
実は皇后も信者であったという驚くべき説を紹介しています。
まるで『対論 昭和天皇』でも取り上げた松本清張『神々の乱心』の戦後編のような話ですが、
実はこの説は一九八三(昭和五十八)年の『週刊新潮』にすでに出ており、
それを真っ向から否定する入江の談話も掲載されています。
なお大真協会という団体はホームページもなく、実態がつかめません。
結局、今城誼子は入江ばかりか天皇からも嫌われ、一九七一(昭和四十六)年に罷免されます。
『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』には、
皇后が今城を「良き時期に再任」すると確約した直筆の手紙が掲載されています。
しかし皇后の思いもむなしく、今城は再任されませんでした。
そして皇后の痴呆が目立ちはじめるのは、ちょうどこのころからなのです。
天皇は皇后のただならぬ様子に、明らかに動揺し、「お口のパクパク」が激しくなります。
いったんは了解した祭祀の簡略化に天皇が難色を示すようになるのも、それが影響しているのかもしれません。
ひょっとして昭和天皇は、大正天皇の脳の病気が進んだときに「神ながらの道」にのめり込んでゆく貞明皇后の心境を、
このとき初めて理解できたのではないでしょうか。

保阪 スゴイ話だ。やはり宮内庁には実録を早く完成してもらいたいですね。

原 まったくです。


宮内庁は知らせたくない

保阪 宮中でどのような祭祀がおこなわれているか、
その具体的内容は、いまだ充分に公開されてはいないわけですよね。

原 そうです。高橋紘のような、宮内庁に長らく詰めたジャーナリストや、
侍従長や侍従のような側近が多少書いてはいますが、
基本的にはまったくのブラックボックスです。
唯一の例外は、皇居東御苑でおこなわれた一九九〇(平成二)年十一月の大嘗祭で、
一部が公開されたことぐらいでしょうか。

保阪 天皇家の私的な領域にわたるというわけですね。当然、憲法上の国事行為ではない。

原 はい。宮内庁は宮中祭祀についてまったく公開していないんです。
象徴的なのは祭祀のおこなわれる場所である宮中三殿の扱いです。
宮内庁のホームページには「皇居案内図」が載っていますが、
宮中三殿が皇居内のどこにあるのかまったくわからない。
みごとなまでにその位置が抹消されているんです。
それから先ほども少し触れましたが、同じホームぺージには、天皇夫妻や皇太子夫妻の日程が公開されています。
クリックすれば日々の細かいスケジュールが出てきますが、そこにはひとつとして祭祀に関するものはない。
宮内庁は、とにかくこれをひた隠しにしているかというか、知らせたくないようなんです。

保阪 知らせたくないというのは、内部でいろいろな齟齬をきたしている側面があるということを
間接的に認めているというふうに解釈してもいいんでしょうか。

原 そういう見方もできると思います。

保阪 政府としてはホントにやっかいですね。これは大喪の礼のときに噴出した問題と同じです。
あのときも私的領域と公的領域とを分けたじゃないですか。
冷たい雨のなか幔まん幕まくのようなものをバラッと垂らして、ここから先は天皇家の私的領域だとした。

原 宮内庁は、できればああいったアクロバティックな論理をもち出さずに、そっとしておきたいのでしょう。

保阪 おそらくそうでしょうね。
ところで、祭祀の具体的内容については、うかがい知れぬことが多いとは思いますが、
たとえば着るものなどについてはいかがでしょうか。
まさかモーニングでということはないでしょうけれど、
衣冠束帯なのか、それともなにか白装束のようなものを着して、精進潔斎して儀式を執りおこなうのか。

原 昭和聖徳記念財団から出た『昭和を語る』という本に、
昭和天皇に仕えた卜部亮吾という侍従が皇室祭祀について語っているんですが、
天皇は祭祀では黄櫨染御袍を着ることが非常に多いとあります。
黄櫨染というのは黄櫨で染めた上に蘇芳を重ねた特殊な染色で、
この色の衣装は天皇だけのものだといいます。
祭によって装束が違うらしいんですが、だいたいは黄櫨染御袍を召して自ら祭典をおこなったり、
三殿に拝礼する。これはたぶんいまも踏襲されているのではないかと思うんですよ。
それから儀式の前には潔斎をするといいます。

