喪中ではない

秋篠宮さま 
江森敬治著 毎日新聞 1998年

ご結婚について
結婚前後、いろいろな批判報道も現れた。
皇太子さまより先に結婚するのはおかしいではないかという記事もその一つだった。
しかし、宮内庁関係者は、高円宮さまも兄の桂宮さまより先に結婚されている。
また、昭和天皇の喪中に婚約を発表したという批判があるが、
宮さまの場合には、昭和天皇崩御から八ヵ月後に皇室会議の決定として発表されたのに対し、
昭和の時代には池田厚子さん(天皇陛下の姉)の婚約が貞明皇后崩御から二ヶ月たらずで、
昭和天皇の御裁下により発表されており、いずれも先例があると、話す。
宮さまも一九八九年九月の婚約会見で昭和天皇の喪中や自身の留学中に婚約されたことについて、
「ここ一、二年、川嶋家の方に問い合わせなどが多くなり、早い時期に公にしたいと判断しました。
宮内庁も異議はなく、また両陛下からも反対はございませんでした」と答えられた。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 

参考
秋篠宮様結婚まで
昭和64年=平成元年(1989年)1月7日 昭和天皇崩御
服喪150日→平成元年(1989年)6月6日に礼宮様喪が明ける(皇室服喪令)
平成元年(1989年)8月26日 礼宮と川嶋紀子嬢との婚約発表。(朝日のリーク)
天皇皇后両陛下もご婚姻に関する皇室会議などの手続きを進めるよう、
同日、藤森昭一宮内庁長官に指示された。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/impr/0609article/fe_im_89082601.htm

宮内庁サイトより
平成元年(1989年)9月12日 皇室会議で決議
平成2年(1990年)1月12日 納采の儀=正式に婚約
平成2年(1990年)6月29日 結婚の儀
※昭和帝が父母にあたる今上陛下は服喪期間が1年だが、祖父母にあたる秋篠宮様は150日。
皇室服喪令
第一章 総則
第一条 父、母、夫ノ喪ハ一年トス
第二条 祖父母、父ノ父母、妻ノ喪ハ百五十日トス
両陛下の喪明けは平成2年1月7日。正式な婚約はそれ以降のこと
婚約会見等に至った理由はマスコミの川嶋家への問い合わせが殺到し
生活に支障をきたさないようにとの配慮で検討され、公表された。

正式な儀式は全て喪があけた後(両陛下の喪も)
成婚に至っては昭和天皇崩御から2年以上経っていた。
公表はせめて1年経ってからという意見もあるだろうが、「喪中」ではない。

順宮(池田厚子さん)の婚約は貞明皇后の崩御から2ヵ月たらずで、
昭和天皇の裁下により発表されている。
皇太子殿下も昭和天皇が亡くなってすぐの平成元年2月には
「雅子さんではだめでしょうか?」と宮内庁に打診している。

毎日新聞 1989年9月12日
天皇陛下 4年前から見守られ  宮内庁幹部らに「前向きに検討を」
天皇陛下は四年前に、礼宮さまと紀子さんのおつきあいを認め、
紀子さんをお妃の候補者として前向きに検討するよう宮内庁に伝えられていた。
同庁によると、礼宮さまが紀子さんを知ったのは、紀子さんが学習院大に進学した昭和六十年四月。
同大構内の書店「成文堂学習院店」で、一緒になり、
店長の阿部俊郎さんが礼宮さまに「川嶋教授のお嬢さんです」と紀子さんを紹介した、という。
二カ月後の六月に礼宮さま主宰の「パレスヒルズテニスクラブ」、
同十二月にやはり宮さまが会長のサークル「自然文化研究会」がそれぞれ発足。
紀子さんは両方に入会し、その活動を通じてお二人は交際を深めていった。
同年十二月に両陛下と礼宮さまが神奈川県・葉山御用邸でご静養の際、川嶋家も葉山に滞在していた。
両陛下が海岸を散策された時や、油壺のマリンパークでご昼食の時などに、
礼宮さまは紀子さんを誘い、さりげなくご両親へ紹介の機会をつくられた。
両陛下は紀子さんのことをすでにご存じだったが、
こうした機会は礼宮さまが「恋人」としての紀子さんを改めてご紹介したかったため、と側近は推測している。
この結果、天皇陛下は同月下旬、同庁幹部に「前向きに二人のことについて検討してほしい」と話された、という。

政府は先人へ感謝する建国記念式典を

日本時事評論
第1841号 平成28年2月5日
<天録時評>
安寧と繁栄に不可欠な愛国心の涵養
 政府は先人へ感謝する建国記念式典を

連国記念の日が祝日となってから五十回目を迎えるが、依然として政府主催の奉祝式典は開催されず、
子供たちの多くは意義すら教えられていない。国家の安寧と繁栄のためには愛国心や忠誠心が不可欠であり、
建国記念の日に、先人に感謝し、国の繁栄を祈念する行事を、国民こぞって祝うことが不可欠だ。
政府・自民党は憲法改正の実現のためにも政府主催の式典開催を決断すべきである。

屁理屈の反対理由
今年の建国記念の日は、昭和四十一年の祝日法改正で祝日になってから五十回目を迎える。
愛する祖国とそれを築いてきた先人に感謝し、この誇りある国をさらに発展させ、
子孫に伝える責任と努力に思いを致す大事な日だ。
しかし、建国記念の日の意義が、学校でもきちんと教えられていない。
他の国々の独立記念日のような政府主催の奉祝式典もなく、盛り上りが少ないことは、
誠に残念であると共に、我が国の行く末が懸念される。
これも占領行政と戦後の共産革命運動の後遺症から、われわれが未だに立ち直れていないことを示している。

わが国を占領し、独裁的権力を行使した連合国司令部(GHQ)は、昭和二十三年に祝日法を制定した。
この新法により、一月三日の元始祭、四月三日の神武天皇祭、十月十七日の神嘗祭、十二月二十五日の
大正天皇(先帝)祭と共にも二月十一日の神武天皇の即位を祝う紀元節を廃止した。
さらには、春季皇霊祭を春分の日、天長節を天皇誕生日、秋季皇霊祭を秋分の日。明治節を文化の日、
新嘗祭を勤労感謝の日に改称してしまった。
GHQが、わが国の文化と歴史的な破壊を目指したことがよく分かる。

これに対し、昭和二十六年頃から国家の誕生を祝う紀元節を復活させようという国民からの運動が高まってくる。
昭和三十二年に「建国記念日」制定に関する法案が提出されたが、
共産主義政権の樹立を目指す左翼勢力や野党の反対で成立には至らなかった。
その後、九回も法案提出をしたが、廃案とされ続けてきた。
その反対理由が「神武天皇の話は歴史的、科学的根拠がない」「軍国主義につながる」というものだった。
この反対理由は、日本を戦争の元凶と決めつけた東京裁判史観を従順に受け入れ、
神話の時代から続くわが国の誇りある歴史、文化を否定したものだ。古代に徐々に国が形成されたわが国は、
近代に誕生した国家と違っ何年何月何日に誕生したと言うことは不可能だ。
まさに神代から連綿と続く皇室をいただいていることがわが国の誇りである。
日本書紀や古事記に記されたことをもって、先人の思いを理解し、建国の日とすることは、
非科学的との批判は当たらない。神話には、科学的根拠がないものもあるが、
歴史的、文化的には大きな意味を持っているのである。

キリストや釈迦の誕生を巡る逸話も史実に基づくものではない。
しかし、史実が明らかでないからと誕生を否定しないし、
昔から何らかの事象や由来に基づいて記念の日を決めるのは、人間の知恵である。
新年の初日の出を拝み、新たな気持ちや決意を抱く人は多いが、大晦日の太陽と初日の出の太陽とでは
何ら変わっていないとケチをつける人はへそ曲がりでしかない。
屁理屈の反対理由に屈することなく、政府主催の奉祝式典を実施すべきである。

向上心が不可欠
敗戦以後、わが国の文化や伝統が軽視され、国家意識が希薄化し、
安全や福祉などのサービスを提供するのが国家の役割と錯覚している国民が増えている。
国家が安定的に運営されるためには、その構成員である国民の愛国心、忠誠心が不可欠である。
回る独楽が向心力を失えば、不安定になり、倒れるように、
国家を支えるという国民の忠誠心が希薄化すれば、国家は不安定になる。
愛国心を涵養し、社会への奉仕を養うために、国の誕生を祝うことは重要である。

戦後、学校現場では愛国心の言葉すら否定されていた。
戦後教育は、共産主義の到来が歴史的必然だとするマルクスの唯物的歴史観に支配され、
資本主義を否定し、権力者を悪とし、民衆を善と決めつけた、歪められた歴史教育が行われてきた。
1991年に共産主義国家ソビエト連邦が崩壊し、欧米では共産党が消滅した。
しかし、わが国では依然として日本共産党が存在するように、
歴史学界をはじめ、日教組など一部の頑迷固陋な人々が、唯物的歴史観を保持し、
わが国の歴史や文化を貶める教育を行っている。

最近では、経済のグローバル化が進展する中、国家を超えた世界市民を賛美して、国家の役割を否定し、
国民としての義務や責任を否定した教育をしている。
その結果「もし戦争が起こったら国を守るために戦うか」という2010年の世界価値観調査で
日本人で「はい」と答えたのは世界最低の15%であり、「いいえ」の答えが四割近くに達していた。
これを見ても、戦後の偏向した教育の結果は明らかだ。

