日本の教育と私

日本の教育と私(3) 李登輝

私は正式に日本教育を長期にわたって受けた他、家庭の事情や個人的要素が、
また強く私の以後の人生観や哲学的思考、日本人観に影響を及ぼしました。
一つは父の職業の関係で、公学校6年間に4回も転校し、その為、友達がなかなかできませんでした。
一人の兄も故郷の祖母と暮らしていて、家では私一人だけでした。
この経験が多感な私をして、いささか内向的で我の強い人間にしてしまったようです。
友達がいない代わりに本を読むことや、スケッチをすることによって時間を過ごすようになりました。
自我意識の目覚めが早い上に、この様な読書好きが、更に自我に固執することにより、
強情を張って、母を泣かせたり、学校でも学友との争いや矛盾が起こったりする様になりました。
激しい自我の目覚めに続いて、私の心の内に起こってきたのは「人間とは何か」、
「我は誰だ」、或いは「人生どうあるべきか」という自問自答でした。
これは母がある時、私に「お前は情熱的で頑固過ぎるところがある。もう少し理性的になってみたら!」と
諭してくれたことも関係していました。
自分の心の内に沸き起こるものに対して、もっと自ら理性的に対処しようと考えたのです。
そのような少年にとって、古今東西の先哲の書物や言葉にふんだんに接する機会を与えてくれた日本の教育、
教育システムほど素晴らしいものはありませんでした。
禅に魅せられ、座禅に明け暮れたのもこの頃のことですし、
岩波文庫などを通して東洋や西洋のあらゆる文学や哲学に接することができたのも、
当時の日本の、教養を重視した教育環境の中に、そのような深い思索の場が用意されていたからであると信じています。
私は日本で最近何冊かの書物を出版しました。
それが政治評論であれ、文化的なものであれ、殆どこの若き時代に得た考えを繰り返し強調し、
述べたものに過ぎません。
この中で今、日本で一番に関心を持たれているのは新渡戸稲造先生が1
900年に英文で出版した「武士道」−日本人の精神―を解題して書き直したものです。
新渡戸先生との出会いの前にも、既に多くの先哲との出会いがあったわけです。
そのうち、日本だけの例を挙げれば、私が自我に悩み、苦行しようと、禅によって自己修練に励んだ時に、
鈴木大拙先生の「禅と日本文化」等の著作が非常に役に立ちました。
臨済禅師の流れを継ぐ鈴木先生は、この東洋哲学としての禅思想を一早く欧米に紹介すると共に、
日本文化に禅思想が深くかかわっていることを詳細に述べています。
懸命に鈴木先生の本を読み漁っているうちに、明治時代における日本精神の
もう一人の体現者である西田幾多郎先生に出会いました。
文学の方面では夏目漱石の偉大な思想的貢献を忘れてはなりません。
明治44年頃、ロンドンからの帰国後における「私の個人主義」を中心とした創作が
徐々に「則天去私」に移り変わる過程は本当に偉大な精神転換でした。
(産経新聞平成18年9月16日)

※2006年9月14日から8回にわたって連載

天皇ヒロヒト

レナード・モズレー (イギリス・伝記小説家)
天皇ヒロヒト 高田市太郎訳 毎日新聞社 1966

天皇裕仁にとって1936年の2.26事件は一つだけ良い結果をもたらした。
それは皇弟・秩父宮との和解であった。
二人の間には幼少期から一種の緊張があった。
というのは、皮肉にも皇弟のほうが人格形成期に有利な条件下で育てられたからである。
天皇裕仁は皇位継承者として、短い欧州旅行を除いては、生涯ずっとしきたりのワクにはめられてきた。
しかし秩父宮は海外留学を許され、自ら妃を選ぶことを許され、
時代の発展について心に思ったことを語ることを許されていたから、
天皇裕仁が時にこうした皇弟をうらやむだけでなく、反感さえ抱かれたことを否定してもムダである。
秩父宮も妃殿下や少数の側近に対してだけではあったが、天皇のことを“鈍行馬車”などといったりした。
1930年代初期のクーデターのうち少なくとも2度は、天皇裕仁と秩父宮とを入れ替えようとするものであった。
秩父宮は事件と何ら関係はなかったが、それでも秩父宮が天皇の競争者の役をになわされた事になり、
天皇ご自身にとっても、そうではないとは思えなかった。
とにかく天皇も秩父宮について宮内省のある筋に次のようにもらされたことがある。
「秩父宮は私にない帝王の性質をいろいろそなえておる。あれは生まれながらの指導者だ。
自分の感じたことをためらわずに表す。帝王の仕事はあれには易しいことだ。
自分が大臣や国民に何を求めているか、あれは疑問に思うことがない」
この競争関係を感じ取った青年将校は秩父宮を戴くことを決めていた。権力を握り、
計画通り過激なファシスト政権を樹立した暁には秩父宮を表に立てて陰から操ろうというわけで、
秩父宮の同調は疑いなしと勝手に決め込んでいた。
ところが2.26事件で秩父宮が宮城にかけつけ、まごうことなき忠誠を示されたため彼らは面食らったに違いない。
そのさい秩父宮は妃殿下をも皇后のもとへおもむかしめられた。
事件後、秩父宮は自分が天皇支持者であることを天皇と国民に示すことを心がけられた。


