宮中物語 元式武官の回想

宮中物語 元式武官の回想
武田竜夫著 中公文庫

四月二十九日の天皇誕生日──夜来の雨はからりと晴れ上がった好天である。
有名になった、いわゆる晴れ男陛下の神通力のオドロキである。
だから戸外行事でもあって、雨模様の時など、
「なーに、陛下がお出になられるから晴天になるさ」などとささやかれるまでになってしまった。
いわゆる神話的な「エンペラーズウェザー」として、今や外国にまで知られているらしい。
なんでも陛下がお出でになられたとき雨天というのは、ほんの数えるほどなのだそうだ。
ある時も園遊会前夜のパーティーで当日の雨天必至という気象予測が話題になったとき、
某国大使が「陛下がお出でになられるのだから雨は降らないと思うね」と
言って笑わせていたことがあったが、それほど有名になってしまったようだ。


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消えたお妃候補たち 小田桐誠

「消えたお妃候補たち」小田桐誠 1993年8月25日初版 宝島社

指摘されたいくつかの問題点
宮内庁は小和田について弁護士や興信所を通じ、直系三代に汚点がないか、両親の評判、
本人の健康状態などを徹底的に調べ、独自にチェックしたといわれる。
その結果は首相官邸にも報告されていたという。報告にはいくつかの問題点が指摘されていた。
一つは八七(昭和六十二)年暮れから八八(昭和六十三)年初めに発売された一部週刊誌が指摘していたように、
小和田雅子の母方の祖父・江頭豊が、日本興業銀行の銀行マンから転じたとはいえ、
代表的な公害企業・チッソの社長や会長を務めていたこと。
「お妃とともに全国を回らなければならぬ立場にある浩宮さまの訪問先で、
水俣病の患者のムシロ旗が立つようなことがあっては」と宮内庁幹部は懸念したのである。
二つめは、三代さかのぼった中に軍人がいること。
三つめは、身長が浩宮より小和田雅子のほうが高くなることへの危惧。
四つめは、まったく取るに足りないことだが、彼女の妹が双子であり、
もし彼女が双子を生んだ場合、皇位継承の問題が残ること。
五つめは、皇室に入った女性で、仕事をした経験のある人はいない−というものだった。
母方の親戚に江口朴郎東大名誉教授(故人)のような左翼系の学者がいることを
マイナス要因にあげる者もいたという。
「特にチッソの問題は、宮内庁のいろいろな意向を覆い隠す格好の材料だった」(宮内庁担当記者D)
といわれる。宮内庁幹部には、小和田雅子にこだわらなくても、他に良い女性がいるだろう、との楽観論もあった。
当初美智子妃は、浩宮の小和田雅子への気持ちが高まり、彼女がなかなか首を縦にふらない状態をある種
好ましくみつめていたようだ。「七、八合目」発言でも、浩宮が彼女をなんとしても皇室に迎えたいと
追いかけている状態とみて、静かに見守っていたといわれる。
だが、改めて小和田雅子をみつめ直したとき、容易に妥協できない女性だけに……と
不安感が頭をもたげたようなのである。一方、天皇家と親しい福祉関係団体役員は、美智子妃が
彼女に消極的だったはずはない、とこう語っている。
「美智子妃は、基本的に『浩宮の思うように、この人と決めたらそれを貫きなさい』と
寛大な親心を示していたんです。消極的だったのではなく、浩宮さまから具体的な話がないうちから
口を挟むのは控えようというお考えから、静かに優しく見守っていたんですよ。
人に押し流されずに自分が納得して事に対処しなさい、ということなのです」
二人の間に進展がないのは、マスコミ騒動に加え、キーマンの一人、安嶋東宮大夫が胃の手術をしたあと
自宅療養していたことも微妙に影響していたといわれる。
ただハーバード時代にボーイフレンドがいたことも一つのネックになっているのでは、
とみるマスコミ関係者もいた。
小和田雅子の母方の祖父に難点ありとして、富田宮内庁長官は浩宮に
「(小和田さんには)こういう問題が付随しますからね」と伝えた。
「難しいですか」
「はい」
「ああ、そう。それなら仕方ないですね」
二人の間でこのようなやりとりがあったといわれる。当時のことを富田は
『週刊朝日』(九三年一月二十二日号)でこう答えている。
「私が(小和田さんに)反対したことはありません。ただ、当時は、いわゆる『チッソ問題』の
被害者の方がまだ大勢おられました。加えて、批判勢力というか、社会運動派の人たちが
(チッソの)東京本社に、押し掛けたりもしていた。そういう状況でしたから、
もう少し様子をながめたほうがいいのではないかと、そう殿下に申し上げた。
殿下はそれを『わかった』といわれたのです。
『おやめなさい』といったのではなく『みつめましょう』といったのです」
富田の後を継いだ藤森昭一も当初は慎重論だったといわれる。
ともかく、こうして小和田の線はほぼ消えるのだが、
そうとも知らぬマスコミはお妃候補の一人として取材を続け、浩宮もまた気にとめ続けたのだった。

