元号

元号一覧
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※最短は暦仁の二カ月余り、最長は昭和の62年(元年と末年が一週間ずつ)余り
※天平の四字元号は中国の則天武后時代に倣ったものと思われる
※読みは諸説あり

「大化」から「平成」まで247 1300年超の歴史
日本の元号は、古代から1300年以上にわたり続いている。
中国に発祥し東アジアに広まった元号を今でも使っているのは日本だけ。
より平和で幸せな次の時代への願いが込められた元号はこれまで247。

吉兆、災厄でも改元
現代は代替わりのみ
元号は天皇の代替わりによる「代始(だいはじめ)改元」のほか、
めでたい前兆などによる「祥瑞(しょうずい)改元」、災厄を理由とする
「災異(さいい)改元」などで改められてきた。
現代では「元号法」により、皇位継承があったときに限り政令で定めるとされている。
日本最初の元号は645年の「大化」。
701年の「大宝」からは、同年に完成した大宝律令で、それまでの干支ではなく
元号(年号)を文書に記すよう制度化された。
平安時代の早い時期までは祥瑞改元が多い。
「大宝」は金の献上、「慶雲」は縁起のいい雲の出現、「霊亀」「神亀」「宝亀」は
めでたい亀の献上が契機になっている。
平安の中期以降になると、祥瑞改元が姿を消す代わりに災異改元が頻繁になった。
その最初は923年の「延長」で、長雨とはやり病が理由とされる。
地震、火災、天候不順、疫病のほか、戦乱なども理由とされた。
989年の「永祚」はハレー彗星の出現などによる。1855年の「安政」では、
火事や地震に加えて黒船来航も「災異」としてとらえられている。
このほか、60年に1度ずつ巡ってくる干支の「辛酉(かのととり)(しんゆう)」と
「甲子(きのえね)(かっし)」には大きな社会変動が起こり得るとの考えによる改元も
平安時代から幕末まで及んだ。
明治時代になると岩倉具視らの考えで、天皇一代に元号一つとする「一世一元」の制度となった。
新元号の選定も、それまでは学識者が長時間の議論をしていたが、明治政府の幹部の松平春嶽が
候補を三案に絞り、明治天皇が賢所でくじを引いて決めた。
戦後、明治憲法とともに旧皇室典範などが廃止され、元号についての明文法がなくなった。
1979(昭和54)年に元号法が制定され、天皇ではなく政府が元号を決めることになった。
同年に閣議報告された元号選定の手続きによると、首相から委嘱された中国古典の学者らが
考案した候補名を▽国民の理想としてふさわしい良い意味を持つ▽漢字2字▽書きやすく読みやすい
▽一般に用いられていない―などの基準で官房長官が整理。
原案数個の中から、有識者の懇談会、衆参両院正副議長からの意見聴取、全閣僚会議を経て
決定することになっている。

トップ3は「永」「元」「天」
日本の元号にこれまで使われた漢字は72。最も回数が多いのは「永」(29回)、
次が「元」「天」(各27回)で永久や元始を連想させる漢字が頻出する。
元号は天皇が決めるものとされていたが、平安時代ごろからは天皇が文章博士(もんじょうはかせ)ら
学者に案の提出を命令し、「陣定(じんのさだめ)」(改元定かいげんのさだめとも)呼ばれる公卿の会議で
選定の議論がされた。
この議論「難陳(なんちん)は論難合戦にもなった。「案にある字が以前使われた時に不祥事があった」
「長く続かなかった」といった経緯が持ち出され、言いがかりめいたやりとりにもなった。
当初は朝廷周辺が使っていた元号は、徐々に庶民にも浸透。
京都府立丹後郷土資料館の吉野健一氏によると、16世紀は全国に新元号が届くまで1年近くを要することもあったが、
江戸時代になると藩のお触れなどにより、全国の主要都市には2〜3週間、離島や山間部を含めても
1〜2カ月で伝えられた。
それに伴い「寛永」の漢字を分解し「ウサ見ること永し」と揶揄するなどの庶民の噂も広まった。
為政者側が神経をとがらせることもあったという。
一方で庶民は、元号に新時代への期待も託した。
(河北新報平成31年1月3日)

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「明治」は11度目の正直=選から漏れた元号案、最多は40回
2019年02月02日15時19分
平成も残り3カ月を切った。「明治」10回、「大正」4回、「平成」は1回。
4月1日には新しい元号が発表されることが決まったが、
これらの数字はいずれも過去の改元の際に案として出されたものの、不採用となった回数を示す。
元号に詳しい所功京都産業大名誉教授によると、不採用となった回数が最も多いのは「嘉徳」の40回。
次いで「寛安」の33回、「建正」の26回が3番手で続くが、いずれもまだ日の目を見ていない。
「明治」は室町時代に2回、江戸時代にも8回候補となった。
「大正」は鎌倉時代末期と江戸前期に計4回、「平成」も幕末に候補として浮上した後に採用された。
一部の漢字が何度も使われる傾向もあり、
使用回数が多い漢字上位10字(永、天、元、治、応、正、文、和、長、安)を組み合わせた元号は
「天応」「元治」などこれまでに41個ある。
理論的にはあと49の組み合わせが可能だが、
この中でも「文長」(24回)を筆頭に、「永安」(16回)、
「文元」(15回)、「和元」(14回)、「安長」(9回)などが過去に複数回、選から漏れている。
一方、「昭和」は初めて候補となり、そのまま採用された。
「昭」の字が使われたのも、「平成」の「成」と同様に初めてだった。(2019/02/02-15:19)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019020200439&g=soc

