神武東征  もう一つの天孫降臨族・長髄彦(ながすねひこ)との戦い

読む年表 日本の歴史
渡部昇一 WAC 2015年1月

神武東征 
もう一つの天孫降臨族・長髄彦(ながすねひこ)との戦い

神武天皇は「東征」を行って大和朝廷を建てる。日向国(現宮崎県)を出て北九州までは陸を行き、
そこからは船で瀬戸内海を行くが、まっすぐ東をめざしたのではなく、各地に立ち寄り、
大和に至るまで十年近くかかっているが、その間に大きな戦争の記載は『日本書紀』にないから、
その途中の土着の人々は大きな抵抗をすることもなく、天皇に従ったようである。
いよいよ河内国草香邑(日下村)の白肩津(しらかたのつ)に着き、生駒山を越えて
大和に入ろうとすると、土地の豪族長髄彦(那賀須泥毘彦)の軍隊がこれを迎え討ち、
孔舎衛坂(くさえのさか)で激戦になる。
このとき神武天皇の兄彦五瀬命(ひこいつせのみこと)の肘脛(ひじはぎ)に矢が当たり、
それがもとで彦五瀬命は進軍中に亡くなっている。
長髄彦は、やはり天孫降臨した饒速日命(にぎはやひのみこと)に仕える者で、
饒速日命は長髄彦の妹と結婚し、子供もいると記されている。
天孫降臨といえば瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)ということになるが、
それとは別に、饒速日命も、天磐船(あまのいわふね)に乗って河内に天降(あまくだ)っていたというのである。
これは、南方から来た日本の支配階級である「天孫降臨民族」が一つではなく、
いくつかの集団が日本に渡ってきていて、河内のあたりに先に来ていた一族の者が、
土着の強力な酋長の妹と結婚したということではないだろうか。
つまり、その酋長が長髄彦というわけである。
苦戦を強いられた神武天皇は「自分は日神(ひのかみ)の子孫であるのに、日に向かって進み
敵を討つのは天道にさからっている。背中に太陽を負い、日神のご威光を借りて戦うのがよいだろう」と考え、
いったん船で紀州へ向かう。この紀国(きのくに)の竈山(かまやま)で、
孔舎衛坂の戦いで深傷(ふかで)を負った兄の彦五瀬命は亡くなり、この地に葬られた。
現在も和歌山市には彦五瀬命を祀った竈山神社がある。
熊野から大和を赴こうとしたとき、八咫烏という大きなカラスが現れて先導してくれたという。
これは山城(現京都府南部)の賀茂氏の祖であり、賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)の
祭神である鴨建津之身命(かもたけつねみのみこと)の化身だとも言われているが、
おそらく土着の人間が道案内をしてくれたということだろう。このときに大伴氏の先祖である
日臣命(ひのおみのみこと)が大軍を率いて八咫烏のあとにしたがい、ついに宇陀(現奈良県)に着いた。
いよいよ長髄彦との決戦に臨んだとき、金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、神武天皇の弓の先にとまった。
その鵄は稲妻のように光り輝き、長髄彦の軍勢は、目がくらんで戦えなかったという話が残っている。
明治以来、軍人に与えられる最高の名誉だった金鵄勲章は、この神話からきている。
結局、長髄彦は神武天皇を「天神の子」と認めたあとも改心しなかったということで、
これも「天孫降臨族」である妹婿饒速日命は長髄彦を殺して、神武天皇に帰順した。
この饒速日命が物部(もののべ)氏の先祖であるという。

陛下 初等科時代

平成皇室論 橋本明 朝日新聞出版2009年7月

陛下と私が学習院初等科に入学したとき、山梨勝之進海軍大将が学習院院長。
前職の十六代院長野村吉三郎は駐米大使に転出していった。
昭和15(1940)年春、級友は東組西組合計67人だ。六年間を半分ずつ東西に分け、
常時東組にいることになった明仁親王と3年はご一緒するという工夫がなされていた。
私は東組だった。親王は車を使わず、赤坂御用地内東宮仮御所から徒歩で離宮近くを通り
権田原から四谷をつなぐ道路を渡り初等科東にあった小門から入って通学した。
ランドセルを背負い、短パンに赤線で縁取った海軍式制服を着用して。
警備などはほとんど無く、東宮傅育官一人が付くだけ。校庭を斜めに突っ切って来る具合だった。
教室に入ると前門のオオカミは秋山幹主幹、鈴木弘一国語教授であり、後門のトラは
傅育官(東園基文、村井長正ら)だった。常にはさまれて勉強した。姿勢が悪いと彼らは
遠慮会釈なく宮の背中を叩いた。東組は玄関上の貴賓室隣にあり、東側奥に傅育官用控え室が配されていた。
初等科を特徴付けた精神面の鍛え方に「教学聖訓」と「科訓」がある。軍人勅諭、教育勅語、
学習院に賜る令旨などを詰め込んだ和綴じの文書が「教学聖訓」。ほかに乃木希典が遺した
不文律の教え「科訓」が存在した。乃木は質実剛健を旨とする教育方針を貫いた武人である。
日露戦争で旅順陥落直前、無為に数万の兵士をあの世に送った直情径行の無策将軍。
凱旋後明治天皇に詫びを乞い、ご大喪に際して妻と共に殉死した陸軍大将。生前天皇から
学習院で皇孫裕仁親王の初等科教育を任され、在職中実行した諸々の言辞が科訓の
内容をなしている。「寒いときには暑いと思え」「破れた着物を着るのは良くないが、つくろってあれば
恥じることはない」といった教えから、一日を登校、在校、帰途、家庭に分け、あるべき言動を記してある。
「先生に会ったならば大きな声でおはようと申し上げよ」「集合時間が決まったら遅くとも五分前に到着せよ」などなど。
山梨はわれわれ級友を皇太子が送る生活圏の一つとみなし、東京都四谷仲町に新築となった
鉄筋コンクリート三階建て校舎で「厳格を旨とし、一般学生と差別せざること」を大方針として明仁親王の基本教育とした。
戦争中のこととて、学校行事としての見学先は富国強兵策に沿った産業、軍事施設が多く、
ときたま新宿御苑で豚汁をすすりながら行進するなどもあった。時局暗転に応じて学童疎開が始まる前、
初等科四年生の夏は慣例に従い静岡県沼津市桃郷の遊泳場で一週間の集団生活を送り、
皇太子も積極的に参加した。昭和19(1944)年、五年生の春、われわれはこの遊泳場に疎開し、サイパン陥落まで滞在した。
海軍中尉で戦艦三笠に座乗、日本海海戦に参戦した山梨が青空教室よろしく敵前回頭を敢行して
バルチック艦隊を葬った海戦の模様を講義するなど、子どもらは手に汗を握る臨戦感覚を
味わったりした。サイパン玉砕後は一時親元に帰り、9月初め、上野駅に集合して栃木県の日光金谷ホテルに
再疎開している。非常時の暮らしを共にするわれわれは同じ釜の飯を食った仲間となる。
強烈な靱帯で結ばれ、友情を育み、生涯の友となる基礎を築いたのだった。