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

リチャード・ニクソン「指導者とは」
「もっと大きい打撃は日本人を内から支えてきた神州不滅の信念の崩壊だった。
彼らが崇敬する天皇裕仁は、日本の開国以来はじめて武人たちに銃を捨てて敗者の屈辱の中に生きよ、と命じた。
それのみか、自分は一個の人間であると宣言し、何世紀にもわたって日本人の価値観を
支えてきた基盤を、みずから放棄した。
軍事的敗北が一国の民をかほど精神的な空白に追い込んだ例は、史上かつてなかった。
マッカーサーは日本人に民主主義を実感させ、そのために民主主義を愛させた英雄だった。
吉田茂と協力しながら彼は日本人に自由を愛させ、それゆえに自由を守る気持ちをおこさせた」

靖国神社と愛国心

靖国神社とは戊辰戦争以降、日本のために亡くなられた方を対象に祭神として祀っており、
246万6532柱(平成16年現在)が英霊として祀られている。
その中には、大東亜戦争で日本軍人として戦った2万2128柱の朝鮮人戦死者も祀られており、
戦後の戦勝国による一方的軍事裁判でB級戦犯、
C戦犯として処刑された朝鮮人23名も同じく靖国神社に祀られている。
韓国人などはよくA級戦犯を引き合いに出して、戦犯を祀っている神社に首相をはじめ閣僚など
日本政府・議会などの重要人物が参拝することを強く非難するが、
何より自分たちの先祖もその戦犯であったことを理解していないようである。
もし韓国人が戦犯として処刑された朝鮮人たちを
「日帝によって無理やり軍隊に従事させられたものだ」と主張するのなら、
その強制性を認めなかった軍事裁判自体を否定しなければならない。
また、中国や韓国のみならず日本でも誤解されているA級・B級・C級戦犯の分け方だが、
これはランク分け(罪の軽重をランク分けしたもの)ではなく、カテゴライズされたものに過ぎないのである。
A級戦犯とは、極東国際軍事裁判所条例の第五条A項(日本語訳ではイ項)「平和に対する罪」の分類であり、
分類上A級と呼んでいるに過ぎない。
同じくB級は同条例第五条B項(日本語訳ではロ項)「通例の戦争犯罪」、
C級は同条例第五条C項(日本語訳ではハ項)「人道に対する罪」のそれぞれの分類上の分け方であって
罪の大小ではないのである。
そして、この極東軍事裁判は現在でも「無効論」が叫ばれる問題のある裁判だった。
たとえばA級あるいはC級の戦争犯罪人として裁かれる法的根拠となった「平和に対する罪」や「
じんどうに対する罪」などは、それまでの国際法には存在していない罪であり、
当時A級戦犯の被告を全員無罪としたインドのパール判事
(極東国際軍事裁判の判事の中でただ一人の国際法の専門家)は
「連合国の都合でそれまで存在していない罪を作り国際法を書き換え、
遡及的に適用する権限はない」としているくらいである。
さらに付け加えるなら「戦犯」自体もすでに存在していないのである。
国内的には戦犯に同情的であった当時の世論を背景にして広まった釈放運動の結果、
昭和28年(1953年)8月3日「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が衆議院本会議で決議され
昭和33年(1958年)までにはすべての戦犯が釈放された。
また、戦犯として拘禁中の死者はすべて「公務死(法務死)」として、
戦犯逮捕者は「被拘禁者」としてそれぞれ扱われ、
後に拘禁期間を含めて恩給が本人や遺族に支払われるようになった。
すなわち戦犯は連合国との講和の前に殺された事実上の戦死者と認められているということである。
実際禁錮刑を受けた重光葵は後に外務大臣、終身刑を受けた賀屋興信は後に法務大臣にまでなっており、
社会的にも犯罪者としてみられていなかったことは明らかである。
国外に目を向けるとサンフランシスコ平和条約第十一条において
「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の
他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し…」とあるものの、
その後に定められている所定の手続きに従って前述の釈放が行われているので、
すでに国際的にも「戦犯」は存在しない。
さて、そもそもすでに存在しない「A級戦犯」であるは、
これを祭祀の対象から外した場合、中国などは首相の靖国神社参拝を認めるだろうか。
答えはノーである。
現在にまで続く靖国神社問題の原点となった昭和58年(1983年)の中曽根康弘総理(当時)の参拝に関して、
中国共産党中央委員会の機関紙「人民日報」は同年8月15日付の紙面で
「靖国神社は、これまでの侵略戦争における東条英機を含む千人以上の(戦争)犯罪人を祀っているのだから、
政府の公職にある者が参拝することは、日本軍国主義による侵略戦争の害を深く受けた
アジアの近隣各国と日本人民の感情を傷つけるものだ」とし、
B級・C級を含めすべての「戦犯」について言及している。
つまり祀ってはいけない対象は「A級戦犯」から「B級・C級戦犯」へとどんどん範囲が拡大しかねず、
結局中国や韓国・北朝鮮は靖国神社が消えてなくなるまで干渉を続けるだろうと考えられるのである。
もともと日本には「死ねばみな仏」という宗教的価値観が存在しているが、
これに対して中華文化圏の中国や韓国・北朝鮮では罪人は死んだ後までも鞭打つことが当たり前であり、