保阪 それは天皇、皇后、皇太子までですか。

原 皇太子妃もです。掌典長や侍従を含め、宮中三殿に上るには必ず潔斎をしなければなりません。

保阪 祭祀のさい、秋篠宮以下の皇族は後ろに立っているだけなんですね。

原 もちろん。じっさいに三殿に上って拝礼をするとか祭典をおこなうとかいうことはないので、
潔斎をする必要もありません。
それから大祭に関していうと、いつもではないのですが、
内閣総理大臣、衆参両院議長、最高裁長官といった三権の長が出席する場合がある。
記録を見ると、小泉純一郎首相が出席しているケースもあります。

保阪 なるほど。だとすれば政治家の日記などにあたってみると新しい発見があるのかもしれない。

原 そうですね。この点で面白いのは『佐藤栄作日記』です。
佐藤は一九六四(昭和三十九)年から七二(同四十七)年まで首相の座にありましたが、
この間に春季皇霊祭・神殿祭と秋季皇霊祭・神殿祭、
それに新嘗祭にはほぼ欠かさずに出席しているんですね。ケネス・ルオフは『国民の天皇』(共同通信社)の中で、
「師の吉田茂同様、天皇の歓心を得ようとする佐藤の努力は涙ぐましいほどだった」と指摘していますが、
祭祀への出席もこうした努力の一環だったのかもしれません。

保阪 ぼくは政治家、とくに首相体験者は後世への責任として、
必ず記録を残すべきだというのが持論で『政治家と回想録』(原書房)という本まで書いたのですが、
いまの原さんのお話に関していえば、たしかに佐藤栄作の日記などを読みなおし、
入江日記などと突きあわせてみる作業が必要なのでしょうね。

原 おっしゃるとおりです。

保阪 しかし、宮中祭祀に三権の長が出席しているとなれば、
政教分離原則からしても微妙な問題をはらんできますね。
国事行為、準国事行為(公的行為)、私的行為のうち、準国事行為とみなしうる。

原 おそらく公的行為に含まれると解釈できるのではないでしょうか。
しかし宮内庁としては、政教分離原則に抵触するかどうかということもありますが、
それよりも これまで指摘した宮中祭祀をめぐる皇室内部の確執というもののヒント、
示唆を与えかねないことを怖れているのだと思います。


「公務」と「伝統やしきたり」とのあいだ

保阪 なるほど。説得力はありますね。この観点からすると
「公務というのは、かなり、受け身的なものであるのではないか」との
秋篠宮発言は俄然べつの意味を帯びてきませんか。

原 ぼくは「公務」といった場合に、国事行為には入らないけれども、
三権の長が出席をすることもあるものを、
それをたんなる天皇家の私的な行事といいきれるだろうかと思うのです。
ちなみに、今年出された自民党の憲法改正に関する「論点整理(案)」では、
天皇の祭祀などの行為を「公的行為」と位置づける明文の規定 を置くべきであるとされています。

保阪 少なくとも秋篠宮が認識する「公務」の内容には、宮中祭祀が含まれるというのが原さんの推理ですね。

原 ぼくにはそう読めたんですよ。しかも宮中三殿でどんなことをおこなっているかといえば、
当然、皇祖皇宗、あるいは歴代天皇に向かって祈っているわけです。
なんのために祈るかというと、五穀豊穣と国民の平安。
「民安かれ」と祈るということは、そこでパブリックなものとつながっているともいえる。
天皇家の私的な 行事は結果的には国とか民というものにつながるとの認識をもつ者にとって、
それは「公務」であるといっても、けっしておかしくはないと思うんです。

保阪 どうも兄と弟のあいだで「公務」の意味あいが食い違っているようですね。
秋篠宮のいう「公務」は、もしかしたら皇太子のいう「伝統やしきたり」なのかもしれない。

原 そうなんです。二〇〇四年六月八日の皇太子の説明文書にはこうあります
(編集部註:表記等は読みやすくあらためてあります)。

(五月の人格否定〞発言のあった)記者会見以降、これまで外国訪問ができない状態が続いていたことや、
いわゆるお世継ぎ問題について過度に注目が集まっているように感じます。
しかし、もちろんそれだけではなく、伝統やしきたり、プレスへの対応等々、
皇室の環境に適応しようとしてきた過程でも、たいへんな努力が必要でした。
私は、これから雅子には、本来の自信と、生き生きとした活力をもって、
その経歴を十分に生かし、新しい時代を反映した活動をおこなってほしいと思っていますし、
そのような環境づくりがいちばん大切と考えています。