銀ブラ

平成皇室論
橋本明 朝日新聞出版2009年7月

私は学習院高等科三年生三学期期末試験終了日、陛下と決行した「銀ブラ」を思い出した。
遡ること57年前の昭和27(1952)年2月末。東宮職職員を欺いての外出には、「決行」という
悲壮感漂う勇気と決断が必要だった。大層な悪事を働いたという感覚が私には未だにつきまとう。
このたくらみを先導したのは、実は陛下ご自身だった。
「東宮職の職員は侍従、侍医も含めて今日が一番ほっとしている。春休みが目の前だ。
休みが明ければ大学に進む。区切りがついたいまが、もっとも油断している」
凄い戦略家だと見直す思いだった。行き先を尋ねると、ガラスを切るような答えが返ってきた。
「銀座がよかろう」
もう一人の級友を引き込んで綿密な計画を立て、皇宮警察の側衛官一人に同行してもらうという
手を打った。決行はその日の夜。目白にあった学習院・清明寮を抜け出し、見つからないように、
ばれないように配慮して目白駅から山手線の内回り電車に乗った。車内は込み合い、
陛下はドア付近に立つステンレス棒を背にされたが、あれほどうれしそうな笑顔をみたことは
なかったと記憶している。新橋駅で降りて銀座を散策し、二軒の喫茶店に立ち寄った。
一軒目では陛下に気づいた支配人に挨拶され、早々に退散。
二軒目は「宮内庁御用達の洋菓子店」という陛下の情報を得て「コロンバン」へ。
一同の所持金を使い果たし、有楽町駅から山手線外回り電車に乗り目白駅で下車。帰寮は午後11時ごろだったと思う。
寮にはすでに側衛官から連絡が入っており、大変な騒ぎになっていた。陛下は自室に消え、
カギをかけて閉じこもった。私と級友の二人は、「拉致」「監禁」「逮捕」といっていいような扱いを受け、
偉い方々に謝って回った。東宮大夫には「労働運動はなお苛烈であり、
ご身分がばれて労働者に取り囲まれるようなことが起こったらなんとするつもりであったか」と
誅された。大夫は怖かったのだ。戦後、民主主義国家となった日本では、戦前の「格差社会」を
是正する大きなうねりがあった。国内では労働争議が噴出し、昭和24(1949)年7月には
人員整理の先頭に立った日本国有鉄道初代総裁・下山定則が轢死体となって発見された。
一方、米議会では共産主義者を訴追する「レッド・パージ」が起こり、
その空気が日本にも伝わる不穏さがあった。
陛下は最後まで周囲からの批判に対して黙し、妥協を拒んだ。
あの反抗精神は、独立への助走だったと私は理解している。
当時の東宮職内部にも「よくやった」と理解を示してくれた職員も何人かいた。

これに対し、昨今の東宮ご一家の外出は、あまりに気楽な日常茶飯事めいていて、
根源的に我々の悪餓鬼時代に敢行された銀座行きとは異なるようにみえる。
むろん、外食や観光、実家の親族との触れ合いといった息抜きぐらいはいいではないか、
という意見もあろうが、私には違和感が残るのだ。
「従来の公務を縮小する場合には、時期的な問題や要請した側への配慮を検討し、
無責任でない形で行わなければなりません。《時代に即した公務》が具体的にどのようなものを指すかを示し、
少なくともその方向性を指示して、周囲の協力を得ていくことが大切だと思います」
陛下は平成16(2004)年、71歳の誕生日前に宮内記者会から出された質問に
こう文書で回答を寄せた。「時代に即した新しい公務」を求めた皇太子ご夫妻に、
勝手は許されないとモノ申された形だった。天皇皇后と皇太子ご一家にこの年支払われた
内廷費は結婚前の紀宮清子内親王(現・黒田清子)を含めて総額3億2400万円だった。
当時まだ四人構成だった秋篠宮家に支払われた皇族費は5000万円である。
5億円を超えるという予算での東宮御所改装も平成20(2008)年秋に実行された。
さらに近年の東宮ご一家については、第一位皇位継承者を擁するとはいえ過剰とも思える警備が
完璧に行われる。また東宮ご一家のお出かけ先は、東宮ミッドタウンや六本木ヒルズ、
青山・表参道や丸の内、恵比寿ガーデンプレイスでのクリスマスのイルミネーション見物など、
華やかな観光名所が多い。いやがうえにも目立つうえ警備も大規模になり、
場合によっては居合わせた人たちに迷惑をかけることになる。
行楽地への私的外出の皮切りともいえるのが、平成18(2006)年3月、東京ディズニーリゾート行きだった。
敬宮愛子内親王の幼稚園入園を前に、普通の子と同じような体験を積ませたいというご夫妻の発案だった。
ご一家は雅子妃の妹・池田礼子母子や職員とともにアトラクションカーや園内を走る列車で移動し、
来園者に手を振った。
この月、東宮ご一家は愛子内親王の友人家族らとともに休園日の上野動物園でも遊んだ。
その翌日、天皇皇后両陛下はヘリコプターに分乗し、噴火の続く三宅島を視察。
親子間の落差が目立つ日程であった。
東宮ご一家のオランダ静養が発表されたのは、同年6月23日、陛下恒例の祈りの日の一つ、
「沖縄慰霊の日」午後2時半だった。16日に皇后が風邪に伴う口唇ヘルペスの症状をおして
香淳皇后例祭のお務めをされたのに、雅子妃は欠席だった。
病気療養中とはいえ、私には落差があるように感じられた。