マスコミの対応など小和田雅子の言動を観察していた美智子妃は、
彼女の能力に注目しつつも、ある懸念を抱いて一度はあきらめたといわれる。
宮内庁担当記者Aがこう解説する。
「美智子妃は真面目でしっかり者の長男とうまくやっていける女性かどうか、じっと見ていたのです。
彼女を見るにつけ、長男の方が振り回されかねない気丈さがある。
自分の意見をはっきり言い、論理的思考もできる。
ところが、皇室には論理的思考だけでは割り切れないところがあるわけですよ。
もし彼女がこのまま皇室の一員になったらどうなるか。
いずれ衝突する場面が出てくるのではないか、と美智子妃は考えた筈です」
(148ページ)

昭和天皇逝去後、浩宮は東宮として独立、皇太子という立場になった。
1989(平成元)年2月、皇太子は側近に「小和田雅子さんではだめですか?」と尋ね、
彼女との結婚にこだわりを見せたといわれる。5月には「小和田本命説」も流れた。
だが、同年9月、小和田雅子は公式にお妃候補であることを否定する。皇太子は9月23日からベルギーを訪問した。
(159ページ)

90(平成2)年6月、小和田雅子は2年間の留学生活を追え帰国、北米二課に配属された。
同じ6月、「それならぼくは結婚しない」と題する記事が『週刊ポスト』に載った。
ある怪文書のために、宮内庁が小和田雅子をリストから正式に外してしまい、
皇太子が激怒して「結婚しない」と言った、という内容だ。
宮内庁はこの記事に激怒。発行元の小学館に厳重抗議した。
女性週刊誌を抱える小学館としては宮内庁の報復を危惧したのだろう、編集長の首が飛んだ。
(161ページ)

二月八日には、天皇夫妻の住まいである赤坂御所「槍の間」「日月の間」で夕食会が催された。
招かれたのは天皇家の一族と小和田雅子一家それに皇后の実家の正田家の人々や
秋篠宮紀子妃の両親、天皇の姉夫妻にあたる池田隆政・厚子夫妻など二十七人。
皇室一家が勢揃いしての夕食会は三時間に及んだ。
美智子皇后が婚約された時は、宮家と旧皇族の各家を皇后と両親が挨拶に回ったにすぎない。
その後も、皇后が実家に帰ることはほとんどなかった。正田富美子は、音楽会などで
美智子皇后と出会った場合でも、娘に向かって深々と頭を下げて別れるだけだった。
もちろん、昭和天皇と現皇太后(香淳皇后)が、美智子皇后の両親である
正田英三郎・富美子夫妻と、仲睦まじく食事をともにする機会というものは、
婚約時も、それ以後もただの一度もなかった。
二月八日の団らんは、天皇夫妻が望んで実現したといわれるが、皇族の宮家の方々は呼ばれていない。
一月十九日の皇室会議のあとに、皇太子と小和田雅子が挨拶を済まされているから、というのが理由だった。

皇室会議では、皇族としてただ一人出席した三笠宮は、
「雅子妃決定」に皇族を代表する形で不快感を示したといわれる。
二月八日の夕食会のことでも、自分たちがないがしろにされていると感じたのだろう、
一度は、三月十七日に決まった納采の儀が引っくり返っている。
(204〜205ページ)

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小和田雅子さん素顔の29年

小和田雅子さん素顔の29年 永井雄一 データハウス 1993

恒さんモスクワ赴任時代
ところで、ひともうらやむ秀才だった恒さんには意外な面があった。
それは、フルートを吹くことと、クラシック音楽のレコードの収集だった。
雅子さんの音楽に寄せる関心は高い。これも恒さんの影響に違いない。
ときおり社宅の窓から、ピアノの音が凍てる戸外にきこえてくることがある。
これも、恒さんが親しませたものだ。
フルートといっしょに聞こえてくるのは父娘で合奏しているとき。
ほほえましい家族の団欒が見えてきそうだ。
ただ、雅子さんが本格的にピアノを習うのはニューヨーク。
5歳のときまで待たなければならなかった。
ところが、どういうわけか、中学に入ってやめてしまった。


雅子さんは、高校1年の1学期が終わったあとに日本を離れられたので、
いっしょに学校生活を送れたのは4ヶ月ほど。
それなのに、とても印象に残っている生徒です。
学業が優秀な上、明るくて活発。クラスで人気者になったのも当然でした
日本での高校生活はたったの4ヶ月だけだった。
これは、そのときの担任だった北脇富美子さんの言葉である。
(中略)
送別会では、クラスメートが作った“送る歌”が合唱され、
雅子さんはその返礼にドイツ語でハイネの詩を朗読した。
(中略)
語学を勉強することは、雅子さんにとっては趣味のような領域だった。
フランス語もドイツ語も韓国語も、あくなき貪欲さで取り組んでいった。

ベルモント・ハイスクールに転校した雅子さんは、
そこで、なんと一番学力の低いクラスに入れられてしまう。
たいていの日本人なら、学校の方針だからとあきらめてしまうものだ。
ところが、紺のブレザーにプリーツスカートをはいたかわいい乙女は、
そんなことで満足するはずはなかった。
校長に直談判してクラスを替えてもらったのである。
「親がやらなくても自分で考えて行動した。たいしたものだ」
雅子さんの行動力に、恒さんは自分の娘とはいえ感心した。