大喪礼、即位礼、大嘗祭

平成皇室論
橋本明 朝日新聞出版2009年7月

(昭和天皇のご大喪)
ともあれ、ご大喪は大正天皇の時と同じく新宿御苑で行われ、八王子・武蔵野墓地内の
武蔵野陵に永遠の眠りに就かれた。京都市伏見区の伏見桃山陵に埋葬された明治天皇の
先例を踏襲していない。旧皇室典範では即位の礼および大嘗祭は京都において行う(十一条)とされ、
私の母方祖父、陸軍騎兵中将三好一(騎兵監・弘前師団長)も大礼服を着用して参加している。
(中略)
東園基文掌典長からご大喪祭官の一人として奉仕するように伝えられた級友旧公爵島津忠廣は
皇居へ向かって遥拝し、12日宮内庁へ登庁、正式に辞令交付を受けた。祭官長はご学友永積寅彦、
祭官副長に山内豊秋、香川朝男を配し、柳原承光、嵯峨公元、園基信、松平保定ら計十八人、
祭官補十八人には宮内庁OBが当たった。政教分離の原則から現職公務員は皇室の宗教儀式に携われない。
掌典職も宮中三殿の通常祭祀をとりおこなうため、ご大喪には参加できない。(島津忠廣『昭和天皇の
ご大喪に奉仕して』)
ご大喪の神道に置かれている、シンプリシティ(簡素)とピュアリティ(清潔)とでもいおうか、
古代から受け継がれてきた日本人の素朴な自然観、生命観を通じて培われた伝統的な文化が息づいている。
例えば一年の喪明け11月に行われる大饗の儀二日間だが、天皇が神々と食した
食事やお酒を国民の代表として参列した人々にふるまう儀式である。
この祝宴を通して神々と天皇、そして国民が一体になる。
殯宮(ひんきゅう)に関連する儀式、斂葬から轜車発引(じしゃはついん)の儀、葬場殿(そうじょうでん)の儀、
山稜関係の儀式、一年にわたる権殿(ごんでん)の儀などが皇室行事であった。皇室の伝統を守り、
旧皇室喪儀令、貞明皇后大喪儀などを斟酌して諸儀式の内容が詰められたと聞く。
これ以外に行われる大喪の礼あるいは即位礼は国の儀式であり、新天皇即位礼の年の仲冬に
行われる大嘗祭もまた、皇室行事である。こうした区別はもとより祭政不一致の原則から明確にされたのだった。
練習を意味する習礼(しゅうらい)は五回行われた。1月31日午前10時に追号奉告の儀、
つまり亡き天皇に、新たに百二十五代天皇となった方が「贈り名」を告げる儀式が先行し、
「大行天皇には、御即位にあたり、国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され」
「ここに、追号して昭和天皇と申し上げます」と述べた。それから殯宮祗候までに
全ての儀式に参加する祭官と祭官補のために練習が組み込まれたのだった。
宮殿で最後のお別れの儀式が2月24日午前7時半から行われ、お柩が南車寄から宗明楽の調べが
奏でられるなか、皇居を後にした。二重橋から桜田門、国会議事堂前と進むころ警視庁音楽隊が演奏する
哀之極(かなしみのきわみ)が静かに流れた。島津は「普段は多くの人で賑わう四谷の駅前も
人の姿はなく、警戒の機動隊の車だけが目にとまり、西部劇にみる死の街さながらの後継を眺めながら…」と
都心のたたずまいを描写した。
冷雨が降りしきっていた。葱華輦(そうかれん)は左右に並んだ幄舎(あくしゃ)を埋めた内外の列席者に
見守られて祭場殿に奉安される。ここで奏でられた調べを道学(みちがく)という。古代から伝わる雅楽だ。
祭場殿の儀は三方二十一台の献饌に始まり、天皇ご拝礼、皇后、皇太后(ご名代常陸宮華子妃殿下)、
皇太子以下皇族の拝礼を経て、ほぼ50分で終わった。
手ひどい寒さはテレビ画面を見つめた国民にも均しく感じられた。八王子市郊外にある武蔵野陵御陵総門に
儀式が移った午後3時過ぎ、さしもの雨も降り止み、北山杉が靄に包まれて、「雅楽の悲しい調べと
玉砂利を踏みしめる音だけが聞こえていた」(前掲島津)。ご親族だけによる「お土かけ」という
内輪の儀は柩が御須屋(おすや)に納められてから薄闇に暮れなずむ午後6時まで進行した。
ぞうりなど日常のご愛用品、礼宮文仁親王の字を刻んだ墓碑銘(陵誌)が昭和天皇にご一緒し、
永遠の眠りにつかれた。

(即位礼)
明仁天皇は一年を三期に分けた喪が明けると、大正15(1926)年12月25日大正天皇崩御後の
「昭和大礼」について残された詳細な資料を取り寄せ、書陵部に収集されている唐時代などの
即位礼なども加えて、「平成大礼」をどのように構成するか、勉強を重ねられたと聞いている。
昭和大礼当時は首相の下に「大礼使」という組織体を置き、総数1499人で即位礼の準備にかかっている。
また登極令という決まりでは、「天皇は神器を奉じて皇后とともに京都に赴く」と決まっていた。
一体として動かなければならない天皇と皇后に注目しよう。
新皇室典範に場所を京都に特定する条項はもはやない。
昭和天皇は香淳皇后と共に名古屋一泊を加え京都へ向かったのだが、両陛下に先んじて
賢所など宮中三殿も移送された。賢所大前の儀はこうして京都御所で行われ、
昭和3(1928)年11月10日午後両陛下は紫宸殿に入っている。
平成の場合、式典は政府・行政・司法が置かれる首都東京で挙行と決定。
従って京都御所紫宸殿から高御座と御帳台が東京に運ばれた。
こうして迎えた平成2(1990)年11月12日の即位礼。午前、先立つ賢所大前の儀が
皇居内で行われた。これは国家行事である即位礼とは異なる皇室行事であり、
皇族がたは白絹を地とした白の束帯をそれぞれ召されて臨んだ。
午後、即位礼正殿の儀は宮殿の正殿松の間を舞台にして展開した。
正殿、およびチャールズ英皇太子・ダイアナ妃はじめ外国賓客が参列する長和殿、
さらに豊明殿などで囲むほぼ正方形の中庭に緑、黄、白、紫の旛が林立。
鉦、鼓、桙さらに弓、太刀をたばさんだ古装束の宮内庁職員らが居並んだ。
正殿に向かって左際に月像纛旛(げっしょうとうばん)、右際に日像纛旛(にっしょうとうばん)、
十八段階段下左右に万歳旛、菊花大中小旛、威儀者棒持者が中庭左右に居並んだことになる。
即位の礼委員長海部俊樹首相ら三権の長が正殿に向かって左側回廊から松の間に入った。
続いて男子皇族が入場、そして同年6月29日結婚されたばかりの秋篠宮紀子妃ら女子皇族が
位置に着いた。男子皇族は束帯を着用し、これまで永らく陛下が着用されていた黄丹袍(おうにのほう)は
いまや徳仁親王が身に着けて陛下の前に、女子皇族は十二単姿で皇后の前に列立する。
天皇は黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)に立纓冠(りゅうえいのかんむり)で高御座に立ち、
皇后は五衣・唐衣・裳(十二単)の正装で御帳台に昇る。
高御座は総檜木づくり三層の継壇上に八角形の屋根を据えた構造。
幅六メートル、奥行き五・四メートル、八トンで高さ六メートルの頂点に大鳳凰が乗っている。
鏡・玉・小鳳凰で飾られ、深紫を表とし、濃い朱色を裏地とした帳(とばり)が正面と斜め左右だけ
開けてある。畳二枚の上に陛下のいすが置かれている。御帳台は一回り小柄で、
天井に鏡が張っていない。
新天皇は、「さきに、日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、
ここに『即位礼正殿の儀』を行い、即位を内外に宣明いたします。
このときに当たり、改めて、御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、
国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、
日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智と
たゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と
繁栄に寄与することを切に希望します」
と宣じた。昭和天皇の場合は難解な勅語であったから、平明な話し言葉に時代の変化が読み取れた。
海部首相が寿詞(よごと)を述べ終わると、三、四歩下がり、「ご即位を祝して」との言上を合図に
万歳三唱が参列者から沸き起こる。零時五十分の首相入場から数えて午後一時四十分、
予定より十分食い込んで即位式は終了した。