豊かで安心安全な生活も様々な福利厚生も、国家が安定してこそ享受できる。
国家が不安定化し、あるいは政府が崩壊すれば、どうなるかは今の中東を見れば一目瞭然だ。
しかも、世界平和や地球上からの貧困や飢餓の撲滅という理想の実現は、
それぞれの国が自立し、安定した政権運営を行ってこそ可能になる。
国民自身が歴史や文化を誇りとし、先人に感謝をし、愛国心、忠誠心を涵養することが急がれる。

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殿下と妃殿下のレストラン―「シェ松尾」自伝

殿下と妃殿下のレストラン
―「シェ松尾」自伝 松尾幸造 新潮社 (2001/11)
一九九三(平成五)年六月四日―。この日は、私にとって生涯忘れられない日です。
夕刻、一人のお客様が店にいらっしゃいました。痩身白髪、温和な話し方をされる上品な紳士です。
紳士がゲストの方より早く店にいらっしゃるのは珍しいことでした。
いつもは―なにぶんにも要職にあってご多忙を極めていらっしゃる方ですので―
たとえお相手が外国の大使の方であっても、遅れて店にお着きになることがほとんどだったからです。
そしてお食事の間も常に緊張感を漂わせ、時には眉間に皺を寄せ、
険しい表情をお見せになることが珍しくありませんでした。
ところが、この日は、他の誰よりも早くお着きになり、
まるで別人のように穏やかな表情をお見せになっていらっしゃったのです。
お嬢様さんとご家族のご到着までは、まだ時間がかかりそうでした。
マスコミを「まく」のに思いの外時間がかかっていたためです。
ご家族が全員揃われるまで、結局小和田氏は一時間ほどお待ちになることになりました。
マスコミの追跡は思いの外厳しかったようです。
その間、私が小和田氏のお話し相手をつとめさせていただくことになりました。
小和田夫人、お二人の妹さん、お祖父様お祖母様。
やはりマークが一番厳しかった雅子様がお着きになるのが最後でした。

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田中卓


特集ワイド:「待ったなし」女性宮家論議 「愛子さまを皇太子に」 
皇学館大名誉教授・田中卓さん
毎日新聞 2014年06月24日 東京夕刊

高円宮家の次女典子さま(25)のご婚約が発表され、慶事に沸いた直後、桂宮さまが逝去された皇室。
これまで22人で構成されていたが、秋には20人となり、当面増える見込みはない。
皇室はどうなっていくのか。止まったままの女性宮家論議はどうすべきなのか。
皇学館大学名誉教授、田中卓(たかし)さん(90)を訪ねた。【田村彰子】

昨年、遷宮で話題になった伊勢神宮のそばに皇学館大学はある。全国各地の宮司を輩出する神道の名門。
学長を務めた田中さんは今、伊勢神宮内宮のそばで研究を続ける。
安倍晋三首相の祖父、岸信介元首相は、皇学館大の総長を務めていた。
田中さんは総長付として、岸元首相を支えて働いたことがある。
「『戦前の皇室の姿を取り戻すべきだ』と考えていた岸さんとは違い、
安倍さんは皇室の問題に特別な信念があるようには思えません。
今も頭の中は集団的自衛権のことでいっぱいでしょう。
しかし皇位継承問題、女性宮家創設問題は一刻の猶予もない」。
少し不自由な体を重そうにイスに委ねつつ、たくさんの資料を手元に並べ力を込めた。

専門は古代史。神武天皇が実在したとの説に立ち、
日本の歴史は万世一系の天皇を中心として展開されてきたとする「皇国史観」を掲げる。
ならば当然「男性・男系の天皇を」と主張しているかと思えば、
なんと「女性・女系で問題ない」と言い切る。
昨年末には「愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか 女性皇太子の誕生」を出版した。

そもそも「男系」継承とは、男子が嫁をとり、その子に「家」を継がせること。
対して「女系」継承は、女性が婿をとりその子に「家」を引き継ぐ。
現行の皇室典範は「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定め、
男系でかつ男性しか即位できない。今後もし国会の多数決で典範が改正され、
愛子さまが即位すれば「男系の女性天皇」、愛子さまの子が即位すれば「女系の天皇」となる。
過去「男系の女性天皇」は10代8人存在したが、「女系の天皇」はいない。
天皇家を支える宮家も実質的に男系継承に限定されており、
未婚の男性がいない、秋篠宮家以外の三つの宮家はいずれなくなる。
女性宮家創設問題は、男系にこだわる安倍内閣になってから停止したままだ。

田中さんは「女性宮家の問題は城でいうと石垣の部分。
まず、皇位継承の問題をきちんと議論しなくてはならない」と繰り返す。
現在の皇太子さまが即位されると同時に、次の皇太子が問題になる。
「皇位継承問題だとまだ時間があると思われるかもしれないが、
立太子の問題はそう遠い未来ではない」と指摘。
「なるべく直系のお子様が皇位を継承されるのがいい。
天皇家の系譜を見てもまずは直系に継承するように努力し、どうしても難しい場合に傍系へ継承した。
皇太子殿下の後には、愛子さまが皇太子になられるのが当然の流れ」と主張する。

そもそも古代史を研究した田中さんには「男系男子が皇位を継ぐことが日本の伝統であり誇り」
という考えに違和感がある。「日本の『伝統』で世界に誇りうるものは、
建国以来ひとつの『皇家』の系列で皇位が継承されてきたことです。
外国からの征服者や他の氏族に皇位を奪われることがなかった点が重要です。
『男性・男系』が続いたことではありません」と言い切る。
「神話と言われるかもしれませんが、皇室の祖先とされ、
伊勢神宮にまつられている天照大神(あまてらすおおみかみ)は女神です。
もし古代から男性中心なら、おそらく天照大神は男神だったでしょう。
だが、卑弥呼も女性とされ、古代祭祀(さいし)では女性の方が神に近いとされていた。
日本古来の伝統は必ずしも『男性・男系による皇位の継承』ではないでしょう」と言う。

さらに男性・男系を続けていきたくても「側室制度がない現在ではいずれ無理が生ずるはず」と指摘する。
近世では、江戸時代初期の後光明天皇から大正天皇まで
14代にわたって側室から生まれた皇子が皇位についた
。田中さんによると、神武天皇までさかのぼっても約50%が側室から生まれている。
「男性・男系」を守るため方策として挙げられるのが「旧皇族の復帰」だが、やはり同様の問題にぶつかる。
「現在旧皇族と言われる方々の源流である伏見宮家、有栖川(ありすがわの)宮(みや)家、
閑院(かんいんの)宮(みや)家、桂宮家をみても、正室の子による継承が15例、
その他の側室の子や養子が36例にもなります。つまり、旧宮家の方に復帰していただいても、
側室制度がない以上、いずれ男性・男系での継承が難しくなる時期が来てもおかしくない」

さらに、男性・男系のみの継承へのこだわりが、いかに天皇家にストレスを与えるかを、田中さんは危惧する。
「愛子さまはご自身がいらっしゃるのに、悠仁さまが『後継ぎ』といわれることについて
どのようなお気持ちでごらんになるでしょうか。
また、悠仁さまに嫁がれる方のプレッシャーはいかほどのものか、想像を絶します。
そもそも皇室に嫁ぐ方がいなくなってもおかしくない。
現皇太子妃のご病状にしても女性・女系の継承が公認されていれば、
違ったものになったのではと拝察します」。
確かに一般国民には想像しがたいストレスがあるのは間違いない。

「愛子さまが皇太子となれるようにし、女性宮家の設立も容認するように典範を改正する。
ここまでは私が生きているうちに何とか実現していただきたい」。田中さんはそう力を込める。
「男性・男系」派は「愛子さまの即位を認めれば、いずれその子が即位し、
女系の天皇が初めて誕生してしまう」と主張する。
この点について尋ねると、田中さんは、少し間を置いてから静かに話し出した。
「昭和天皇は、側室の廃止を昭和の初期に決められた。
しかし、その後お生まれになったのは女のお子さまばかり。
周囲は『何とか側室を』と話し合いましたが昭和天皇は認めず、そのうちに今の陛下が誕生された。
戦後は誰も『側室制度の復活を』とは本気で言わないし、現実的でもありません。
時代とはそういうものだと思います。
とにかく、愛子さまと現在の未婚の女性皇族方が皇室に残られるようにできれば、
あとは時代に合った皇室に変化されるのではないでしょうか」。
「女系」「男系」で争うことは無意味だと田中さんはつぶやいた。
「私が守りたいのは万世一系の国体です。そこに男女の違いはありません」

