昭和天皇 東条元首相を称賛

米占領軍資料で明らかに

戦時下に勅語で
厚い信頼関係を裏付け
(毎日新聞平成7年3月19日or20日)

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なぜ総理大臣が靖国神社に参拝してはいけないのか

「田母神塾」―これが誇りある日本の教科書だ― 
(2009年3月 双葉社)

なぜ総理大臣が靖国神社に参拝してはいけないのか

「A級戦犯が祀られている靖国神社に、総理大臣は参拝すべきではない」。
こうした意見は、歴史的事実を全く知らない人間の常套句です。
1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効をもって日本は晴れて独立を果たしました。
戦闘は45年8月15日に終わったわけですが、
講和条約の発効をもって初めて、国際法的に戦争が終わったとされるのです。
占領期間中、占領国は被占領国に恒久法を強制してはいけないと国際法では定められています。
ところが日本は、憲法改正に教育基本法改正、教育勅語廃止までやられてしまいました。
52年4月28日に正式に戦争が終了し、日本は独立したわけです。
この時点で、占領期間中に決められたことなど全部無効と宣言しても問題はない。
国際法上、なんら咎められる理由はありません。
GHQから独立すれば、ようやく戦争は終わりになる。
そうすれば「A級」「B級」「C級」と区別をつけられ
牢獄につながれていた「戦犯」たちは、当然即座に解放されるものと日本国民は考えていました。
しかし「戦犯」たちはすぐには家族のもとへは帰ってこられませんでした。
なぜでしょう。サンフランシスコ講和条約の第11条があったためです。条文にはこうあります。

《日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、
且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。》

懲役×年、禁固△年と定められた刑期を、日本政府の責任で守りなさいというわけです。
11条は次の条文へと続きます。

《これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について
刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基づく場合の外、行使することができない。
極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の
過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。》

日本はサンフランシスコ講和条約第11条に従いながら、52年4月28日から約6年半かけて
「戦犯」と呼ばれる人たちを逐次解放していきました。最後の人が解放されたのは、58年8月30日のことです。
日本はサンフランシスコ講和条約違反はまったくしていない。律儀に守ったわけです。
本来であれば、独立後まで敗戦国を拘束するのは国際法違反です。
しかし、サンフランシスコ講和条約に調印する以外に、日本は独立しようがなかった。
仕方なく、条約に書いてあることを日本は守ったのです。
条約を律儀に守ったために、お父さんやお兄ちゃんが家族のもとへなかなか帰ってこられない。
そこで、戦犯釈放の署名運動が起きました。運動により、約4000万人もの署名が集まっています。
当時の日本の人口は7000〜8000万人でしたから、大人のほとんどが署名したということでしょう。
戦犯は釈放されるべきだという署名運動をリードしたのは日本弁護士連合会(日弁連)でした。
現在の日弁連は完全に左傾化しているため想像もつきませんが、当時の日弁連はまだまともだったわけです。
戦犯釈放のため、国会決議もなされました。共産党などのごく一部を除いてほぼ満場一致で、
「戦犯は釈放されるべきである」という国会決議がなされています。国会決議をすべく奔走したのは、
日本社会党(現在の社民党)の堤鶴代という女性議員でした。
この議員の活躍のおかげで、52年6月9日には参議院で「戦犯在所者の釈放等に関する決議」が、
同年12月9日には衆議院で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が採択されています。
同年4月30日には戦傷病者戦没者遺族等援護法という法律が制定され、
さらに6月20日には恩給法という法律が変更されました。
戦後軍人に支給された恩給は、犯罪人には払われないという決まりになっています。
弔慰金についても、犯罪者の家族には出さない。「戦犯」と呼ばれる人たちやその家族には、
恩給も弔慰金も払われなかったわけです。
しかし、戦傷病者戦没者遺族等援護法制定と恩給法改正により、
既に戦犯として処刑された人の家族にも、きちんと弔慰金が出されることが法律で決められました。
大橋武夫(法務院総裁=現在の法務大臣)は、国会で次のように答弁しています。

《いわゆる戦争犯罪人というものは、国内の犯罪とは性格的に違うものであります。従って、
その呼び方についても同じような呼び方をしないほうがいいと考えております。》

A級戦犯とかB級戦犯という呼び方は、適切ではないという答弁です。
こうした歴史的経緯があり、今に至っていることを知っておくべきでしょう。
現在も東条英機総理以下28名を「A級戦犯」と呼びたいのであれば、
そのための国会決議を通してからにしてもらいたい。
繰り返しになりますが、サンフランシスコ講和条約の発効時点で、
国際法上は「戦犯」など既に存在しないわけです。
戦後間もなく「戦犯」が収容さけていた巣鴨刑務所には、
彼らが気の毒だということで当時の芸能界の超一流どころが慰問に出かけています。(中略)
「A級戦犯はけしからん」と言うような人は、当時はほとんどいなかった。
そんなことを言っていたのは、ヘソが左側を向いた一部の人間だけです。
「戦犯には、戦争に負けた責任を取ってもらう必要がある。
日本人自身の手で戦犯を裁かなかったから、いろいろ問題が起きているのだ」という主張をする人もいます。
終戦直後の東久邇宮稔彦王内閣、幣原喜重郎内閣は、日本が自分の手で東京裁判を開き、
連合国の手を借りて戦犯の裁判は行わないことを主張しました。
しかし、ソ連の反対もあってGHQでは認められなかった。
日本がGHQの占領下にあったため、東京裁判を日本人自身の手で開くことはできなかったわけです。
結果的に東条英機総理以下7人が処刑されるなど、「A級戦犯」はGHQの手によって裁かれてしまった。
今ごろになって「日本人自身の手でA級戦犯を裁くべきだった」などと主張しても、まったく意味がないのです。
日本には、「A級戦犯」も「B級戦犯」も「C級戦犯」も存在しません。
連合国の側が勝手にそういう呼び方をしていただけです。左翼が勝手にそう呼んでいるだけなのです。
「A級戦犯が祀られている靖国神社に、総理大臣が参拝するのはおかしい」。
これまで何度も繰り返されてきたこの主張が、まったくのお門違いだということをおわかりいただけたでしょうか。