国民の多くが気にしているお世継ぎ問題にすぐ続けて、「伝統やしきたり」が出てくる。
ぼくはあの言葉を素直に額面どおりに受け取ればいいと思っているんですよ。
だから『アリエス』にも「(皇太子は)『伝統やしきたり』に批判的に言及した。
その背景にあるのは、宮中祭祀をめぐる皇室内部、
とりわけ天皇夫妻と皇太子妃の間に横たわる温度差ではないのか」と書いたんです。

保阪 つまり「伝統やしきたり」という言葉はストレートに「祭祀」と理解していいということですね。

原 ぼくはこれを書いたときにそう解釈しました。

保阪 原さんのお考えをずっと突きつめていくと、
天皇家のなかに、いまいろいろと垣間見える対立というのは、
一過性の家庭内のいざこざではなくて、かなり本質的な対立だということになりますよね。
天皇制、天皇家のありかた、天皇のありかたまで含めて。

原 ええ。現天皇夫妻は、そういう意味でたぶん昭和天皇とかなり連続していて、
祭祀を繰りかえしおこなうということが、
おそらく、神武以来、アマテラス以来、連綿と受け継がれてきた皇統というものを
維持する究極のよりどころといいましょうか、
自分たちのアイデンティティを確認するためのよりどころであると。
それはいくら時代が変わろうが、とにかく変わらないものとして
受け継がれていかなければいけないと考えていると思うんです。

保阪 ぼくは、明仁天皇自身が―これは美智子皇后も同様ですが―
天皇家というのは時代とともに変わるんですとしばしば述べていたことを考えあわせますと、
やはりあの方は新しいタイプの誠実な天皇だと思いますね。
時代とともに変わるということは、天皇のもつオモテの、国民に見えている顔というのは
固定したものがあるのではないことを意味する。
制度として固定したもの はいちおうその時代、時代であるんだろうし、それにしたがって動くのだけれども、
しかしそのウラの見えないところにある祭事は本質的に変わらないのだとするなら、
いまの天皇はたいへんな努力を重ねてきているということですよね。

原 そうだと思いますね。

保阪 市民的な社会のなかにいて、祭祀の伝統のなかにいる。
天皇の祭祀王としての性格を内にまもりながら、一方で時代に即応していく。
けっして分裂しないで、そこ へひとつの融合する機能性をもたせる。
それが「国民の象徴」「国民統合の象徴」ということなのか……。
なにか強い覚悟のようなものを感じますね。

原 現天皇はその使い分けということをすごく認識しているのではないかと思います。
もっとも、毎日地方に行って恵まれない人びとを直接励ますわけにはいかないから、宮中で祈るのだと解釈すれば、
皇居の「外」と「内」でやっていることは矛盾しないという見方もできますが、
いずれにせよ非常にうまくやっているように思われます。
それにひきかえ皇太子妃は……。

保阪 耐えられない……。

原 というか、そういうダブルスタンダードを設けること自体が非常に苦痛なのではないか。
「伝統やしきたり」に適応しようとした皇太子夫妻のこれまでの努力が、
天皇夫妻には必ずしも理解されていないのは、
「皇太子の発言の内容については、その後、何回か皇太子からも話を聞いたのですが、
まだ私に十分に理解しきれぬところ」があるとの
天皇の文書回答からもうかがえるといったら、うがちすぎでしょうか。


皇太子の戦略

原 皇太子夫妻は国民世論を味方につけながら、場合によっては大なたを振るって、これまでの伝統と決別して、
むしろ新しい伝統みたいなものを自分たちでつくっていくといいましょうか、
そういうほうに賭けているのではないかという感じがするんです。

保阪 それは女性天皇問題を含めてですか。

原 むろんそれもあります。いまのところ世論は圧倒的に女性天皇容認に傾いています。
べつに男じゃなくてもいいじゃないか、と。

保阪 皇統の連綿性というものは、いまや二の次になっている……。

原 たとえば二〇〇四年九月二十四日に、東宮御所の内部や、
自分たちの内親王にたいする教育ぶりをビデオで公開したじゃないですか。
あれはまた好感を呼んだと思いますけれども……。

保阪 絵本を読みきかせたり、皇太子の肉声も入って「よきパパぶり」を示した。
しかし、私はああいうことはしなくてもいいと思う。

原 ひたすら自分たちは、そのへんにいる一市民というか、
ふつうの家庭と同じであるというようなイメージを演出して、垣根を取っ払って、まさか自分たちが突然着替えて、
皇居の奥深くで恭うやうやしくぬかづいて拝礼しているというようなことを国民にはみじんも想像させない。