女性皇族がお年ごろなだけに、喫緊の課題ではないか。

http://mainichi.jp/shimen/news/20140624dde012040004000c.html続きを読む

皇室の尊厳、日本の誇りを大事にしよう

すいとく(穂徳)第706号(平成25年5月1日発行)
「皇室の尊厳、日本の誇りを大事にしよう」
神道政治連盟推薦
参議院議員比例代表(全国区)ありむら治子

国語の乱れ、とりわけ不適切な敬語表現が指摘されるようになって久しい。
昨年三月、NHK全国中継のあった参議院予算委員会において自民党を代表し質問に立った私は、
「女性宮家創設が、陛下の御意思かどうか」について、政府の見解を質しました。
宮内庁・風岡典之次長(当時、現宮内庁長官)は、
「陛下は、憲法上、国政に関する権能を有しないというお立場でございますので、
制度的なことについては特に発言をしておりませんと答弁されました。
 この発言を聞いて、「本当に宮内庁は大丈夫か?」と不安を覚えたのは私だけではなかったと思います。
天皇陛下に仕えて頂く宮内庁職員、特に幹部職員くらいは的確な言葉遣い、
適切な尊敬語・謙譲語を心がけて頂きたいものです。
 天皇陛下は昨年の春、心臓バイパス手術を受けられました。今回の手術については、新聞や報道番組のみならず
ワイドショーまでが連日にわたり詳細に報じました。
心臓の拡大図や血管のつなぎ方など事細かに説明がなされていましたが、
果たして一連の報道が適切であったのかどうかは、意見が分かれるところです。
 病気、病歴などは個人情報の最もたるもの。最近では病院においても、名前ではなく
受付番号などでアナウンスされることが多くなりました。病に向き合い、辛い状況にある患者さんの
プライバシー(個人情報)を尊重する、社会的配慮があってのことでしょう。
 かつて、昭和天皇がご病気になられた際、医師団は陛下の手術を行っていいものか、
果たして御体にメスを入れることが適切なのか、と葛藤されました。
平成の御代も二十数年経ちましたが、今上陛下も世界の平和を祈り、日本民族の安寧のため、
国民と真摯に向き合われ、力を尽くして下さっています。
東日本大震災後の陛下のお姿に国民は敬愛の念を深め、さらに絆を確かなものにしました。
「開かれた皇室」とは、陛下や皇族方のご病状や家庭内力学の全てを
万人の知るところにするということではないはずです。
こと皇室に関しては、慎みを持った謙虚な日本国民でありたい、と強く念じます。
 今から十五年前、宮内庁が中心となり、女性・女系天皇容認を含めた皇室制度に関する検討会を非公開で、
いわば秘密裏に行っていたことが明らかになっています。国柄の根幹とも言えるご皇室の御事について、
国民から隠すかのように議論しておきながら、今上陛下のご病状、手術の詳細を公表し、
果てには陛下がご快復途上、大変な思いでリハビリをなさっている大事な時期に、
陛下の埋葬方法の検討を発表した宮内庁の対応には、理解しがたいものがあります。
 政府は、万世一系、百二十五代にわたる男系男子による皇位継承の歴史を変質させる、
「女性宮家」なるものの創設を検討していますが、今こそ二千六百有余年にわたり
日本民族が堅持してきた国柄を守り、固め成す時です。
国民の多くは、天皇皇后両陛下・皇族方をお護りするのが宮内庁であると認識しています。
宮内庁には信じられる役割を担って頂きたい。私の率直な願いです。

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日本を愛する者が自覚すべきこと 八木秀次

日本を愛する者が自覚すべきこと 八木秀次
PHPファクトリー・パブリッシング 2007年7月23日

第七章 皇室とは何か
■日本に危機がおとずれると頼られる存在
…しかし、興味深いことに日本の歴史を振り返ってみると、平和な時には日本国民は天皇の存在を忘れています。
少なくとも強く意識しない。天皇という存在が意識されないことはそれ自体、必ずしも悪いことではありません。
それだけ幸せな時代であるとも言えるからです。
しかし、いざ国に危機がおとずれた時には、国民は必ず天皇の存在を思い出し、最後は頼りにする。
…天皇という存在は大統領とは違って「能力原理」で成り立っているものではありません。
神話に由来する血の連続、すなわち「血統原理」に依拠したもので、誰か他に能力がある者が取って
代わることができる存在ではない。血の正統な継承者だけが、その位置につける存在です。
その始まりは神話に由来し、歴史が客観的な記録で確かめられる以後も、一貫して同じ系統が続いています。
つまり、血の一貫した継承という「歴史の重み」故に、そこに尊厳性と神秘性が備わり、またそういう存在を
日本国民は建国以来、国に危機がおとずれた際には必ずと言っていいほど頼りにしてきたのです。
また天皇もその期待に見事に応えられてきた。 …

■祭祀王という天皇の独自性
天皇とは何かということを考えるうえで、見落とすことができないのは、天皇が伝統的に祭祀王
(プリーストキング Priest King)であるということです。これはむしろ天皇の最も重要な役割です。
国家の安寧を祈る祀り主であるということです。
古代の王は世界中どこでも祭祀王という性格を持っていました。カリスマという言葉がありますが、
それはもともと神を祀る存在としての王が持っている特別の超能力というほどの意味でした。しかし、
そのような祭祀王は日本以外ではすべて滅んでしまい、天皇は今や世界に唯一残る祭祀王です。 …

■「民の父母」というもう一つの役割
…最後に国民が頼りにするのが「民の父母」としての天皇であり、また歴代の天皇ご自身も最後は自分が
立ち上がらなければならないという自覚を持っておられました。
大東亜戦争の終結時における昭和天皇のいわゆるご聖断はその一つの典型です。昭和天皇はご聖断の際に、
「自分は如何にならうとも万民の生命を助けたい。此上戦争を続けては結局我邦が全く焦土となり万民に
これ以上の苦悩を嘗めさせることは私としては実に忍び難い。祖宗の霊にお応へが出来ない」
(下村海南『終戦記』鎌倉文庫)
とおっしゃっています。
このお言葉の中に「民の父母」という考え方が典型的に示されていると思います。 
終戦時に詠まれたとされる四首の御製を紹介しましょう。
 爆弾にたふれいく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも
 身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
 国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり
 外国(とつくに)と離れ小島(をじま)にのこる民のうえやすかれとただいのるなり
ここにも、自分の身はどうなろうとも国民の命を助けたいという、まさに「民の父母」としての
お姿がよく表れています。昭和天皇は「民の父母」としての立場を強く自覚され、
「立憲君主」としての役割を逸脱されたとも言えるのです。…

■祭祀なき皇室はありえない
…先の『週刊朝日』は、宮中祭祀におけるこうした「伝統としきたり」が雅子妃殿下を苦しめ、
〈合理性を重んじる海外での生活を重ね、外交という現実の世界を生き抜いてきた雅子さま〉にとっては、
〈天皇家につながる神話性を信じることできるかというプレッシャー〉もあると想像しています。そして、
〈宮中祭祀を雅子さまが受け入れられるようにならない限り、問題は解決しない〉〈皇太子は「宮中祭祀改革」
の構想をひそかにあたためているのではないか〉〈女性により負担のかかる祭祀を簡略化するか廃止するかすれば、
雅子さまを救うことができる〉と述べるのです。
私はこれに重大な懸念を抱きます。これはまるで、雅子妃殿下のご病気を“人質”にして「祭祀王」という
天皇の本質的な性格を曖昧にし、否定することを提言しているかのように読めるからです。
これは皇室制度を形骸化させようとい提言に他なりません。
さらに憂慮すべきことは、皇太子殿下までがその提言に賛成されているかのように読めることです。
…皇太子時代から宮中祭祀を行ってこられた天皇陛下だけではなく、民間から宮中に入られた皇后陛下も
宮中祭祀に深いご理解を持っておられます。実は昭和天皇に宮中祭祀の重要性をお教えになったのは
母宮である貞明皇后です。宮中祭祀の継承において皇后の果たす役割は非常に大きいと言わざるを得ません。…

■敢えて問う、皇太子夫妻の離婚問題
…従来、主に二つの立場から皇太子夫妻の離婚説が唱えられてきました。一つは、キャリアウーマンとして
活躍してこられた雅子妃殿下らしい生き方を取り戻して欲しいという立場からの離婚説です。
もう一つは、皇位の男系継承を維持するために離婚していただき、皇太子殿下が新しく迎える妃に
男子を産んでいただこうという立場からのものです。
後者は、秋篠宮紀子妃殿下ご懐妊前に男系維持派の一部からよく聞かれた声です。
しかし、私は、別の立場から皇太子ご夫妻の離婚という事態を想定せざるを得ないと思います。
もしもこのまま雅子妃殿下が宮中祭祀を受け入れられないなら、皇后としての資質に疑念を抱かざるを得ず、
宮中祭祀、すなわち皇室の皇室たるゆえんを守るために離婚もやむを得ないということです。…
…現在、皇太子ご夫妻よりも秋篠宮ご夫妻のほうが、天皇皇后両陛下を深く理解し、
皇族としての強い責任感を抱き、将来の天皇、皇后にふさわしい資質を持つとの見方が広がっています。
とすれば、宮中祭祀を守る立場から、皇室典範第三条にある〈重大な事故〉を拡大解釈し、
皇位継承第一位の座を皇太子殿下から秋篠宮殿下に移そうとの議論が生じてもおかしくありません。
雅子妃殿下が適応障害から快復されない限り、今後、その原因が「皇室の伝統としきたり」、とりわけ
宮中祭祀nあることにますます焦点が集まるでしょう。そして、雅子妃殿下を守るため宮中祭祀を簡略化ないし
廃止せよという声が起こってくると予想できます。男系継承の重要性を理解せずに女系天皇容認論が
出てきたのと同様の事態です。…
…宮中祭祀が簡略化ないし廃止され、なおかつ女系天皇が容認されれば、皇室制度は形骸化され、
その存続が危うくなることは確実です。…

■「皇位継承」に関する重要論点
「万世一系」とされる「皇統」は一貫して「男系」よる継承であった。
神武天皇を初代として、それ以降一貫して男系の血を継承している人のみが天皇の位に就かれました。
一貫して男系というのは非常に興味深い文化で、一般家庭と皇室との決定的な違いがここにあります。
といっても、必ず子供が生まれるというわけでもないし、男の子が生まれるわけでもありません。
現に私たちは、皇室に女子しか生まれないケースを長い間見てきました。
しかし、過去の例を見ると、そういった時にも必ず男系で継承してきたのです。
具体的には、何百年も前に分かれた分家の宮家の血筋から、男系の継承者をもってきて皇位継承者にしたのです。
そのことは歴代天皇の系図を見れば一目瞭然です。
遠い遠い血からジャンプして次の継承者になっている例が、何度となくあります。
(中略)
今の天皇家の系統は、江戸時代後期の光格天皇の流れで、閑院宮家の系統です。
閑院宮家の六男の祐宮皇子が光格天皇として即位されます。そこが今の天皇家のいわば初代です。
光格天皇は先代の後桃園天皇と七親等も離れています。後桃園天皇には男子が生まれませんでした。
その系統を探したけれどもやはりいないので、うんとジャンプして
曾おじいさんの弟の孫を継承者にしたというわけです。…