第三次世界大戦―新・帝国主義でこうなる!

第三次世界大戦―新・帝国主義でこうなる!
田原 総一朗/佐藤 優【著】
アスコム 2008/12/25

第4章 日本 天皇と憲法、これでいいのか
(「押しつけ憲法」論の大きな間違い;天皇とは権威の世界の存在;
 天皇が還るべき原点;パッケージで考える憲法論)

佐藤 女系天皇も女性天皇も両方ダメ。それを認めると人権の思想が入る。

田原 今は現代。近代主義、合理主義でいいじゃないか。

佐藤 ダメ。近代でいいのは物事の一部だけ。   近代じゃない部分がないと近代は成り立たない。
   日本の天皇は権威。権力ではない。権威の世界には近代合理主義は適応できない。

田原 神話の世界で言えば、大本は天照大神。女性じゃないか。

佐藤 神話の男性・女性は現代のそれとは異なる概念。農産的=女性シンボル
   天皇は祀り主。日本の皇統が女性はまずい、という伝統を持っている。
   男性で千数百年続き、日本の歴史と伝統になった結果こそが重要。

田原 だけど皇太子家には愛子さんしかいないじゃないか。

佐藤 理屈のない世界の存在として「あくまで歴史と伝統を守るべきだ」。


■雅子さま問題

田原 雅子さんは実に気の毒。一種の囚われ人。基本的人権もなにもない。

佐藤 その問題にはまったく関心がない。いかにして皇統が維持されるか、それだけ。
   人間的なものを皇室に求めるのは間違い。

田原 基本的人権はどうでもいいのか。

佐藤 関心がない。だって彼女も悪いんですもん。

田原 お嫁にいったのが悪い?

佐藤 あえて言えば自己責任の世界。
   日本最古で最高の神主さんの家にとついで神主さんの行事に出られない理屈はない。
   行くなら完全に覚悟しなければ、それくらい怖い世界だと思う。

田原 皇太子の熱心な求婚を断るのは大変。

佐藤 断ることはできる。(ロシアで幽閉された日本人女性の例)

田原 雅子さんは、がなりたてられずに身体を壊しているんですよ。

佐藤 いや、閉じ込められても逃げ出すことはできるわけですから。
   雅子さんは別に缶詰にされたわけじゃない。
   身体を壊したのは、結婚してからでしょう。

田原 佐藤さんは冷たいねえ(笑)

佐藤 私は基本的に外務省出身者に対しては冷たいですから(笑)

田原 わかった。


■原武史「昭和天皇」の内容について

佐藤 (両陛下と皇太子夫妻がうまく行かない)
    いちばんの問題は宮中司祭の問題だとみている。
    日本全体の祀り主のところにお嫁にいった以上、祝詞を一緒に詠んだりすべき。

田原 祟りや因縁では病気が治らないから近代科学が発達した。

佐藤 二つの世界が必要。神主の奥さんなんだから。神主の原点に戻らないと。

田原 すると皇太子は「現世とは離れろ。もう娑婆には戻れない」と話さなければならない?

佐藤 端的に言ってそのとおり。そうなってもらわないと。
   宮中祭祀にも苦痛でもちゃんと出席する。そのうち儀式の面白さもわかってくる。


■西尾論文について

佐藤 非常にいいと思う。外務官僚どもは宮内庁、東宮から出て行けというのは
   まったく正しい。ただ、離婚に関しては、民の立場からすると言い過ぎ。
   皇室外交は意味がないと書いているが、ものすごく意味がある。
   ただしそれは日本の最後の切り札。軽々に用いてはならない。

田原 天皇も人間で人間的な皇太子を育てた。神に戻れといっても無理。
   人間宣言してもう戻せない。

佐藤 神道の原理的な発想を押さえておけばお世継ぎ問題は心配しなくてよい。
   生まれなければ見つかる。神道の発想は「明日できることを今日やるな」です。 

これが誇りある日本の教科書だ

田母神塾
これが誇りある日本の教科書だ
田母神俊雄 双葉社 2009年3月1日

日本は戦後、人類が歴史上経験したことのない占領政策を受けました。
国際法において、占領国は被占領国に対して恒久法を強制してはいけないことになっていますが、
GHQの占領期間中、日本は憲法改正、教育基本法改正、教育勅語廃止、
財閥解体などの政策により占領国から国体の弱体化を進められてしまいました。
戦勝国は、自身の歴史観を敗戦国に強制するものです。
戦争に負けた日本は自分たちの歴史観を奪われ、戦勝国の歴史を強制的に押しつけられてしまいました。
そして従軍慰安婦問題、南京大虐殺など、捏造された自虐史観を日本の隅々にまで浸透させられてしまった。

ラジオでは1945年12月9日から、「真相はこうだ」という番組が始まっています。
戦後の日本はラジオを聴くくらいしか娯楽はありません。そんな時代状況の中、
ゴールデンタイムに「真相はこうだ」という番組が流された。
この番組は週1回放送され、46年2月10日まで10週にわたって続いています。
番組内容は、「日本軍は中国大陸や東南アジアでとてもひどいことをした。
そのときの指揮官は××である。とんでもないヤツだ」というようなものでした。
GHQの検閲によって、このようなラジオ番組が日本人の歴史観を塗り替えていきました。