(大嘗祭)
新帝の即位の礼の年に行われる新嘗祭を大嘗祭という。天皇がその年の新穀を神々に供え、
五穀豊穣を感謝し、それを神々と共に食するのが新嘗祭であり、日本の収穫祭である。
皇室ばかりでなく広く日本人の伝統的な習俗の中にその源泉をもっており、大嘗祭は
それを大きくしたもので、基本的には変わらない。
皇位継承儀礼に国費から捻出された総額123億円の費用は大嘗祭も含んでの額だった。
皇居東御苑に大嘗宮域が、東に悠紀殿(ゆきでん)、西に主基殿(すきでん)、
北に廻立殿、外部に幄舎を造成して形を成した。間口95メートル、奥行き99メートルの大嘗宮であった。
皮付きの木材が柱に使われ、屋根は茅葺、床は竹張りがしてあった。その上に莚あるいは近江表が敷かれ、
屋根には古代の殿舎を模して千木と勝男木が乗った。
即位礼から十日後の11月22日午後6時半、純白祭礼服に身を包んだ天皇が前後に剣璽を持つ
侍従らを従え廻立殿から悠紀殿に着いた。かがり火だけたかれた荘重な雰囲気に囲まれて
悠紀殿供饌(きょうぜん)の儀が始まった。
全国民がテレビの前に釘付けになった。陛下は采女(うねめ)(饌女とも書く)の助けで
秋田県で収穫された新穀、白酒、黒酒、果物、調理した鯛など神饌を神座脇に供えた。
拝礼の後、お告文(つげぶみ)を述べ、新穀と酒を口にされ、儀は午後9時過ぎ終了。
さらに日が変わって午前0時半から三時間ほどかけて今度は主基殿供饌の儀が大分県農民が
生産した新穀を使っておこなわれ、天皇は天照大神に供え、国家の平安を祈り五穀豊穣に感謝した。
これが皇室の秘儀とされるのは、新天皇が皇祖天照大神を招じて魂の一体化を実現する
一夜の宴が、注目されるからであろう。天皇となる皇子が“こもり”、そこで霊格を得る、
あるいは入魂の場を持つという解釈なのだが、厳格な儀礼に埋もれる何か温かな交流を見る思いで、
国民が注視している。非科学的なところに、とても捨て去れない物語性が認められ、
国家の神秘な部分が天皇の営まれる祭祀によって代表されていることを実感する。
大嘗祭こそ万世一系というか日本の同一性と連続性を保証している。国家という組織体には
物語部分が必要不可欠だと言ってもいい。それは神話と置き換えられる世界である。
国の持つ神秘性は最も純粋に日本的なものを守って継承してきた唯一絶対の日本人、
天皇によって体現され、国民と共にあろうとする象徴性に加えて伝統の守り手の側面を色濃くにじませる。
農商務が専門であり朝日新聞の論説委員も務めた民俗学者・柳田国男はこう書き残している。
「世界最古の国の公の御祭、起源もっとも遥かな大嘗祭にいつも常民生活と比べて、
多くの著しい一致を見出すkとは第一の神秘である。豊かな秋の収穫を終えて後、
直ちに新穀を取って酒を温め飯を炊き、神に感謝の祭りを申すことは、
今も村々の常の行事であって、ことに直会の古例を存する土地においては、
至尊御自ら執行させたまうところとほぼ様式を一にしている」

お二人の時代が到来したご大喪以降、初めて両陛下と旧華族との桎梏がとりはらわれる機会となったのが
平成の即位礼および大嘗祭であった。さまざまな役目は旧華族を召しだして依頼し、
仕事を割り振って協力を求めた。受けるほうも大きな伝統的式典の再現であり、
重々しい即位の大礼への関与であるから、光栄と感じて引き受けた。
壮大なドラマが完結したとき両陛下はねんごろに彼らの奉仕に感謝した。

神武東征  もう一つの天孫降臨族・長髄彦(ながすねひこ)との戦い

読む年表 日本の歴史
渡部昇一 WAC 2015年1月

神武東征 
もう一つの天孫降臨族・長髄彦(ながすねひこ)との戦い

神武天皇は「東征」を行って大和朝廷を建てる。日向国(現宮崎県)を出て北九州までは陸を行き、
そこからは船で瀬戸内海を行くが、まっすぐ東をめざしたのではなく、各地に立ち寄り、
大和に至るまで十年近くかかっているが、その間に大きな戦争の記載は『日本書紀』にないから、
その途中の土着の人々は大きな抵抗をすることもなく、天皇に従ったようである。
いよいよ河内国草香邑(日下村)の白肩津(しらかたのつ)に着き、生駒山を越えて
大和に入ろうとすると、土地の豪族長髄彦(那賀須泥毘彦)の軍隊がこれを迎え討ち、
孔舎衛坂(くさえのさか)で激戦になる。
このとき神武天皇の兄彦五瀬命(ひこいつせのみこと)の肘脛(ひじはぎ)に矢が当たり、
それがもとで彦五瀬命は進軍中に亡くなっている。
長髄彦は、やはり天孫降臨した饒速日命(にぎはやひのみこと)に仕える者で、
饒速日命は長髄彦の妹と結婚し、子供もいると記されている。
天孫降臨といえば瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)ということになるが、
それとは別に、饒速日命も、天磐船(あまのいわふね)に乗って河内に天降(あまくだ)っていたというのである。
これは、南方から来た日本の支配階級である「天孫降臨民族」が一つではなく、
いくつかの集団が日本に渡ってきていて、河内のあたりに先に来ていた一族の者が、
土着の強力な酋長の妹と結婚したということではないだろうか。
つまり、その酋長が長髄彦というわけである。
苦戦を強いられた神武天皇は「自分は日神(ひのかみ)の子孫であるのに、日に向かって進み
敵を討つのは天道にさからっている。背中に太陽を負い、日神のご威光を借りて戦うのがよいだろう」と考え、
いったん船で紀州へ向かう。この紀国(きのくに)の竈山(かまやま)で、
孔舎衛坂の戦いで深傷(ふかで)を負った兄の彦五瀬命は亡くなり、この地に葬られた。
現在も和歌山市には彦五瀬命を祀った竈山神社がある。
熊野から大和を赴こうとしたとき、八咫烏という大きなカラスが現れて先導してくれたという。
これは山城(現京都府南部)の賀茂氏の祖であり、賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)の
祭神である鴨建津之身命(かもたけつねみのみこと)の化身だとも言われているが、
おそらく土着の人間が道案内をしてくれたということだろう。このときに大伴氏の先祖である
日臣命(ひのおみのみこと)が大軍を率いて八咫烏のあとにしたがい、ついに宇陀(現奈良県)に着いた。
いよいよ長髄彦との決戦に臨んだとき、金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、神武天皇の弓の先にとまった。
その鵄は稲妻のように光り輝き、長髄彦の軍勢は、目がくらんで戦えなかったという話が残っている。
明治以来、軍人に与えられる最高の名誉だった金鵄勲章は、この神話からきている。
結局、長髄彦は神武天皇を「天神の子」と認めたあとも改心しなかったということで、
これも「天孫降臨族」である妹婿饒速日命は長髄彦を殺して、神武天皇に帰順した。
この饒速日命が物部(もののべ)氏の先祖であるという。