果てしなく美しい日本 ドナルド・キーン

果てしなく美しい日本
ドナルド・キーン
足立康訳

生きている日本(1973年8月)より 伊勢の遷宮(第59回・1953年)についての記述

P113
神道のもっとも重要な聖地は伊勢の大神宮で、
それは世俗的な不信心者さえ神々への信仰が呼び覚されるようなすばらしい美景の地に位している。
そこを訪れると、先ず第一に、五十鈴川の流れが目に入る。
嵐の後でも清く澄み切ったその水で、巡礼たちは神社に近づく前に、禊を行う。
神社への道は、生い茂る壮麗な檜の大木に囲まれ、真っ直ぐに生い立った木々の素朴な壮大さは
日本的な理想を象徴しているかのようである。
建物自体は古くはないが、それらは古代の伝統の姿を、まったくありのままにとどめている。
二十年ごとに新しい建物が建てられ、古い建物と代えられるが、新しいものは古いものの完全な複製である。
1953年(昭和二十八)年、伊勢大神宮第五十九回目の遷宮の儀式が執り行なわれた。
新殿建築の費用が国庫によってではなく一般からの寄進によってまかなわれ、
また、儀式に招かれた客たちの中に、宗教界と政界の貴賓たちばかりでなく農民や主婦が含まれていた点で、
それは常にない儀式であった。
古代神道の礼式の伝統によって、儀式は日暮れまで始まらなかったが、
人々は午後三時までに参会しなくてはならなかった。
参拝者たちは地面に拡げられた薄い茣蓙の上に五、六時間もの間座っていなければならず、
ほとんど肉体的な忍耐力の離れ業だったにもかかわらず、一言の私語も交わされることはなかった。
そびえ立つ樹々はおのずから深い沈黙を強いているかのようで、微かに伝ってくる町の往来やラジオの音は、
あたかも別の世の出来事のように思われた。
日が暮れて提燈が灯されると(日本のあらゆる祭りに、提燈は不可欠である)、
最初の行列が旧殿から現われ、新殿に向かってゆっくりと移動した。
それは、大工や、屋根ふき職人や、その他実際に新殿を建築した労働者たちの列であった。
彼らはこわばった青い衣を身にまとい、
儀式における自分たちの役割に誇りを抱いて、重々しい足取りを進めていった。
後には、またいくつかの行列が続いた。
それぞれひとつずつの儀式の道具を捧げ持った全国のあらゆる大社の大神官たち。
天皇の勅使(モーニングとシルクハットに身を固めた彼の弟)。
そして、最後に、漆黒の闇の中、神官たちが捧げ持つ白絹のテントに包まれて、
他ならぬ天照大御神自身が、彼女の新たな神社へ伴われていく。
水を打ったような沈黙の中を、神官たちの衣のきぬずれの音と、
掃き清められた砂利の上の木沓の反響が、この世のものとも思われぬ鬼気せまる倍音を響かせた。
神がそこにおわしますことを信ずるのは、いとも易いように思われた。
そのとりわけ神(かむ)さぴた雰囲気ゆえに、伊勢神宮の遷宮は典型的な神道の祭典とはいいがたい。
(後略)
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政府は先人へ感謝する建国記念式典を

日本時事評論
第1841号 平成28年2月5日
<天録時評>
安寧と繁栄に不可欠な愛国心の涵養
 政府は先人へ感謝する建国記念式典を

連国記念の日が祝日となってから五十回目を迎えるが、依然として政府主催の奉祝式典は開催されず、
子供たちの多くは意義すら教えられていない。国家の安寧と繁栄のためには愛国心や忠誠心が不可欠であり、
建国記念の日に、先人に感謝し、国の繁栄を祈念する行事を、国民こぞって祝うことが不可欠だ。
政府・自民党は憲法改正の実現のためにも政府主催の式典開催を決断すべきである。

屁理屈の反対理由
今年の建国記念の日は、昭和四十一年の祝日法改正で祝日になってから五十回目を迎える。
愛する祖国とそれを築いてきた先人に感謝し、この誇りある国をさらに発展させ、
子孫に伝える責任と努力に思いを致す大事な日だ。
しかし、建国記念の日の意義が、学校でもきちんと教えられていない。
他の国々の独立記念日のような政府主催の奉祝式典もなく、盛り上りが少ないことは、
誠に残念であると共に、我が国の行く末が懸念される。
これも占領行政と戦後の共産革命運動の後遺症から、われわれが未だに立ち直れていないことを示している。

わが国を占領し、独裁的権力を行使した連合国司令部(GHQ)は、昭和二十三年に祝日法を制定した。
この新法により、一月三日の元始祭、四月三日の神武天皇祭、十月十七日の神嘗祭、十二月二十五日の
大正天皇(先帝)祭と共にも二月十一日の神武天皇の即位を祝う紀元節を廃止した。
さらには、春季皇霊祭を春分の日、天長節を天皇誕生日、秋季皇霊祭を秋分の日。明治節を文化の日、
新嘗祭を勤労感謝の日に改称してしまった。
GHQが、わが国の文化と歴史的な破壊を目指したことがよく分かる。

これに対し、昭和二十六年頃から国家の誕生を祝う紀元節を復活させようという国民からの運動が高まってくる。
昭和三十二年に「建国記念日」制定に関する法案が提出されたが、
共産主義政権の樹立を目指す左翼勢力や野党の反対で成立には至らなかった。
その後、九回も法案提出をしたが、廃案とされ続けてきた。
その反対理由が「神武天皇の話は歴史的、科学的根拠がない」「軍国主義につながる」というものだった。
この反対理由は、日本を戦争の元凶と決めつけた東京裁判史観を従順に受け入れ、
神話の時代から続くわが国の誇りある歴史、文化を否定したものだ。古代に徐々に国が形成されたわが国は、
近代に誕生した国家と違っ何年何月何日に誕生したと言うことは不可能だ。
まさに神代から連綿と続く皇室をいただいていることがわが国の誇りである。
日本書紀や古事記に記されたことをもって、先人の思いを理解し、建国の日とすることは、
非科学的との批判は当たらない。神話には、科学的根拠がないものもあるが、
歴史的、文化的には大きな意味を持っているのである。

キリストや釈迦の誕生を巡る逸話も史実に基づくものではない。
しかし、史実が明らかでないからと誕生を否定しないし、
昔から何らかの事象や由来に基づいて記念の日を決めるのは、人間の知恵である。
新年の初日の出を拝み、新たな気持ちや決意を抱く人は多いが、大晦日の太陽と初日の出の太陽とでは
何ら変わっていないとケチをつける人はへそ曲がりでしかない。
屁理屈の反対理由に屈することなく、政府主催の奉祝式典を実施すべきである。

向上心が不可欠
敗戦以後、わが国の文化や伝統が軽視され、国家意識が希薄化し、
安全や福祉などのサービスを提供するのが国家の役割と錯覚している国民が増えている。
国家が安定的に運営されるためには、その構成員である国民の愛国心、忠誠心が不可欠である。
回る独楽が向心力を失えば、不安定になり、倒れるように、
国家を支えるという国民の忠誠心が希薄化すれば、国家は不安定になる。
愛国心を涵養し、社会への奉仕を養うために、国の誕生を祝うことは重要である。

戦後、学校現場では愛国心の言葉すら否定されていた。
戦後教育は、共産主義の到来が歴史的必然だとするマルクスの唯物的歴史観に支配され、
資本主義を否定し、権力者を悪とし、民衆を善と決めつけた、歪められた歴史教育が行われてきた。
1991年に共産主義国家ソビエト連邦が崩壊し、欧米では共産党が消滅した。
しかし、わが国では依然として日本共産党が存在するように、
歴史学界をはじめ、日教組など一部の頑迷固陋な人々が、唯物的歴史観を保持し、
わが国の歴史や文化を貶める教育を行っている。

最近では、経済のグローバル化が進展する中、国家を超えた世界市民を賛美して、国家の役割を否定し、
国民としての義務や責任を否定した教育をしている。
その結果「もし戦争が起こったら国を守るために戦うか」という2010年の世界価値観調査で
日本人で「はい」と答えたのは世界最低の15%であり、「いいえ」の答えが四割近くに達していた。
これを見ても、戦後の偏向した教育の結果は明らかだ。

豊かで安心安全な生活も様々な福利厚生も、国家が安定してこそ享受できる。
国家が不安定化し、あるいは政府が崩壊すれば、どうなるかは今の中東を見れば一目瞭然だ。
しかも、世界平和や地球上からの貧困や飢餓の撲滅という理想の実現は、
それぞれの国が自立し、安定した政権運営を行ってこそ可能になる。
国民自身が歴史や文化を誇りとし、先人に感謝をし、愛国心、忠誠心を涵養することが急がれる。