村上市でのルーツ探し
1987年11月、殿下と雅子さんの間に、4回のデートの機会が持たれた頃、恒さんは、自分の祖父を訪ねた。
小和田家のルーツ探しの旅に、新潟県村上市を訪ねたのであった。
87年11月21日、恒さんと夫人の優美子さん、そしてもう1組の老夫婦は、恒さんの父、毅夫さんと
妻の静さんであった。毅夫さんは90歳にも手が届く年齢であった。
4人が宿泊する市内の温泉には、数日前から恒さんと雅子さんの略歴を添えて、VIP待遇で迎えるよう、
ファックスが送られていた。さらに当日になって、もう1人警備員らしい人物が合流していた。
単なる私用で訪れたわけではなかった。
翌22日、総勢5人は村上市の郷土資料館に向かった。
(略)小和田家の先祖の墓は、村上市内の浄土真宗『西真寺』の境内にあった。
俗名を『小和田兵五郎』という。わずか70センチほどの質素な墓石が立っていた。
恒さんはその墓に向かって、何枚もカメラのシャッターを切っていた。
(略)恒さんの"ルーツ探しの旅"は、来るべき日に向けての、周到な用意であったのかもしれない。
宮内庁の内規として"お妃になられる人の4代まで遡る"という例にならって、
恒さんは自分の目で、4代前までを確かめる旅にでたのであった。


外交官試験に合格した1986年10月、この同じ月に雅子さんは初めて皇太子殿下にお会いしていた。
正確に記せば、 試験に合格した12日後の10月18日、父の恒さんと共に
当時の東宮御所(現赤坂御所)に出向いていたのであった。
今では、すでに知られるスペインのエレナ王女歓迎のレセプションの席であった。
タイプ打ちされた、そのパーティーの出席者名簿に、手書きで書き加えられていたのが、雅子さんであった。


92年12月30日〜93年1月2日家族旅行で福島県のホテル・プルミエール箕輪(※)に滞在
翌31日、雅子さんはホテルのプールに一人で泳ぎにきた。
それは、やはりこのホテルで年末年始を過ごしていた家族連れの目にとまっていた。
そのご主人のIさんは、学習院卒で高円宮殿下と同級生の人であった。
黄色の無地のワンピース姿でクロールを泳ぐ雅子さんは、
美しいプロポーションでひときわ目立っていた。
スポーツ選手か、外国の女優を思わせるようだった。
それでいて、この時も雅子さんはこの家族連れの子供と、プールの中で遊ぶことになった。
「サメだ、サメだ」とはしゃぐ子供たちに「ジャジャジャジャ・・・」と
映画『ジョーズ』のテーマ曲を口ずさみながら、
雅子さんは子供たちの浮き輪を揺らしたり、潜っては子供たちを抱きかかえたり、
1時間ほど楽しい時間を過ごしていた。
さらに翌元旦にも雅子さんはプールにきて、
その時には花柄ラメ入りの水着で、他の客を圧倒していた。



※FLASH1993/01/26号
雅子さんは、12月30日から新年2日まで福島県猪苗代町の箕輪スキー場に家族旅行に出かけている。
その折り、父の恒氏がビデオを撮っていたというのだ。
「報道協定解禁後にテレビ局に配る心づもりがあったらしいのだが、
突然の解除で幻のビデオとなりそうなんだ。各局とも喉から手が出るほど欲しいところだがね」(皇室記者)。
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20070325104126.jpg

参考
週刊現代1993年1月23日号
「雅子さんは黄色の無地のワンピース姿でクロールで泳いでいました。
そのころ、子どもたちを遊ばせるのに疲れ、おじいちゃんがプールから上がったため、
子どもたちが雅子さんに向かって『サメだサメだ』と声をかけたのです。すると雅子さんは泳ぎを止め、
“ジャジャジャジャ、ジャジャジャジャ……”とジョーズのテーマを口ずさみながら子どもちをあやし始め、
浮き輪をゆらしたり、潜っては浮上したり、子どもを抱きかかえたりと、1時間近く遊んでくれたんです」
その間、雅子さんは子どもたちと楽しそうに会話を交わし、4人の子どもに「ワンピー1号〜4号」と名を付けて呼んでいた。
そのうち、ケンカが始まると「ワンピー1号、どうしたの〜」と優しくなぐさめていたというのである。



88年7月、外務省に入省したキャリア組の慣例通りに彼女は自分の希望で、
イギリスのオックスフォード大学に留学に立つことになった。
その送別会が雙葉学園の旧友たちと渋谷のレストランで開かれた。
「イギリスは初めての国だから、どうしてもいってみたかったの。
それにサイクリングでイギリス中を巡ってみたいな」そんなことを雅子さんは友人に話していた。
会の終了間際、雅子さんが挨拶することになった。立ち上がった彼女は
「最近母から気が緩んでいると注意されました。
イギリスに行ってからは、フンドシを締め直して勉強したいと思います。
……でもイギリスにはフンドシは売っていないから、買っていかなくちゃー」と思い切った話をしていた。
そこに同席した誰もが“フンドシ”という思わぬ挨拶に、驚いていたほどであった。
「もし、皇太子妃に決まったら“フンドシ”なんていわないよなあ……」
友人の一人、大野ゆり子さんはそんなふうに思っていた。