陛下 初等科時代

平成皇室論 橋本明 朝日新聞出版2009年7月

陛下と私が学習院初等科に入学したとき、山梨勝之進海軍大将が学習院院長。
前職の十六代院長野村吉三郎は駐米大使に転出していった。
昭和15(1940)年春、級友は東組西組合計67人だ。六年間を半分ずつ東西に分け、
常時東組にいることになった明仁親王と3年はご一緒するという工夫がなされていた。
私は東組だった。親王は車を使わず、赤坂御用地内東宮仮御所から徒歩で離宮近くを通り
権田原から四谷をつなぐ道路を渡り初等科東にあった小門から入って通学した。
ランドセルを背負い、短パンに赤線で縁取った海軍式制服を着用して。
警備などはほとんど無く、東宮傅育官一人が付くだけ。校庭を斜めに突っ切って来る具合だった。
教室に入ると前門のオオカミは秋山幹主幹、鈴木弘一国語教授であり、後門のトラは
傅育官(東園基文、村井長正ら)だった。常にはさまれて勉強した。姿勢が悪いと彼らは
遠慮会釈なく宮の背中を叩いた。東組は玄関上の貴賓室隣にあり、東側奥に傅育官用控え室が配されていた。
初等科を特徴付けた精神面の鍛え方に「教学聖訓」と「科訓」がある。軍人勅諭、教育勅語、
学習院に賜る令旨などを詰め込んだ和綴じの文書が「教学聖訓」。ほかに乃木希典が遺した
不文律の教え「科訓」が存在した。乃木は質実剛健を旨とする教育方針を貫いた武人である。
日露戦争で旅順陥落直前、無為に数万の兵士をあの世に送った直情径行の無策将軍。
凱旋後明治天皇に詫びを乞い、ご大喪に際して妻と共に殉死した陸軍大将。生前天皇から
学習院で皇孫裕仁親王の初等科教育を任され、在職中実行した諸々の言辞が科訓の
内容をなしている。「寒いときには暑いと思え」「破れた着物を着るのは良くないが、つくろってあれば
恥じることはない」といった教えから、一日を登校、在校、帰途、家庭に分け、あるべき言動を記してある。
「先生に会ったならば大きな声でおはようと申し上げよ」「集合時間が決まったら遅くとも五分前に到着せよ」などなど。
山梨はわれわれ級友を皇太子が送る生活圏の一つとみなし、東京都四谷仲町に新築となった
鉄筋コンクリート三階建て校舎で「厳格を旨とし、一般学生と差別せざること」を大方針として明仁親王の基本教育とした。
戦争中のこととて、学校行事としての見学先は富国強兵策に沿った産業、軍事施設が多く、
ときたま新宿御苑で豚汁をすすりながら行進するなどもあった。時局暗転に応じて学童疎開が始まる前、
初等科四年生の夏は慣例に従い静岡県沼津市桃郷の遊泳場で一週間の集団生活を送り、
皇太子も積極的に参加した。昭和19(1944)年、五年生の春、われわれはこの遊泳場に疎開し、サイパン陥落まで滞在した。
海軍中尉で戦艦三笠に座乗、日本海海戦に参戦した山梨が青空教室よろしく敵前回頭を敢行して
バルチック艦隊を葬った海戦の模様を講義するなど、子どもらは手に汗を握る臨戦感覚を
味わったりした。サイパン玉砕後は一時親元に帰り、9月初め、上野駅に集合して栃木県の日光金谷ホテルに
再疎開している。非常時の暮らしを共にするわれわれは同じ釜の飯を食った仲間となる。
強烈な靱帯で結ばれ、友情を育み、生涯の友となる基礎を築いたのだった。

銀ブラ

平成皇室論
橋本明 朝日新聞出版2009年7月

私は学習院高等科三年生三学期期末試験終了日、陛下と決行した「銀ブラ」を思い出した。
遡ること57年前の昭和27(1952)年2月末。東宮職職員を欺いての外出には、「決行」という
悲壮感漂う勇気と決断が必要だった。大層な悪事を働いたという感覚が私には未だにつきまとう。
このたくらみを先導したのは、実は陛下ご自身だった。
「東宮職の職員は侍従、侍医も含めて今日が一番ほっとしている。春休みが目の前だ。
休みが明ければ大学に進む。区切りがついたいまが、もっとも油断している」
凄い戦略家だと見直す思いだった。行き先を尋ねると、ガラスを切るような答えが返ってきた。
「銀座がよかろう」
もう一人の級友を引き込んで綿密な計画を立て、皇宮警察の側衛官一人に同行してもらうという
手を打った。決行はその日の夜。目白にあった学習院・清明寮を抜け出し、見つからないように、
ばれないように配慮して目白駅から山手線の内回り電車に乗った。車内は込み合い、
陛下はドア付近に立つステンレス棒を背にされたが、あれほどうれしそうな笑顔をみたことは
なかったと記憶している。新橋駅で降りて銀座を散策し、二軒の喫茶店に立ち寄った。
一軒目では陛下に気づいた支配人に挨拶され、早々に退散。
二軒目は「宮内庁御用達の洋菓子店」という陛下の情報を得て「コロンバン」へ。
一同の所持金を使い果たし、有楽町駅から山手線外回り電車に乗り目白駅で下車。帰寮は午後11時ごろだったと思う。
寮にはすでに側衛官から連絡が入っており、大変な騒ぎになっていた。陛下は自室に消え、
カギをかけて閉じこもった。私と級友の二人は、「拉致」「監禁」「逮捕」といっていいような扱いを受け、
偉い方々に謝って回った。東宮大夫には「労働運動はなお苛烈であり、
ご身分がばれて労働者に取り囲まれるようなことが起こったらなんとするつもりであったか」と
誅された。大夫は怖かったのだ。戦後、民主主義国家となった日本では、戦前の「格差社会」を
是正する大きなうねりがあった。国内では労働争議が噴出し、昭和24(1949)年7月には
人員整理の先頭に立った日本国有鉄道初代総裁・下山定則が轢死体となって発見された。
一方、米議会では共産主義者を訴追する「レッド・パージ」が起こり、
その空気が日本にも伝わる不穏さがあった。
陛下は最後まで周囲からの批判に対して黙し、妥協を拒んだ。
あの反抗精神は、独立への助走だったと私は理解している。
当時の東宮職内部にも「よくやった」と理解を示してくれた職員も何人かいた。