■男系男子の継承は決して譲れない
「皇統」には二つの系統があると考えるべきです。閑院宮家の皇室の流れが存続しているので忘れられがちですが、
もう一つ、室町時代に分かれた伏見宮家の系統があります。
これが旧宮家の系統です。室町時代に分家して分かれた伏見宮家の系統は、「保険」あるいは「血のスペア」として
ずっとつなげていっているのです。現に昭和21年までは皇族として扱われました。その時点での男系で言えば、
今の皇室とまるで他人と言っていいほど血が遠い関係です。なにしろ、室町時代に分かれた系統同士の間柄です。
普通の感覚で言えば赤の他人です。しかし、それでも皇族だった。お互いの血の遠さは関係なく、
互いに初代・神武天皇以来の男系の血を正しく継承しているということで皇位継承権があったのです。
さらに興味深いのは、この伏見宮家の系統の、旧宮家の方々が昭和21年に皇籍を離脱する際には、
次のような加藤進宮内次官の証言があったということです。
「『万が一にも皇位を継ぐべきときが来るかもしれないとの御自覚の下で身をお慎しみになっていただきたい』
とも申し上げました」(「戦後日本の出発−元宮内次官の証言」『祖国と青年』第七一号)
皇位継承資格が潜在的にあるので、その自覚でいてください、と言っているのです。
明治の皇室典範を起草する際には井上毅がこんな発言もしています。
「継体天皇の如きは六代の孫を以て入て大統を継ぎ玉へり。不幸にして皇統の微継体天皇の時の如きことあらば
五世六世は申す迄もなし、百世御裔孫に至る迄も皇族にして在はさんことを希望せざるべからず」
(『皇室典範皇族令草案談話要録』)
古代の継体天皇の場合は二百年前に分かれた分家から天皇になられました。継体天皇は先代(武烈天皇)と
十親等も離れています。不幸にして皇統がこの先続かないという、かつての継体天皇の時のようなことがあったなら、
五代六代遡ることは言うまでもなく、百世、つまり百代遡っても男系の正統な継承者が皇族となるべきだ、
と言っているのです。
簡単に言えば、初代・神武天皇の男系の血を正しく継承している存在であればかまわないと言っているのです。
日本中世史の権威である北海道大学教授の河内祥輔氏は『神皇正統記』に言及して適切な喩えをしています。
「『正統』理念の系図は、すべての天皇が一筋に繋がっているというものではない。
〈幹〉とたくさんの〈枝葉〉に分かれ、しかも、〈枝葉〉の天皇の系統はそれぞれの所で断ち切られている。
『一系』として続いているのは〈幹〉の天皇だけである」
「〈幹〉は何によって作られるかといえば、それは血統である。皇位ではない」
「〈幹〉を作るのは男性のみである。『正統』は男系主義を特徴とする」
(河内祥輔『中世の天皇観』山川出版社)
ここで言う「枝葉」が閑院宮家の系統や伏見宮家の系統ということです。お互いに「枝葉」同士は
離れているけれども、同じ「幹」から生えたものです。重要なのは「幹」であって「枝葉」ではありません。
現代人は「枝葉」である現在の皇室の血筋ばかり見ているのですが、少し俯瞰して見れば「幹」が見えてくるはずです。
そして、その「幹」に別の「枝葉」が生えていることもわかってくるある「枝葉」が枯れれば、別の
「枝葉」が本流となる。実際、そのようにして皇位は継承されてきました。このことに気づく必要があると思います。
そして、この幹の部分がまさに日本国家としての連続性の担保なのです。
これが古代の日本の建国以来変わらず、ずっと一貫してつながってきた、ということこそ、「一系」の本質ななのです。

■皇位は公のものである
…戦前、天皇は現人神だったという話がよくあるのですが、正確には現御神(あきつみかみ)ということです。
昭和21年1月1日のいわゆる「人間宣言」で、天皇は現人神であることを否定し人間だと宣言したという
理解が一般には広まっていますが、真相はまったく違います。日本を知らないGHQに対して、いわば便宜的に
そう言ったようなものなのです。
そもそも天皇は神として信仰の対象とされるような存在ではなく、「自らが神を祀る存在」です。
そこを間違ってはいけない。天皇は昔から人間です。神を祀る存在としての人間なのです。
あえてわかりやすく喩えれば、キリスト教におけるローマ教皇と似たような存在だと言っていいでしょう。
ローマ教皇は選挙で選ばれますが、天皇は世襲です。そこの違いはありますが、天皇も宗教的には
ローマ教皇に似た色彩を持っています。ちなみにローマ教皇も、一度も女性がなっていません。ユダヤ教も
ラビ(宗教的指導者)の家系は男系です。仏教も厳格な男系です。
皇室に話を戻せば、大切なポイントは「皇位は公のものであり、決してその時々のロイヤルファミリーの
私有物ではない」ということです。現代の日本人は、この点をあまり理解していない。ある系統の男系の血が
途絶えた場合、別系統の男系が継承する。それは皇位というものが、歴代天皇からの預かり物だという認識が
皇室自体にあるからです。自分たちファミリーの私有物や独占物ではない。
たまたま自分の系統が預かっているのであり、男系の血を自分たちが先に続かせていくことができないのであれば、
別の系統いそれをバトンタッチしていく。
そうやって連続性を確保していく、という存在なのです。
この考えが理解できないと、皇室というのは今のロイヤルファミリーのことであり、男系の継承者がいなければ
愛子様やそのお子様である女系に皇位継承をすればいい、という誤った意見が心地よく感じられるのです。
以上のことは歴代天皇の系図を見れば、すぐにわかることです。前に紹介した河内祥輔氏の言葉を借りれば、
これは〈幹〉と〈枝葉〉の問題であり、「皇室典範に関する有識者会議」は枝葉だけを見て議論していたという
ことなのです。しかし、その枝葉がでている幹にこそ目を向けなければならない。
歴史を振り返ってみても、皇位継承は綱渡りをしている例が少なくありません。たとえば大正天皇がそうです。
明治天皇にはたくさんのお子様が生まれましたが、それでも成長した男子は大正天皇お一人だけでした。
側室がたくさんいた時代においてもそうであり、しかも病弱であられた。ところがその大正天皇には四人も
男子がお生まれになり、それで一息ついたのですが、実は歴史上ずっと綱渡り的にやってきているのです。
だから旧宮家がやはり何らかの役割を担っていかないと、この先もちょっとむずかしい。できれば旧宮家の中から
皇族に何人かがお戻りになるとか、準皇族的な立場に就いていただくとか、そんな措置が必要です。
「皇族」概念を旧宮家の男系男子にまで拡大することは、早急な課題だと言わなければなりません。

■異邦人が見た「天皇とは何か」
前にも触れた駐日フランス大使でもあた詩人のポール・クローデルは天皇という存在についても
実に正確に理解しています。
「天皇は日本では魂のように存在している。つねに存在し、持続するものである。それがどのようにして
始まったかは誰も正確には知らないが、終わることはないであろうということは知っている。
天皇が何か特別の役目を果たさなければならないと考えるのは不適切であるし、敬意を欠くことになろう。
天皇は干渉しないし、国民の諸事に一々口を出したりはしない。だが、もし天皇がいなければ、
物事は同じようには進まないだろうし、ただちにすべての調子が狂い、バラバラになってしまうだろうことは
誰もが知っている。それはやり直しなしにいつまでも続いていく楽音だり、それに耳を傾ける他の音が
勝手に変奏したり、ずっと不変のままであったりすることを一時的に抑えたりもするのである。
それはずっと変わらないものであると同時に、他のものに対しては変化することを強制するものであり、
有為転変、時の流れに従いながら、根源と結びつき、国民に死に絶えてならないという義務を永遠に
課するものなのである」(「明治」『朝日の中の黒い鳥』内藤高訳、講談社学術文庫)
日本人はあまり自覚していないことですが、クローデルは天皇こそが日本という国をまとめているのだ、
という指摘をしているのです。西洋人から見れば、日本には通奏低音のように天皇という音楽がずっと流れている。
そういう非常に興味深く重要な存在が天皇なのだ、と彼は言っているのです。日本人には気がつきにくい、
異邦人ならではの正確な洞察ではないでしょうか。




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皇后さまと子どもたち

皇后さまと子どもたち 宮内庁侍従職監修 毎日新聞社 2008年10月

本書は、平成20(2008)年10月15日から同月27日まで、東京・日本橋高島屋で開催した
「皇后さまと子どもたち」写真展に展示された写真などを中心に編まれている。
(中略)
本書では、皇太子妃でいらした時代から同展までに撮影された、国内外の子供たちと触れ合われ、
ご自身のお子様方を慈しまれる皇后さまのお写真を掲載した。
また、その背景につき多くの関係者から話を伺い、お子様方の思い出とあわせて、紹介するものである。