恨みの対象はたとえ死んでも墓を暴き遺体をばらばらにして復讐するという、
日本人からすれば目を背けたくなるような蛮習が残っている。
1948年に韓国が独立を果たすと、併合で日本に協力し親日派のレッテルを貼られた者たちの墓を暴き、
遺体をばらばらにするなどの事件が多発している。
こうした中華文化圏の「罪人」には死後も安息は許されないとする価値観は価値観として認めなければならないが、
それと同時に日本のような「死ねばみな仏」という価値観も認めなければならない。これは「心の問題」であり、
それを他国そして他民族がどうこういうことはできないし、
また戦犯を自らも出している韓国人には文句を言う資格はまったくないといえる。
何より、こうした靖国神社などでの朝鮮人戦犯の慰霊は当の韓国人自身がなかったこととして、
今なおまともな慰霊施設を持たず供養されていないことから、
日本側からの「日本に尽くしてくれた朝鮮人へのせめてもの感謝と哀悼を」ということから始まったものである。
日本人、朝鮮人、そして同じく日本のために命をかけて戦ってくれた台湾人への
日本人としての最低限の感謝を尽くした慰霊が靖国神社への合祀であり、
軍国主義復活だなどと毎年軍事費を増大させている中国や徴兵制で国民皆兵主義の韓国などの反日軍国主義国家に
文句を言われる筋合いなどまったくないのである。
そして、最近「A級戦犯の合祀が問題なら、靖国神社からA級戦犯だけ分祀してはどうか?」
という意見が目立って多くなっている。
これは神道の何たるかを知らない者の発想であり、それをマスメディアが堂々と取り上げているあたりに、
神道のことを理解しようともせずにいい加減な主張をしている反日メディアの実態がみえてくるようである。
分祀とは端的にいえば「神様の分身を別の神社で祀ること」であり、
もともとそこに鎮座する神様を別のところに追いやるものではない。
であるから、靖国神社の祭神を分祀する場合も同じく、別の神社の分身(御魂)を移すこと(分け御魂)はできるが、
そもそも鎮座する靖国神社から祭神ご本体を取り除くなどということは絶対にできないのである。
大体、いったん神として祀ったものを都合が悪いからと勝手に移動しようなどということ自体が、
まさに「畏れ」を知らぬというものであり傲慢の極みではないだろうか?
そして、仮にA級戦犯だった方々を靖国神社から取り除いたとしたら、
今度は間違いなくB級戦犯を取り除け、その次はC級戦犯を…と日本に強要してくるだろう。
さらに「首相の靖国神社参拝がけしからん」の次は国務大臣の参拝がけしからん、
その次は国会議員の参拝がけしからん、一般国民の参拝がけしからん、
最終的には靖国参拝を取り壊せとなるのが関の山である。
常に他人に付け入り、次々エスカレートする要求を突きつける中国人や韓国人のやり口を
日本側は理解しなければならない。
ここまで、靖国神社をめぐる中国や韓国との軋轢の原点を振り返ってみたが、
英霊を戦犯だと冒涜する彼らの主張がまったくのデタラメであることが理解できたのではないだろうか。
靖国神社問題とは突き詰めれば中国や韓国による反日イデオロギーの道具であり、
国内反日左翼が反ヤスクニを訴えるのも同じ構図に則ったものである。
あるいは、中国や韓国内の失政から自国民の目を逸らすための政治の道具として使われてきたことも事実であり、
一番の問題は日本国政府が毅然とした態度で彼らの無茶な要求をはねつけなかったことである。
特に大東亜戦争で亡くなった多くの英霊たちは「靖国で会おう」と
仲間たちと誓い合って激しい戦線を戦い抜いてきたという。
「宗教宗派にかかわらず国家のために亡くなった者はすべて等しく靖国神社に祀られる」。
これは国家と国民(兵士)の約束事であり、実際靖国神社には仏教各派はもちろん
キリスト教徒だった戦没兵士も祀られているのである。
国のために命をかけて戦った英霊の御魂に心からの感謝と敬意の念を捧げるのは、
彼らによって命を紡がれ今を生きる我々の義務といえるのではないだろうか。
まして、国家の最高責任者であり陸海空の自衛隊総司令官である内閣総理大臣が靖国神社に参拝することは
当然の責務といえるはずだが、平成18年(2006年)の小泉総理(当時)の参拝以降、
歴代内閣総理大臣の靖国神社参拝は途絶えている。
中国や韓国だけではなく国内左翼勢力によって総理の靖国神社参拝が政治問題化されてしまったせいではあるが、
内政干渉もいいところの外国政府による靖国神社参拝への介入に対して日本政府がまったく反撃できない現状は、
それまで靖国問題に無関心だった若年層の心にある種の灯をともしたといえる。
日本人の心の問題であるはずの靖国神社参拝を中止せよと強要する中国や韓国に対する怒りは、
日本において忘れ去られてきたかにみえた愛国心という価値観を
少なからず国民に芽生えさせる結果となったのである。
そして、その表れとなったのが平成21年8月15日の九段下交差点における、
若年層を中心とした保守系市民たちと「靖国神社をぶっ壊せ」と叫び続けた
反日左翼の熾烈な戦いだったのではないだろうか。
停滞する経済だけではなく、国家観がかつてないほど希薄になり
左傾化著しい日本社会は崩壊の危機にあるといってよい。
靖国神社に起因して若者たちの心にともり始めた愛国心という炎が日本の崩壊を食い止め、
未来を指し示す道標の灯となることを願ってやまないものである。
(日本浸蝕 ―日本人の「敵」が企む亡国のシナリオ― 桜井誠 2010年8月)