これに対し、昨今の東宮ご一家の外出は、あまりに気楽な日常茶飯事めいていて、
根源的に我々の悪餓鬼時代に敢行された銀座行きとは異なるようにみえる。
むろん、外食や観光、実家の親族との触れ合いといった息抜きぐらいはいいではないか、
という意見もあろうが、私には違和感が残るのだ。
「従来の公務を縮小する場合には、時期的な問題や要請した側への配慮を検討し、
無責任でない形で行わなければなりません。《時代に即した公務》が具体的にどのようなものを指すかを示し、
少なくともその方向性を指示して、周囲の協力を得ていくことが大切だと思います」
陛下は平成16(2004)年、71歳の誕生日前に宮内記者会から出された質問に
こう文書で回答を寄せた。「時代に即した新しい公務」を求めた皇太子ご夫妻に、
勝手は許されないとモノ申された形だった。天皇皇后と皇太子ご一家にこの年支払われた
内廷費は結婚前の紀宮清子内親王(現・黒田清子)を含めて総額3億2400万円だった。
当時まだ四人構成だった秋篠宮家に支払われた皇族費は5000万円である。
5億円を超えるという予算での東宮御所改装も平成20(2008)年秋に実行された。
さらに近年の東宮ご一家については、第一位皇位継承者を擁するとはいえ過剰とも思える警備が
完璧に行われる。また東宮ご一家のお出かけ先は、東宮ミッドタウンや六本木ヒルズ、
青山・表参道や丸の内、恵比寿ガーデンプレイスでのクリスマスのイルミネーション見物など、
華やかな観光名所が多い。いやがうえにも目立つうえ警備も大規模になり、
場合によっては居合わせた人たちに迷惑をかけることになる。
行楽地への私的外出の皮切りともいえるのが、平成18(2006)年3月、東京ディズニーリゾート行きだった。
敬宮愛子内親王の幼稚園入園を前に、普通の子と同じような体験を積ませたいというご夫妻の発案だった。
ご一家は雅子妃の妹・池田礼子母子や職員とともにアトラクションカーや園内を走る列車で移動し、
来園者に手を振った。
この月、東宮ご一家は愛子内親王の友人家族らとともに休園日の上野動物園でも遊んだ。
その翌日、天皇皇后両陛下はヘリコプターに分乗し、噴火の続く三宅島を視察。
親子間の落差が目立つ日程であった。
東宮ご一家のオランダ静養が発表されたのは、同年6月23日、陛下恒例の祈りの日の一つ、
「沖縄慰霊の日」午後2時半だった。16日に皇后が風邪に伴う口唇ヘルペスの症状をおして
香淳皇后例祭のお務めをされたのに、雅子妃は欠席だった。
病気療養中とはいえ、私には落差があるように感じられた。

第三次世界大戦―新・帝国主義でこうなる!

第三次世界大戦―新・帝国主義でこうなる!
田原 総一朗/佐藤 優【著】
アスコム 2008/12/25

第4章 日本 天皇と憲法、これでいいのか
(「押しつけ憲法」論の大きな間違い;天皇とは権威の世界の存在;
 天皇が還るべき原点;パッケージで考える憲法論)

佐藤 女系天皇も女性天皇も両方ダメ。それを認めると人権の思想が入る。

田原 今は現代。近代主義、合理主義でいいじゃないか。

佐藤 ダメ。近代でいいのは物事の一部だけ。   近代じゃない部分がないと近代は成り立たない。
   日本の天皇は権威。権力ではない。権威の世界には近代合理主義は適応できない。

田原 神話の世界で言えば、大本は天照大神。女性じゃないか。

佐藤 神話の男性・女性は現代のそれとは異なる概念。農産的=女性シンボル
   天皇は祀り主。日本の皇統が女性はまずい、という伝統を持っている。
   男性で千数百年続き、日本の歴史と伝統になった結果こそが重要。

田原 だけど皇太子家には愛子さんしかいないじゃないか。

佐藤 理屈のない世界の存在として「あくまで歴史と伝統を守るべきだ」。


■雅子さま問題

田原 雅子さんは実に気の毒。一種の囚われ人。基本的人権もなにもない。

佐藤 その問題にはまったく関心がない。いかにして皇統が維持されるか、それだけ。
   人間的なものを皇室に求めるのは間違い。

田原 基本的人権はどうでもいいのか。

佐藤 関心がない。だって彼女も悪いんですもん。

田原 お嫁にいったのが悪い?

佐藤 あえて言えば自己責任の世界。
   日本最古で最高の神主さんの家にとついで神主さんの行事に出られない理屈はない。
   行くなら完全に覚悟しなければ、それくらい怖い世界だと思う。

田原 皇太子の熱心な求婚を断るのは大変。

佐藤 断ることはできる。(ロシアで幽閉された日本人女性の例)

田原 雅子さんは、がなりたてられずに身体を壊しているんですよ。

佐藤 いや、閉じ込められても逃げ出すことはできるわけですから。
   雅子さんは別に缶詰にされたわけじゃない。
   身体を壊したのは、結婚してからでしょう。

田原 佐藤さんは冷たいねえ(笑)

佐藤 私は基本的に外務省出身者に対しては冷たいですから(笑)

田原 わかった。


■原武史「昭和天皇」の内容について

佐藤 (両陛下と皇太子夫妻がうまく行かない)
    いちばんの問題は宮中司祭の問題だとみている。
    日本全体の祀り主のところにお嫁にいった以上、祝詞を一緒に詠んだりすべき。

田原 祟りや因縁では病気が治らないから近代科学が発達した。

佐藤 二つの世界が必要。神主の奥さんなんだから。神主の原点に戻らないと。

田原 すると皇太子は「現世とは離れろ。もう娑婆には戻れない」と話さなければならない?