皇后さまとお子様方
◇ご退院時の悲しみ
…当時の鈴木菊男東宮大夫は、この折ことをご成婚二十年の年に次のように記している。
「(記者クラブに)申し入れたが、車中は暗いからフラッシュなしでの撮影は不可能とのことで拒絶された。
しかし、普段はかなりの無理をお受け入れになる妃殿下が、
この時には珍しく再度これをご要望になり、再び交渉した…」。
最終的に記者クラブより、どうしてもフラッシュなしでということであれば、
窓を開けてゆっくりと車を発進させてほしい、という代案が出された。
浩宮様を抱かれた皇后さまが、半分ほど車の窓を開けて写っておられる退院時のお写真は、
このような経緯で撮影されたものであったが、このお写真は、
「ご誕生間もない新宮様を寒風にさらした」「将来天皇となられる新宮様を、窓を開けて写真に撮らせるとは」
という多方面からの非難を浴び、宮内庁からもマスコミ側からも、いっさいの事の経緯の説明もないまま、
その後いつまでも批判の材料に使われるものとなった。

◇綱渡りのような授乳と断乳
…こうした海外ご訪問は別としても、それよりももっと早いご出産二ヶ月余の頃に、
長時間浩宮様と離れて過ごさねばならず、もはや母乳のみの保育が困難と判断される日があった。
四月二十九日の昭和天皇のお誕生日である。
…数日前の四月二十六日、初めて粉ミルクによる哺乳をお試しになってから、
当日を迎えられた皇后さまはその朝六時に一回目の授乳をされると、
次は宮殿お出まし直前の九時少し過ぎに二回目を済まされて御所を発たれた。
昼の御祝宴後、東宮御所から女官がお連れした浩宮様に授乳をなさる。
ことだたず静かに、とのご希望により、女官候所の一角を女官たちがきれいな屏風で囲って差し上げ、
その陰で皇后さまはそっと授乳を済まされ、午後には予定通り陛下と都の体育館にお出ましになった。
夕刻には、東宮御所に戻られた浩宮様に看護師が粉ミルクを差し上げた。
数日前のお稽古が活きて、宮様は問題なく飲まれたようだ。
その日の次のご授乳は、皇后さまが皇居からお帰りの後の夜の九時頃、
過密なご日程の間を縫うようにして授乳され一日を終えられた皇后さまは、
どんなにか安堵され最期の授乳をなさったことであろう。
…前の時代には、お望みになってもお出来にならなかったことを、
ご自分が今許されてさせて頂いていることの有難さを、皇后さまはいつもお心に深く思っていらしたのであろう。
時代の変わり目にあるために生じる様々な不合理やご不便については、決して口にされることはなかった。
ご自分がしのばれたのは、次の時代に来る人を同じ枠で縛るためではなく、
一時代を経ることによって、ようやく時が熟するということがあり、
ご自分がその時をつなぐ飛び石の役割を担われようとされていたのではないか、と見ている人もある。
時代が過ぎ、皇后さまのご養育が一段落した頃に、寛仁親王妃、高円親王妃が上がられ、次々とお子様を持たれた。
長い宮殿行事のあるような日、皇后さまは、宮殿のご自分のためのお部屋である「花の間」を
女官と共におしつらえになり、お若い妃殿下の授乳のお部屋として、いつでもお使いになれるよう
ご準備をなさっていたと伺っている。

◇「合宿所」のよう −多くの職員と共に―
両陛下のご成婚二十周年の記念誌によせて、昭和四十年代に女官を務めていた高橋滋子氏は、
両陛下のご結婚当時の御所の様子を次のように記述している。
「戦後の御所は、職員も公務員法による勤務で、宮様をお世話する出仕や看護婦も三人で三交代という、
お子様のお育ちの上ではとかく一貫性を欠きがちな心配のある環境の中で、
御三方の宮様が、のびのびとお育ちになった陰には、両殿下(現在の両陛下)の一方ならぬお心定めがおありでした。
任せた者をご信頼になり、小さなマイナスをおとがめにならず、ゆったりと皆の心を結び合わせて、
働き良い環境を作って下さったことを何より有難く思っております」。
小さな宮様方のお傍にいた職員たちは、皆とても若かった。幼稚園入園以前は看護師が、以降は親王の場合は
男子の内舎人(うどねり)、内親王の場合は女子の出仕と呼ばれるいずれも二十代か
せいぜい三十代の職員がお勤めに上がった。
東宮侍従や御用掛がその上にたってとりまとめをしていたものの、
育児体験をしたことのない若い職員たちは、試行錯誤で宮様方のお世話に当たった。
陛下より、「内舎人は、(子供たちに対して)威厳を持たなくては」とのお言葉を受けたある内舎人は、
その「威厳」をどう表せばよいかわからず、必死に独自の解釈をした結果、
「とりあえず、怒鳴ってみました」という。
定年退職した後、久しぶりに御所に上がった当時の内舎人の一人が
申し訳なさそうに申し上げるのに対して、成長された殿下方は、
「あの時、結局、どうして怒られたのかわからなかったなあ」とのどかに思い出しておられたという。

◇お手元で育てるということ
…昭和天皇、香淳皇后の吹上御所へもたびたび足を運ばれ、週に一度のご参内の時には、
出来るだけお子様方もご一緒にお連れになった。
各宮様方が一歳というお小さい時にも、両陛下の吹上御所ご訪問は、年に三十回以上を数え、
うち二十五回前後がお子様方を伴ってのお訪ねであった。
平成十九年(2007)年のお誕生日会見で、皇太子殿下は、吹上御所ご参内の思い出を次のように述べておられる。
「私は、幼少のころから昭和天皇のところに今の両陛下とご一緒に上がる機会がいろいろ多くありましたけれども、
そのようの折に、今の陛下が皇太子としていろいろなことをやっておられる、そういうことを強く感じましたし、
それから幸い日常の生活においても、公務によっては成年に達していないと出られないような公務も
あるわけですけれども、外国のお客様ですとか、いろいろな方が来られた時に
私もご一緒させていただく機会がありまして、そのような折に、今の陛下から皇太子としての在り方というものは
こういうものなんだということを、いろいろと小さいころからご一緒することによって
学ばせていただいたという感じを強く持っています」。
また、同様の思い出を、平成九(1997)年のお誕生日回答文書で紀宮様は次のように語っている。
「小さい子供を連れてのご参殿は、はらはらなさることも多かったと思われますが、両陛下が、
いつもおうれしそうに上がられ、お話しになっているご様子を拝見して、
『両陛下』というお立場への尊敬と若干の緊張を抱きつつも、『おじじ様』『おばば様』に対して
子供らしくお親しみ申し上げ、おいたわり申し上げる気持ちを自然に持つことができました」。
時刻が来て、ご退出の時間を侍従から申し上げると、昭和天皇は「もう時間か」と驚かれたような、
名残りを惜しまれるような一言をおつぶやきになったという。
お孫様方にとって、ご団欒の中での貴重な学びのひと時は、「おじじ様」「おばば様」におとりになっても、
お心の和まれる、お楽しみのひと時だったようである。

◇お弁当
…お子様方のお話しになる学校生活のご様子を、両陛下は楽しそうにお聞きになっていらしたというが、
両陛下がお子様方の学校生活をご覧になる機会は、決して多くはなかった。
紀宮様がお生まれになった年に御所に上がり、二十年近くを皇后さまのお傍近く勤めた
松村淑子元東宮女官長(及び元女官長)は、当時の皇后さまの育児を振り返り、次のような一文を残している。
「…皇后様は、限られたお時間の中で、一生懸命に宮様方をお育てでございました。
ご公務や宮中の祭祀は、全てに優先されておりましたから、お子様方には何度となく、
母宮様にいらしてお頂きになれぬ卒業式や遠足、運動会などがおありになりました。
皇后様はこのような時、ご自身の寂しさがお子様方のお悲しさを増幅しないよう、
いつも行き届いた配慮をなさっており、また、このような機会を捉え、公人としての義務のあり方を、
ごく自然にお子様方にお教えになっていらっしゃいました」。
皇后さまがお付き添いになっての幼稚園入園式の翌日から、お子様方は、侍従または女官あるいは出仕と共に
お一人で園に通われた。長い外国ご訪問の間でも、日本との時差を合わせたり、
またそのお時間をお取りになること自体が難しかったため、お子様方とお電話をなさることは
ほとんどおありにならなかった。お子様方は、旅先からの皇后さまの短いお手紙や、
ご旅行前に職員に託されたお手紙などをお読みになって、両陛下の御旅に思いを馳せられたという。…
お忙しい日常の中で、皇后さまがお子様方のために、欠かすことなく続けてこられたことがある。
その一つが、お子様方のお弁当であった。初等科の六年間は給食があったが、
幼稚園と、中、高等科合わせて八年間、皇后さまは、それぞれのお子様方のために、
よほどのことがない限り毎日お弁当をお作りになった。
礼宮様は、高等科生になられた時、学校の売店のパンなどを召し上がってごらんになりたかったのか、
高校の時は曜日によってお弁当をお願いになった。その頃皇后さまは、ご健康上の理由から毎日早朝に
お庭を歩かれていたが、その後お弁当を作り、お子様方と一緒に朝食をおとりになるというご生活であった。
初等科低学年の紀宮様が、兄宮様方のお弁当をうらやましがられた時には、
小さなお弁当箱に兄宮様方と同じものをおつめになって、朝食の席にお出しになることもおありだったという。
皇后さまのお弁当は、今のお母様たちが作られるような、キャラクターを盛り込んだ華やかなものなどではなかったが、
一生懸命に工夫され、彩いもきれいに作られた。鶏のそぼろ、いり卵やいんげん、椎茸を味付けご飯の上に載せ、
紅生姜を飾った三色ご飯のお弁当は、どなたもお好きでよく作られた。
緑野菜の炒め物、人参のグラッセ、魚や肉は下味をしっかりとつけて調理された。
大膳課の人々も、皇后さまの陰の協力者であった。
皇后さまのお台所は大膳の厨司たちが働く地下の料理場とは別に、一階の食堂のすぐ脇にあり、
冷蔵庫も備えられていた。皇后さまは一週間単位で献立表を作られ、大膳がそれに必要な材料をお調えした。
必ずその日の朝に作る、という大膳とのお約束があり、前日に準備することが出来ず困られたようだが、
やがて皇后さまも考えられて、魚や肉の味噌漬けや粕漬けならばと許可を得られた。
卵の黄身の味噌漬けも、一晩漬ける必要から前晩にご用意になることが出来、
これも宮様方のお好きな一品に加わった。
最初から何もかも上手にお出来になったわけではなく、「大変、焦がしてしまったの」というお電話で、
スワと厨司が階段を駆け上がったこともあったという。炊飯はお頼みになることもあり、
いざという時は助けてもらえるのだから、一人前のことをしているわけではない、
とよく周りの者におっしゃっていたが、ご日程のため、日中宮様方に十分にお付き合いになれない皇后さまにとり、
早朝のひと時、宮様方のために何かをなされるということを喜びとされ、また楽しみともしていらしたようである。
浩宮様も礼宮様も、初等科高学年で剣道をされたが、剣道部の冬の名物といえば、早朝練習の「寒稽古」であった。
朝早くに御所を出られるお子様方のため、皇后さまは、まだ暗いうちからお起きになり、
お子様方が出がけに召し上がれるよう、簡単だがお体の温まるお雑炊のようなものと、
稽古を終えて召し上がる朝食用のお弁当をお作りになった。また、この時、お子様方にお供をする職員にも、
同様のものを出発前に届け、身体を温めるよう気遣われたという。
最後のお弁当を召し上がってから久しい今になっても、両陛下とお子様方の間で、
お弁当のお話が懐かしく語られると伺っている。