殿下と妃殿下のレストラン―「シェ松尾」自伝

殿下と妃殿下のレストラン
―「シェ松尾」自伝 松尾幸造 新潮社 (2001/11)
一九九三(平成五)年六月四日―。この日は、私にとって生涯忘れられない日です。
夕刻、一人のお客様が店にいらっしゃいました。痩身白髪、温和な話し方をされる上品な紳士です。
紳士がゲストの方より早く店にいらっしゃるのは珍しいことでした。
いつもは―なにぶんにも要職にあってご多忙を極めていらっしゃる方ですので―
たとえお相手が外国の大使の方であっても、遅れて店にお着きになることがほとんどだったからです。
そしてお食事の間も常に緊張感を漂わせ、時には眉間に皺を寄せ、
険しい表情をお見せになることが珍しくありませんでした。
ところが、この日は、他の誰よりも早くお着きになり、
まるで別人のように穏やかな表情をお見せになっていらっしゃったのです。
お嬢様さんとご家族のご到着までは、まだ時間がかかりそうでした。
マスコミを「まく」のに思いの外時間がかかっていたためです。
ご家族が全員揃われるまで、結局小和田氏は一時間ほどお待ちになることになりました。
マスコミの追跡は思いの外厳しかったようです。
その間、私が小和田氏のお話し相手をつとめさせていただくことになりました。
小和田夫人、お二人の妹さん、お祖父様お祖母様。
やはりマークが一番厳しかった雅子様がお着きになるのが最後でした。

田中卓


特集ワイド:「待ったなし」女性宮家論議 「愛子さまを皇太子に」 
皇学館大名誉教授・田中卓さん
毎日新聞 2014年06月24日 東京夕刊

高円宮家の次女典子さま(25)のご婚約が発表され、慶事に沸いた直後、桂宮さまが逝去された皇室。
これまで22人で構成されていたが、秋には20人となり、当面増える見込みはない。
皇室はどうなっていくのか。止まったままの女性宮家論議はどうすべきなのか。
皇学館大学名誉教授、田中卓(たかし)さん(90)を訪ねた。【田村彰子】

昨年、遷宮で話題になった伊勢神宮のそばに皇学館大学はある。全国各地の宮司を輩出する神道の名門。
学長を務めた田中さんは今、伊勢神宮内宮のそばで研究を続ける。
安倍晋三首相の祖父、岸信介元首相は、皇学館大の総長を務めていた。
田中さんは総長付として、岸元首相を支えて働いたことがある。
「『戦前の皇室の姿を取り戻すべきだ』と考えていた岸さんとは違い、
安倍さんは皇室の問題に特別な信念があるようには思えません。
今も頭の中は集団的自衛権のことでいっぱいでしょう。
しかし皇位継承問題、女性宮家創設問題は一刻の猶予もない」。
少し不自由な体を重そうにイスに委ねつつ、たくさんの資料を手元に並べ力を込めた。

専門は古代史。神武天皇が実在したとの説に立ち、
日本の歴史は万世一系の天皇を中心として展開されてきたとする「皇国史観」を掲げる。
ならば当然「男性・男系の天皇を」と主張しているかと思えば、
なんと「女性・女系で問題ない」と言い切る。
昨年末には「愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか 女性皇太子の誕生」を出版した。

そもそも「男系」継承とは、男子が嫁をとり、その子に「家」を継がせること。
対して「女系」継承は、女性が婿をとりその子に「家」を引き継ぐ。
現行の皇室典範は「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定め、
男系でかつ男性しか即位できない。今後もし国会の多数決で典範が改正され、
愛子さまが即位すれば「男系の女性天皇」、愛子さまの子が即位すれば「女系の天皇」となる。
過去「男系の女性天皇」は10代8人存在したが、「女系の天皇」はいない。
天皇家を支える宮家も実質的に男系継承に限定されており、
未婚の男性がいない、秋篠宮家以外の三つの宮家はいずれなくなる。
女性宮家創設問題は、男系にこだわる安倍内閣になってから停止したままだ。

田中さんは「女性宮家の問題は城でいうと石垣の部分。
まず、皇位継承の問題をきちんと議論しなくてはならない」と繰り返す。
現在の皇太子さまが即位されると同時に、次の皇太子が問題になる。
「皇位継承問題だとまだ時間があると思われるかもしれないが、
立太子の問題はそう遠い未来ではない」と指摘。
「なるべく直系のお子様が皇位を継承されるのがいい。
天皇家の系譜を見てもまずは直系に継承するように努力し、どうしても難しい場合に傍系へ継承した。
皇太子殿下の後には、愛子さまが皇太子になられるのが当然の流れ」と主張する。

そもそも古代史を研究した田中さんには「男系男子が皇位を継ぐことが日本の伝統であり誇り」
という考えに違和感がある。「日本の『伝統』で世界に誇りうるものは、
建国以来ひとつの『皇家』の系列で皇位が継承されてきたことです。
外国からの征服者や他の氏族に皇位を奪われることがなかった点が重要です。
『男性・男系』が続いたことではありません」と言い切る。
「神話と言われるかもしれませんが、皇室の祖先とされ、
伊勢神宮にまつられている天照大神(あまてらすおおみかみ)は女神です。
もし古代から男性中心なら、おそらく天照大神は男神だったでしょう。
だが、卑弥呼も女性とされ、古代祭祀(さいし)では女性の方が神に近いとされていた。
日本古来の伝統は必ずしも『男性・男系による皇位の継承』ではないでしょう」と言う。

さらに男性・男系を続けていきたくても「側室制度がない現在ではいずれ無理が生ずるはず」と指摘する。
近世では、江戸時代初期の後光明天皇から大正天皇まで
14代にわたって側室から生まれた皇子が皇位についた
。田中さんによると、神武天皇までさかのぼっても約50%が側室から生まれている。
「男性・男系」を守るため方策として挙げられるのが「旧皇族の復帰」だが、やはり同様の問題にぶつかる。
「現在旧皇族と言われる方々の源流である伏見宮家、有栖川(ありすがわの)宮(みや)家、
閑院(かんいんの)宮(みや)家、桂宮家をみても、正室の子による継承が15例、
その他の側室の子や養子が36例にもなります。つまり、旧宮家の方に復帰していただいても、
側室制度がない以上、いずれ男性・男系での継承が難しくなる時期が来てもおかしくない」

さらに、男性・男系のみの継承へのこだわりが、いかに天皇家にストレスを与えるかを、田中さんは危惧する。
「愛子さまはご自身がいらっしゃるのに、悠仁さまが『後継ぎ』といわれることについて
どのようなお気持ちでごらんになるでしょうか。
また、悠仁さまに嫁がれる方のプレッシャーはいかほどのものか、想像を絶します。
そもそも皇室に嫁ぐ方がいなくなってもおかしくない。
現皇太子妃のご病状にしても女性・女系の継承が公認されていれば、
違ったものになったのではと拝察します」。
確かに一般国民には想像しがたいストレスがあるのは間違いない。

「愛子さまが皇太子となれるようにし、女性宮家の設立も容認するように典範を改正する。
ここまでは私が生きているうちに何とか実現していただきたい」。田中さんはそう力を込める。
「男性・男系」派は「愛子さまの即位を認めれば、いずれその子が即位し、
女系の天皇が初めて誕生してしまう」と主張する。
この点について尋ねると、田中さんは、少し間を置いてから静かに話し出した。
「昭和天皇は、側室の廃止を昭和の初期に決められた。
しかし、その後お生まれになったのは女のお子さまばかり。
周囲は『何とか側室を』と話し合いましたが昭和天皇は認めず、そのうちに今の陛下が誕生された。
戦後は誰も『側室制度の復活を』とは本気で言わないし、現実的でもありません。
時代とはそういうものだと思います。
とにかく、愛子さまと現在の未婚の女性皇族方が皇室に残られるようにできれば、
あとは時代に合った皇室に変化されるのではないでしょうか」。
「女系」「男系」で争うことは無意味だと田中さんはつぶやいた。
「私が守りたいのは万世一系の国体です。そこに男女の違いはありません」