佐藤 端的に言ってそのとおり。そうなってもらわないと。
   宮中祭祀にも苦痛でもちゃんと出席する。そのうち儀式の面白さもわかってくる。


■西尾論文について

佐藤 非常にいいと思う。外務官僚どもは宮内庁、東宮から出て行けというのは
   まったく正しい。ただ、離婚に関しては、民の立場からすると言い過ぎ。
   皇室外交は意味がないと書いているが、ものすごく意味がある。
   ただしそれは日本の最後の切り札。軽々に用いてはならない。

田原 天皇も人間で人間的な皇太子を育てた。神に戻れといっても無理。
   人間宣言してもう戻せない。

佐藤 神道の原理的な発想を押さえておけばお世継ぎ問題は心配しなくてよい。
   生まれなければ見つかる。神道の発想は「明日できることを今日やるな」です。 

これが誇りある日本の教科書だ

田母神塾
これが誇りある日本の教科書だ
田母神俊雄 双葉社 2009年3月1日

日本は戦後、人類が歴史上経験したことのない占領政策を受けました。
国際法において、占領国は被占領国に対して恒久法を強制してはいけないことになっていますが、
GHQの占領期間中、日本は憲法改正、教育基本法改正、教育勅語廃止、
財閥解体などの政策により占領国から国体の弱体化を進められてしまいました。
戦勝国は、自身の歴史観を敗戦国に強制するものです。
戦争に負けた日本は自分たちの歴史観を奪われ、戦勝国の歴史を強制的に押しつけられてしまいました。
そして従軍慰安婦問題、南京大虐殺など、捏造された自虐史観を日本の隅々にまで浸透させられてしまった。

ラジオでは1945年12月9日から、「真相はこうだ」という番組が始まっています。
戦後の日本はラジオを聴くくらいしか娯楽はありません。そんな時代状況の中、
ゴールデンタイムに「真相はこうだ」という番組が流された。
この番組は週1回放送され、46年2月10日まで10週にわたって続いています。
番組内容は、「日本軍は中国大陸や東南アジアでとてもひどいことをした。
そのときの指揮官は××である。とんでもないヤツだ」というようなものでした。
GHQの検閲によって、このようなラジオ番組が日本人の歴史観を塗り替えていきました。

日本が再びアメリカに歯向かうことがないよう、GHQは検閲と焚書を進めました。
これらの占領政策は、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」に則って進められています。
戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画です。
この計画の中には、「公職追放」という厳しい項目もありました。
政治家、軍人、役人、大学教授、学校の先生、地方自治体の長……。
「日本を悪くした軍国主義者」と烙印を押された人たちは、次から次へと公職を解かれていきました。
1946年から50年にかけて、なんと合計20万人以上もの人々が公職から追われています。
そうなるともちろん、人員の穴埋めが必要になります。
空いたポストには戦前、「左翼」と言われ、要職から追放されていた人が戻ってきました。
とりわけ、左翼の教授が教育の現場に戻ったことが、後世に悪影響を与えていると私は思います。
彼らは自分が大学の最高ポストに就いただけではなく、左翼の弟子たちを大勢連れて大学に乗り込みました。
戦後の大学はまるで左翼に占拠されたような状態になってしまったわけです。
中学や高校で自虐史観を教えられ、大学でも左翼教育を受けた学生たちは、過激な学生運動に邁進してしまった。
すべてとんでもない教育のせいです。
戦後、学校の先生になった人の中には、左翼史観で固まった人間が多く、
日教組という左翼団体によって、戦後教育はますます左傾化したことを知っておきましょう。

アメリカは、日清戦争や日露戦争に勝利して権益を拡大していく日本の存在が疎ましく思えてならなかったでしょう。
日本になんとか嫌がらせをしつつ、権益は自国に引っ張りたかった。
アメリカは、何かと日本に難癖をつけてはいじめてきた。
難癖をつけながら、日本が握る権益を横取りしてしまおうと狙っていたのです。
そうした時代が長く続いた結果、真珠湾攻撃に至った。

1900年6月、義和団が武装蜂起しました。
外国人が約4000人も住んでいた北京の公使館区域は、武装した義和団によって取り囲まれてしまいました。
このままでは外国人の命が危ないと、イギリスは日本に軍を派遣するよう要請した。
4度もの要請に応え、ようやく日本は軍を派遣しました。
日米英など8カ国により約2万人の多国籍軍が組まれ、約2か月半かけて義和団の乱が鎮圧されました。
鎮圧後の最終議定書によって日本は北京に軍を駐留できることになりました。
盧溝橋事件当時、北京には日本軍がいましたが、条約に基づき正当な手続きを踏んで駐留していたわけです。
当初2600人だった日本軍は、盧溝橋事件の時点で5600人にしか増えていません。
中国には国民軍塔匪賊、馬賊が数十万人もいたわけですから、5600人程度の軍隊が中国を侵略したとはとても言えない。

1910年の日韓併合以降、日本は朝鮮半島を不当に侵略してきたと言う人がいます。ほんとうでしょうか。
『「植民地朝鮮」の研究』(杉本幹夫著、展転社)という本を読むと、
日韓併合に伴い朝鮮が日本からどんな恩恵を受けたか、詳しく記されています。
例えば日本は、朝鮮の産業振興のために多額の支援をしました。
その結果、日韓併合当時1万2000石(1石=約180リットル)
だった繭の生産量は、1916年には7万6000石まで増え、漁獲高は、734万円から1595万円まで2倍以上になりました。
また当初、わずか100校しかなかった小学校が、日本が教育事業に予算を割いたことにより、
1916年には400校以上に、学生数は1万7000人から6万6000人に増えました。
水害や旱魃など災害への対策費も予算として計上し、災害が起きなかった場合はそのまま積み立てていたため、
多少の災害なら政府に救済を求めるまでもなかったそうです。
朝鮮人の生活状態は決して良くはなかった。貧しく、教育も行き届いていなかった。
そんな朝鮮に日本が手を入れることで、10年もしないうちに良い国になったことがよくわかります。
平和で豊かに暮らしている朝鮮人を、日本が搾取したわけではない。
困窮している朝鮮人を日本が助け、生活水準を向上させたという当時のデータに目を向けるべきです。