参考
サンデー毎日1989年10月8日
外務省関係者が意外な事実を打ち明ける。
「実は9月中旬から小和田さんが行方不明になっているんです」
まさかと思いつつ調べたところ行方不明は事実だった。
本誌が確認した彼女の足取りをたどってみる。
6月末から夏休みに入った小和田さんはキャンパス内にある寮でしばらく過ごした後
友人らと一緒にヨーロッパ各地を旅行。
7月後半から8月一杯までほぼパリにいたようだ。
OECD駐在大使だった父親恒氏が公邸として借りていたレジデンスに泊まり、
ソルボンヌ大学に留学している妹の新しいアパート探しを手伝うなどして
姉妹二人でフランスのバカンスを楽しんでいる。
オックスフォードに戻ったものの、9月に入ってまた行方不明に。
さぞやロンドンの日本大使館も(小和田さんは大使館つき)驚いているのではないかと問い合わせしてみたら、
「そうですね。確かに寮にはいないようですね。大学は10月2日からですから多分国内旅行にでも
出かけているのではないですか?海外に出られるときは当館に連絡するのが原則で
オックスフォードに戻られてからは何の連絡もありませんから」
とあまり心配はしていない御様子。


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幼少〜ご成婚前の雅子さま


素顔の雅子さま  
週刊女性皇室取材班 (編集) 主婦と生活社 (1993/6)
お手伝いの井上さん
雅子さまが公立小学校『パブリックスクール81』に入学したばかりのころ。
小学校でのランチは給食、お弁当、それに帰宅後の食事の3通りの中から選ぶことができたが、
雅子さまはいつもお弁当を持参していた。
「ご飯は召し上がりやすいように、おにぎりにしていましたが、ハシは入れてなかったんです。
日本人はおにぎりを手でつかんで食べますでしょ。
でも、それがアメリカのお友達からきたないといわれたらしく、
それからは”ちゃんとハシを入れてね”と注文があったんです。
ところが、それを私が忘れてしまって・・あのときのマーちゃんには、ずいぶんと怒られました」



週刊女性増刊1993年3月3日号
「皇太子さま貫かれた初恋 佳麗雅子さんとご婚約」
1年間、東京での生活をしたあと、昭和40年9月から外交官である恒さんの赴任先のモスクワへ。
井上さん(※お手伝いさん)の憧れていた海外生活が始まった。雅子さんが1歳9か月のときのこと。
世田谷区にある、6畳、4畳半、台所の簡素な2DKの官舎に、夫妻と、お手伝いさんと、
子供(生後9か月から1歳9か月まで)が一緒に暮らしていたことになる。
6畳または4畳半の部屋には、立派な本棚とソファが置かれていた。


教室での雅子さまは、むしろもっとも中学生らしい中学生だったかもしれない。
「中学3年のときの現代国語の先生は私たちのジョークをよくわかってくださる先生だったので、
みんなでよくいたずらをやりました。
授業が始まる前の黒板に、“現代国語は体育に変更になりました”と書いて、
みんなで窓側のベランダに隠れてしまったんです。
机の上にはちゃんと着替えたように、風呂敷のようなものまで置いて、カムフラージュも完璧なんです。
“先生が私たちを探して体育館まで行っちゃうよ”と笑ったこともあれば、
あらかじめ録音しておいた非常ベルのテープを授業中に鳴らして
“火事だ、火事だ”と大騒ぎをしたこともありました。
そんないたずらのとき、雅子さまはいつも中心にいた記憶があります。
私たちが思いつく“いたずら”は単純なものばかりでしたが、
雅子さまのアイデアは、こんな頭を使った“いたずら”が多かったんですよ」




小和田雅子さん素顔の29年
永井 雄一 (著) データハウス (1993/02)

小学6年生の秋、修学旅行で静岡県の登呂遺跡を見学したことや、
伊豆山荘で朝までクラスメートとおしゃべりした思い出を卒業文集に綴っている。
林間学校では、楽しいエピソードもあった。立ち寄った寺の境内で、
友人たちと座っていた雅子さんのお尻の下に、1匹のハエがまぎれ込んでいた。
そして立ち上がった雅子さんのお尻の下で、そのハエが潰されていた。
「えーっ、これ押し花? 押し虫よね」そうして笑う仲間の笑顔がそこにはあった。
才知とちゃめっ気とやさしさがいっぱいの雅子さんは卒業していった。


 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


文藝春秋1993年3月号
娘、雅子が決意した日 両親が語る新皇太子妃の素顔 小和田恒・小和田優美子
――小学校の卒業文集には獣医さんになりたい、とお書きになっていますが、
動物がそんなにお好きだったんですか。

恒さん 
ええ。子供の頃から大の動物好きで、ハムスターを飼ったり、
自分のお小遣いを貯めてカメレオンを飼ったり、
昆虫も好きでした。我が家には犬もおりますし、猫もおりましたし。
その頃には我が家は動物だらけという感じでした。