日本が再びアメリカに歯向かうことがないよう、GHQは検閲と焚書を進めました。
これらの占領政策は、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」に則って進められています。
戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画です。
この計画の中には、「公職追放」という厳しい項目もありました。
政治家、軍人、役人、大学教授、学校の先生、地方自治体の長……。
「日本を悪くした軍国主義者」と烙印を押された人たちは、次から次へと公職を解かれていきました。
1946年から50年にかけて、なんと合計20万人以上もの人々が公職から追われています。
そうなるともちろん、人員の穴埋めが必要になります。
空いたポストには戦前、「左翼」と言われ、要職から追放されていた人が戻ってきました。
とりわけ、左翼の教授が教育の現場に戻ったことが、後世に悪影響を与えていると私は思います。
彼らは自分が大学の最高ポストに就いただけではなく、左翼の弟子たちを大勢連れて大学に乗り込みました。
戦後の大学はまるで左翼に占拠されたような状態になってしまったわけです。
中学や高校で自虐史観を教えられ、大学でも左翼教育を受けた学生たちは、過激な学生運動に邁進してしまった。
すべてとんでもない教育のせいです。
戦後、学校の先生になった人の中には、左翼史観で固まった人間が多く、
日教組という左翼団体によって、戦後教育はますます左傾化したことを知っておきましょう。

アメリカは、日清戦争や日露戦争に勝利して権益を拡大していく日本の存在が疎ましく思えてならなかったでしょう。
日本になんとか嫌がらせをしつつ、権益は自国に引っ張りたかった。
アメリカは、何かと日本に難癖をつけてはいじめてきた。
難癖をつけながら、日本が握る権益を横取りしてしまおうと狙っていたのです。
そうした時代が長く続いた結果、真珠湾攻撃に至った。

1900年6月、義和団が武装蜂起しました。
外国人が約4000人も住んでいた北京の公使館区域は、武装した義和団によって取り囲まれてしまいました。
このままでは外国人の命が危ないと、イギリスは日本に軍を派遣するよう要請した。
4度もの要請に応え、ようやく日本は軍を派遣しました。
日米英など8カ国により約2万人の多国籍軍が組まれ、約2か月半かけて義和団の乱が鎮圧されました。
鎮圧後の最終議定書によって日本は北京に軍を駐留できることになりました。
盧溝橋事件当時、北京には日本軍がいましたが、条約に基づき正当な手続きを踏んで駐留していたわけです。
当初2600人だった日本軍は、盧溝橋事件の時点で5600人にしか増えていません。
中国には国民軍塔匪賊、馬賊が数十万人もいたわけですから、5600人程度の軍隊が中国を侵略したとはとても言えない。

1910年の日韓併合以降、日本は朝鮮半島を不当に侵略してきたと言う人がいます。ほんとうでしょうか。
『「植民地朝鮮」の研究』(杉本幹夫著、展転社)という本を読むと、
日韓併合に伴い朝鮮が日本からどんな恩恵を受けたか、詳しく記されています。
例えば日本は、朝鮮の産業振興のために多額の支援をしました。
その結果、日韓併合当時1万2000石(1石=約180リットル)
だった繭の生産量は、1916年には7万6000石まで増え、漁獲高は、734万円から1595万円まで2倍以上になりました。
また当初、わずか100校しかなかった小学校が、日本が教育事業に予算を割いたことにより、
1916年には400校以上に、学生数は1万7000人から6万6000人に増えました。
水害や旱魃など災害への対策費も予算として計上し、災害が起きなかった場合はそのまま積み立てていたため、
多少の災害なら政府に救済を求めるまでもなかったそうです。
朝鮮人の生活状態は決して良くはなかった。貧しく、教育も行き届いていなかった。
そんな朝鮮に日本が手を入れることで、10年もしないうちに良い国になったことがよくわかります。
平和で豊かに暮らしている朝鮮人を、日本が搾取したわけではない。
困窮している朝鮮人を日本が助け、生活水準を向上させたという当時のデータに目を向けるべきです。