靖国神社関連

USBメモリー大使館員が紛失、皇室訪問資料など盗難か

USBメモリー大使館員が紛失、皇室訪問資料など盗難か
2010/7/10 1:44
外務省は9日、在スウェーデン大使館勤務の日本人職員が現地で盗難に遭い、USBメモリーを紛失したと発表した。
メモリーには6月に同国を訪問した皇太子さまを受け入れる際の業務資料のほか、
同行取材した共同通信、朝日新聞、NHKの3記者の氏名や旅券番号など
個人情報が記録されていた。これまでに情報の流用は確認されていないという。
職員は資料を大使館外に持ち出す際に必要な許可を取っておらず、外務省は8日、職員に口頭で厳重注意した。
皇太子さまは6月17日から21日にかけて、スウェーデン王女の結婚式に参列するため同国を訪問。
外務省は「盗難時には既に皇太子さまは帰国しており、実害はない」としている。
外務省によると、職員は現地時間6月24日、駐車場でパンクした車の修理中、
後部座席に置いていたUSBメモリー入りのかばんを盗まれた。〔共同〕
http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C889DE3E2E5EAE0E1E1E2E3E2E2E5E0E2E3E29180EAE2E2E2;at=ALL

昭和天皇 晴れ男

宮中物語 元式武官の回想
武田竜夫著 中公文庫

四月二十九日の天皇誕生日──夜来の雨はからりと晴れ上がった好天である。
有名になった、いわゆる晴れ男陛下の神通力のオドロキである。
だから戸外行事でもあって、雨模様の時など、
「なーに、陛下がお出になられるから晴天になるさ」などとささやかれるまでになってしまった。
いわゆる神話的な「エンペラーズウェザー」として、今や外国にまで知られているらしい。
なんでも陛下がお出でになられたとき雨天というのは、ほんの数えるほどなのだそうだ。
ある時も園遊会前夜のパーティーで当日の雨天必至という気象予測が話題になったとき、
某国大使が「陛下がお出でになられるのだから雨は降らないと思うね」と
言って笑わせていたことがあったが、それほど有名になってしまったようだ。