女性皇族がお年ごろなだけに、喫緊の課題ではないか。

http://mainichi.jp/shimen/news/20140624dde012040004000c.html続きを読む

朝鮮人労働者強制連行と「創氏改名」

すいとく(穂徳)第718号(平成26年5月1日)
時評 正眼・心眼
朝鮮人労働者強制連行と「創氏改名」
 皇學館大学現代日本社会学部 教授 新田均

 歴史問題についての韓国からの非難は相変わらずだ。論点はいくつもあるが、
今回は二つの問題について記してみたい。
 一つは「朝鮮人強制連行」なる問題で、戦前、朝鮮人を無理やり労働者として
日本に連れてきたとの批判である。確かに国家総動員法に基づく国民徴用令が内地で施行されて以降、
朝鮮人が内地へと労働動員された。その中身は昭和十四年〜十六年の「募集」、
昭和十七年〜十九年九月の朝鮮総督府による「官斡旋」、
それから昭和十九年九月〜二十年三月までの「徴用」に分かれる。
この内「強制」と言えるのは七カ月だけ行われた「徴用」だけだ。
 この「徴用」以前に“人さらい”的な「強制連行」がなかったことは、
当時の日本が朝鮮からの密入国労働者に悩まされていた事実からも明らかだ。
昭和十四年〜十七年の間に、政府は一人当たり二円〜三円の費用を使って
一万九千人を朝鮮に強制送還している。自ら密入国してくる朝鮮人が多数いるのだから、
わざわざ“人狩り”などする必要はなかった。
 一方、「徴用」は日本内地では昭和十四年から実施されていた。
これを強制連行というなら、日本人は昭和十四年から六年間も強制連行されていたのに、
朝鮮人は七カ月だけだったことになる。
 そもそも、労働動員というのは、多数の日本人の若者を戦場へ送ってしまたために生じた
労働力不足を補うための施策で、日本の若者が強制的に“戦場”に連れていかれた時に、
朝鮮の人々は日本の“職場”に連れてこられたに過ぎない。
どちらに対して過酷だったかは言うまでもないだろう。
 もう一つの「創氏改名」は、朝鮮人の姓を無理やりに日本式に変えさせたという問題だが、
これを理解するポイントは、韓国人の「姓」と日本人の「氏(苗字)」とは違うということだ。
 朝鮮人の「姓」は男系の血筋を表す記号である。結婚しても自分の父親は代わらないので
姓はそのままで、夫婦別姓ということになる。他方、日本の「氏(苗字)」は
家族という単位を表す名称なので、当然、夫婦になれば同氏(同苗字)となる。
つまり「姓」と「氏(苗字)」は本来別物なのだ。
 となると、日本式の「氏(苗字)」を新たに創ったからといって朝鮮人の「姓」を
消す必要はなかった。「創氏」は、朝鮮人の「姓」を奪ったのではなく、
別に新たに日本式の氏(苗字)を持たせるという政策だった。
 しかも朝鮮総督府内で、朝鮮人に日本名を名乗らせる日本人と区別できなくなって困るという
強い反対があり、南次郎総督が「創氏改名」は強制しない、警察も協力しなくてもよい、と明言している。
さらに、道知事は十三人中五人が朝鮮人で、その内の二人は朝鮮名のままだった。
このように、警察も協力しなければ、地方官僚のトップも朝鮮名を使い続けるという状況なので、
朝鮮人から「姓を奪う」などということができるはずもなかった。

皇室の尊厳、日本の誇りを大事にしよう

すいとく(穂徳)第706号(平成25年5月1日発行)
「皇室の尊厳、日本の誇りを大事にしよう」
神道政治連盟推薦
参議院議員比例代表(全国区)ありむら治子

国語の乱れ、とりわけ不適切な敬語表現が指摘されるようになって久しい。
昨年三月、NHK全国中継のあった参議院予算委員会において自民党を代表し質問に立った私は、
「女性宮家創設が、陛下の御意思かどうか」について、政府の見解を質しました。
宮内庁・風岡典之次長(当時、現宮内庁長官)は、
「陛下は、憲法上、国政に関する権能を有しないというお立場でございますので、
制度的なことについては特に発言をしておりませんと答弁されました。
 この発言を聞いて、「本当に宮内庁は大丈夫か?」と不安を覚えたのは私だけではなかったと思います。
天皇陛下に仕えて頂く宮内庁職員、特に幹部職員くらいは的確な言葉遣い、
適切な尊敬語・謙譲語を心がけて頂きたいものです。
 天皇陛下は昨年の春、心臓バイパス手術を受けられました。今回の手術については、新聞や報道番組のみならず
ワイドショーまでが連日にわたり詳細に報じました。
心臓の拡大図や血管のつなぎ方など事細かに説明がなされていましたが、
果たして一連の報道が適切であったのかどうかは、意見が分かれるところです。
 病気、病歴などは個人情報の最もたるもの。最近では病院においても、名前ではなく
受付番号などでアナウンスされることが多くなりました。病に向き合い、辛い状況にある患者さんの
プライバシー(個人情報)を尊重する、社会的配慮があってのことでしょう。
 かつて、昭和天皇がご病気になられた際、医師団は陛下の手術を行っていいものか、
果たして御体にメスを入れることが適切なのか、と葛藤されました。
平成の御代も二十数年経ちましたが、今上陛下も世界の平和を祈り、日本民族の安寧のため、
国民と真摯に向き合われ、力を尽くして下さっています。
東日本大震災後の陛下のお姿に国民は敬愛の念を深め、さらに絆を確かなものにしました。
「開かれた皇室」とは、陛下や皇族方のご病状や家庭内力学の全てを
万人の知るところにするということではないはずです。
こと皇室に関しては、慎みを持った謙虚な日本国民でありたい、と強く念じます。
 今から十五年前、宮内庁が中心となり、女性・女系天皇容認を含めた皇室制度に関する検討会を非公開で、
いわば秘密裏に行っていたことが明らかになっています。国柄の根幹とも言えるご皇室の御事について、
国民から隠すかのように議論しておきながら、今上陛下のご病状、手術の詳細を公表し、
果てには陛下がご快復途上、大変な思いでリハビリをなさっている大事な時期に、
陛下の埋葬方法の検討を発表した宮内庁の対応には、理解しがたいものがあります。
 政府は、万世一系、百二十五代にわたる男系男子による皇位継承の歴史を変質させる、
「女性宮家」なるものの創設を検討していますが、今こそ二千六百有余年にわたり
日本民族が堅持してきた国柄を守り、固め成す時です。
国民の多くは、天皇皇后両陛下・皇族方をお護りするのが宮内庁であると認識しています。
宮内庁には信じられる役割を担って頂きたい。私の率直な願いです。