自虐史観論者たちは、日本が「創氏改名」によって「金(キム)」さんを
「金村」さんに変えるなど、朝鮮人の名前を強制的に変えさせたと主張しています。
朝鮮は歴史的に、常に中国の属国のような扱いをされてきました。
一方、日本人だとわかったとたんに中国人は敬意を表する。
そこで朝鮮の人は考えた。「俺たちも日本人になってしまえばいい。
日本名さえもらえば、今は威張っている中国人たちも俺たちに頭を下げるはずた。俺たちも日本名をもらおう」。
これが創氏改名の実態です。
実は創氏改名した朝鮮人は100パーセントではありません。
この事実こそ、強制だという主張を退ける証拠でしょう。
実際には、役場に行って改名届けをし、日本名を名乗ることを許可してもらってから、
ようやく朝鮮人は日本名を名乗るきとができたのです。
日本政府の中には、朝鮮人に日本名を与えることに反対した人もたくさんいました。
しかし、朝鮮人は日本名を与えてもらうことを希望している。
朝鮮は日本の一部なのだからいいではないかということで、創氏改名が進められることになりました。
(中略)
日本の歴史教科書には、「日本は朝鮮人に創氏改名を強制した」と書いてあります。
しかし朝鮮名のままでいた人もたくさんいました。
例えば、陸軍士官学校26期の洪思翊(ホン・サイク)陸軍中将は、朝鮮名のままでした。
彼は陸軍中将まで昇進し、戦後はマニラの軍事裁判で処刑されています。
洪思翊中将より1期後輩の金錫源(キム・ソグォン)大佐も、
創氏改名はしていません。軍部は彼らが朝鮮名のままでもいいと認めていたわけです。
韓国の李王朝最後の殿下である陸軍士官学校29期生の李垠(イ・ウン)殿下は、
昭和天皇のお妃候補の一人でもあった梨本宮方子(なしもとのみやまさこ)妃殿下と結婚しています。
お二人の結婚に際し、日本政府は天皇家の次に予算をかけて処遇しました。
宮内省はお二人のために、1930年に新居を建設しています。
その新居が、現在の赤坂プリンスホテル旧館です。日本政府がいかに李垠殿下を手厚く遇したかわかるでしょう。
日本が李王朝をつぶすつもりであれば、わざわざそこまで厚遇することは絶対にありません。
こうした史実を見ても、日本が朝鮮を植民地化して搾取したわけではないことがよくわかります。
(中略)
自分たちが1億円持っていて相手が100万円しかなくても、
「お前は半分の50万円を寄越せ」と金持ちの側が言っていた。
それが戦前の植民地主義です。しかし日本は、1990年以降西ドイツが行ったように、
日本から持ち出しをしながら満州や朝鮮の人々の生活水準を向上させてあげていたのです。
戦前の日本を、欧米列強の帝国主義運動と同列に論じることはできません。
日本のやり方は、欧米列強とは正反対だったのです。
朝鮮半島でも満州でも、日本の統治下で人口は激増しました。生活が貧しく残虐行為が行われていれば、
人口が増えることなど絶対にない。創氏改名を強制して無理やり日本人が搾取しているような状況で、
現地の人たちが豊かな生活を送れるわけはありません。
繰り返しになりますが、創氏改名するかどうかは、朝鮮人本人の希望に委ねられていたのです。

戦後、日本はGHQの占領下にありました。
国際法上、日本の戦争はサンフランシスコ講和条約の発効(1952年4月28日)まで終わっていなかった。
戦闘は45年8月15日に終わったわけですが、占領行政が続いた52年4月28日まで、
国際法上はまだ戦闘が継続している状態だったわけです。占領行政下において、占領国は被占領国に対して
恒久法を強制してはならないと国際法で定められています。実際はどうだったのでしょうか。
GHQは占領行政下で、憲法や教育基本法を改正しました。
さらに教育勅語を廃止し、国家神道を廃止した。これらはすべて国際法違反です。
(中略)
大日本帝国憲法下の時代は、非常に悪かったかのように言われています。そんな時代に戻れは、
また戦争が起きて大変なことになると言う人がいますが、決してそんなことはありません。
「戦前の日本は悪かった」という刷りこみにとらわれる必要はない。

GHQ最高司令官として日本占領に当たったマッカーサーは、朝鮮戦争の司令官の任にも就いています。
彼は朝鮮戦争の難しさを知り、原子爆弾の使用を主張しました。
そのためトルーマン大統領と対立し、司令官を解任されています。
マッカーサーはアメリカへ帰国し、上院の軍事外交合同委員会で、
大東亜戦争について次のような重要な証言をしています(1951年5月3日)。
≪もしこれらの原料【=綿や羊毛、石油や錫、ゴムなど】の供給を断ち切られたら、
1000万から1200万の失業者が発生するであろうことを彼ら【=日本】は恐れていました。
したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。≫
(邦訳は小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明』講談社学術文庫)
日本が大東亜戦争を戦ったのは、主として安全保障のためである。
東京裁判を開かせた張本人であるマッカーサーが、そう言っているわけです。

1945年10月24日、国際連合が発足しました。48年12月10日には、国連総会で世界人権宣言が採択されています。
第一次世界大戦後、日本はパリ講和会議で人種差別条項の撤廃を主張しています。
ところが日本の主張は、世界から一笑に付されてしまいました。
もし日本が大東亜戦争を大きく戦わなければ、
世界人権宣言に第2条(※)のような文言が加えられたか怪しいものです。
白人国家による有色人種の支配が今でも続いていたかもしれません。
歴史を見れば、勝者が自ら敗者に譲歩することはありえないのです。
白人国家は450年にわたり、有色人種の国家を侵略してきました。日本は侵略される側です。
ところが、日本が白人国家を迎え撃つために戦ったことが、
東京裁判以降の占領行政の中で「侵略」と位置づけられてしまった。
日本は戦前から「五族協和」を唱えていました。日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人の
五族が、同じ地域でみんな仲良く暮らしましょうと。
アメリカは「自分たちが日本に民主主義を教えた」と言っているわけですが、
日本は戦前から立派な民主主義国でした。アメリカで公民権法が制定され、
黒人が選挙権を得たのは1964年。つまり東京オリンピックの年です。


※世界人権宣言 第2条
1すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地
2さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、
又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、
その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。

日教組の左傾化教育が日本の伝統を破壊している

田母神俊雄 田母神塾

日教組の左傾化教育が日本の伝統を破壊している
日教組の教員たちは、判断力が未熟な小学生や中高生に対して左翼式の刷りこみ教育を進めています。
学校の行事で国旗を掲揚することに反対し、国歌斉唱が嫌な人は起立をせず座ったままでもいいと指導し、
自分の良心に従って行動すればいいと教育する。
こうした教育は、国際スタンダードからまったく外れています。
アメリカ国民が、国旗や国歌に敬意を払っていることは皆さんもご存じでしょう。
アメリカンフットボールや野球の試合の前には、国歌斉唱の場面で選手も観客も起立して敬意を表する。
大柄なスポーツ選手が胸に手を当て、目に涙を浮かべる映像を見たことがある人も多いと思います。
国を愛し、国旗と国歌に敬意を表することは、国際的に見てまったく当たり前のことなのです。
自分の国を愛せない人が、ヨソの国を愛せるわけがない。日の丸と君が代に反対している日教組は、
愛国心をもたない国民を一生懸命育てようとしているのです。
先生が「こうしなさい」と言って、みんなに一度に同じことをやらせる。
それは軍隊式だから嫌だという人もいるのかもしれませんが、
軍隊式教育を目のかたきにするのはおかしいのではないでしょうか。
軍隊は世界各国の共通認識として、国の機関の中で最もモラルが高い集団だと認知されています。
アメリカでもフランスでも、イギリスでもドイツでもみんなそうです。
日本国内を見渡しても、実は自衛隊こそ一番モラルが高い集団だと私は思う。
ところが自衛隊が乱暴者や与太者の集まりであるかのように喧伝しています。
「旧日本軍は悪いことばかりしていた。自衛隊も旧日本軍となんら変わりがない。
自衛隊は、日本に害悪をもたらす存在である」。
こんな教え方をしているわけですから、怒りを覚えます。
左翼教育によって「アメリカ軍がいれば日本は安全だ。日本の自衛隊が大きくなれば、
他国を侵略してしまう」と教えこんでいるため、日本はなかなか自衛隊を強化する方向へ舵を切れません。
この現状は、長期的にみて日本の国益を大きく損なっています。