優美子さん 
生物部に入っておりまして、小学校六年生の夏休みにハツカネズミを三匹預かってきたんです。
それを漬物の樽の中に入れておりましたら、まさにネズミ算でどんどん増えまして、
雅子はネズミの生態やお産の様子を観察していたようなんですが、
休みの終わり頃には五十匹くらいになってしまったんです。
その五十匹がある夜、樽を齧って全部脱走してしまいまして、
慌てて保健所に連絡したりで、大騒動でした。
他にもどこか野原から変な雑草を抜いてきて、
家の庭に植えて、するとこの草がイモの一種だったのでしょうか、
長ーい地下茎を庭中に張って、庭のそこらじゅうから草が顔を出して、これも大騒ぎ。
私も余り子供のすることにとやかく言わない方でしたから、
小さい時分はほんとにそんな風で、勉強もあんまりしてなかったようでした。
ただ、「宿題だけは必ずすること。それからできれば、今日お習いしたことに一度は目を通すこと」とは
申していたように思います。


恒さん
雅子にとってとても幸いだったのは、帰国した小学校1年から中学3年の終わりまで、
まるまる9年間ずっと日本で生活することができたことです。
外務省の場合は、おおよそ3,4年で海外に出ることが多いのですが、
たまたま私が外務大臣秘書官や総理大臣秘書官を務めたために、
普通のローテーションよりかなり長く日本にいることができました。
子供として最も基礎的な勉強をするこの時期に、日本のことがきちっと身についたのは
雅子にとってかけがえのないことだったように思います。


 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


あるブログ
クロとシロの夜 - 2005/9/23
はじめてその店を訪れたのは、大学を卒業して1年目の冬だったと記憶している。
直接はあまりお付き合いがない方だったのだが、ジャズ研の先輩が突然自らの命を絶ち、
お焼香を上げに行ったのち、故人を偲ぶ会をやろう、先輩からの連絡で、
とある平日の夜に集まったのだった。
その店はNero +++ (イタリア語でクロ・シロの意)という名で、30年前から変わらず、
六本木の旧防衛庁前の小さな雑居ビルの2階に店を構えているという。
毎日数軒の飲食店が潰れるという激戦区の六本木でこれだけ長らく店をやってこれた秘訣は、
3階に稲川組という暴力団が本拠を構えていたことではなく、
ひとえに京さんというママの器量によるのだろう。その店には京さんを慕って、
多くの面白い人たちが客として集まっていた。
店内には皇太子妃雅子さまが若い頃に訪れた写真が飾ってあった。
学生時代から通ってたらしく、外交官になってからもよく来ていたそうだ
(当時の彼氏と思われる男性と移った写真も飾ってあった。
さすがに宮内庁も、そこまでは手が回らなかったのだろうか)。
店内には同じく、皇太子と雅子さまと思われる(抽象画なのでよく分からない)肖像画が
飾ってあったが、これは結婚を発表された際に、
自由が丘の小和田邸で報道陣をかいくぐって本人に渡したらしい。

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

天皇家のユーモア光文社2000年発行 「女性自身」皇室取材班
優美子さん
「6年生の夏休みにハツカネズミを3匹あずかってきて、それを漬物の樽のなかに入れておりました。
すると、まさにネズミ算でどんどん増えまして、
雅子はネズミの生態やお産の様子を観察していたようなんですが、
休みの終わりごろには50匹ぐらいになってしまったんです。
その後、樽をかじって全部脱走してしまって、あわてて保健所に連絡したりと、大騒動でした。」

雅子さまは小学生のころ、『じゅう医さんになりたい』と作文に書いているほど、
動物が大好きで、自宅でもたくさんの動物を飼っていらした。
体育の先生の家で生まれた子犬を引き取ったり、
おこづかいを貯めてカメレオンを買ってきたり、昆虫も、ネコも…。
6年生のときは生物クラブに入り、ウサギやハムスターの飼育に熱中。
ヘビの世話も雅子さまの係で、日当たりの悪い理科室の水槽ではかわいそうだというので、
日向ぼっこさせてあげようとヘビをつかみだして校庭の草むらに放してあげたこともあるという。

雅子さまは、とてもお茶目で授業中に前の席にいた子のセーラー服の中に
後ろから消しゴムのクズを入れられて驚かられた友人が授業中、声を出してしまい、 
クラスで笑いが起きた事もありました。

週刊新潮2004年
江頭夫妻は非常に仲がよく、足を悪くする前は二人で外食や散歩に出かけていた。
小和田一家が官舎住まいの頃には、休日に庭で遊ぶために雅子さんたちがよく訪ねてきていた。
二世帯住宅をたてたのは、雅子さんが外交官試験に受かった後。
江頭夫人は高松宮妃と同じ英語教師について英語を習っていた。
雅子さんが生まれた頃、寿々子さんは娘夫婦のいるモスクワやジュネーブに滞在。
雅子さんの育児を引き受けていた。
お妃騒動のころ、雅子は気が強くなんてない、むしろ人より気が小さいほうですとマスコミに抗議
優美子さんと孫娘達とナイアガラの滝に観光へ行ったとき、
雅子さんははじめてのナイアガラをもて感嘆の叫びをあげ、うれしそうに手を叩いていた。
そこに賑やかな日本人観光客が闖入。
優美子さんは機嫌が悪くなり、「日本人はマナーが悪い」と憤慨し、引き揚げた。