日本を愛する者が自覚すべきこと 八木秀次

日本を愛する者が自覚すべきこと 八木秀次
PHPファクトリー・パブリッシング 2007年7月23日

第七章 皇室とは何か
■日本に危機がおとずれると頼られる存在
…しかし、興味深いことに日本の歴史を振り返ってみると、平和な時には日本国民は天皇の存在を忘れています。
少なくとも強く意識しない。天皇という存在が意識されないことはそれ自体、必ずしも悪いことではありません。
それだけ幸せな時代であるとも言えるからです。
しかし、いざ国に危機がおとずれた時には、国民は必ず天皇の存在を思い出し、最後は頼りにする。
…天皇という存在は大統領とは違って「能力原理」で成り立っているものではありません。
神話に由来する血の連続、すなわち「血統原理」に依拠したもので、誰か他に能力がある者が取って
代わることができる存在ではない。血の正統な継承者だけが、その位置につける存在です。
その始まりは神話に由来し、歴史が客観的な記録で確かめられる以後も、一貫して同じ系統が続いています。
つまり、血の一貫した継承という「歴史の重み」故に、そこに尊厳性と神秘性が備わり、またそういう存在を
日本国民は建国以来、国に危機がおとずれた際には必ずと言っていいほど頼りにしてきたのです。
また天皇もその期待に見事に応えられてきた。 …

■祭祀王という天皇の独自性
天皇とは何かということを考えるうえで、見落とすことができないのは、天皇が伝統的に祭祀王
(プリーストキング Priest King)であるということです。これはむしろ天皇の最も重要な役割です。
国家の安寧を祈る祀り主であるということです。
古代の王は世界中どこでも祭祀王という性格を持っていました。カリスマという言葉がありますが、
それはもともと神を祀る存在としての王が持っている特別の超能力というほどの意味でした。しかし、
そのような祭祀王は日本以外ではすべて滅んでしまい、天皇は今や世界に唯一残る祭祀王です。 …

■「民の父母」というもう一つの役割
…最後に国民が頼りにするのが「民の父母」としての天皇であり、また歴代の天皇ご自身も最後は自分が
立ち上がらなければならないという自覚を持っておられました。
大東亜戦争の終結時における昭和天皇のいわゆるご聖断はその一つの典型です。昭和天皇はご聖断の際に、
「自分は如何にならうとも万民の生命を助けたい。此上戦争を続けては結局我邦が全く焦土となり万民に
これ以上の苦悩を嘗めさせることは私としては実に忍び難い。祖宗の霊にお応へが出来ない」
(下村海南『終戦記』鎌倉文庫)
とおっしゃっています。
このお言葉の中に「民の父母」という考え方が典型的に示されていると思います。 
終戦時に詠まれたとされる四首の御製を紹介しましょう。
 爆弾にたふれいく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも
 身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
 国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり
 外国(とつくに)と離れ小島(をじま)にのこる民のうえやすかれとただいのるなり
ここにも、自分の身はどうなろうとも国民の命を助けたいという、まさに「民の父母」としての
お姿がよく表れています。昭和天皇は「民の父母」としての立場を強く自覚され、
「立憲君主」としての役割を逸脱されたとも言えるのです。…

■祭祀なき皇室はありえない
…先の『週刊朝日』は、宮中祭祀におけるこうした「伝統としきたり」が雅子妃殿下を苦しめ、
〈合理性を重んじる海外での生活を重ね、外交という現実の世界を生き抜いてきた雅子さま〉にとっては、
〈天皇家につながる神話性を信じることできるかというプレッシャー〉もあると想像しています。そして、
〈宮中祭祀を雅子さまが受け入れられるようにならない限り、問題は解決しない〉〈皇太子は「宮中祭祀改革」
の構想をひそかにあたためているのではないか〉〈女性により負担のかかる祭祀を簡略化するか廃止するかすれば、
雅子さまを救うことができる〉と述べるのです。
私はこれに重大な懸念を抱きます。これはまるで、雅子妃殿下のご病気を“人質”にして「祭祀王」という
天皇の本質的な性格を曖昧にし、否定することを提言しているかのように読めるからです。
これは皇室制度を形骸化させようとい提言に他なりません。
さらに憂慮すべきことは、皇太子殿下までがその提言に賛成されているかのように読めることです。
…皇太子時代から宮中祭祀を行ってこられた天皇陛下だけではなく、民間から宮中に入られた皇后陛下も
宮中祭祀に深いご理解を持っておられます。実は昭和天皇に宮中祭祀の重要性をお教えになったのは
母宮である貞明皇后です。宮中祭祀の継承において皇后の果たす役割は非常に大きいと言わざるを得ません。…

■敢えて問う、皇太子夫妻の離婚問題
…従来、主に二つの立場から皇太子夫妻の離婚説が唱えられてきました。一つは、キャリアウーマンとして
活躍してこられた雅子妃殿下らしい生き方を取り戻して欲しいという立場からの離婚説です。
もう一つは、皇位の男系継承を維持するために離婚していただき、皇太子殿下が新しく迎える妃に
男子を産んでいただこうという立場からのものです。
後者は、秋篠宮紀子妃殿下ご懐妊前に男系維持派の一部からよく聞かれた声です。
しかし、私は、別の立場から皇太子ご夫妻の離婚という事態を想定せざるを得ないと思います。
もしもこのまま雅子妃殿下が宮中祭祀を受け入れられないなら、皇后としての資質に疑念を抱かざるを得ず、
宮中祭祀、すなわち皇室の皇室たるゆえんを守るために離婚もやむを得ないということです。…
…現在、皇太子ご夫妻よりも秋篠宮ご夫妻のほうが、天皇皇后両陛下を深く理解し、
皇族としての強い責任感を抱き、将来の天皇、皇后にふさわしい資質を持つとの見方が広がっています。
とすれば、宮中祭祀を守る立場から、皇室典範第三条にある〈重大な事故〉を拡大解釈し、
皇位継承第一位の座を皇太子殿下から秋篠宮殿下に移そうとの議論が生じてもおかしくありません。
雅子妃殿下が適応障害から快復されない限り、今後、その原因が「皇室の伝統としきたり」、とりわけ
宮中祭祀nあることにますます焦点が集まるでしょう。そして、雅子妃殿下を守るため宮中祭祀を簡略化ないし
廃止せよという声が起こってくると予想できます。男系継承の重要性を理解せずに女系天皇容認論が
出てきたのと同様の事態です。…
…宮中祭祀が簡略化ないし廃止され、なおかつ女系天皇が容認されれば、皇室制度は形骸化され、
その存続が危うくなることは確実です。…

■「皇位継承」に関する重要論点
「万世一系」とされる「皇統」は一貫して「男系」よる継承であった。
神武天皇を初代として、それ以降一貫して男系の血を継承している人のみが天皇の位に就かれました。
一貫して男系というのは非常に興味深い文化で、一般家庭と皇室との決定的な違いがここにあります。
といっても、必ず子供が生まれるというわけでもないし、男の子が生まれるわけでもありません。
現に私たちは、皇室に女子しか生まれないケースを長い間見てきました。
しかし、過去の例を見ると、そういった時にも必ず男系で継承してきたのです。
具体的には、何百年も前に分かれた分家の宮家の血筋から、男系の継承者をもってきて皇位継承者にしたのです。
そのことは歴代天皇の系図を見れば一目瞭然です。
遠い遠い血からジャンプして次の継承者になっている例が、何度となくあります。
(中略)
今の天皇家の系統は、江戸時代後期の光格天皇の流れで、閑院宮家の系統です。
閑院宮家の六男の祐宮皇子が光格天皇として即位されます。そこが今の天皇家のいわば初代です。
光格天皇は先代の後桃園天皇と七親等も離れています。後桃園天皇には男子が生まれませんでした。
その系統を探したけれどもやはりいないので、うんとジャンプして
曾おじいさんの弟の孫を継承者にしたというわけです。…