日本の教育と私

日本の教育と私(3) 李登輝

私は正式に日本教育を長期にわたって受けた他、家庭の事情や個人的要素が、
また強く私の以後の人生観や哲学的思考、日本人観に影響を及ぼしました。
一つは父の職業の関係で、公学校6年間に4回も転校し、その為、友達がなかなかできませんでした。
一人の兄も故郷の祖母と暮らしていて、家では私一人だけでした。
この経験が多感な私をして、いささか内向的で我の強い人間にしてしまったようです。
友達がいない代わりに本を読むことや、スケッチをすることによって時間を過ごすようになりました。
自我意識の目覚めが早い上に、この様な読書好きが、更に自我に固執することにより、
強情を張って、母を泣かせたり、学校でも学友との争いや矛盾が起こったりする様になりました。
激しい自我の目覚めに続いて、私の心の内に起こってきたのは「人間とは何か」、
「我は誰だ」、或いは「人生どうあるべきか」という自問自答でした。
これは母がある時、私に「お前は情熱的で頑固過ぎるところがある。もう少し理性的になってみたら!」と
諭してくれたことも関係していました。
自分の心の内に沸き起こるものに対して、もっと自ら理性的に対処しようと考えたのです。
そのような少年にとって、古今東西の先哲の書物や言葉にふんだんに接する機会を与えてくれた日本の教育、
教育システムほど素晴らしいものはありませんでした。
禅に魅せられ、座禅に明け暮れたのもこの頃のことですし、
岩波文庫などを通して東洋や西洋のあらゆる文学や哲学に接することができたのも、
当時の日本の、教養を重視した教育環境の中に、そのような深い思索の場が用意されていたからであると信じています。
私は日本で最近何冊かの書物を出版しました。
それが政治評論であれ、文化的なものであれ、殆どこの若き時代に得た考えを繰り返し強調し、
述べたものに過ぎません。
この中で今、日本で一番に関心を持たれているのは新渡戸稲造先生が1
900年に英文で出版した「武士道」−日本人の精神―を解題して書き直したものです。
新渡戸先生との出会いの前にも、既に多くの先哲との出会いがあったわけです。
そのうち、日本だけの例を挙げれば、私が自我に悩み、苦行しようと、禅によって自己修練に励んだ時に、
鈴木大拙先生の「禅と日本文化」等の著作が非常に役に立ちました。
臨済禅師の流れを継ぐ鈴木先生は、この東洋哲学としての禅思想を一早く欧米に紹介すると共に、
日本文化に禅思想が深くかかわっていることを詳細に述べています。
懸命に鈴木先生の本を読み漁っているうちに、明治時代における日本精神の
もう一人の体現者である西田幾多郎先生に出会いました。
文学の方面では夏目漱石の偉大な思想的貢献を忘れてはなりません。
明治44年頃、ロンドンからの帰国後における「私の個人主義」を中心とした創作が
徐々に「則天去私」に移り変わる過程は本当に偉大な精神転換でした。
(産経新聞平成18年9月16日)

※2006年9月14日から8回にわたって連載

天皇ヒロヒト

レナード・モズレー (イギリス・伝記小説家)
天皇ヒロヒト 高田市太郎訳 毎日新聞社 1966

天皇裕仁にとって1936年の2.26事件は一つだけ良い結果をもたらした。
それは皇弟・秩父宮との和解であった。
二人の間には幼少期から一種の緊張があった。
というのは、皮肉にも皇弟のほうが人格形成期に有利な条件下で育てられたからである。
天皇裕仁は皇位継承者として、短い欧州旅行を除いては、生涯ずっとしきたりのワクにはめられてきた。
しかし秩父宮は海外留学を許され、自ら妃を選ぶことを許され、
時代の発展について心に思ったことを語ることを許されていたから、
天皇裕仁が時にこうした皇弟をうらやむだけでなく、反感さえ抱かれたことを否定してもムダである。
秩父宮も妃殿下や少数の側近に対してだけではあったが、天皇のことを“鈍行馬車”などといったりした。
1930年代初期のクーデターのうち少なくとも2度は、天皇裕仁と秩父宮とを入れ替えようとするものであった。
秩父宮は事件と何ら関係はなかったが、それでも秩父宮が天皇の競争者の役をになわされた事になり、
天皇ご自身にとっても、そうではないとは思えなかった。
とにかく天皇も秩父宮について宮内省のある筋に次のようにもらされたことがある。
「秩父宮は私にない帝王の性質をいろいろそなえておる。あれは生まれながらの指導者だ。
自分の感じたことをためらわずに表す。帝王の仕事はあれには易しいことだ。
自分が大臣や国民に何を求めているか、あれは疑問に思うことがない」
この競争関係を感じ取った青年将校は秩父宮を戴くことを決めていた。権力を握り、
計画通り過激なファシスト政権を樹立した暁には秩父宮を表に立てて陰から操ろうというわけで、
秩父宮の同調は疑いなしと勝手に決め込んでいた。
ところが2.26事件で秩父宮が宮城にかけつけ、まごうことなき忠誠を示されたため彼らは面食らったに違いない。
そのさい秩父宮は妃殿下をも皇后のもとへおもむかしめられた。
事件後、秩父宮は自分が天皇支持者であることを天皇と国民に示すことを心がけられた。