まだ結婚前に昔からお付き合いのあるピアニストのコンサートに
祖母の江頭寿々子さん、母の小和田優美子さん、雅子様の三人で行った時のこと。
雅子様がそのピアニストの女性に「記念写真を撮りましょうよ」と言ったが、
彼女はその時ニューヨークからわざわざ来てくれた恩師や友達に挨拶しなくてはと忙しかった。
雅子様に「(記念写真は)また今度にしましょう」と言った。
すると、雅子様は「じゃあその時には、また私はこのお洋服を着てくるってわけ?」とジョークを言った。

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

友人の上田奈生子さん
「じつは、殿下とのお話をお受けすることに決めたの。
二人の問題なので、自分で決めるまでは黙っていたのだけれど・・・。」
「殿下は人の心をとても大切になさる方で、殿下の誠意が私にはとてもうれしかったのよ」
「テニスがお上手なので、“私もご一緒させていただきたいのですが、
レベルがついていかないかもしれませんね”と申し上げたの。
そうしたら、“それなら私がコーチしましょう” っておっしゃってくださったのよ」
マスコミのマークが厳しくなって、なかなか会うのが難しくなった時
「私がパンダのぬいぐるみをかぶってまいりましょうか?」

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

懸賞で自転車が当たった
12歳の小和田雅子さんが書いた礼状(朝日小学生新聞1975年9月6日から)
ある日、朝日小学生新聞を読んでいたら、わたしの名まえが大きく出ていました。
そのときのおどろきとよろこびは、とてもことばではいえません。
けん賞で一等の自転車が当たったのです。
うすみどり色のきれいな自転車はたいへん乗りごこちがよくて、このごろはまい日にように乗っています。
自転車は楽しいけれど、交通事故にあわないように気をつけなければいけないと思います。
ありがとうございました。

参考
この自転車のお礼状について
江頭寿々子さんが孫の「ご成婚」に向けて書いた文章
「雅子はよく懸賞などに当選する子でして、十七年ほど前には自転車をいただきました。
これはそのときに朝日小学生新聞に出たものです。何事にもすぐお礼を出す子でした。
ずいぶん長いこと愛用した自転車です。とても喜んでいた少女時代の頃がなつかしく思い出されます。
何か彼女には「運」というものがついているような気がすると、主人ともども話し合っております。」


 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

文藝春秋1993年3月号
新皇太子妃物語―平成皇室が迎えた比類なきキャリアの“背景”― 井田真木子(ノンフィクション作家)
「外国は日本のことを知らなさすぎる」これが当時の彼女の口癖だったが、
そこに漂う焦燥感は、むしろ自分自身にもむけられたものだったかもしれない。
たしかに、ボストンのハイスクールに転校以降の彼女は、一種の日本音痴に陥っていたと思われる。
日本文化研究会では、日本を紹介するために、寅さん映画の上映と、すしパーティーを企画した一方、
その数年後、帰国して外交官試験に合格し、エレナ王女のレセプションで初めて皇太子殿下に会った日の夜、
帰宅した彼女は祖母の江頭寿々子さんにこう尋ねている。
「おばあさま、浩宮様ってそんなにお偉いの?」
寿々子さんが、浩宮様は次代の天皇になる方ですよ、と諭すと、雅子さんはびっくりし、のち、
「じゃあ、私、すごい方に会ったわけね」と無邪気な感想を漏らした。


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渡部昇一・中川八洋対談

皇室消滅 2006年3月 ビジネス社
渡部 昇一 
中川 八洋


<渡部>
実は自分は、女性天皇制度で大変恐れていることがあります。
その皇配(皇婿)に朝鮮人が入り込む可能性が高いという懸念です。
これ杞憂ですか。

<中川>
いいえ。杞憂ではありません。
私も、確率的に90%ぐらいで「朝鮮人」が立候補すると推定しています。
日本人であれば、女性天皇になられるお方の「夫」など畏れ多くて、
誰も立候補なんかしません。
そもそも近づきませんよ。
国籍が日本で、ハングルもできない、朝鮮文化がその生活にまったくない、
そんな完全に日本人化した「朝鮮人」は多いのです。
しかし、日本への怨念だけが、「朝鮮人」であり続けています。
これをどうやって識別し排除するのですか。
また、これを排除したら、結局、婿はいない、ということが現実には必ず発生します。

<渡部>
例えば、李王家の血を引く方とご結婚なされば、日本は朝鮮王朝の国≠ノなるのですが、
このようなことは、非現実的ですかね。

<中川>
きわめて、現実的にありうることです。
朝鮮王朝は日韓併合でつぶされたので、その報復するチャンスとばかり、
李王家ばかりでなく、むしろ朝鮮貴族の末裔たちも、
愛子内親王殿下の周りには必ず集まってくるはずです。
学習院小学校の入学時に「朝鮮人」の新一年生が相当入ってくるでしょう。
ところで、日本の華族となった朝鮮貴族は、どのくらい、いましたか。

<渡部>
爵位をもたれた方は62人でしたね。
1945年の日本の敗戦でも、彼らのほとんどは帰国しませんでした。
そして、姓を日本名にしてそのまま日本に残りました。
その子孫は大変な数になっています。
侯爵が7名、伯爵が3名、子爵が28名、男爵が34名でした。
これらの子孫の中で、少なくとも数名は必ず行動を起こすでしょう。

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日本の個性

日本の個性 八木秀次著
育鵬社 (2008/10)