保阪 オランダやベルギーの王室のような感覚ですよね。

原 そっちの方向で演出したいんじゃないかと思います。
それによってむしろ皇室の存在というものを人びとに認識させて、皇室をより安定させていく。

保阪 それはある意味で危険な考え方ではありませんか。

原 そう考える人も多いでしょうね。だけど少なくとも主観的には、
皇太子夫妻はそう考えているのではないかとぼくは見ます。

保阪 現段階において、それは成功しつつあるのかもしれない。

原 短期的に見ればね。しかし長期的に見てどうか。それは、皇室そのものの廃絶にいたる道かもしれない。

保阪 うーん。その危険性を含んでいると、私も思う。
ともあれ皇太子はそういう自分の「改革」のパートナーとして雅子さんを選んだのかもしれませんね。
だから「全力でお守りする」と。

原 雅子さんはそれを理解して宮中に入った。
おそらくほんとうに皇太子といっしょになって変えたいと思ったと思うんですね。
ところが、それは自分の想像をはるか に超えるような巨大な壁だった。それに気づいて打ちのめされたというか
それがある種の精神的な混乱をひき起こしているのではないか。

保阪 雅子妃は、自分の心身が不調になることで、
はじめて皇后になるということの怖さを知ったのかもしれませんね。

原 ここでも昭和史が参考になります。昭和天皇が二十代のとき、
貞明皇后とのあいだに相当な確執があったことは、さきほどお話ししたとおりです。
とくに摂政宮と なる直前、一九二一(大正十)年の三月から九月にかけてヨーロッパを訪問し、
それこそむこうの王室に刺激を受けて帰ってきて、
いきなり改革に乗り出したわけでしょう。女官をお側に置くのを廃止するとか、
明治以来の一夫多妻の源になっているような古いしきたりを排そうとするわけです。

保阪 それにたいして貞明皇后は欧風化する王室には立ちはだかって頑強に抵抗している。
もっとも側室制度の廃止は当然と思っていたでしょうけれど。

原 そうです。つまり、皇太子というのは、そういう意味でいつの時代でもといったら言いすぎでしょうが、
時代にあわせて皇室を革新させようとする存在であり、
それにたいして皇后や皇太后というものは伝統を守ろうとするものなのかもしれません。

保阪 しかし、その結果どうなるかが問題です。

原 はい。では昭和天皇のときはどうだったか。
は先にも触れたように、昭和初期には皇太后となった貞明皇后に
きちんと祭祀をおこなわなければ神罰が下ると言われて神器に固執するようになり、
一九六〇〜七〇年代には今城誼子に感化された香淳皇后を思うあまり、
祭祀の簡略化に抵抗しているように見えます。その意味で昭和天皇は、
皇太后や皇后に振り回されているように見えなくもない。
今回はどうなのか。いま、皇太子夫妻ががんばっているわけですが、
もし歴史が繰りかえすのであれば、けっきょくは雅子妃にも敬神の念が芽生え、
現天皇夫妻の ように祭祀を熱心におこなうようになっていくのか、
それともあくまでも彼らが押しきって、まったく新しい皇室をつくっていくのか。


兄宮と弟宮の微妙な関係

保阪 しかしですよ、秋篠宮家に男子が誕生した瞬間に、いままでの話はどこかにすっ飛んでしまいますよね。
現行の皇室典範どおりにいけば、皇太子は即位しても一代かぎり。次の皇位は弟宮の家にいく。

原 そうです。女性天皇論なんかどうでもよくなっちゃうんです。
これまでの懸念はぜんぶ消えるし、宮中三殿も宮中祭祀ももちろんそのまま維持できる。
ですから湯浅利夫宮内庁長官の「秋篠宮家に第三子の出産を希望したい」という発言はホンネだと思いますね。

保阪 あれもすごいセリフだ。暗に皇太子夫妻は批判されていることになる。
ところで、昭和史の単純な事実なんですが、昭和前期においては兄宮である昭和天皇も
弟宮(秩父宮・高松宮・三笠宮)もみな若いんです。

原 しかも兄宮にはまだ世継ぎがいないし、弟宮にも子はいない。
現天皇の誕生は一九三三(昭和八)年ですからね。

保阪 しかし、けっきょく秩父宮と高松宮にはお子さんが生まれず、
そして二〇〇四年十二月十八日に高松宮妃の喜久子さんが亡くなったことでついに両宮家とも断絶した。

原 陸軍の一部には根強い秩父宮待望論があって、昭和天皇と秩父宮の関係は微妙でした。
貞明皇后は、昭和天皇よりも秩父宮の方を溺愛していたという話もあります。
いまの日本で二・二六事件のようなことは起こりようがないけれども、
秋篠宮家にもし男子が生まれた場合に東宮家と秋篠宮家の立場が逆転する可能性はあります。
そのとき世論はどう動くか。