靖国神社と愛国心

靖国神社とは戊辰戦争以降、日本のために亡くなられた方を対象に祭神として祀っており、
246万6532柱(平成16年現在)が英霊として祀られている。
その中には、大東亜戦争で日本軍人として戦った2万2128柱の朝鮮人戦死者も祀られており、
戦後の戦勝国による一方的軍事裁判でB級戦犯、
C戦犯として処刑された朝鮮人23名も同じく靖国神社に祀られている。
韓国人などはよくA級戦犯を引き合いに出して、戦犯を祀っている神社に首相をはじめ閣僚など
日本政府・議会などの重要人物が参拝することを強く非難するが、
何より自分たちの先祖もその戦犯であったことを理解していないようである。
もし韓国人が戦犯として処刑された朝鮮人たちを
「日帝によって無理やり軍隊に従事させられたものだ」と主張するのなら、
その強制性を認めなかった軍事裁判自体を否定しなければならない。
また、中国や韓国のみならず日本でも誤解されているA級・B級・C級戦犯の分け方だが、
これはランク分け(罪の軽重をランク分けしたもの)ではなく、カテゴライズされたものに過ぎないのである。
A級戦犯とは、極東国際軍事裁判所条例の第五条A項(日本語訳ではイ項)「平和に対する罪」の分類であり、
分類上A級と呼んでいるに過ぎない。
同じくB級は同条例第五条B項(日本語訳ではロ項)「通例の戦争犯罪」、
C級は同条例第五条C項(日本語訳ではハ項)「人道に対する罪」のそれぞれの分類上の分け方であって
罪の大小ではないのである。
そして、この極東軍事裁判は現在でも「無効論」が叫ばれる問題のある裁判だった。
たとえばA級あるいはC級の戦争犯罪人として裁かれる法的根拠となった「平和に対する罪」や「
じんどうに対する罪」などは、それまでの国際法には存在していない罪であり、
当時A級戦犯の被告を全員無罪としたインドのパール判事
(極東国際軍事裁判の判事の中でただ一人の国際法の専門家)は
「連合国の都合でそれまで存在していない罪を作り国際法を書き換え、
遡及的に適用する権限はない」としているくらいである。
さらに付け加えるなら「戦犯」自体もすでに存在していないのである。
国内的には戦犯に同情的であった当時の世論を背景にして広まった釈放運動の結果、
昭和28年(1953年)8月3日「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が衆議院本会議で決議され
昭和33年(1958年)までにはすべての戦犯が釈放された。
また、戦犯として拘禁中の死者はすべて「公務死(法務死)」として、
戦犯逮捕者は「被拘禁者」としてそれぞれ扱われ、
後に拘禁期間を含めて恩給が本人や遺族に支払われるようになった。
すなわち戦犯は連合国との講和の前に殺された事実上の戦死者と認められているということである。
実際禁錮刑を受けた重光葵は後に外務大臣、終身刑を受けた賀屋興信は後に法務大臣にまでなっており、
社会的にも犯罪者としてみられていなかったことは明らかである。
国外に目を向けるとサンフランシスコ平和条約第十一条において
「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の
他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し…」とあるものの、
その後に定められている所定の手続きに従って前述の釈放が行われているので、
すでに国際的にも「戦犯」は存在しない。
さて、そもそもすでに存在しない「A級戦犯」であるは、
これを祭祀の対象から外した場合、中国などは首相の靖国神社参拝を認めるだろうか。
答えはノーである。
現在にまで続く靖国神社問題の原点となった昭和58年(1983年)の中曽根康弘総理(当時)の参拝に関して、
中国共産党中央委員会の機関紙「人民日報」は同年8月15日付の紙面で
「靖国神社は、これまでの侵略戦争における東条英機を含む千人以上の(戦争)犯罪人を祀っているのだから、
政府の公職にある者が参拝することは、日本軍国主義による侵略戦争の害を深く受けた
アジアの近隣各国と日本人民の感情を傷つけるものだ」とし、
B級・C級を含めすべての「戦犯」について言及している。
つまり祀ってはいけない対象は「A級戦犯」から「B級・C級戦犯」へとどんどん範囲が拡大しかねず、
結局中国や韓国・北朝鮮は靖国神社が消えてなくなるまで干渉を続けるだろうと考えられるのである。
もともと日本には「死ねばみな仏」という宗教的価値観が存在しているが、
これに対して中華文化圏の中国や韓国・北朝鮮では罪人は死んだ後までも鞭打つことが当たり前であり、
恨みの対象はたとえ死んでも墓を暴き遺体をばらばらにして復讐するという、
日本人からすれば目を背けたくなるような蛮習が残っている。
1948年に韓国が独立を果たすと、併合で日本に協力し親日派のレッテルを貼られた者たちの墓を暴き、
遺体をばらばらにするなどの事件が多発している。
こうした中華文化圏の「罪人」には死後も安息は許されないとする価値観は価値観として認めなければならないが、
それと同時に日本のような「死ねばみな仏」という価値観も認めなければならない。これは「心の問題」であり、
それを他国そして他民族がどうこういうことはできないし、
また戦犯を自らも出している韓国人には文句を言う資格はまったくないといえる。
何より、こうした靖国神社などでの朝鮮人戦犯の慰霊は当の韓国人自身がなかったこととして、
今なおまともな慰霊施設を持たず供養されていないことから、
日本側からの「日本に尽くしてくれた朝鮮人へのせめてもの感謝と哀悼を」ということから始まったものである。
日本人、朝鮮人、そして同じく日本のために命をかけて戦ってくれた台湾人への