■男系男子の継承は決して譲れない
「皇統」には二つの系統があると考えるべきです。閑院宮家の皇室の流れが存続しているので忘れられがちですが、
もう一つ、室町時代に分かれた伏見宮家の系統があります。
これが旧宮家の系統です。室町時代に分家して分かれた伏見宮家の系統は、「保険」あるいは「血のスペア」として
ずっとつなげていっているのです。現に昭和21年までは皇族として扱われました。その時点での男系で言えば、
今の皇室とまるで他人と言っていいほど血が遠い関係です。なにしろ、室町時代に分かれた系統同士の間柄です。
普通の感覚で言えば赤の他人です。しかし、それでも皇族だった。お互いの血の遠さは関係なく、
互いに初代・神武天皇以来の男系の血を正しく継承しているということで皇位継承権があったのです。
さらに興味深いのは、この伏見宮家の系統の、旧宮家の方々が昭和21年に皇籍を離脱する際には、
次のような加藤進宮内次官の証言があったということです。
「『万が一にも皇位を継ぐべきときが来るかもしれないとの御自覚の下で身をお慎しみになっていただきたい』
とも申し上げました」(「戦後日本の出発−元宮内次官の証言」『祖国と青年』第七一号)
皇位継承資格が潜在的にあるので、その自覚でいてください、と言っているのです。
明治の皇室典範を起草する際には井上毅がこんな発言もしています。
「継体天皇の如きは六代の孫を以て入て大統を継ぎ玉へり。不幸にして皇統の微継体天皇の時の如きことあらば
五世六世は申す迄もなし、百世御裔孫に至る迄も皇族にして在はさんことを希望せざるべからず」
(『皇室典範皇族令草案談話要録』)
古代の継体天皇の場合は二百年前に分かれた分家から天皇になられました。継体天皇は先代(武烈天皇)と
十親等も離れています。不幸にして皇統がこの先続かないという、かつての継体天皇の時のようなことがあったなら、
五代六代遡ることは言うまでもなく、百世、つまり百代遡っても男系の正統な継承者が皇族となるべきだ、
と言っているのです。
簡単に言えば、初代・神武天皇の男系の血を正しく継承している存在であればかまわないと言っているのです。
日本中世史の権威である北海道大学教授の河内祥輔氏は『神皇正統記』に言及して適切な喩えをしています。
「『正統』理念の系図は、すべての天皇が一筋に繋がっているというものではない。
〈幹〉とたくさんの〈枝葉〉に分かれ、しかも、〈枝葉〉の天皇の系統はそれぞれの所で断ち切られている。
『一系』として続いているのは〈幹〉の天皇だけである」
「〈幹〉は何によって作られるかといえば、それは血統である。皇位ではない」
「〈幹〉を作るのは男性のみである。『正統』は男系主義を特徴とする」
(河内祥輔『中世の天皇観』山川出版社)
ここで言う「枝葉」が閑院宮家の系統や伏見宮家の系統ということです。お互いに「枝葉」同士は
離れているけれども、同じ「幹」から生えたものです。重要なのは「幹」であって「枝葉」ではありません。
現代人は「枝葉」である現在の皇室の血筋ばかり見ているのですが、少し俯瞰して見れば「幹」が見えてくるはずです。
そして、その「幹」に別の「枝葉」が生えていることもわかってくるある「枝葉」が枯れれば、別の
「枝葉」が本流となる。実際、そのようにして皇位は継承されてきました。このことに気づく必要があると思います。
そして、この幹の部分がまさに日本国家としての連続性の担保なのです。
これが古代の日本の建国以来変わらず、ずっと一貫してつながってきた、ということこそ、「一系」の本質ななのです。

■皇位は公のものである
…戦前、天皇は現人神だったという話がよくあるのですが、正確には現御神(あきつみかみ)ということです。
昭和21年1月1日のいわゆる「人間宣言」で、天皇は現人神であることを否定し人間だと宣言したという
理解が一般には広まっていますが、真相はまったく違います。日本を知らないGHQに対して、いわば便宜的に
そう言ったようなものなのです。
そもそも天皇は神として信仰の対象とされるような存在ではなく、「自らが神を祀る存在」です。
そこを間違ってはいけない。天皇は昔から人間です。神を祀る存在としての人間なのです。
あえてわかりやすく喩えれば、キリスト教におけるローマ教皇と似たような存在だと言っていいでしょう。
ローマ教皇は選挙で選ばれますが、天皇は世襲です。そこの違いはありますが、天皇も宗教的には
ローマ教皇に似た色彩を持っています。ちなみにローマ教皇も、一度も女性がなっていません。ユダヤ教も
ラビ(宗教的指導者)の家系は男系です。仏教も厳格な男系です。
皇室に話を戻せば、大切なポイントは「皇位は公のものであり、決してその時々のロイヤルファミリーの
私有物ではない」ということです。現代の日本人は、この点をあまり理解していない。ある系統の男系の血が
途絶えた場合、別系統の男系が継承する。それは皇位というものが、歴代天皇からの預かり物だという認識が
皇室自体にあるからです。自分たちファミリーの私有物や独占物ではない。
たまたま自分の系統が預かっているのであり、男系の血を自分たちが先に続かせていくことができないのであれば、
別の系統いそれをバトンタッチしていく。
そうやって連続性を確保していく、という存在なのです。
この考えが理解できないと、皇室というのは今のロイヤルファミリーのことであり、男系の継承者がいなければ
愛子様やそのお子様である女系に皇位継承をすればいい、という誤った意見が心地よく感じられるのです。
以上のことは歴代天皇の系図を見れば、すぐにわかることです。前に紹介した河内祥輔氏の言葉を借りれば、
これは〈幹〉と〈枝葉〉の問題であり、「皇室典範に関する有識者会議」は枝葉だけを見て議論していたという
ことなのです。しかし、その枝葉がでている幹にこそ目を向けなければならない。
歴史を振り返ってみても、皇位継承は綱渡りをしている例が少なくありません。たとえば大正天皇がそうです。
明治天皇にはたくさんのお子様が生まれましたが、それでも成長した男子は大正天皇お一人だけでした。
側室がたくさんいた時代においてもそうであり、しかも病弱であられた。ところがその大正天皇には四人も
男子がお生まれになり、それで一息ついたのですが、実は歴史上ずっと綱渡り的にやってきているのです。
だから旧宮家がやはり何らかの役割を担っていかないと、この先もちょっとむずかしい。できれば旧宮家の中から
皇族に何人かがお戻りになるとか、準皇族的な立場に就いていただくとか、そんな措置が必要です。
「皇族」概念を旧宮家の男系男子にまで拡大することは、早急な課題だと言わなければなりません。