四季の家庭料理 より

四季の家庭料理―お惣菜80種 単行本 – 1992/5
寛仁親王妃信子 (著)
結婚いたしましてまだまもないころ、
老人ホームや療護施設や重度障害者の授産施設等に宮様のお供をいたしましたとき、
障害を持っている方々と思うようにうまくコミュニケーションできずに
困ったことが再三ありました。
「きれいな絵が掛かっていますね」ともうしましたら、相手の方は全盲でいらしたり、
お話をしかけましたところ、そのお年寄りはお耳が不自由でいらっしゃったり。
手話にしましても、地方ごとの方言があって表現がちがうことや、
年代によっても表現の仕方がちがうということをまだ知らずにおりましたころのことです。
(中略)
このような失敗のあとで、とうとう宮様に、
「どうして、こういうふうになってしまうのでしょう」 と、お尋ねしたしましたところ、
「ノンチねえ、かっこよく接しようとするんじゃなくて、
最初から『失礼ですが、あなたの障害はどこですか』と
はっきり相手の人にきいてしまえばいいのさ」とおっしゃいます。
相手の方の障害部分に触れないことは礼儀でも美徳でもなく、
きちんときいて理解したうえでほんとうに心を通わせ、
必要な対応をすべきだというのが宮様のご流儀です。

東京スカイツリーの原点に 注目浴びる「コウヤマキ」

東京スカイツリーの原点に 注目浴びる「コウヤマキ」
高野山に古くから伝わるコウヤマキ(高野槙)は読者の皆さんにもなじみのある植物だろう。
近年、このコウヤマキが注目を浴びている。
コウヤマキが秋篠宮家の悠仁(ひさひと)さまのお印に選ばれたことをご存知の方も多いと思うが、
2012年5月に開業した東京スカイツリーのデザインの原点であることをご存知だろうか。
今週は私たちにとって身近な植物であるコウヤマキについてクローズアップしたい
コウヤマキは高野山周辺の真言宗を信仰する寺や家庭で仏前の切り枝として使われてきた。
仏前の切り枝となった由来は、かつて高野山にあった「禁忌十則」という
慣習的に禁止する規律や規則の中に「禁植有利竹木」という、
果実がなる木や観賞用の花が咲く植物、竹や漆等を高野山に植えることを禁じたことにある。
仏前に供える花の代わりが必要となり、年間を通して美しい光沢があり、
よい香りがするコウヤマキが選ばれたという。
福島県以西の本州と九州に分布。成長が遅い半面、繊維が緻密であることから抗菌性や耐水性があり、
桶などの日用品から、風呂、船、橋に至るまで高級木材として使用されてきた。
東京都墨田区の東京スカイツリーのデザインを監修した彫刻家・澄川喜一さんの故郷、
島根県吉賀町にもコウヤマキの自生林があり、
スカイツリーのイメージは故郷のコウヤマキの美しい立ち姿にあるといわれ、
東京スカイツリーが構成される3本脚にちなみ、
3本の島根県産コウヤマキが同敷地内のソラマチひろばに植樹されている。
近年注目されるコウヤマキ。県外の多くの方々に、名前の由来と関係する高野山へ来てほしい。
(次田尚弘/和歌山)  
2014年02月16日 13時30分 わかやま新報
http://www.wakayamashimpo.co.jp/2014/02/20140216_35108.html