日本人としての最低限の感謝を尽くした慰霊が靖国神社への合祀であり、
軍国主義復活だなどと毎年軍事費を増大させている中国や徴兵制で国民皆兵主義の韓国などの反日軍国主義国家に
文句を言われる筋合いなどまったくないのである。
そして、最近「A級戦犯の合祀が問題なら、靖国神社からA級戦犯だけ分祀してはどうか?」
という意見が目立って多くなっている。
これは神道の何たるかを知らない者の発想であり、それをマスメディアが堂々と取り上げているあたりに、
神道のことを理解しようともせずにいい加減な主張をしている反日メディアの実態がみえてくるようである。
分祀とは端的にいえば「神様の分身を別の神社で祀ること」であり、
もともとそこに鎮座する神様を別のところに追いやるものではない。
であるから、靖国神社の祭神を分祀する場合も同じく、別の神社の分身(御魂)を移すこと(分け御魂)はできるが、
そもそも鎮座する靖国神社から祭神ご本体を取り除くなどということは絶対にできないのである。
大体、いったん神として祀ったものを都合が悪いからと勝手に移動しようなどということ自体が、
まさに「畏れ」を知らぬというものであり傲慢の極みではないだろうか?
そして、仮にA級戦犯だった方々を靖国神社から取り除いたとしたら、
今度は間違いなくB級戦犯を取り除け、その次はC級戦犯を…と日本に強要してくるだろう。
さらに「首相の靖国神社参拝がけしからん」の次は国務大臣の参拝がけしからん、
その次は国会議員の参拝がけしからん、一般国民の参拝がけしからん、
最終的には靖国参拝を取り壊せとなるのが関の山である。
常に他人に付け入り、次々エスカレートする要求を突きつける中国人や韓国人のやり口を
日本側は理解しなければならない。
ここまで、靖国神社をめぐる中国や韓国との軋轢の原点を振り返ってみたが、
英霊を戦犯だと冒涜する彼らの主張がまったくのデタラメであることが理解できたのではないだろうか。
靖国神社問題とは突き詰めれば中国や韓国による反日イデオロギーの道具であり、
国内反日左翼が反ヤスクニを訴えるのも同じ構図に則ったものである。
あるいは、中国や韓国内の失政から自国民の目を逸らすための政治の道具として使われてきたことも事実であり、
一番の問題は日本国政府が毅然とした態度で彼らの無茶な要求をはねつけなかったことである。
特に大東亜戦争で亡くなった多くの英霊たちは「靖国で会おう」と
仲間たちと誓い合って激しい戦線を戦い抜いてきたという。
「宗教宗派にかかわらず国家のために亡くなった者はすべて等しく靖国神社に祀られる」。
これは国家と国民(兵士)の約束事であり、実際靖国神社には仏教各派はもちろん
キリスト教徒だった戦没兵士も祀られているのである。
国のために命をかけて戦った英霊の御魂に心からの感謝と敬意の念を捧げるのは、
彼らによって命を紡がれ今を生きる我々の義務といえるのではないだろうか。
まして、国家の最高責任者であり陸海空の自衛隊総司令官である内閣総理大臣が靖国神社に参拝することは
当然の責務といえるはずだが、平成18年(2006年)の小泉総理(当時)の参拝以降、
歴代内閣総理大臣の靖国神社参拝は途絶えている。
中国や韓国だけではなく国内左翼勢力によって総理の靖国神社参拝が政治問題化されてしまったせいではあるが、
内政干渉もいいところの外国政府による靖国神社参拝への介入に対して日本政府がまったく反撃できない現状は、
それまで靖国問題に無関心だった若年層の心にある種の灯をともしたといえる。
日本人の心の問題であるはずの靖国神社参拝を中止せよと強要する中国や韓国に対する怒りは、
日本において忘れ去られてきたかにみえた愛国心という価値観を
少なからず国民に芽生えさせる結果となったのである。
そして、その表れとなったのが平成21年8月15日の九段下交差点における、
若年層を中心とした保守系市民たちと「靖国神社をぶっ壊せ」と叫び続けた
反日左翼の熾烈な戦いだったのではないだろうか。
停滞する経済だけではなく、国家観がかつてないほど希薄になり
左傾化著しい日本社会は崩壊の危機にあるといってよい。
靖国神社に起因して若者たちの心にともり始めた愛国心という炎が日本の崩壊を食い止め、
未来を指し示す道標の灯となることを願ってやまないものである。
(日本浸蝕 ―日本人の「敵」が企む亡国のシナリオ― 桜井誠 2010年8月)

靖国神社関連

USBメモリー大使館員が紛失、皇室訪問資料など盗難か

USBメモリー大使館員が紛失、皇室訪問資料など盗難か
2010/7/10 1:44
外務省は9日、在スウェーデン大使館勤務の日本人職員が現地で盗難に遭い、USBメモリーを紛失したと発表した。
メモリーには6月に同国を訪問した皇太子さまを受け入れる際の業務資料のほか、
同行取材した共同通信、朝日新聞、NHKの3記者の氏名や旅券番号など
個人情報が記録されていた。これまでに情報の流用は確認されていないという。
職員は資料を大使館外に持ち出す際に必要な許可を取っておらず、外務省は8日、職員に口頭で厳重注意した。
皇太子さまは6月17日から21日にかけて、スウェーデン王女の結婚式に参列するため同国を訪問。
外務省は「盗難時には既に皇太子さまは帰国しており、実害はない」としている。
外務省によると、職員は現地時間6月24日、駐車場でパンクした車の修理中、
後部座席に置いていたUSBメモリー入りのかばんを盗まれた。〔共同〕
http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C889DE3E2E5EAE0E1E1E2E3E2E2E5E0E2E3E29180EAE2E2E2;at=ALL