保阪 世論は秋篠宮家のほうになびく流れに変わるかもしれない。
しかし、現状では国民世論は「女性天皇容認」の方向にあるようですが……。

原 秋篠宮は二〇〇四年十一月の会見で、五月の皇太子発言について「残念だ」と述べたあと、
第三子についてはこう述べています
(編集部註:表記等は読みやすくあらためてあります)。

  ……(宮内庁の湯浅)長官が「皇室の繁栄」と、それから、
これは意外と知られていないように思いますが、
「秋篠宮一家の繁栄」を考えたうえで「三人目を強 く希望したい」ということを話しております。
宮内庁長官、自分の立場としてということですね。
そうしますと、私が考えますに、そのような質問があれば、宮内庁長官という立場として、
それについて話をするのであれば、
そのようなことを言わざるをえないのではないかと感じております。

しかし、男子誕生となれば、それは「秋篠宮一家の繁栄」もさることながら、
その子は即座に皇位継承者なのです。

保阪 やはり女性天皇容認論の高まりにたいして「ちょっと待て」といっているように聞こえるし、
長官にたいしては「よし、わかった」とも聞こえてしまう。兄宮と弟宮との関係はむずかしい。

原 昭和天皇は秩父宮にだけでなく、高松宮にたいしても非常に警戒心を抱きますよね。

保阪 戦時中のことでしょうか。そのときは、高松宮は海軍軍令部にいた。
しかし昭和天皇は高松宮の意見をあまり評価してなかったんじゃないですか。

原 阿川弘之さんに怒られますよ(笑)。

保阪 高松宮は一九四一(昭和十六)年十二月一日でしたか、
最終的に対米開戦を決めるときに、兄の天皇のところに行く。
そして「海軍は開戦にみんな反対している」 というので、天皇はびっくりして、
軍令部総長の永野修身や海軍大臣の嶋田繁太郎をもう一回お召しになる。
海軍上層部は「いや、そんなことございません」。 それで、どうも高松宮のそそっかしさというんですか、
そういうものにたいしては距離をおくというのか、不信の念を抱くようになったように私は思いますね。

原 そうですか。しかし一九四〇(昭和十五)年十一月十一日、
紀元二千六百年奉祝会が宮城前広場でおこなわれたとき、
高松宮が前に出てきて「天皇陛下万歳」の発声をやります。
あれはフィルムも残っていて、ぼくも川崎の市民ミュージアムで見ましたが、
掛け声のしかたといい、じつにみごとなものです。
それを聞いた何人かの日記には「御力強い御声」「実に御立派であった」などと書いてあって、
感銘を与えたようです。そういう押し出しのよさはあったのではないでしょうか。

保阪 細川護貞の『情報天皇ニ達セズ』(『細川日記』)を読むと、
戦争末期に高松宮は、危ない連中とも接触していますね。
東條暗殺もやむなしというような企てにもコミットしています。
そのあたりも昭和天皇の不信をつのらせたかもしれない。

原 戦後も昭和天皇は高松宮を警戒していて、占領期に退位論がかまびすしかった時分には、
自分が退位すれば、当時まだ少年だった明仁の摂政として高松宮が力をふるおうとする野心があるから、
それはできないと考えていたふしがありますよね。


天皇の気魄

原 話を宮中祭祀に戻しますと、明治天皇も、大正天皇も、
晩年はみずからはおこなっていないんですよ。
大正天皇に関しては、体調が悪化する一九一九(大正八)年 からほぼやっていないということは、
この前公開された実録で確認できました。
昭和天皇は先に触れたように、一九七〇年代以降に入江相政が進める祭祀の簡略化に抵抗しますが、
それでもすべての祭祀を型通りにおこなっていたわけではありません。
年をとるにつれ朝早い儀式とか、ほんとうに寒いときの儀式などは、
しだいに時間を遅らせたり、代拝させるようになっていきます。

保阪 水をかぶったりしなきゃいけないんでしょう。

原 そうです。冷暖房とか基本的にないので、やっぱり冬は寒いし、夏は暑い。
水を浴びる場合に、冬はちょっとあったかくするとかはあったようですが。
入江日記に は、一九六九(昭和四十四)年七月に賢所に冷房を入れようとして、天皇からは許可を得るものの、
皇后に「とんでもないこと」と言われて断念したとあります。