国家不信の憲法を正す好機

すいとく(穂徳)第706号(平成25年6月)
時評
正眼・心眼
国家不信の憲法を正す好機
 皇學館大学現代日本社会学部 教授 新田 均

日本国憲法第九十六条には次のように書かれている。
「この憲法の改正は、各議院の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、
国民に提案してその承認を経なければならない。
この承認には、特別の国民投票又は国家の定める選挙の際行われる投票において、その過半数を必要とする」。
簡単に言えば、憲法を改正しようとすれば、全衆議院議員の三分の二の賛成と、全参議院議員の三分の二の賛成と、
さらに投票権を有する国民の過半数の賛成をえなければならないということだ。
逆に言えば、国民の過半数が賛成していても、参議院議員(定数242人)の三分の一強、
つまり、たった81人の参議院議員の反対で憲法改正は出来なくなってしまうのである。
日本国憲法と言えば「国民主権」と誰もが教えられて来た。
その「国民主権」の第一の眼目は「憲法制定権および改正権の行使だ」というのが憲法学の常識である。
ところが、日本国憲法は国民主権を宣言しているにもかかわらず、
過半数の有権者(平成23年10月現在の人口調査によれば約5200万人)が
憲法改正に賛成しても、わずか81人の参議院議員の反対でその権限が行使できない仕組みになっている。
確かに議員を選ぶのも国民自身だが、国民の三分の一強の支持しか得ていない議員達が、
憲法改正権の行使を阻止できるというのは、どう考えてもおかしい。
何故こんな奇妙な仕組みになっているのか。その理由は憲法の前文を読めば分かる。
「(日本国民は)政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、
ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」
「(日本国民は)平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した。」
つまり、日本国憲法のいう国民主権とは、世界の中で戦争を起こす国は第二次世界大戦の敗戦国である
日本、ドイツ、イタリアだけであって、その他の国は全て平和愛好国であるという前提に立って、
日本政府が戦争を起こさないように日本国民に見張らせるためのものなのである。
このように徹底的な日本不信に立っているために、主権を有する日本国民といえども、
そう簡単には憲法が改正できない仕組みになっているのである。
国民主権と言いながら、国民の自由な主権を認めない。これが日本国憲法の最大の矛盾点である。
こんな矛盾が生まれたのは、もちろん、この憲法が戦勝国のアメリカによって作られたものであるからだ。
日本、ドイツ、イタリアさえ封じ込めておけば世界は平和だというのはかなり一方的な見方だが、
その点を抜きにしても、この見方は二世代古い。
まず、日本が占領されていた昭和25年、ソ連に支援された北朝鮮が韓国に攻め込んで朝鮮戦争がはじまった。
これをきっかけに世界は米ソの二大超大国が対立する冷戦時代に突入し、
日本国憲法前文が想定していた世界観・平和観は脆くも崩れ去った。
その結果、日本は再武装することとなり、独立と同時に日米安全保障条約が発効した。
さらに、平成3年にソ連が崩壊して冷戦が終結すると、世界はアメリカを唯一の超大国としつつも、
局地紛争とテロが多発する文明の衝突時代へと移行した。
そして、現在、日本は北朝鮮や中国といった国家エゴをむき出しにしてくる国家の脅威にさらされている。
こうした状況を受けて、この7月の参院選の争点に、憲法第八十九条の改正問題が浮上してきた。
この問題の核心は、単に憲法改正の条件を緩めて憲法改正をやりやすくするというような小手先の話ではない。
日本国民自身が自らの国家の在り様を自らの判断で決定できるようにするという国民としての主体性、
国家主権の回復を本質とする議論なのである。
安倍首相を中心とした憲法改正を主張する勢力が参議院で三分の二の議席を獲得できるかどうか。
そこにこれからの日本の命運がかかっている。今年の7月は熱い夏になりそうだ。

皇室守るは時の為政者

産経新聞2009年1月7日
皇室守るは時の為政者

「ご自身のお立場から常にお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題をはじめ、
皇室にかかわる諸問題をご憂慮の様子を拝しており…」
昨年12月11日、宮内庁の羽毛田信吾長官は、胃腸にストレス性の炎症が見つかった天皇陛下のご心労についてこう語り、
原因の一つに皇位継承問題があることをうかがわせた。
発言はあくまで陛下のお気持ちを忖度した長官の私的見解ではあるが、宮内庁関係者によると、
長官の発言内容はあらかじめ陛下に伝わっているという。
庁内では「陛下のご意向とはそう違わない内容」との見方が大勢だ。
皇統問題に関して陛下が記者会見などで踏み込んだ発言をされたことはなく、
陛下が実際のところどうお考えなのかはうかがい知れない。
しかし、われわれ一国民であっても、皇統の現状を考えれば将来の皇統維持に不安を覚えるのも事実だ。

「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」。皇室典範第1条にはこう明記されている。
現在、皇位継承権を持つ男子の皇族は7人だけで、
未成年は秋篠宮ご夫妻の長男、2歳の悠仁さましかいらっしゃらない。
安定的な皇位継承は、確かに現代の皇室の最重要課題である。
平成18年9月に悠仁さまがお生まれになるまでは、女性天皇・女系天皇を認めようという意見も強かった。
このまま皇室に男子がお生まれにならなければ、
現行の皇室典範では皇位の継承が極めて困難になるという危機感も反映した意見だった。
17年11月には政府の「皇室典範に関する有識者会議」で、女性・女系天皇を容認する報告書が出された。
政府もこの路線に沿った皇室典範改正案を国会に提出しようとしたが、悠仁さまのご誕生を受けて見送られている。
女性・女系天皇をめぐる拙速な議論は沈静化したが、同時に皇位継承問題に関する議論も沈静化してしまった。
悠仁さまのご誕生で男系男子による皇位継承が当面は維持される見通しになったとはいえ、それはあくまで当面の話だ。
悠仁さまの同世代の皇族がいらっしゃらない現実を考えれば、皇統は極めて不安定な状態にあると言わざるを得ない。