■異邦人が見た「天皇とは何か」
前にも触れた駐日フランス大使でもあた詩人のポール・クローデルは天皇という存在についても
実に正確に理解しています。
「天皇は日本では魂のように存在している。つねに存在し、持続するものである。それがどのようにして
始まったかは誰も正確には知らないが、終わることはないであろうということは知っている。
天皇が何か特別の役目を果たさなければならないと考えるのは不適切であるし、敬意を欠くことになろう。
天皇は干渉しないし、国民の諸事に一々口を出したりはしない。だが、もし天皇がいなければ、
物事は同じようには進まないだろうし、ただちにすべての調子が狂い、バラバラになってしまうだろうことは
誰もが知っている。それはやり直しなしにいつまでも続いていく楽音だり、それに耳を傾ける他の音が
勝手に変奏したり、ずっと不変のままであったりすることを一時的に抑えたりもするのである。
それはずっと変わらないものであると同時に、他のものに対しては変化することを強制するものであり、
有為転変、時の流れに従いながら、根源と結びつき、国民に死に絶えてならないという義務を永遠に
課するものなのである」(「明治」『朝日の中の黒い鳥』内藤高訳、講談社学術文庫)
日本人はあまり自覚していないことですが、クローデルは天皇こそが日本という国をまとめているのだ、
という指摘をしているのです。西洋人から見れば、日本には通奏低音のように天皇という音楽がずっと流れている。
そういう非常に興味深く重要な存在が天皇なのだ、と彼は言っているのです。日本人には気がつきにくい、
異邦人ならではの正確な洞察ではないでしょうか。




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皇后さまと子どもたち

皇后さまと子どもたち 宮内庁侍従職監修 毎日新聞社 2008年10月

本書は、平成20(2008)年10月15日から同月27日まで、東京・日本橋高島屋で開催した
「皇后さまと子どもたち」写真展に展示された写真などを中心に編まれている。
(中略)
本書では、皇太子妃でいらした時代から同展までに撮影された、国内外の子供たちと触れ合われ、
ご自身のお子様方を慈しまれる皇后さまのお写真を掲載した。
また、その背景につき多くの関係者から話を伺い、お子様方の思い出とあわせて、紹介するものである。


皇后さまとお子様方
◇ご退院時の悲しみ
…当時の鈴木菊男東宮大夫は、この折ことをご成婚二十年の年に次のように記している。
「(記者クラブに)申し入れたが、車中は暗いからフラッシュなしでの撮影は不可能とのことで拒絶された。
しかし、普段はかなりの無理をお受け入れになる妃殿下が、
この時には珍しく再度これをご要望になり、再び交渉した…」。
最終的に記者クラブより、どうしてもフラッシュなしでということであれば、
窓を開けてゆっくりと車を発進させてほしい、という代案が出された。
浩宮様を抱かれた皇后さまが、半分ほど車の窓を開けて写っておられる退院時のお写真は、
このような経緯で撮影されたものであったが、このお写真は、
「ご誕生間もない新宮様を寒風にさらした」「将来天皇となられる新宮様を、窓を開けて写真に撮らせるとは」
という多方面からの非難を浴び、宮内庁からもマスコミ側からも、いっさいの事の経緯の説明もないまま、
その後いつまでも批判の材料に使われるものとなった。

◇綱渡りのような授乳と断乳
…こうした海外ご訪問は別としても、それよりももっと早いご出産二ヶ月余の頃に、
長時間浩宮様と離れて過ごさねばならず、もはや母乳のみの保育が困難と判断される日があった。
四月二十九日の昭和天皇のお誕生日である。
…数日前の四月二十六日、初めて粉ミルクによる哺乳をお試しになってから、
当日を迎えられた皇后さまはその朝六時に一回目の授乳をされると、
次は宮殿お出まし直前の九時少し過ぎに二回目を済まされて御所を発たれた。
昼の御祝宴後、東宮御所から女官がお連れした浩宮様に授乳をなさる。
ことだたず静かに、とのご希望により、女官候所の一角を女官たちがきれいな屏風で囲って差し上げ、
その陰で皇后さまはそっと授乳を済まされ、午後には予定通り陛下と都の体育館にお出ましになった。
夕刻には、東宮御所に戻られた浩宮様に看護師が粉ミルクを差し上げた。
数日前のお稽古が活きて、宮様は問題なく飲まれたようだ。
その日の次のご授乳は、皇后さまが皇居からお帰りの後の夜の九時頃、
過密なご日程の間を縫うようにして授乳され一日を終えられた皇后さまは、
どんなにか安堵され最期の授乳をなさったことであろう。
…前の時代には、お望みになってもお出来にならなかったことを、
ご自分が今許されてさせて頂いていることの有難さを、皇后さまはいつもお心に深く思っていらしたのであろう。
時代の変わり目にあるために生じる様々な不合理やご不便については、決して口にされることはなかった。
ご自分がしのばれたのは、次の時代に来る人を同じ枠で縛るためではなく、
一時代を経ることによって、ようやく時が熟するということがあり、
ご自分がその時をつなぐ飛び石の役割を担われようとされていたのではないか、と見ている人もある。
時代が過ぎ、皇后さまのご養育が一段落した頃に、寛仁親王妃、高円親王妃が上がられ、次々とお子様を持たれた。
長い宮殿行事のあるような日、皇后さまは、宮殿のご自分のためのお部屋である「花の間」を
女官と共におしつらえになり、お若い妃殿下の授乳のお部屋として、いつでもお使いになれるよう
ご準備をなさっていたと伺っている。

◇「合宿所」のよう −多くの職員と共に―
両陛下のご成婚二十周年の記念誌によせて、昭和四十年代に女官を務めていた高橋滋子氏は、
両陛下のご結婚当時の御所の様子を次のように記述している。
「戦後の御所は、職員も公務員法による勤務で、宮様をお世話する出仕や看護婦も三人で三交代という、
お子様のお育ちの上ではとかく一貫性を欠きがちな心配のある環境の中で、
御三方の宮様が、のびのびとお育ちになった陰には、両殿下(現在の両陛下)の一方ならぬお心定めがおありでした。
任せた者をご信頼になり、小さなマイナスをおとがめにならず、ゆったりと皆の心を結び合わせて、
働き良い環境を作って下さったことを何より有難く思っております」。
小さな宮様方のお傍にいた職員たちは、皆とても若かった。幼稚園入園以前は看護師が、以降は親王の場合は
男子の内舎人(うどねり)、内親王の場合は女子の出仕と呼ばれるいずれも二十代か
せいぜい三十代の職員がお勤めに上がった。
東宮侍従や御用掛がその上にたってとりまとめをしていたものの、
育児体験をしたことのない若い職員たちは、試行錯誤で宮様方のお世話に当たった。
陛下より、「内舎人は、(子供たちに対して)威厳を持たなくては」とのお言葉を受けたある内舎人は、
その「威厳」をどう表せばよいかわからず、必死に独自の解釈をした結果、
「とりあえず、怒鳴ってみました」という。
定年退職した後、久しぶりに御所に上がった当時の内舎人の一人が
申し訳なさそうに申し上げるのに対して、成長された殿下方は、
「あの時、結局、どうして怒られたのかわからなかったなあ」とのどかに思い出しておられたという。