◇お見送り・鉛筆けずり
通常ご朝食を終えられると、お子様方は支度をなさり、お母様の作られたお弁当を持って
それぞれ幼稚園や学校に行かれたが、お子様方のお出かけをお見送りになることは、
両陛下がお子様方の学童時代、出来る限り欠かさないよう努められたもう一つのことであった。…
宮中晩餐をはじめ、レセプションや御所での賓客のおもてなしなど、
両陛下のご日程は夜遅くまで続けられるものも多い。
お帰りになった時には、お子様方の寝顔をご覧になるだけの日も少なくはなかった。
紀宮様が初等科に入られてからは、夜、寝つかれた紀宮様のベッド脇の勉強机に小さなライトをともして、
翌日学校で使う鉛筆を、皇后さまは一本一本ご自身で削られた。
時々、机の上には「おやすみなさい」が申し上げられなかった代わりに、
紀宮様からお母様あての絵やお手紙が添えられていたり、
その日に習った漢字やなぞなぞを書いた紙が置かれていたりした。
朝起きた紀宮様は、真っ先に、皇后さまが付けてくださった赤丸や、お答えを楽しみに見ていらしたという。
皇后さまがお留守だったある夜、こっそり入ってこられた礼宮様が鉛筆を削って、
またこっそり出て行かれた出来事が、紀宮様の初等科の作文に書かれている。
この皇后さまの夜の小さなお仕事は、紀宮様がご両親より、刃物を使っての鉛筆の削り方を習われるまで、
お帰りがどんなに遅くなってもお疲れであっても、コツコツと続けられた。

皇后さまと子どもたち

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叱責の事実はなかった

美智子妃が皇太子妃時代、御所に呼ばれて天皇陛下から叱責されたという事実はない。
皇太子殿下皇太子妃殿下 ご結婚二十年より(1979年)※現両陛下

当時東宮大夫の鈴木菊男氏
「もう十数年前のことになろうか・・・噂が流され、その後何年にもわたり
いくつかの紙面に取り上げられたことに関し一言したい。
事実のないこの記事は、他の事とは違い陛下の御名を引き合いにだしてあったため、
妃殿下には十余年ものあいだ随分お哀しい思いをなさらねばならなかった。
私の退任後もこの記事がひきあいにだされ、それがこのたび陛下(昭和天皇)の御目にとまったのであろう。
後日、侍従職を通じ、『このようなことは、事実がないばかりでなく、心に思ったことさえなかった』と
深いおいたわりに満ちたお言伝てが東宮職に届けられたと聞く」

目次1へ

みくに奉仕団

平成3年12月(日付不明・1日〜7日の間と思われる)毎日新聞

新編戦後政治 31 編集委員 岩見隆夫
まもなく真珠湾攻撃五十周年がやってくる。
開戦、そして終戦のころの昭和天皇を知る人たちはほとんど故人になったが、
終戦の一九四五(昭和二十)年暮れ、天皇と直接言葉をかわした生き証人が二人いる。
一人は元法相の長谷川峻衆院議員、七十九歳、
もう一人は元日本共産党委員長の田中清玄、八十五歳――。
四五年十二月八日は真珠湾攻撃四周年の日だが、同日付の『入江相政日記』には
「宮城県の青年団が今日から三日間宮殿のお焼跡の整理をやってゐる所へお出ましになり、
 団長に色々お詞を賜はる。実に感激してゐた。続いて皇后宮もお出ましになる」
(原文のまま)とあるが、その団長が長谷川峻だった。
長谷川は、東久邇稔彦首相の秘書官をつとめたあとである。
「首相官邸もゴタゴタの最中で、農林大臣なんかなり手がない。
宮城の田舎に帰ったのは終戦の年の十月ごろだねえ。米はないと言ったって、まああるでしょ。
天皇陛下に月給もらったことはないけど、皇居は三月の大空襲で焼けたままだと言うし、
進駐軍がきたら威張りだす。国民は放心状態だろう。まあ、お百姓ができることといったら、
一つ皇居の草でも刈ってね、草と瓦(かわら)を片付けたらどうか、という話に自然になりましたよ」
といま、長谷川は言う。
それでは、と長谷川は農村と皇室の両方にくわしい、伯爵あがりの有馬頼寧(第一次近衛内閣の農相)
に相談にいったところ、有馬は、「長谷川君、そりゃ早い。オレなんか、いまからサンフランシスコかハワイか、
どっかの刑務所に入れられるという話があるくらいだよ」と反対した。
緒方竹虎書記官長(いまの官房長官)にも話してみたが、緒方はやや積極的で、
「どこの役所にも総務課というのがあるから、宮内庁にもあるんじゃないか。そこにいってみろ」と言う。
長谷川は青年団の先輩と二人で宮内庁を訪ねた。総務課長は筧素彦といった。
「実は皇居の中を清掃してお慰めしたい」
「そうですか。よくそのことに気がつきましたね。いいですよ。いつからにしますか」
「二週間後の十二月八日に」
「それじゃあ、お待ちしてます」とあっさり決まった。書類をだすわけでもなく、許可証一枚ない。
日本の役人も非常の時には決断するものだ、と長谷川は感心したという。
それから郷里、宮城県栗原郡にとってかえし、青年男女六十三人で「農民みくに(御国)奉仕団」を編成した。
東京にくりこむまでの苦労話は割愛するが、汽車の切符と宿舎の確保にとりわけ難儀したという。
開戦記念日の自覚などなく、偶然に十二月八日清掃作業開始。
「なかに入ったら、豊明殿も焼けたまま、きれいな庭があったあたりはもう瓦やらなにやらで
がちゃがちゃ、金庫なんかもひっくり返ったままだし・・・・。
あ、案内役の私としては、作業をしている時に、天皇陛下か皇后陛下が垣根の外ぐらいから
ご覧になることがありはしないか、という期待感はありました。口にはだしませんよ。
青年諸君は持ってきた紅白の餅(もち)をなんとしても陛下に差し上げてくれと言うもんだから、
筧総務課長に受けとってもらった。そして、一時間ほど作業をしたら天皇陛下が歩いてこられたんだ。
道なんかないんだから、こわれたコンクリートの土台石を伝ってね。
五、六人侍従服を着た職員を連れて、よれよれの中折れ帽をかぶって、靴はまくれていたなあ。
とにかく、陛下が庶民に会うのはこれが初めてなんだから。日本の歴史はじまって以来ですよ。
こう、空に向かって、一言ずつしゃべられるんだなあ。
『あっ、そう』というのは、その時からはじまったんだから」
天皇は
「どこからきたか。何を食べているか」などと聞かれた。
長谷川は
「米は口に入りません。供出しているものですから」
と答えた。団員は作業の手を休めて、ただ立っていた。約十分ぐらい。帰っていかれる時、だれかが
「長谷川さん、君が代を歌いましょう」
と言い、歌いだした。天皇はその間、足を止め、背中を向けたまま立っておられた。
二、三十分すると、今度は皇后陛下がやってこられた。天皇陛下のお勧めだった、とあとで聞いた。
役場の職員をしている女性団員が前にでて、話のお相手をした。
黒い上っ張りのすすけた職員服に手は真っ黒、前日から風邪もひいていたが、仕方ない。
皇后は牛革みたいな、あまり上等でないオーバーを着ておられた。
「何を食べていますか」
と聞かれた。当時は食べ物の話がなによりも先行した。
「つめえりです。」
と女性団員が答えた。田舎の方言である。
「それはどんなものですか」
「みそ汁に、粉を練ったものをとぽんとぽんと入れます」
「それは、東京ですいとんと言いますよ」
この「すいとん問答」にはみんな感激した。一日延ばして、結局四日間作業し、最後の夜、
二重橋の前に整列した。侍従次長がきて、ねぎらいの言葉のあと、
「あなた方が持ってきた餅だが、皇居では国民からいただいたものを直接口には入れません。
だから頼んでアラレにしてもらって、皇太子殿下はじめ全部皇居に集めて
『いま時、こういう人たちがいる』 とお話しになりながら食べましたから」
と言った。全員、真っ暗な二重橋を渡り、外に出てから万歳をして帰った。
これが皇居清掃奉仕団の始まりである。のち全国の県に広がった。 (敬称略)