皇室は古来から「無私」の心で国や民の幸せを祈ってきた。
「無私」の心はその皇位の継承においても同様である。
それぞれの天皇の血筋というのは、神武系という大きな幹から見れば枝葉に過ぎない。
もしその枝葉がだめになったら(つまり男系男子で継げなくなったら)、
自分の枝葉、血筋にこだわるのではなく、
幹にその地位をお返ししようという精神が貫かれている。
実際、男子のいない天皇が崩御した後、
何代もさかのぼったところから分かれている神武系の血筋を次の天皇にしている。
これこそ、古来からの皇室の、皇位は「私」(自分の遺伝子)のものではなく、
「公」のものであるという考えが貫かれている証拠である。

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ヤラセフィーバー

皇太子妃報道の読み方
(亀井淳 岩波ブックレット300 1993年)

ヤラセフィーバー
情報の少なさを補い、「おめでた」の気分を盛り上げるためにこんな手段が使われました。
たとえば夜ふけの繁華街へレポーターが飛び出して行く。
そして新年会やデートの帰りらしい通行人に
「皇太子妃が決まったのをご存知ですか」と問いかけて、知らなかったから教え、
「どう思いますか」とたたみかける。たいていの人は釣り込まれるように
「いやあ、それはおめでとございます」と答えるという寸法です。
こういう場合、とっさにそれ以外の答えはしにくいものです。

しかし、今回、市民の反応にはなかなかクールな部分もありました。
「おめでとう」「けっこうなことです」という紋切り型の返事にまざって、
「へえ、もったいない」という若い女性や、「雅子さん?知らないわ」と言った上、
スキャンダルで一時有名になった別の女性の名を挙げてまぜっ返すOL風の声まであったのです。

なんとか相愛のロマンス仕立てにしたい、そういう思いはメディア全体のものでした。

だが、今回の結びつきは、途中5年間の空白が示すように、
相思相愛が貫かれたというような甘い物語を描くには、だいぶ無理があるようです。

1月19日の“ツーショット会見”以後、マスコミの皇太子妃熱はスーッと冷めます。
「ラブストーリー」を完成できなかったからです。

女性週刊誌の表紙は1週目は雅子さんの写真が中央に大きく載せられましたが、
しだいに他のスターと共存するようになり、
片隅に押しやられ、やがて消えて行く週もふえます。
1月27日には、新大関に昇格した貴ノ花関(20)とタレント宮沢りえさん(19)との
「破局会見」がそれぞれに行われました。(中略)
ワイドショーと週刊誌のスペースは、再び「貴・りえ」に占領されることになります。

「ご成婚特需」も見込めないし、緊急出版として何点も出た
“祝賀記念別冊”“保存版写真集”のたぐいも売れ行きがパッとしません。

すると『週刊文春』(3月11日号)がこんなトップ特集を組みました。
タイトルは<皇太子御成婚、なぜこんなに盛り上がらないのか>。

PRのために真珠の業界が小和田家にネックレスを贈ったことをスキャンダルとして扱っています。
ブームをつくろうとするマスコミ、
便乗商業主義と、一般市民の感覚との差は開く一方のようです。



週刊文春 1993年3月11日号
<皇太子御成婚 なぜこんなに盛り上がらないのか>
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1244099167751.jpg


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才女もやはり現代っ子



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才女もやはり現代っ子
プリンセスの素顔

ディスコ米仕込み
職場に愛犬の写真

「踊りがうまいんですよ。小刻みに体を動かして踊るんです。
いつもはクールな人なのにびっくりした。米国仕込みなんですかね」
と話すのは雅子さんが外務省に入って最初に配属された国際機関二課時代の同僚。
同課の課内旅行で箱根に行った時、ホテルのディスコで見よう見まねで
音楽に体を合わせるだけの同僚をしり目に、雅子さんは激しく踊ったという。
職場ではプライベートな話はあまりしない雅子さんだが、犬の話は別。
同僚らとの食事の時などには自宅で飼っている愛犬「チョコラ」と遊んだ話などをよくし、
机の上に愛犬の写真をいっぱい飾っていたこともあった。

ユーモアで取材記者たちをけむにまくこともあった。
外電記事を持って事実関係を確認に来た外務省担当記者に
「I HAVE NO IDEA」(わかりません)と答えたり、
お妃取材で自宅に電話した米国人記者には流ちょうなイギリス英語で応対したこともあったという。
日米半導体交渉などハードな仕事が続いた北米二課では連日の徹夜に
弱音を吐いたことはなかったが、疲れからか、たまには昼間の会議で居眠りを
することもあったといい、スーパーレディもやっぱり「一人の女性」だった。

修学旅行で夜更かし
「修学旅行の時、四時半まで起きていたのが忘れられない。
おかげで朝、日の出は見られなかったけれど、とても楽しかった!」
雅子さんは昭和五十一年三月、田園調布雙葉学園小学校を卒業した。
その時に文集に、雅子さんは思い出の1ページをこう書いている。