◇お手元で育てるということ
…昭和天皇、香淳皇后の吹上御所へもたびたび足を運ばれ、週に一度のご参内の時には、
出来るだけお子様方もご一緒にお連れになった。
各宮様方が一歳というお小さい時にも、両陛下の吹上御所ご訪問は、年に三十回以上を数え、
うち二十五回前後がお子様方を伴ってのお訪ねであった。
平成十九年(2007)年のお誕生日会見で、皇太子殿下は、吹上御所ご参内の思い出を次のように述べておられる。
「私は、幼少のころから昭和天皇のところに今の両陛下とご一緒に上がる機会がいろいろ多くありましたけれども、
そのようの折に、今の陛下が皇太子としていろいろなことをやっておられる、そういうことを強く感じましたし、
それから幸い日常の生活においても、公務によっては成年に達していないと出られないような公務も
あるわけですけれども、外国のお客様ですとか、いろいろな方が来られた時に
私もご一緒させていただく機会がありまして、そのような折に、今の陛下から皇太子としての在り方というものは
こういうものなんだということを、いろいろと小さいころからご一緒することによって
学ばせていただいたという感じを強く持っています」。
また、同様の思い出を、平成九(1997)年のお誕生日回答文書で紀宮様は次のように語っている。
「小さい子供を連れてのご参殿は、はらはらなさることも多かったと思われますが、両陛下が、
いつもおうれしそうに上がられ、お話しになっているご様子を拝見して、
『両陛下』というお立場への尊敬と若干の緊張を抱きつつも、『おじじ様』『おばば様』に対して
子供らしくお親しみ申し上げ、おいたわり申し上げる気持ちを自然に持つことができました」。
時刻が来て、ご退出の時間を侍従から申し上げると、昭和天皇は「もう時間か」と驚かれたような、
名残りを惜しまれるような一言をおつぶやきになったという。
お孫様方にとって、ご団欒の中での貴重な学びのひと時は、「おじじ様」「おばば様」におとりになっても、
お心の和まれる、お楽しみのひと時だったようである。

◇お弁当
…お子様方のお話しになる学校生活のご様子を、両陛下は楽しそうにお聞きになっていらしたというが、
両陛下がお子様方の学校生活をご覧になる機会は、決して多くはなかった。
紀宮様がお生まれになった年に御所に上がり、二十年近くを皇后さまのお傍近く勤めた
松村淑子元東宮女官長(及び元女官長)は、当時の皇后さまの育児を振り返り、次のような一文を残している。
「…皇后様は、限られたお時間の中で、一生懸命に宮様方をお育てでございました。
ご公務や宮中の祭祀は、全てに優先されておりましたから、お子様方には何度となく、
母宮様にいらしてお頂きになれぬ卒業式や遠足、運動会などがおありになりました。
皇后様はこのような時、ご自身の寂しさがお子様方のお悲しさを増幅しないよう、
いつも行き届いた配慮をなさっており、また、このような機会を捉え、公人としての義務のあり方を、
ごく自然にお子様方にお教えになっていらっしゃいました」。
皇后さまがお付き添いになっての幼稚園入園式の翌日から、お子様方は、侍従または女官あるいは出仕と共に
お一人で園に通われた。長い外国ご訪問の間でも、日本との時差を合わせたり、
またそのお時間をお取りになること自体が難しかったため、お子様方とお電話をなさることは
ほとんどおありにならなかった。お子様方は、旅先からの皇后さまの短いお手紙や、
ご旅行前に職員に託されたお手紙などをお読みになって、両陛下の御旅に思いを馳せられたという。…
お忙しい日常の中で、皇后さまがお子様方のために、欠かすことなく続けてこられたことがある。
その一つが、お子様方のお弁当であった。初等科の六年間は給食があったが、
幼稚園と、中、高等科合わせて八年間、皇后さまは、それぞれのお子様方のために、
よほどのことがない限り毎日お弁当をお作りになった。
礼宮様は、高等科生になられた時、学校の売店のパンなどを召し上がってごらんになりたかったのか、
高校の時は曜日によってお弁当をお願いになった。その頃皇后さまは、ご健康上の理由から毎日早朝に
お庭を歩かれていたが、その後お弁当を作り、お子様方と一緒に朝食をおとりになるというご生活であった。
初等科低学年の紀宮様が、兄宮様方のお弁当をうらやましがられた時には、
小さなお弁当箱に兄宮様方と同じものをおつめになって、朝食の席にお出しになることもおありだったという。
皇后さまのお弁当は、今のお母様たちが作られるような、キャラクターを盛り込んだ華やかなものなどではなかったが、
一生懸命に工夫され、彩いもきれいに作られた。鶏のそぼろ、いり卵やいんげん、椎茸を味付けご飯の上に載せ、
紅生姜を飾った三色ご飯のお弁当は、どなたもお好きでよく作られた。
緑野菜の炒め物、人参のグラッセ、魚や肉は下味をしっかりとつけて調理された。
大膳課の人々も、皇后さまの陰の協力者であった。
皇后さまのお台所は大膳の厨司たちが働く地下の料理場とは別に、一階の食堂のすぐ脇にあり、
冷蔵庫も備えられていた。皇后さまは一週間単位で献立表を作られ、大膳がそれに必要な材料をお調えした。
必ずその日の朝に作る、という大膳とのお約束があり、前日に準備することが出来ず困られたようだが、
やがて皇后さまも考えられて、魚や肉の味噌漬けや粕漬けならばと許可を得られた。
卵の黄身の味噌漬けも、一晩漬ける必要から前晩にご用意になることが出来、
これも宮様方のお好きな一品に加わった。
最初から何もかも上手にお出来になったわけではなく、「大変、焦がしてしまったの」というお電話で、
スワと厨司が階段を駆け上がったこともあったという。炊飯はお頼みになることもあり、
いざという時は助けてもらえるのだから、一人前のことをしているわけではない、
とよく周りの者におっしゃっていたが、ご日程のため、日中宮様方に十分にお付き合いになれない皇后さまにとり、
早朝のひと時、宮様方のために何かをなされるということを喜びとされ、また楽しみともしていらしたようである。
浩宮様も礼宮様も、初等科高学年で剣道をされたが、剣道部の冬の名物といえば、早朝練習の「寒稽古」であった。
朝早くに御所を出られるお子様方のため、皇后さまは、まだ暗いうちからお起きになり、
お子様方が出がけに召し上がれるよう、簡単だがお体の温まるお雑炊のようなものと、
稽古を終えて召し上がる朝食用のお弁当をお作りになった。また、この時、お子様方にお供をする職員にも、
同様のものを出発前に届け、身体を温めるよう気遣われたという。
最後のお弁当を召し上がってから久しい今になっても、両陛下とお子様方の間で、
お弁当のお話が懐かしく語られると伺っている。

◇お見送り・鉛筆けずり
通常ご朝食を終えられると、お子様方は支度をなさり、お母様の作られたお弁当を持って
それぞれ幼稚園や学校に行かれたが、お子様方のお出かけをお見送りになることは、
両陛下がお子様方の学童時代、出来る限り欠かさないよう努められたもう一つのことであった。…
宮中晩餐をはじめ、レセプションや御所での賓客のおもてなしなど、
両陛下のご日程は夜遅くまで続けられるものも多い。
お帰りになった時には、お子様方の寝顔をご覧になるだけの日も少なくはなかった。
紀宮様が初等科に入られてからは、夜、寝つかれた紀宮様のベッド脇の勉強机に小さなライトをともして、
翌日学校で使う鉛筆を、皇后さまは一本一本ご自身で削られた。
時々、机の上には「おやすみなさい」が申し上げられなかった代わりに、
紀宮様からお母様あての絵やお手紙が添えられていたり、
その日に習った漢字やなぞなぞを書いた紙が置かれていたりした。
朝起きた紀宮様は、真っ先に、皇后さまが付けてくださった赤丸や、お答えを楽しみに見ていらしたという。
皇后さまがお留守だったある夜、こっそり入ってこられた礼宮様が鉛筆を削って、
またこっそり出て行かれた出来事が、紀宮様の初等科の作文に書かれている。
この皇后さまの夜の小さなお仕事は、紀宮様がご両親より、刃物を使っての鉛筆の削り方を習われるまで、
お帰りがどんなに遅くなってもお疲れであっても、コツコツと続けられた。
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