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

勤労奉仕について
昭和20年5月の空襲で焼けた宮殿の焼跡整理のため,同年12月,宮城県内の有志が
勤労奉仕を申し出たのが始まりで,その後,各地の団体からも同様の申出があり,
現在では,皇居及び赤坂御用地において,ほぼ毎日,ボランティア・グループや地域の婦人会,
職場の仲間同士等の数団体が,除草,清掃,庭園作業などの奉仕を行っている。 

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悠仁さまへ 秋篠宮家に受け継がれる愛の系譜

悠仁さまへ 秋篠宮家に受け継がれる愛の系譜
皇室ジャーナリスト 高清水有子 Gakken


P3
『幸せな人に育てるというよりも、どんな境遇に立たされても幸福になれる人に育てたい。
これは天皇皇后両陛下がお子さまをお育てになるにあたり、つねにお持ちになった御心です。子を持つ親の思いを、見事なまでに表現しているこの言葉は、多くの方の心に響くのではないでしょうか。

“親が子どもに何をさせる”のではなく、子どもが生きていくうえで大切な事柄を自然に学び身につける環境を整えること、子どもの良いところを伸ばす手助けをすることが、親の大事な役割であると秋篠宮ご夫妻は折々の記者会見で語られています。
 そのなかで、眞子さまと佳子さま、そして悠仁さまはごく自然に、人を大切にすること、感謝の気持ちを忘れないこと、自分が生活する環境を大事にすること、夢を持つこと、歴史・伝統を大切にすること、そして、どんな境遇にあってもそれを切り開く方法を考えることなど、人生を歩むうえで大事なことを身につけていかれるはずです。


P19
秋篠宮家のご長男・悠仁親王殿下がご誕生になったのは、平成18年9月6日、午前8時27分のことです。身長が48.3cm、体重は2558gでした。
紀子さまは、悠仁さまご懐妊中に部分前置胎盤と診断され、ご出産は帝王切開によるものでした。皇室にとっても、紀子さまご自身のとっても、初めての帝王切開でしたが、紀子さまは、医療チームを信頼され、すべてを前向きにとらえて、医師の指示通りにされたそうです。

同時に、秋篠宮ご夫妻は、お生まれになるお子さまについて、そのすべてを受け入れるお考えでした。それはつまり男女の性別、障害の有無も含め、どのような状態の子であっても受け止めようということです。世間では、生まれてくるお子さまが男の子か女の子かと騒がれていましたが、おふたりは、男女の性別についても前もって知る必要はないと、医師に伝えられていました。ご出産後、秋篠宮さまは、医師からご誕生になったお子さまが親王殿下(男の子)だと伝えられたとき、淡々と「ありがとう」とお答えになったそうです。このとき、医師は、「平常心を失わない方だ」と驚いたというエピソードがあります。


P24
 悠仁さまご誕生の日は、天皇皇后両陛下にとっても忘れえない一日のひとつとなったことでしょう。両陛下は、「秋篠宮家のご慶事にあたってのご感想」として、次のようなコメントを発表されています。

『秋篠宮より、無事出産の報せを受け、母子ともに元気であることを知り安堵しました。さまざまな心労を重ねた十か月であったと思いますが、秋篠宮夫妻がそのすべてを静かに耐え、この日を迎えたことを喜び、心からのお祝いの気持ちを伝えたく思います。
 ふたりの内親王もこの困難な時期を一生懸命、両親に協力して過ごしていましたので、今はさぞ安心し、喜んでいることと思います。
 医療関係者をはじめ、出産に携わった人々の労をねぎらい、このたびの秋篠宮家の慶事に心を寄せ、安産を祈願された内外の人々に、深く感謝の意を表します』


P28
…秋篠宮ご夫妻は、ご出産の2か月ほど前から、男女のどちらが生まれてもいいように、両方の名前を考え、いくつか候補をあげておられたそうです。文字を決めるときには、宮内庁が調べた歴代天皇や皇族の名に使われていない文字から絞られました。また、漢学者や国文学者の意見も聞き、天皇陛下にも相談され、最終的には秋篠宮様が決定されました。

 皇室では、男子には「仁」、女子には「子」をつけて、二文字以上の名前になっています。また、天皇陛下が名前をおつけになるのは、ご自身の子どもと皇太子の子どもに限られています。秋篠宮家の場合は、お子さまの名前は、すべて秋篠宮さまが、文字の音と意味を大切にして決定されたそうです。
 お印は、名前の代わりに身のまわりのものにつけられます。悠仁さまのお印「高野槇」は日本固有種の常緑樹で高さ30〜40m、幹まわり1mにもなる大木です。ご夫妻は、大きくまっすぐに育ってほしいという気持ちを込めて、「高野槇」にお決めになりました。

 秋篠宮家の場合、命名されたお名前には、親として大きな期待を寄せるような漢字は使われていません。つねに伸びやかでおおらかに育てていきたいという、ご夫妻の気持ちが伝わってきます。さらに、自然界の動植物に造詣の深い秋篠宮様の人生観がうかがえるような気がします。自然体でゆったりして、秋篠宮家の姿勢ともいえる“あわてず”“さわがず”をそのまま感じられます。


P62
 皇族の方々は、世界各国の王族や元首らの賓客と会う機会が多くあります。しかし、それ以前に秋篠宮ご夫妻は、「あいさつ」を人と人との交流の基本として考えられ、お子さまたちがきちんとあいさつができるように、お育てになっていらっしゃるのではないでしょうか。


P66
 秋篠宮さまは、お子さまたちへの望みとして、
 『(私たちの日常は)まわりで多くの人たちが、その生活に関わっているわけです。私は、そういう人たちへの、簡単な言葉で言うと、感謝の気持ちを持ってほしいと思うし、いろいろな意味で負担をかけないような配慮をする…、そういうことが私はとても大事なことだと思います』と述べられています。


P84
 秋篠宮様は、平成9年、夏の思い出をこう語られています。
 『うちの子どもたちが、まだ蛍を見たことがなかったものですのでね。私も実は久しぶりに、何年ぶりだかわからないのですが、久しぶりに見て、明かりのないところで蛍が光っているというのは、こんなにきれいだったかというふうにあらためて認識した次第です』

 秋篠宮ご夫妻は、当時5歳の眞子さまと、2歳の佳子さまとともに伊豆へお出かけになった際、ご家族で蛍の光の美しさを堪能されたのです。夏を彩る“光”の風物詩に、お子さま方も、感激して、とても喜ばれたそうです。


P120
 民間から皇室に嫁がれた当時、紀子さまにとって、皇后さまがいらっしゃるということが、どんなに心強いことだったでしょうか。皇后さまが紀子さまをご覧になるまなざしは、包み込むような優しさをたたえ、紀子さまは、尊敬と信頼、ときにはあこがれをも交えた笑顔でおこたえになります。そのおふたりのご様子は、まわりにいるすべての人々まで、ほのぼのと温かい気持ちにさせてしまう愛に溢れています。


P130
 そして、40代になられた紀子さまは、こうおっしゃっています。
 『結婚してから今まで、家族の理解と協力を得ながら、公的な仕事と家庭の務めをできる限り果たせるように努めてまいりました。
 公的な仕事も家庭の務めも一つ一つていねいにしようと思うと、時間が足りなく、また十分に役割を果たしているだろうかと考え、不安になることもあり、気がついてみますと心の余裕がなくなっていることもたびたびございました』(平成19年)


P146 皇室のお子さまのお祝い行事
(略)
 ここでは、皇太子さまと秋篠宮さまの「着袴(ちゃっこ)の儀」と「深曾木(ふかそぎ)の儀」の様子をご紹介します。

 儀式が行われたのは、おふたりとも当時の東宮御所の大食堂で、真新しい畳が敷かれました。着用されたのは、「落滝津(おちたきづ)」の服という、滝の流れを金糸と銀糸で浮織にした衣装です。実は、天皇陛下の「着袴の儀」で使用されたものを、使われたということです。この着物姿に、白絹の袴をつけ、その上に腰ひもを締めて、「着袴の儀」は終了します。女のお子さまは、ここで儀式は完了します。眞子さま、佳子さま、敬宮愛子さまも滞りなく儀式を済まされました。男のお子さまは、この後、「深曾木の儀」にうつります。

 皇太子さまと秋篠宮さまのときは、昭和天皇、香淳皇后より贈られた童形服を着用されました。紫の地に亀甲模様の入った装束で式場に入り、右手に檜扇(ひおうぎ)、左手に小松二本と山橘一本を持ち、碁盤の上に立ちます。当時は、東宮大夫が櫛で髪の毛をなでて、毛先にはさみをあて、左、右、真ん中の三か所を少しずつ切る“髪置祝”を行いました。次いで碁盤の上に置かれた二個の青石を踏みつけ、南の方向に「エイッ」とかけ声をかけて飛び降り、儀式は終了です。髪の毛は、紙に包んで川に流すそうです。
 飛び降りる所作は、大地に足をしっかりとつけることを意味し、石を踏むのは“みそぎ”を象徴しています。その後、童形服のままで、宮中三殿を参拝されます。
(略)