歴代天皇はこれまで125代にわたって、すべて男系で継承されてきた。
皇室問題に詳しい八木秀次・高崎経済大学教授は
「この原理を変えてしまえば、天皇ではない別の存在になってしまう。
天皇としての正統性は、生まれながらに備わった要件から得られる」と強調する。
歴史上、8人10代の女性天皇がいるが、いずれも男性天皇の血を引く男系の女性天皇だ。
「女性は皇位の継承者にはなり得るが、皇統の継承者にはなり得ない」(八木教授)のだ。
過去にも皇統の危機に直面したことはあったが、
直系に男子がいなければ傍系の男子が天皇に即位し皇統を維持してきた。
そもそも、現在の天皇陛下から6代さかのぼった直系のご先祖であろう光格天皇が、
傍系から即位した典型的なケースである。先代の御桃園天皇とは、7親等離れている。
共通の祖先は、光格天皇から3世代さかのぼった東山天皇だ。

しかも光格天皇は、世襲親王家の少なさから将来の皇統を案じた新井白石の進言で作られた閑院宮家の出身だ。
将来を見据えて対策を講じたことで、皇統は現代まで連綿と維持されている。
八木教授は「皇統を一本の幹に例えると、その脇に出たいくつもの枝が宮家。
直系の男子がいなければ傍系が肩代わりする形で、皇統は維持されてきたといえるだろう」と話す。

現代において男系男子の皇統を守るためになす得る方策は、
@旧宮家の復活A皇族の養子を認め、旧宮家の男系男子を皇族とする―などがある。
Aの場合、「天皇及び皇族は、養子をすることができない」とした皇室典範第9条の改正のみによって
皇統を維持することができる。
旧皇族の竹田家に生まれた作家、竹田恒泰氏は「皇統の危機は去っていない。今こそ議論しなければ、
本当の危機を迎えてしまう。ただ、まず女系天皇ありきでなく、男系男子という連綿と受け継がれた原則を
いかに貫徹するかという観点から議論すべきだと指摘する。
一度は下火になった皇位継承問題を、再び白紙から検討する必要があるのだ。
陛下の元側近の一人は「歴史上、時の権力者は皇室を守ってきた。今の政治家は今後の皇室について
もっと真剣に考えなければならない。江戸時代の幕府でさえ考えていたのに、悠仁さまのご誕生で
安心しきってしまった」と、現在の政治状況を憂える。竹田氏も「皇位継承問題は、政治家として
歴史に名を残すことができるほど大きな課題だ」と話す。
麻生太郎首相は、実妹が寛仁親王妃信子さまという皇室と極めて近しい関係にある。
実体経済の悪化という緊急課題への対応を余儀なくされているが、
天皇、皇后両陛下のご即位20年・ご成婚50年という節目の今年こそ、
皇位継承問題を改めて考え直すチャンスといえるだろう。
(白浜正三、内藤慎二)

「水俣は見捨てられたんですね」 天皇陛下、患者に心寄せ続け

18:02 2018/04/02
2018年04月02日 06時00分

不知火海の向こうに天草の島々が見える。熊本県水俣市の水俣湾埋め立て地。
水俣病を引き起こしたメチル水銀が今も、コンクリートや土砂で封じ固めた地下に眠る。

2013年10月27日、天皇、皇后両陛下は初めてこの地に立たれた。
「語り部の方々とお会いしたい」。
陛下の意向が県を通じて市立水俣病資料館の島田竜守前館長(53)に伝わったのは訪問の約2カ月前だった。
宮内庁とやりとりする中、陛下の水俣に対する思いを伝え聞いた。
「機会があればぜひ、水俣に行きたいと思っていた」
「胎児性患者たちと皇太子の年齢が近く、水俣病は身近な問題と感じる部分があった」−。

島田さんは緊張の面持ちでその日を迎えた。陛下の資料館滞在は51分。
1956年の水俣病公式確認から68年の原因確定までの経緯を説明している時だった。

「水俣という場所は、見捨てられたんですね」
陛下の問い掛けに、島田さんは言葉を詰まらせた。
背後には国や県の関係者がずらりと控えてもいた。答えに窮した島田さんに、陛下は繰り返した。
「水俣は、見捨てられたんですね」

水俣病問題の核心を突く陛下の言葉だった。
59年、熊本大医学部の研究班が水俣病の原因をチッソの工場排水による有機水銀と突き止め、
チッソもネコを使った実験で把握していた。それでも、原因確定まで9年が費やされた。
「はい、そうです」。ためらいつつ、島田さんはそう答えた。
「陛下はよほど事前に勉強されたのだろう」と身を硬くした。
水俣には陛下の父、昭和天皇も戦前と戦後の2回、訪れている。
49年6月1日、九州巡幸中に日本窒素肥料(現チッソ)の水俣工場を視察した際、
昭和天皇は「日本再建、生産増強のためしっかりお願いします」と激励の言葉を掛けたと、チッソ社史にある。