この紹介とは別に文集に載せた文の題は「クラブ」。
「六年間の思い出といえば、修学旅行、林間学校、遠足、運動会など、たくさんあります」と書き出し、
生物部のクラブ活動で「コジュケイ」のはく製を作ったことが「印象に残った」と、つづっている。
その鳥は、学校の窓ガラスにぶつかって死んだことを紹介。作製作業の過程を細かに記し、
最後に翼の一つを先生が切り落として失敗してしまい「とても残念!」と結んでいる。
冷静な目で観察し、リアルな描写は、十二歳の少女が書いた文章とは思えない。
作業の様子が一つひとつ手にとるように伝わってくる。
作文の右横余白にトランプの「クイーン」を描き、
雅子さんの頭文字の「M」が。当時は全く予想もしていなかっただろうが、
将来の「お妃」を暗示しているかのようだ。
中学三年A組の卒業文集「赤ずきんちゃんの子ども達」では、
好きな曲は「自分で三味線をひきながら歌うのが最高よ!」とおどけ、
「先生方のお好きな食べ物」を想像して列挙するなど、ちゃめっ気たっぷりに書いている。
また二、三年の二年間担任だった平井恒子先生に贈った文集では、
スキー教室に行く途中一緒に学んだ韓国語が二カ所登場。
「コーマブスムニダ!(ありがとう)」
「チョエーソングハムニダ(ごめんなさい)」と、
覚えたての言葉を交えて、感謝の気持ちをつづっている。


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ファディッシュ考現学 田中康夫

(知り合いが)結構長い間皇族のひとり(高円宮)と付き合っていた。
宮邸にはしょっちゅう遊びに行っていた。

家に泊まって行ったこともある。
彼には一応私服の皇宮警察官がガードマン役で、デートの時もずうっとついてくる。
よく家の玄関先で「明朝は何時にお迎えにあがりましょう?」と聞いていた。
指定の時間前から皇宮警察官は家の前に立っている。
奈良や金沢に二人で旅行に行ったこともある。各地の皇族のお世話をするのが大好きなひとたちが
一般人では見られないような場所も案内してくれる。宿も同じくお世話してくれるひとがいた。
元赤坂御用地の彼の家にも泊まったことがある。外苑通り沿いの門を利用する。
大抵彼が門のところまで迎えに来てくれた。
彼の父親は研究機関に、毎日青山一丁目から地下鉄を使って通っている。
私服が一緒についてくるのもお好きではないようでいつもおひとり。

日曜になると料理人はお休みを取ってしまうので、皇族が自分たちで料理をするしかない。
ある時ホットケーキが出てきた。これは彼の母親が作ったものだった。
夕食はおでんの日もあれば、カレーライスのこともある。宮家はみんなつつましい生活。
結局別の男性と結婚したけど、会社経営者のうちに皇族と結婚させるだけの財力はない。
結婚となったらゼロが8個くらい平気でついちゃう金額をつぎ込まないといけなくなるから。
付き合ってた頃もデートは割り勘が多かった。それも安いところばかり。

当時スチュワーデスをやっていたから、独身時代の彼が国からもらうお金よりはるかに収入が多かった。
でも、彼の男としての面子が丸つぶれだから、女官に頼んで前借りしていたようだ。


※田中康夫の知り合いの元客室乗務員が高円宮さまと付き合っていた


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雅子妃の明日 友納尚子著

■お忍びデート
エレナ女王のパーティーで出会って以来、
何度も御所を訪れる雅子をマスコミがかぎつけ、皇太子妃候補として急浮上。
雅子さまはマスコミに追い回されることとなるが、それを友人にさんざん愚痴っていた。
友人は
「そんなにマスコミが嫌だったら、御所に行かなければいいじゃない」
雅子さまは
「せっかくの誘いを断るのは申し訳ないし、御所に行くことで日本文化を知ることができる」

■動物好き
雅子さまを語るのに動物好きだったというエピソードは欠かせない。
小学校5年生の時、体育の女性の先生が飼っていた雑種犬がたくさんの子供を産んだので
そのうちの一匹をもらって自宅で飼うことにした。名前をプッチーとつけた。
他の一匹をもらった近所に住む友人と一緒に遊ばせてとても可愛がった。
しかし、雅子さまが高校一年生でアメリカに行くことが決まったために
プッチーは親戚の家に預けられた。悲しい別れであった。
以来、帰国したときには、プッチーにあっても必ずお別れを経験しなくてはならないので
あえて会わないほうを選んだという

■田園雙葉時代のソフトボールクラブでの合宿
合宿中に、練習の仕方でもめ険悪な雰囲気になった。
何人かに反対意見を叩き込むような感じで言われてしまい黙り込んでしまった。
友人達が場の空気を和ませようとするもますます頑なになった。
その雰囲気の気まずさに耐え切れず、一人荷物をまとめて合宿から家に帰った。
後日母親とアイスクリームを持参して学校に謝りに行った。

■雅子妃に対し
「自覚を持たせるためにお妃教育を延々と続けなくてはならないこちらの身にもなって欲しい」
と外に向かって(宮内庁幹部が)愚痴をこぼしてはばかることがなかった。
わざわざ雅子妃の周辺を訪れて「自覚がない」と説教するものまでいた。
「このまま我侭を言い続けていたら,皇室を去らなくては」と言い放つものまで現れた。

雅子妃は皇室外交への思いを周囲に訴えた。
宮内庁関係者「それでも何とか上手に話を聞いていただこうと努力したところ
今度は聞こえないふりをされたり、話題を変えられたりするようになってしまったのです。」


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