保阪 昭和天皇はいつまでおこなっていたんですか。

原 最後までみずから祭祀をつかさどったのは新嘗祭です。一九八六(昭和六十一)年までということです。

保阪 十一月二十三日ですね。

原 はい。一九八七(昭和六十二)年に例の腸の手術があった。あれが九月でしょう。
それ以降はできなくなったのです。

保阪 昭和六十二年といえば、二月に高松宮が亡くなっていますね。

原 昭和天皇は、数ある祭祀のなかで新嘗祭をいちばん重んじていたんですよ。
あれはいちばんたいへんな祭で、「夕の儀」「暁の儀」からなり、
夕方から夜中までか かる。もちろん入江や侍従たちはなんとか昭和天皇の負担を軽減させようとして、
あの手この手を使って、「もういいです」と何度もいっているんです。
「われわれがかわりにやりますから」って。
でも昭和天皇はこれだけは聞かない。「暁の儀」をやめるところまでは妥協するものの、
「夕の儀」だけはとにかく譲らない。
どんなに寒かろうが、かたい畳の上でずっと端座して直会をしているわけでしょう。
当然、足なんか痛くなってくるわけじゃないですか。
新嘗祭が近づくと、天皇はふだんはソファに座って居間でテレビを見ているのに、
座布団を敷いて座って見るようになったといいます。
端座の練習までしていたんですね。

保阪 それにしても八十歳をすぎて、崩御の二年前まで自分で儀式をおこなうとは。
高齢なのに周辺は配慮しなかったのですか。

原 ここでも昭和天皇と高松宮のあいだには確執めいたものがあったようなんです。
天皇が晩年になっても祭祀にこだわるのは、皇后以外に高松宮の存在も無視できなかったことが、
入江日記からはうかがえます。
一九七四(昭和四十九)年一月三 日の元始祭を天皇は休みますが、
この日は高松宮の誕生日に当たり、天皇に会う習慣がありました。
そこで高松宮は、天皇が元始祭を休んだのは前日の一般参賀の疲れが残っていたせいではないかと
言ったというのです。
ここには、一般参賀に疲れたぐらいで大事なお祭りを休んでいいのかという批判が込められており、
天皇は大いに気にします。
また一九七六(昭和五十一)年四月三十日には、入江が天皇に翌日の旬祭を代拝にするよう求めたところ、
天皇は「あんまり急で昨日の誕生日のあとで疲れたのかと高松宮同妃が言つてもいかんから」と言って
これを拒絶しています。
昭和天皇と高松宮の間には、ほかにも当時、ぎくしゃくとした問題があり、
天皇は入江にしばしば高松宮に言及しています。
現天皇と弟の常陸宮にはそれを感じさせるものがありませんが、皇太子が祭祀にずっと出席しているのは、
ほんとうに出席したいかどうかは別として、秋篠宮への対抗意識があるのかもしれません。

保阪 そうかもしれない。

原 しかし、それはそれとして、みずから祭祀を執りおこなうというスタイルと気魄は
昭和天皇から現天皇に継承されていると思うんです。

保阪 いま、古希を過ぎてもというのは、すごいことですね。現天皇のもつ決意を感じます。

原 そうです。ぜんぶ自分でおこなっている。昭和天皇にもなかったことです。
それを見なおそうという声は、少なくともあまり聞こえてこない。

保阪 あと十日たらずで平成十七年を迎えますが、一月三日には天皇は元始祭に臨むのでしょうね。
もちろん、それは皇后もいっしょということですね。

原 ええ、いっしょに。

保阪 こういう分析をしていくと、いまのジャーナリズムでの議論は、
祭祀というなかなか合理的には説明のつかないことを抜きにしての、
表面的なものでしかないとい うことになりますね。むずかしいことではありますが、
もっと本質的な問題を探らなければ、天皇家の内実がわからないという感はします。

原 この問題に関しては、戦前と戦後に分けられないというか、
戦前と戦後で断絶したどころか、きわめて連続性があり、
しかも強化されているといっていい。その面を明らかにすることで、
皇室内の母子関係も兄弟の問題も歴史の相のもとで、もっとよく見えてくると思うんです。     
(『昭和史 七つの謎 Part2』巻末対談を再録)

昭和天皇 東条元首相を称賛

米占領軍資料で明らかに

戦時下に勅語で
厚い信頼関係を裏付け
(毎日新聞平成7年3月19日or20日)

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