自虐史観論者たちは、日本が「創氏改名」によって「金(キム)」さんを
「金村」さんに変えるなど、朝鮮人の名前を強制的に変えさせたと主張しています。
朝鮮は歴史的に、常に中国の属国のような扱いをされてきました。
一方、日本人だとわかったとたんに中国人は敬意を表する。
そこで朝鮮の人は考えた。「俺たちも日本人になってしまえばいい。
日本名さえもらえば、今は威張っている中国人たちも俺たちに頭を下げるはずた。俺たちも日本名をもらおう」。
これが創氏改名の実態です。
実は創氏改名した朝鮮人は100パーセントではありません。
この事実こそ、強制だという主張を退ける証拠でしょう。
実際には、役場に行って改名届けをし、日本名を名乗ることを許可してもらってから、
ようやく朝鮮人は日本名を名乗るきとができたのです。
日本政府の中には、朝鮮人に日本名を与えることに反対した人もたくさんいました。
しかし、朝鮮人は日本名を与えてもらうことを希望している。
朝鮮は日本の一部なのだからいいではないかということで、創氏改名が進められることになりました。
(中略)
日本の歴史教科書には、「日本は朝鮮人に創氏改名を強制した」と書いてあります。
しかし朝鮮名のままでいた人もたくさんいました。
例えば、陸軍士官学校26期の洪思翊(ホン・サイク)陸軍中将は、朝鮮名のままでした。
彼は陸軍中将まで昇進し、戦後はマニラの軍事裁判で処刑されています。
洪思翊中将より1期後輩の金錫源(キム・ソグォン)大佐も、
創氏改名はしていません。軍部は彼らが朝鮮名のままでもいいと認めていたわけです。
韓国の李王朝最後の殿下である陸軍士官学校29期生の李垠(イ・ウン)殿下は、
昭和天皇のお妃候補の一人でもあった梨本宮方子(なしもとのみやまさこ)妃殿下と結婚しています。
お二人の結婚に際し、日本政府は天皇家の次に予算をかけて処遇しました。
宮内省はお二人のために、1930年に新居を建設しています。
その新居が、現在の赤坂プリンスホテル旧館です。日本政府がいかに李垠殿下を手厚く遇したかわかるでしょう。
日本が李王朝をつぶすつもりであれば、わざわざそこまで厚遇することは絶対にありません。
こうした史実を見ても、日本が朝鮮を植民地化して搾取したわけではないことがよくわかります。
(中略)
自分たちが1億円持っていて相手が100万円しかなくても、
「お前は半分の50万円を寄越せ」と金持ちの側が言っていた。
それが戦前の植民地主義です。しかし日本は、1990年以降西ドイツが行ったように、
日本から持ち出しをしながら満州や朝鮮の人々の生活水準を向上させてあげていたのです。
戦前の日本を、欧米列強の帝国主義運動と同列に論じることはできません。
日本のやり方は、欧米列強とは正反対だったのです。
朝鮮半島でも満州でも、日本の統治下で人口は激増しました。生活が貧しく残虐行為が行われていれば、
人口が増えることなど絶対にない。創氏改名を強制して無理やり日本人が搾取しているような状況で、
現地の人たちが豊かな生活を送れるわけはありません。
繰り返しになりますが、創氏改名するかどうかは、朝鮮人本人の希望に委ねられていたのです。

戦後、日本はGHQの占領下にありました。
国際法上、日本の戦争はサンフランシスコ講和条約の発効(1952年4月28日)まで終わっていなかった。
戦闘は45年8月15日に終わったわけですが、占領行政が続いた52年4月28日まで、
国際法上はまだ戦闘が継続している状態だったわけです。占領行政下において、占領国は被占領国に対して
恒久法を強制してはならないと国際法で定められています。実際はどうだったのでしょうか。
GHQは占領行政下で、憲法や教育基本法を改正しました。
さらに教育勅語を廃止し、国家神道を廃止した。これらはすべて国際法違反です。
(中略)
大日本帝国憲法下の時代は、非常に悪かったかのように言われています。そんな時代に戻れは、
また戦争が起きて大変なことになると言う人がいますが、決してそんなことはありません。
「戦前の日本は悪かった」という刷りこみにとらわれる必要はない。

GHQ最高司令官として日本占領に当たったマッカーサーは、朝鮮戦争の司令官の任にも就いています。
彼は朝鮮戦争の難しさを知り、原子爆弾の使用を主張しました。
そのためトルーマン大統領と対立し、司令官を解任されています。
マッカーサーはアメリカへ帰国し、上院の軍事外交合同委員会で、
大東亜戦争について次のような重要な証言をしています(1951年5月3日)。
≪もしこれらの原料【=綿や羊毛、石油や錫、ゴムなど】の供給を断ち切られたら、
1000万から1200万の失業者が発生するであろうことを彼ら【=日本】は恐れていました。
したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。≫
(邦訳は小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明』講談社学術文庫)
日本が大東亜戦争を戦ったのは、主として安全保障のためである。
東京裁判を開かせた張本人であるマッカーサーが、そう言っているわけです。

1945年10月24日、国際連合が発足しました。48年12月10日には、国連総会で世界人権宣言が採択されています。
第一次世界大戦後、日本はパリ講和会議で人種差別条項の撤廃を主張しています。
ところが日本の主張は、世界から一笑に付されてしまいました。
もし日本が大東亜戦争を大きく戦わなければ、
世界人権宣言に第2条(※)のような文言が加えられたか怪しいものです。
白人国家による有色人種の支配が今でも続いていたかもしれません。
歴史を見れば、勝者が自ら敗者に譲歩することはありえないのです。
白人国家は450年にわたり、有色人種の国家を侵略してきました。日本は侵略される側です。
ところが、日本が白人国家を迎え撃つために戦ったことが、
東京裁判以降の占領行政の中で「侵略」と位置づけられてしまった。
日本は戦前から「五族協和」を唱えていました。日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人の
五族が、同じ地域でみんな仲良く暮らしましょうと。
アメリカは「自分たちが日本に民主主義を教えた」と言っているわけですが、
日本は戦前から立派な民主主義国でした。アメリカで公民権法が制定され、
黒人が選挙権を得たのは1964年。つまり東京オリンピックの年です。


※世界人権宣言 第2条
1すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地
2さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、
又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、
その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。