P156
私が秋篠宮ご夫妻を取材してきたなかで、もっとも過酷だったのではと想像するご公務は、平成3年2月に行われた新潟県での冬季国体開会式へのご臨席です。ご夫妻のご結婚後8か月のころで、後にわかったことですが、このとき、すでに紀子さまのおなかには、新しい生命が宿っていたのです。

 ご夫妻は、第46回国民体育大会冬季スキー競技開会式へのご臨席のため、上越新幹線で新潟県にお入りになりました。当日の、新潟地方は、10m先も見えづらいほどの猛烈な吹雪でした。私たちも取材車両で移動中、暖房を「強」に設定しても寒さを感じるなか、秋篠宮ご夫妻は、移動中の車の窓をためらうことなく全開になさり、沿道に集まった人々の声援におこたえになっていました。
 国体開会式は、ご夫妻が新潟入りをされた日の午後に、地元の中学校のグラウンドで行われました。猛吹雪は、いっこうに止む気配はなく、水分の多い重たい雪がどんどん降り積もってきます。ご夫妻は、会場内に設営されているステージの上から、入場する選手にあたたかい微笑みをうかべ、拍手を送られていました。

 あまりの強風のため、紀子さまの帽子は二度も飛ばされ、急きょ、白いニット帽に取りかえられました。横なぐりの風雪は、さえぎるものがないために、容赦なくご夫妻を打ち続けます。紀子さまの前髪は凍りつき、ご夫妻のお召しのコートは雪で真っ白に。しかし、厳しい気候条件でのご臨席にも、ご夫妻は、お疲れの表情は一切お見せにならず、じっと耐え、つねに微笑みを絶やしませんでした。

 後日、このときのことを、当時の秋篠宮付宮務官の富士亮氏にうかがったことがあります。富士氏は、
「式典終了後、両殿下に寒さのことをうかがいました。すると両殿下ともに、
『私たちが、いちばん滞在時間が短かったのだから、みなさんより寒くありませんでした。みなさんのことを考えると、寒さも忘れてしまいます』とおっしゃいました。
 そして、その後、妃殿下がおっしゃった言葉で、今もはっきりと覚えていることがあります。
『女性のほうが、男性に比べて皮下脂肪が若干多いので、私は殿下より寒くありませんでした』とにっこり笑われたのです」と教えてくれました。

 紀子さまご自身、ご懐妊を知らずに臨まれたご公務とはいえ、極寒のなか、大事に至らず、本当によかったとつくづく思います。


P181
秋篠宮さまは「御寺泉涌寺(みてらせんにゅうじ)を護る会」(昭和41年5月設立)の総裁もお務めになっています。平成8年に、三笠宮崇仁さまのあとをお受けになり総裁に就任されたのです。泉湧寺には、鎌倉時代の御堀河天皇、その皇子のわずか12歳で崩御された四条天皇、御水尾天皇から孝明天皇までの江戸時代のすべての天皇、合わせて16人の天皇の陵墓があり、皇后や皇族の陵墓も366もあるそうです。


P190
『お日さまが照らすようなあたたかさ』
『安心できる場所』
『ほっとするような場所』
 秋篠宮ご夫妻は、天皇皇后両陛下とのふれあいのときを、このようにお話しになっています。これらの言葉は、私たち多くの国民が皇室のみなさまから感じ取る気持ちを見事に表現されているのではないでしょうか。


P192
…そしてまた、両陛下のお子さまである秋篠宮さまと、紀子さまを拝見していると、歳月を重ねるごとに、天皇皇后両陛下から大切なことをしっかりと受け継がれ、それらを実行されているように私は強く感じます。

 そのことをもっとも実感したのは、秋篠宮ご夫妻が平成20年7月20日、岩手・宮城内陸地震で被災した人々の避難所をお見舞いされたときのお姿です。秋篠宮ご夫妻は、その翌日の7月21日に岩手県でご公務があったことから、秋篠宮さまのご判断で1日早く岩手にお入りになり、被災地のお見舞いをされました。
 被災地での秋篠宮さまと紀子さまは、その場にいたすべての人々にお声をおかけになり、目線を合わせて優しく励まされました。

 前日にも大きな余震があり、精神的にも、肉体的にも厳しい環境にあった多くの被災者の方々は、秋篠宮ご夫妻とお会いして「生きる力と元気をいただきました」と、私の問いに笑顔で答えてくれました。被災地での移動は、被災者に迷惑をかけないようにとの配慮から、両陛下がそうされたのと同じように、マイクロバスをお使いになっています。避難所を後にするマイクロバスは、田んぼのあぜ道を進み、遠く見えなくなるまでバスの窓は全開で、ご夫妻は被災地の人々の心におこたえになるように、いつまでも手をお振りになっていらっしゃいました。このときのことを秋篠宮さまは、記者会見でこう語られています。

『岩手・宮城内陸地震の1か月ちょっと経ってからでしょうか、岩手県において行事があったときに、宮城県と岩手県両方の被災地へ見舞いに参りました。もちろん行く前に、新聞ですとかテレビなどで、地震の被害が甚大であることを認識しているわけですけれども、実際にそこの場所に行って被災した方々から話を聞いてその様子を知ることで、更にそのときの状況を深く理解できるということを改めて感じました。つまり、できる限り実際の場所で、災害とかそういうことのみならずいろいろなことを、見聞することの大切さということを感じております』

 同じ会見で紀子さまは、
『今年の7月には、宮様も先ほど話されましたように、岩手県と宮城県を訪れ、被災された方々にお会いいたしました。深い悲しみの中にも、復興に尽くされた方への感謝の気持ちを抱きつつ、お互いに励まし合い協力して、今後の生活を力強く進もうとする姿に心が動かされました』
 とお話になっています。

 私はこのコメントを聞き、現地で取材中にお二方にお声をかけられて感激で涙を流す人々、優しいまなざしで真剣に話をお聞きになる両殿下の姿が鮮明によみがえってきました。幼い子どもからお年寄りまで、両殿下との時間は永く心に刻み込まれたのではないでしょうか。まさに両陛下から秋篠宮ご夫妻へ受け継がれた“国民とともに”というスタンス、“国民への愛”を肌で感じたひとときでした。

 帰京されたご夫妻は、現地の様子について、両陛下にご報告されています。このご慰問は、両陛下が時代の要請にこたえて一心に働き続けてこられた思いを、秋篠宮ご夫妻が、見事に形にした出来事のように思います。

 地震(なゐ)うけし地域の人らの支へあひ
 生きる姿に励まされたり 秋篠宮妃紀子殿下 お歌

 被災地ご慰問の翌年、平成21年1月15日、皇居・宮殿で行われた歌会始で紀子さまがお詠みになった歌です。歌会始が行われる時期の東北は、厳しい冬の最中です。その寒さの中で暮らす被災された人々にとって、この紀子さまのお歌はどんなにか元気づけられたことでしょう。


P198
『両陛下をはじめ、まわりの方々のご意見を伺いながら、必要なことは時を追って私たちもともに学びたいと考えております』

 私はこの会見を聞いて、ほんとうに両殿下らしいご発言だと感じました。初めてのことやわからないことをそのまま自然体で受け入れ、まわりの方々の意見やアドバイスを参考にされながら、必要なことは自分たちもともに学ぶというスタンス。これまでの両殿下のお考えそのものなのです。多忙な両親であればなおさら、子どもの成長の過程で周囲の協力やサポートは大きな支えになります。

『一番大切なのは、両親が子どもの個性や発達のかたちを見極めて、深い愛情と忍耐で子どもの心を育てることだと思います』

 このお言葉は、天皇皇后両陛下が昭和の時代にお子さま方をお育てになった際に語られたスタンスです。
 秋篠宮ご夫妻は、お子さま方の個性を大切に、心豊かにご成長されるよう、深い愛情を注いでいらっしゃいます。それは、長女・眞子さまのときから貫かれ、佳子さま、悠仁さまに対してもまったく揺らぎはないのです。
 天皇皇后両陛下にとっては、初めての男のお孫さんになる悠仁さま…。秋篠宮さまは、両陛下との交流の機会をとても大切にされ、できる限り日程も調整してご一緒の時間をお作りになっています。両陛下との共通の時間をお持ちになることで、自然なかたちで多くのことを学ばれ、日々の生活や暮らし、ご公務にも生かされているのではないでしょうか。


P204
 両陛下にとって初孫の眞子さまご誕生のとき、とてもすてきな贈り物がありました。それは、両陛下から贈られたベビーベッドです。真ちゅう製で銀メッキを施したものと籘製のものの2つが贈られました。実はこれらは、皇太子さま、秋篠宮さま、黒田清子さんもお使いになった年代物です。皇后さまが手入れをおさせになった上で、秋篠宮家に贈られたといいます。さすが質素・倹約をモットーにされている天皇ご一家らしいと感心しました。ご自分もお使いになったベビーベッドに、わが子を寝かせた秋篠宮さまの感動は、どんなに大きいことだったでしょう。近年では、置き場所に困るベビーベッドや育児用品などをレンタルですませる家庭も多いようですが、天皇ご一家のように代々伝えられて、使っていくことができたら、とてもすてきなことだと思います。

 悠仁さまのときには、ベビーベッドは新しく購入されたようですが、ベビーカーは眞子さまと佳子さまがお使いになったものです。お歩きになる前の悠仁さまは、そのベビーカーにお乗りになって、ご家族とともに、赤坂御用地内を散策されていました。

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