「誇りに思った」。
38年に入社し、南太平洋の激戦地から帰還して建築係にいた西川登さん(96)=水俣市=は振り返る。
「天皇の来訪で会社も従業員も一気に増産意欲が高まった」
5カ月後、水俣工場は塩化ビニールの生産を再開。柔らかくするために用いられたアセトアルデヒドの製造過程で、
メチル水銀が生じた。戦後復興と高度経済成長を下支えした企業活動の裏で、犠牲になったものはあまりに大きかった。
「水俣は見捨てられた」と、2回も繰り返した陛下。どんな思いが込められていたのだろう。

   ◇    ◇

■「真実に生きる社会を」
実は、天皇ご一家と水俣の地には少なからぬ縁がある。
皇太子さまと雅子さまのご成婚が内定した1993年1月19日。
記者会見した宮内庁の藤森昭一長官(当時)は、お妃(きさき)選定の経緯を説明する中で、こう述べた。
「(雅子さまの)祖父の江頭豊氏が水俣病訴訟継続中のチッソの社長だったこともあり、交際は中断した。
(中略)江頭氏は水俣病の発生には関係なく、刑事責任はないことが明らかになった」
雅子さまの祖父、江頭氏はチッソの主取引行だった日本興業銀行(現みずほ銀行)からチッソ専務、
副社長を経て64年12月に社長となり、71年7月から約2年、会長を務めた。
この間、70年11月に大阪で開いた株主総会では、「一株株主」となって会場に入った患者、
家族から壇上で取り囲まれている。
こうした関係から、皇太子さまと雅子さまのご成婚には政府内に慎重論があった。
「皇居にむしろ旗が立つ」と言われた。
警察庁長官時代に水俣病闘争に直面した当時の法相、後藤田正晴氏も反対したとされる。
水俣の反応はどうだったか。作家、故石牟礼道子さんは本紙の取材に
「長い受難を引き受けた患者さんたちは、高くて深い見地から人間を理解し、
慈しみの気持ちを持っておられるから、心から祝福されていると思います」と答えている。

かねて水俣病に苦しむ人々に心を寄せられていたとされる天皇、皇后両陛下。
水俣訪問はしかし、長く実現しなかった。95年に未認定患者の政治解決策がまとまり、
一部訴訟を残し「和解」が成立した後も、「水俣が訪問先に挙がった記憶はない」と元政府高官は語る。
元宮内庁職員で、皇室ジャーナリストの山下晋司さん(61)は
「加害者と被害者が共存する公害問題を、公平性を重視する皇室は扱いにくい」と説明する。
患者闘争のリーダー、故川本輝夫さんは陛下の訪問を望んでいた。
長男愛一郎さん(60)は「父は元々軍国少年。水俣病事件に巻き込まれるまで祝日に日の丸を掲げていた」と明かす。
同志の志垣襄介さん(73)=水俣市=の手元に、川本さんが陛下宛てに手書きした「請願書」の写しが残る。
かつて、足尾鉱毒事件の被害を明治天皇に直訴しようとした田中正造をほうふつさせる企てだった。
「一、政府に対し人道上、人権上の問題として御提言をしていただくこと。
二、水俣病発生地域の実情視察にお出でいただくこと」
仲間内にも反対意見が強く、実現しなかったが、愛一郎さんは2013年、
水俣を訪問された両陛下と言葉を交わすことになる。
「お父さまが亡くなられて何年になりますか」。思いがけない皇后さまの問い掛けだった。
水俣市立水俣病資料館の語り部として面会した愛一郎さんは、
面識もない父のことを皇后さまが知っていたことに驚き、救われる思いがした。
語り部の会の緒方正実会長(60)が「正直に生きる」と題して講話した後、天皇陛下は語った。
「真実に生きることができる社会をみんなでつくっていきたいと改めて思いました」
「今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています」
陛下が公式の場で、水俣病に関して語ったことはほとんどない。異例の発言は1分間に及んだ。

   ◇    ◇

水俣病は水銀に汚染された魚介類を介し、人に発症した。魚類学者でもある陛下は初訪問した後、歌を詠み、
13年12月に熊本県に伝えた。
「二度とこの悲劇は繰り返しません」と書かれた慰霊碑近くの歌碑に、刻まれている。

 《あまたなる人の患ひのもととなりし海にむかひて魚放ちけり》

=2018/04/02付 西日本新聞朝刊=

https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/405398/