日教組の左傾化教育が日本の伝統を破壊している

田母神俊雄 田母神塾

日教組の左傾化教育が日本の伝統を破壊している
日教組の教員たちは、判断力が未熟な小学生や中高生に対して左翼式の刷りこみ教育を進めています。
学校の行事で国旗を掲揚することに反対し、国歌斉唱が嫌な人は起立をせず座ったままでもいいと指導し、
自分の良心に従って行動すればいいと教育する。
こうした教育は、国際スタンダードからまったく外れています。
アメリカ国民が、国旗や国歌に敬意を払っていることは皆さんもご存じでしょう。
アメリカンフットボールや野球の試合の前には、国歌斉唱の場面で選手も観客も起立して敬意を表する。
大柄なスポーツ選手が胸に手を当て、目に涙を浮かべる映像を見たことがある人も多いと思います。
国を愛し、国旗と国歌に敬意を表することは、国際的に見てまったく当たり前のことなのです。
自分の国を愛せない人が、ヨソの国を愛せるわけがない。日の丸と君が代に反対している日教組は、
愛国心をもたない国民を一生懸命育てようとしているのです。
先生が「こうしなさい」と言って、みんなに一度に同じことをやらせる。
それは軍隊式だから嫌だという人もいるのかもしれませんが、
軍隊式教育を目のかたきにするのはおかしいのではないでしょうか。
軍隊は世界各国の共通認識として、国の機関の中で最もモラルが高い集団だと認知されています。
アメリカでもフランスでも、イギリスでもドイツでもみんなそうです。
日本国内を見渡しても、実は自衛隊こそ一番モラルが高い集団だと私は思う。
ところが自衛隊が乱暴者や与太者の集まりであるかのように喧伝しています。
「旧日本軍は悪いことばかりしていた。自衛隊も旧日本軍となんら変わりがない。
自衛隊は、日本に害悪をもたらす存在である」。
こんな教え方をしているわけですから、怒りを覚えます。
左翼教育によって「アメリカ軍がいれば日本は安全だ。日本の自衛隊が大きくなれば、
他国を侵略してしまう」と教えこんでいるため、日本はなかなか自衛隊を強化する方向へ舵を切れません。
この現状は、長期的にみて日本の国益を大きく損なっています。

日本の教育と私

日本の教育と私(3) 李登輝

私は正式に日本教育を長期にわたって受けた他、家庭の事情や個人的要素が、
また強く私の以後の人生観や哲学的思考、日本人観に影響を及ぼしました。
一つは父の職業の関係で、公学校6年間に4回も転校し、その為、友達がなかなかできませんでした。
一人の兄も故郷の祖母と暮らしていて、家では私一人だけでした。
この経験が多感な私をして、いささか内向的で我の強い人間にしてしまったようです。
友達がいない代わりに本を読むことや、スケッチをすることによって時間を過ごすようになりました。
自我意識の目覚めが早い上に、この様な読書好きが、更に自我に固執することにより、
強情を張って、母を泣かせたり、学校でも学友との争いや矛盾が起こったりする様になりました。
激しい自我の目覚めに続いて、私の心の内に起こってきたのは「人間とは何か」、
「我は誰だ」、或いは「人生どうあるべきか」という自問自答でした。
これは母がある時、私に「お前は情熱的で頑固過ぎるところがある。もう少し理性的になってみたら!」と
諭してくれたことも関係していました。
自分の心の内に沸き起こるものに対して、もっと自ら理性的に対処しようと考えたのです。
そのような少年にとって、古今東西の先哲の書物や言葉にふんだんに接する機会を与えてくれた日本の教育、
教育システムほど素晴らしいものはありませんでした。
禅に魅せられ、座禅に明け暮れたのもこの頃のことですし、
岩波文庫などを通して東洋や西洋のあらゆる文学や哲学に接することができたのも、
当時の日本の、教養を重視した教育環境の中に、そのような深い思索の場が用意されていたからであると信じています。
私は日本で最近何冊かの書物を出版しました。
それが政治評論であれ、文化的なものであれ、殆どこの若き時代に得た考えを繰り返し強調し、
述べたものに過ぎません。
この中で今、日本で一番に関心を持たれているのは新渡戸稲造先生が1
900年に英文で出版した「武士道」−日本人の精神―を解題して書き直したものです。
新渡戸先生との出会いの前にも、既に多くの先哲との出会いがあったわけです。
そのうち、日本だけの例を挙げれば、私が自我に悩み、苦行しようと、禅によって自己修練に励んだ時に、
鈴木大拙先生の「禅と日本文化」等の著作が非常に役に立ちました。
臨済禅師の流れを継ぐ鈴木先生は、この東洋哲学としての禅思想を一早く欧米に紹介すると共に、
日本文化に禅思想が深くかかわっていることを詳細に述べています。
懸命に鈴木先生の本を読み漁っているうちに、明治時代における日本精神の
もう一人の体現者である西田幾多郎先生に出会いました。
文学の方面では夏目漱石の偉大な思想的貢献を忘れてはなりません。
明治44年頃、ロンドンからの帰国後における「私の個人主義」を中心とした創作が
徐々に「則天去私」に移り変わる過程は本当に偉大な精神転換でした。
(産経新聞平成18年9月16日)

※2006年9月14日から8回にわたって連載

天皇ヒロヒト

レナード・モズレー (イギリス・伝記小説家)
天皇ヒロヒト 高田市太郎訳 毎日新聞社 1966

天皇裕仁にとって1936年の2.26事件は一つだけ良い結果をもたらした。
それは皇弟・秩父宮との和解であった。
二人の間には幼少期から一種の緊張があった。
というのは、皮肉にも皇弟のほうが人格形成期に有利な条件下で育てられたからである。
天皇裕仁は皇位継承者として、短い欧州旅行を除いては、生涯ずっとしきたりのワクにはめられてきた。
しかし秩父宮は海外留学を許され、自ら妃を選ぶことを許され、
時代の発展について心に思ったことを語ることを許されていたから、
天皇裕仁が時にこうした皇弟をうらやむだけでなく、反感さえ抱かれたことを否定してもムダである。
秩父宮も妃殿下や少数の側近に対してだけではあったが、天皇のことを“鈍行馬車”などといったりした。
1930年代初期のクーデターのうち少なくとも2度は、天皇裕仁と秩父宮とを入れ替えようとするものであった。
秩父宮は事件と何ら関係はなかったが、それでも秩父宮が天皇の競争者の役をになわされた事になり、
天皇ご自身にとっても、そうではないとは思えなかった。
とにかく天皇も秩父宮について宮内省のある筋に次のようにもらされたことがある。
「秩父宮は私にない帝王の性質をいろいろそなえておる。あれは生まれながらの指導者だ。
自分の感じたことをためらわずに表す。帝王の仕事はあれには易しいことだ。
自分が大臣や国民に何を求めているか、あれは疑問に思うことがない」
この競争関係を感じ取った青年将校は秩父宮を戴くことを決めていた。権力を握り、
計画通り過激なファシスト政権を樹立した暁には秩父宮を表に立てて陰から操ろうというわけで、
秩父宮の同調は疑いなしと勝手に決め込んでいた。
ところが2.26事件で秩父宮が宮城にかけつけ、まごうことなき忠誠を示されたため彼らは面食らったに違いない。
そのさい秩父宮は妃殿下をも皇后のもとへおもむかしめられた。
事件後、秩父宮は自分が天皇支持者であることを天皇と国民に示すことを心がけられた。